神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・大龍寺。

2008年04月30日 | ■神戸市中央区


再度山大龍寺

(ふたたびさん だいりゅうじ)
神戸市中央区再度山1

神戸十三仏霊場・第6番札所
KOBE七福神・大黒天 ほか



再度山ドライブウェイ沿いに立つ山門。すぐ前まで市バスで行くことが出来ます。


〔宗派〕
真言宗東寺派

〔御本尊〕
如意輪観音菩薩像
(にょいりんかんのんぞう)


 六甲山に向けて再度山ドライブウェイを北上すると、道の左手に大きな朱塗りの山門があります。ここから長い参道を登っていくと、弘法大師ゆかりの古刹・大龍寺があります。週末だけは三宮駅より神戸市バスが通っていますが、休止されていることもありますので事前に確認してから参拝されることをおすすめします。大龍寺は上記以外にも、安永年間(1772~81年)に真田山観智院月海上人によって開かれたといわれる「摂津八十八ヶ所霊場」の第82番札所、1979(昭和54)年に定められた「近畿三十六不動尊霊場」の第9番札所、1980(昭和55)年より始められた「摂津西国三十三ヶ所霊場」の第6番札所、1984(昭和59)年に設立された「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第8番札所、1994(平成6)年創設の「西国愛染十七霊場」の第5番札所など様々な霊場に名前を連ねています。



 
山門から急な坂を登ると石段(左)が現れます。途中には仁王門(右)が建っています。



 奈良時代に入ると、全国的に旱魃や飢饉が続き、天然痘が流行したり大地震が発生するなど人々は不安に包まれていました。さらに、740(天平12)年には藤原広嗣の乱が九州で起こるなど、政情も非常に不安定な状況でした。そんな中で聖武天皇は、国家鎮護の救いを仏教に求めようと741(天平13)年に国分寺建立の詔を出したり東大寺に752(天平勝宝4)年に巨大な盧舎那仏を建立するなど、国立寺院の建立を全国で積極的に行う政策を推し進めました。




仁王門の先に続く石畳の参道。



 そういう流れの中、称徳天皇の勅命を受けて寺院建立の適地調査のために摂津国を訪れていた和気清麻呂公は、摩耶山と鍋蓋山の間の辺りに差し掛かったところで、政敵・弓削道鏡の放った刺客に命を狙われますが、すんでのところで突如龍とも見まがう1匹の大蛇が現れて刺客を追い払ってくれたために危地を脱することができました。この不思議な出来事に霊験を感じた和気清麻呂公は、この地に一木造りの如意輪観音菩薩像を安置する祠を建てて「摩尼山」という霊場を開きました。



 
御本尊の如意輪観音菩薩像が安置されている本堂(左)と脇に立つ修行大師像(右)。



 大龍寺弘法大師ゆかりの寺院としても知られています。唐への留学に出発する前、弘法大師は船旅の安全と学問成就の祈願のためにここを訪れて修行しました。唐への船旅は過酷を極め、激しい風雨で何度も転覆の危機に陥りますが、不思議なことに荒波を遮るように大きな龍が現れ、船を守ってくれたという伝説が残されています。その加護によって無事に唐へ辿り着いた弘法大師は、長安・青竜寺にて驚異的なスピードで真言密教の秘法を会得。帰路も船を守ってくれた大龍は、神戸の沖合いまで戻ってきたところで突如海から飛び立ち、摩尼山の方角へと去っていきました。弘法大師は、唐への往復を守護してくれた龍に感謝するためもう一度この霊場を訪れて寺院を建立し、守護龍にちなんで大龍寺と名付けました。この山は、弘法大師が2度登られたという故事にならって「再度山」と呼ばれるようになったそうです。



  
毘沙門堂(左)と、本堂の前に立つ「ぼけ封じ観音像」(右)。



 鎌倉時代には、再度山一帯が南朝方の多々部城(再度城)の城域だったこともあってたびたび戦火に巻き込まれ、伽藍も焼失してしまいました。しかし1351(観応2)年には赤松円心公の支援によって再建。このとき山主として再興に尽力し、「大龍寺中興の祖」と崇敬された善妙上人は、中風に苦しむ後円融上皇の病を1週間の祈祷によって平癒に至らしめたという伝説の持ち主で、このため大龍寺は「中風除け加持ご祈祷の寺」としても知られるようになりました。




