神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

大阪・天神森天満宮。

2006年07月31日 | ◆大阪府
学業成就・安産

天神森天満宮

(てんじんのもりてんまんぐう)
大阪市西成区岸里東2-3-19



学問の神さま、安産の神さま。静かな住宅街の中にあります。


〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざねこう)



 大好きな神戸のまちで人生の大半を過ごしてきましたが、誕生の瞬間は大阪・十三の地。そして生後しばらくのあいだは阿倍野で過ごしていました。そんな私にとって、この地を訪れるのは何十年ぶりかのこと。その地でみつけた「天神ノ森」という地名に興味をおぼえて住宅街を歩いていたところ、夏祭に備えてか何処からともなく和太鼓の響きが聞こえてきました。その音に惹かれるようにしてたどり着いたのが、天神森天満宮です。

 天神森天満宮は、菅原道真公が無実の罪で左遷され大宰府へと向かう道行きの途中、住吉大社へ参拝する際にこの地で休息をとられたという故事にちなんで村人たちが祠を建てて祀ったのが最初だといわれています。14世紀から15世紀初頭にかけての応永年間(1394-1428年)には京都・北野天満宮よりご分霊を勧請したといわれています。また、ここは千利休の茶の湯の師匠としてその名を知られる武野紹鷗ゆかりの地でもあり、紹鷗森天満宮とも呼ばれています。




1937(昭和12)年に再建された拝殿。本殿は1702(元禄15)年のものです。



 武野紹鷗は、1502(文亀2)年に武田信久の長男として生まれます。文武両道に秀で、青年の頃は武野新五郎と名乗って仕官をしていたこともありましたが、戦乱の世を嫌って武士の身分を離れ、侘び茶の祖といわれる村田珠光の弟子・藤田宗理に茶の湯を、そして三条西実隆に歌道を学びます。師匠・藤田宗理も驚くほど茶道の才能に恵まれた武野新五郎は、やがて村田珠光の嫡男・村田宗珠に認められることとなり、惜しむことなく秘伝を伝承されたそうです。

 1532(享禄5)年、31際を迎えた武野新五郎は世俗を棄てて茶の道に生きることを決意、出家して武野紹鷗と名乗ります。このとき「種まきておなじ武田の末なれど荒れてぞ今は野となりにける」という歌を詠んで姓を武田から武野に変えたのは有名な話です。

 堺に戻って父の皮革問屋を相続した武野紹鷗は、卓越した商才を揮って堺を代表する豪商として活躍しますが、次第に経営を優秀な番頭たちに任せて、ひたすら茶道の発展と門人の育成に尽力するようになります。千利休武野紹鷗の薫陶を受けた門人の一人でした。




拝殿左にある摂社。天照皇大神・倉稲魂大神・猿田彦命が祀られています。



 男児に恵まれなかった武野紹鷗に待望の嫡男・武野信村が誕生したのは1550(天文19)年のこと。これに喜んだ武野紹鷗は、クスノキに覆われ茶の湯に適した名水の湧くこの地に記念の茶室を建て、風月を友として暮らすようになります。

 また、長男誕生の神仏への感謝の気持ちもあってか、武野紹鷗住吉街道の整備にも尽力します。そのころ大坂の中心地から住吉大社へ向かう住吉街道は、この近辺の森のために迂回せざるを得ない状況でしたが、武野紹鷗は私財を投じて森の開削工事を行い、街道の貫通工事を成し遂げたといいます。







 拝殿の東南には子安天満宮があります。この石は孕石(はらみいし)とも呼ばれ、昔から安産の神さまとして地元の方々に祀られてきたそうです。淀君が懐妊されたとき、豊臣秀吉公が参拝して安産を祈願し、無事に豊臣秀頼公が誕生したことから感謝の意をこめて社地として1町四方の土地が寄進されたそうです。

 ちなみに、この付近の地名「天下茶屋」は、堺政所(のちの堺奉行所)への道の途中この地の茶室で休息をとった豊臣秀吉公が、天満宮周辺の風景の美しさをたいそう褒められたことから、「太閤殿下の茶屋」→「天下茶屋」と呼ばれるようになったそうです。




天下茶屋あだ討ち供養塔。



 西の鳥居の脇には、1609(慶長19)年に備前国の武士・林源次郎が、天満宮南の住吉街道沿いにあった「出口橋(別名:くやし橋、残念橋)で父と兄の仇である当麻三郎衛門を討って本懐を遂げたという仇討ち事件ののち、街道沿いに建てられていた供養塔が移設され、祀られています。



アクセス
・阪堺電車「天神ノ森駅」下車、西へ徒歩2分
・南海電車高野線「岸里玉出駅」下車、北東へ徒歩3分
 天神森天満宮地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸・花隈城址。

