神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・御影公会堂。

2008年09月21日 | ■神戸市東灘区

神戸市立御影公会堂

(みかげこうかいどう)
神戸市東灘区御影石町4-4-1




「みなと・神戸」に相応しく、船をイメージしたとも言われる御影公会堂の堂々たる外観。





 神戸市東灘区の西端を南北に流れる石屋川。川沿いに整備された公園では、春になれば美しい桜が咲き乱れ、多くの花見客で賑わいます。この石屋川と国道2号線が交差するところに、レトロな風格を漂わせる建物が重厚な存在感を湛えてたたずんでいます。戦災や阪神・淡路大震災にも耐えた昭和の名建築・御影公会堂は、地元を代表する偉大な企業家の寄付によって誕生しました。建物の1階の奥には、その功績をたたえた小さなブロンズの胸像が置かれ、公会堂を訪れる人々を見守っています。





公会堂の入口。



 御影公会堂は、白鶴酒造の7代目の社長で「鶴翁」と呼ばれた嘉納治兵衛氏の寄付などによって1933(昭和8)年に武庫郡御影町の公会堂として建設されました。当時厳しい経営が続いていた白鶴酒造を見事な経営手腕で立て直した嘉納治兵衛氏は、会社を育ててくれた地域への感謝という思いから、教育や文化に対して多大な貢献をされました。御影公会堂以外にも、1931(昭和6)年には国宝や重要文化財にも指定されている中国陶磁器の世界的コレクションを集めた白鶴美術館を建設、灘五郷の名門・桜正宗菊正宗などと共同で進学校として全国でも有数の名門・灘中学校を設立しています。

 御影公会堂の建設には、当時のお金で24万円の総工費がかかりましたが、嘉納治兵衛氏は、そのうち22万9千円を寄付したといいます。こうして産声を上げた御影公会堂は、地上3階、地下1階の鉄筋コンクリート製で、1000人収容の大ホールは1954(昭和29)年に三宮に国際会館が建てられるまでは、神戸市内で最大の集客施設だったそうです。この建物を設計したのは、武庫郡六甲村、現在の灘区出身で神戸市の初代営繕課長を務めた清水栄二氏。耐震構造を非常に研究し、地下の基礎部分に厚さ1メートル近いコンクリートを敷き詰めた、氏の建築の頑強さは、戦争での空襲や阪神・淡路大震災の強烈な揺れにも耐え抜いたことで証明されました。
 



 
風格あるエントランス(左)の奥に置かれている嘉納治兵衛氏の胸像(右)。



 1945(昭和20)年6月5日に行われた大空襲では、無数の焼夷弾によって神戸の町は焼き払われ、御影公会堂も外壁や建物の一部、地下食堂を残して全焼。その破壊ぶりは戦後の進駐軍が接収を諦めるほどで、しばらくは財政難から廃墟同然のまま放置されました。スタジオジブリの映画「火垂るの墓」でも、焼け野原にぽつんと立つ御影公会堂の景色が描かれています。御影町だけでは御影公会堂を再建する余裕はなかったため、神戸市との合併を行う際に市の予算で公会堂を再建することなどを条件に盛り込んだ結果、ようやく1953(昭和28)年になって御影公会堂の再建が実現しました。

 再建なった御影公会堂の大ホールには、1957(昭和32)年に公営結婚式場が設けられました。当時高まっていた「新生活運動」、暮らしから無駄を省いてシンプルな生活を送ろうという世間の流れに乗り、簡素ながら趣のある御影公会堂での結婚式には多くのカップルが殺到し、最盛期の1964(昭和39)年には年間1,000組以上のカップルが結婚式を挙げたそうです。残念ながら、暮らし向きが豊かになり、ホテルでの挙式が主流になってくると利用者も激減。1983(昭和58)年には閉鎖されましたが、今でも当時御影公会堂で挙げた結婚式の思い出を懐かしそうに語る年配のご夫婦の姿が見られます。




 
2階への石階段(左)と2階の踊り場(右)。重厚な質感に力強さを感じます。




御影公会堂食堂

 数多くのグルメ雑誌にも紹介されている「御影公会堂食堂」は、昭和のレトロな香りを色濃く湛えた雰囲気の中で、手軽で美味しい洋食を楽しめるレストランとしてその名を知られています。地下にありながら巧みな採光によって明るい陽光に恵まれた食堂内は暖かい雰囲気に包まれ、昔ながらのオムライスハヤシライスは定番メニューとして多くの人々の支持を受けています。営業時間は午前が11時から14時まで、夜は17時30分から20時30分までとなっています。定休日は火曜日で、月曜日は夜の営業はしていませんので、事前にしっかり確認をしてから昭和の味覚を堪能しに来てみてください。



 
地下1階にある御影公会堂食堂には、昭和の懐かしい香りが漂っています。






アクセス
・阪神電車「石屋川駅」下車、北へ徒歩3分
御影公会堂地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

利用料
大集会場(550名収容)
 ※9時~21時使用 :19,800円(時間帯によって料金は異なります)
集会室(5部屋) ※剣道や空手、日舞、茶華道教室に使用可
 ※9時~21時使用 : 2,600~3,300円(時間帯によって料金は異なります) 

開館時間
・9時~21時(定休日:毎週火曜日、12月29日~1月3日)

公式サイト
  御影公会堂 (神戸市ホームページ内)





神戸・厳島神社(御影)。

2008年07月14日 | ■神戸市東灘区
技芸上達・交通安全

厳島神社

(いつくしまじんじゃ)
神戸市東灘区御影町西平野伊賀塚27




神戸市東灘区内に残されている中では最古といわれている石造りの鳥居。


〔御祭神〕
市杵島姫神
(いちきしまひめのかみ)