境内から奥の院へと向かうと、山道を5分ほど登った先に大師堂があります。



 せっかく再興を果たしたにも関わらず、戦国の世の兵火に巻き込まれて再び荒廃してしまった大龍寺ですが、江戸時代に入った1668(寛文8)年には尼崎城主の光録居士(2代藩主・青山幸利公の事だと思われます)の助力を受けた実祐上人が「弘法大師八十八ケ所霊場」を勧請するなど再興に力を尽くされました。現在建っている境内の建物はこのとき再建されたもので、明治に入って日本中を襲った廃仏毀釈運動の時にも当時の住職・井上徳順和尚と地元の人々が懸命に努力をされて守り抜き、東寺真言宗所轄の寺院として今日までその法燈を維持し続けています。



 
大師堂の奥には険しい山道の先に弘法大師が自ら刻んだといわれる「亀の岩」があります。



アクセス
・神戸市バス25系統「森林植物園行」で「大龍寺前」下車すぐ(本堂まで登り坂を徒歩10分)
※25系統バスは4月1日から11月30日までの土・日・祝日のみ(臨時休止の場合あり)
 大龍寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~17時

公式サイト
  大龍寺公式ウェブサイト




京都・千本ゑんま堂(引接寺)。

2008年04月25日 | ◇京都府 -洛中


光明山 歓喜院 引接寺

(こうみょうざん かんきいん いんじょうじ)
京都市上京区千本通芦山寺上ル閻魔前町34

通 称
千本ゑんま堂



千本通沿いにさりげなく建つ千本ゑんま堂。古刹然としたところのない、親しみやすい寺院。


〔宗派〕
古義真言宗

〔御本尊〕
閻魔大王坐像



 平安時代、華やかな洛中とは対照的に洛外には亡くなった人々を葬る葬送地が設けられ、霊界へ繋がるとして怖れられていました。「冥界への入口」といわれた通称「六道の辻」より続く東山・鳥辺野葬場、霊峰・愛宕山の麓に広がる化野葬場、そして死者への引導を渡す閻魔大王の法廷が置かれたとされる蓮台野葬場京都三大葬場と呼ばれ、冥界に近い場所として畏怖の念を持って見られていた場所です。その冥界の入口を自在に行き来する神通力を持ち、「昼は朝廷に、夜は閻魔庁に務める」といわれた平安時代の貴族・小野篁卿が閻魔大王より「船岡山の麓に吾を祀る祠を作れ」との直々の命を受け、自ら彫り上げた閻魔大王坐像を安置する祠を建てたのが千本ゑんま堂だと言われています。







 その後、『往生要集』を著したことで知られる恵心僧都・源信の弟子である定覚上人が1004(長保6)年にこの祠を引継いで境内を整備し、人々を導くという意味の「引接寺」という名をつけた寺院を開きました。祠が建てられた時期ではなく、定覚上人の開山をもって創建とする説もあります。

 本堂に安置されている御本尊の閻魔大王座像は高さ2.4mで、左右に書記役を務める司録尊像と検事役の司命尊像を従えており、閻魔庁の裁判所をイメージした配置になっています。小野篁卿が自ら彫ったといわれるものは残念ながら応仁の乱で焼失してしまいましたが、1488(長享2)年に収められた2代目の閻魔大王坐像が現在まで残され、迫力ある表情を湛えて人々を厳しく、そして愛情深く見守り続けてくれています。年月が経って不鮮明になってしまいましたが、本堂の前縁の板壁には閻魔大王のいる地獄絵図が描かれ、天井には極楽絵図が描かれています。



 
本堂内(左)とその奥に安置される閻魔大王像(右)。隙間からわずかに覗く御顔は迫力満点。



 境内の北西の隅には、国の重要文化財に指定されている紫式部供養塔があります。幼少期に生母と死別し、結婚後もわずか3年で夫と死別するなどプライベートでは悲しみの多い生涯を送った紫式部の供養のために1386年(至徳3年)に建立されたもので、もともとは紫野の白毫院にありました。その供養塔がなぜここに移されたかについては、紫式部小野篁卿が親戚関係にあったのではないかという説や、人々の情欲を奔放に描いた源氏物語が原因で地獄へと送られた紫式部の罪を赦すよう小野篁卿が閻魔大王を説得したためなど、様々な伝説が残されています。



 
本堂の裏手にある石仏群(左)と境内の西北隅に立つ紫式部供養塔(右)。



 千本ゑんま堂には、花の中心から出た双葉の形が普賢菩薩が乗られている象の鼻に似ていることからその名が付いたという普賢象桜があります。後小松天皇の薦めを受けてここを訪れ、普賢象桜の美しさに感嘆した室町幕府3代将軍・足利義満公は、「この桜の盛りに狂言を催すべし」と命じたといわれています。ここでいう「狂言」とは、布教のために定覚上人が始めたといわれる念仏狂言のことです。

