神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

滋賀・西明寺(湖東三山)。

2006年10月30日 | ◆滋賀県

龍應山 西明寺

(りゅうおうさん さいみょうじ)
滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26

西国四十九薬師霊場・第32番札所
湖東二十七名刹霊場・第8番札所




山門は参拝客であふれていました。


〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
薬師瑠璃光如来像
(やくしるりこうにょらいぞう)



 龍應山西明寺は、平安時代初期の834(承和元)年に三修上人によって開かれたといわれる天台宗の寺院です。三修上人慈勝は、9世紀半ばの仁寿年間(851~853年)に修験道の聖地といわれた伊吹山に入って観音寺長尾寺太平寺弥高寺の「伊吹4大寺」を創建するなど、山内の整備に尽力したといわれる修験者です。 三修上人に関しては伝説的な話が多く、899(昌泰2)年に70余歳で没して伊吹山の山頂の蓮の上より天に還っていったという話を基準に考えると、西明寺開創の際の三修上人はまだ5歳前後の子供だったことになるなど辻褄が合いません。西明寺の創建に三修上人がどういう形で携わったかも伝説の域の話で、史実であったかどうかは定かではありませんが、この時代に近江国で人智を超越した修験者・三修上人に対する強い信仰があったことは感じ取ることが出来ます。




 
紅葉の頃に開花するといわれる「不断桜」(左)と、木漏れ日満ちる参道(右)。



 そんな西明寺の創建に関する伝承は以下の通りです。琵琶湖の西岸の地で修行を行っていた三修上人は、湖の対岸の山上に紫雲がたなびいていることに気付きます。仏教における紫雲は「仏尊の乗る雲」という意味があり、この雲の出現に瑞運を感じた三修上人は修験道で培った神通力をもって琵琶湖を飛び越え、紫雲たなびく山へと向かいます。その山中、とある池から紫光が射すのを発見した三修上人が強い霊験を感じて一心に祈念したところ、池の中から光り輝く薬師如来尊が姿を現されたそうです。ありがたいその御姿を池の脇に伸びていた赤松の一木に刻んだのが御本尊である薬師瑠璃光如来像だといわれており、この伝説に基づいてこの地を「池寺」と呼び、薬師瑠璃光如来像を安置するために開いた寺院の名前も西へとたなびく紫雲の故事にちなんで「西明寺」と名付けられました。




 
1407(応永14)年建立の二天門(左)と、国宝に指定された総檜造の三重塔(右)。



 西明寺は836(承和3)年には第54代仁明天皇の勅願寺院となり、最盛期には17の諸堂や300を越える僧坊が立ち並ぶ大伽藍といわれています。2000石もの寺領を誇る天台密教の修行道場として栄えた西明寺には源頼朝公も戦勝祈願に訪れたという伝承が残されています。そんな名刹も、戦国時代の勢力争いに関与したことで大きなダメージを受けることになります。

 当時は各地で自衛のために寺院の城郭化・武装化が進んでいました。この地域でも名門・佐々木源氏の流れを引く六角氏の指導のもとで各寺院の城塞化が進められていましたが、比叡山延暦寺の僧兵による強訴などをはじめ、強大な武力を背景に宗教勢力としての枠を越えて政治にまで介入することも少なくなかったようです。そういった宗教勢力は、やがて近江国への進出を目指す織田信長公と六角義賢公・六角義治公親子との対立の構図に巻き込まれていくことになります。




 
鎌倉時代初期に建立された本堂(左)。右は薬師瑠璃光如来の右手に繋がる結縁の紐。



 1571(元亀2)年、宗教勢力の政治介入の排除を目的として比叡山延暦寺の焼き討ちを決行した織田信長公は、同時に比叡山の勢力下にあって反抗を続ける近隣の天台寺院への焼き討ちも進めました。ここ湖東三山も例外ではなく、西明寺も同じ年に織田信長公旗下の名将・丹羽長秀公の軍勢に攻められて焼き討ちに遭い、本堂三重塔二天門を除いた全山が炎に包まれました。この兵火によって壊滅的なダメージを受け、すっかり荒廃してしまった西明寺が復興を遂げるのは、江戸時代中期の延宝年間1673~1681年)に入ってからのこと。徳川幕府の支援を受けた山科・毘沙門堂の門跡・久遠寿院公海大僧正西明寺の復興事業に取り組み、信濃源氏の血を引く甲賀望月氏出身の望月友閑公が復興の陣頭指揮を執ったといわれています。このとき小堀遠州の流れを汲んで作庭されたのが、紅葉の名所として有名な地泉回遊式庭園・蓬莱庭だといわれています。





