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神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

宇治・橋寺放生院。

2008年11月26日 | ◇京都府 -洛外


雨宝山 放生院 常光寺

(うほうざん ほうじょういん じょうこうじ)
京都府宇治市宇治東内11

通 称
橋 寺





〔宗派〕
真言律宗

〔御本尊〕
地蔵菩薩像
(じぞうぼさつぞう)



 古代より、北陸道から奈良・平城京を繋ぐ道として多くの旅人たちを見守ってきた奈良街道。宇治川に架かる宇治橋は、宇治を抜ける奈良街道を繋ぐ交通の要衝として重要な役割を果たしてきました。その宇治橋の東、京阪電車「京阪宇治駅」から歩いてすぐのところに、「宇治橋の守り寺」として人々の崇敬を集めてきた寺院があります。正式名称を「雨宝山放生院常光寺」というこの寺院は、通称「橋寺」もしくは「橋寺放生院」という名で広く親しまれている真言律宗の寺院です。




1631(寛永8)年の火災ののち再建されたといわれる本堂。



 橋寺の創建に関しては2つの説が伝えられています。ひとつは、優秀なブレーンとして聖徳太子から厚い信頼を寄せられていた秦河勝が、604(推古天皇12)年に聖徳太子の念持仏である地蔵菩薩像を祀る寺院として宇治川のほとりに建てた常光寺地蔵院橋寺の前身だという説。もうひとつは、646(大化2)年に大和国・元興寺(当時は法興寺と呼ばれていた)の僧侶・道登上人が初めてこの地に宇治橋を架けた際、工事の安全祈願のために川の傍に立っていた地蔵院の建物を造り替えたのを創建とする説です。

 当時は治水技術などもまだまだ十分なものではなく、大雨などのたびに激しい洪水に見舞われて何度も橋が流されるなどの被害が続き、宇治川のほとりにあった地蔵院も徐々に衰退していきました。そんな地蔵院の再興を行ったのが、鎌倉時代後期の真言律宗の高僧・叡尊上人です。大和国・西大寺の僧侶だった叡尊上人は、地蔵院の本尊・地蔵菩薩像が激しく損傷していたことに心を痛め、1281(弘安4)年に新たに大きな地蔵菩薩像を造り、傷ついていたそれまでの地蔵菩薩像をその胎内に納めて地蔵院を再興しました。

 さらに叡尊上人は、1286(弘安9)年に行われた宇治橋の再建に際し、宇治川の氾濫などで命を落とした人馬・魚介類などすべての菩提を弔うため、中州にある浮島に高さ約15mの巨大な十三重石塔を建立して供養のための盛大な放生会を営みました。このことに因んで地蔵院のことを「放生院」と呼ぶようになり、さらに叡尊上人の慈悲に溢れた思いに感銘を受けた後宇多天皇によって300石の寺領を与えられ、宇治橋や十三重石塔の管理を一任されたことから、「橋寺」とも呼ばれるようになりました。



 
国の重要文化財に指定されている宇治橋断碑(左)と、境内に立つ橋掛け観音像(右)。



 境内には、瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」、淀川を跨いで架けられていた「山崎橋」と並び、「日本三古橋」の一つである宇治橋の創建当時の経緯を刻んだ宇治橋断碑が立っています。天平時代に造られたといわれている宇治橋断碑は、もともと宇治橋の傍に立てられていたそうですが、宇治川の氾濫などでいつしか地中に埋没していました。この碑が境内の地中から発見されたのは、1791(寛政3)年のことでした。残念ながら、上の1/3の部分しか見つかりませんでしたが、鎌倉時代に記された史書「帝王編年記」にあった原文をもとに復元が行われ、1793(寛政5)年に現在の姿に修復されました。

 碑文には「名は道登と曰う。山尻恵満の家より出づ。大化2年丙午の歳、此の橋を構立す」と刻まれてあり、宇治橋が646(大化2)年に架けられていたことが分かります。この宇治橋断碑は、群馬県で発見された「多胡碑(たこのひ)」、宮城県で発見された「多賀城碑」とともに日本三古碑の一つといわれ、国の重要文化財に指定されたことから木造の覆屋の中に納められて保護されています。



 
石段を登った正面にある十二支守本尊像(左)と、近年建てられた石塔(右)。



アクセス
・京阪電車「京阪宇治駅」下車、南東へ徒歩2分
・JR奈良線「宇治駅」下車、東へ徒歩10分
橋寺放生院地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料(仏像観賞:300円、断碑観賞:200円) ※断碑の公開は3~5月、9~11月のみ

拝観時間
・9時~16時30分(冬季は9時~16時まで)