2006年07月27日 | ■神戸市中央区

花隈城址

(はなくまじょうあと)
神戸市中央区花隈町1-1



市営花隈駐車場として利用されている城跡。ちなみに駐車料金は15分100円です。


〔代表的城主〕
荒木村重公
(あらきむらしげ)



 三宮の旧居留地から元町の大丸百貨店へと、おしゃれなミナト街の表情を見せるまち・神戸。そんな神戸も少し西へ進むと、硝煙の匂い燻り覇権を競って血生臭い争いが繰り広げられた戦国の世の名残りに思いを馳せる史跡に出会うことができます。JR線でいうと元町駅と神戸駅の中間。阪急電車を利用すると「花隈駅」を下車して東へ3分ほど歩いた交差点に石垣が見えます。ここが戦国時代につくられた平城・花隈城の跡です。




「天守台」兼地下駐車場の通気口。 こういうと戦国のロマンも何もあったもんじゃないですよね
 


 今でこそ内部は市営花隈駐車場・上部は花隈公園と、外観だけ石垣で城跡っぽく作られただけの城跡で、周囲にはホテルが立ち並び、公園内には落書きも目立つなど、期待を持って訪れた方には少々酷なものとなっていますが、築城当時は現在の花隈町のエリア全体に匹敵する広大な敷地に本丸・二の丸・三の丸を備えた、堂々たる海岸線の要衝だったそうです。 




「花隈公園」として整備されています。犬の散歩に来る人もたくさんいます。



 戦国の世。摂津国を勢力下に収めた織田信長公は、顕如上人を中心に激しく抵抗を見せる石山本願寺を相手に、厳しい戦いを繰り広げていました。本願寺打倒の戦略として、織田信長公は各方面から石山本願寺に向かう補給路を寸断する作戦を遂行します。その一環として、兵糧や武器などの後方支援を行っていた毛利氏や西国の門徒勢力との連携を断つために打たれた楔、それが花隈城です。

 1568(永禄11)年に摂津国守護・和田惟政公によって築かれた花隈城は、1574(天正2)年には織田信長公の命を受けた荒木摂津守村重公の手によって大幅に改築されます。その結果この城は、東は神戸生田中学校東側の道路、西は花隈町と下山手通の境界線、南はJR線、北は兵庫県庁の南を走る筋までという、およそ東西350m、南北200メートルほどの広さを誇る、東西の陸海の交通に睨みを利かせる重要戦略拠点となりました。




石垣の北側にはお地蔵さまが祀られています。



 残念ながら、そんな要害の城・花隈城も、非情な戦国の運命に飲み込まれていきます。荒木村重公に「本願寺へ寝返り、石山に糧秣を運び込んでいる気配あり」という嫌疑がかけられてしまうのです。猜疑心の強い主君・織田信長公から一度かけられた疑念を晴らすことの困難さを良く知る荒木村重公は、「ここはやむなし」と織田方に叛旗を翻し本願寺方に就きます。1578(天正6)年11月、伊丹・有岡城でのことでした。

 家中に真宗門徒を多く抱え、板挟みになったうえでの謀反という説や、密約により毛利方からの支援を取り付けた野心の末の謀反と、説はさまざまですが、とにかく謀反を起こした荒木村重公への怒りは相当に激しく、織田信長公はすぐさま鎮圧軍を向かわせて荒木村重公の勢力圏に激しい攻撃を加えます。支えきれなくなって有岡城から脱出した荒木村重公は尼崎へと撤退、さらに1580(天正8)年3月には尼崎城を捨てて海路、毛利領内へと逃亡します。

 池田信輝公によって諏訪山生田大倉山の三方から激しく攻め立てられた花隈城は、1580(天正8)年7月にあえなく落城。城将・大河原具雅は自害し、荒木村重公の謀反に始まった一連の戦乱はここに結末を迎えます。落城後この地を与えられた池田信輝公は、ここの石材などを転用して兵庫の切戸町に兵庫城を築いて本拠としたため、花隈城は廃城となってしまいます。わずか13年間のことでした。




「花隈城址」碑文。池田輝政公の子孫・池田宣政公爵が1928(昭和3)年に建立。
震災で倒れましたがふたたび復元されています。



アクセス
・神戸高速鉄道「花隈駅」東口下車、東へ徒歩3分
・JR「元町駅」西口下車、西へ徒歩5分
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車、南へ徒歩3分
 花隈城地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

高砂・三社大神社。

2006年07月26日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)


