神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・近江八幡神社。

2007年01月28日 | ■神戸市西区
五穀豊穣・家内安全

近江八幡神社

(きんこうはちまんじんじゃ)
神戸市西区押部谷町近江71




のどかな田園風景の中にある神社。普通に通り過ぎると見落としてしまいます。



〔御祭神〕
八幡大神
(はちまんたいしん)
金刀比羅神
(ことひらしん)


 「近江八幡神社」という名前の神社があります。一見すると、滋賀県の近江八幡市にある神社であるかのように感じるこの神社は、実は神戸市西区に鎮座しています。読みも「おうみはちまんじんじゃ」ではなく「きんこうはちまんじんじゃ」というこの神社は、6~7世紀頃にインドから日本に渡って来たといわれる法道仙人が646(大化2)年に開基した「近江山近江寺」の鎮守社として創建された神社です。





良く吠える犬が飼われている民家の横の山道を通ると明神鳥居の前に出ます。



 人々に仏教を説きながら行脚を続けていた法道仙人が琵琶湖の傍を通りがかった際のこと。1本の光輝く不思議な桜の流木が湖面に浮かんでいる事に気付きました。「何とも不思議な霊木よ」と、この霊木を用いて観音像を彫り上げて播磨国へと運んで寺院を開こう…などと考えていると、突然霊木は中空に浮かび、一瞬のうちに播磨国の方角へと飛び去っていきました。懸命に後を追った法道仙人は、播磨国の東端の地でこの霊木に再会します。この場所は、霊木が着いた地であることから「木津」という地名が付けられたといわれています。その後、霊木を担いだ法道仙人が観音像を安置する適地を捜し求めて歩いていると、黄色い牛に乗った一人の老人が話しかけてきました。「その霊木を譲って欲しい」という老人の願いに、法道仙人は「この木を使って観音様を彫りたいのだ」と丁重に断ります(この老人が霊木を見つけた場所を「木見」と言います)。「ならば観音像を安置する聖地をともに探そう」と、この老人は法道仙人と一緒に歩き出しますが、ある山にさしかかると山野を法華経で唱える声が響き渡りました。驚き不思議に思う法道仙人に、先ほどの老人は「我は牛頭天王である。この地に寺を建て仏教を広めよ。必ずやそなたを護り布教を援けよう」と言葉を残し、ふっと姿を消したそうです。





1662(寛文2)年の近江寺本堂再建の時に合わせて建立されたと伝えられる社殿。



 その後法道仙人は、霊木から彫り上げた千手観音像を御本尊にした寺院を建立、霊木が浮かんでいた琵琶湖に因んで「近江寺(きんこうじ)」と名付けました。この寺院は、時の孝徳天皇の保護を受けて非常に繁栄したといわれています。先述した通り、近江八幡神社近江寺を建立するにあたって、寺の鎮守社として創建されたといわれています。ただ、寺院が鎮守社を持つという神仏習合の流れは8世紀頃から見られるようになった事から、近江寺の開基時期が伝承通りだったとすると、八幡大神が勧請されて近江八幡神社が創建されたのは近江寺の創建より暫く経った後だと思われます。





現在は基壇から竿にかけての台座部分だけが残されている石灯籠。
現在、近江八幡神社は付近にある押部谷住吉神社の社務所が管理されています。


アクセス
・神戸電鉄「押部谷駅」より神姫バス「上細田」下車、東へ徒歩20分
・神戸市営地下鉄「西神中央駅」より神姫バス「上細田」下車、東へ徒歩20分
近江八幡神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
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西宮・廣田神社。

2007年01月15日 | □兵庫県 -阪神
勝運・開運隆盛・子授け安産・厄除・交通安全・立身出世

廣田神社

(ひろたじんじゃ)
兵庫県西宮市大社町7-7

神仏霊場兵庫 豊饒の道・第3番札所



廣田神社の一の鳥居。この先には長い参道が続きます。


〔御祭神〕
天照大御神・荒御魂
(あまてらすおおみかみのあらみたま)
住吉三前大神
(すみのえみさきのおおかみ)
八幡三所大神
(やはたのみどころのおおかみ)
諏訪健御名方富大神
(すわたけみなかたとみのおおかみ)
高皇産霊大神
(たかむすびのおおかみ)