宇治・縣神社。

2008年11月22日 | ◇京都府 -洛外
縁結び・安産・商売繁盛・家内安全・病気平癒

縣神社

(あがたじんじゃ)
京都府宇治市蓮華72




宇治を訪れた人が一度は目にする大鳥居。この道を進むと縣神社に辿り着きます。


〔御祭神〕
木花開耶姫命
(このはなさくやひめのみこと)



 JR宇治駅を降り立ち、宇治橋通商店街を抜けて茶の香り漂う平等院の表参道へと向かう交差点まで来ると、巨大な石造りの明神鳥居が圧倒的な存在感をもってそびえ立っています。車道をひと跨ぎし、隣接するビルにもあと少しで接するのではないかという大きな笠木を持つこの大鳥居は、平等院の南西に位置する古社・縣神社に連なる参道へと導いてくれます。





縣神社の石鳥居(左)と、参道の左手に並ぶ摂社(右)。東位稲荷大明神や天神社の
奥には「縣祭」で用いられる「梵天」が祀られています。


 宇治を代表する古刹・平等院の裏鬼門の方角・南西に位置する縣神社は、山の神である大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘で、高天原より降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚して日嗣の皇子を産んだ女神・木花開耶姫命を御祭神に祀る神社です。神社名である「」の由来は2説あり、ひとつは木花開耶姫命の別名である「吾田津姫(あがたつひめ)」からついたという説、もうひとつは古代の行政区で朝廷の直轄地だった宇治県の守護神として祀られていたことから付けられたという説があります。





桧皮葺の本殿は江戸時代に再建され、拝殿は1936(昭和11)年に再建されました.。



 神代の頃からの地主神だとされており、藤原道綱母が975(天延3)年ごろに書き上げたといわれる『蜻蛉日記』には宇治の「縣の院」に訪れたエピソードが書かれている事から、少なくとも1,000年以上の歴史を持つ古社だといわれています。1052(永承7)年に藤原頼通卿が父の遺した別荘・「宇治殿」を寺院に改めて平等院を開創した際には、宇治神社宇治上神社の前身である「宇治離宮明神」と並んで鎮守社とされました。平等院の開山が三井寺(園城寺)のや天台座主も務めたことのある高僧・明尊上人だった関係から、明治維新に至るまでは滋賀県大津市にある三井寺円満院の管理下にありました。春の大祭には円満院の院主が毎年宇治を訪れて国家安康の護摩法要を行っていたそうですが、明治維新の後に出された神仏分離令によって三井寺から独立したそうです。





社殿の左手にある「木の花桜」(左)と、右手にそびえ立つ見事なムクノキ(右)。



 縣神社は、「縣祭」と呼ばれる奇祭が行われることでも有名です。縣祭は江戸時代に始まったといわれるお祭りで、毎年6月5日の夜から6日の未明にかけて行われる事から「暗夜の奇祭」という別名を持ち、神が乗るとされる「梵天」と呼ばれる祭具を神輿に乗せて練り歩きます。当日は通りに露店が立ち並び、10万人を越える人々で賑わいます。しかし、現在は梵天の渡御を巡り、地元の人々が中心となって支える縣神社側と、大阪の堺や兵庫の姫路などの氏子たちが中心となって支える県祭奉賛会が対立し、それぞれが梵天を用意して分裂開催を行う残念な事態となっています。

 もともと梵天は、宇治神社にある御旅所を出発し、縣神社で「神移し」神事を行って神さまをお乗せしたのち、宇治神社へと巡行。そして、最終的には縣神社まで帰ってきて神さまを戻す「還幸祭」を行う事になっていますが、2003(平成15)年の梵天渡御の際に「還幸祭」が行われなかった事から、以前からギクシャクしていた両者の対立が決定的となり、翌年から分裂開催となったそうです。また、旧宇治郡の氏神である宇治神社旧久世郡宇治県の氏神である縣神社との御祭神を巡る長年に渡る対立や、南北朝の争乱期に平等院周辺を焼き払った楠木正成公や、応仁の乱の際に宇治を蹂躙した畠山勢など、歴史的に虐げられてきた宇治の人々が畿内勢力や他所者に対して持つ潜在的なアレルギーなども、地元以外の大阪・兵庫の人々で構成されている県祭奉賛会との対立に影響を与えているような気がします。





参道右手に立つ祖霊社(左)と、境内に住み着いているマイペースなわんこ(右)。


アクセス
・JR奈良線「宇治駅」下車、徒歩10分
・京阪電車「宇治駅」下車、徒歩7分
縣神社地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放








宇治・平等院。

2008年11月19日 | ◇京都府 -洛外


朝日山平等院

(あさひさん びょうどういん)
京都府宇治市宇治蓮華116 







平安美の象徴である鳳凰堂。御本尊の阿弥陀如来像が安置されています。


〔宗派〕
天台浄土宗
(単立寺院)

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)