望月友閑が作庭したと伝えられる蓬莱庭。


アクセス
・近江鉄道「尼子駅」よりシャトルバス乗車、約10分
 (10月28日~11月30日の毎日シャトルバスを運行)
西明寺地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:500円、中高生:300円、小人:100円  (※三重塔内特別拝観料:1,000円)
 ※三重塔内特別拝観:春季が4月8日から5月8日、秋季が11月8日から11月30日まで

拝観時間
・8時~17時

公式サイト


滋賀・湖東三山 秘仏本尊御開帳。

2006年10月28日 | ◆滋賀県






  
左から 龍應山西明寺 ・ 松峰山金剛輪寺 ・ 釈迦山百済寺


この3寺院を総称して「湖東三山」といいます。




 彦根の南、近江八幡の東。近江鉄道が繋ぐ琵琶湖の南東部、いわゆる“湖東”の地に、「湖東三山」と呼ばれる天台宗の名刹があります。北より「龍應山西明寺」、「松峰山金剛輪寺」、「釈迦山百済寺」。7世紀から9世紀にかけて開山されたと言われるこれらの古刹は、それぞれ国宝や国の重要文化財に指定されている仏像や建造物を多数抱えており、深秋には美しい紅葉で彩られる有数の景勝地でもあります。


 今回、「天台宗開宗1200年慶讃大法会記念」と銘打って、これらの寺院で秘仏とされているご本尊が一斉にご開帳されるという、湖東三山史上初の記念行事が行われ、多くの参拝客で賑わいました。

 西明寺のご本尊・薬師瑠璃光如来像は、住職一代に限り1回だけ御開帳が許されている秘仏で、今回の御開帳は実に半世紀ぶりのことだそうです。百済寺のご本尊・十一面観音菩薩像に至っては55年ぶりの御開帳で、この仏さまも今回を逃せばもう2度と見ることが出来ないと思われる秘仏です。三山の中で比較的御開帳されることの多い金剛輪寺のご本尊・聖観世音菩薩像でさえ6年ぶりということで、三山一斉の秘仏公開というこの貴重なイベントに、会期最終日に至ってようやく足を運ぶことが出来ました。

 最終日ということもあってか、近江鉄道尼子駅から出ていた湖東三山行きシャトルバスをされる方も多く、寺院をまわるごとに乗客は増え、金剛輪寺から百済寺へと向かうときには通勤ラッシュ顔負けの混雑ぶり。超満員の車内で山道を左右に揺さぶられて大変でしたが、それだけの思いをしてでも行く価値はありました。


 JR彦根駅から近江鉄道に乗り換えてから6時間かけて巡った湖東三山のご本尊。さすがに秘仏だけあって撮影こそ出来ませんでしたが、境内の様々な風景をカメラに収めてきました。このあと、そういった画像を交えながら、西明寺金剛輪寺百済寺の順に、くわしくご紹介してみたいと思います。





姫路・松原八幡神社。

2006年10月17日 | □兵庫県 -姫路
厄除・家運隆昌・交通安全

松原八幡神社

(まつばらはちまんじんじゃ)
兵庫県姫路市白浜町甲396



「灘のけんか祭り」で全国的に有名な松原八幡神社の大鳥居。


〔御祭神〕
品陀和気命
(ほんだわけのみこと=応神天皇)
息長足姫命
(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)
比大神
(ひめのおおかみ)



