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神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

滋賀・豊国神社。

2009年10月10日 | ◆滋賀県
出世開運・商売繁盛

豊国神社

(ほうこくじんじゃ)
滋賀県長浜市南呉服町6-37

近江長浜6瓢箪巡り霊場・第1番札所



豊国神社の鳥居。脇には「豊國神社」と「長浜恵比須宮」の碑が立っています。


〔御祭神〕
事代主大神
(ことしろぬしのみこと)
豊臣秀吉公
(とよとみひでよし)
加藤清正公
(かとうきよまさ)
木村重成公
(きむらしげなり)


 卑賤の身からその才智と強運で立身出世し、ついには天下人となった戦国時代の英雄・豊臣秀吉公。その人気は死後も衰えることはなく、「豊国大明神」と神格化されて各地に威徳を称える神社が建てられました。聚楽第を建てて政務を執るなど馴染みの深かった京都をはじめ、豊臣秀吉公と親交の厚かった前田利家公が治めた加賀国や天下の巨城・大坂城など、ゆかりの場所に建てられた神社は「豊国神社」の名で人々の厚い崇敬を集めていますが、浅井長政公攻略の功によって織田信長公より初めて領国を与えられた記念すべき土地である近江国・長浜にも豊国神社が建立されています





江戸時代中期の建立といわれる豊国神社の社殿(左)と、出世稲荷神社(右)。


 
 豊臣秀吉公の3回忌を迎えた1600(慶長5)年、京都ではその遺徳を偲ぶために豊国社が建立され、前年に後陽成天皇から正一位の神階と「豊国大明神」という神号を贈られて神となった豊臣秀吉公が御祭神として祀られることとなりました。それに合わせて長浜でも神社が創建され、京都のものと同じく豊国社と名付けられました。これが豊国神社の始まりです。しかし、1615(元和元)年の大坂夏の陣によって豊臣秀頼公が自決して豊臣家が滅亡した後、すでに江戸幕府を開いて全国統治を推し進めていた徳川家康公は豊臣秀吉公の遺徳の象徴として人心の集まるところであった豊国社に対して不快感をあらわにし、存続を認めずに破却することで太閤信仰を徹底的に排除しようとしました。





豊臣秀吉公が愛したといわれる「虎石」(左)と、境内に立つ天満宮(右)。


 
 しかし人々の豊臣秀吉公への追慕の念は根強く、徳川政権への反発もあって御祭神は破却される前に密かに運び出され、しばらく町年寄の家に祀られることとなります。そして、1792(寛政2)年に長浜八幡宮の御旅所が出来たのを契機にその敷地の片隅にお堂を建て、翌年になって長浜八幡宮の恵比須命を勧請して「恵比須宮」としました。人々は、商売の神様である恵比須命を祀るということを方便にして、実際は奥社に豊臣秀吉公の御神像を安置して密かに御霊への祭祀を続けようとしたのです。こういう経緯があるため、恵比須命と同一神とされる事代主命が今もなお御祭神として祀られています。

 江戸幕府が倒れて徳川の世が終わり、明治新政府が発足すると恵比須宮は「豊神社(みのりじんじゃ)」と名を変え、1892(明治25)年には現在の鎮座地に移転されました。そして1898(明治31)年の豊臣秀吉公300回忌の際には社殿が造営されて現在の姿となり、1920(大正9)年には晴れて「豊国」の名が復活し豊国神社と呼ばれるようになりました。





福万年亀といわれる石と瓢箪池があります。


加藤清正公像(左)と、長浜開町を祝って竹中半兵衛が歌った詩文を刻む石碑(右)。
「君が代も わが代も共に 長濱の 真砂のか須の つき屋らぬまで」



アクセス
・JR北陸本線「長浜駅」下車、北へ徒歩3分。
豊国神社地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放


近江の城下町を歩く (近江旅の本)
淡海文化を育てる会
サンライズ出版

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滋賀・多賀大社。

2009年10月04日 | ◆滋賀県
延命長寿・厄除け・縁結び・家内安全・交通安全

多賀大社

(たがたいしゃ)
滋賀県犬上郡多賀町多賀604

神仏霊場近江 欣求の道・第1番札所

通 称
お多賀さん
(おたがさん)






〔御祭神〕
伊邪那岐命
(いざなぎのみこと)
伊邪那美命
(いざなみのみこと)



 社伝によると、神代の昔に多賀・杉坂山に降臨された伊邪那岐大神が、麓にある栗栖の里で休まれた後に多賀の地に鎮座されたのが多賀大社の始まりだといわれています。多賀の地には第1回目の遣唐使に名を連ねる犬上御田鍬を輩出した名族・犬上氏が古くから勢力を広げており、その祖神を祀っていた社が多賀大社へと発展していったのではないかとも考えられています。712(和銅5)年に編纂された「古事記」にも「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す」という記述が見られることから、この頃にはすでに多賀で祭祀が行われていたようです(「淡海の多賀」は淡路島の多賀にある伊弉諾神宮を指すという説も有力です)。738(天平10)年には社殿が造営され、766(天平神護2)年に田鹿神と日向神を合祀、808(大同3)年には山田神が合祀されました。927(延長5)年に編纂された「延喜式神名帳」にも「近江国犬上郡・多何神社二座」という記述があり、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命の2柱が祀られていたことが分かります。





美しいアーチ状の太閤橋とその奥に立つ御神門(左)。右は神馬社。



 1180(治承4)年に平重衡公が行った南都焼討ちによって伽藍の大部分を焼失した東大寺の再建を強く願った後白河法皇は、名僧・重源上人を総責任者である東大寺勧進職に任じます。当時すでに60歳の老齢だった重源上人は、長期間に及ぶであろう困難な再建事業に取り組むにあたり、伊勢神宮に参拝して成就祈願のために17日間の参籠を行いました。すると、その満願の夜の夢枕に天照大御神が現れ「再建事業の成就のために寿命を延ばしたいと望むなら多賀神に祈願せよ」との神託が与えられました。

 さっそく多賀大社に向かった重源上人は、参拝の最中に目の前に舞い落ちた一枚の柏の葉に「莚」という字の形をした虫食いがあるのを見て、「莚という文字は廿(二十)に延と書く。さては我にさらに20年の寿命を与え給うたということか」と喜んだといわれています。その後、様々な困難を克服しながら1185(文治元)年8月には盧舎那大仏を再建、1195(建久6)年には大仏殿の再建を成し遂げた重源上人は、無事に再建事業が成功したことへの御礼のために再びこの地を訪れ、境内の石に座り込むとそのまま眠るように入寂されたと伝えられています。その石は今も「寿命石」と呼ばれて境内に安置されており、健康長寿の御利益があるといわれています。





