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神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・地蔵院。

2009年07月15日 | ◇京都府 -洛西


衣笠山 地蔵院

(きぬがさざん じぞういん)
京都市西京区山田北の町23

通 称
竹の寺



衣笠山の山麓、閑静な住宅街の奥に静かに佇む地蔵院。


〔宗派〕
臨済宗

〔御本尊〕
地蔵菩薩像
(じぞうぼさつぞう)


 「苔寺」の呼び名で有名な西芳寺の周辺には、緑豊かな境内を持つ古刹が点在しています。そんな寺院のひとつ、西京の衣笠山麓にある古刹・地蔵院は、小鳥のさえずりや風に鳴る竹林の音に包まれ、町なかの喧騒から解き放たれて自然の息吹を感じることの出来る静かな別世界。新三十六歌仙にも選ばれた鎌倉時代前期の歌人・衣笠内大臣藤原家良卿もこの地を愛し、山荘を営んだといわれています。
 地蔵院は、後小松天皇の後落胤といわれ、TVアニメ「一休さん」のモデルになったことでも有名な反骨・風狂の禅僧・一休宗純が、6歳で京都・安国寺に入って仏門修行の道を歩むまでの幼少期を過ごした場所としても知られています。



 
竹林と苔庭に包まれた参道(左)と、その奥に建てられた本堂・地蔵堂(右)。


 地蔵院は、室町幕府の管領として第3代将軍・足利義満公の補佐役を務め、和歌にも才を発揮するなど文武両道に優れた名将・細川頼之公が1367(貞治6)年に創建した寺院です。名僧・夢窓疎石国師に帰依していた細川頼之公は、地蔵院の創建にあたってはその高弟の碧潭周皎(宗鏡禅師)を迎えましたが、宗鏡禅師は既に1351(観応2)年に入寂されていた恩師・夢窓疎石国師に開山の名誉を譲り、みずからは第2世となって伽藍の充実に尽力しました。

 創建以降、地蔵院は北朝の光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇の勅願寺に準じられて栄え、17万㎡(甲子園球場の約13倍)にも及ぶ広大な境内と25の末寺、そして全国各地に54もの寺領をもつ大禅刹として隆盛を極めましたが、京都全域を舞台に繰り広げられた応仁の乱の兵火に巻き込まれたために伽藍は灰燼に帰してしまいました。



 
本堂の手前に立つ細川頼之公の碑(左)と、本堂の左奥にある墓所(右)。
墓所には細川頼之公と宗鏡禅師が弔われています。


 その後の地蔵院は往時の面影を失い、江戸時代にはわずかに子院である竜済軒延慶軒を遺すのみという寂しい状態でしたが、細川家の支援などによって第14世住持の古霊和尚が再建を進め、1704(宝永元)年にようやく境内伽藍が整えられました。
 1935(昭和10)年に再建された本堂・地蔵堂には、伝教大師最澄の作といわれる延命安産の御本尊の地蔵菩薩像を中心に、左に細川頼之公、右に夢窓国師宗鏡禅師の木像が安置されており、1686(貞享3)年に建てられた方丈の前には細川頼之公がこよなく愛したといわれる「十六羅漢の庭」が広がっています。宗鏡禅師が作庭したという説もありますが、実際に誰がいつ作ったのかは分かっていません。しかしながら、植栽に溢れ、散りばめられて屹立する石組み見事な庭に相対していると、思わず時の経つのを忘れ、自らも羅漢とともに悟りを求めて瞑想する思いに引き込まれてしまいます。



 
本堂の右手に立つ開福稲荷大明神(左)と、庭園へと続く参道(右)。



植栽に包まれた「十六羅漢の庭」。3月には美しい椿を愉しむことが出来ます。


アクセス
・阪急電車嵐山線「上桂駅」下車、西へ徒歩12分
地蔵院地図  【境内図】 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:400円、小人:200円

拝観時間
・9時~17時







京都・松尾大社。

2009年06月11日 | ◇京都府 -洛西
諸産業振興・酒業繁栄・健康長寿

松尾大社

(まつおたいしゃ)
京都市西京区嵐山宮町3





〔御祭神〕
大山咋神
(おおやまくいのかみ)
中津島姫命
(なかつひめのみこと)


 阪急電車京都線に揺られながら、桂駅で嵐山線に乗り換えて2駅目の松尾駅に差し掛かると、大きな鳥居が車窓の向こうに見えてきます。ここが、延喜式名神大社としてのちに二十二社のひとつにも選ばれた古社・松尾大社です。松尾山の緑に包まれ、荘厳な雰囲気の松尾大社は「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称され、皇城鎮護の神として朝廷より厚く崇敬されました。




 
大鳥居から境内へと続く参道(左)と、脇勧請と呼ばれる榊の小枝を下げた注連縄が
張られた朱鳥居(右)。脇勧請は平年は12本、閏年には13本下げられています。


 松尾大社の歴史は古く、5世紀頃に朝鮮半島の百済(近年の研究では新羅という説が有力)から渡来し、山城国一帯で勢力を伸ばしていた秦氏は、桂川に大堰を完成させるなど大規模な開発を進めて財力を蓄えていった頃には既に松尾山の神である大山咋神を一族の総氏神として祀っていたようで、松尾山の山頂近くにある磐座がその原点の地だといわれています。

 その後、701(大宝元)年に文武天皇の勅命を受けた秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在の場所に社殿を造営。松尾山頂の磐座で祀っていた大山咋神を遷座して、娘である知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させました。それ以来、明治時代に神職の世襲が禁止されるまで、代々その子孫が松尾大社の神職を務めていました。