三社大神社

(さんしゃだいじんじゃ)
高砂市荒井町小松原3丁目4



三社大神社の鳥居。2004(平成16)年の再建です。


〔御祭神〕
品陀和気命
(ほんだわけのみこと=八幡大神)
天照皇大神
(あまてらすおおみかみ)
天児屋根命
(あめのこやねのみこと=春日大神)



 何の気なしに歩いているとふと見落としてしまう、でも近づいてみるとそこには意外な歴史の足跡が残されている…。そのような神社を数多くご紹介してきましたが、今回の三社大神社もそんな神社のひとつです。





 高砂市の東部を南北に貫く、一般に「高砂・北条線」と呼ばれる県道43号線。その道路と山陽新幹線がクロスする地域に、三社大神社はあります。もともとこの地には、小松原城と呼ばれる城郭がありました。播磨地域を悠々と流れる加古川が生んだ三角州に作られたこの城は「小松原構」とも呼ばれる環濠城郭集落で、鎌倉時代に築かれたといわれています。




境内に建つ小松原城址の石碑。



 ときの執権・北条重時(北条時政の孫)に従っていた赤松盛忠は、鎌倉で三浦義村公の子・律師良賢が起こした謀叛に対する平定戦で勲功を上げ、この地を褒美として与えられます。これが1261(弘長元)年のことだといわれています。赤松盛忠公は与えられた小松原の地にちなんで小松原盛忠公と名乗って城郭を築き、以来2代小松原義景公・3代小松原景満公・4代小松原永春公・5代小松原春武公・6代小松原武香公と代々この地を治めてきました。




拝殿の前につながる舞台には、上演された能の題目札がずらりと掲げられています。



 三社大神社は、そんな小松原一族の氏宮として小松原城が築城されたのち間もなく創建されたといわれており、皇室の信仰厚い伊勢神宮天照大御神、武家の守護神・八幡大菩薩、そして春日神社天児屋根命の三社を合わせ祀っています。これは、室町時代に庶民の中で広まっていた三社託宣を背景にしたものだといわれています。




拝殿脇には摂社が並んでいます。戎大神や大歳大神なども祀られています。



アクセス
・山陽電車「高砂駅」下車、北西へ徒歩20分
 三社大神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸・八多神社。

2006年07月21日 | ■神戸市北区


八多神社

(はたじんじゃ)
神戸市北区八多町下小名田284



道沿いに立つ鳥居。奥には保育園もあり、境内の池にはアヒルが飼われています。


〔御祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
稲荷大神
(いなりたいしん)
ほか13神



 八多町は、古くは「幡多」と記されていた歴史のある町です。秦氏の統べる土地だったという説や、摂津エリアの端(はた)の地だったからという説、機織に関係があるのでは、などと諸説ありますが、その名の由来ははっきりしません。

 三方を山に囲まれ、町域を流れる八多川沿いに平野が広がる農村地帯である八多町は、灘五郷の酒米などコメつくりを中心に発展してきた町です。近年は酪農や養鶏、花の栽培やトマト・ほうれん草・イチゴなどの野菜や果物を栽培するなど、多岐にわたる農業を展開しています。そんな八多町に鎮座する八多神社は、創建時期こそ明確ではありませんが、物部守屋公が創建したという伝説の残る古社で、村の鎮守としての風格に満ちています。



うっそうと茂る鎮守の杜。



 用命天皇の頃、六甲山の峰から遥か西北の地に杉檜の森がうっそうと茂るのを見た物部守屋公は、神霊の宿る聖なる森に違いないと確信を抱いて訪ねたところ、一人の木こりと出会います。木こりは物部守屋公に、この森には古くから天照大御神が鎮座されていること、神功皇后新羅遠征の際には神宮皇后とともに親征されたこと、その教えに従った神功皇后がこの地に天照大御神をお祀りになったこと、などを告げたそうです。この話を聞いた物部守屋公は、神託に従って社殿を建立し荘田を献上したといわれています。




この石段の奥に拝殿があります。



 八多神社は、朝廷より大社に準じる扱いを受けていたそうで、天皇の即位や大嘗祭、吉祥瑞兆や災害などの起こった時には朝廷より使いが使わされるなど、中央との繋がりの強い神社だったようです。




風格ある拝殿。平成9年10月には神戸市有形文化財に指定されました。



 そういうわけで、八多神社には中央との繋がりとその神威・ご利益にまつわるエピソードが多数残されています。941(天慶4)年に起きた天慶の乱では、征西大将軍に命ぜられた参議・忠文卿がこの地を訪れ、八多神社で戦勝祈願をして見事結願、霊矢で強敵を倒したといいます。10世紀末の永延年間には、八多神社を厚く信仰していた刀鍛冶の三條古鍛冶宗近が、夢で見た神のお告げどおりに刀を打ったところ、素晴らしい刀が出来たのでその宝剣を奉納して神恩に報いたという話が残されています。