 西宮にある神社といえば、多くの方が「えべっさん」で有名な西宮神社を頭に浮かべると思います。しかし西宮にはそれを遥かに凌ぐ、兵庫県で一番の高い格式を誇る神社が凛として鎮座しています。927(延長5)年に編纂された「延喜式」の神名帳の中でも最も格式の高い官幣名神大社に列せられた神社、それが廣田神社です。朝廷より臨時の祈願を受ける勅祭社の1つにも名を連ね、しばしば奉幣勅使の派遣を受けました。勅祭社は日本全国で伊勢神宮石清水八幡宮などわずか22社しかなく、兵庫県では唯一廣田神社だけが選ばれていました。





宅地開発の進む中、廣田の森が緑を守ってきました。



 神功皇后三韓遠征に向かう際に守護した神々は、凱旋を飾って都へ戻る帰路、それぞれが望みの地で祀られていきます。事代主尊長田国で祀られることを望み(長田神社)稚日女尊活田長狭国での祭祀を希望しました(生田神社)。このとき天照大御神は「我の荒魂を皇居に近づけしむべからず。御心広田国に居らしむべし」との神託を授けられたそうです。こうして201(神功皇后摂政元)年に創建されたのが廣田神社だといわれています。廣田神社はもともと上ヶ原・高隈原の地に祀られていたと言われています。ここは今で言うところの西宮市五月ヶ丘だという説が強く、戦後しばらく、宅地開発が進む前までは祠が残っていたそうです。その後、すぐ南を流れる御手洗川のほとりに遷され、1724(享保9)年には水害を避けて現在の地に遷座されたそうです。





伊勢神宮の遷宮の際に出た御用材を譲り受けて建てられた社殿。



 和歌の神としても崇敬を受けていた廣田神社では、1128(大治3)年の西宮歌合南宮歌合、1172(承安2)年の広田社歌合など度々歌合が行われていた事が記録に残されています。しかし和歌を愛する公家たちの崇敬のみならず、荒御魂を祀る勝ち運の神として、平氏追討のために源頼朝公が淡路・広田荘を寄進して必勝を祈願したり、豊臣秀頼公が戎社(西宮神社)を含む両社の改築を行ったり、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗公によって現在地へと遷座されるなど、武家からの崇敬も厚いものがありました。神頼みというよりは、幅広い崇敬を受け社格も高く、海上交通に大きな影響力を持つ廣田神社を、政策上抑えるべき重要な拠点だと認識していたからではないでしょうか。 





阪神タイガースが優勝祈願に来る事でも有名な神社です。



 明治時代に入っても、兵庫県で唯一の官幣大社に列せられた廣田神社は、天照大御神の荒魂を祀っている事から、和魂を祀っている伊勢神宮と同じように神宮に昇格させようという話もあったそうですが、戦争終結と共に立ち消えになってしまいました。本殿は1945(昭和20)年8月5日の空襲で全焼してしまいますが、伊勢神宮の第58回遷宮の際に出た御用材を譲り受け、1956(昭和31)年より7年かけて再建されました。廣田神社は、京都の西方にある重要な神社だということで「西宮」と呼ばれていました。平安時代の貴族たちは、廣田神社への参拝を「西宮下向」などと呼んでいたそうです。その後、「西宮」は神戸市東部から尼崎市西部まで広がる廣田神社の社地一帯を指す言葉となり、室町から江戸期には「えべっさん」で有名な西宮神社の周辺の事を指すようになったといわれています。





延喜式内社の伊和志豆神社(左)と、西宮市役所の近くにある廣田神社の石標(右)。


アクセス
・JR「西ノ宮駅」下車、阪急バス「廣田神社」バス停より徒歩3分
・阪神電車「西宮駅」下車、阪神バス山手東回り「廣田神社」バス停より徒歩3分
・阪急電車「西宮北口」下車、阪急バス甲東園行き「廣田神社」バス停より徒歩3分
廣田神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