 18世紀、播磨国印南郡平津村(いまの加古川市)在住の医者だった平野庸修によってまとめられた史書「地誌播磨鑑」や、南北朝時代に著されたといわれる「峯相記」には、「灘のけんか祭り」で全国的に名高い松原八幡神社の御由緒に関する記述が残されています。これらや「播磨国風土記」は、播磨地方の歴史を研究する上で欠かせない代表的な史料で、3つを総称して「播磨三史書」と呼んでいます。



 
寺院風の楼門。1679年に建てられたもので、
姫路市の指定文化財となっています。



 この史書には、次のように記述されています。763(天平宝字7)年4月11日、豊前国宇佐の地から東に向けて一筋の白雲がたなびき、それと時を同じくして播磨国白浜沖の海中に、毎晩光り輝くものが現れます。これを不思議に思った播磨国の国司が地元・妻鹿の漁師である倶釣(久津理)に命じて海中を探らせたところ、「宇佐第二垂迹八幡大菩薩」と銘の入った紫檀の霊木が魚網にかかって引き揚げられました。

 驚いた国司が、さっそくこの霊木を妻鹿川下流にある大岩の上に安置して丁寧にお祀りしたところ、村は疫病などの災厄から守られたといいます。この出来事はやがて朝廷の知るところとなり、この霊木は妻鹿の北山・今の御旅山に造営した仮殿に遷され、人々の厚い崇敬を集めることになりました。




1924(大正13)年建立の社殿。1995(平成7)年に全面改修されました。



 その後、霊夢にて「吾が永遠に鎮座したいと欲する場所は、今は海中にあれど一夜のうちに白浜と化し、粟が生じるよう数千本の松を生えさせるので、其の場所に宮を建てて祀って欲しい」という神託を受けた国司は、その言葉に従ってここ白浜の地に豊前国・宇佐八幡宮に倣った立派な社殿を建立して遷座したと伝えられています。実際のところ、松原八幡神社の本格的な造営は、伏見天皇より社領を賜ったのちの14世紀末・明徳年間(1390~1394)の頃に行われたと見られています。




右から絵馬伝・住吉社・神楽殿。社殿右に並んでいます。



 松原八幡神社は播磨国の守護大名・赤松氏の庇護を受けて発展を続けます。15世紀には隣接する松原山八正寺に多数の僧兵を抱え、赤松氏と持ちつ持たれつの関係を築き、対立する山名氏との戦いでも常に赤松氏側を助勢していた松原八幡神社は、応仁の乱の際には山名氏の報復に遭い、焼き討ちされて全焼してしまいます。

 壊滅的な打撃を受けた松原八幡神社ですが、1558(永禄元)年には赤松政則公によって立派に再建されました。このとき竣工祭に米200俵が寄進されたことを喜んだ氏子たちが、米俵を担いで御旅山山頂まで練り歩いたことから「灘のけんか祭り」の原型が生まれたとされています。




左手にも摂社がずらりと並んでいます。



 戦国時代末期の1573(天正元)年には、播磨へ勢力を伸ばしつつあった織田信長軍の羽柴秀吉勢と毛利方の武将・別所長治勢の戦いに巻き込まれ、またも兵火に遭います。双方から援軍の要請を受けた松原八幡神社では、なかなか意見がまとまらず曖昧な態度を取り続けていました。これに業を煮やした別所長治勢は、神社を取り囲んで一斉に火を放ちました。こうして松原八幡神社は再び全焼の憂き目に遭います。

 しばらくたった1584(天正12)年、松原八幡宮の社僧・霊山坊快祐によってようやく復興を果たした松原八幡神社ですが、羽柴秀吉公による播磨国平定のとき、城南の芝原地区(現在の姫路市豊沢町あたり)に遷すよう命じられます。このとき白浜の地と神社の由緒を説いて羽柴秀吉公を説得したのが名軍師と謳われた黒田官兵衛孝高公だといわれています。羽柴秀吉公の狙いは強大になった寺社勢力を削ぐことにあったのかもしれませんが、古来からの伝統的な流れを断ち切ることで人心を失う愚を犯させないようにとの思いがあったのでしょう。

