神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・厳島神社(兵庫)。

2008年05月26日 | ■神戸市兵庫区
開運招福・陸海交通安全・芸能学業成就

厳島神社(兵庫)

(いつくしまじんじゃ)
神戸市兵庫区永沢町4-4-21

清盛七弁天・「おしゃれ弁天」





〔御祭神〕
市杵嶋姫命
(いちきしまひめのみこと)


 奈良時代に行基上人によって開港されていた大輪田泊は、平清盛公によって日宋貿易の拠点となるべく大改修が行われ、1174(承安4)年には経ヶ島と呼ばれる37ヘクタールほどの広さの人工島が難工事の末に完成するなど国際貿易港として整備が進められました。1180(治承4)年、平清盛公は宿願だった大規模港湾整備事業の完成を祝う意味と大輪田泊の繁栄を祈願するため、平家一門が守護神として厚く崇敬している安芸国・宮島厳島神社より市杵嶋姫命を勧請しました。宮島にある7つの海岸にちなんで兵庫エリアに建てられた7か所の弁天社(真野・渦輪・佐比江・西宮内・兵庫・夢野・花隈)は、現在「清盛七弁天」と名付けられて平家の隆盛を偲ぶ観光名所として整備されています。それが、和田神社真光寺済鱗寺恵林寺氷室神社花隈厳島神社、そして今回ご紹介する兵庫厳島神社です。





総本社である安芸国の厳島神社を思わせる、朱色鮮やかな社殿。



 平清盛公によって創建され、「兵庫厳島神社」とも呼ばれている厳島神社は、御祭神である市杵嶋姫命が神仏習合の影響で弁財天と同一だと見做されていたために「兵庫弁天」という呼び名で人々から親しまれています。今でも毎年5月には「弁天祭」と呼ばれる例祭が行われ、子ども神輿神幸式などが執り行われて多くの参拝客で賑わいを見せています。それ以外にも厳島神社では「初巳祭」や「亥の子祭」など様々な祭礼が行われており、正月の初巳の日に行われる初巳祭で配られる御守は「巳成金(なるみきん)」と呼ばれて開運のご利益があるといわれています。また、旧暦の10月の亥の日に行われる亥の子祭では「亥の子餅」と呼ばれる餅を作って餅まきが行われますが、この餅を食べると万病に効くといわれています。




 
社殿の左右に建つ淡島神社(左)と針塚(右)



 社殿に向かって左手に立つ淡島神社には少彦名命大己貴命息長足姫命(=神功皇后)が祀られています。少彦名命は医療に優れた神さまであったため、「病気平癒の神」として崇敬を集めています。社殿右手には針塚がありますが、全国の淡島社の総本社である和歌山市加太の淡島神社が針供養で有名な神社であるため、それにちなんで建てられているのではないでしょうか。兵庫厳島神社では、毎年2月8日に盛大に針供養神事が行われています。




 
境内の北東に立つ若永稲荷・白萩稲荷(左)と南に立つ大きな石灯籠(右)。

 
「退筆塚」と彫られた石碑(左)と、境内の南に立つ放生池と石碑(右)。


アクセス
・神戸高速鉄道「新開地駅」下車、南西へ徒歩2分
厳島神社地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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大阪・吉志部神社(吹田市)。

2008年05月24日 | ◆大阪府


吉志部神社

(きしべじんじゃ)
大阪府吹田市岸部北4-18-1





この鳥居をくぐった奥深い参道の向こうに境内が広がります。


〔御祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
豊受大神
(とようけのおおかみ)
ほか6神


 吉志部神社の創建年代は明らかではありませんが、6世紀末から7世紀初頭にかけて朝鮮半島より渡ってきた難波吉士氏(なにわのきしし)が、本拠地として勢力を伸ばしたこの地に祖霊神を祀って一族の守護神社としたことに始まるといわれています。一方、社伝では祟神天皇の治世であった紀元前41年に大和国の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)から神を分霊して祀った祠が始まりだとされています。諸説ありますが、少なくとも平安時代にはここ紫金山の地に天照大御神などを祀る祠があったのは確かなようです。