 都会の喧騒を離れた緑豊かな神戸市東灘区の御影地区は、閑静な住宅街として人気の高いエリアです。この地域は、平安時代中期の承平年間 (931-938年)に源順卿によって編纂された辞典「和名類聚抄」に収録されている古代律令制の行政区画資料によると、摂津国莵原郡の覚美郷(かがみごう)と呼ばれていた地域で、のちに東部を郡家荘、西部を徳井荘と呼ぶようになりました。1582(天正9)年より豊臣秀吉公によって行われた太閤検地ののち、東灘エリアは豊臣家の直轄地となりましたが、豊臣家滅亡後の1617(元和3)年には尼崎藩の領地として戸田氏鉄公に与えられました。1769(明和6)年になると、江戸幕府は東灘の大部分を天領(直轄地)としましたが、そのとき徳井荘平野村は東西に二分され、東側は天領となり、残った西半分が尼崎藩の領地として残されて西平野と呼ばれるようになりました。この地域に鎮座しているのが、女神・市杵島姫神を祀る厳島神社です。





元禄時代に創建されて以来、数々の試練をくぐり抜けてきた社殿。



 正確な創建時期は不明ですが、江戸時代の元禄年間にはすでにこの御影の地に市杵島姫神(弁才天)を祀る神社が創建されていたことが、1692(元禄5)年にまとめられた「社寺書上帳」に記載されている「辯才天宮座若太夫」という言葉や、境内西側の石鳥居に刻まれた「元禄十四年巳歳九月十一日・平野村氏子中」という銘文からも推測することが出来ます。ちなみにこの鳥居は、東灘区に残されている石鳥居の中では最も古いものだそうです。明治新政府が発足してすぐの1868(明治元)年に出された太政官達(版籍奉還は翌年だったため、この時は尼崎藩に対して出された)によって「厳島神社」という名前に改称され、1873(明治6)年には村社に列せられました。厳島神社の社殿は、先の大戦における神戸大空襲の被害も受けず、阪神・淡路大震災でも倒壊せずに現在まで生き残っています。ここでは、女性神である市杵島姫神を祀っているため、祭祀や境内のメンテナンスなどはすべて氏子の女性が携わるという風習が残っているそうです。




 
稲荷社(左)と、境内南東隅に立つ1982(昭和57)年建立の地蔵尊(右)。
 

アクセス
・阪急電車「御影駅」下車、西へ徒歩10分
厳島神社(御影)地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・三王神社。

2007年12月25日 | ■神戸市東灘区
福徳開運・諸産業振興

三王神社

(さんのうじんじゃ)
神戸市東灘区田中町2-2-1



阪神淡路大震災では大きなダメージを受けました。


〔御祭神〕
大山咋神
(おおやまくいのかみ)



 JR摂津本山駅から山手幹線を西に向かうと、岡本交差点から南に抜ける広い道に出ます。東灘区岡本2丁目から魚崎南町6丁目にかけて延びるこの道路は正式には魚崎幹線といいますが、その道幅から地元では「十二間道路」と呼ばれています。この十二間道路を南に下って国道2号線まで出ると、田中交差点の北西角に美味しいアイス最中で有名な鈴木商店があります。そこから横断歩道を渡った東側に、地車庫のあるコンパクトな神社を見つけることが出来ます。ここが、山の神さまである大山咋神を祀る三王神社です。







 三王神社の創建に関して詳しいことは不明ですが、1781年から1788年にかけての天明年間にはすでにこの場所に石で作られた祠が祀られていたそうです。もともと東灘の辺りでは、春には人里に下りて「田の神」となり、秋に稲穂を実らせて山に戻っていくという「山の神」に対する信仰が深かったといわれています。山の上にいくつかの祠があり、現にJR摂津本山駅の東側の踏切の近くには遥拝所である小祠が建てられていることを考えると、三王神社もそういった山の神が人里に下りてきたときの「里の社」という存在だったのではないでしょうか。




社殿の左手には宇迦之御魂神を祀る三王稲荷があります。



 阪神淡路大震災では本殿や鳥居など境内の大半が倒壊。社務所や隣接する宮司さんの家も倒壊し、宮司のご長男も亡くなるなど悲しく辛い出来事も起こりましたが、氏子の皆さんのご尽力によって4年後には社殿などが再建され、玉垣や手水舎などの整備も行われるなど不死鳥の如く甦りました。5月3・4日の春祭には勇壮なだんじり祭が行われ、10月第3日曜日に行われる例祭では湯立て神事なども行われて賑わいを見せています。



震災から10年建って手水舎も見事に再建されました。



アクセス
・JR「摂津本山駅」下車、南へ徒歩5分
・阪急「岡本駅」下車、南へ徒歩10分
 三王神社地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・岡本八幡神社。

2006年10月04日 | ■神戸市東灘区
厄除開運

岡本八幡神社

(おかもとはちまんじんじゃ)
神戸市東灘区岡本6-10-1




天井川沿いに結構きつい坂を登っていくと、鳥居が目に入ります。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
神功皇后
(じんぐうこうごう)



 神戸の中でも人気の高い東灘区岡本。個人的にも岡本や西岡本は一度住んでみたいと思う土地です。そんな岡本は、「梅は岡本、桜は吉野、みかん紀の国、栗丹波」と唄われたり、「梅は岡本、桜は生田、松の良いのは湊川」と唄われたりするなど、古くから梅の名所として広くその名を知られていました。