 
江戸時代初期に建てられたといわれる楼門(左)と拝殿(右)



 桓武天皇が平安京を築いた際には賀茂社と共に松尾大社を「皇城鎮護の神」として厚く崇敬し、730(天平2)年には朝廷より「大社」の称号を贈られました。承和年間(834-847年)には仁明天皇より従三位の神階に叙せられ、852(仁寿2)年には正二位、859(貞観元)年には正一位が贈られるなど神階が進められ、醍醐天皇の治世の927(延長5)年に編纂された延喜式では、特に霊験が著しいとされる名神大社に列せられました。

 さらに1039(長暦3)年には後朱雀天皇によって制定された二十二社の制(重大な国難の際、朝廷より勅使が遣わされて国家安泰の祈願の奉幣が立てる神社を定めたもの)の第4位に列せられるなど高い格式を与えられ、それに伴って多くの荘園を授与された松尾大社は大いに栄えていきました。




 
「松尾造」と呼ばれる社殿は1397(応永4)年に建立され、1542(天文11)年には
大修理が施されました(左)。「酒造の神様」らしく、各地の酒樽が並んでいます(右)。


 その後、武家の世となった鎌倉時代に入っても源頼朝公が参拝して黄金100両、神馬10頭を献上するなど時の権力による庇護は続き、室町幕府第8代将軍・足利義政公や豊臣秀吉公からも神馬が贈られています。

 江戸時代に入っても1333石の社領が朱印状によって保障され、嵐山一帯の山林も社有するなど手厚い保護が続き、明治維新ののちの1871(明治4)年には日本にある全ての神社の中でも第4位に社格を認められて「松尾神社」の名で官幣大社に列せられました。戦後の1950(昭和25)年には「松尾大社」と改称されて現在に至ります。




 
重森美玲氏によって作庭された名園「松風苑」は、3つの庭で構成されています。
雅な雰囲気を湛える「曲水の庭」(左)と磐座をイメージした「上古の庭」(右)。


 松尾大社は「日本第一酒造神」とされ、「酒造の神」としても崇敬を集めています。もともとは酒造とは関係がありませんでしたが、秦氏の氏寺である広隆寺の境内に祀られていた大酒神社の酒造の神が合祀されて「酒造の神」としての神格も備えられていったと考えられます。また、秦氏はこの一帯を大規模に開拓して農業を進め、そこから収穫される農作物をもとに酒造も盛んに行われたことから、農業の神である大山咋神が同時に酒造の神として信仰されるようになったといわれています。松尾大社の境内に湧く「亀の井」は延命長寿の水と言われ、ここから湧く水を混ぜると酒が腐らないと言われたことから、酒造家が「酒の元水」として醸造の際にはこぞって用いたそうです。



 
「上古の庭」の中にある枯山水(左)と、豊かな水を湛える「蓬莱の庭」(右)。


アクセス
・阪急電車嵐山線「松尾駅」下車、西へ徒歩4分
松尾大社地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料 (※庭園「松風苑」拝観料=大人:500円、学生:400円、小人:300円)

拝観時間
・9時~16時 (日曜日・祝日は9時~16時30分)

公式サイト


松尾大社

学生社

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京都・龍安寺。

2009年01月13日 | ◇京都府 -洛西


大雲山 龍安寺

(だいうんざん りょうあんじ)
京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13






龍安寺の総門。「きぬかけの道」を挟んだ南側の住宅街の中にあります。


〔宗派〕
臨済宗妙心寺派

〔御本尊〕
釈迦如来像
(しゃかにょらいぞう)



 清水寺金閣寺など、京都には、観光客が一度は訪れてみたいと願う憧れの史跡が数多くあります。そのような史跡の一つに、「石庭」で有名な龍安寺があります。石庭は、東西25m・南北10mほどの空間に白砂を敷き詰めて大小15個の石を並べただけの、飾り気のない非常にシンプルな庭です。しかし、その単純さゆえに底知れぬ奥の深さが感じられるこの庭に魅せられる人々は引きもきらず、洋の東西を問わず大変多くの人々が龍安寺を訪れ、方丈から眺めるこの景色に心を奪われていきます。




 
山門(左)と参道(右)。菱形に組まれた竹垣は「龍安寺垣」と呼ばれています。



 京都の北にゆったりとした姿を見せて佇む衣笠山。真夏に雪見がしたいと欲した宇多天皇のために白絹をかけて白く染めたという故事から、「きぬかけ山」という別名でも呼ばれている標高201mのこの山の麓には、金閣寺仁和寺などの古刹が軒を連ねています。その一角、983(永観元)年に円融天皇円融寺を築き、平安末期にその寺跡に藤原北家の血を引く貴族・藤原(徳大寺)実能卿が山荘・徳大寺を築いたこの地に、室町幕府の要職「管領」の地位にあった守護大名・細川勝元公が建立した禅刹が龍安寺です。

 1450(宝徳2)年に創建された龍安寺は、細川勝元公が深く帰依していた妙心寺第5世住持・義天玄承禅師を開山に迎えて開かれました。義天玄承禅師は寺域の整備に尽力した実質的な開山でしたが、開山の名誉を師である日峰宗舜に譲って勧請開山とし、自らは第2世住持となりました。残念ながらこの時創建された伽藍は、創建した張本人である細川勝元公が山名宗全公と激しく対立して引き起こした応仁の乱の兵火によって1467(応仁元)年に全焼、翌年には洛中に移転されてしまいました。 