 「宇治」の代名詞といっても過言ではないほど全国に名高い平等院。御本尊である阿弥陀如来坐像が安置されている本堂・「鳳凰堂」は、「観無量寿経」に記された阿弥陀如来の宮殿を模したといわれる美しい建物で、伝説上の瑞鳥・鳳凰が両翼を広げるさまを表現しています。その美しい姿は10円硬貨や新1万円札のデザインにも採用されるなど、日本を代表する建築物として国内外を問わず多くの人々に愛され続けています。

 都からの交通の便も良く、景観も美しい風光明媚な宇治には、平安時代から多くの貴族たちが別荘を構えていました。嵯峨天皇の12男で「河原左大臣」と呼ばれ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルになったといわれる源融卿もその一人で、宇治川のほとりに別荘「宇治院」を築いてこの地の景色を愛していました。宇治院はその後、宇多天皇から源重信卿の手へと渡り、998(長徳4)年になって全盛期を迎えていた摂政・藤原道長卿の別荘となって「宇治殿」と呼ばれるようになります。



 
1654(承応3)年に創建された天台宗寺門派系の子院・最勝院の不動堂(左)
不動堂の脇にひっそりと祀られている源三位頼政公の墓所(右)




 藤原道長卿の没後、宇治殿は息子である関白・藤原頼通卿によって1052(永承7)年に寺院に改められ、園城寺長吏天台座主も務めた高僧・明尊上人を開山に迎えて平等院が開創されました。この年は釈尊が入滅して2,000年後に訪れるといわれる「末法」の初年にあたり、仏法が廃れて世の中が荒廃に向かうのではと不安に包まれていた貴族たちの極楽往生を求める思いを体現した平等院は、「末法思想」が産んだ平安時代の浄土信仰を象徴する寺院として人々の厚い信仰を集めていました。

 創建当初は大日如来を御本尊としていましたが、翌1053(天喜元)年に現在「鳳凰堂」と呼ばれている本堂・阿弥陀堂が建立された際、平安時代を代表る仏師・定朝が彫り上げた阿弥陀如来像が御本尊とされるようになりました。阿弥陀堂が建てられた後も多宝塔や法華堂など諸堂が建てられるなど、堂々たる威容を誇る寺院となった平等院ですが、藤原氏の衰退と共に苦難の道を歩むことになります。



 
15世紀末の明応年間に創建された浄土宗系の子院・浄土院(左)と、
その境内の隅に1640(寛永17)年に建てられた羅漢堂(右)




 武士の台頭によって源氏と平家が激突した平安時代末期。平家の専横に対し全国の源氏に決起を促した以仁王源頼政公は、宇治川で平知盛公率いる平家軍と戦火を交え、戦いに敗れた源頼政公は平等院の境内で自刃して果てます。この時には直接的な被害を受けることはありませんでしたが、南北朝の対立が激化していた1336(建武3)年に宇治を戦場として足利尊氏方の畠山高国公と戦った南朝方・楠木正成公によってこの一帯に火が放たれ、阿弥陀堂を残して伽藍の大半が焼失してしまいました。

 その後も応仁の乱などの兵火によって荒廃が進み、内部でも天台宗勢力である子院・最勝院と浄土宗勢力の浄土院との間で平等院の管理運営や権益などを巡って対立が起こるなど波乱の時代を迎えますが、1680(延宝8)年頃に阿弥陀堂の再興が行われ、翌1681(天和元)年には寺社奉行の裁定によって天台宗と浄土宗の共同管理として双方の住職が交互に管理することで内部対立にも終止符が打たれます。この頃から阿弥陀堂は「鳳凰堂」と呼ばれるようになりました。

 『源氏物語』では主人公・光源氏の別荘「宇治殿」のあった場所とされ、『宇治十帖』の「椎本の巻」では宇治川のほとりに隠棲する八の宮の娘たちに興味を持った匂宮が、初瀬詣でを口実に宇治を訪れた際、光源氏から長男の夕霧に譲り渡されていた宇治殿を訪問する場面が描かれています。



 
博物館「鳳翔館」を美しく彩る紅葉(左)と、その脇に建つ養林庵書院(右)。



アクセス
・JR奈良線「宇治駅」下車、東へ徒歩10分。
・京阪電鉄「京阪宇治駅」下車、徒歩10分。
平等院地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:600円、中高生:400円、小人:300円 (鳳凰堂内部は別途300円)

拝観時間
・8時30分~17時30分 (※受付終了:17時15分)

公式サイト
  平等院公式サイト








宇治・宇治上神社。

2008年11月15日 | ◇京都府 -洛外
合格祈願・開運

宇治上神社

(うじがみじんじゃ)
京都府宇治市宇治山田59







宇治神社から北へ100mほど離れた地に鎮座する宇治上神社。


〔御祭神〕
菟道稚郎子尊
(うじのわきいらつこのみこと)
応神天皇
(おうじんてんのう)
仁徳天皇
(にんとくてんのう)