応神天皇と神功皇后を祀る社殿。



 平安末期から鎌倉時代にかけて、源平の争乱など時代の変革に巻き込まれていく中で、東灘エリアでも人々の結束がコミュニティの発達を呼び、この地域でも岡本郷が形成されていきます。鎌倉幕府が誕生したといわれる1192(建久3)年の頃には村としてのカタチを整えていたようで、当時隆盛であった源氏にあやかろうと、その氏神である八幡大神(応神天皇)を村の鎮守として祀ったのが岡本八幡神社だと言われています。これに因んで一帯は八幡林と呼ばれ、境内の東にある谷は八幡谷と呼ばれていました。
 
 戦国末期、天下統一が成った後に行われた太閤検地によって、気候温暖な優良地であった東灘エリアは直轄領とされ、関白豊臣秀吉公などの武将たちも岡本八幡神社に参拝したという言い伝えが残されています。





神輿庫。岡本にもだんじりがあります。



 梅の名所として茶店などが立ち並び、多くの人々が梅の花見を楽しんできた岡本ですが、昭和に入ってから住宅地として開発が進んだこともあって往時の美しい梅林は失われてしまいます。そんな状況を憂い、「梅は岡本」を復活させたいという人々の強い願いもあって1982(昭和57)年、かつて梅林のあった辺りに岡本梅林公園が整備されました。大宰府天満宮から贈られた飛梅など約27種、130本の梅が植えられ、毎年2月中旬から3月中旬にかけて人々を梅の花の香りで満たしてくれています。



アクセス
・阪急電車「岡本駅」下車、北西へ徒歩10分
・JR「摂津本山駅」下車、北西へ徒歩15分
岡本八幡神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
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神戸・野寄のだんじり(東灘)。

2006年09月24日 | ■神戸市東灘区



神戸市東灘区西岡本地域



前から見た野寄のだんじり。立派に復活!


大日女尊神社境内



 以前、神戸市東灘区西岡本に鎮座する大日女尊神社をご紹介した際、この地区の地車が大改装中だということを書かせていただきました。あれから4ヶ月以上が過ぎた9月23日、秋祭の日に新装成った「野寄のだんじり」がお披露目され、町内の曳き回しが行われました。




水引幕も新調。ピッカピカです。



 田畑300坪を売却して購入したという先代の地車は、1933(昭和8)年に大工・大石巳代吉氏が作成したもので、彫刻部分は川原啓秀氏の手によるものです。残念ながらこの地車は1945(昭和20)年6月5日の空襲によって全焼してしまい、長い間この野寄地区に地車の雄姿が見られることはありませんでした。




御影石を運び出す牛の様子を彫り上げてあります。



 戦災による焼失から41年の年月が経った1986(昭和61)年12月14日。地域の皆さんの熱意によって大阪から購入・改装された高さ4m・長さ6.9m・幅2.9mという立派な地車の入魂式が行われました。その後も毎年改修が行われ、1996(平成8)年には拝懸魚隣懸魚の彫刻が新調されています。老朽化を受けて2年前から改修が進められてきた野寄の地車は、とても地域色の豊かな彫刻に包まれた魅力ある地車へと生まれ変わりました。




かつて住吉川で栄えた水車製粉の模様を彫り上げてあります。



「うはらの大絵巻」という題の縁葛彫刻。東灘の名所が彫られています。



関連記事
だんじり20年ぶり新調 東灘・披露野寄地区(2006年9月21日・神戸新聞)



  西岡本からのお知らせ 
西岡本のホームページにも地車の話題が盛りだくさんです!

深江・大日霊女神社。

2006年09月03日 | ■神戸市東灘区
家内安全・厄除・交通安全

大日霊女神社

(おおひるめじんじゃ)
神戸市東灘区深江本町3-5-7

大日っつぁん



南に立つ真っ白な神明鳥居。伊勢神宮の鳥居と同じタイプのものです。


〔御祭神〕
大日霊女尊
(おおひるめのみこと)
宇迦之御魂神
(うかのみたまのかみ)
戎大神
(えびすのおおかみ)



 阪神電車の「深江駅」。阪神電車の駅の中では市内でもっとも東端にあるこの駅の南には、なかなか面白い成り立ちをした神社が鎮座しています。その神社の名前は、大日霊女神社。地元の方々が親しみを込めて「大日つぁん」と呼んでいるこの神社は、一人の住職さんのある行動がきっかけで生まれた神社です。





1908(明治41)年に神明造で建てられた本殿は、阪神淡路大震災で倒壊。
現在の本殿は2000(平成12)年に再建されたものです。


 昔、この辺りには薬王寺という寺院があり、大日如来尊を本尊としていました。しかし薬王寺の住職だった観空和尚は、1481(文明13)年にこの地を教化に訪れた蓮如上人の教えに帰依し、真言宗だった寺院を浄土真宗へと改宗してしまいます。この頃は応仁の乱が終わり、加賀国で加賀一向一揆が起こったり、京都・山科の地に本願寺が築かれるなど、浄土真宗がその勢力をどんどん拡大している時代でした。今もこの周辺に残る永井山正寿寺(深江)香雲山無量寺(青木)青木山西林寺(北青木)などは、この半世紀後に前後して開基された浄土真宗の寺院です。





かつては「踊り松」の南にあった白玉稲荷。隣には末光稲荷も。



 当時は「浄土真宗」という呼び名が浄土宗の否定というふうに受け取られる恐れがあったため、「真宗」と名乗っていたそうです。「一向宗」という呼び名は江戸時代、浄土宗側から幕府へと働きかけがあった結果「浄土真宗」いう名称の使用が禁じられたために付けられた呼び名です。「浄土真宗」と公に名乗るのは、明治時代に政府の大教院に宗教団体登録を行う際、浄土真宗本願寺が「浄土真宗」という名で登録して以降の事だそうです。