 壬生寺壬生念仏狂言清涼寺嵯峨念仏狂言と並んで「京都三大念仏」の一つに数えられる千本ゑんま堂念仏狂言は、他の念仏狂言が無言で行われるのに対し、ほとんど台詞入りで行われる有声劇であるのが特徴です。長く続けられてきた千本ゑんま堂念仏狂言も後継者不足などから1964(昭和39)年に途絶え、さらには1974(昭和49)年に狂言舞台や衣装が失火で焼失するなど存続の危機に立たされましたが、翌年「千本えんま堂狂言保存会」が結成されて狂言舞台の再建やメンバーの充実が図られて見事に復活されました。今も5月1日から4日にかけて境内で演じられ、人々を楽しませてくれています。




8月の六斎念仏・盂蘭盆会では精霊をお迎えするために終日「迎え鐘」が鳴らされます。



アクセス
京都市バス6・46・59・92・206系統「千本鞍馬口」下車、南へ徒歩2分
千本ゑんま堂地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
無料(本殿昇殿参拝は志納)

拝観時間
9時~17時

公式サイト
  千本ゑんま堂公式ホームページ



にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村の村民になりました!

神戸・明泉寺(大日寺)。

2008年04月19日 | ■神戸市長田区


天照山明泉禅寺

(てんしょうざん みょうせんぜんじ)
神戸市長田区明泉寺町2-4-3

福原西国観音霊場・第2番札所

通 称
大日寺




〔宗派〕
臨済宗南禅寺派

〔御本尊〕
大日如来像
(だいにちにょらいぞう)



 古の僧侶には、仏教を説いて人々の心を救済することと同時に、人々の生活をより良くする為の土木開発や灌漑技術のスペシャリストである人物が数多くいらっしゃいました。天平時代に活躍した行基上人もそういった僧侶の代表格で、有馬温泉の復興や伊丹・昆陽池の開拓、大輪田泊をはじめとする「摂播五泊」と呼ばれた港を開いたりするなど、近畿を中心に人々の救済のために尽力されました。

 長田神社の北方にある明泉寺も、行基上人が開いた寺院のひとつです。大輪田泊の港湾整備を行った行基上人は長田エリアを開拓して耕地を整備し、その灌漑のために蓮ヶ池を開きます。その蓮ヶ池の水源である苅藻川の流れを調査するために上流へと遡って歩いているうちに、景色の素晴らしい霊地へとたどりついた行基上人は、この地に自ら彫り上げた大日如来像を祀る寺院を開いて「明泉(=苅藻川)」の水の流れが尽きることなく長田エリアを潤すことを祈願されました。735(天平7)年のことと寺伝には記されています。このときの明泉寺の位置は現在よりもさらに奥の大日丘町だったといわれています。







 明泉寺が開かれてから4世紀の月日が流れた平安時代末期のこと。木曽で挙兵した源義仲公の軍勢に追われて都落ちを余儀なくされた平家は、安徳天皇を奉じて大宰府へと退却。西国で勢力を回復した平家は捲土重来を期してふたたび都を目指しますが、この動きを察知した源頼朝公は源範頼公と源義経公に平氏追討を命じ、東西から進出した両軍は1184(寿永3)年2月7日の早朝、神戸市街地で激突します。両軍は市内各方面で激しい戦いを繰り広げますが、攻め立てる源氏に対して平家も見事に戦い、一進一退の状態が続きました。そんな戦況は、「鵯越の逆落とし」と呼ばれる北方面からの奇襲攻撃をきっかけに大きく動きます。「鵯越の逆落とし」は須磨・一ノ谷という説もありますが、ここでは現在の鵯越・丸山大橋が架かるあたりと考えるほうがしっくりとします。

 当時明泉寺があった場所は生田から夢野を経て須磨・白川へと抜ける街道沿いの要衝の地でした。ここは平盛俊公を中心に守りが固められていましたが、予想だにしなかった山上からの奇襲を受けて平盛俊公の軍勢は大混乱に陥ります。生田口と塩屋口の東西を固めた平家軍はその中央部に源義経公の軍の侵入を許したことで総崩れとなり、兵たちは我先に海へと逃げ出します。その中には平清盛公の4男で実質的に平家の総大将格だった平知盛公とその息子・16歳の平知章公たちの姿もありました。