 「宗教勢力の抑制」「伝統尊重」を天秤にかけた結論が、社領の大幅な削減でした。伏見天皇から社領を拝領して以来の「千石千貫」といわれた広大な社領は、わずか60石に減らされて往時の勢力は失われましたが、伝来のこの土地で松原八幡神社は存続することができました。もしこの時移転されてしまっていたら、現在の勇壮な「灘のけんか祭り」は存在していなかったかもしれません。黒田官兵衛公はまさに、祭りの救い主と言えるでしょう。




「八幡大菩薩」の銘の入った霊木を引き上げた、
倶釣を祀るお社も境内に建てられています。


アクセス
・山陽電車「白浜の宮駅」下車、南へ徒歩2分
 松原八幡神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

播磨の祭り
藤木 明子,北村 泰生
神戸新聞出版センター

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姫路・灘のけんか祭り。

2006年10月15日 | □兵庫県 -姫路

灘のけんか祭り

(なだのけんかまつり)
兵庫県姫路市白浜町甲


松原八幡神社・秋季例大祭




激しくぶつかり合う屋台。広畑中が大歓声に包まれます。




 全国的にも有名な「灘のけんか祭り」。これは、姫路市白浜に鎮座する松原八幡神社で毎年10月14日と15日の2日間に渡って行われる秋季例大祭の神事のことで、練り場と呼ばれる場所で豪快に神輿をぶつけ合うことから「けんか祭り」と呼ばれるようになりました。松原八幡神社の例祭の原点は14世紀中頃の地誌「峯相記」に記されている「放生会」だといわれており、それより以前から執り行われていたと思われる放生会が今の形に近付いていったのは、それより1世紀経った15世紀中頃のことだといわれています。

 応仁の乱によって松原八幡神社が兵火に巻き込まれて焼失した際、播磨の守護大名だった赤松正則公が社殿の再建に尽力。竣工祭には米200俵を寄進したことから、これを喜んだ氏子たちが木組みに米俵を積み上げて御旅山へ担ぎ上げたのが「灘のけんか祭り」が現在のスタイルとなった起源だといわれています。神功皇后三韓遠征のとき、神功皇后の軍船はここ白浜の地で風除けのために停泊したといわれています。その際、軍船の船底に付着した呉以名(=牡蠣)を落とそうと激しく船同士をぶつけ合ったという伝説にちなんで、神輿をぶつけ合う「けんか」スタイルが定着したそうです。




 
広畑の放送席から飛ぶ長老の檄(左)と、さらに激しくぶつかり合う屋台(右)。
 


 宵宮の14日の朝、風呂に入って身を清めた練り子たちは各地区の屋台を担いで町内を一周したあと、松原八幡神社に宮入りします。宮入りの順番は江戸時代から変わっておらず、東山地区を先頭に、木場松原八家妻鹿宇佐崎中村の順に宮入りを行います。翌15日は本宮。朝から各地区の屋台の宮入りが行われますが、神輿を担ぐ練り番にあたっている地区の練り子たちはこれには参加せず、海に入って身を清める「潮かき」の儀式を行います。全ての地区の屋台の宮入りが終わったあと、練り番の地区が3本の神輿幟を押し立てて宮入りします。





山頂を目指す屋台。夕陽を浴びて金色に輝きながら進む姿は壮麗のひと言に尽きます。



 全ての地区が宮入りを終えると、安置してある3基の神輿を担ぎ出しての練り合わせが始まります(神輿「一の丸」には応神天皇、「二の丸」には神功皇后、「三の丸」には比大神が乗り移られていると言われています)。神社前の練り場で神輿をぶつけ合う練り合い神事が行われた後、松原の獅子屋台・神官・神輿・各地区の屋台の順に、松原八幡神社から西へ約1kmのところにある御旅山に向かいます。

 御旅山の麓にある広畑(ひろばたけ)と呼ばれる練り場が「けんか祭り」の醍醐味である激しい練り合いの場です。とにかく人・人・人。山肌にスタンドが設けられ、一説には15万人もの人々で埋め尽くされます。ここでも練り子たちの弾けるような掛け声と大歓声に包まれて3基の神輿による激しい練り合いが行われ、最大のクライマックスを迎えます。