多賀大社の本殿。1930(大正5)年に改修されました。


 
 鎌倉時代には、神官を兼ねた御家人による衆議制によって神社の運営が行われていましたが、室町時代の1494(明応3)年に守護職・佐々木一統公の命を受けた多賀豊後守高備公が天台宗の不動院を別当寺として建立して以来、多賀大社で行われる法会の勤行・護摩供などの修法をこの寺院が行うようになりました。その後、織田信長公や豊臣秀吉公からも庇護を受けたこともあって不動院の坊人たちは活発に諸国を行脚して御神札を配り、伊勢信仰や熊野信仰と融合して多賀大社の御神徳を全国に広めていきました。





能舞殿(左)の奥には「寿命石」と「祈願の白石」(右)があります。


 
 1588(天正16)年には豊臣秀吉公が母・大政所の延命祈願成就の御礼として、社殿の改築や米1万石の寄進など財政的に大きなバックアップを行っています。江戸時代に入っても手厚い庇護は続き、1615(元和元)年に社殿を焼失させてしまった多賀大社に対し、1622(元和7)年に徳川秀忠公より350石の神領の寄進が行われ、さらに1633(寛永10)年には徳川家光公の命によって社殿の再建が始められています。1651(慶安4)年には井伊家からも150石の神領の寄進が行われました。以降、1773(安永2)年と1782(天明2)年には火災で、そして1791(寛政3)年には暴風で社殿が焼失・倒壊するなど苦しい時期もありましたが、彦根藩と幕府からの手厚い支援を受けて復興を果たしています。明治時代には廃仏毀釈運動の盛り上がりによって別当寺の不動院は境内より排されますが、多賀大社自体は1914(大正3)年に官幣大社に列せられ、政府の支援を受けて栄えます。戦後の1947(昭和22)年には社名が「多賀神社」から「多賀大社」に改められました。





延喜式内社の日向神社(左)と豊臣秀吉公の寄進で建てられた太閤蔵。



 多賀大社にはいくつか名物があります。健康長寿の御守として知られる「お多賀杓子」は、養老年間(717~724年)に元正天皇が病の床に臥された際、その平癒を祈念した神官たちが強飯を炊き、シデの木製の杓子を添えて献上したところ無事に全快されたという故事に由来して作られたもので、ご飯をよそう「お玉杓子」の語源となったといわれています。また、神社の向かいの土産屋で売られている「糸切餅」も名物のひとつです。元寇の際の戦勝祈願が見事に叶えられた事に感謝して奉納されたのが始まりだといわれる和菓子で、餡を包んだ餅の表面に蒙古の旗印を表す青・赤・青の3本の線が入っており、弓の弦に見立てた糸で切り分けられています。刃を使わずに糸で切ることで悪霊を断ち、平和を祈念するという意味が込められているそうです。





勤皇志士たちが密議を行ったといわれる文庫(左)。右は徳川寄進の大鍋(右)。


アクセス
・近江鉄道多賀線「多賀大社駅」下車、東へ徒歩10分。
多賀大社地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料 (※奥書院庭園:300円、1~2月は拝観不可)

拝観時間
・8時~16時 (※奥書院庭園は15時30分まで)

公式サイト






滋賀・安土城址。

2009年09月30日 | ◆滋賀県
戦国時代

安土城址

(あづちじょうあと)
滋賀県蒲生郡安土町大字下豊浦



現在の安土城。緑に包まれた、織田信長公の夢の跡です。


〔代表的城主〕
織田信長公
(おだのぶなが)


 「安土の山を、丸ごとひとつ、城にする」 …実際にこう言ったかは分かりませんが、山全体を石垣で固め、壮大な天主を山頂に建てるという構想は、それまでの日本の城郭には見られない斬新な発想に基づくもので、以降に築城された近世城郭の原点となりました。その城郭の名は、安土城。外観は5層、内部は地上6階・地下1階という構造で、イエズス会の宣教師・ルイス=フロイスをして「このような豪華な城は欧州にも存在しない」といわしめた豪華絢爛な安土城は、天下統一に邁進する織田信長公の夢を象徴する、まさに「覇王の城」だったのです。




 
真っ直ぐに伸びる幅6mの広さの大手道(左)と伝羽柴秀吉邸跡(右)。



 それまで岐阜に本拠を置いていた織田信長公は、天下統一事業を象徴する壮大な城の建築に着手します。意中の地は、瀬戸内海に面して国際港湾都市・堺とも近い、交易・経済の中心であった大坂だといわれています。しかしながら当時は石山本願寺が頑強に抵抗を続けていたため、琵琶湖の水運を利用する事でいち早く京都に駆けつけられ、加えて北陸街道から京都への要衝に位置する安土の地に天下布武の象徴である新城を築こうと考えたと思われます。それに先立ち、1571(元亀2)年には明智光秀公に琵琶湖岸の坂本に坂本城を築城させて南近江を統治させ、さらに2年後の1573(天正元)年には、浅井攻めに功のあった羽柴秀吉公に北近江を与えて長浜城を築かせ、北陸への抑えとさせました。こうして琵琶湖の南北に最も信頼する2将を配置して備えを万全にしたのち、安土山への築城構想を実現化するために行動を開始します。




 
天主台の石垣(左)と礎石(右)。絢爛豪華な天主閣が建てられていました。



 1575(天正3)年に嫡男・織田信忠公に家督を譲った織田信長公は、翌年1月には重臣・丹羽長秀公を築城の総普請奉行に任じ、自身は身の回りのものだけを運ばせて安土に乗り込み、工事の進捗を督励しました。領国内の大工・職人を集め、各地から膨大な資材を集結させて日夜突貫工事が続けられた結果、天下無双の巨城・安土城はわずか3年後の1578(天正6)年にまず天主の完成を見ます。世界で最初の木造高層建築といわれるこの天主の高さは46mあったといわれ、周囲を湖水に囲まれた標高196mの安土山に山頂に聳え立つ絢爛豪華な風景は、人々に時代の変革を感じさせたに違いありません。