 宇治神社の脇を伸びる「さわらびの道」を進み、その名のもととなった「早蕨の碑」に心を留めつつ100mほど歩みを進めると、朱塗り鮮やかな鳥居のもとへ辿り着きます。木々に囲まれ、あたかも古の貴人が隠棲する草庵の如き境内に一歩踏み入れると、平安の名残りが色濃く残る寝殿造りの拝殿と、前垂注連に結界された中に円錐形に盛られた「清め砂」と呼ばれる盛砂が、否が応でもここが神々を祀る厳かな地であるという事を気付かせてくれます。この神社の名は宇治上神社。南接する宇治神社と一対の社として、明治維新まで「宇治離宮明神」などと称されて人々の崇敬を集めていた古社です。




朱塗りの鳥居をくぐって参道を進むと、豊かな木々に囲まれた境内へと辿り着きます。


 宇治上神社は、前述したように宇治神社と一対として建てられた神社で、「宇治離宮明神」、「離宮八幡」などと呼ばれていた古称にちなみ、「離宮下社」と呼ばれていた宇治神社に対し、「離宮上社」と呼ばれていました。

 応神天皇の息子である兄皇子・大鷦鶺命(のちの仁徳天皇)との間で「百世の美徳」と賞賛される皇位の譲り合いを繰り広げた末に、自ら宇治川に入水することによって継承問題にピリオドを打った悲運の皇子・菟道稚郎子命の遺徳を偲び御魂を安らかしめるために、その邸宅跡に建立されたというのが宇治上神社宇治神社の起源とされています。また、神託を受けた醍醐天皇が901(延喜元)年に社殿を設けたのが始まりともいわれていますが、詳細は定かではありません。



 
宇治上神社の拝殿。



 『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとされる源融卿が、美しい景観を誇る宇治川のほとりに建てた別荘・宇治院。藤原氏の全盛期を築いた藤原道長卿は、宇多天皇から源重信卿の手へと渡っていた宇治院を手に入れ、別荘「宇治殿」を営みました。1052(永承7)年には、その子・藤原頼通卿が宇治殿を寺院に改めて平等院と名付けます。この時、鎮守社と定められたのが宇治離宮明神、今の宇治上神社宇治神社でした。1067(治暦3)年に後冷泉天皇平等院に行幸した際、その鎮守社である宇治離宮明神に対して正三位の神位授与を行ったことが文献に残されています。毎年5月に行われた例祭には、藤原氏から神馬が奉納され、散楽等も奉仕されたそうです。

 その歴史を裏付けるように、覆屋と呼ばれる建物の中に鎮座する3社の本殿は、年輪測定法に基づく調査によって平安時代末期の1060(康平3)年頃に切り出された木材を使って建立されたものであることが判明しました。その前に建つ拝殿も鎌倉時代初期に切り出された檜を使い、平安時代に貴族の邸宅で数多く用いられた寝殿造りによって建てられた建物です。

 拝殿の右手には、室町時代に選定された「宇治七名水」の1つである桐原水(きりはらすい)が、今もなお澄んだ清水を湧出しています。残念ながら、残りの高浄水泉殿百月夜公文水法華水阿弥陀水は、宅地造成や工場建設などのために枯渇し、現在も清水を湛えているのは桐原水のみとなっています。




社殿覆屋。この中に平安時代後期に建てられた3つの本殿が並んで鎮座しています。



 御祭神・菟道稚郎子命をモデルとして描かれたといわれる『源氏物語』の『宇治十帖』の登場人物・八の宮光源氏の異母弟である八の宮は、政争に倦んで宇治川のほとりに隠棲しますが、その邸宅とされた場所が、現在宇治上神社宇治神社が建つエリアにあったといわれる菟道稚郎子命桐原日桁宮跡といわれています。この2つの神社の間には、『源氏物語』の第四十八帖・「早蕨」を偲ぶ碑が建てられています。



 
鎌倉時代建立で藤原氏の氏神を祀る春日神社(左)と宇治2社の間に立つ「早蕨の碑」(右)。


アクセス
・京阪電車「宇治駅」より南へ徒歩約5分
・JR「宇治駅」より東へ徒歩約13分
宇治上神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~16時30分






宇治・宇治神社。

2008年11月13日 | ◇京都府 -洛外
合格祈願・開運

宇治神社

(うじじんじゃ)
京都府宇治市宇治山田1





塔の島から宇治川東岸へと架けられた朝霧橋の向こうに、宇治神社の鳥居が見えます。


〔御祭神〕
菟道稚郎子尊
(うじのわきいらつこのみこと)