 
世界的に有名な石庭。作庭者や創建時期など数多くの謎に包まれています。



 その後龍安寺は、1488(長享2)年に細川勝元公の息子である細川政元公の支援を受けた特芳禅傑禅師を中興開山に現在の地に再興され、細川家の菩提寺として伽藍の整備が行われました。最盛期には21もの塔頭が軒を連ねる大寺院に発展した龍安寺には1588(天正16)年に豊臣秀吉公も訪れ、美しい糸桜を愛でたといわれています。寺領の寄付を受けるなど、時の為政者から庇護を受けて寺勢を保っていた龍安寺ですが、1797(寛政9)年にはまたも火災によって方丈や開山堂、仏殿など主要な建物を失う大ダメージを受けました。火災後、1606(慶長11)年に建てられていた塔頭・西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、庫裏も同じ頃に再建されるなど復興が進められました。




 
方丈北側の庭園(左)と水戸光圀公が寄進した「知足の蹲」の複製(右)。



 1954(昭和29)年に国の特別名勝に指定された石庭方丈庭園については、室町時代に相阿弥が作庭したという説が伝えられていますが、中興開山である特芳禅傑を中心とした禅僧の手による作庭だという説もあり、さらには1780(安永9)年に出された「都名所図会」には現在の姿とは異なる庭園(←リンク先:国際日本文化研究センター)が描かれているなど、いつ誰が何を意図して作ったものなのか、はっきりした事は分かっておらず、多くの謎に包まれています。「虎の子渡しの庭」とも呼ばれるこの庭には、方丈から向かって左から5石・2石・3石・2石・3石の5つの群に組まれた大小15個の石が並べられています。「15」は満月の「十五夜」に通じ、完全を表す数字とも言われていますが、「万事、完全な姿となったときが崩壊の始まり」という思想があることから、どの角度から見ても1つは隠れて見えない石が出来るというこの石庭の組み方は、わざと不完全な姿を表現しようとする意図があるとも言われています。




 
湯豆腐を愉しめる西源院(左)と、徳大寺家の山荘の頃に造られた鏡容池(右)。


アクセス
・京福電鉄北野線「龍安寺駅」下車、北へ徒歩7分
・京都市バス59系統「龍安寺前」バス停下車すぐ
龍安寺地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人500円 小・中学生300円

拝観時間
・3月1日~11月30日:8時~17時
・12月1日~2月末日:8時30分~16時30分
※平成21年1月5日~2月1日までは、老朽化した方丈の修理のために一般の拝観が中止されています。
また、拝観が再開されたのちも引き続き1年ほど屋根の修理が続けられる予定ですので、参拝を予定されている方はご注意ください。


公式サイト
  大雲山龍安寺公式サイト








京都・天龍寺。

2007年11月05日 | ◇京都府 -洛西

霊亀山天龍資聖禅寺

(れいきざん てんりゅうしせいぜんじ)
京都市右京区嵯峨天竜寺茫ノ馬場町68







〔宗派〕
臨済宗天龍寺派大本山

〔御本尊〕
釈迦如来尊像
(しゃかにょらいそんぞう)



 紅葉に包まれた錦秋の嵐山の美しさは、筆舌に尽くしがたいものがあります。古来より、桜や紅葉に包まれた景色の美しさから、嵐山・小倉山周辺は皇族・貴族や僧侶・歌人など、多くの雅な人々に愛されてきました。

 鎌倉時代、嵯峨野の地を愛した亀山上皇が、大堰川にかかる橋の上を移動していく月を見て「くまなき月の渡るに似る」と例えられたことから名付けられた渡月橋のすぐ北には、室町時代の名僧で作庭家としても最高の評価を得ている夢窓疎石国師の手による名庭を持つ天龍寺が、私たちを枯淡の美の世界へいざなってくれます。




庫裏の前に立つ力強い石組み。



 もともとこの地には、嵯峨天皇の皇后で「檀林皇后」と称された橘嘉智子が9世紀中期に建立した檀林寺(現在の檀林寺とは無関係)がありました。檀林寺は平安中期には廃絶してしまいますが、その跡地には13世紀中期に後嵯峨上皇の仙洞御所、すなわち退位した天皇の御所である亀山殿が営まれました。形が亀の甲に似ていることから「亀山」と呼ばれた小倉山の麓に築かれた亀山殿は、後嵯峨天皇の息子・亀山上皇にも仙洞御所として愛され、後に建武の新政を行った後醍醐天皇も幼少期をここで過ごしたとされています。




曹源池の奥に見えるのは書院です。



 鎌倉幕府の倒幕の際には「勲功第一」とされ、後醍醐天皇から諱の「尊治」の一字を賜って「高氏」から「尊氏」へと改名するなど讃えられた足利尊氏公ですが、天皇中心の政治への復古を目指し「建武の新政」を展開する新政権と対立。新政に対して不満を募らせていた武士層の支持を受けた足利尊氏公は、持明院統光厳上皇の院宣を得て朝廷軍を破り、1336(建武3)年に建武式目を制定して室町幕府を開きます。

 その後、後醍醐天皇は奈良の吉野山に脱出して南朝を成立させますが、1339(暦応2)年に無念のうちに崩御し、その波乱の生涯を閉じました。この報を受けた足利尊氏公は、師として慕う夢窓疎石国師の進言を容れ、後醍醐天皇の菩提を弔うために亀山殿のあった地に寺院を開きます。亀山にちなんで「霊亀山」の山号を冠し、暦応資聖禅寺と名付けられたこの寺院は、1341(暦応4)年には弟・足利直義公の夢に現れた金龍にちなんで「天龍資聖禅寺」と名を改められました。一説には、元号を冠する寺院は延暦寺以外は許されない、という比叡山の僧侶らによる強訴が一因ともいわれています。