 麓から山頂へは、それまでの常識を破る幅6メートルの広さの直線状の大手道が築かれ、その両脇には羽柴秀吉公や前田利家公など織田家重臣の屋敷が並び、本丸には天皇の行幸を目的に建てられたと見られる清涼殿様式の本丸御殿が築かれていました。全体の工事は天主完成後も引き続き行われ、南西に続く百々橋口の途中には見寺が建立されるなど、すべての城郭が完成したのはさらに3年の年月を要したといわれています。




 
天主の近くにある織田信長公の廟所(左)と旧見寺跡(右)。



 残念ながら、当時の建築技術の粋を集めて築かれた名城はあっけない幕切れを迎えます。1582(天正10)年に本能寺の変が勃発、当時留守居役として城を守備していた蒲生賢秀公は主君の突然の悲報に接し、本拠地である日野城(滋賀県蒲生郡日野)へと撤退します。空き城となった安土城には明智光秀公の家臣である明智左馬助秀満公が入りましたが、間もなく起きた山崎の戦での敗戦を受けて坂本城へと撤退します。この後、突如起こった火災によって安土城は炎上し、威容を誇り織田家の栄華の象徴であった名城はまさに夢幻の如く地上から姿を消すこととなりました。

 この火災にはいくつかの説があり、「明智秀満軍が撤退する際、城に火を放った」という説、「明智秀満軍が撤退した後に安土入りした織田信長公の三男・織田信雄公が明智の残党狩りのために城下に火を放ち、その火が天主に延焼してしまった」という説、あるいは「安土城の財宝の略奪目的で乱入した土民が放火した」という説が残されています。現在では、土民が火を放ったという説が有力視されています。しかしながら、この時焼失したのは天主や本丸付近が中心で、後継者を決めるために開かれた清洲会議ののち、嫡孫である織田秀信公が二の丸に入城したという記録も残っていることから、総石垣造りの安土城はまだ城郭としての機能を十分果たしていたと考えられます。その後天下統一を果たした羽柴秀吉公は、大坂に壮大な城を築いて本拠を移したために再び安土に天主が築かれることはなく、近江の抑えとして1585(天正13)年に養子・豊臣秀次公が八幡山城を築城したことから、安土城は廃城の措置が採られてその役目を終えることとなりました。織田信長公が天下統一の要として築いた安土城は、着工からわずか10年の間に激動の戦国の世を象徴するように忽然と歴史の表舞台から姿を消す運命を辿りました。




 
百々橋口へと続く道の途中にある見寺の三重塔(左)と仁王門(右)。


アクセス
・JR琵琶湖線「安土駅」下車、北東へ徒歩30分
安土城址地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:500円、小人:100円

拝観時間
・9時~17時

関連サイト
  安土城天主・信長の館ホームページ

  映画「火天の城」公式ホームページ


復元安土城 (講談社学術文庫)
内藤 昌
講談社

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滋賀・近江神宮。

2009年07月03日 | ◆滋賀県
時の神・開運厄除・事業繁栄・家内安全・厄除など


近江神宮

(おうみじんぐう)
滋賀県大津市神宮町1-1




鬱蒼と茂る広大な鎮守の苑の奥に立つ鳥居。近江神宮への入口です。


〔御祭神〕
天智天皇
(てんちてんのう)

別名(神号)
天命開別大神
(あめみことひらかすわけのおおかみ)


 近江神宮は、神武天皇が即位したといわれるB.C.660年を紀元として定められた「皇紀」の2600年にあたる1940(昭和15)年に創建された神社です。天智天皇が遷都した近江大津宮に因み、その都があったといわれる錦織の地の一角に天智天皇を祀る神社を創建しようという滋賀県民の機運の高まりを受けて1938(昭和13)年に昭和天皇の綸旨が下され、2年後の1940(昭和15)年11月7日に官幣大社として創建されました。
 境内には、天智天皇10(671)年4月25日に「漏刻」を設置して鐘鼓を鳴らし時を告げたという故事に因んで漏刻台が設置され、太陽暦に直して定められた「時の記念日」である6月10日に漏刻祭を執り行っています。また、天智天皇が詠まれた歌が百人一首の第1番であることに因んで、毎年1月初旬の土日には「かるた名人」と「かるたクイーン」を選ぶ「近江神宮全国歌かるた大会」が開催されることでも有名です。





境内には数多くの歌碑があります(左)。右は鮮やかな朱塗りの楼門。



 御祭神として祀られている天智天皇は、第34代舒明天皇と第35代皇極天皇(のち重祚して斉明天皇)の間にもうけられた第2皇子です。中大兄皇子と名乗っていた645年、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らとともに、当時強大な権力を誇っていた蘇我一族の排斥を目指して「乙巳の変」と呼ばれるクーデターを決行。飛鳥板蓋宮にて蘇我入鹿を殺害、その父・蘇我蝦夷を自殺に追い込んで権力を掌握しました。この一件に関しては、蘇我氏が天皇家を凌ぐ大きな権力を握り、専横の限りを尽くしたために中大兄皇子たちが決起した「勧善懲悪」の物語とされていますが、実際のところは緊迫の度合いを増していた東アジア情勢と密接なかかわりがあったと考えられています。





天智天皇が設けた漏刻に因んで建てられた漏刻台(左)と、日時計(右)。



 当時、中国大陸に強大な国家・が成立して朝鮮半島に対し軍事的圧迫を続けており、国境を接していた高句麗との間で武力衝突が起きていました。この間隙を衝いて百済新羅に侵攻、窮した新羅と軍事同盟を結んで反攻に転じるという状況が起きていたのです。蘇我氏は、朝鮮半島を巡る緊迫した情勢に対し、新羅と協調外交を展開することで国難に対処しようという路線を引いており、百済との関係を重視する中大兄皇子を中心とした保守的な勢力と対立していたことが、乙巳の変が勃発する一因となっていたと考えられます。