 
緑豊かな静かな杜の中を伸びる参道(左)と、石段を登った先に建つ神門(右)。



 吉志部神社の本殿には、天照大御神豊受大神を中心に、左に八幡大神素盞嗚大神稲荷大神、右に春日大神住吉大神蛭子大神が祀られており、御祭神の数にちなんで「八社明神」と呼ばれたり、天照大御神豊受大神を一対に数えて「七社明神」と呼ばれていたそうですが、当初の名称は「太神宮(だいじんぐう)」で、吉志部5ヶ村の産土神として崇敬を集めていました。1870(明治3)年に神仏分離令が出されたのを機に、吉士氏の本拠地であることを表す地名の「岸部」にちなんで「吉志部神社」という社名に変更されました。





この社殿は覆屋で、その中に国の重要文化財に指定されている本殿がありました。
※2008(平成20)年5月23日の火災で全焼する前の貴重な姿


 応仁の乱の兵火に巻き込まれて応仁年間(1467~1477年)に社殿が全焼してしまった吉志部神社は、1610(慶長15)年になって三好長慶公の次男で吉志部姓を名乗っていた吉志部一次公によって再建されました。社殿は豊臣秀吉公が建立した方広寺大仏殿の余材を用いて建てられた桃山時代の作風が色濃く伝わるもので、柱と柱の間が7つある七間社流造の非常に珍しい造りの社殿でした。1833(天保4)年には社殿を包み込むように覆屋が建てられ、大正時代には拝殿や幣殿などが建てられましたが、国の重要文化財にも指定されていたこの社殿は、残念ながら2008(平成20)年5月に放火と見られる火事で全焼してしまいました。




 
社殿の右に並ぶ摂社。愛宕大神や大国主命などを祀る摂社(左)や大川神社など(右)。



 「吉志部の里」と呼ばれたこの一帯では粘土質の焼き物に適した土が多く産出され、6世紀から7世紀にかけて須恵器が多く焼かれていました。794(延暦13)年に平安京への遷都が行われた際には内裏や皇族・貴族の邸宅など数多くの建物が建てられたため、短期間に大量の瓦が必要となりました。その爆発的な需要に応えるために各地に窯が設置されましたが、古くから窯業の生産拠点として栄えていた吉志部神社でも窯が整備されて次々と瓦や器が生産され、水利を利用して都へと輸送されていきました。現在発掘されているだけでも9基の平窯と4基の登窯の存在が確認されており、「吉志部瓦窯跡(きしべがようせき)」として国の史跡に指定されています。




 
7世紀初め頃に須恵器を焼いていたとされる「吹田34号須恵器窯跡」。


アクセス
・JR京都線「岸辺駅」下車、北西へ徒歩20分
・阪急電車京都線「正雀駅」下車、北西へ徒歩25分
吉志部神社地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放





大阪・南宗寺(堺市)。

2008年05月21日 | ◆大阪府


龍興山南宗寺

(りゅうこうざん なんしゅうじ)
大阪府堺市堺区南旅篭町3丁1-2



1647(正保4)年に建立された山門である「甘露門」。国の重要文化財に指定されています。


〔宗派〕
臨済宗大徳寺派

〔御本尊〕
釈迦三尊像
(しゃかさんぞんぞう)



 南北朝時代の頃から南朝方の交易港として整備され、室町時代には日明貿易の拠点のひとつとして栄えた港湾都市・。戦国時代には国内に比類なき莫大な経済力を誇る国際自由貿易都市として、イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラルイス・フロイスらが揃って「東洋のヴェニス」と評するほどの繁栄を見せましたが、織田信長公や豊臣秀吉公などの統治の時代を経て幾度かの兵火に巻き込まれるうちに次第にその輝きを失っていきました。