 
山頂の御旅所の前に並んだ傷だらけの神輿(左)と御旅所の社殿(右)。



 そののち1基300㎏以上といわれる神輿は山頂の御旅所に担ぎ上げられ、御旅所の社殿前での神事を行います。全ての屋台が山頂へと集結したあと、神輿と屋台は夕陽を背に登ってきた順番に御旅山を下山。観衆からの名残りを惜しむ拍手が響く中、それぞれの地区へと戻っていきます。



 

宴の後の広畑(ひろばたけ)。実に10万人以上もの人々が祭りを見守りました。


アクセス
・山陽電車「白浜の宮駅」下車、徒歩2分(松原八幡神社)
(※この2日間は、最寄り駅である「白浜の宮駅」に山陽電車の直通特急が特別に停車してくれます。)
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関連サイト



播磨の祭り
藤木 明子,北村 泰生
神戸新聞出版センター

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神戸・村上帝社。

2006年10月15日 | ■神戸市須磨区



(むらかみていしゃ)
神戸市須磨区須磨浦通4-8



国道2号線沿いに、風雪に耐えて色あせた鳥居が建っています。


〔御祭神〕
村上天皇
(むらかみてんのう)



 JR須磨駅から国道2号線を渡って東に歩いていくと、道沿いに小さな赤鳥居が建っているのを見た方も多いと思います。この奥に広がるこじんまりとした境内にある小さな社殿に祀られているのは、10世紀半ば頃に「天暦の治」を展開したといわれる村上天皇です。そのため村上帝社と呼ばれているのですが、ここの本当の主役は、村上天皇ではなく当代随一と呼ばれた琵琶の名手・藤原師長なのです。




村人によって建てられたという村上帝社。創建時期は不明です。



 藤原師長卿は、従一位・太政大臣まで登りつめた平安時代末期の貴族で、左大臣藤原頼長卿の次男として生まれた家柄もあり、若くして権中納言に就くなど順調に出世を重ねます。しかし、19歳のときにその父が崇徳上皇らと組んで「保元の乱」を起こしたため、連座の罪で官位を剥奪されて土佐国に配流されてしまいます。

 8年後の1164(長寛2)年にようやく罪を赦されて政治の表舞台に復帰した藤原師長卿は、40歳になった1177(治承元)年には従一位・太政大臣に昇進するなど位人臣を極めますが、朝廷内で勢力を伸ばしてきた平家と近い関係にあった近衛基通卿と対立、平家との関係も険悪になったこともあって、1179(治承3)年11月に起きた平清盛公によるクーデターの際にその任を解かれ、ふたたび流罪となって尾張国に流されます。平清盛公が死去したこともあって、その3年後の1182(養和2)年には再び都に戻ることを赦されました。

 このように政治家としては波乱に満ちた生涯を送りましたが、こと芸術の世界では、源博雅卿と並ぶ平安時代を代表する雅楽家として高い評価を受けていました。そんな筝や琵琶の名手として名を馳せた芸術家藤原師長としての伝説が、ここ村上帝社に残されているのです。




1969(昭和44)年に建てられた鳥居。伊勢神宮と同じ神明鳥居と呼ばれる形です。



 当代最高の琵琶の名手として高い評価を受けていた太政大臣藤原師長卿。まわりの評価とは裏腹に、決して己の技量に満足していなかった師長卿は、さらに高いレベルで腕を磨きたいという情熱に駆られて、周囲が押しとどめるのも聞かず、本場・唐へ向かうために愛用する琵琶「絃上(げんじょう)」を担いで、単身徒歩で西へと向かいます(当時の中国は南宋でしたが、伝説では唐となっています)。

 日暮れ時に須磨の地にたどりついた藤原師長卿は、この地で一夜の宿を求めます。快く宿を提供してくれた老夫婦から琵琶の演奏を頼まれた藤原師長卿が、一宿一飯の義理にと愛器「絃上」で一曲弾き終えると、この老夫婦はなんと琵琶と琴の伝説的な名人であった村上天皇梨壺の女御に姿を変えていました。驚く藤原師長卿の前で2人は「越天楽」を奏であげ、「自分たちはあなたが唐へと渡ることを押し留めにきたのだ」と告げます。そして唐に渡る必要のないほどの演奏の秘伝と、竜宮から授かったという素晴らしい音色を奏でる琵琶「獅子丸」を授けるのと同時に姿を消します。我に返った藤原師長卿は「獅子丸」を携え、足取り軽く都へと戻っていった、というのが村上帝社にまつわる伝説です。これには太政大臣の頃の話だという説と、若い頃だという説があります。