外拝殿(左)と内拝殿(右)は「近江造」と呼ばれる独特の建築様式。



 乙巳の変後「大化の改新」と呼ばれる改革政治を進めていた中大兄皇子は、660年に百済新羅の連合軍に滅亡に追い込まれたのを受けて百済の再興の支援に乗り出し、朝鮮半島への軍事作戦を起こしますが、663年に白村江の戦いに惨敗してしまいます。
 この敗戦に衝撃を受け、新羅の侵攻を警戒した中大兄皇子は筑紫国や長門国に水城と呼ばれる山城を築き、防人を設置して防御対策を練ると同時に、都をより安全な内陸部にある大津へと遷都し、そこで即位を果たします。しかしながら、この遷都に対しては民衆に至るまで批判が多く、不審火が相次ぐなどかなり不穏な状態だったようです。遷都して4年後に天智天皇は崩御、その皇子だった大友皇子も間もなく起こった壬申の乱に敗れて自害したため近江大津宮はわずか5年ほどで廃都となり、都のあった場所は長年謎とされていましたが、1974(昭和49)年から1978(昭和53年)にかけて行われた発掘調査によって、大津市錦織にある錦織遺跡(にしごりいせき)の周辺に存在していたことが明らかになりました。





外拝殿の回廊にある摂社(左)と、東向きに建つ木造りの鳥居(右)。


アクセス
・JR湖西線「大津京駅」下車、北西へ徒歩14分
・京阪電車石山坂本線「近江神宮前駅」下車、北西へ徒歩8分
・京阪電車石山坂本線「南滋賀駅」下車、南西へ徒歩10分
近江神宮地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料 (時計博物館:大人300円、小人150円) 

拝観時間
・常時開放 (時計博物館:9時~16時30分)

公式ホームページ



滋賀・石山寺。

2008年04月13日 | ◆滋賀県


石光山石山寺

(せっこうざん いしやまでら)
滋賀県大津市石山寺1-1-1




西国三十三ヶ所観音霊場・第13番札所
神仏霊場近江 欣求の道・第14番札所







〔宗派〕
東寺真言宗

〔御本尊〕
如意輪観音像
(にょいりんかんのんぞう)


 「近畿の水瓶」と呼ばれ、約275億立方mの貯水量で京阪神の1,400万人の飲料水を支える日本最大の湖・琵琶湖。その湖水はまず瀬田川へと流れ込みますが、その川のほとりに、奈良時代から1200年以上もの長きに渡って法灯を護り続けている古刹があります。平安時代を代表する多くの文学作品にもその名が見られ、かの紫式部はこの地を参拝した折に『源氏物語』の着想を得たとも言われており、京都・清水寺、奈良・長谷寺と並ぶ観音霊場のひとつと言われている真言宗の寺院、石山寺です。





境内は「源氏物語千年紀」イベントの演出が施されていました。



 745(天平17)年のこと、東大寺大仏の造立を発願し、大仏像に施す鍍金用の黄金を求めていた聖武天皇の勅願を受けた良弁僧正は、当時「金が湧く山」と信じられていた吉野・金峯山で祈願を行いました。その時夢枕に現れた金剛蔵王「金峯山の黄金は56億7千万年後の弥勒菩薩による衆生救済の時に用いるため使うことは出来ない。琵琶湖の南に観音菩薩が姿を現される土地があるので、その地において黄金産出の祈願を続けるがよい」というお告げに従って瀬田川のほとりを訪れた良弁僧正は、比良明神の化身である古老に導かれて石山に登り、巨大な岩の上に聖徳太子の念持仏といわれる如意輪観音を安置して祈願を続けました。それから2年後の747(天平19)年、祈りが通じたのか陸奥国から黄金が産出されるようになったため、草庵を閉じて如意輪観音を移そうとしたところ、不思議なことに岩に張り付いたまま一向に動く気配がありません。そのため、この地に如意輪観音像を祀る堂宇を建てたのが石山寺の始まりといわれています。




 
石段を登ると、蓮如堂(左)や弘法大師をお祀りする御影堂(右)などが立ち並びます。


「石山寺」という寺号の由来となったといわれている硅灰石。




 761(天平宝字5)年にはこの地に造石山寺所が設置され、造東大寺司からも仏師をはじめとした人材が派遣されるなど、国家的プロジェクトとして大規模な伽藍整備が行われました。9世紀末に聖宝僧正が座主に就いた頃に真言密教道場なった石山寺には多くの貴人たちが参拝しました。『枕草子』や『蜻蛉日記』、『更級日記』にも取り上げられ、紫式部石山寺を訪れた際に『源氏物語』の着想を得たといわれています。本堂には「紫式部の間」が設けられ、山上の豊浄殿では「。紫式部展」が開催されています。源氏苑にも紫式部像が建てられているなど、境内の至る所で『源氏物語』の香りを愉しむことが出来ます。





現在の本堂の内陣は1096(永長元)年に再建されたもの。雷などで被害を受けた
外陣は1600(慶長5)年に淀君の寄進によって再建されました。

 
本堂に設けられた「紫式部源氏物語の間」。この部屋から眺めた名月の美しさに心を
打たれた紫式部は『源氏物語』の執筆を思い立ったといわれています。


 2008(平成20)年は『源氏物語』が生まれてちょうど1000年目にあたるため、ゆかりのある名所旧跡では様々なイベントが行われています。滋賀県でも「源氏物語千年紀in湖都大津」と銘打って石山寺滋賀県立近代美術館大津市歴史博物館などで12月まで多彩なイベントが行われます。なみなみと湖水を湛える琵琶湖からの涼風を感じながら、平安文学の香りを味わうのも一興ではないでしょうか。



「源氏物語千年紀in湖都大津」実行委員会公式サイト



 
境内奥の高台にある「月見亭」の傍からは瀬田川の流れが一望できます(左)
右の写真は1194(建久5)年に源頼朝公の寄進によって建立された多宝塔。


アクセス
京阪電車「石山寺駅」下車、南へ徒歩10分
石山寺地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人500円、小学生以下250円 (※駐車場:140台)

拝観時間
・9時~16時30分 (受付は16時まで)