 「天龍寺船」による日元貿易を行って伽藍建立の資金を調達し、1342(康永2)年にはほぼ整備が整い、京都五山の第一位という高い格式を誇った天龍寺ですが、1356(延文元)年の焼失を皮切りに、幕末の1864(元治元)年に起きた禁門の変にいたるまで、8度も火災や兵火に襲われる受難の歴史を辿ってきました。そのため、現在ある堂宇のほとんどが明治時代に入ってから再建されたものとなっています。




曹源池の龍門瀑。中国・黄河の故事を力強い石組みで表現しています。



 足利尊氏公をはじめ、朝野を問わず数多くの人々から慕われ尊敬された夢窓疎石国師は「山水に得失なし、得失は人の心にあり」とし、作庭を通じて人々を禅の悟りに導こうとされました。「苔寺」の愛称で知られる西芳寺や鎌倉の瑞泉寺の庭園も夢窓疎石国師の手によるものといわれています。

 黄河の急流の3段の滝を登りきった鯉が龍となって天に登るという、中国の故事「登龍門」に基づいて組まれた龍門瀑と呼ばれる石組みや蓬莱思想に基づいた鶴島・亀島、滔々と清水を湛える曹源池など、創建当初の姿を偲ばせる天龍寺庭園は、1955(昭和30)年に我が国初の史跡特別名勝に指定され、1994(平成6)年12月にはユネスコの世界文化遺産に選ばれています。




大方丈と曹源池。中ほどで左から右に突き出しているのが出島です。



アクセス
・阪急電車「嵐山駅」下車、徒歩15分
・京福電車「嵐山駅」下車、徒歩3分
・JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」下車、徒歩10分
 天龍寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・庭園拝観料:高校生以上500円(本堂・庭園拝観料600円)

拝観時間
・8時30分~17時30分(11月~3月は17時まで)

公式サイト
  臨在禅・黄檗禅公式サイト 天龍寺








京都・滝口寺。

2007年08月16日 | ◇京都府 -洛西

小倉山滝口寺

(おぐらやま たきぐちでら)
京都市右京区嵯峨亀山町10-4




祇王寺の前をさらに奥に行くと、滝口寺の山門にたどり着きます。


〔宗派〕
浄土宗

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)



 平清盛公の愛情に翻弄された女性・祇王の隠棲の地・祇王寺。そのすぐ隣には、これもまた平家物語の一節「維盛高野」の巻で語られる滝口入道と女官・横笛の悲恋の物語の舞台である滝口寺があります。滝口寺は、祇王寺と同じく念仏房良鎮上人が開いた往生院の境内にあった寺院で、もともとは往生院三宝寺と呼ばれていました。





木漏れ日に包まれた参道。



 平安時代中期以降、天皇の日常生活の場として使用された清涼殿。その東北の守りを固めていた滝口の武士の中に、斉藤時頼公という若者がいました。平重盛公の家来として重用されていた斉藤時頼公は、平清盛公の屋敷である西八条殿で行われた花見の宴の席で、華麗に舞う一人の女官の姿に心を奪われます。その女官は、平清盛公の次女・建礼門院に仕える横笛という名の女性でした。たちまち恋に落ちた斉藤時頼公は横笛に恋文を送って気持ちを伝え、横笛もこの気持ちに応えますが、これを聞いた父親は身分違いの恋に猛反対。斉藤時頼公も、自分を重用してくれている平重盛公の信頼に応えきれずに恋に迷う自分に悩み、己の未熟さを責めて仏門での修行を志します。





参道を登りきったところにある本堂。



 斉藤時頼公の出家を耳にした横笛は自責の念にかられるとともに、自分を置いて仏門に入ったことへの憤りなど、胸に渦巻く様々な想いを伝えたいとの一念から消息を必死に探しまわります。やっとのことで嵯峨野の往生院に入って滝口入道と名乗り修行に励んでいるらしいという話を知った横笛は、矢も楯もたまらず嵯峨野へと駆けつけます。都から嵯峨野への長い道のりに疲れきった姿でようやく往生院へと辿り着いた横笛は、読経が流れる僧坊へと近付き「滝口入道を訪ねてやって来た」と声を掛けます。その憔悴しきった姿を襖の間から垣間見た滝口入道の心は大いにかき乱されますが、何とか横笛への想いを抑え、仏門修行への意思を新たにして他の僧侶に自分の不在を伝えさせます。先ほどの読経の声は確かに滝口入道の声と、未練を残しつつ涙ながらにその場を去りながら、せめて心だけでも伝えたいと、横笛は指先を切った血で路傍の石に歌を書き残して山を下っていきました。


山深み 思い入りぬる 芝の戸の まことの道に 我れを導け


 滝口入道は、未練ある女性に居所を知られたからには嵯峨野にはいられないと高野山に移ります。横笛も山を下った後に法華寺に入って尼僧となって仏の道に仕えたといいます。2人の間には歌のやり取りもあったそうですが、横笛はまもなく法華寺で儚い生涯を閉じ、それを伝え聞いた滝口入道は益々修行に打ち込んで高僧になったそうです。





生前は叶えられませんでしたが、滝口入道と横笛の座像が仲良く並んでいます。



 明治時代になって廃寺となった往生院三宝寺祇王寺に続いて再建され、文豪・高山樗牛の書いた名作「滝口入道」の舞台となったことから、歌人で国文学者の佐佐木信綱博士によって「滝口寺」と名付けられました。