 今では、長い年月の間に進んだ埋立てや都市開発のために当時の海岸線や町並みはほとんど失われてしまいましたが、そんな中でも当時の繁栄の残り香を湛える史跡がいくつか残されています。堺第一の禅宗寺院として、また茶の湯の道を深める道場として、数多くの武将や茶人に愛された南宗寺もそういった史跡のひとつです。



 
境内最古の建物である坐雲亭(左)と、喜多見若狭守勝重公の位牌堂である夢界堂(右)。


 1526(大永2)年のこと。京都・大徳寺の76世住職を務めていた古嶽宗亘上人が、堺の南ノ庄にあった小さな坊院を訪れて南宗庵と名付けました。ここで古嶽宗亘上人の教えを受け、のちに大徳寺の住職にまでなった大林宗套上人は、1548(天文17)年に亡き師の遺言に従って堺へと戻り、この南宗庵に入りました。その大林宗套上人に帰依していた三好長慶公は、父の菩提を弔うための寺院を建立しようと発願し、1557年(弘治3年)に南宗庵を移転させて大規模な伽藍を整備し、大林宗套上人を開基とする禅刹・南宗寺を創建しました。



 
千利休をはじめとする千家一門の墓(左)と、三好長慶公をはじめとする三好一族の墓(右)。


 南宗寺は1574(天正2)年の松永久秀公による争乱や1615(慶長20)年に起きた大阪夏の陣の戦火に巻き込まれて悉く灰燼に帰してしまいましたが、南宗寺の12世住職を務めていた沢庵宗彭和尚や堺奉行所の喜多見若狭守勝重公が復興に尽力し、1619(元和5)年に無事に現在地に再建されました。その後13世住職となった清巌宗渭和尚は1647(正保4)年に「甘露門」と呼ばれる山門を造営、1652(承応元)年には仏殿の建立に着手するなど伽藍の整備に努めました。現在の境内はこの頃に整えられたといわれています。さきの大戦の際に受けた空襲によって伽藍の一部を焼失してしまいましたが、茶室や方丈は無事再建されました。



 
枯山水の方丈庭園(左)と千利休好みの茶室「実相庵」(右)。


 南宗寺には枯山水の方丈庭園があります。この庭は、戦国時代の武将で茶人としても有名だった古田織部公好みの作風といわれており、1983(昭和58)年に国の名勝庭園に指定されています。その奥には見事な石組みの「曹渓の庭」がありますが、ここに敷き詰められた那智黒石に竹筒を近付けて耳を澄ませると、地中にて水滴が織り成す美しい音色を愉しむことが出来ます。曹渓の庭に隣接して建つのが千利休好みの茶室として1963(昭和38)年に再建された「実相庵」です。



 
東照宮跡碑(左)と、大坂夏の陣で討死した際に葬られた徳川家康公の墓碑だという伝説のある墓石(右)。


 南宗寺には、徳川家康公をめぐる不思議な伝説が残されています。大阪夏の陣の折に真田幸村公の軍勢に本陣近くまで猛烈に攻め込まれた徳川家康公は、大坂方の猛将・後藤又兵衛公の槍に突かれて重症を負い、敗走する途中にこの南宗寺で力尽きて落命したといわれています。この時には側近のごく少数の家臣のみが雨中の境内にて密かに葬儀を行い、小さな墓碑を建てて菩提を弔ったという話も残されています。東照宮跡碑の西にある開山堂跡地に建てられている小さな墓石がその伝説の墓標だといわれていますが、1623(元和9)年に第2代将軍・徳川秀忠公や第3代将軍・徳川家光公がわざわざ南宗寺まで参詣したという史実を聞くと、この伝説を荒唐無稽な話と一笑に付すのではなく、ついつい少し信じてみたい気になってしまいます。



 
国の重要指定文化財に指定された仏殿(左)には御本尊・釈迦三尊像が祀られ、
天井には狩野信政の筆による見事な「八方睨みの龍」(右)が描かれています。




アクセス
・阪堺電気軌道阪堺線「御陵前駅」下車、東へ徒歩5分
 南宗寺地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人400円(中高生300円・小学生以下200円)