公式サイト




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滋賀・百済寺(湖東三山)。

2006年11月17日 | ◆滋賀県

釈迦山 百済寺

(しゃかざん ひゃくさいじ)
滋賀県東近江市百済寺町323


近江西国霊場・第16番札所
湖面十一面観音霊場・第10番札所
湖東二十七名刹霊場・第11番札所
神仏霊場近江 欣求の道・第9番札所




バス駐車場を出るとすぐのところに立つ山門。ここから境内へと進みます。


〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
十一面観世音菩薩



 湖東三山巡りで一番最後に立ち寄ったのが釈迦山百済寺です。正式な呼び方を「くだらでら」ではなく「ひゃくさいじ」というこの天台宗の寺院は、3つの寺院の中でも最も古い歴史を持つ名刹です。本当は1650(慶安3)年に建立されたという赤門や、「天下遠望の名園」と称される見事な本坊庭園なども見ていきたかったのですが、スケジュールの都合で御本尊との結縁を優先することにしました。百済寺は、606(推古天皇14)年に創建されたと伝えられる湖東三山随一の古刹で、聖徳太子によって創建されたと伝えられています。この地は朝鮮半島の古代国家・百済国からの渡来人である秦氏が多数住んでいた地域だといわれており、その一族の族長的な立場であった秦河勝聖徳太子のブレーンとして活躍した人物です。渡来人と繋がりの強かった聖徳太子が百済の僧・恵慈とともに秦氏の里である湖東の地を訪れたという話も、あながち伝説上の話として片付けられない説得力があります。





仁王門の大草鞋に触れると身体健康・無病長寿のご利益があるそうです。



 伝説によると、聖徳太子が仏教の師と仰ぐ恵慈とともにこの地を訪れた時のこと、東に瑞光を放つ山があるのを見つけます。不思議に思ってその地を訪れたところ、上半分が伐採された杉の巨木が光を放っているのを発見します。「この杉は何か」と聖徳太子恵慈に尋ねたところ、どうやらこの杉の上半分は百済国に運ばれ、龍雲寺という寺院の本尊・十一面観世音菩薩像になっていたことが判りました。この話を聞いた聖徳太子は、これは願ってもない素晴らしい「御衣木(みそぎ)」であるということで、植わったままの幹に仏像を彫刻したといわれており、こうして作られた十一面観世音菩薩像は、「植木の観音」と呼ばれて人々の崇敬を集めたそうです。太子はこの地に龍雲寺を模した寺院を開き、「百済寺」と名づけたといいます。平安時代に入ると西明寺金剛輪寺と同様に天台宗の教化を受けて天台寺院となり、鎌倉時代にかけて最盛期を迎えた百済寺は300の僧坊と1300の僧侶を抱える壮大な寺院となり、その様は「湖東の小叡山」と称されたほどでした。





1650(慶安3)年に再建された本堂。



 そんな百済寺も1498(明応7)年の大火で全焼。その直後の1503(文亀3)年にも兵火に巻き込まれ、創建以来の建築物はもとより仏像や記録類などの大部分が焼失してしまいました。こういった戦乱による被害に対し、百済寺は自衛のために1518(永正15)年から城砦化工事を始めます。これには六角氏の重臣・進藤山城守が指導を行ったといわれています。参道の入口には進藤山城守の館が配され、北と南の尾根に砦を設置したり周囲に土塁を築くなどして中央部の200を超える坊院群を守護するという構造だったようです。こうして武装化されていた百済寺も、1573(天正元)年には織田信長公の焼き討ちに遭ってまたも全山焼失の憂き目に遭います。この5年前の1568(永禄11)年に観音寺城を攻略して六角氏を追い落としていた織田信長公は、六角氏の残党勢力と寺院勢力が連携するのを警戒しており、城砦化して僧兵を多数抱えていた百済寺にも寺領安堵を行うなど懐柔政策を採っていました。しかし、六角氏配下の武将だった森備前守の三男・宗恕百済寺の塔頭・光浄院の住持を務める縁もあって六角氏鯰江城に籠城した際、密かに気脈を通じて支援を行いました。

 寺領安堵まで行い、一時は恭順の姿勢を見せていた百済寺の裏切り行為に激怒した織田信長公は、諸将に命じて全山に火を放ちます。「信長公記」にも「近年、鯰江の城、百済寺より持続け、一揆と同意たるの由、聞こしめし及ばる。四月十一日、百済寺堂塔・伽藍・坊舎・仏閣、悉く灰燼となる。哀れたる様、目も当てられず。」と記されていますし、宣教師ルイス・フロイスもその著「日本史」の中でこの焼き討ちのことを伝えています。焼き討ちは徹底的に行われ、7堂300坊と言われた百済寺は僅かな仏像と経典を残し、全てが灰燼に帰して壊滅しました。織田信長公による焼き討ちの後しばらく荒廃していた百済寺は、1584(天正12)年になって堀秀政公の手で仮本堂が建立されます。「黒衣の宰相」として有名な天海僧正の高弟・亮算上人が再建に着手。井伊家の援助もあって1650(慶安3)年に本堂が再建されました。これが現在残っている本堂で、2004(平成16)年12月に重要文化財の指定を受けました。





弥勒菩薩半跏思惟石像。2000(平成12)年建立。



アクセス
・近江鉄道「尼子駅」よりシャトルバス乗車、約45分
・近江鉄道「八日市駅」下車、バス30分「百済寺本坊前」
百済寺地図  【境内MAP』 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:500円 中学生:300円 小学生:100円

拝観時間
・8時~17時

公式サイト


滋賀・金剛輪寺(湖東三山)。

2006年11月07日 | ◆滋賀県

松峰山金剛輪寺

(しょうほうざん こんごうりんじ)
滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874

近江西国霊場・第15番札所
湖面十一面観音霊場・第11番札所
近江七福神霊場・大黒天



黒門の脇には、みやげ物を売るお店が良い匂いをさせていました。


〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
聖観世音菩薩
(しょうかんぜおんぼさつ)



 金剛輪寺は、大仏建立を行った聖武天皇の勅願寺院として、当時の民衆に絶大な支持を受けていた行基上人の手で741(天平13)年に開山されたといわれる古刹で、御本尊の聖観世音菩薩像行基上人自らが彫りあげたものだと伝えられています。萱の一木造りで彫刻されたこの仏像を行基上人が彫り進めていたところ、まるで生きているかの如く木肌から一筋の赤い血が流れ出たため、驚いた行基上人は霊験を感じ、手にしていた彫刻刀を折り捨てて荒削りのまま観音さまを御本尊として祀ったということです。この伝説から、御本尊は「生身の観音さま」と呼ばれて厚く信仰されています。金剛輪寺は、この観音さまを祀るお堂でしたが、9世紀の中頃に比叡山延暦寺慈覚大師円仁による教化を受け、近江国の多くの寺院と同様に天台宗の修業道場として発展しました。