 苅藻川沿いを海へ向かい、沖合いに停泊する味方・阿波重能公が守る軍船へと脱出を図った一行は、海岸までたどりついたところで源氏方の児玉党と遭遇してしまいます。平家の総大将の首を取ろうと平知盛公めがけて殺到する敵に対し、息子の平知章公と郎党の監物太郎頼方公は身を挺して平知盛公を逃がし、壮烈に討ち死にします。総大将としての立場から、ここで命を落とすわけにはいかない平知盛公は父親としての心情を押し殺し、須磨沖まで単騎落ち延びて軍船へと辿り着きます。しかし、息子を置き去りにして逃げた慙愧の念から「人々の思はれん心のうちどもこそはづかしう候へ」と泣き崩れたといいます。

 父を守って若い命を散らせた平知章公の墓はもともと明泉寺の北方の谷にあったモンナ池付近の付近に、石を積み重ねただけのささやかな塚として残されていましたが、昭和に入って境内へと移されました。悲劇の若武者の墓所は本堂の左手奥の墓地の中に祀られています。




父・平知盛公の命を救うために若い命を散らした平知章公の墓所。



 源平の合戦に巻き込まれて兵火によって全焼してしまった明泉寺は、1351(観応2)年になって赤松円心公の孫・赤松光範公の手で現在地に再建されました。1406(応永13)年には観如上人が住職になって再び歴史ある古刹としての輝きを取り戻します。

 大日如来は、仏の中でも最高位である如来の位置にあって宇宙の中心物として信仰されてきましたが、全国的に荒神と並んで「牛馬の守護神」としても信仰されてきました。そんな大日如来を御本尊としてお祀りする明泉寺は「牛の寺」として崇敬を集め、本堂には昔から多くの牛の人形が奉納されていたそうです。



 
本堂の左手に建つ寺崎方堂氏の句碑(左)と手前に茂る「思出の松」(右)。

 
山門をくぐってすぐ左にある「仏足石」(左)。さらに奥には「牛の寺」らしく牛の像(右)があります。



アクセス
・神戸電鉄「長田駅」下車、西へ徒歩15分
・神戸市バス4系統「大日寺前」下車すぐ
明泉寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~17時

公式サイト
  明泉寺ホームページ



にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村の村民になりました!

神戸・念仏寺(有馬)。

2008年04月14日 | ■神戸市北区


摂取山念仏寺

(せっしゅざん ねんぶつじ)
神戸市北区有馬町1641


神戸十三仏霊場・第9番札所
KOBE七福神・寿老人




垣根に囲われることなく直接通りに面する念仏寺。とても立ち寄りやすい寺院です。


〔宗派〕
浄土宗

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)


 温泉寺湯泉神社に隣接する念仏寺は、1532(享徳7)年に岌誉上人を開祖として創建された浄土宗の寺院です。文献によっては1538(天文7)年創建と記されているものもあります。もともとは谷之町にありましたが、創建から半世紀以上経った慶長年間(1596~1614年)に豊臣秀吉公が正室・北政所のために建てた別邸の跡である見晴らしの良い一等地の高台に移されました。徳川家の菩提寺だった岡崎・大樹寺と同じ浄土宗の寺院だったこと、さらには様々な政治的思惑もあって、念仏寺には幕府から特別な便宜が図られていたとも言われています。

 念仏寺は1703(元禄16)年に起きた有馬大火災で全焼しましたが、1711(正徳元)年に再興されました。現在の本堂はこの翌年に建てられたもので、有馬温泉の中では最も古い建築物といわれています。この寺の石垣も有馬一古いと言われており、見事な石材が使われています。ご本尊は快慶作と伝えられている阿弥陀如来像で、神戸七福神の一つ・寿老人も祀られています。また、法然上人画像の「月輪御影(つきわのみえい)」も寺宝として所蔵されています。





本堂の前には観音像(左)や少年時代の法然上人像(右)などが安置されています。



 念仏寺には「沙羅樹園」と呼ばれる美しい庭園があります。「蛤石」や「雀石」と呼ばれる石があるその庭園には、樹齢270年といわれる沙羅双樹があり、6月中旬から下旬ごろに純白の花を咲かせます。これらの石組みや植栽には、豊臣家びいきの人々によるアンチ徳川家の隠されたメッセージが込められていると言われています。豊臣秀吉公の湯殿や北政所の別邸の跡に寺院を築くことで、有馬温泉から豊臣家のイメージを薄めようとした徳川幕府に対し、豊臣家への同情を禁じえなかった職人たちが、作庭する段階で『平家物語』の栄枯盛衰の象徴である沙羅双樹を植えたり、物事が大きく変化するという意味もある「雀、海に入りて蛤となる」という中国の諺にちなんで蛤石雀石を置いたりすることで、我が世の春と豊臣家の築いた名残りを消し、権力を振りかざす徳川幕府もいつ瓦解するか分からないという秘めたメッセージを沙羅樹園に託したのではないかといわれています。