新田義貞公の首塚。山門をくぐって左手にあります。



 また、滝口寺には鎌倉時代末期に活躍した悲運の名将・新田義貞公の首塚があることでも知られています。鎌倉幕府を瓦解に追い込んだ新田義貞公は建武の新政下で足利尊氏公と対立、一時は足利軍を九州まで敗走させるなど攻勢に出ますが、勢いを盛り返して東上する足利軍と戦った湊川の戦で敗走。北陸の地で再起を図りますが、越前で討たれ悲運の最期を遂げます。京都の三条河原で晒されていた新田義貞公の首は、妻・勾当内侍によって密かに持ち去られ、嵯峨野の往生院のあったこの地に埋葬されました。勾当内侍は首塚の近くに庵を結び、出家して生涯ここで夫の菩提を弔って暮したといわれています。





供養塔。新田義貞公の首塚に寄り添うように建てられています。


アクセス
・JR「嵯峨嵐山駅」下車、東へ徒歩28分
・嵐電「嵐山駅」下車、北東へ徒歩23分
・トロッコ「嵐山駅」下車、北へ徒歩13分
 滝口寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:300円

拝観時間
・9時~17時(受付16時30分)




京都・祇王寺。

2007年08月03日 | ◇京都府 -洛西

往生院祇王寺

(おうじょういん ぎおうじ)
京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32







〔宗派〕
真言宗大覚寺派

〔御本尊〕
大日如来像
(だいにちにょらいぞう)


 小倉山の山沿いに、名刹を訪ねながら北へと足を伸ばしていくと、二尊院のさらに奥に平家物語ゆかりの諸行無常の庵の跡が今に伝えられています。時の権力者・平清盛公の愛に翻弄された姉妹が選んだ隠棲の地は、鬱蒼と茂る木々の中にも清々しい陽射しに竹林と苔の緑が映える、趣深い山中にありました。尼僧となった姉妹が朝な夕な、仏の前で世の無常に救いを求め続けた庵の名は、平清盛公の寵愛を受けた姉の名にちなみ、祇王寺と呼ばれています。 祇王寺が建つ場所には、かつては法然上人の弟子・念仏坊良鎮が創建した往生院の境内が広がっていました。往生院は平安時代の末に建立され、最盛期には山頂から麓までの広大な寺域を誇る寺院でしたが、時代が下るにつれて次第に荒廃の途を辿っていきました。





苔庭から仏殿を望む



 平安時代末期の1156(保元元)年に起きた保元の乱後白河天皇の信頼を獲得し、つづく1159(平治元)年の平治の乱源義朝公や藤原信頼卿らの対抗勢力を退けて政治の実権を握った平家の棟梁・平清盛公。その平清盛公の寵愛を一身に受けたのが、「白拍子」と呼ばれる舞の達人であった祇王でした。祇王は近江国野洲江辺庄の庄司だった父・江部九郎時久と母・刀自との間に生まれました。しかし、父親が罪を犯して加賀国へ配流されたため、母・刀自と妹・祇女とともに京都に移り住みます。祇王の人並みはずれた美貌と華麗な白拍子の舞は、たちまち都の耳目を集めることとなり、その評判を聞きつけた平清盛公によって宴席に招かれた祇王は、平清盛公の寵愛を受け、毎月米百石と銀百貫を扶持されて優雅に暮らすこととなります。もちろん母・刀自と妹・祇女も丁重な待遇を受け、白拍子たちの羨望の的となりました。





手入れの行き届いた見事な苔庭。



 しかしながら、それから3年ののち、祇王たちの運命を大きく変える人物が現れます。その人物の名は仏御前。当時の都で№1との評判を受けていた16歳の美しい白拍子でした。はじめは門前払いをした平清盛公でしたが、それはあまりにも可哀想では、と祇王がとりなした事が皮肉にも祇王の運命を変えることになります。仏御前の舞を見た平清盛公は一瞬でその美しさの虜となってしまい、それによって寵愛を失った祇王はたちまち屋敷を追われることとなりました。世は無常、「いつかは寵愛を失い追われる身に」との思いは抱いていた祇王も、まさかこれほど早くその時期が来るとはと失意のままに屋敷の障子に一首の歌を書き残し、母や妹と共に屋敷を去ります。


萌えいづるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋にあわではつべき





竹林の脇を抜けて庵へと向かいます。



 失意のうちに暮らす祇王に追い討ちをかけるように、翌年の春には平清盛公から仏御前の退屈を慰めるために屋敷で舞を踊るようにという使者が訪れます。やむなく屋敷に赴いて気丈に舞う様は満座の涙を誘ったといいます。都の内にいれば再びこのような辛い目に遭うと悩みぬいた祇王は、嵯峨野の地に移って仏門に入り、かつて往生院があった山里に庵を結んで母・刀自、妹・祇女とともに念仏を唱えて浄土を思う日々を過ごすことになりました。

 数年たったある夜、この庵を思いもかけない人物が訪ねてきます。その人物とは、祇王にかわって平清盛公の寵愛を受けていた仏御前でした。悲しみにあふれた書き置きの和歌に心を打たれていた仏御前もまた世の無常を深く感じており、剃髪してともに浄土を望みたいと祇王寺を目指してきたのです。それからのち、4人の尼僧はともに念仏を唱えて仏門に励み、やがて往生の本懐を遂げていったということです。





庵のそばにある蹲。苔庭の中にアクセントをつけています。



 当時の祇王寺は明治時代には廃寺となり、ここにあった墓や仏像・寺宝などはこの地を領有していた大覚寺に移されました。平家物語にも記されている伝説の名刹を惜しんだ大覚寺門跡・楠玉諦師や文人画家の富岡鉄斎氏などが中心となって祇王寺の再建をはかり、その話を聞きつけた元京都府知事の北垣国道氏が所有していた別荘の建物を寄贈したことで1895(明治28)年に再建が実現しました。