1977(昭和52)年に建てられた琵琶塚。



 山陽電車の高架のすぐ北側には琵琶塚が建っています。その昔、ここには小さな前方後円墳があり、いつの頃からか藤原師長卿が奏でた琵琶「獅子丸」を埋めた塚だと言われるようになりました。今ではその姿を偲ぶ術もありませんが、古墳があったという場所に神戸市立須磨の浦地域福祉センターが建設された際、供養にと建てられたのがこの琵琶塚です。一説には、古墳のカタチが琵琶に似ていたため藤原師長卿の琵琶伝説と結び付けられたという話もあります。京に戻った藤原師長卿が、それほどの宝物をこの地にわざわざ埋めに来る、というのも不自然な話ですものね。



アクセス
・JR「須磨駅」下車、東へ徒歩2分
・山陽電車「山陽須磨駅」下車、東へ徒歩1分
 村上帝社・琵琶塚地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸・菅の井。

2006年10月10日 | ■神戸市須磨区



(すがのい)
神戸市須磨区天神町5-2



風雨を受けてかなり荒れた感じになっています。


菅原道真公ゆかりの史跡



 元宮長田神社のすぐ東隣、住宅や工事現場に挟まれフェンスで囲まれた草むらの中に残されているのが菅の井です。その名から連想される通り、菅原道真公にゆかりの深い史跡です。

 無実の罪で左遷されて太宰府へと向かう失意の旅の途上、須磨に上陸して休息をとった菅原道真公。このとき西須磨エリアの里長であった橘秀祐公は、自分の屋敷で湧いた美味しい清水を道真公の船に提供したそうです。これをとても喜ばれた菅原道真公は、水の御礼として自画像を贈られたと言われていますが、このエピソードによってこの井戸は「菅の井」と呼ばれて広く知られるようになりました。のちに橘秀祐公の一族は前田姓を名乗り、この井戸の水で「菅の井」という清酒を醸造し、太宰府天満宮へも納めていたそうです。


※前回掲載した「元宮長田神社」を祀った一族は、橘秀祐公を始めとする前田一族のことだと思われます。



アクセス
・山陽電車「須磨寺駅」下車、東へ徒歩2分
 菅の井地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・非公開(フェンスで囲まれています)

拝観時間
・非公開(フェンスで囲まれています)

神戸・元宮長田神社。

2006年10月09日 | ■神戸市須磨区
商売繁盛・開運招福・家内安全・交通安全・厄除



(もとみやながたじんじゃ)
神戸市須磨区天神町5-2



山陽電車須磨寺駅から離宮道に向かう道の途中に見える真新しい鳥居。


〔御祭神〕
事代主命
(ことしろぬしのみこと)



 須磨離宮公園へとまっすぐ南北に走る離宮道。山陽電車須磨寺駅からその離宮道へと抜ける道の途中に小さなお社があります。山陽電車の線路のすぐ南側に建つこのお社の名は、元宮長田神社と言います。
 
 神功皇后三韓遠征からの帰途、須磨の地を訪れたとき、西須磨一帯に勢力を保っていた一族(のちに前田姓を名乗る)に対して出雲国の事代主命をこの地に祀るように命じます。その意向通りに祀られていた事代主命は、その後「鶏の鳴く地が我が有縁の地である」と現在の長田神社に遷っていったため、ここのお社は長田神社の元のお宮さんということで元宮長田神社と呼ばれるようになりました。




2005(平成17)年に鳥居が再建されるまでは、この社殿だけの境内でした。



 元宮長田神社では祭りのとき、3,333体のワラ人形を作って切り刻むといった、かなり強烈な行事が行われていたそうです。これは、神功皇后三韓遠征での殺伐たる悲惨な戦闘の光景を表現したものだったといわれています。