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杜を訪ねて―ひょうごの神社とお寺〈上〉 (のじぎく文庫)

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西宮・西宮神社。

2007年01月13日 | □兵庫県 -阪神
商売繁盛・海上安全・学業成就・家内安全・交通安全

西宮神社

(にしのみやじんじゃ)
兵庫県西宮市社家町1-17

神仏霊場兵庫 豊饒の道・第2番札所



福男がスタートを切る表大門。震災で崩れた鳥居は2006年末に再建されました。


〔御祭神〕
蛭子命
(えびすのみこと)
天照大神
(あまてらすのおおかみ)
大国主大神
(おおくにぬしのおおかみ)
須佐之男大神
(すさのおのおおかみ)


 「十日えびす」で有名な西宮神社。古来「戎の宮」と呼ばれた西宮神社は、福の神である「えべっさん」の総本社として全国から崇敬を集めています。主祭神は蛭子命伊弉諾(いざなぎのみこと)伊弉冉命(いざなみのみこと)との間に生まれた最初の神ですが、五体満足に生まれなかったために葦の舟に入れられ、おのころ島(淡路島といわれています)から流されてしまいます。やがて、西宮浜(今津あたり)に漂着した蛭子命は、地元の方々に拾われて育ち、海運・商業そして漁業の神となったといわれています。





普段の社殿。えべっさんの時とは違う味わいがあります。



 創建時期は明らかではありませんが、山手にある廣田神社の境外摂社だったといわれています。また、「延喜式」神名帳に記されている摂津国莬原郡の大国主西神社西宮神社の事ではないかといわれています。「梁塵秘抄」や「伊呂波字類抄」といった平安時代の書物や、1128(大治3)年の西宮歌合、1172(承安2)年の廣田神社での歌合にもの名が見られ、高倉上皇の御奉幣をはじめ皇族・神祇伯の参拝が度々あったことが古文書に記されていますので、かなりの歴史を誇る古社である事は疑う余地がありません。鎌倉時代には、「十日えびす」の原型である居籠祭御狩神事が行われており、室町時代には七福神信仰の定着から「えびすさま=福の神」信仰の総本社として、西宮神社は益々栄えていきます。この繁栄には百太夫を始祖とする傀儡師の活動によるところが大きいと考えられています。西宮神社の近辺には人形芝居の演者である傀儡師たちが多数住み着き、神社の氏子として雑役奉仕に勤めていました。そんな彼らが各地を巡業してえべっさんの神徳や縁起をもとにした演目を披露して戎の宮の神札を広めてまわった事で全国区の知名度を誇る神社となりました。





出店があるときはまったく分からなかった神池。社殿の向かい側に広がります。



 西宮神社の社殿は1534(天文3)年に兵火で焼かれますが、翌年には後奈良天皇の御寄進を受けて再建されました。さらに1578(天正6)年にも兵火に巻き込まれて焼失しますが、豊臣秀頼公の支援で1610(慶長15)年に建て直されました。その後も江戸幕府第4代将軍・徳川家綱公の手によって社殿が造営されるなど整備が進み、江戸時代には上方の商業経済の発展とともに福の神である「えべっさん」が商売繁盛の神として信仰されるようになり、民衆から厚い崇敬を集めるようになっていきました。





“縁結びの神”大国主西神社(左)と、1872年に境内に遷された沖恵美酒神社(右)。



 他に類を見ない珍しい三連春日造で国宝に指定されていた西宮神社の本殿は、1945(昭和20)年に戦争による空襲のために全焼してしまいましたが、1961(昭和36)年には元の姿そのままに復元されました。室町時代に建てられた大練塀と安土桃山時代に建てられた表大門は国の重要文化財に指定されており、境内に広がる「えびすの森」は天然記念物に指定されています。





国道43号線沿いに建つ南門。えべっさんの時はここが出口になります。


アクセス
・阪神電車「西宮駅」下車、南へ徒歩5分
・JR「西ノ宮駅」下車、南西へ徒歩15分
西宮神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