吉野窓。影が虹の色に映る事があるため「虹の窓」とも言われます。


アクセス
・JR「嵯峨嵐山駅」下車、東へ徒歩28分
・嵐電「嵐山駅」下車、北東へ徒歩23分
・トロッコ「嵐山駅」下車、北へ徒歩13分
 祇王寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:300円 小学生以下:100円

拝観時間
・9時~17時(受付16時30分)




京都・二尊院。

2007年07月15日 | ◇京都府 -洛西

小倉山二尊教院華台寺

(おぐらやま にそんきょういんけだいじ)
京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27

法然上人二十五霊場・第17番札所



豪商・角倉了以が伏見城の薬医門を移設したといわれる総門。


〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
釈迦如来像
(しゃかにょらいぞう)
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)



 小倉山の山裾には、徒歩で散策するにはちょうど良い間隔で名刹や史跡が軒を連ねています。常寂光寺落柿舎を堪能したあと、わずか5分ほど北に歩みを進めるだけで、立派な総門を持つ大きな寺院へとたどり着きます。この寺院が、平安初期に建立されて1200年近くの長い歴史を誇る天台宗の古刹・二尊院です。




紅葉の馬場。夏はまぶしい青、秋は鮮やかな赤で埋められます。



 二尊院は正式名称を小倉山二尊教院華台寺といい、平安時代初期の承和年間(834~848年)に嵯峨天皇の勅願によって、慈覚大師・円仁が開祖となって建立されました。円仁伝行大師・最澄の弟子で、唐に渡って仏教を学んだ最澄空海常暁円行恵運円珍宗叡とともに「入唐八家」と並び称された高僧で、のちに比叡山延暦寺の第3代座主も務めました。

 その円仁が悪天候などで何度も失敗を重ねたのち、ようやく最後の遣唐使の一員として唐に渡ることが出来たのは838(承和5)年のこと。そして帰国を果たしたのが847(承和14)年の秋。嵯峨天皇は842(承和9)年に崩御されているので、二尊院は承和年間の初期に創建されたのではないかと思われます。





「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」が安置されている本堂。



 「二尊院」という名はこの寺院の本尊に由来します。人が生まれて人生を始める際に送り出してくださるという釈迦如来尊像と、寿命を全うして浄土へ旅立つ際に迎えてくださる阿弥陀如来尊像、いわゆる「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の2体の如来尊像が安置されていることからその名が付けられました。




書院と納経所の間に広がる枯山水。



 慈覚大師・円仁が開基した二尊院も一時期荒廃してしまいますが、鎌倉時代の初期にこの地に法然上人が庵を結び、その弟子である湛空上人らによって二尊院の再興が行われたといいます。これには異説もあり、九条家の支援を受けた法然上人が再興の指揮をとったという説もあります。法然上人の入寂後、その遺骨を収めた雁塔が建てられ、二尊院天台宗真言宗律宗浄土宗の四宗兼学の道場となったといわれています。




「しあわせの鐘」。誰もが撞くことが出来ます。



 その後、15世紀のなかばに起きた応仁の乱の兵火に巻き込まれて諸堂が全焼の憂き目に遭いますが、焼失から約30年後の永正年間(1504~1521年)に長門国の僧・広明恵教が、三条西実隆三条西公条父子の援助を得て、本堂や唐門などを復興したと伝えられています。本堂にある「二尊院」の後奈良天皇の勅額や唐門の「小倉山」の後柏原天皇の勅額はこの時に下賜されたものだそうです。




廟所へ向けての急な石段。



 本堂脇の急な石段を登っていくと、両脇に公家や著名人の墓所が並んでいます。二条家三条家四条家三条西家鷹司家などの公家たちの菩提所でもあり、さらには戦国時代の豪商・角倉了以の墓所や俳優の阪東妻三郎など有名人の墓が多数並んでいます。「阪妻」の長男にあたり、先だって亡くなられた田村高廣さんの墓所も二尊院にあります。




石段を登りきったところにある湛空上人廟



藤原定家卿が「百人一首」を撰定した場所といわれる「時雨亭」の跡。



アクセス
・JR「嵯峨嵐山駅」下車、東へ徒歩25分
・嵐電「嵐山駅」下車、北東へ徒歩20分
・トロッコ「嵐山駅」下車、北へ徒歩10分
 二尊院地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・500円

拝観時間
・9時~16時30分




京都・落柿舎。

2007年06月28日 | ◇京都府 -洛西


落柿舎

(らくししゃ)
京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20



落柿舎の前には水田が広がります。


蕉門十哲・向井去来宅



 京都・嵐山の小倉山が醸し出す四季折々の風景は歌人を誘うのでしょうか。「奥のほそ道」で有名な江戸時代の俳人・松尾芭蕉の門人で「蕉門十哲」のひとりとして名高い向井去来が閑居した落柿舎も、常寂光寺二尊院などが立ち並ぶ小倉山の麓に軒を連ねています。






 向井去来は1651(慶安4)年、肥前国(今の長崎県)で儒医を営む父・向井玄升の二男として生まれました。本名を向井平次郎といい、1658(万治元)年に父とともに一家で京都へ上って聖護院に居を構えます。向井去来も父の道を継ぐべく医学や天文を学ぶことになりますが、五条坂の遊女・可南との出会いがその将来を大きく変えることとなります。




向井去来が在宅のときは、庵の壁に蓑と笠が掛けられていました。



 可南と所帯を持ってからの向井去来は、深く俳諧の道に傾注していくようになります。そして嵯峨野の美しい景色に惹かれた向井去来は、庵を結んで俳諧に打ち込んでいきます。この庵が落柿舎で、1685(貞享2)年に建てられたといわれています。