アクセス
・山陽電車「須磨寺駅」下車、東へ徒歩2分
 元宮長田神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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神戸・湊八幡神社。

2006年10月06日 | ■神戸市兵庫区
厄除・家内安全・交通安全



(みなとはちまんじんじゃ)
神戸市兵庫区兵庫町1-4-37



震災によって倒壊した鳥居は、2000年9月に再建されました。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)



 神戸には独自の鉄道車両を持たず、駅舎施設のみを所有するというユニークな鉄道会社・神戸高速鉄道があります。阪神電車阪急電鉄山陽電車神戸電鉄が相互乗り入れを実現するため、4社の共同出資で1958(昭和33)年10月2日に設立された会社で、神戸市が40%の株式を持ち、阪急阪神山陽が各10.7%の株式を、そして神鉄が9.79%の株式を出資する第3セクターの鉄道会社です。

 その要となる駅が「新開地駅」です。付近にあるJR神戸駅が71,000人強、JR元町駅が16,000人程度であることを考えると、新開地駅を利用する一日の乗降客数72,000人というのはかなりの数で、神戸の交通の要衝となっています。

 この付近は、歴史的にも九州と大和地方・京都・東国を繋ぐメインストリートである西国街道が通り、日宋貿易や瀬戸内海航路などの海上交通の重要地として栄えた兵庫津が交わるポイントであったため、多くの人々・物品・金・情報で賑わう土地でした。その西国街道に面し、兵庫津の東の入り口に当たる湊口惣門の前に建っていた湊八幡神社は、道行く旅人たちのランドマークとして広く知られていたそうです。


 

1962(昭和37)年に再建された社殿



 社伝によると、神功皇后三韓征伐への途上、摂津国岡野村にさしかかった辺りで身篭っていた応神天皇が産まれそうになったため、出産の時期を先延ばしにするために土地の霊石を探して祈願を行ったそうです。その祈願がみごとに成就したことから、感謝の意を込めてこの霊石を祀ったのが湊八幡神社の始まりと言われています。伝説はともあれ諸記録から、少なくとも17世紀の半ばには神社があったのは確実で、以前は湊玉生八幡宮と呼ばれていました。




新旧並んで立つ迷い子の標は当時の風習を伝える貴重な史料です。



 交通の要衝だった湊八幡神社には、当時の風習を今に伝えるユニークな史跡が残されています。それが「迷い子の標(しるべ)」です。多くの人々でごった返していた西国街道沿いのこの地では頻繁に迷子が発生しており、警察組織も発達していなかった時代に迷子探しの方法として設置されたのがこの石標です。迷子を探している人は石標に子どもの特徴を書いた張り紙をします。迷子を見つけた人も何処で迷子を預かっているか、どんな特徴の子かを書いた紙を張ることで迷子問題を解決する仕組みでした。

 迷い子の標は残念ながら1945(昭和20)年3月17日の空襲によって破損しましたが、当時の風習を窺い知ることが出来る貴重な文化財として1971(昭和46)年に鉄枠などで補強されて修復され、その隣にもレプリカの石碑が新たに建てられています。


アクセス
・神戸高速鉄道「新開地駅」下車、南へ徒歩5分
 湊八幡神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
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神戸・岡本八幡神社。

2006年10月04日 | ■神戸市東灘区
厄除開運

岡本八幡神社

(おかもとはちまんじんじゃ)
神戸市東灘区岡本6-10-1




天井川沿いに結構きつい坂を登っていくと、鳥居が目に入ります。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
神功皇后
(じんぐうこうごう)



 神戸の中でも人気の高い東灘区岡本。個人的にも岡本や西岡本は一度住んでみたいと思う土地です。そんな岡本は、「梅は岡本、桜は吉野、みかん紀の国、栗丹波」と唄われたり、「梅は岡本、桜は生田、松の良いのは湊川」と唄われたりするなど、古くから梅の名所として広くその名を知られていました。