 
名勝庭園。晩秋には真っ赤に染まる「血染めの紅葉」で彩られます。



 1183(寿永2)年には源義経公が木曽義仲追討の必勝祈願のために太刀を奉納したという伝説も残されており、「元寇」と呼ばれる文永・弘安の役では、鎌倉幕府の執権・北条時宗公の命を受けた近江国の守護・佐々木頼綱公によって元軍調伏の祈願が為されたと言われています。佐々木頼綱公は、1288(弘安11)年に本堂である大悲閣を再建するなど境内建造物の復興を行って元軍撃退の法恩に感謝したといわれており、金剛輪寺は守護・佐々木氏の庇護を得て境内の整備を進め、かなりの規模を誇っていたようです。応仁の乱では佐々木氏の流れを汲む六角氏京極氏が相争い、両軍が湖東地域に展開して兵糧や軍資金の徴用を強制的に行ったこともあり、戦国の騒乱に翻弄されることを防ぐ目的として金剛輪寺は自衛のために武装化の道をたどります。

 元来、金剛輪寺を始めとする寺院勢力は石垣普請に関する高いノウハウを持っており、六角氏の居城観音寺城が鉄砲に備えて1556(弘治2)年から総石垣に改築した際には、金剛輪寺西座衆(にしくらしゅう)と呼ばれる技術者集団が指導にあたったと伝えられるなど、各寺社勢力が自衛力を持って権益を守りつつ、地元の政治権力とも相互扶助の関係を保って戦乱の世を生き抜こうとしていたことが推し量れます。




 
七難即滅を願う大草鞋が下がる二天門(左)と、1288(弘安11)年建立の大悲閣(右)。



 そんな近江国の諸寺に最大の試練が訪れたのは1566(永禄11)年のこと。尾張国と美濃国を手中に収めた織田信長公が近江国へと進攻し、六角氏やそれを支持する寺社勢力との間で軍事的緊張が高まります。「信長公記」によると、織田信長公も最初から強硬策一辺倒だったわけではなく、当初は近江国の宗教勢力に対して協力もしくは中立を求め、受け入れた際には本領の安堵を誓約するなど懐柔策をとっていました。もちろん、この約定に違背した場合には軍事的制裁を課すと宣告しており、「アメとムチ」によって近江国の統治を行おうとしました。結局、宗教勢力からの抵抗が止まなかったのを受けて、1571(元亀2)年にはついに天台宗総本山で強大な軍事力を保持して反抗を続けていた比叡山延暦寺根本中堂から山王21社を含め山上山下悉く焼き討ちし、高僧から女性・子供に至るまで3000以上の者の首を刎ねるなど、織田信長公の「ムチ」は苛烈を極めました。

 そのようなショッキングな出来事があったにも関わらず、2年後の1573(天正元)年には鯰江城に籠城した六角氏釈迦山百済寺が密かに支援したことが露見、表向きは恭順の意思を示していた古刹の背信行為に激怒した織田信長公は、4月11日に軍勢を差し向けて完膚なきまでに焼き払いました。金剛輪寺も同様の理由のために火を放たれましたが、僧侶の機転によって本堂の大悲閣などは類焼を免れたと伝えられています。他にも本堂がかなり奥にあったために見落とされたのだという説もありますが、本気で焼き討ちをしようとした時の織田軍の徹底ぶりを考えた場合、意図的に手を緩められたと考えるのが自然で、その理由としては金剛輪寺に関わる土豪勢力の中に反信長勢力が少なかったこと、そして西座衆の石垣普請技術を高く評価していたことが考えられます。

 大打撃を受けた金剛輪寺ですが、江戸時代に入って徳川家康公や天海大僧正井伊直孝公などの尽力で復興が行われ、1632(寛永9)年には正親町天皇の孫にあたる良恕親王によって静仙院が建立されるなど、再び往時の活気を取り戻すことになりました。

 



「待龍塔」と呼ばれる三重塔。1246(寛元4)年に建立されました。


アクセス
・近江鉄道「尼子駅」よりシャトルバス乗車、約25分
 (10月28日~11月30日の毎日シャトルバスを運行)
金剛輪寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・個人 500円(30名以上の団体の場合:1人450円)

拝観時間
・8時~17時

公式サイト

滋賀・西明寺(湖東三山)。

2006年10月30日 | ◆滋賀県

龍應山 西明寺

(りゅうおうさん さいみょうじ)
滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26

西国四十九薬師霊場・第32番札所
湖東二十七名刹霊場・第8番札所




山門は参拝客であふれていました。


〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
薬師瑠璃光如来像
(やくしるりこうにょらいぞう)



 龍應山西明寺は、平安時代初期の834(承和元)年に三修上人によって開かれたといわれる天台宗の寺院です。三修上人慈勝は、9世紀半ばの仁寿年間(851~853年)に修験道の聖地といわれた伊吹山に入って観音寺長尾寺太平寺弥高寺の「伊吹4大寺」を創建するなど、山内の整備に尽力したといわれる修験者です。 三修上人に関しては伝説的な話が多く、899(昌泰2)年に70余歳で没して伊吹山の山頂の蓮の上より天に還っていったという話を基準に考えると、西明寺開創の際の三修上人はまだ5歳前後の子供だったことになるなど辻褄が合いません。西明寺の創建に三修上人がどういう形で携わったかも伝説の域の話で、史実であったかどうかは定かではありませんが、この時代に近江国で人智を超越した修験者・三修上人に対する強い信仰があったことは感じ取ることが出来ます。




 
紅葉の頃に開花するといわれる「不断桜」(左)と、木漏れ日満ちる参道(右)。



 そんな西明寺の創建に関する伝承は以下の通りです。琵琶湖の西岸の地で修行を行っていた三修上人は、湖の対岸の山上に紫雲がたなびいていることに気付きます。仏教における紫雲は「仏尊の乗る雲」という意味があり、この雲の出現に瑞運を感じた三修上人は修験道で培った神通力をもって琵琶湖を飛び越え、紫雲たなびく山へと向かいます。その山中、とある池から紫光が射すのを発見した三修上人が強い霊験を感じて一心に祈念したところ、池の中から光り輝く薬師如来尊が姿を現されたそうです。ありがたいその御姿を池の脇に伸びていた赤松の一木に刻んだのが御本尊である薬師瑠璃光如来像だといわれており、この伝説に基づいてこの地を「池寺」と呼び、薬師瑠璃光如来像を安置するために開いた寺院の名前も西へとたなびく紫雲の故事にちなんで「西明寺」と名付けられました。