拝観時間
・9時~16時



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神戸・諏訪神社(須磨)。

2008年05月15日 | ■神戸市須磨区
狩猟守護・勝運・健康長寿・商売繁盛

諏訪神社

(すわじんじゃ)
神戸市須磨区須磨本町1-1-44




「須磨の天神さん」綱敷天満宮から道路を1本挟んで隣接している諏訪神社。


〔御祭神〕
建御名方神
(たけみなかたのかみ)



 無実の罪で失脚、大宰府へと左遷される失意の旅の途中、船の針路を嵐に阻まれた菅原道真公が須磨に上陸してひと時の休息を求めたという故事から創建された綱敷天満宮。須磨を代表する神社のひとつとして広くその名を知られる綱敷天満宮の西側に、道を隔ててもう一つ神社が鎮座されている事に気付かれる方も多いのではないでしょうか。この神社は、建御雷神(たけみかづちのかみ)経津主神(ふつぬしのみこと)と並んで日本三大軍神の一柱として崇敬を集める「」の神・建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀っている諏訪神社です。





境内は月極駐車場となっていますが、その中央に雰囲気のある社殿が鎮座しています。



 創建時期については詳しいことは分かりませんが、一説には綱敷天満宮が創建されるよりも以前から須磨の地で祀られていたといわれています。「須磨」という地名は、摂津国の西端に位置する「(すみ)」の土地だということから「スミ」が訛って「スマ」となったという説、「住み良い土地」という意味の「栖間(すみま)」が訛ったものという説などが有力ですが、諏訪神社の「スワ」が訛ったものだという説もあります。そう考えると、かなり古くから「諏訪」の名を持つ神社が祀られていた可能性が考えられます。

 東向きに建てられた社殿にちなんで「東向明神」とも呼ばれていた諏訪神社は、西須磨地域で古くから勢力を伸ばしていた名家である前田家頼広家友好家貴答家岡本家の5家によって奉祀され、守られてきました。また、長田神社が「」の守護神とされているのに対して諏訪神社は「」の守護神として人々の厚い崇敬を集めていたといい、「」の神に捧げる祭祀として、11月8日には猪狩の神事が執り行われ、猪肉を食べる習慣があったそうです。





境内入口の手水鉢(左)。ムクノキやウバメガシなどが枝を伸ばしています(右)。


アクセス
・JR「須磨駅」下車、東へ徒歩10分
・山陽電車「山陽須磨駅」下車、東へ徒歩8分
・山陽電車「須磨寺駅」下車、南へ徒歩3分
諏訪神社地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸・頼政薬師寺(浄福寺)。

2008年05月13日 | ■神戸市須磨区


上野山浄福寺

(じょうやさん じょうふくじ)
神戸市須磨区桜木町1-4-6


通 称
頼政薬師寺







〔宗派〕
真言宗須磨寺派

〔御本尊〕
薬師如来像
(やくしにょらいぞう)



 西須磨地域には、神功皇后より事代主命を祀るよう命を受けて元宮長田神社を祀ったといわれる一族が勢力を保っていました。大宰府への道中に須磨に立ち寄った菅原道真公に清水を献上したといわれる橘秀祐公はこの流れを汲む人物で、のちのち前田姓を名乗ったといわれています。この前田一族が須磨寺の末寺として建立したのが、上野山浄福寺です。





本堂は阪神・淡路大震災で倒壊しましたが、1999(平成11)年11月に再建されました。



 聖徳太子の作と伝えられる薬師如来像をご本尊として創建された浄福寺は、一時期荒廃していたようですが、1154~55(久寿元~2)年頃には摂津源氏の血を引く武士であり優れた歌人でもあった源三位頼政公の手によって再興されたことから、「頼政薬師寺」という通称で呼ばれるようになりました。現在本堂に安置されている脇持仏の十二神将像は、江戸時代にこの地域を領有していた尼崎藩の藩主・青山氏から寄進されたものです。また、頼政薬師寺では明治時代以前には毎年1月8日に「薬師統人」という儀式が執り行われていました。これに参加することで初めて村人として認められるという重要な儀式で、夜には鬼追式が行われていました。現在は当時とは違う形ではありますが、地元の西須磨協議会の方々が中心となって地域の伝統文化が守り続けられています。