この地域で獲れた新鮮な魚介類を有馬温泉まで運ぶために設けられた「魚屋道」の記念碑。



 真言宗から浄土真宗へと宗旨替えしてしまった観空和尚は、寺号も「延寿寺」とかえてしまいます。このときご本尊も浄土真宗の教えに基づき阿弥陀如来尊に替えられてしまったため、寺を追い出される形になった大日如来尊像を村人たちが引き取って祀ったのが大日霊女神社の始まりだといわれています。ただ、深江村の氏神はこの大日霊女神社ではなく、森稲荷神社保久良神社が正式な氏神さまでした。深江を含む青木中野小路北畑田辺(以上神戸市)・三条津知(以上芦屋市)の村々は「本庄9ヶ村」とよばれ、森稲荷神社保久良神社を氏神にしていました。明治に入り、そのどちらか一方を氏神として選択しなければならなくなった際、深江青木の3ヶ村は森稲荷神社を、ほかの6ヶ村は保久良神社を氏神としたそうです。いまも、大日霊女神社の神主は森稲荷神社神田宮司が兼務しています。





今の国道43号線あたりを通っていた「旧西国浜街道」の記念碑。
この辺りでは43号線より1本北、神社の鳥居前を通っていました。


 1908(明治41)年には神明造瓦葺流造の本殿と瓦葺入母屋造の拝殿などが建てられました。残念ながら、1945(昭和20)年8月の米軍による無差別大空襲によって社務所やだんじり庫、樹齢集百年の松が焼かれるなど大きなダメージを受けましたが、本殿・拝殿は何とか戦災を免れました。その社殿も1995(平成7)年の阪神淡路大震災で全壊。2000(平成12)年に無事新しい社殿が再建されました。





「深江史の庭」。この地域にあった記念碑や石碑が一同に集められています。



アクセス
・阪神電車「深江駅」下車、南へ徒歩2分
 大日霊女神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


ウォーカームック 灘・東灘Walker 61802-69 (ウォーカームック 168)
クリエーター情報なし
角川マーケティング(角川グループパブリッシング)

神戸・素盞鳴神社。

2006年05月26日 | ■神戸市東灘区
厄除開運・疫病退散

素盞鳴神社

(すさのおじんじゃ)
神戸市東灘区岡本天王山1180



岡本梅林公園の西側にあります。


〔御祭神〕
素盞鳴尊
(すさのおのみこと)
伊弉諾尊
(いざなぎのみこと)
伊弉冉神
(いざなみのみこと)
大山咋神
(おおやまくいのかみ)



 天気のいい休日、住吉川沿いを抜けて西岡本の大日女尊神社に立ち寄ったあと、山手のバス道を西に向かっていたときに「天王宮素盞鳴尊神社」という石碑を見つけました。けっこうきつい坂道を登っていくと、山の麓に鳥居を発見しました。




坂を登っていくと、高台に建つマンションの脇に鳥居が見えました。



 この山は「天王山」と呼ばれ、あまり人の手の加わっていない山だそうです。山桃の木といった様々な樹木が生い茂っていて、陽射しのきつい日だったにもかかわらず、ひんやりとした空気に包まれていました。鳥居をくぐって急な上り坂の山道をずいぶん歩くと、ようやく社殿らしきものが見えてきますが、この最後の石段が一層傾斜があってきついものがあります。そのため、 「石段はちょっと…」という方のために、緩やかなスロープ状の参道も伸びています。







 ここは、一説には岡本地域にムラが出来てきた鎌倉時代から祭祀の場所とされていたのではないか、といわれています。江戸時代の書物には「祇園牛頭天王山柿葺、勧請の由来年暦知れ申さず―」と書かれていることから、かなり古くから祀られていたことが分かります。





阪神・淡路大震災では大きな被害を受けました。社殿はすべて再建されたそうです。



 境内には主祭神をお祀りする本殿のほかに、厳島大神住吉大神天照大御神を祀る摂社や、本殿右手の高台の場所に春日神社猿田彦神社なども並んでおり、予想以上の賑わいを見せる境内でした。

 寒い時期の山上では寒くてとても祭礼どころではない、ということで例祭は暖かくなってきた3月20日に行われます。
 



それほど期待していなかっただけに、この景色は感動。



 しんどい思いをして山道を登ってきたご褒美。神戸の町並みはもちろん、紀淡海峡淡路島まで一望できる眺めのよさ。山と海に囲まれた神戸の神社にはこのような眺望を誇る神社・仏閣がたくさんあります。



アクセス
・阪急電車「岡本駅」下車、北西へ徒歩30分
・JR「摂津本山駅」下車、北西へ徒歩30分
・神戸市バス 系統「岡本7丁目」下車、西へ徒歩15分

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
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神戸・弓弦羽神社。

2006年05月16日 | ■神戸市東灘区
家内安全・厄除開運・諸願成就

弓弦羽神社

(ゆづるはじんじゃ)
神戸市東灘区御影町御影字弓弦羽ノ森1810



鮮やかな緑に囲まれた清々しい神社です。


〔ご祭神〕
伊弉册尊
(いざなみのみこと)…熊野那智大社
事解之男命
(ことさかのおのみこと)…熊野本宮大社
速玉之男命
(はやたまのおのみこと)…熊野速玉神社

※「根本熊野三所大神」と呼びます。




 阪急電車「御影駅」を降りて南東に歩くと、ゆったりとした雰囲気に包まれた御影の町並みの中に、より一層の静けさをたたえた森が広がっています。ここ「弓弦羽の森」は神戸市が指定する「市民の森」の第1号に選ばれた森で、樹齢約350年という市内最大のムクノキや樹齢約300年というクスノキをはじめ数多くの木々に囲まれた、まさに「清閑の地」です。また、ここは知る人ぞ知る桜の名所で、シーズンになると鳥居から境内まで、まさに「桜のトンネル」を成す美しい光景に出会うことが出来ます。