 京都の南東に位置する宇治。美しい宇治川の風景は平安時代の頃から貴族たちに愛され、全盛時代の藤原道長卿の「宇治殿(現在の平等院)」が設けられるなど、数多くの貴族がこぞってこの地に別荘を構えていました。また、宇治は紫式部の『源氏物語』の『宇治十帖』の舞台となったことでも有名で、宇治川の東には「宇治市源氏物語ミュージアム」が建てられるなど、平安時代の優雅な恋絵巻の香りを楽しもうと多くの観光客で賑わいを見せています。そんな宇治川のほとり、朝霧橋の東詰に美しい木々に囲まれた古社・宇治神社が鎮座しています。隣接する宇治上神社と並び、『宇治十帖』ゆかりの神社として人々の崇敬を集めています。



 
宇治川のすぐ傍に建つ朱塗り鮮やかな鳥居(左)と、参道の奥に建つ拝殿(右)。


 宇治神社は、応神天皇(八幡大神)の皇子である菟道稚郎子命を祀る神社です。この地は応神天皇の離宮とも関わりがあったといわれ、また菟道稚郎子命の造営した桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)跡ともいわれているため、古くは離宮八幡宮桐原日桁宮宇治離宮明神と呼ばれていたそうです。

 父である応神天皇は、後継者である皇太子の位を実兄である大鷦鶺命(仁徳天皇)でなく菟道稚郎子命と定めますが、菟道稚郎子命大鷦鶺命に皇位継承権を譲って宇治へと隠棲します。大鷦鶺命もこの継承を望まず、譲り合いを重ねて3年もの月日が流れました。その葛藤から、死をもって節を通そうとして菟道稚郎子命はついに宇治川に入水して自ら命を絶ってしまいます。運命に翻弄された悲しい最期を悼んで皇子の邸宅跡にその御魂を祀る社を建てたのが宇治神社の起源だといわれています。宇治神社には、悲運の皇太子を偲び、菟道稚郎子命の等身大の坐像が祀られています。

 宇治エリアの産土神として崇敬されていた離宮八幡宮は、平安時代に平等院が建てられた際には鎮守社とされて藤原氏からのバックアップを受け、繁栄の時代を迎えました。明治維新までは隣接する宇治上神社と2社一体とされ、宇治上神社は「離宮上社」、宇治神社は「離宮下社」と名付けられていました。鎌倉時代に建立された流造りの本殿は国の重要文化財に指定され、毎年6月8日には離宮祭と呼ばれる例祭が行われて田楽や神輿の巡行などが行われています。




宇治神社の社殿。


 御祭神である菟道稚郎子命の伝説をモデルとして描かれたのが、『宇治十帖』で桐壺帝の第8皇子(光源氏の異母弟)として登場した「八の宮」です。東宮時代の冷泉帝を廃して八の宮を担ごうとする陰謀に巻き込まれ、さらに出産がもとで最愛の妻をも失った八の宮は、都の邸宅を火事で焼失したことも重なって、世を儚み宇治に隠棲して仏教に傾倒していました。同じく出生の秘密に悩み、世を儚む薫君が宇治の八の宮邸を訪れ、その人柄と信心の厚さに感銘して親交を重ねるところから『宇治十帖』は始まります。




朝霧橋から見た宇治川上流の風景。平安の昔から変わらぬ静かな時が流れています。


アクセス
・京阪電車「宇治駅」より南へ徒歩約5分
・JR「宇治駅」より東へ徒歩約13分
宇治神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放






長岡京・乙訓寺。

2007年09月12日 | ◇京都府 -洛外

大慈山乙訓寺

(だいじさん おとくにでら)
京都府長岡京市今里3-14-7

洛西三十三観音霊場・第6番札所





〔宗派〕
真言宗豊山派

〔御本尊〕
合体大師像
(がったいだいしぞう)



 7世紀のはじめに推古天皇の勅願によって聖徳太子十一面観音像を御本尊として創建したのが乙訓寺の始まりといわれ、京都最古の寺院といわれる広隆寺とほぼ同時期の建立ではないかと見られています。桓武天皇が長岡京へ遷都した際には「京内七大寺」の筆頭としての寺格を与えられて大規模な伽藍の増築が行われたそうです。

 ちなみに「乙訓」という地名は山城国葛野郡から新しい郡を分離させる際、葛野を「兄国」、新しい郡を「弟国」と呼んだことから付いた名前だといわれています。越前国から王朝を継いだ継体天皇が518年に河内国で即位されたのち、同年3月に都を移したのが「弟国」といわれ、その時に宮を築いたのが乙訓寺のあるあたりだといわれています。




空海が唐から持ち帰ったという故事から植えられた蜜柑の木。



 784(延暦3)年に行われた長岡京への遷都。天武系から天智系への皇統の移動、南都仏教勢力の政治力を削ぐため、大仏建立後も災難が続くなど鎮護都市としての効力に期待が持てなくなったため、など様々な理由が考えられますが、新都造営にかかる莫大な出費や南都仏教勢力の抵抗など、遷都への反対意見も強かったようです。

