神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・妙見寺。

2007年10月29日 | ■神戸市北区

落葉山妙見寺

(おちばさん みょうけんじ)
神戸市北区有馬町



善福寺の奥に、妙見寺へと続く石段があります。


〔宗派〕
日蓮宗

〔御本尊〕
北辰妙見大菩薩尊像
(ほくしんみょうけんだいぼさつそんぞう)



 有馬の地には、有馬三山と呼ばれる山があります。行基上人が湯船を作るための木を切り出したという言い伝えから名付けられた標高801mの湯槽谷山(ゆぶねだにやま)、1590(天正18)年10月に有馬・阿弥陀堂で行われた茶会の際に茶頭を務めた千利休が風炉の灰を盛るときの形の参考にしたことから名付けられた灰形山(はいがたやま)、一人の翁が投げた木の葉を追って有馬へとたどり着いた仁西上人がようやくその葉を見つけた場所だといわれている落葉山(おちばやま)です。その落葉山の山頂には、100年の歴史を持つ日蓮宗の寺院・妙見寺が建っています。ここの見晴台からの景色は抜群で、「神戸夜景百選」にも選ばれています。




この急な石段が最後の難関ここを登り切ると視野が広がります。



 もともと落葉山には南北朝時代に築かれたといわれる城郭がありました。落葉山城(別名・有馬城)と呼ばれたこの城は、築城者は明らかではありませんが、後醍醐天皇を中心とする南朝方の武将・湯山左衛門三郎公が守将を務めていたといわれています。戦国時代に入ると、室町幕府三管領のうちのひとつ・細川家の重臣で、一族の畿内進出の礎を築いた三好之長公の息子・三好政長公が落葉山城を抑えて播磨や丹波を窺う勢いを見せていましたが、1539(天文8)年に三木城主の別所家直公の攻撃を受けて敗走してしまいます。

 その後、三田城を拠点に活発に勢力拡大を狙っていた有馬村秀公が別所氏の支城となっていた落葉山城を攻略して城主を務めていましたが、1579(天正7)年には播磨攻略を目指して侵攻してきた織田信忠公によってが攻め落とされました。




由緒ある北辰妙見大菩薩尊像を安置する妙見堂。



 落葉山城の跡地に妙見寺が建立されたのは1906(明治39)年のこと。余田左橘右衛門によって建てられた妙見堂には、1873年に廃寺になった真言宗の寺院・金杖山金剛寺のご本尊だった北辰妙見大菩薩尊像が祀られています。このご本尊は、後小松天皇の勅願で作られたもので、室町幕府第3代将軍・足利義満公が寄進したと伝えられています。麓から山頂までの参道には西国三十三ヶ寺の石仏がずらりと並び、参拝客を出迎えてくれます。




ここからの眺望は有馬有数の眺め。長い山道を登ってきた甲斐があります。



アクセス
・神戸電鉄「有馬温泉駅」下車、南へ徒歩15分
妙見寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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成美堂出版

川西・多田神社。

2007年10月19日 | □兵庫県 -阪神
勝運・家運隆昌・厄除開運

多田神社

(ただじんじゃ)
兵庫県川西市多田院多田所町1-1

源氏のふるさと



朱塗りの欄干が鮮やかな御社橋から多田神社の南大門を望む。


〔御祭神〕
源満仲公
(みなもとのみつなか)
源頼光公(みなもとのよりみつ)
源頼信公(みなもとのよりまさ)
源頼義公(みなもとのよりよし)
源義家公(みなもとのよしいえ)


 「川西」の地名の由来となった猪名川。神崎川の源流として清らかな流れを湛えるその川のほとりに、清和源氏の源流の一つを成す集落がありました。その名は摂津国川辺郡多田荘。第56代清和天皇の曾孫にあたる源満仲公によって開かれ、「多田荘74村」といわれたそのエリアは現在の川西市北部・猪名川町・宝塚市北部・三田市にまでおよぶ広大な規模だったといわれています。この土地で勢力を蓄えた源氏は、頻繁に鷹狩を行いながら模擬軍事訓練を重ね、武士団としての武力と組織力を磨いていきました。