御本尊の薬師如来像(左)と、本堂の奥に鎮座する天龍大神(右)。


境内の東側には地蔵堂(左)や供養塔(右)などがあります。


アクセス
・山陽電車「須磨寺駅」下車、西へ線路沿いに徒歩3分
頼政薬師寺地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~17時





神戸・現光寺(源氏寺)。

2008年05月11日 | ■神戸市須磨区


藩架山現光寺

(ませがきさん げんこうじ)
神戸市須磨区須磨寺町1-1-6


通 称
源氏寺



阪神大震災で倒壊した現光寺は、約8年がかりで立派に再建されました。


〔宗派〕
浄土真宗本願寺派

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)



 JR・山陽須磨駅から国道2号線を少し東へ進むと、千守交差点から須磨離宮公園方面へと伸びる千守線があります。この道を、山陽電車の高架をくぐって北上すると、まもなく右手に立派な石垣の寺院が見えてきます。この寺院の名は現光寺。参道の入口に立つ「源氏寺」の石碑の通り、紫式部の『源氏物語』の「須磨の巻」で主人公の光源氏がわび住まいをしていたとされた場所に立てられています。



 
境内入り口に立つ「源氏寺」の石碑(左)と再建された本堂(右)。


 この辺りは、『源氏物語』のモデルの一人といわれ、969(安和2)年に起きた「安和の変」で失脚した左大臣・源高明卿ゆかりの土地です。源高明卿は、病弱だった冷泉天皇の後継者として有力視されていた為平親王の皇后の父親だったために、長年摂政・関白の座を独占して政治の実権を握ってきた藤原氏によって警戒され、排斥のターゲットとなってしまいます。「安和の変」では源高明卿が直接関与した確たる証拠はなく、従者の藤原千明公が関わっていたという「隙」を突かれた形で大宰府への左遷に追い込まれました。翌年には都に戻ることを許されているため、須磨に長く住んだというよりは、大宰府への道中で暫らく留まったというレベルではないかと思われます。こういうエピソードを元に、「光源氏の住居跡」という伝説が出来たと思われます。



  
きれいに整備された境内(左)と、須磨関跡の碑(右)。


 『源氏物語』で「海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり」(海岸から少し入り込んでいて、身にしみるほど寂しい山中である)と描写されたこの地に寺院が建てられたのは1514(永正11)年のこと。浄教上人が開いたといわれ、御本尊には阿弥陀如来が祀られています。この付近は古代の須磨関があったといわれる場所で、それを連想させる地名も残っていますが、それを裏付けるように(明治元)年に境内の裏手から「川東左右関所跡」と刻まれた標石が掘り出されています(この標石は、西にある関守稲荷神社に安置されています)。また、現光寺には1228(建保6)年に彫られたとされる「慈恵大師良源上人(「元三大師」の名で良く知られています)の木像が残されていますので、古くから行政や祭祀の拠点となっていた重要なエリアだということを感じ取ることができます。



 
正岡子規の歌碑(左)や、松尾芭蕉の歌碑(右)が雅な雰囲気を醸し出しています。


 『源氏物語』の残り香を尋ねてか、現光寺には多くの俳人が足を運んで名句を残しています。「芭蕉」という俳号を使う前の「松尾桃青」時代の1678(延宝6)年、「須磨・明石」を題とする句会で「見渡せば 眺むれば 見れば須磨の秋」という句を呼んでいた松尾芭蕉は、1688(貞亨5)年4月に須磨を訪れ、境内の風月庵に宿を取っています。ただ、須磨の秋の月の情景に憧れを抱いていた松尾芭蕉は、時期外れの須磨訪問をしきりと悔やんでいたといいます。