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西宮神社

學生社

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西宮・西宮のえべっさん(本えびす)。

2007年01月11日 | □兵庫県 -阪神
商売繁盛・海上安全・学業成就・家内安全・交通安全

西宮のえべっさん

(にしのみやじんじゃ)
兵庫県西宮市社家町1-17

本えびす



国の重要文化財に指定されている表大門。とにかく人・人・人。


〔御祭神〕
蛭子命
(えびすのみこと)
天照大神
(あまてらすおおみかみ)
大国主大神
(おおくにぬしのおおかみ)
須佐之男大神
(すさのおのおおかみ)



 前日の神戸・柳原蛭子神社宵えびすに引き続き、西宮神社を訪れました。この日は1月10日の本えびすという事もあって、非常に多くの参拝客でごった返していました。午後10時頃に行ったにもかかわらず、何度も入場制限で止められるなど「さすが西宮のえべっさんの本えびす」と感心することしきりでした。




本殿前も人でいっぱいで、昇殿参拝を断念。



 本えびすの早朝に行われる福男神事。鎌倉時代には行われていたという忌籠祭をベースに1940(昭和15)年から行われている毎年恒例のこの神事には、今年も2,000人を越える人々が参加しました。近年様々な問題が起こったため、2005(平成17)年より先頭から108人までを抽選で決めるようになり、今年からは目立ちたいために変わった衣装で参加する人を、安全上の理由で抽選から除外するようになりました。今年も、昨年の一番福の福男さんが2年連続で一番福に輝きましたが、フィジカルコンディションももちろんの事ですが、抽選で上位に入る強運ぶりにも感心しました。





この大マグロも毎年おなじみです。



 本殿前には様々な奉納品が並べられています。毎年奉納され、すっかりお馴染みの招福大マグロや有馬温泉から奉納された有馬の湯などに混じって、今年初めて飾られたものがあります。招福大マグロの隣に飾られた福男選びケーキです。表大門が開かれて参拝客が一斉に本殿に向けて駆け出す様子が生き生きと再現されているこの福男選びケーキは昨年10月に開かれた西宮洋菓子園遊会に出展されたもので、ツマガリさんが作成したものです。これからもぜひ続けて奉納して欲しいと思うぐらい素晴らしい出来栄えでした。





ツマガリ特製「福男選びケーキ」


アクセス
・阪神電車「西宮駅」下車、南へ徒歩5分
・JR「西ノ宮駅」下車、南西へ徒歩15分
西宮神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

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西宮神社

學生社

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神戸・柳原のえべっさん(宵えびす)。

2007年01月10日 | ■神戸市兵庫区
家内安全・商売繁盛

柳原のえべっさん

(やなぎはらえびすじんじゃ)
神戸市兵庫区西柳原町5-20

宵えびす



商売繁盛祈願の「えべっさん」が始まりました!


〔御祭神〕
蛭子大神
(えびすたいしん)
大物主大神
(おおものぬしたいしん)



 今年も「えべっさん」の季節がやってきました。各地の「えべっさん」をお祭りする神社ではえびす大祭が執り行われ、商売繁盛を祈願する多くの参拝客で賑わいを見せています。関西で特に有名なのが、大阪の今宮えびす、西宮の西宮えびす、そして神戸の柳原えびすです。JRの姫路方面行きの電車に乗っていると、兵庫駅の手前にひときわ明るい一角を見つけることができます。そこが、「えべっさん」の舞台・柳原蛭子神社です。




社殿前にある神楽の舞台。宵えびすには戎舞が奉納されました。



 ほかのえびす神社と同じく、3日間に渡って行われる柳原蛭子神社えびす大祭。1月9日が宵えびす・10日が本えびす・11日が残り福と呼ばれ、例年40万人以上の参拝客が訪れるそうです。宵えびすの9日には、地元有志の皆さんの戎舞奉賛会による淡路人形浄瑠璃「戎舞」が披露・奉納されました。