 そんな状況で始められた長岡京の造営工事のさなか、建都長官の藤原種継卿が建築現場で暗殺されるという大事件が起きます。たちまち容疑者として遷都反対派だった大伴一族が検挙され、一族の長・大伴継人卿が斬罪の処されます。さらに大伴一族と深い交流があったという理由で、桓武天皇の異母弟である早良親王が黒幕の嫌疑を掛けられて乙訓寺に幽閉されるという事態に発展します。




長岡京市の指定文化財である本堂。



 実の息子・安殿親王への譲位を望む桓武天皇にとって、幼少期に東大寺で修行し、還俗して親王となったのちも奈良の寺院勢力に対して影響力を持っていた早良親王に対する警戒は強かったはずで、暗殺事件に乗じて無実の罪を被せて陥れたと考えられます。早良親王は身の潔白を訴え、断食して抗議しますが、淡路島への流罪となって護送される途中、淀川沿いの河内国高瀬橋付近で衰弱して無念の死を遂げます。しかし遺骸は都に戻されることなく、非情にもそのまま淡路島へ送られて葬られました。

 それ以後桓武天皇の周囲を襲った悲劇は凄まじく、夫人である藤原旅子と母・高野新笠が相次いで亡くなり、皇后・藤原乙牟漏までもが31歳の若さで急逝します。安殿親王も病いに伏せることが増え、悪疫の流行や天変地異が相次いで起こり、「早良親王の怨霊の成せる業である」ということで親王鎮魂のために様々な対策を施しますが、最終的に風水的により怨霊から身を護ることが出来る都・平安京への遷都を行うに至りました。




ご本尊「合体大師像」でゆかりの深い八幡宮が鎮座しています。



 811(弘仁2年)になると、嵯峨天皇の勅命を受けた弘法大師・空海が別当として乙訓寺にやってきます。唐に渡り、長安の青龍寺で密教第7祖である恵果和尚の灌頂を受け、真言密教の奥義を極めて帰国した空海に大きな関心を寄せていた嵯峨天皇にとって、早良親王ゆかりの乙訓寺空海を配したのは、その霊験で怨霊を鎮めるという効果も期待してのことだったと思われます。

 翌年10月には、乙訓寺において初めて空海最澄が顔をあわせました。唐で学ぶ期間の短かった最澄にとって、空海から学ぶ「真言の法」は大変有意義なものだったと考えられます。その後2人は宗教観の違いから袂を分かつ結果となりましたが、仏教界の両巨頭が始めて対面した場所として、乙訓寺は大きな舞台の役割を果たしました。




修行大師像



 菅原道真公を重用したことで有名な宇多天皇は、醍醐天皇へと譲位したのち仁和寺で出家して法皇となり、897(寛平9)年に乙訓寺を行在所として移られてきました。これにちなんで乙訓寺「法皇寺」とも呼ばれるようになりました。室町時代には内紛が起こるなど次第に寺勢は衰えを見せます。足利義満公によって僧侶たちの追放が行われて南禅寺伯英禅師が配され、一時期乙訓寺は禅寺となったこともありました。戦国時代の兵火に巻き込まれたことも時勢の衰退に拍車をかけたようです。

 江戸時代中期、乙訓寺徳川綱吉公の大きな信任を受けた新義真言宗の僧・隆光の手によって再興が行われ、境内の整備がなされて再び真言宗の寺院として勢力を取り戻すこととなりました。隆光が学んだ長谷寺は7000を越える牡丹でも有名で、その縁から昭和に入って長谷寺から牡丹が移されて境内を彩っています。




国指定の重要文化財・毘沙門天立像が納められている毘沙門堂。



アクセス
・阪急電車「長岡天神駅」下車、北へ徒歩15分
・阪急電車「長岡天神駅」より阪急バス20系統にて「薬師堂」下車、北東へ徒歩3分
 乙訓寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人300円、小人100円

拝観時間
・8時~17時

公式サイト
   京都洛西・乙訓寺

長岡京・角宮神社。

2006年09月12日 | ◇京都府 -洛外
雨乞いの神様・農業守護・商売繁盛・安産

角宮神社

(すみのみやじんじゃ)
京都府長岡京市井ノ内南内畑35



閑静な住宅地の中にこんもりとした森。ここが角宮神社です。


〔御祭神〕
火雷神
(ほのいかづちのかみ)
玉依姫命
(たまよりひめのみこと)
建角身命
(たけつのみのみこと)
活目入彦五十狹茅尊
(いくめいりひこいさちのみこと)