南大門を抜けた先に立つ一の鳥居。



 伝説によると、摂津守の任に就いた源満仲公が摂津国の一の宮である住吉大社に参拝した時、夢枕に住吉明神が現われ「白羽の鏑矢を放って矢が着いた処が汝の住む処なり」との御神託を受け、矢が立っていた多田の地に本拠を構える事となったと言われています。猪名川の水利に優れ、四方を山に囲まれた天然の要害ともいうべき場所でありながら、京都への距離も騎乗の旅で一日ほどという地の利に恵まれた多田郷は、源氏一族が来たるべき武士の世に向けて力を蓄えるには大変優れた土地であったと思われます。また、奈良時代から銅や銀を産出していた多田銀銅山があった事も財力を蓄えるのに非常に有利に働いたと考えられます。





多田神社の内陣への入口・随神門。本殿と同じ時期に建てられました。



 969(安和2)年に起こった「安和の変」を契機に藤原摂関家との関係を強め、源氏発展の基礎を築いた源満仲公は、970(天禄元)年に本拠地・多田に寺院を創建します。4男・源賢僧都比叡山延暦寺で修行をしていた縁もあり、天台宗寺院として建立されたこの寺は源満仲公の死後、廟所や遺像を祀る御影堂など多くの堂宇が建てられました。この寺院は「鷹尾山法華三昧寺」と名付けられ、のちに「多田院」「多田大権現社」と呼ばれるようになりました。源氏が政権を握った鎌倉時代には、幕府より「清和源氏発祥地」として重要視され、1273(文永10)年には鎌倉幕府の支援を受けて忍性上人多田院造営に取り組み、この時期に真言宗寺院へと生まれ変わりました。また、同じ源氏の嫡流であった足利尊氏公も厚い崇敬を寄せて社領の寄進などを行っています。1358(延文3)年足利尊氏公が亡くなった際には、遺骨が納められ、以後代々の将軍の廟所が多田院に定められるようになりました。





檜皮葺きの拝殿は、徳川家綱公の代に再建されたものです。



 そんな多田院も、戦国時代には兵火に巻き込まれて大きなダメージを受けます。1577(天正5)年、織田信長公の甥である織田信澄公の手によって攻められ、寺域全体が焼き払われて荒廃の憂き目に遭ってしまいます。荒廃した多田院が再建されたのは江戸時代、第4代将軍徳川家綱公の代になってから。清和源氏の流れを汲んだ新田氏の末裔という血統を主張していた徳川家にとって、源氏の象徴である多田院の再建は政治的にも不可欠な事業だったといえます。1665(寛文5)年に社領500石の寄進を行ったのち、1667(寛文7)年には日光東照宮を建立した匠たちによって境内の大規模な再建が行われました。このとき建てられた伽藍の壮観さは、「西日光」と称されるほどでした。





徳川家綱公再建の本殿。この奥の森に鳴動を起こしたという廟所があります。



 多田院には「多田院鳴動」と呼ばれる不思議な現象が度々起きたことでも知られています。天下の大事が起きる際には、本殿奥の源満仲公の廟所がしきりに鳴動してその急を前もって告げたといわれています。すでに源頼朝公の時代には多田院鳴動が起こっていたといわれ、文書でも室町時代の1415(応永22)年を皮切りに、1507(永正4)年までの8回にわたる鳴動が記録されています。各地でも吉事・凶事の際には鎮守の森が鳴動してそれを知らせたという伝説が残されていますが、多田院の場合は良い出来事の前兆ばかりだったという点が特徴的です。





横綱・貴乃花と曙が奉納した植樹。



 地元の川西市では、平成14年度から「清和源氏発祥の地・川西市」をアピールしてのまちおこしに取り組んでいます。毎年4月第2日曜日には、総勢800名が歴代の源氏武将に扮して練り歩く「源氏まつり」が春季例大祭の神賑行事として盛大に行われています。源頼光公の「大江山鬼退治伝説」による鬼行列なども登場するなど源氏武将オールスター勢揃い、といったお祭です。もちろん、巴御前静御前などの美女も行列に花を添えていますが、これらの役は人気が高く希望者が多いので公募で選んでいるそうです。境内では奉納射会を始め、お茶席が設けられたりさまざまな市が立ったりして賑わいを見せます。