本殿には多くの奉納品が並べられていました。壮観です。



 本殿にはえびす大神に奉納される品々が並べられています。特に目を引くのが、例年神戸中央卸売市場から奉納される大マグロや鯛・ブリなどの海産物や山の幸です。いっせいに並べてある光景はなかなか見応えがあります。




境内には商売繁盛祈願の熊手が売られています。参道でも多くの露店で売られています。



 柳原蛭子神社の隣には大黒天さまが祀られる福海寺で「大黒祭」も行われています。七福神のうちの恵比寿さま大黒さまを一度にお参りできるのは全国的にも珍しいそうですので、この機会に両方お参りして2倍の福を持って帰ってください。



アクセス
・JR「兵庫駅」下車、南側の出口から東へ徒歩5分
・神戸高速「大開駅」下車、南東へ徒歩10分
 柳原蛭子神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
   柳原のえべっさん・蛭子神社公式ホームページ


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
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奈良・采女神社。

2007年01月09日 | ◆奈良県
縁結び

采女神社

(うねめじんじゃ)
奈良県奈良市樽井町15




「縁結びの神さま」として知られる采女神社。


〔御祭神〕
采女命
(うねめのみこと)


 JR奈良駅から奈良公園へと向かう三条通。ここをしばらく歩くと興福寺三重塔猿沢池が見えてきます。この池のほとりに真っ赤な鳥居の小さな神社が建っているのが分かります。社殿以上に大きな社務所には「縁結び」の看板がかかり、お守りを買ったり絵馬を奉納したりする観光客で賑わっています。この神社は春日大社の境外末社である采女神社です。創建に関しては、帝の寵愛を受けた采女の悲しい失恋の物語が残されています。平安時代に書かれた「大和物語」の第150段には天皇から受けていた寵愛が衰えていった事を嘆き悲しみ、絶望して猿沢池に入水自殺してしまった采女の話が書かれています。采女というのは、地方の国司や豪族から朝廷に献上された子女が就いた天皇の身の回りの世話をする役職の名前です。このうち天皇に見初められて子を宿した采女は後宮の一員に加えられますが、そうでないものは生涯を一介の采女として年老いていく運命にありました。悲恋の采女は、帝の寵愛を受けたものの子を宿すことなく、その愛情が薄れていく不安感から衝動的な行動を取ってしまったのでしょう。これを聞いた帝は采女の霊を慰めるために猿沢池のほとりに社を築きますが、入水した池を見るのは忍びないと一夜のうちに社殿が向きを変えて鳥居に背を向ける形となったといわれています。これが采女神社の起こりだといわれています。





鳥居は猿沢池に向いて東向きに、社殿は西向きに建っています。



 元々この場所は広大な敷地を誇った興福寺の境内の東北にあたります。弘仁年間(810~824年)に藤原久嗣卿の八男である藤原良世卿が事代主命を祀る鬼門除けの祠を建立したといわれており、敷地に向かって建っていたため西向きに作られていたそうです。時代が進み、祠の西側にも民家が立ち並んできたため、入口である鳥居を東側に移動したので社殿が鳥居に背を向けるという非常に珍しい形になってしまいました。やっぱり鳥居と社殿が逆方向に立つのはおかしいということで1634(寛永11)年には東向きに建て直されたこともあったそうですが、悲恋の采女の物語に配慮してふたたび西向きに戻されたというのが真相のようです。





悲恋の采女の伝説に因み、入水した猿沢池に背を向けて建っています。


アクセス
・JR「奈良駅」下車、東へ徒歩10分
・近鉄「奈良駅」下車、東へ徒歩5分
采女神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放 (扉は閉じられていることも多いのでご注意ください)

奈良 目的別 究極の知的ガイド (和樂ムック)
クリエーター情報なし
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奈良・春日大社。

2007年01月08日 | ◆奈良県
開運招福・厄除け・商売繁盛・合格祈願・災難除け

春日大社

(かすがたいしゃ)
奈良市春日野160



神仏霊場奈良 鎮護の道・第2番札所



三条通を一路東へ。興福寺を抜けた先に一の鳥居があります。


〔御祭神〕
武甕槌命
(たけみかつちのみこと)
経津主命
(ふつぬしのみこと)
天小屋根命
(あめのこやねのみこと)
比売神
(ひめのかみ)