 弘法大師の開基といわれる乙訓寺。その境内の西側に接する道をまっすぐ北上していくと、道の交差する角に鎮座している神社があります。ここが角宮神社です。乙訓郡19座のひとつ、延喜式にもその名を連ねる乙訓坐火雷神社(ほのいかづち)がその前身といわれています。「山城国風土記」には、賀茂建角身命の娘である玉依姫丹塗矢と結ばれ、上賀茂神社のご祭神である賀茂別雷神が誕生したという話が書かれていますが、この「丹塗矢」が角宮神社のご祭神である乙訓坐火雷神だといわれています。







 乙訓の火雷神は「続日本紀」の中にも名を残しています。702(大宝2)年の出来事を書いた記事に、日照りのたびに「乙訓郡火雷神」に雨乞いをしたことが書かれています。それ以来、雨乞いの神さまとして度々書物に名前が見られるようになりました。




本殿の手前にある拝殿。その手前には磐座があります。



 社伝には、512(継体天皇6)年に勅命を以って「乙訓社」が建てられて火雷神が祀られるようになったと書かれています。また、桓武天皇の勅命で玉依姫命建角身命活目入彦五十狹茅尊の3神が合祀され、「角宮乙訓大明神」と呼ばれるようになったことや、天皇の行幸があったことなどが書かれています。




乙訓郡火雷神はじめ4神を祀る本殿です。



 1221(承久3)年に後鳥羽上皇が倒幕のために挙兵した「承久の変」では、東国から攻め寄せた鎌倉幕府軍の猛攻の前に朝廷軍は総崩れとなり、角宮乙訓大明神も兵火に巻き込まれて全てが灰燼に帰してしまいました。その後、社はなかなか復興が許されませんでしたが、1464(文明16)年に再興されたそうです。 




社殿の右側に並ぶ摂社。



アクセス
・阪急電車京都線「西向日駅」下車、西へ徒歩10分。
 角宮神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

長岡京・走田神社。

2006年09月05日 | ◇京都府 -洛外
早稲田の守護神・無病息災・五穀豊穣

走田神社

(はしりだじんじゃ)
京都府長岡京市奥海印寺走田3



走田神社の「走田」とは「走り稲=早稲」を作る水田、という意味です。


〔御祭神〕
天津兒屋根神
(あめのこやねのかみ)

武甕槌神(たけみかづちのかみ)
経津主神(ふつぬしのかみ)
姫大神(ひめのおおかみ)


 長岡天満宮から北西に2㎞ほどのところ、バス道沿いに建つ長岡京市在宅介護センターのすぐ脇に、白い鳥居が建っています。この鳥居をくぐった奥に鎮座しているのが走田神社です。走田神社は延喜式内社に列せられる由緒ある神社だったといわれており、かつては妙見菩薩が合祀されていたため「妙見社」とよばれていました。




鳥居の奥の100段以上の石段を登ると、能舞台と社殿のある境内に着きます。



 平安時代のはじめの頃の話。嵯峨天皇の命を受け、鎮護国家のための大寺院の建立地を捜し求めていた弘法大師の高弟・道雄僧都は、夢の中に現れた童子より長岡京の西山の地に適地があるとの啓示を受けます。夢に従ってこの地を訪れた道雄僧都の前に姿を現した童子は、「吾はこの山を守護する妙見菩薩なり。寺院建立の暁には千手観音を本尊に崇め、吾を走田神社に合祀せよ」というお告げを残したといいます。

 やがてこのお告げにしたがってこの地に築かれた大寺院が「海印寺」ですが、残念ながら応仁の乱で焼失してしまい、現在は塔頭であった寂照院のみが残っています。海印寺建立の前からこの地に鎮座していたといわれる走田神社奥海印寺村長法寺村の産土神として村人たちの崇敬を集めていました。海印寺が建立された際、走田神社寂照院の鎮守社とされ、お告げの通り妙見菩薩が合祀されたそうです。その後、明治維新以降の神仏分離令にともなって妙見菩薩像は寂照院に遷され、社号も正式に「走田神社」と呼ばれるようになりました。




江戸時代後半に再建された社殿。



 実際のところ、この走田神社=延喜式内社の走田神社かどうかは定かではありませんが、1825(文政8)年に再建された社殿には1483(文明15)年の写しが残されていますので、少なくとも500年以上の歴史を持つ古社であることは間違いありません。




拝殿脇の摂社。社号は分かりませんが、お稲荷さんだと思われます。



 走田神社のお祭りで有名なのが、正月13日に行われる「弓講」です。無病息災や五穀豊穣を祈念して行われる「弓講」では、羽織袴に身を包んだ2人の射手が、合わせて12本の矢を直径約1.3メートルの的に向かって射ます。12本の矢は睦月から師走までの月を表しているそうで、矢が的の中央の黒点に命中すれば、その月は豊作になるといわれています。