「黄門様」水戸光圀公が植えられたといわれる樹。


アクセス
・能勢電鉄「多田駅」下車、西へ徒歩15分
多田神社地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料   ※宝物殿には拝観料が必要(大人:300円、小人:100円)

拝観時間
・6時~17時 ※宝物殿は日曜・祝日のみ開館(9時~16時)

公式サイト







神戸・愛宕神社(兵庫)。

2007年10月15日 | ■神戸市兵庫区
火除け

愛宕神社

(あたごじんじゃ)
神戸市兵庫区三川口町1-2-17




住宅街の中に鎮座するコンパクトな神社です。


〔御祭神〕
火産霊神
(ほむすびのかみ)


 JR兵庫駅の周辺には「えべっさん」で有名な柳原蛭子神社をはじめ、多くの神社仏閣が点在しています。江戸時代、兵庫津の周辺には45もの神社仏閣が存在していたそうですが、そのうちの20ヶ所が当時と同じ場所のままで現在まで守り継がれています。愛宕神社も、江戸時代と変わらず三川口町に鎮座し、地域の鎮守社として今もなお人々の崇敬を集めています。





1997(平成9)年に再建された社殿。



 創建時期については確かな記録が残っていませんが、17世紀末の絵図には今と変わらぬ場所に愛宕社が建っていたことが描かれています。「火除けの神さま」として有名な京都の愛宕権現から防災守護のために勧請されたといわれているこの神社、以前は愛宕社と呼ばれていましたが、明治時代以降愛宕神社と呼ばれるようになったそうです。1945(昭和20)年の神戸大空襲では、激しい空襲のために境内は全焼してしまいます。氏子の皆さんの尽力によって1958(昭和33)年に社殿が再建されますが、阪神淡路大震災の際には激しい揺れのために再び受難、全壊の憂き目に遭います。この時も地域の復興とともに社殿も再建されました。常駐の社務所はなく、生田神社の管理となっています。




 
社殿の左には愛宕稲荷大神と金刀比羅大神、さらには地蔵尊も祀られています。


アクセス
・JR神戸線「兵庫駅」下車、東へ徒歩10分
愛宕神社地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
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神戸・夢野八幡神社。

2007年10月07日 | ■神戸市兵庫区
厄除け

夢野八幡神社

(ゆめのはちまんじんじゃ)
神戸市兵庫区氷室町1-5






〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
比売神
(ひめのかみ)
神功皇后
(じんぐうこうごう)


 神戸の都心部と北区とを繋ぐ有馬街道。その要となる平野交差点以南のエリアは平安時代末期に平清盛公が遷都した福原京があった地域で、短いとはいえ一時的に日本の首都となった場所でもあります。そしてこの周辺には福原京鎮護のための多くの寺社が建てられ、今なお地域の人々の崇敬を集めています。夢野八幡神社平清盛公が建立した神社のひとつです。




鳥居から急な石段を上った先にある社殿。



 1156(保元元)年に起こった保元の乱と1159(平治元)年の平治の乱によって朝廷内での政治的地位を強め、ライバルだった源義朝公をはじめとする源氏に勝利することで軍事的にも実権を掌握し、太政大臣にまで登りつめた平清盛公ですが、1167(仁安2)年にはその職を辞職。翌年、日宋貿易の拠点として港湾の整備に情熱を傾けていた兵庫津にある能福寺で出家して入道浄海となった平清盛公は、病を得たこともあって都を離れ、福原雪の御所と呼ばれる別荘を造営して静養に努めつつ、この地で政治を動かしていました。そして1177(安元3)年8月には福原京への遷都を敢行するに至りました。