本堂の左側の御堂(左)には、「KOBE七福神」の寿老人像が祀られています(右)。



 そんな「沙羅樹園」では、毎年沙羅双樹の花の見頃に『沙羅の花と一弦琴の鑑賞会』と銘打った催しが開催されています。 毎年6月に行われるこの催しでは、まず本堂でお茶と沙羅の花のイメージの茶菓子を頂き、そのあと沙羅双樹の白い花を鑑賞しながら住職による御法話と須磨琴保存会の先生方の演奏を愉しむことができます。朝9時から2時間おきに1日計4回行われる『沙羅の花と一弦琴の鑑賞会』の定員は100名で、参加料は1,500円。 参加希望者はイベントの2週間前までに①代表者の氏名②住所③電話番号④参加人数⑤ご希望の鑑賞会(第2希望まで)を記入のうえ、〒651-1401 神戸市北区有馬町828 有馬温泉観光協会総合案内所「沙羅の花と一絃琴の鑑賞会」宛てに往復ハガキでお申し込み下さい。





本堂の前にある手水鉢(左)と歌碑(右)。


アクセス
・神戸電鉄「有馬温泉駅」下車、南東へ徒歩10分
念仏寺地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料 (開花シーズンの「沙羅庭園」はお茶・お菓子付きで入場料500円)

拝観時間
・9時~17時





滋賀・石山寺。

2008年04月13日 | ◆滋賀県


石光山石山寺

(せっこうざん いしやまでら)
滋賀県大津市石山寺1-1-1




西国三十三ヶ所観音霊場・第13番札所
神仏霊場近江 欣求の道・第14番札所







〔宗派〕
東寺真言宗

〔御本尊〕
如意輪観音像
(にょいりんかんのんぞう)


 「近畿の水瓶」と呼ばれ、約275億立方mの貯水量で京阪神の1,400万人の飲料水を支える日本最大の湖・琵琶湖。その湖水はまず瀬田川へと流れ込みますが、その川のほとりに、奈良時代から1200年以上もの長きに渡って法灯を護り続けている古刹があります。平安時代を代表する多くの文学作品にもその名が見られ、かの紫式部はこの地を参拝した折に『源氏物語』の着想を得たとも言われており、京都・清水寺、奈良・長谷寺と並ぶ観音霊場のひとつと言われている真言宗の寺院、石山寺です。





境内は「源氏物語千年紀」イベントの演出が施されていました。



 745(天平17)年のこと、東大寺大仏の造立を発願し、大仏像に施す鍍金用の黄金を求めていた聖武天皇の勅願を受けた良弁僧正は、当時「金が湧く山」と信じられていた吉野・金峯山で祈願を行いました。その時夢枕に現れた金剛蔵王「金峯山の黄金は56億7千万年後の弥勒菩薩による衆生救済の時に用いるため使うことは出来ない。琵琶湖の南に観音菩薩が姿を現される土地があるので、その地において黄金産出の祈願を続けるがよい」というお告げに従って瀬田川のほとりを訪れた良弁僧正は、比良明神の化身である古老に導かれて石山に登り、巨大な岩の上に聖徳太子の念持仏といわれる如意輪観音を安置して祈願を続けました。それから2年後の747(天平19)年、祈りが通じたのか陸奥国から黄金が産出されるようになったため、草庵を閉じて如意輪観音を移そうとしたところ、不思議なことに岩に張り付いたまま一向に動く気配がありません。そのため、この地に如意輪観音像を祀る堂宇を建てたのが石山寺の始まりといわれています。




 
石段を登ると、蓮如堂(左)や弘法大師をお祀りする御影堂(右)などが立ち並びます。


「石山寺」という寺号の由来となったといわれている硅灰石。




 761(天平宝字5)年にはこの地に造石山寺所が設置され、造東大寺司からも仏師をはじめとした人材が派遣されるなど、国家的プロジェクトとして大規模な伽藍整備が行われました。9世紀末に聖宝僧正が座主に就いた頃に真言密教道場なった石山寺には多くの貴人たちが参拝しました。『枕草子』や『蜻蛉日記』、『更級日記』にも取り上げられ、紫式部石山寺を訪れた際に『源氏物語』の着想を得たといわれています。本堂には「紫式部の間」が設けられ、山上の豊浄殿では「。紫式部展」が開催されています。源氏苑にも紫式部像が建てられているなど、境内の至る所で『源氏物語』の香りを愉しむことが出来ます。