 参詣人は、神事が終わると的の両側に立ててある御幣に一斉に押し寄せます。この御幣を見事とることができた人は、1年間息災に暮らせるといわれています。


アクセス
・阪急京都線「長岡天神駅」またはJR「長岡京駅」下車、阪急バス「明神前」バス停下車すぐ。
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

長岡京・長岡天満宮。

2006年05月30日 | ◇京都府 -洛外
学業成就

長岡天満宮

(ながおかてんまんぐう)
京都府長岡京市天神2-15-13

阪急沿線・三天神めぐり



駅から長岡天満宮へ向かうと、まずこの鳥居が目に飛び込んできます。


〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざね)



 阪急電車の駅においてあるガイドを片手に、菅原道真公ゆかりの長岡天満宮へと向かいます。阪急電車「長岡天神駅」の前には看板も建っていて、遠目に鳥居も見えるほどの距離でした。鳥居への石段を上がると、左右には満々と水をたたえた八条ヶ池がひろがり、正面には境内へと続く霧島ツツジの植えられた石橋が伸びています。




樹齢150年以上といわれているツツジ。見ごろは4月下旬です。



 長岡京桓武天皇の時代、平城京から平安京へと遷都される間、都が遷された場所でした。遷都に関する経緯は、「政治への圧力を増した仏教勢力の力を削ごうとした」という内容しか書かれていない教科書には載らない、様々な舞台裏がありました。

 壬申の乱を起点として、天智天皇系の子孫と天武天皇系の子孫の皇統の争いが続いていたこの時代、光仁天皇の代にようやく天智系に皇位が戻ってきたのを受けて、その子桓武天皇天武系の影響力の強い奈良・平城京を捨て、山城国乙訓郡長岡の地に新たな都を造営する決意をしました。784(延暦3)年のことでした。




本殿へ向かう参道。厳粛な気持ちになります。



 ただ、長岡京移転に当たってはいろいろなトラブルが起きました。翌785(延暦4)年には造営長官を務めていた藤原種継卿が造営現場で暗殺され、その暗殺に関わったとして遷都反対派だった大伴一族の長・大伴継人卿が処刑されます。そして、この一件に加担したとして桓武天皇の弟・早良親王も皇太子(次期天皇)の座を追われて乙訓寺に幽閉され、その後流罪にされます。

 もともと奈良東大寺で僧侶の修行を行い、ゆくゆくは東大寺別当(代表者)になる予定だった早良親王は、その奈良の仏教界との強い繋がり故に疑惑を持たれます。また、弟よりは実の息子に皇位を継がせたいという思いも、早良親王の皇太子廃位に繋がったのではないでしょうか。身の潔白を訴えてハンガーストライキを続けた早良親王は、流刑地・淡路島へと向かう途中憤死してしまいました。

 この当時には、無実の罪で命を落とした者は必ずタタリをなして災いを起こすという怨霊思想がすでに存在しており、早良親王の憤死ののち周辺で次々に起こる不幸に、桓武天皇も「早良親王の祟りに違いない」と非常に恐れを抱き、親王の菩提を弔って怒りを静めるために様々な対策を行いますが、最終的には長岡京を捨てて陰陽道的により怨霊を防ぐ装置が揃っている平安京の地へと遷都を行う結果になり、わずか10年で長岡京は都としての役目を終えることになりました。




現在の社殿は、1941(昭和16)年に平安神宮の社殿を移築したものです。



 現在天満宮が建っている辺りは菅原道真公の所領だったといわれており、在原業平卿たちを招いて詩歌管弦を楽しまれた場所でもあります。901(延喜元)年に大宰府へと左遷された時、この地を訪れた菅原道真公は都との別れを惜しみつつ「我が魂、長くこの地に留まるべし」と詠まれたそうです。ここを発つとき、菅原道真公が名残惜しそうに何度も何度も振り返っていたというエピソードから「見返り天神」という呼び名がつけられています。その後、大宰府へと同行した臣下の中小路宗則卿が都へと戻ってきたのち、主君自らが刻んだ木像を祀ったのが長岡天満宮の起こりだといわれています。




前田家から寄贈された太鼓橋。



 この地は1623(元和9)年には桂離宮を造営したことで知られる八条宮家の領地となり、1638(寛永15)年には、宮家によって灌漑用のため池が造営されて八条ヶ池と呼ばれるようになりました。池を横切る太鼓橋は加賀の前田家から寄進されたもので、1676(延宝4)年と1690(元禄3)年には社殿の改築も行われました。




八条ヶ池の六角堂からみた景色です。



アクセス
・阪急電鉄京都線「長岡天神駅」下車、西へ徒歩10分
・JR京都線「長岡京駅」下車、西へ徒歩20分

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
   長岡天満宮公式ホームページ