境内には緑があふれています。



 そんな森に囲まれた弓弦羽神社もまた、神功皇后ゆかりの神社として長い歴史を誇るお社です。本住吉神社のところでも書きましたが、新羅遠征で大勝利を収めた神功皇后の軍勢は、都への凱旋の途中、義理の息子である忍熊王たちの謀反の報に接します。謀反軍との決戦を前に、神功皇后が自らの弓矢・甲冑を納めて熊野大神に必勝祈願をされたのが、弓弦羽の森のあるこの地であったといわれています。

ちなみに、弓弦羽神社がある「御影」という地名は、神功皇后が凱旋の際「澤の井」という井戸に姿を映して化粧を整えられたところ、そのお姿が鮮やかに水面に映し出されたという故事に由来します。阪神電車「御影駅」の駅舎の高架下に、その跡だといわれる泉が残されています。




大正末期に建てられた拝殿。震災の激震にも耐えた名建築です。



 社伝には、弓弦羽の森桓武天皇の治世の延暦年間(782~805年)の頃には神領地と定められ、849(嘉祥2)年には神祠が造営されたとあります。弓弦羽神社は、郡家御影平野の3村の総氏神として栄えた神社で、平安時代中頃より流行した熊野信仰とともに発展。江戸時代には、酒造業や廻船業を営んで大成功した御影地域の氏子たちからの寄進に支えられ、弓弦羽神社は隆盛を極めたそうです。




再建された手水舎。近づくとセンサーが感知して水が流れ出します。



 1995(平成7)年に起きた阪神・淡路大震災では、鳥居や社務所・手水舎など境内の多くの建造物は大きなダメージを受けましたが、拝殿や本殿の被害は軽微でした。拝殿は大正末期に建てられたものですが、関東大震災が起こった直後に建てられたため基礎を深く掘り込み、栗石といわれる石を一面に敷き詰めた完璧な耐震設計を施された建築物だったため、マグニチュード7の激震にも耐えたといわれています。




平成10年に再建された社務所。



アクセス
・阪急電車「御影駅」下車、南東へ徒歩5分
・阪神電車「御影駅」下車、北へ徒15分
・JR神戸線「住吉駅」下車、北西へ徒歩10分

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
    弓弦羽神社


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神戸・横屋八幡神社。

2006年05月11日 | ■神戸市東灘区
厄除け・家内安全

横屋八幡神社

(よこやはちまんじんじゃ)
神戸市東灘区魚崎北町2-3-21




2008(平成20)年に建てられたばかりの大鳥居。眩しいほどの白さです。


〔御祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
八幡大神
(はちまんたいしん)
春日大神
(かすがたいしん)



 魚崎は魚崎八幡神社を氏神とする魚崎村横屋八幡神社を氏神とする横屋村に分かれていました。魚崎村は酒造業と漁業が盛んでしたが、横屋村では主に農業が主流でした。明治に入ると2つの村は合併して魚崎村になり、のちに町制の施行によって魚崎町となります。




拝殿前に供えられている酒樽は地元の銘酒・櫻正宗のものです。



 横屋八幡神社の創建された時期は明らかではありませんが、16世紀ごろの書物には横屋村に関する記述が見られ、17世紀末の「寺社改帳」にも横屋村の鎮守として祀られている神社のことが書かれています。




横屋のだんじり。本住吉神社に宮入りしています。



 横屋地区のだんじりは、平成12年から本住吉神社への宮入りを再開しています。昭和62年より宮入を復活した野寄地区・岡本地区のだんじりととともに3台で本住吉神社に宮入りしています。(情報をいただいた「西岡本のお知らせ」の管理人さま、感謝です!)

 ここを訪れたときは祭りの前日だったので、境内にある地車庫の前ではお囃子の練習をしていました。間近で見るだんじり、そして間近で聴くお囃子は迫力がありました。明治のころにあった大きな地車は大正時代に処分されてしまいましたが、昭和に入り淡路からだんじりを購入しました。1955(昭和30)以降、長い間だんじりの町曳きは中断されていましたが、80年代に入ってふたたびだんじりが曳かれるようになりました。




鳥居は東側に建っていました。



アクセス
・阪神電鉄「魚崎駅」下車、北東へ徒歩12分
・阪神電鉄「青木駅」下車、北西へ徒歩12分
・神戸市バス「魚崎北町」下車、西へ徒歩10分

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・魚崎八幡神社。

2006年05月10日 | ■神戸市東灘区
厄除開運・家内安全・交通安全

魚崎八幡神社

(うおざきはちまんじんじゃ)
神戸市東灘区魚崎南町3-19-18



国道43号線、「覚浄寺」の交差点を南に下ってすぐ。


〔ご祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
八幡大神
(はちまんたいしん)
春日大神
(かすがたいしん)



 魚崎は住吉川の東側にある海岸部の町で、櫻正宗菊正宗などの酒造メーカーが立ち並ぶ酒蔵のまちです。海に近いということから、古くは酒造業以外に漁業も盛んだったそうです。

 この「魚崎」という町名の由来にも神功皇后が登場します。新羅遠征に向かうために軍勢を整えていた神功皇后が軍船をあつめさせたところ、魚崎の浜に各地から500隻もの船が集結したそうです。その故事からこの地を五百崎(いおざき)と呼ぶようになったという言い伝えがあります。また、不漁続きで困った漁民たちが領主に願い出て、豊漁を祈願して「五百崎」を同音の「魚崎」に改めたという話も伝えられています。