 
1407(応永14)年建立の二天門(左)と、国宝に指定された総檜造の三重塔(右)。



 西明寺は836(承和3)年には第54代仁明天皇の勅願寺院となり、最盛期には17の諸堂や300を越える僧坊が立ち並ぶ大伽藍といわれています。2000石もの寺領を誇る天台密教の修行道場として栄えた西明寺には源頼朝公も戦勝祈願に訪れたという伝承が残されています。そんな名刹も、戦国時代の勢力争いに関与したことで大きなダメージを受けることになります。

 当時は各地で自衛のために寺院の城郭化・武装化が進んでいました。この地域でも名門・佐々木源氏の流れを引く六角氏の指導のもとで各寺院の城塞化が進められていましたが、比叡山延暦寺の僧兵による強訴などをはじめ、強大な武力を背景に宗教勢力としての枠を越えて政治にまで介入することも少なくなかったようです。そういった宗教勢力は、やがて近江国への進出を目指す織田信長公と六角義賢公・六角義治公親子との対立の構図に巻き込まれていくことになります。




 
鎌倉時代初期に建立された本堂(左)。右は薬師瑠璃光如来の右手に繋がる結縁の紐。



 1571(元亀2)年、宗教勢力の政治介入の排除を目的として比叡山延暦寺の焼き討ちを決行した織田信長公は、同時に比叡山の勢力下にあって反抗を続ける近隣の天台寺院への焼き討ちも進めました。ここ湖東三山も例外ではなく、西明寺も同じ年に織田信長公旗下の名将・丹羽長秀公の軍勢に攻められて焼き討ちに遭い、本堂三重塔二天門を除いた全山が炎に包まれました。この兵火によって壊滅的なダメージを受け、すっかり荒廃してしまった西明寺が復興を遂げるのは、江戸時代中期の延宝年間1673~1681年)に入ってからのこと。徳川幕府の支援を受けた山科・毘沙門堂の門跡・久遠寿院公海大僧正西明寺の復興事業に取り組み、信濃源氏の血を引く甲賀望月氏出身の望月友閑公が復興の陣頭指揮を執ったといわれています。このとき小堀遠州の流れを汲んで作庭されたのが、紅葉の名所として有名な地泉回遊式庭園・蓬莱庭だといわれています。





望月友閑が作庭したと伝えられる蓬莱庭。


アクセス
・近江鉄道「尼子駅」よりシャトルバス乗車、約10分
 (10月28日~11月30日の毎日シャトルバスを運行)
西明寺地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:500円、中高生:300円、小人:100円  (※三重塔内特別拝観料:1,000円)
 ※三重塔内特別拝観:春季が4月8日から5月8日、秋季が11月8日から11月30日まで

拝観時間
・8時~17時

公式サイト


滋賀・湖東三山 秘仏本尊御開帳。

2006年10月28日 | ◆滋賀県






  
左から 龍應山西明寺 ・ 松峰山金剛輪寺 ・ 釈迦山百済寺


この3寺院を総称して「湖東三山」といいます。




 彦根の南、近江八幡の東。近江鉄道が繋ぐ琵琶湖の南東部、いわゆる“湖東”の地に、「湖東三山」と呼ばれる天台宗の名刹があります。北より「龍應山西明寺」、「松峰山金剛輪寺」、「釈迦山百済寺」。7世紀から9世紀にかけて開山されたと言われるこれらの古刹は、それぞれ国宝や国の重要文化財に指定されている仏像や建造物を多数抱えており、深秋には美しい紅葉で彩られる有数の景勝地でもあります。


 今回、「天台宗開宗1200年慶讃大法会記念」と銘打って、これらの寺院で秘仏とされているご本尊が一斉にご開帳されるという、湖東三山史上初の記念行事が行われ、多くの参拝客で賑わいました。

 西明寺のご本尊・薬師瑠璃光如来像は、住職一代に限り1回だけ御開帳が許されている秘仏で、今回の御開帳は実に半世紀ぶりのことだそうです。百済寺のご本尊・十一面観音菩薩像に至っては55年ぶりの御開帳で、この仏さまも今回を逃せばもう2度と見ることが出来ないと思われる秘仏です。三山の中で比較的御開帳されることの多い金剛輪寺のご本尊・聖観世音菩薩像でさえ6年ぶりということで、三山一斉の秘仏公開というこの貴重なイベントに、会期最終日に至ってようやく足を運ぶことが出来ました。

 最終日ということもあってか、近江鉄道尼子駅から出ていた湖東三山行きシャトルバスをされる方も多く、寺院をまわるごとに乗客は増え、金剛輪寺から百済寺へと向かうときには通勤ラッシュ顔負けの混雑ぶり。超満員の車内で山道を左右に揺さぶられて大変でしたが、それだけの思いをしてでも行く価値はありました。


 JR彦根駅から近江鉄道に乗り換えてから6時間かけて巡った湖東三山のご本尊。さすがに秘仏だけあって撮影こそ出来ませんでしたが、境内の様々な風景をカメラに収めてきました。このあと、そういった画像を交えながら、西明寺金剛輪寺百済寺の順に、くわしくご紹介してみたいと思います。





叡山文庫と御殿馬場の紅葉。

2005年11月20日 | ◆滋賀県
日吉大社の近くに「滋賀院門跡」があります。

ここは江戸時代まで延暦寺トップである天台座主が住まわれていた屋敷です。週末しか公開されていないため、木曜日に行った僕は中に入れませんでしたが、この滋賀院門跡の「勅使門」からまっすぐに伸びる「御殿場場」の紅葉がきれいだったので思わず撮ってしまいました。

この道の脇には「叡山文庫」といわれる、比叡山の書庫とも言うべきところがあり、貴重な資料が多数保管されています。実は、自分の姓が滋賀のこのあたりからきているんじゃないかということで調べてみようと、思い切ってはいってみました。

あとから聞くと、一週間以上前にアポをとらないといけないだとか、延暦寺の住職さんの推薦状がいるだとか、いろいろ手続きをしなければならないそうなのですが、そこは素人の無鉄砲なところでいきなり事務所に行ってしまいました

当然怪訝な顔をされたんですが、理由を言って「ぜひ調べたい」というとOKがでました(ホッ)

身分証を見せたり書類に記入したりと手続きがあったんですが、貴重な文献を見させてもらい、ほんとにいい体験ができました。江戸時代の巻物なんか見るときには手が震えました