 福原に新しい都を建設するにあたって、土地区画整理をするための基準点として見晴らしの良い高台から狼煙をあげ、それを目印に東西十町、南北十五町の条理の線引きを行ったそうです。その後、都を一望出来るこの高台に八幡大神を祀り、夢野八幡神社を創建して福原京の繁栄祈願、王城守護を願ったといわれています。




鳥居の脇に建つ春若大明神。



アクセス
・JR「神戸駅」下車、神戸市バス7・9・61系統「夢野町丁目」バス停より北へ徒歩10分
 夢野八幡神社地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
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東京・浅草寺。

2007年10月05日 | ▽関東・甲信越

金龍山浅草寺

(きんりゅうざん せんそうじ)
東京都台東区浅草2-3-1


坂東三十三箇所観音霊場・第13番札所
江戸三十三箇所観音霊場・第1番札所





浅草寺といえば「雷門」。現在の門は1960(昭和35)年に再建されたものです。


〔宗派〕
聖観音宗総本山

〔御本尊〕
聖観音菩薩像
(しょうかんのんぼさつぞう)


 都内最古の寺院であり、民衆信仰の中心地として古くから全国に名の知られた名刹・浅草寺浅草寺と聞いて真っ先に思い浮かぶのが雷門です。雷門は風神像と雷神像を安置していることから正式名称を「風雷神門」といい、942(天慶5)年には平公雅公によって建立されていたと伝えられています。1865(慶応元)年に火事で焼失した雷門が再建されたのは1960(昭和35)年の事で、松下電器の創業者である松下幸之助氏の寄進によって1世紀ぶりに再建されました。





雷門をくぐった参道沿いに並ぶ仲見世。参拝客で大賑わいです。



 雷門と並んで有名な仲見世が出来たのは江戸時代に入ってから。浅草寺周辺の住民は境内の清掃などの維持管理の賦役を果たす代わりに、幕府から寺域で商売を行う事を認可されていました。これが元禄年間(1688~1704年)から享保年間(1716~1736年)にかけての事で、仲見世には様々な店や芝居小屋が設けられて庶民の娯楽の中心地として大いに栄えました。しかし明治時代に入ると浅草寺の所領は新政府に没収され、東京府の管轄に置かれて仲見世の特権がすべて剥奪されてしまいました。1885(明治18)年には仲見世全体が強制的に建て替えられ、煉瓦造の新店舗として雰囲気をがらりと変えて生まれ変わります。1923(大正12)年に起きた関東大震災ではほとんどの店舗が倒壊し、1945(昭和20)年の空襲でも大きなダメージを受けますが、そのつど人々の尽力で復興され、現在も東京を代表する観光地として多くの参拝客で賑わいを見せています。
 




お線香の煙を浴びて本堂(観音堂)へと向かいます。



 浅草寺が創建されたのは628(推古天皇36)年3月18日の事だといわれています。現在の隅田川にあたる宮戸川で漁をしていた檜前浜成竹成の兄弟は、仕掛けていた網に光り輝く一体の仏像がかかっているのを見つけます。この話を聞いた土師中知は、この仏像が大変由緒ある聖観音菩薩像だと悟って仏門に入り、屋敷を寺院に改めてこの観音像を安置したことに始まるといわれています。この聖観音菩薩像は高さ1寸8分(約5.5㎝)の金色の像といわれていますが、645(大化元)年に勝海という僧侶が本堂を建立するなど境内を整備した際に秘仏本尊として定めたためにその姿を見る術はありません。