震災で倒壊した拝殿も再建されました。



 魚崎の氏神として崇敬されている魚崎八幡神社も、「八幡神社」の名のとおり神功皇后に関する言い伝えのある神社です。本殿の裏にある大きな切り株は「神依りの松」と呼ばれ、新羅遠征から凱旋してきた神功皇后が、ここ魚崎の地で休息を取ったときに船を泊めるために使った舫いの松だという話が伝えられています。神功皇后の伝説はともかく、巨石や巨木を神の依り代として祀るというのは、古代信仰に良く見られるかたちですので、この神社がかなりの歴史を持っていることが推し量れます。




境内には地車庫もあります。昔は本住吉神社に宮入りしていました。



 「神功皇后の伝説はともかく」といったのにはワケがあります。魚崎八幡神社は、もともとは「雀神社(ささいじんじゃ)」と呼ばれ、祭神も現在の八幡大神ではなく素盞鳴命だったというのです。

 もともとこの辺りは摂津国菟原郡の佐才郷と呼ばれた土地で、この「ささい」という言葉にいつの頃からか「」という字があてられるようになりました。魚崎の浜は「雀の松原」と呼ばれた景勝地でしたが、「平家物語」にもその名が見られますので、結構古くから「」という字が使われていたようです。そんな雀神社八幡大神を祀る神社になったのは意外なほど最近のことで、正式に「八幡神社」となったのは明治に入ってからのことだそうです。そんな話を聞いていると、魚崎に関する神功皇后の伝説も比較的新しいものではないだろうか、と思います。




神社の隣の公園には、魚崎出身の横綱・大木戸森右衛門生誕地の石碑が。




アクセス
・JR神戸線「魚崎駅」下車、国道43号線の南の道を東へ徒歩8分
・神戸市バス「魚崎八幡宮前」下車すぐ

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・本住吉神社。

2006年05月07日 | ■神戸市東灘区
航海安全・安産・宇宙浄化

本住吉神社

(もとすみよしじんじゃ)
神戸市東灘区住吉宮町7-1-2



国道2号線、旧西国街道沿いにある「住吉さん」


〔御祭神〕
表筒男命
(うわつつおのみこと)
中筒男命
(なかつつおのみこと)
底筒男命
(そこつつおのみこと)
神功皇后
(おきながたらしひめのみこと)



 JR住吉駅の南、国道2号線に面して鎮座する神社が本住吉神社。何しろただの住吉神社ではありません。摂社・末社あわせて全国2,000社あまりを数える住吉神社の本家本元・総本宮であるという誇りを込めて「本」住吉神社と呼ばれています。




本住吉神社の拝殿。地車祭の幟が鮮やかです。



 阪神間には西宮の広田神社や神戸の長田神社をはじめ、神功皇后ゆかりの神社がたくさんあります。本住吉神社もそんな神社のひとつですが、その神功皇后にまつわる伝説が「神戸の住吉か、大阪の住吉か」という「総本宮」の議論の原因になっています。

 神功皇后は第14代仲哀天皇の后で、八幡大神として祀られている応神天皇の母・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)のことです。戦前では実在の人物という教育が行われていましたが、戦後の研究では推古天皇斉明天皇持統天皇といった女帝をモデルにした伝説上の人物だという説が有力になっています。



拝殿奥の摂社。大日女尊や大山祇神、大国主命や菅原道真公などが祀られています。



 神功皇后には、201年に神宣にしたがって新羅遠征を行ったという有名な伝説があります。この神宣を下したのが本住吉神社に御祭神として祀られている表筒男命中筒男命底筒男命住吉三神)で、皇后はこの神々に守られて玄界灘を越え、応神天皇とともに新羅国を平定したといいます。

 非常事態は、この遠征の帰り道に起きました。次の天皇の座を争う応神天皇の異母兄・忍熊王が挙兵し、神功皇后軍を難波の地で待ち構えていたのです。紀の国(和歌山)に難を避けた皇后軍は、体勢を立て直して難波に向かおうとしましたが、船が海上をぐるぐる回ってしまい前に進まなくなります。そこで武庫川口まで迂回して占ってみたところ、住吉三神が現れて「わたしたちを渟中倉長峡(ぬなくらのながお)の地に祀ってほしい」というメッセージを残しました。これに従って三神を祀ったところ海はたちどころに静まり返り、神功皇后軍は反乱軍を平定することができたということです。




拝殿の横にある地車庫。ここに各地区のだんじりが納められています。



 問題は、この「渟中倉長峡」という場所がどこだったかということです。大阪の住吉大社が祀られているところだとする説が多いのですが、江戸時代の国学者・本居宣長が『古事記伝』(1798年)の中で渟中倉長峡とは、菟原郡(※)の住吉のことである」と述べており、さらには1233(貞永2)年に書かれた書物にも同じような内容の記述が見られます。

※奈良時代より、夙川から東灘をはさんで生田川までのエリアは菟原(うはら)郡と呼ばれていました。

 以上の説から、住吉三神はまず神戸の住吉の地に祀られ、4世紀初頭に仁徳天皇難波高津宮に都を移したときに大阪に移されたのではないか、というのが「神戸・本住吉神社総本宮説」です。神戸に住む者としては、こちらの説を信じたいです。




鳥居脇に建つ「西国街道」の碑。街道は国道2号線となり、今も東西交通の重要路線となっています。



 西国街道に面した本住吉神社は、街道を往く旅人たちの休憩スポットとしても賑わいを見せていました。江戸時代には神社の前に40軒近いお茶屋が軒を連ねていたそうです。神社の西南に広がる「茶屋」という地区名はここに由来すると思われます。