 「落柿舎」という名前は、ある商人との間で庭にあった40本もの柿の木の実を売る契約をして代金を受け取ったものの、その夜に都を襲った台風のために全てが落ちてしまったというエピソードから1689(元禄2)年頃に付けられたそうです。ちなみに向井去来はこの代金をすべて返却し、商人をたいへん感激させたそうです。




本庵の奥にある次庵。この脇にも柿が植えられています。



 落柿舎には師匠である松尾芭蕉もたびたび訪れ、1691(元禄4)年4月にはここで「嵯峨日記」を著したといわれています。向井去来が師匠・松尾芭蕉と出会ったのは「嵯峨日記」から遡ること7年前の1684(貞亨元)年のこと。上方へと向かう野ざらし紀行の道中、蕉門十哲の一の弟子である宝井其角の紹介で交流が始まったといわれています。




松尾芭蕉歌碑。「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」



 向井去来の過ごした落柿舎は今とは違う場所にあったそうですが、1770(明和7)年にはすでに廃されていたようです。現在の落柿舎は、1895(明治28)年に京都の俳人・井上重厚によって再建されたもので、売却されようとしていた弘源寺旧捨庵を買い受けて落柿舎として再建したものです。今でこそ40本もの柿の木が植えられるスペースはありませんが、もともとの落柿舎にはそれだけの広さがあったと考えられています。




落柿舎の北の弘源寺墓苑にある向井去来の墓。



アクセス
・JR「嵯峨嵐山駅」下車、東へ徒歩20分
・嵐電「嵐山駅」下車、北東へ徒歩15分
・トロッコ「嵐山駅」下車、北へ徒歩5分
 落柿舎地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・200円

拝観時間
・9時~17時




蕉門の人々―俳諧随筆 (岩波文庫 緑 106-2)
柴田 宵曲
岩波書店

京都・大井神社(嵐山)。

2007年06月21日 | ◇京都府 -洛西
商売繁盛・厄除け

大井神社

(おおいじんじゃ)
京都市右京区嵯峨天龍寺造路町




渡月橋のすぐ傍、レンタサイクル店と土産物屋の間にある鳥居。よく見ないと見落としてしまいそう。



〔御祭神〕
宇賀霊神
(うかのみたまのかみ)



 阪急嵐山駅を下車して歩を進め、小倉山などの美しい風景を愉しみながら渡月橋を渡ると、土産物屋や食事処が集まる賑やかな場所に至ります。観光客であふれる賑やかなその一角に、桂川の守護神として崇敬を集める大井神社が鎮座しています。桂川は、法律上の名称は全流域を通じ「桂川」となっています。しかし、京北の地では上桂川という呼称で呼ばれ、園部町周辺では桂川となり、亀岡市内では大堰川と名を変えます。そして亀岡から嵐山まで保津川、嵐山から南では再び桂川となって木津川宇治川と合流して淀川へと流れていきます。





鳥居から本殿への参道には雑然と自転車が置かれています(左)。その奥にある社殿(右)。



 平安京が出来る以前からこの地に勢力を伸ばしていた渡来氏族である秦氏は、8世紀の初頭には葛野川(桂川)に大堰を設ける大土木工事を完遂し、そこで得た水利をもとに嵯峨野一帯を肥沃な土地に変え、財を成して豪族へと成長していったといわれます。その大堰を完成させた際、堰の守護神として桂川のほとりに祠を祀ったのが大井神社といわれています。

 大井神社は、延喜式内社の山城国乙訓郡19座の中の大井神社がそのルーツだといわれており、876(貞観18)年に従五位下の位を授けられたと「日本三代実録」に記述がある山代大堰神がその前身にあたるといわれています。しかしながら、現在大井神社が鎮座している場所は旧葛野郡にあたるため、式内社の大井神社との繋がりは薄いと考えられています。御祭神は宇賀霊神ですが、当初は大綾津日神大直日神神直日神を祀っていたといわれ、松尾大社の末社の一つ・堰神だったという説があります。1877(明治10)年3月26日には村社に列格されました。





社殿は「縁結び」で有名な野宮神社の旧社殿を移築したもの(右)。左は脇社。



アクセス
・阪急電車「嵐山駅」下車、北へ徒歩8分
・嵐電「嵐山駅」下車、南へ徒歩4分
大井神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

京都・常寂光寺。

2007年06月19日 | ◇京都府 -洛西

小倉山常寂光寺

(おぐらさん じょうじゃっこうじ)
京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3






〔宗派〕
日蓮宗

〔御本尊〕
十界大曼荼羅
(じっかいだいまんだら)


 野宮神社を包む美しい竹林を抜け、JRの踏切を渡ってしばらく歩くと、平安時代の歌人・藤原定家卿が百人一首を撰んだ地として有名な小倉山の山裾に多くの名刹が肩を寄せ合ってたたずんでいるエリアへと辿り着きます。小倉山の名を山号にした日蓮宗の名刹・常寂光寺は、この地で閑寂たる趣きを湛えながら私たちを出迎えてくれます。





本圀寺客殿の南門を移築したという仁王門。南北朝時代の建築物。



 常寂光寺は1596(文禄4)年に究竟院日上人が結んだ庵がその始まりといわれています。権大納言広橋国光卿の家に生まれ、幼くして日蓮宗の大本山である本圀寺(当時は本國寺)に入り、18歳の若さで本圀寺の法灯を継いだ日上人は学識に優れ歌の道にも造詣が深かったといわれ、そのもとには小早川秀秋公や加藤清正公などの武将や京都町衆など、多くの門徒が帰依していました。