 また、明治を代表する歌人である正岡子規も須磨を訪れて様々な句を残しています。日本新聞の記者をしていた正岡子規は、1895年に日清戦争の取材を終えて帰国する船の中で持病の肺結核を悪化させて吐血、和田岬にあった県立神戸病院に運び込まれて治療を受けます。ここで2ヶ月間の入院生活を送った正岡子規は、その後風光明媚な須磨保養院(今の須磨浦病院)へと移って静養を続け、須磨を題材にした句を多く残しました。そのうちの一つ、「読みさして 月が出るなり 須磨の春」の句碑が現光寺の境内に建てられています。



 
松尾芭蕉も泊まったといわれる風月庵跡(左)の横を抜けると、奥に庭園(右)があります。



アクセス
・JR「須磨駅」下車、北東へ徒歩6分
・山陽電車「須磨駅」下車、北東へ徒歩5分
・山陽電車「須磨寺駅」下車、南西へ徒歩4分
藩架山現光寺地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~17時



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神戸・小部杉尾神社。

2008年05月08日 | ■神戸市北区
勝運・一願成就

小部杉尾神社

(おぶすぎおじんじゃ)
神戸市北区山田町小部字北ノ谷76




小部杉尾神社。数十年前に長田箕谷線が通るまでは池や水田などが広がっていました。


〔御祭神〕
天忍穂耳命
(あまのおしほみみのみこと)


 青い海とともに美しい神戸の町並みを演出している六甲山。古代、都があった畿内から見て「向こう」の山として「武庫」、「務古」、「牟古」などの当て字が使われてきたこの山並みに「六甲」という漢字が使われるようになったのは、江戸時代に入ってからの事だといわれています。そんな六甲山の北側に広がる北神地域に人々が住み着いた歴史は古く、3,000年以上前の縄文時代の土器や石器などが数多く発掘され、古墳なども多数見付かっています。中央の統治も早くから浸透しており、律令制が定められた7~8世紀頃には摂津国有馬郡幡夛(はた)春木郷八部(やたべ)郡八部郷播磨国美嚢郡志深(しじみ)などが置かれていました。今回は、摂津国八部郡山田庄と呼ばれていた地域に属していた「小部集落」の守護神として人々の崇敬を集めてきた神社・小部杉尾神社を御紹介します。





石段を上った先にある社殿。勝負事の神・天忍穂耳命を祀っています。



 神戸市北区の鈴蘭台周辺には、かつて山田庄13か村のひとつ、小部集落がありました。ここは室町時代にはすでに東小部地区西小部地区に分かれており、創建時期は明確ではありませんが、それぞれが氏神をお祀りする神社を持っていたようです。そのうち西小部地区に鎮座していたのが小部杉尾神社で、天照大御神の長男神で稲穂の豊作を司るといわれる天忍穂耳尊を祀っており、昔は大杉神社という名でも呼ばれていました。天忍穂耳尊を祀る神社は少なく、神戸市内では小部杉尾神社のほかには二宮神社しかないようで、非常に珍しい御祭神を祀る神社としても知られています。

 「天孫降臨神話」において葦原中国の統治のために降臨するという大役を息子の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に譲ったというエピソードが有名な天忍穂耳尊ですが、天照大御神との誓約(うけひ)に勝った素盞鳴尊「正に勝つ、吾勝てり。勝つ速さ昇る日の如し」という喜びをそのまま名前にしたといわれる正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかつ あかつ かちはやひ あめのおしほみみのみこと)というとても長い別名を持つことでも知られています。この名前にちなみ、小部杉尾神社は勝負事の神さまとしても崇敬を集めています。1873(明治6)年に村社に列せられた小部杉尾神社には、同時期に小部字荒神谷にあった荒神社厳島神社が合祀されました。また、長田から西鈴蘭台を経て日の峰、箕谷へと続く市道長田・箕谷線の整備拡張のために周辺が大きく開発されたことを受け、1994(平成6)年には社地を移転して改めて境内が整備されました。