アクセス
・JR神戸線「住吉駅」下車、南へ徒歩3分
・阪神電車「住吉駅」下車、改札前の道をまっすぐ北へ徒歩10分
・神戸市バス「住吉駅前」下車、徒歩2分
・阪神バス「住吉駅前」下車、徒歩2分

拝観料
・無料。

拝観時間
・常時開放。

公式サイト
    本住吉神社ホームページ


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神戸・大日女尊神社(野寄)。

2006年05月05日 | ■神戸市東灘区
衣食住充実・福徳開運

大日女尊神社

(おおひるめのみことじんじゃ)
神戸市東灘区西岡本4-8-6



阪急電車の高架沿いにあります。


〔御祭神〕
大日女尊
(おおひるめのみこと)
素盞鳴命
(すさのおのみこと)



 住吉川を北に上がり、山手幹線を越えた東側にある地域が西岡本です。以前は野寄村本山村野寄などと呼ばれたところで、今でも地元の方々はこの地域のことを「野寄」と呼んでいます。品のある閑静な住宅街で、一度は住んでみたいと思わせる品格を感じる町です。




大日女尊神社の拝殿。



 この神社に関する記述で最も古いものとされるのが、1692(元禄5)年の『寺社帳』です。それによると、もともと野寄には神社がなく、古くから大日如来を本尊とする大日堂がありました。明治時代に入って神仏分離令が出た際、「野寄に神社を」ということで大日堂のご本尊を村内の寺院に移し、残った大日堂を社殿として新たに宝刀をご神体に神社を設けました。これが大日女尊神社です。




北側から見た境内。白い建物が本山西(旧・野寄)地域福祉センターです。



 日本では、古くから神道と仏教の融合が行われてきました。奈良時代になると、仏と神は同一のもので、本地である仏様が我が国の衆生を救済するために神々の姿となって現れたのだという本地垂迹説が唱えられるようになります。また、平安末期には本地垂迹説の流れを受けて理論的に神道を説明する教えがあらわれ、真言密教系の両部神道では、金剛界・胎蔵界の曼荼羅の大日如来尊=伊勢神宮の内宮・外宮の祭神(天照大御神豊受大御神)という説が唱えられたりしました。

 しかし、明治維新がこの流れを大きく変えます。復古神道を政治理念に国家の運営を図った明治政府によって神仏分離令が出され、神社域からの仏教的要素の排除が推進されました。その結果、全国で廃仏毀釈運動が起こり、貴重な仏像や建造物が次々と破壊されていくこととなります。このような時代背景を受け、廃仏毀釈の流れから村のご本尊である大日如来を守り、さらに村としても神社を建てることで政府の方針に従っていこうという姿勢が大日女尊神社を生んだのではないでしょうか。

 



水神宮の石碑。鳥居のすぐ脇にあります。



 住吉川には、その急流を利用して古くから油絞りや精米などのための水車が立ち並んでいました。全盛期にはその数は80にも達し、そこに設置された臼の数は10,000、従業員も1,000人を越えたそうです。その水車業者の厚い信仰を集めていたのが水神宮です。元禄時代には境内に水神宮のお社があったそうですが、残念ながら社殿は朽廃。現在はその跡に「水神宮」の石碑が建てられています。




新調なった野寄のだんじり。地域色豊かな彫刻が特徴です。




 アクセス
・神戸市バス・33系統「西岡本4」下車、徒歩2分
・阪急電車「岡本駅」下車、高架北側沿いに西へ徒歩15分

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・だんじりの季節(東灘)。

2006年05月03日 | ■神戸市東灘区


東灘・だんじりの季節

神戸市東灘区全域


天気のいい連休。そうだ、だんじりを見に行こう




弓弦羽神社氏子・西御影地区のだんじり。




 毎年、GWになると神戸の東灘区では勇壮なだんじりパレードが繰り広げられます。通りのどこからか鳴り物の音が聞こえてくると、何だか血が湧いてきます。こうやって伝統の行事を守り続けていただいている姿を見ると嬉しくなるのと同時に、少しうらやましく感じたりします。

 5月3日・4日は御影の弓弦羽神社のだんじりパレード。氏子である郡家上御影西御影中御影西之町中之町東之町弓場の8地区の地車(だんじり)が町曳きされます。そのうちの何台かと町で遭遇することができました。




弓弦羽神社氏子・西之町のだんじり。


弓弦羽神社氏子・中御影のだんじり。


弓弦羽神社氏子・中之町のだんじり。



 弓弦羽神社と同じ日程で5月3日・4日の2日間に渡ってだんじりが行われるのがJR甲南山手駅の北にある森稲荷神社の氏子の森地区

 壮観なのは、阪急岡本駅の南側の山手幹線一帯で5月4日の12時30分から2時間に渡って行われる本山だんじりパレードです。住吉川より東側にある9地区のだんじりが集結し、所狭しと曳き回しが行われます。また、5月5日の朝10時30分から行われる本住吉神社での7地区のだんじりの宮出しと、18時30分頃から行われる宮入りも迫力があって間違いなくお勧めです。






 5月4日・5日の2日間に渡ってだんじりが行われるのが、本住吉神社の氏子である岡本野寄山田西吉田住之江呉田茶屋地区のだんじり、保久良神社の氏子である中野小路北畑田辺地区のだんじり、三王神社の氏子である田中地区のだんじり、魚崎八幡神社の氏子である魚崎地区のだんじり、横屋八幡神社の氏子の横屋地区のだんじりなどです。




だんじり2日目、本宮を迎えた本住吉神社。露店もたくさん出ます



 だんじり巡行が行われる本住吉神社の例大祭は、もともと旧暦の6月末日に行われていたのですが、明治時代に入ってから太陽暦への変更に伴って5月12・13日になりました。その後、1967(昭和42)年より祝日に合わせて5月4・5日の開催に変更されて現在に至ります。