 1200頭以上の鹿が生息しているといわれる奈良公園。その昔は鹿を殺した場合は死罪になるなど厳しい処罰を受けたといい、現在でも天然記念物指定を受けているため傷つけた場合は文化財保護法違反となるそうです。なぜ鹿がこれほどまでに大切にされるのでしょうか。それは春日大社の御祭神・武甕槌命と深い関わりがあります。武甕槌命は、元々茨城県の土着の神で鹿島神宮の御祭神でした。「出雲の国譲り神話」では出雲国のトップである大国主命に支配権の禅譲を迫り、最後まで抵抗した武御名方命を圧倒的な力で一蹴した最強の神だとされています。大和朝廷が東国へと支配圏を拡大していく過程で、常総地方は最前線の重要軍事拠点でした。その土着の神を軍神として崇敬する事は、士気の高揚のためにも大変重要な政策だったと考えられます。その武甕槌命春日大社へと勧請されてきたとき、白い鹿の背に乗って飛ぶようにやってきたという伝説が残されており、現在奈良公園にいる鹿たちはこの伝説の鹿の子孫たちだといわれています。そのため、神の遣いであるという理由で手厚く保護されてきたのです。





参道を抜けると二の鳥居が見えてきます。社殿まであと一息。



 また、奈良公園の鹿はお辞儀をする事でも有名です。藤原氏の繁栄と共に藤原一門をはじめ皇族や公家たちの春日詣が盛んとなりましたが、このとき神の遣いである鹿に会うたびに輿を降りてお辞儀をして一礼をしていたため、鹿たちにもお辞儀をする習慣がついたといわれています。犬の「お手」と似た感じで、鹿煎餅をもらうために覚えたのではないかとも思いますが、なかなか興味深い話ではあります。





二の鳥居の近くにある祓戸神社。



 春日大社は、藤原4家の主導権を握った北家出身の左大臣・藤原永手卿が、藤原氏の氏社として768(神護景雲2)年に常陸国の鹿島神宮から武甕槌命を勧請して建立したといわれています。常陸国は藤原氏繁栄の礎を築いた祖である中臣鎌足卿のルーツだといわれており、以前より氏神として崇敬されていた武甕槌命を主祭神として勧請したと考えられます。このほか下総国の香取神宮経津主命、河内国の枚岡神社に祀られていた天児屋根命、さらには比売神を併せてお祀りしたのをもって創祀としています。これには当時の称徳天皇の命があったともいわれています。しかし春日大社が創建されたといわれている768年以前から、この地には祭祀の場が築かれていたことが分かってきました。創建よりも10年ほど前に描かれたという「東大寺山堺四至図」には、既にこの場所は神地と記されています。平城京が誕生した710(和銅3)年には既に藤原不比等卿が藤原一族のために神社を建てて武甕槌命をお祀りしていたといわれており、717(養老元)年には遣唐使の航海安全を祈願する祭祀が行われたという記録が残されています。こういった記録から、御蓋山麓のこのエリアは神域として古代から祭祀の場であったのではないかと考えられています。





春日大社の社殿に到る中門。初詣客でごった返しています。



 藤原氏の繁栄と共に発展した春日大社は、平安時代中期あたりから神仏習合説をもとに藤原氏の氏寺である興福寺の影響を受けるようになります。813(弘仁4)年の興福寺南円堂の建立の際には、御本尊である不空絹索観音春日大社武甕槌命の本地仏とされました。その後974(天暦元)年には「春日大明神=法相擁護の神」という事で興福寺の僧侶による社頭での読経が始まり、1135(保元元)年には若宮大社が創設されて興福寺による支配が完成しました。興福寺の僧侶が一斉に春日大社の神官に転職するという信じられないような事も行われたそうです。まさに買収した企業に対して役員が多数乗り込むといった現代のM&Aを彷彿とさせます。11世紀の末頃からは、興福寺の衆徒たちが春日大社の御祭神を遷したという榊の神木を押し立てて上洛、強訴に及ぶようになりました。その回数は実に70回を越え、「山階道理」という言葉が生まれるほど朝廷を苦しめる事となります。こうした宗教勢力の過剰な政治的行動が、のちに平重衡公によって行われた南都焼き討ちを招く原因となりました。こうした興福寺による春日大社支配は江戸時代も続き、明治維新後の神仏分離令および廃仏毀釈によってようやく独立を果たす事になります。1871(明治4)年に春日神社と改称され、官幣大社に列せられましたが、1946(昭和21)年には春日大社に改称されて現在に至ります。





