毘沙門堂
(びしゃもんどう)
京都市山科区安朱稲荷山町18
神仏霊場京都 楽土の道・第47番札所
通 称
毘沙門堂門跡
住宅街を抜ける緩やかな上り坂の先にある、緑豊かな毘沙門堂の森。
〔宗派〕
天台宗延暦寺派
〔御本尊〕
毘沙門天像
(びしゃもんてんぞう)
JR山科駅を降りた先の踏切脇に立つ案内板に従って歩を進め、住宅街の中を切り裂くようにまっすぐ北に伸びる緩やかな上り坂を進んでいくと、「天台宗京都五門跡」のひとつ、毘沙門堂へと辿り着きます。毘沙門堂がある安朱稲荷山町の「安朱(あんしゅ)」はもともとあった地名ではなく、江戸時代に入ってから「安祥寺村」と「朱雀村」が合併したことによって作られた地名です。兵庫県にも2005(平成17)年に城崎郡香住町と美方郡美方町・村岡町が合併し、香住の「香」と美方の「美」を合わせて命名された「香美町」がありますが、今も昔も同じような発想で命名された町名があることに面白さを感じます。
急峻な石段(左)を登った先に立つ、1665(寛文5)年建立の仁王門(右)。
毘沙門堂の正式な名称は護法山安国院出雲寺。代々皇族が住持を務める門跡寺院だったために「毘沙門堂門跡」とも呼ばれています。寺伝によると、文武天皇の勅願によって703(大宝3)年に行基上人が建立した出雲寺がルーツだといわれています。出雲寺はもともと山科にあったわけではなく、上御霊神社が鎮座している京都市上京区の地にあったと考えられています。この付近からは奈良時代前期に作られたとみられる瓦が出土しており、この地に寺院とおぼしき建造物があったことは確かなようです。出雲寺は伝教大師最澄が自ら彫られたといわれる毘沙門天像を御本尊としていたことから「毘沙門堂」とも呼ばれていました。しかし平安時代末期には寺勢は衰退し、荒れ寺となってしまいます。
伝教大師最澄自らが刻まれたと伝えられる毘沙門天像を安置する本堂。
出雲寺が復興されたのは鎌倉時代に入ってからのこと。1174(承安4)年に出家して円智と名乗り、大原に隠棲していた平親範卿は、父・平範家卿が伏見に建立するも焼失し、御本尊のみが残るだけという状態になっていた護法寺の再建を行います。再建された護法寺は1195(建久6)年に出雲寺があった地へと移され、この時に桓武平氏の祖・葛原親王が開いた平等寺と平親信卿が開いた尊重寺という平家ゆかりの寺院も合併させます。この寺院は出雲寺の寺籍を引き継いだため、ここに「護法山出雲寺」の復興が果たされることになりました。鎌倉時代から室町時代にかけて洛北の桜の名所としてその名を知られていた毘沙門堂も兵火に巻き込まれて焼失。再び苦難の時期を迎えます。
本堂の右手には経堂(左)や弁天社(右)などが立ち並んでいます。
慶長年間(1596年~1614年 )に入り、徳川家康公のブレーンとして江戸幕府の朝廷政策や宗教政策に深く関わっていた天台宗の僧・天海僧正が毘沙門堂の再建に乗り出します。江戸幕府によって山科の古刹・安祥寺の寺領の一部を与えられた天海僧正は志半ばで没しますが、弟子の公海大僧正が遺志を継いで再建を進め、1665(寛文5)年に諸堂が整備されて復興されました。
毘沙門堂は第4代将軍・徳川家綱公が大壇越となるなど強力なバックアップを受けて財政的にも安定、さらに1674(延宝2)年に後西天皇の第6皇子・公弁法親王が毘沙門堂で受戒、天台座主を務めたのちの1715(正徳5)年にここに隠棲したことから、代々出家して僧籍となった親王である法親王が住持を務める門跡寺院となり、「毘沙門堂門跡」と称されて隆盛を極めるようになりました。
本堂の奥に立つ宸殿(左)。右は狩野永叔の手による見事な天井龍の図。
本堂や御霊殿、そして後西天皇の旧殿を拝領して移築したことから宸殿と呼ばれる書院は狩野派の画家の手による襖絵などで飾られており、中でも狩野永叔によって御霊殿の天井に描かれた「天井龍の図」や、見る位置を移動すると描かれた机の向きが変化して見えるという狩野益信筆の「九老之図」、円山応挙によって描かれた「鯉の図」など、数多くの文化財に満ちた境内はなかなか見応えがあります。
宸殿の奥に広がる晩翠園。秋には紅葉の朱に染め上げられます。
アクセス
・JR「山科駅」から北へ徒歩20分
・京阪電鉄京津線「京阪山科駅」下車、北へ徒歩20分。
毘沙門堂地図 【境内MAP】 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.
拝観料
・境内無料 ※宸殿・晩翠園へは拝観料が必要。(大人:500円、高校生:400円、小中学生:300円)
拝観時間
・8時30分~17時