本住吉神社の宮本である西区のだんじり。



本住吉神社氏子・山田区のだんじり。



本住吉神社氏子・住之江区のだんじり。
宮入りの時には一番多くの人だかりが出来ていました。




本住吉神社氏子・吉田区のだんじり。前後の飾り幕を新調しました



本住吉神社氏子・茶屋区のだんじり。



本住吉神社氏子・空区のだんじり。住吉で作られた最古の地車だそうです。



呉田区のだんじり。宮入りの瞬間です。



 例大祭の神事が朝10時から行われた後、10時半すぎから本住吉神社より出発(宮出し)。1日中住吉地区を練り歩いた全7地区のだんじりは、18時30分から再び本住吉神社に戻ってきます(宮入り)。

 宮入りの順番は決まっていて、神社に近い地区から順番に宮入りをします。西区茶屋区吉田区空区山田区住之江区呉田区の順番です。




神戸・八坂神社。

2006年04月16日 | ■神戸市東灘区
災難厄除・福徳開運・産業発展

八坂神社

(やさかじんじゃ)
神戸市東灘区青木5-1



国道43号線沿いにある八坂神社。


〔御祭神〕
素盞鳴尊
(すさのおのみこと)



 本庄地域には、東から深江・大日霊女神社、青木・八坂神社、西青木・春日神社の3つの神社があります。このうち、先日紹介した西青木の春日神社本庄でなく、西隣の山路庄に属するもので、総氏神は本住吉神社になっています。

 「青木」と書いて「おおぎ」と読みます。本庄の総氏神・保久良神社のご神体といわれる椎根津彦(しいねつひこのみこと)が青いウミガメの背中に乗ってこの地から上陸したため、このあたりは「青亀(あうぎ)」と名付けられ、それが後に訛って「青木(おおぎ)」と変化したという伝承が残っています。実際、昔は八坂神社が鎮座している国道43号線の辺りまで海岸線が入ってきており、昭和の中頃まではウミガメが上陸していた記録が残っています。この「ウミガメ」が、神武東征時に青いカメに乗って水先案内を務めたという神・椎根津彦と本庄地域を結びつけるキーワードになったとも考えられます。




もともと春日造だった本殿は、1913(大正2)年に神明造の建物になりました。



 八坂神社は、青木村の米屋利兵衛の所有していた椎根津彦の上陸伝承ゆかりの地を買収して1840(天保11)年1月13日に神明宮素盞鳴命松尾大明神のご神体を勧請して建てられました。ちなみに、青木の総氏神はこの八坂神社ではなく、保久良神社森稲荷神社でした。
 このエリアは、かつて灘五郷に属し酒造業が盛んだったため、毎年3月3日の仕込みの前に酒造の神さま・松尾大明神をお祀りする祭典が行われていたそうです。しかし、水質の悪化などの理由で徐々に衰退。酒造業の衰退に伴って松尾大明神も姿を消しました。




東末社の祭神・恵比須神は、浜手にあった戎神社を合祀したものです。



 現在は、本殿に素盞鳴命神明宮(天照大御神)が祀られています。そして、東末社には大物主命恵比須神が、西末社に住吉大神八幡大神保食神事代主命天満宮(菅原道真公)・武内宿禰猿田彦命金毘羅神が祀られています。




境内の南西の角には「旧本庄村里程石標」があります。小さい石なので見落としそう。



アクセス
・阪神電車「青木駅」下車、南東へ徒歩5分
 八坂神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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神戸・春日神社(青木)。

2006年03月24日 | ■神戸市東灘区
地域守護・開運厄除け

春日神社

(かすがじんじゃ)
神戸市東灘区北青木4-20-1



1997(平成9)年に再建された鳥居。


〔ご祭神〕
天児屋根命
(あめのこやねのみこと)

藤原氏の氏神として信仰されています。




 岡本梅林公園の奥の八幡谷からJR摂津本山駅の西を抜け、魚崎浜へと流れる天井川。その流れのすぐ脇に、旧西青木村の氏神である春日神社が鎮座しています。春日神社は、本住吉神社が創建された際に西青木が供米の地に定められたのを機に建てられた神社といわれ、現在も本住吉神社が連絡先になっているように「住吉さん」との繋がりの深い神社です。







 青木と書いて「おおぎ」とよむ地名の由来は、神武東征時に青いカメに乗って水先案内を務めた神・椎根津彦命(しいねつひこのみこと) に関わりがあるのですが、それについては青木八坂神社を取り上げる時に詳しく書きたいと思います。というのも、青木の町は青木地区西青木地区に分かれていて、青木地区八坂神社西青木地区春日神社とそれぞれ氏神が違います。

 そして地名についても『西青木は本住吉神社創祀にあたり、日向の例をならい青亀村を置き、供米の地と定めた』という話があり、同じ「青木」という名前ですが、ただ単に青木の西だから「西青木」というのとはニュアンスが異なるんだ、という地域のプライドや対抗意識といったものが感じられます。実際、江戸時代には本住吉神社を総氏神とする山路庄(住吉・野寄・岡本・田中・魚崎・横屋地区)に属し、本庄に属する青木地区とは行政の面からも区分けされていました。




社殿の脇にある1938(昭和13)年に起きた阪神大水害の復興記念碑。
濁流に乗って流されてきた石を用いて作られているそうです。




 人のつながりは青木・深江、祭りは本住吉神社、といった感じだったのでしょうか。この神社にはダンジリもあるそうです。



アクセス
・阪神電車「青木駅」下車、北西へ徒歩10分
 春日神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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