龍應山 西明寺
(りゅうおうさん さいみょうじ)
滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26
西国四十九薬師霊場・第32番札所
湖東二十七名刹霊場・第8番札所
山門は参拝客であふれていました。
〔宗派〕
天台宗
〔御本尊〕
薬師瑠璃光如来像
(やくしるりこうにょらいぞう)
龍應山西明寺は、平安時代初期の834(承和元)年に三修上人によって開かれたといわれる天台宗の寺院です。三修上人慈勝は、9世紀半ばの仁寿年間(851~853年)に修験道の聖地といわれた伊吹山に入って観音寺・長尾寺・太平寺・弥高寺の「伊吹4大寺」を創建するなど、山内の整備に尽力したといわれる修験者です。 三修上人に関しては伝説的な話が多く、899(昌泰2)年に70余歳で没して伊吹山の山頂の蓮の上より天に還っていったという話を基準に考えると、西明寺開創の際の三修上人はまだ5歳前後の子供だったことになるなど辻褄が合いません。西明寺の創建に三修上人がどういう形で携わったかも伝説の域の話で、史実であったかどうかは定かではありませんが、この時代に近江国で人智を超越した修験者・三修上人に対する強い信仰があったことは感じ取ることが出来ます。
紅葉の頃に開花するといわれる「不断桜」(左)と、木漏れ日満ちる参道(右)。
そんな西明寺の創建に関する伝承は以下の通りです。琵琶湖の西岸の地で修行を行っていた三修上人は、湖の対岸の山上に紫雲がたなびいていることに気付きます。仏教における紫雲は「仏尊の乗る雲」という意味があり、この雲の出現に瑞運を感じた三修上人は修験道で培った神通力をもって琵琶湖を飛び越え、紫雲たなびく山へと向かいます。その山中、とある池から紫光が射すのを発見した三修上人が強い霊験を感じて一心に祈念したところ、池の中から光り輝く薬師如来尊が姿を現されたそうです。ありがたいその御姿を池の脇に伸びていた赤松の一木に刻んだのが御本尊である薬師瑠璃光如来像だといわれており、この伝説に基づいてこの地を「池寺」と呼び、薬師瑠璃光如来像を安置するために開いた寺院の名前も西へとたなびく紫雲の故事にちなんで「西明寺」と名付けられました。
1407(応永14)年建立の二天門(左)と、国宝に指定された総檜造の三重塔(右)。
西明寺は836(承和3)年には第54代仁明天皇の勅願寺院となり、最盛期には17の諸堂や300を越える僧坊が立ち並ぶ大伽藍といわれています。2000石もの寺領を誇る天台密教の修行道場として栄えた西明寺には源頼朝公も戦勝祈願に訪れたという伝承が残されています。そんな名刹も、戦国時代の勢力争いに関与したことで大きなダメージを受けることになります。
当時は各地で自衛のために寺院の城郭化・武装化が進んでいました。この地域でも名門・佐々木源氏の流れを引く六角氏の指導のもとで各寺院の城塞化が進められていましたが、比叡山延暦寺の僧兵による強訴などをはじめ、強大な武力を背景に宗教勢力としての枠を越えて政治にまで介入することも少なくなかったようです。そういった宗教勢力は、やがて近江国への進出を目指す織田信長公と六角義賢公・六角義治公親子との対立の構図に巻き込まれていくことになります。
鎌倉時代初期に建立された本堂(左)。右は薬師瑠璃光如来の右手に繋がる結縁の紐。
1571(元亀2)年、宗教勢力の政治介入の排除を目的として比叡山延暦寺の焼き討ちを決行した織田信長公は、同時に比叡山の勢力下にあって反抗を続ける近隣の天台寺院への焼き討ちも進めました。ここ湖東三山も例外ではなく、西明寺も同じ年に織田信長公旗下の名将・丹羽長秀公の軍勢に攻められて焼き討ちに遭い、本堂・三重塔・二天門を除いた全山が炎に包まれました。この兵火によって壊滅的なダメージを受け、すっかり荒廃してしまった西明寺が復興を遂げるのは、江戸時代中期の延宝年間1673~1681年)に入ってからのこと。徳川幕府の支援を受けた山科・毘沙門堂の門跡・久遠寿院公海大僧正が西明寺の復興事業に取り組み、信濃源氏の血を引く甲賀望月氏出身の望月友閑公が復興の陣頭指揮を執ったといわれています。このとき小堀遠州の流れを汲んで作庭されたのが、紅葉の名所として有名な地泉回遊式庭園・蓬莱庭だといわれています。
望月友閑が作庭したと伝えられる蓬莱庭。
アクセス
・近江鉄道「尼子駅」よりシャトルバス乗車、約10分
(10月28日~11月30日の毎日シャトルバスを運行)
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拝観料
・大人:500円、中高生:300円、小人:100円 (※三重塔内特別拝観料:1,000円)
※三重塔内特別拝観:春季が4月8日から5月8日、秋季が11月8日から11月30日まで
拝観時間
・8時~17時
公式サイト