現在の本堂の内陣は1096(永長元)年に再建されたもの。雷などで被害を受けた
外陣は1600(慶長5)年に淀君の寄進によって再建されました。

 
本堂に設けられた「紫式部源氏物語の間」。この部屋から眺めた名月の美しさに心を
打たれた紫式部は『源氏物語』の執筆を思い立ったといわれています。


 2008(平成20)年は『源氏物語』が生まれてちょうど1000年目にあたるため、ゆかりのある名所旧跡では様々なイベントが行われています。滋賀県でも「源氏物語千年紀in湖都大津」と銘打って石山寺滋賀県立近代美術館大津市歴史博物館などで12月まで多彩なイベントが行われます。なみなみと湖水を湛える琵琶湖からの涼風を感じながら、平安文学の香りを味わうのも一興ではないでしょうか。



「源氏物語千年紀in湖都大津」実行委員会公式サイト



 
境内奥の高台にある「月見亭」の傍からは瀬田川の流れが一望できます(左)
右の写真は1194(建久5)年に源頼朝公の寄進によって建立された多宝塔。


アクセス
京阪電車「石山寺駅」下車、南へ徒歩10分
石山寺地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人500円、小学生以下250円 (※駐車場:140台)

拝観時間
・9時~16時30分 (受付は16時まで)

公式サイト




にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村の村民になりました!

京都・釘抜地蔵(石像寺)。

2008年04月12日 | ◇京都府 -洛中


家隆山 光明遍照院石像寺

(かりゅうざん こうみょうへんじょういん しゃくぞうじ)
京都市上京区千本通上立売上ル花車町


通 称
釘抜地蔵




千本通沿いに建つ「釘抜地蔵尊」の表門。良く見ないとつい見過ごしてしまいそうです。



〔宗派〕
浄土宗

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)



 京都には、本来の名前よりも通称のほうが有名な寺院が数多くあります。北野エリアの千本通沿いを歩いていると、千本今出川の交差点を少し北に上がったところの民家や商店が並ぶ町並みのなかに、真っ赤な提灯が下げられた山門があるのに気付きます。ここが、人々の抱える悩みや苦しみを取り除いてくれるという「釘抜地蔵」、正式な名前を家隆山光明遍照院石像寺という、1,200年近い歴史を持つ古刹です。

 遣唐船で唐に渡り、真言密教の奥義を日本にもたらした高僧・弘法大師空海。その空海が、人々を現世の苦悩から救うという思いで唐から持ち帰った石を刻んで作ったという「苦抜地蔵」を安置したのが始まりだと言われています。819(弘仁10)年のことでした。当初は真言宗の寺院でしたが、平安時代から鎌倉時代初期にかけて東大寺の大仏殿の再建に尽力した俊乗坊重源によって中興されたときに浄土宗に改められました。




 
石畳の参道の先にある中門(左)。右は地蔵堂の前に立つ大きな釘抜きのモニュメント。



 「苦抜地蔵」が「釘抜地蔵」と呼ばれるようになったのは、室町時代に入ってから。1556(弘治2)年のこと、京都有数の大商人だった紀伊国屋道林は、突然両手の激痛に襲われます。名医の診立てを受け、効用のあると言われる薬を服用するなど手を尽くしましたが、一向に痛みが治まる兆しがありません。どうしたものかと苦悩する紀伊国屋道林は、出入りの商人から「千本通の苦抜地蔵は霊験あらたかである」と勧められ、藁にも縋る思いで7日間の願掛けをして平癒を一心に祈りました。すると満願の7日目の夜、紀伊国屋道林の夢枕に苦抜地蔵が立ち、「その手の痛みは、汝が前世において人形に八寸釘を打ち込んで他人を呪詛した報いである。私はその釘を抜き取り、前世の罪障を解いたので痛みも治癒するだろう」と告げました。

 翌朝、痛みがすっかり消えたことに驚いた紀伊国屋道林が早速石像寺を訪れて地蔵尊像にお参りしたところ、像の前には血に染まった2本の8寸釘が置かれてあったといいます。その恩に大いに感謝した紀伊国屋道林は地蔵尊の恩に少しでも報いようと、それから100日間お礼参りをしたといいます。このエピソードから「苦抜地蔵」は「釘抜地蔵」と呼ばれるようになり、以前にも増して人々から厚い崇敬を集めるようになりました。