空襲で焼失した本堂は1958(昭和33)年に再建されました。



 時代は下って平安時代。857(天安元)年に慈覚大師円仁が堂宇の再建を行って秘仏の代わりに「お前立ち」の観音像を造られたという話が残されています。しかし、この頃の慈覚大師は第3代天台座主として文徳天皇や皇太子・惟仁親王などに灌頂を授けるなど、比叡山と都を中心に活動されていたと考えられていますので、やや信憑性に欠けます。慈覚大師が彫られたといわれる観音像が、名代として派遣された僧侶によって浅草寺に伝えられ、慈覚大師の名において伽藍整備の指揮を取ったという事も考えられますが、あくまで想像の域を出ません。とにもかくにもこれらのエピソードから、浅草寺では勝海上人が開基、慈覚大師が中興開山とされています。源頼朝公も平家討伐の戦勝祈願のために参拝するなど、武家政権下でも庇護を受けていた浅草寺は、室町時代には半世紀に1度くらいの頻度で炎上・焼失に見舞われますが、そのつど見事に再建されています。江戸時代に入ると徳川将軍家の祈願寺に定められたこともあり、寺領500石の寄進を受けて財政的にも安定します。さらに1649(慶安2)年には江戸幕府第3代将軍・徳川家光公によって伽藍が建立され、関東でも有数の大寺院としての威容を整えました。





1973(昭和48)年に再建された五重塔(左)と、1618(元和4)年建立といわれる六角堂。


アクセス
・東京メトロ銀座線「浅草駅」下車、西へ徒歩2分
・都営地下鉄浅草線「浅草駅」下車、北へ徒歩5分
・東武鉄道伊勢崎線「浅草駅」下車、西へ徒歩2分
浅草寺地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト



図説 浅草寺―今むかし

金龍山浅草寺

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神戸・箕谷神社。

2007年10月01日 | ■神戸市北区
商業繁盛

箕谷神社

(みのたにじんじゃ)
神戸市北区山田町下谷上字五池谷83-1





箕谷駅に隣接して鎮座する箕谷神社。


〔御祭神〕
武甕槌命
(たけみかづちのみこと)

経津主命
(ふつぬしのみこと)
天児屋根命
(あまのこやねのみこと)
比売命
(ひめのみこと)


 神戸市北区山田町周辺は、昔ながらの山村の美しさが今でも残る自然豊かな地域で、播磨国から京都へと抜ける山田道有馬道などが通っていたことから、古くから都の文化が伝わり、緑豊かになだらかにそびえる丹生山(たんじょうさん)にちなんで「丹生文化」と呼ばれる文化が形成されてきました。そんな丹生山田の里を東西に横切る山田道と有馬温泉へと向かう有馬道が交わる箕谷に、かつては「辻ノ宮」と呼ばれて道行く人々を見守り続けていた小さな神社があります。神戸電鉄箕谷駅のホームからすぐのところに鎮座しているこの神社は、箕谷神社。450年ほど前に京都から勧請された神社です。





境内には、とんど焼きの跡も残っていました。



 784(延歴3)年に長岡京へと都が遷された際、桓武天皇自ら鷹狩を楽しまれたという洛西の地・大原野桓武天皇のそばに仕えていた藤原一族も大原野の美しい風景に魅せられ、藤原氏の氏神である春日大社から武甕槌命などのご祭神を勧請して大原野神社を建立しました。箕谷神社は、1652(慶安5)年にその大原野神社を勧請した神社で、近隣の真言宗寺院・医王山寿福寺の住職である真賢上人によって建てられました。山田道有馬道の辻の位置にあることから「辻の宮」として人々の崇敬を集めてきました。





東向きに鎮座する社殿。境内は1973(昭和48)年に現在の形に整備されました。



 「辻の宮」はたびたび社殿の改築が行われています。1689(元禄2)年9月5日には本殿が修築され、江戸時代後期の1839(天保10)年には鞘社が造営されました。1939(昭和14)年には荒廃していた鞘社の改築が行われています。さらには、1965(昭和40)年の台風で倒壊した際にも3ヶ月後の12月には無事再建されています。このとき神社の名前も現在の「箕谷神社」に改められました。7月第4日曜日に行われる夏祭りでは餅まき、10月第1日曜日に催行される秋の例大祭では甘酒と畦豆を振舞う神事が行われています。現在は六条八幡宮がこの宮を管理されているそうです。





社殿を挟んで商売繁盛の(左)白龍大明神と(右)稲荷神社があります。


アクセス
・神戸電鉄「箕谷駅」下車、徒歩1分
箕谷神社地図  Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
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