応神天皇と神功皇后を祀る社殿。



 平安末期から鎌倉時代にかけて、源平の争乱など時代の変革に巻き込まれていく中で、東灘エリアでも人々の結束がコミュニティの発達を呼び、この地域でも岡本郷が形成されていきます。鎌倉幕府が誕生したといわれる1192(建久3)年の頃には村としてのカタチを整えていたようで、当時隆盛であった源氏にあやかろうと、その氏神である八幡大神(応神天皇)を村の鎮守として祀ったのが岡本八幡神社だと言われています。これに因んで一帯は八幡林と呼ばれ、境内の東にある谷は八幡谷と呼ばれていました。
 
 戦国末期、天下統一が成った後に行われた太閤検地によって、気候温暖な優良地であった東灘エリアは直轄領とされ、関白豊臣秀吉公などの武将たちも岡本八幡神社に参拝したという言い伝えが残されています。





神輿庫。岡本にもだんじりがあります。



 梅の名所として茶店などが立ち並び、多くの人々が梅の花見を楽しんできた岡本ですが、昭和に入ってから住宅地として開発が進んだこともあって往時の美しい梅林は失われてしまいます。そんな状況を憂い、「梅は岡本」を復活させたいという人々の強い願いもあって1982(昭和57)年、かつて梅林のあった辺りに岡本梅林公園が整備されました。大宰府天満宮から贈られた飛梅など約27種、130本の梅が植えられ、毎年2月中旬から3月中旬にかけて人々を梅の花の香りで満たしてくれています。



アクセス
・阪急電車「岡本駅」下車、北西へ徒歩10分
・JR「摂津本山駅」下車、北西へ徒歩15分
岡本八幡神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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神戸・御崎八幡神社。

2006年10月02日 | ■神戸市兵庫区
厄除・家内安全・無病息災・交通安全・学業成就



(みさきはちまんじんじゃ)
神戸市兵庫区御崎本町1-1-49





〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
神功皇后
(じんぐうこうごう)
姫大神
(ひめおおかみ)



 「のじぎく国体」が始まり、新聞やニュースで「兵庫」の文字が賑わっています。この「兵庫」という地名は、645(大化元)年に起きた大化の改新のとき、摂津国境の須磨関を守るために武器を納めた倉を設置したことに由来するといわれています。平安時代の末には初めて「兵庫」という名称が書物に見られるようになりました。ほかにも、神功皇后三韓遠征を行った時、和田岬に流れ込む湊川の河口辺りに武器庫が作られた事から「兵庫」の名が付いたという説もあります。







 三韓遠征からの帰途、神功皇后の乗った船がこの辺りで潮に巻き込まれて前に進まなくなった事から、和田岬に上陸して卜占を行うなど暫くこの地にとどまったそうです。その時の滞在地が、現在御崎八幡神社が建っている土地だと言われています。神功皇后は立派な馬を連れており、地元の人々がこの馬に秣を献上したというエピソードが残されています。




境内社の豊賀稲荷神社。社殿の東隣に建っています。



 社伝によると、御崎八幡神社神功皇后の故事ゆかりのこの地に、9世紀中ごろの貞観年間(859~876年)に神託を受けて創建されたそうです。859(貞観元)年に宇佐八幡宮で神託を受けた僧・行教が山城国男山の地に石清水八幡宮を祀ったのが翌860(貞観2)年だといわれており、創建時期が近いことから古くより交流が深く、石清水八幡宮公文所の御鍵預かり役に任じられ、毎年行われる石清水八幡宮の春季大祭・秋季大祭にはその鍵を持って京都へ向かい、神事に奉仕していたといわれています。また、神功皇后の馬の話に由来して、和田岬の方々が石清水八幡宮の馬に秣を献上していたそうです。


 

手水舎の並びには1995(平成7)年12月に建てられた石鳥居のモニュメント。



 1995(平成7)年1月17日の阪神・淡路大震災では石鳥居が倒壊。折れた鳥居の石柱が手水舎の脇に震災モニュメントとして残されていますが、その断面をみると改めて震災の規模を大きさを実感させられます。



アクセス
・JR和田岬線「和田岬駅」下車、北へ徒歩5分
・神戸市営地下鉄海岸線「和田岬駅」下車、北へ徒歩5分
 御崎八幡神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社


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