小早川秀秋公の助力で桃山城客殿を移築したといわれる本堂。



 しかし1596(文禄4)年、天下人として権勢を誇っていた豊臣秀吉公より方広寺大仏殿の千僧供養への出仕を命じられたことで事件が起こります。日蓮宗には、法華経の信者以外からは施しを受けず、法華経以外の教えを広める僧侶には施しを行わないという不受不施義の教えがあり、他宗派の僧侶も集う千僧供養に出仕すべきでないという不受不施義派受不施義派とに分かれて対立が起こり、分裂してしまいます。

 不受不施義派に立った日上人は信念を貫いて本圀寺を去り、小倉山の地に庵を結んで隠棲します。美しい自然に包まれ、常寂光土の趣きをたたえていることから常寂光寺と名付けられました。平安時代に藤原定家卿が籠もって百人一首の選定を行ったといわれる時雨亭があったといわれるこの地を日上人に提供したのは、安土桃山時代に豪商として名を馳せた角倉了以とその従兄である角倉栄可でした。そして小早川秀秋公ら大名の寄進により、元和年間に堂塔伽藍が整備されました。





1620(元和2)年建立の多宝塔よりの展望。


 
 常寂光寺の寺域を提供した角倉了以は、保津川の水運を開削して丹波から京都、そして大阪へと通ずる流通ルートを整備したことでも知られています。急流のうえ巨石が多数転がって水運の難所であった保津川流域の整備の必要性を認識していた角倉了以は、1606(慶長11)年3月に流域の開削工事に着手。巨額を投じ、少なくない犠牲を払っての大土木工事は半年後の8月に見事完成しました。これによって豊富な木材や農作物を生み出す丹波地方と京都・大阪経済圏を結ぶ大動脈が整備され、関西経済の発展に大きな恩恵をもたらすこととなりました。この大工事が行われるにあたり、常寂光寺の日上人も本圀寺の檀家である瀬戸内水軍の来住一族に働きかけて熟練の水夫たちを派遣させ、角倉了以の大事業の支援を行ったといわれています。





藤原定家卿が百人一首を選定したといわれる時雨亭跡。



方丈の前に広がる庭園。初夏の緑が地泉に映えます。


アクセス
・阪急電車「嵐山駅」下車、北へ徒歩30分
・京福電鉄(嵐電)「嵐山駅」下車、北へ徒歩20分
 常寂光寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・400円

拝観時間
・9時~17時(受付は16時30分まで)




常寂光寺の四季―水野克比古写真集 (京・古社寺巡礼)
水野 克比古
東方出版

京都・野宮神社。

2007年06月17日 | ◇京都府 -洛西
良縁結婚・子宝安産・勝運・芸能上達・商売繁盛・交通安全

野宮神社

(ののみやじんじゃ)
京都市右京区嵯峨野宮町1







鬱蒼と茂る美しい竹林が「縁結びの神様」として有名な野宮神社へと導いてくれます。


〔御祭神〕
野宮大神
(ののみやたいしん)

 

 足利尊氏公が後醍醐天皇の菩提を弔うために嵐山の地に建立した天龍寺。その天龍寺から北へ少し歩いたところ、「古都芋本舗」や「よーじやカフェ」などの集まる一角から左の小道に入ると、左右に美しい竹林が広がります。この竹林を歩いていくと、「縁結び」の神さまとして人気の高い野宮神社に辿り着きます。





クヌギの木を皮を剥かずに使った「黒木の鳥居」は日本最古の様式です。



 「野宮(ののみや)」いうのは、天皇の代理として伊勢神宮天照大御神にお仕えする斎王が伊勢へ向かう前に身を清められたところです。野宮は嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられ、黒木の鳥居と小柴垣によって俗世と切り離された聖地として扱われていました。斎王は天皇の即位のたびに交代が行われ、皇族の未婚の姫君の中から卜占によって選ばれていました。とはいえ、母親の身分の低い者や帝の寵愛の薄い者が選ばれることが多く、非常に「俗っぽい」占いだったようです。彼氏をつくってもいけない、次の天皇の即位まで都に戻ってこれない、そんな斎王になった娘の大変さを考えると、卜占によって神に選ばれる名誉な役割というよりは、出来れば回避したい大変な役割だったようです。禊を行う野宮の場所は斉王が交代するたびに定められ、現在野宮神社が建っている場所が使われたのは嵯峨天皇の息女・仁子内親王斉王に選ばれたときが最初とされています。





朱塗りの鮮やかな社殿には野宮大神(=天照大御神)が祀られています。



 飛鳥時代、天武天皇の治世にはすでに確立されていたとされる斎王制度天武天皇の皇女・大来内親王から継続されるようになり、鎌倉時代末期まで約660年間続けられました。選ばれた斉王は下は2歳から上は28歳までの64人に及びましたが、南北朝の動乱の時代にしだいに衰退していき、結局は断絶してしまいました。「源氏物語」の「賢木の巻」に書かれている野宮神社は、斎王の母である六条の御息女光源氏への想いを絶ちきろうと、娘と共に禊斎の日々を送ったという悲恋の場所だったのですが、現在は逆に「縁結びの神」として有名になっています。ちなみに縁結びの御利益をもたらしてくれるのは、社殿の向かって左側に鎮座している野宮大黒天です。





境内の奥には見事な苔庭がありました。鮮やかな緑が目に映えます。


アクセス
・阪急電車「嵐山駅」下車、北へ徒歩15分
・嵐電「嵐山駅」下車、北へ徒歩7分
野宮神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
野宮神社 -源氏物語の宮-




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