 
人々の「苦」を抜いてくれる本堂(左)。右は、壁面に飾られている御礼の釘抜絵馬。



 祈願をする際は、まず地蔵堂脇にある箱の中にある竹の棒を自分の年齢数だけ手に持ちます。そして身体や心の苦悩の元となる「釘」を抜いて欲しいと願いながら、地蔵堂を一周まわるごとに1本ずつ箱の中へ棒を納めていきます。竹の棒が全て箱に収められたところで祈願終了となります。こうした願いが実って苦しみが癒えたときは、2本の8寸釘とミニチュアの釘抜きをくくり付けた絵馬を地蔵堂の外壁に奉納して「釘抜さん」に感謝の気持ちを伝えるというのが慣わしとなっています。




 
本堂の左奥にある、石造りの阿弥陀三尊如来像を祀る地蔵堂(左)と、右奥の稲荷社(右)。



 地蔵堂の裏には、1224(元仁元)年に伊勢権守の佐伯朝臣為家卿によって彫られ、翌年開眼されたという花崗岩製の阿弥陀如来三尊像が納められています。この石仏は台座から仏像本体まで、全てが一つの石から彫られた秀作で重要文化財に指定されています。また、観音堂には行基上人の作と伝えられる観音菩薩像も安置されています。さらに境内の奥には、空海が自ら掘ったといわれる井戸・加持水や、平安時代の歌人・藤原定家卿と藤原家隆卿の墓があります。




  
寺務所裏の墓地の奥には、弘法大師空海が掘りあげたという井戸・加地水があります。


アクセス
JR「京都駅」より市バス206系統「千本上立売」バス停下車すぐ
京阪電車「三条駅」より市バス59系統「千本上立売」バス停下車すぐ
釘抜地蔵(石像寺)地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・5時30分~17時


京都ご利益めぐり
京都くまなく歩き隊
ナツメ社

このアイテムの詳細を見る




にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村の村民になりました!

大阪・服部天神宮(豊中市)。

2008年04月10日 | ◆大阪府
健脚の神さま・学業成就・商売繁盛

服部天神宮

(はっとりてんじんぐう)
大阪府豊中市服部元町1-2-17

阪急沿線三天神めぐり





〔御祭神〕
少彦名命
(すくなびこなのみこと)
菅原道真公
(すがわらのみちざねこう)



 古代、中国大陸や朝鮮半島からは戦乱を避けるためなど様々な理由で日本に渡ってきた人々がいました。百済から渡って飛鳥に根をおろした阿知使主を始祖とする東漢氏(やまとのあやうじ)、『論語』や『千字文』を伝えた王仁を中心に河内国に本拠を構えた西文氏(かわちのあやうじ)弓月君を始祖として山城国を本拠地に各地へ勢力を伸ばしたした秦氏(はたうじ)など多くの人々が日本へ渡来し、帰化していきました。秦氏は『日本書紀』では百済から来た氏族だと記述されていますが、最近の研究では新羅系だという説が有力になっています。




鳥居をくぐると、「健脚祈願」の幟と提灯が迎えてくれます。



 土木開発や養蚕、機織りなどに高い技術を持っていた秦氏は、5世紀前半の允恭天皇の頃に「機織部」に任じられるなど大和朝廷の中で様々な役割を果たしていました。そんな秦氏が定住したことから、この地には「機織(はたおり)」が転じて「服部(はっとり)」という地名がついたといわれています。服部の地に根を下ろした秦氏は、自分たちが信仰していた少彦名命を祀る小さな祠を建てました。これが服部天神宮の始まりといわれています。




境内にある豊中えびす神社。



 時代は下って平安時代のこと。藤原四兄弟の中のひとり、藤原房前卿の五男として生まれ、称徳天皇の強力な後押しによって皇位を狙ったという説のある弓削道鏡を排除したことでも知られる藤原魚名卿は、光仁天皇桓武天皇の厚い信任を得て左大臣の要職にあった藤原魚名卿は、782(延暦2)年に氷上川継の乱に関与したという濡れ衣をかけられ、無実の罪で大宰権帥として左遷されてしまいました。

 失意のうちに西へと向かった藤原魚名卿は、服部の地にさしかかったところで病に倒れます。この報に接し藤原魚名卿を不憫に思った桓武天皇は、罪を赦して京都へ戻ることを許しましたが、重篤な状態の藤原魚名卿は服部から動くことが出来ずにそのままこの地で亡くなりました。亡骸は少名彦命を祀る祠のすぐ傍に丁重に葬られました。