旧境内の石灯籠(左)や、保存文化財となっている古い道標(右)が残されています。


アクセス
・神戸電鉄「西鈴蘭台駅」下車、北へ徒歩15分
・神戸電鉄「鈴蘭台西口駅」下車、北へ徒歩15分
小部杉尾神社地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

神戸市北区の地域情報サイト「オール鈴蘭台.コム」さんにもリンクしていただいております。

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
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京都・出世稲荷神社。

2008年05月04日 | ◇京都府 -洛中
開運出世、立身出世、地位名望、商売繁昌、金銀財宝
千客万来、生業大繁栄、善知識の福、延命長寿、病気平癒


出世稲荷神社

(しゅっせいなりじんじゃ)
京都市右京区千本通竹屋町下ル聚楽町851



最盛期には329本もあったといわれる鳥居。千本通沿いに立っています。


〔御祭神〕
宇迦之御魂命
(うかのみたまのみこと)
佐田彦大神
(さたひこのおおかみ=猿田彦大神
大宮能賣大神
(おおみやのめのおおかみ=天鈿女神
田中大神
(たなかのおおかみ)
四大神
(しのおおかみ)


 本能寺の変後、織田信長公の後継者としての地位を着実に築いていった豊臣秀吉公は、応仁の乱以降度重なる戦乱によって兵火に焼き尽くされ、すっかり荒廃した京都の再開発に着手しました。当時は相国寺から一条大路付近までの「上京」と三条大路から五条大路あたりまでの「下京」というごく限られた範囲にしか大規模な集落がなく、その間を南北に伸びる室町小路のみが唯一上京下京とを繋ぐメインルートでした。そんな京都を現在のような街並みへと大きく変貌させたのが、豊臣秀吉公によって進められた大規模都市再開発プロジェクトです。

 豊臣秀吉公は、各地に碁盤の目のように新道を通して短冊型のような町割りを行い、武家町公家町寺町などを作って各層の居住地の集約化を行うなど合理的な街づくりを推し進めました。その結果、活発な人口流入が進んで商工業も非常に栄え、首都としての体裁と活気を取り戻して現在のような大都市への基盤が完成しました。




社殿には五条坂の創作陶芸家・6代目清水六兵衛氏の奉納した神像や、
日本画家の堂本印象氏が描いた「登り竜」の天井図があります。


 1585(天正13)年に関白の宣下を受け、翌1586(天正14)年には太政大臣に任じられるなど、軍事的実力とともに官位による権威付けも着実に進め、名実ともに政権基盤の正当性を確立した豊臣秀吉公は、1587(天正15)年に平安京大内裏があった京都の中心地に絢爛豪華な「聚楽第」と呼ばれる大邸宅兼政庁を造営し、天下人としての権威を強烈にアピールしました。

 幼い頃より宇迦之御魂命をはじめとする稲荷五神を深く信仰、その加護を信じて立身出世の実現に邁進した豊臣秀吉公は、聚楽第の造営の際に敷地内に稲荷五神をお祀りする祠を築き、自らの出世を支えてくれた神徳に報いています。この稲荷社には、時の帝・後陽成天皇も1588(天正16)年に聚楽第に行幸された際に参拝し、破格の立身出世を果たした豊臣秀吉公にちなんで「出世」の称号を下賜されました。



 
「三石社(福石・禄石・寿石社)」と、豊臣秀吉公・北政所をお祀りする「豊の社」(右)。



 それ以来、多くの大名や公家の崇敬を集めた稲荷社は、1595(文禄4)年に聚楽第が破却された後もしばらくその地に鎮座していましたが、1663(寛文3)年に現在の千本通沿いの場所に遷され、後陽成天皇より賜わった称号と祭神にちなんで「出世稲荷神社」という名前が付けられました。出世稲荷神社は江戸時代の中期に隆盛を極め、最盛期には329本もの鳥居が境内に林立していたといわれています。