みなさんが訪れるときは、所定の手続きを踏んでから行かれたほうがいいと思います。変な汗をかかずにすみますから



※写真は御殿馬場の紅葉。





比叡山・日吉大社。

2005年11月20日 | ◆滋賀県
魔除け・厄除け・鬼門除け・家内安全・商売繁盛



(ひよしたいしゃ)
滋賀県大津市坂本5-1-1



朱塗りの山王鳥居が紅葉によく映えます。


〔ご祭神〕
大山咋神
(おおやまくいのかみ)
大己貴神
(おおなむじのかみ)



 JR比叡山坂本駅から徒歩15分、京阪電車石坂線坂本駅から徒歩5分のところに日吉大社はあります。ここは「山王権現」ともよばれ、全国に3800ほどある「山王さん日吉神社の総本宮になります。駅から日吉大社に行くまでの途中には、「里坊」と呼ばれる寺院が立ち並んでいて、歴史ある門前町の雰囲気を残してくれています。また「穴太積み」と呼ばれる、自然の石を加工せずそのまま大小組み合わせてつくった技術的にも大変優れた石垣が左右の道沿いに続いています。




穴太積みの石垣。坂本の町のあちこちで見られます。



 比叡山で厳しい修行を積んだ僧侶たちは、延暦寺トップである天台座主の許しを得て初めて、山をくだって麓の坂本の町に住むことができました。その僧侶たちが住んだ家(寺)を「里坊」といいます。坂本の町には50あまりの里坊があるそうですが、今も里坊に住むお坊さんたちは毎朝ケーブルカーに乗って比叡山へ出勤しているそうです。




大宮橋から走井橋を望む。ここを過ぎると山王鳥居から境内へ入ります。



 参道を進むと、40万㎡にもおよぶ広大な日吉大社の入口が見えてきます。ここは、古事記にもその名が載っている有数の古社で、東本宮大山咋神(おおやまくいのかみ)西本宮大己貴神(おおなむじのかみ)が祀られています。また、この地自体が神々の集う森として、かつては108の神々が祀られていました。




比叡山の土地の神・大山咋神を祀る東本宮。



 日吉大社の中心はもともと東本宮で、ここに祀られている大山咋神は神話の時代から比叡山の地主神として祀られた神です。いっぽう西本宮は667年に天智天皇大津京に遷都したとき、都の鎮護のために大和三輪山大神神社から勧請して大己貴神を祀ったものです。出雲大社の主祭神である大己貴神のほうが圧倒的に格上であるため、西本宮が「大比叡」と呼ばれ、地主神である大山咋神が一歩控えて「小比叡」と呼ばれるようになりました。現在は、ここを中心に上7社・中7社・下7社の計21社が祀られています。




天智天皇によって勧請された大己貴神を祀る西本宮。



 平安京に都がうつって京都が日本の中心地になってからは、ここ坂本・比叡山の地は京から見て鬼門の方角にあたることから都の魔除け・国家の鎮護・災難除けの神社として皇室の庇護をうけ、さらには土木建築の守護神ともいわれていたことから武家からの崇敬も厚かったそうです。武家が国の城主になったときにはここから分霊して神社を建て、国と城の鎮護の神としたそうです。




重要文化財の白山宮拝殿。境内のあちこちに摂社が点在します。



 伝教大師・最澄延暦寺を建立して以降は、天台宗の護り神として山岳信仰とも結びつき、仏教とも深い関係を持つようになります。延暦寺の僧兵が朝廷へ強訴を行うときには日吉大社の神輿が担ぎだされたというのは有名な話です。




社務所前の紅葉。



 ただ、このような僧兵の横暴はのちに織田信長公による焼き討ちをうける結果となり、日吉大社比叡山とともにすべて灰燼に帰しました。いまある建築物はそれ以降に再建されたもので、さらに明治維新以降の廃仏毀釈によって仏教関係のものが棄却され現在の形になったそうです。


アクセス
・JR湖西線「比叡山坂本駅」下車、徒歩15分・バス5分
・京阪電車石坂線「坂本駅」下車、徒歩5分
 日吉大社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人300円(小人150円)

拝観時間
・9時~17時

公式サイト
   山王総本山 日吉大社

本家鶴喜そば 滋賀のおいしいお店。

2005年11月19日 | ◆滋賀県
本家鶴喜そば本店


JR比叡山坂本駅を下車し、案内板にしたがって日吉神社に向かうと、鳥居の脇に「鶴喜そば」さんはあります。

お昼時に着いたためか、店の前には順番待ちの行列が
おおー、めっちゃ並んでる

ここは、享保初年に鶴屋喜八という方が坂本に蕎麦店を開業して以来280年の伝統の味と技術を守っている手打ちそばのお店で、そばだけでなく川魚料理や精進料理も楽しめるお店です。

店舗は1887年建築(築120年)。入母屋造りの2階立てで、濡れ縁には折鶴がくりぬかれているなどなかなか味のある店構えで、1997年には登録有形文化財にも指定されています。今年4月にはすべての畳を入れ替えるなど改装をおこなったので、座敷は禁煙となっています。

比叡山延暦寺には、皇室から座主を招いていた関係上、京都より貴族などの来賓が訪れることが多かったそうです。そのたびにここのご先祖が蕎麦を届けに山上に上がったそうです。また、断食の行を終えた修行僧たちの再開食としても重宝されたということです。


おまけ
となりにも「日吉そば」というお店がありますが、こちらはお客の姿はあんまりありませんでした。その昔、司馬遼太郎さんが坂本に取材に来たときに、「鶴喜そば」と勘違いして「日吉そば」に入ってしまい、気まずい思いをしたそうです(笑)ただ味のほうは両方とも遜色ないおいしさで、宣伝というかブランドの力の差がこんなにはっきり出るものなのかと驚きます。やっぱり行列のできる店に人は入りたがるものなんですねー。


○ざるそば <昼>    893 
○とろろそば<昼>  1,130 
○鴨なんばん<昼>  1,365 
○野菜天ざる<昼>  1,417 
○天ざるそば<昼>  1,680 


●ところ:滋賀県大津市坂本4-11-40
●連絡先:077(578)0002
●営 業:10時~18時
●定休日:第3金曜(祝日の場合は営業。代休あり) 
●行き方:JR湖西線比叡山坂本駅より徒歩10分
     京阪電鉄石山坂本線坂本駅より徒歩1分。