少彦名命を祀る社殿。朱色が鮮やかです。



 藤原魚名卿の非業の死から1世紀以上経った901(延喜元)年、同じように讒言によって太宰府へと無念の旅を続ける貴人がこの地を訪れます。無実の罪で左遷された菅原道真公は大宰府への道の途中、服部に差し掛かったところで持病の脚気が悪化して歩を進めることが出来なくなりました。これを聞いた地元の人々の勧めに従って「医薬の神さま」としても知られる少名彦命の祠に参拝した菅原道真公は、祠の脇に自分と同じ境遇に陥ってこの地で斃れた藤原魚名卿の塚があることを知ります。今の自分の姿を重ね合わせ、その悲運に大いに同情した菅原道真公は、その冥福を祈って懇ろに供養を行ったといいます。少名彦命藤原魚名卿の霊験によって脚気が全快した菅原道真公は、無事に大宰府まで辿り着くことが出来たといわれています。

 その後、全国的に高まった天神信仰を受けて菅原道真公が祀られるようになり、この時期から「服部天神宮」と呼ばれるようになりましたが、脚気が全快したという伝説に因んで「足の神様」として厚い崇敬を集めるようになりました。江戸時代、服部能勢街道の宿場町として発展しましたが、脚気の全快や無事に旅を続けられることを祈願する人々で服部天神宮は大いに賑わいをみせました。




菅原道真公の坐像。




アクセス
阪急電車宝塚線「服部駅」下車、東へ徒歩2分
阪急バス9・10・13・63・160系統「服部」バス停下車、徒歩2分
服部天神宮地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
無料

拝観時間
常時開放

公式サイト
  足の神様・服部天神宮のホームページ



にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村の村民です。

神戸・インフィオラータこうべ。

2008年04月01日 | ■神戸市中央区


インフィオラータ神戸

(いんふぃおらーた こうべ)
神戸市灘区から神戸市垂水区までの市内各地




「のじぎく国体」が生んだ兵庫県マスコット「はばタン」。


※画像は以前の「インフィオラータこうべ」でのものです。




 「インフィオラータ」とは「花を敷きつめる」という意味のイタリア語です。イタリアでは、13世紀頃からキリストの祝日である『キリストの聖体』の大祝日(コルプス・ドミニ)の際、通りに花を撒く習慣がありました。そして17世紀頃にサンピエトロ寺院コルプス・ドミニの日に花びらをデザインして敷き詰めるイベントが行われてからは、同様のイベントが各地に広がるようになります。

 イタリア・ローマのジェンツァーノ市では、1782年から中心街であるスフォルツァ通りに花びらで絵を描くというイベントが始められ、200年もの間続けられています。1980年代からはミッソーニフェンディヴェルサーチなどイタリアを代表するデザイナーたちも参加するようになりました。




作品名は「トワイライト神戸」。西元町NPOチームの作品です。



 神戸でも阪神・淡路大震災追悼行事の一環として、震災犠牲者の鎮魂と残された人々への癒しなどを目的に、1997(平成9)年から毎年4月に行われるようになりました。インフィオラータこうべでは、多くのチューリップの花が使われていますが、これらの花は本来は球根の収穫後に廃棄されるはずだったもので、富山県砺波市新潟県新潟市の球根栽培農家の皆さんのご好意で神戸市に提供され、通りを彩る美しい花の芸術へとリサイクルされいます。




うどん屋さんの前にもかわいい作品が。手作りのあったかさを感じます。




開催エリア
 初年度は「三宮あじさい通り」と「北野町広場」の2ヶ所での開催でしたが、イベントの定着とともに会場数も増え、2008年はこれまでで最多の8エリアで花絨毯のイベントが行われます。


三宮東地区  三宮あじさい通り  2008年4月26日(土)~28日(月)

北野坂地区  北野坂・ムーンプラザ  2008年5月3日(土)~5日(月)

元町あなもん地区  元町穴門商店街  2008年4月26日(土)~27日(日)

西元町地区  元町6丁目商店街  2008年4月26日(土)~28日(月)

マリンピア神戸地区  ポルトバザール内  2008年4月27日(日)~29日(火)

灘中央筋地区  灘中央筋商店街  2008年4月26日(土)~28日(月)

北神地区  北神戸田園スポーツ公園  2008年4月28日(月)~30日(水)

医療産業都市地区  ポートライナー「先端医療センター前」駅広場  5月10日(土)






不敵な笑顔のこの豚のキャラクターの名は「ワケトン」。
神戸市のゴミ分別収集のPRに頑張ってます。「ゴミ、ちゃんと分けとん?」



地元の婦人会が作った力作。その名も「西元町へようこそ




公式サイト
  「FEEL KOBE」インフィオラータこうべ特集