春日大社の社殿。賽銭箱のネットが設けられていました。


アクセス
・JR「奈良駅」下車、東へ徒歩15分
・近鉄「奈良駅」下車、東へ徒歩10分
春日大社地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料 (特別参拝:500円)

拝観時間
・常時開放 (特別参拝:9時30分~16時30分)

公式サイト
  

春日大社 (日本の古社)
三好 和義,岡野 弘彦
淡交社

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明石・林神社。

2007年01月06日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
航海安全・豊漁豊作・雨乞いの神・商売繁盛

林神社

(はやしじんじゃ)
明石市宮の上5-1



小高い丘の上に建つ林神社。立派な明神鳥居が目印です。


〔御祭神〕
少童海神
(わたつみのかみ)
彦火々出見命
(ひこほほでみのみこと)
豊玉姫命
(とよたまひめのみこと)
葺不合尊
(ふきあえずのみこと)
玉依姫命
(たまよりひめのみこと)
御崎大神
(みさきのおおかみ)



  川崎重工業明石工場の南側の林崎海岸を見下ろす小高い森の中に、真っ白な明神鳥居の神社があるのを車のなかから見つけられた方も多いと思います。ここは林神社という神社で、醍醐天皇の時代の927(延長5)年に編纂された延喜式の神名帳にその名を刻み、いにしえより明石港の豊漁と海上交通の要所であり難所でもあった明石海峡を往来する船の安全を見守りつづけている由緒ある古社です。

 延喜式に名を連ねる神社は全国で3,000社ほどあり、林神社は旧明石郡にあった明石九座のうちのひとつで、ほかには宇留神社(現・春日神社:神戸市西区)物部神社(現・惣社:神戸市西区)海神社3座(神戸市垂水区)弥賀多々神社(現・堅田神社:神戸市西区)赤羽神社(神戸市西区)伊和都比売神社(稲爪神社摂社:明石市)延喜式内社明石九座としてリストアップされています。




1950(昭和25)年に再建された社殿



 和坂の台地の東端に位置するこの近辺は、以前は上野と呼ばれていたそうで、林神社上野宮上ノ宮明神などと呼ばれたこともあるそうです。神代の昔、林崎海岸の浜に大きな赤石があり、その上に海の神である少童海神(わたつみのかみ)が御姿を顕したため、地元の人々から厚く敬われていたそうです。しかし、2世紀頃の138(成務天皇8)年の8月に風波のために神宿るこの赤石が海中に没してしまったため、人々は翌年の元旦にお社を建立して少童海神をお祀りしました。この神社が林神社だといわれています。

 ちなみに少童海神が顕われたという赤石は、昭和初期までは春の大潮の日などには見ることができたそうですが、今では200m近く沖合いの水深5mのところに沈んでしまっているそうです。




社殿左手に並ぶ摂社。



 延喜式に名を連ねる延喜式内社は、天災や有事の際には朝廷より祈祷の命を受けることが多々ありました。922(延喜22)年の夏に起きた大旱魃の際には、朝廷からの使いを受けて雨乞いの祈祷を行ったところ、霊験もあらたかに雨が降って民衆を救ったということから雨乞社雨神社とよばれて敬われるようになりました。

 1005(寛弘2)年9月には彦火火見尊豊玉媛命葺不合尊玉依媛命の4柱を合祀したことから上宮五社大明神と号するようになりますが、明治時代には林神社の呼び名にもどされました。また、1581(天正10)年には、三木の別所氏攻略を終えた羽柴秀吉公が林神社を訪れ、明石見物に出かけたというエピソードも残っています。