 
水難・火難除けの水天宮(左)と、社殿奥に立つ牧野省三氏と尾上松之助氏寄贈の鳥居(右)。



アクセス
・JR「二条駅」下車、千本通を北へ徒歩10分
・京都市営地下鉄東西線「二条駅」下車、千本通を北へ徒歩10分
・京都市バス6・15・46・55・201・206系統「出世稲荷前」バス停下車すぐ
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放



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神戸・有間神社。

2008年05月03日 | ■神戸市北区
家内安全・安産・病気平癒

有間神社

(ありまじんじゃ)
神戸市北区有野町有野4435

摂津国有馬郡・一の宮



有馬街道沿いに建つ鳥居。五社と岡場の中間に位置します。


〔御祭神〕
天御中主大神
(あめのみなかぬしのおおかみ)
大己貴大神
(おおなむじのおおかみ)
少彦名大神
(すくなびこなのおおかみ)
事代主大神
(ことしろぬしのおおかみ)



 「有馬」の地名の由来にはいくつかの説があります。古代の日本語で「アリ」は、「」は土地を表す言葉で、「アリマ」は「山の土地」という意味だという説。「アリマ」は「荒間」に通じ、「荒れた土地」という意味だった、など諸説ありますが、いずれにしても山合いにあって開発の難しかった地域だったというイメージが湧いてきます。そのような土地に治癒力の高い温泉が湧き出たために、有馬はその効能を求めて天皇が行幸されるまでに有名な湯治場へと徐々に整備され、成長してきました。631年に舒明天皇が、そして638年と647(大化3)年に孝徳天皇有馬温泉に長期間行幸された際、ともに立ち寄った場所があります。それが有間神社です。当時は今の有馬街道沿いの位置ではなく、少し東方の西宮市山口町名来の場所にあったといわれています。



 
社殿前に建つ黒木の鳥居(左)。拝殿前の大岡越前守ゆかりの「有馬社」石標(右)。



 有間神社は、905(延喜5)年に醍醐天皇の勅願によって編纂が始められた「延喜式」の神名帳にその名を連ねる由緒ある古社で、摂津国有馬郡の一の宮として人々に厚く崇敬されてきました。前述したように7世紀の前期にはすでに祭祀が行われていたと思われますが、霊亀年間(715~716年)に続いた長雨によって有間川が氾濫を起こし、有間神社は社殿ともども流失してしまいました。そのため再建するにあたって神託を仰ぎ、現在の場所へと遷座されてきました。




1796(寛政8)年に再建された社殿。



 当初は有馬温泉の守護神である大己貴命少彦名命などが祀られていたと思われますが、969(安和元)年には天御中主神が合祀されています。そんな有間神社も戦国時代の際には、当時の宮司だった武田光綱公が別所長治公の娘と結婚していたために織田信長軍の播磨方面司令官だった羽柴秀吉公の攻撃を受け、境内は炎上してしまいました。その後社殿は再建されましたが、江戸時代に入っても1622(元和8)年と1789(寛政元)年に火災で焼失するなど受難が続きます。1796(寛政8)年の再建ののちようやく平和な時代が訪れ、そのとき再建された社殿が現在まで残されています。




豊かな緑に恵まれた社叢は、神戸市より天然記念物に指定されました。



 社殿の手前には「有馬社」の石標が立っています。この石標は江戸幕府の第9代将軍・徳川家重公の時代に建てられたもので、当時寺社奉行を務めていた大岡越前守忠相公の許可を得て奉納されたものです。1849(嘉永2)年には、孝明天皇が即位された際に行われた大嘗会で用いられた黒木の鳥居が下賜されて社殿の前に建てられるなど、古代より近世まで中央との繋がりの強い神社でありました。




明治維新前まで建っていた別当寺・山王山神宮寺の名残を残す神宮寺跡石碑。



アクセス
神戸電鉄「岡場駅」下車、南へ徒歩10分
神戸電鉄「五社駅」下車、北へ徒歩10分
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(無料駐車場あり)

拝観料
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神戸の神社
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