鳥居をくぐって左側の道をあがると神明大稲荷社があります。



 明治14(1881)年には県社に列せられ、地域の人々の崇敬を集めていましたが、残念ながら1945(昭和20年)1月19日の空襲によって境外末社だった船上御崎神社とともに全焼してしまいます。しかし氏子の皆さんの尽力で再建が始められ、同年12月に船上御崎神社のご祭神・御崎大神を合祀、5年後には社殿が無事再建されました。さらに1958(昭和33)年には社務所も再建されています。



アクセス
・山陽電車「林崎松江海岸駅」下車、東へ徒歩5分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸・いぶきの森球技場。

2007年01月05日 | ■神戸市西区


いぶきの森球技場

(いぶきのもりきゅうぎじょう)
神戸市西区櫨谷町寺谷1242-111

ヴィッセル神戸・公式練習場



鮮やかなクリムゾンレッドのフラッグと看板が迎えてくれます




 新年第1弾の記事を何にしようかと迷ったのですが、個人的な思い入れもあり、初詣をかねての寺社めぐりの際に立ち寄ったいぶきの森球技場を選ばせていただきました。いぶきの森球技場は、今年からJリーグ1部に昇格するヴィッセル神戸の公式練習場です。もともと神戸市西区井吹台東町にあったのですが、2005年2月に現在地に天然芝と人工芝のピッチとクラブハウスが完成したのを受けて移転してきました。2006年にはさらに天然芝のピッチが1面完成、勝利を目指すプレーヤーたちの研鑽の場となっています。




フラッグ翻るクラブハウス。延床面積は1330㎡という広さです。



 真新しいクラブハウスはバリアフリー。身障者用の駐車場やトイレも完備し、多くの人に足を運んで欲しいというクラブの熱意が伝わります。1階正面にはヴィッセル神戸のグッズを販売するオフィシャルショップがあり、練習のある日などは熱心なサポーターたちで賑わっています。ウェアの試着室もあったり、ネットでは買えない限定グッズもあったりと細かな配慮がうれしいオフィシャルショップ「いぶきの森店」。残念ながら現在は閉店してしまっているようです。




一般見学室ではビリヤードやダーツなんかも楽しめます。



 クラブハウスの2階には、サポーターに開放された一般見学室があります。ここからは、正面にある天然芝のAグラウンドや人工芝のBグラウンドで練習している選手たちの姿を上から一望する事ができます。休憩や雑談など、思い思いのスタイルでくつろぐことができるパブリックスペースとなっています。




人工芝のBグラウンド。充実した設備で実力を養います。



 クラブハウスに近いほうからAグラウンド(天然芝)Bグラウンド(人工芝)Cグラウンド(天然芝)の3面のピッチが並びます。Aグラウンドの脇にはスタンド席が設置され、選手たちの迫力ある練習風景を間近で体感することができます。トレーニングが終われば、選手たちも可能な限りサインや握手などのファンサービスをしてくれます。グラウンドを囲むサポーターたちも、練習で疲れている選手たちを気遣いながら、マナーを守って良い関係を築いています。

 スタジアムの熱気に包まれながらのサッカー観戦も楽しいですが、その晴れの舞台に立つために日夜努力を重ねる選手たちを見るのも、より身近に感じることができて良いのではないでしょうか。サッカーに夢を託したプレーヤーたちの姿を、ぜひ一度間近で体感してみてください。



アクセス
・市営地下鉄「西神南駅」下車、市バス46系統ハイテクパーク行き「ハイテク4番」下車、徒歩10分(駅からの所要20分)
・阪神高速北神戸線「前開IC」よりクルマで5分 (駐車場:48台 駐車料金:500円)
 いぶきの森球技場地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

入場料
・無料

見学時間
・ヴィッセル神戸公式ホームページにてご確認ください。

公式サイト
   ヴィッセル神戸・オフィシャルサイト