 1281(弘安4)年の蒙古・フビライによる弘安の役では、朝廷より調伏祈願の命が下り、結願の日には嵐が巻き起こって船団を散らし、その勢いで撃退したといいます。もっとも、このときには全国の様々な寺社に同様の命が下っていたので、このような伝説が残されているところは多いでしょうね。源頼光公が大江山の賊追討の際に、源義経公が一の谷の合戦の前にここに詣でたというエピソードも残されています。




拝殿脇の摂社。猿田彦神社、稲荷神社、皇稜遥拝所があります。



 八多神社は、延喜年間(902-922年)に神託を受けて稲荷大神を合わせ祀り、さらに13社を合祀します。それ以降、惣社とも十五社とも呼ばれていたそうです。最近では、明治42年の5月にも近隣の9つの神社を合祀しています。これは、小さな神社は大きな神社に整理統合することを奨励した明治政府の意向によるものだったと考えられます。



アクセス
・神戸電鉄「道場南口駅」から徒歩20分
 八多神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

神戸・二郎大歳神社。

2006年07月11日 | ■神戸市北区
家内安全

二郎大歳神社

(にろう おおとしじんじゃ)
神戸市北区有野町二郎字上ノ宮890




神戸電鉄の脇の森の中に建つ鳥居。二郎駅からの景色です。


〔御祭神〕
大歳大神
(おおとしたいしん)

神武天皇
(じんむてんのう)



 「二郎」と書いて「にろう」と読みます。神戸市の北、有馬温泉よりもさらに奥に広がる有野町に二郎はあります。二郎といえば有名なのが、「二郎ジャム」などでお馴染みのイチゴ。毎年4月中旬から6月中旬にかけて、イチゴ狩りを楽しむ家族連れで賑わいます。有馬街道を走っていると、道路の両脇でイチゴの沿道販売をしている光景を良く見かけるのもこの地域です。とにかく粒も大きいし甘い!一度二郎のとれたてのイチゴを食べると、スーパーで売っているイチゴは食べられなくなってしまいます。そんな二郎に鎮座しているのが、二郎大歳神社です。




有野川沿いの森の中に広がる境内。古い木造建築独特の香りが漂います。



 壇ノ浦の戦いで「義経の八双飛び」の逸話を生んだ平家方の猛将・平教経公。源義経公を追い詰めながらも、最後は敗戦を悟り自害した平教経公の子孫は宮崎県の日向に落ち延びて隠れ住んでいたといいます。室町時代末期の大永年間、その平教経公の子孫と言われた宮崎弾正二郎広綱公はその昔領有していたという神戸市北区の八多庄に入り、この地域を「二郎」と名付けて居を構え、開拓を進めました。




色あせた鳥居に歴史を感じる拝殿。



 この地域に鎮守の神社がなかったことから、宮崎広綱公は村民と相談した結果、有馬郡の一ノ宮であった有間神社から末社を勧請することを決め、二郎大歳神社を建立して村の鎮守としたということです。さらに1891(明治24)年には近くにあった神武天皇社を合祀しました。10月10日の秋の例祭には、二郎の伝統芸能として戦時中も守り継がれてきた獅子舞が奉納されているそうです。


アクセス
・神戸電鉄「二郎駅」下車、徒歩5分
 二郎大歳神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

西宮・津門神社。

2006年07月08日 | □兵庫県 -阪神


津門神社

(つとじんじゃ)
西宮市津門西口町14-15




東向きに建つ真新しい「神明鳥居」。伊勢神宮に代表されるデザインの鳥居です。


〔御祭神〕
天照皇大神
(あまてらすおおみかみ)
毘沙門天神
(びしゃもんてんじん)
八意思兼命
(やごころおもいかねのみこと)



 菅原道真公ゆかりの松原天満宮に立ち寄ったのち、さらに東へと足を延ばした先で津門神社を見つけました。今はJR西ノ宮駅からまっすぐ南に下った津門西口町にある津門神社ですが、もともとは松原天満宮の隣に鎮座していたそうです。その名残りか、津門神社に隣接する源氏ゆかりのお寺・昌林寺の山号は松原山といいます。






 漢羽呉羽の伝説の頃、半島から渡来した機織技術者たちが自分たちの祖霊神である大日如来を勧請して祀ったのが、津門神社の始まりといわれています。菅原道真公が大宰府への左遷の途中に美しい白砂青松の都努松原(つぬのまつばら)に立ち寄って休憩されたのが、大日如来を祀る祠の脇だったということなので、かなり古くからあるお社であることは間違いないようです。




西宮市保護木となっている大クスノキ。



 津門大明神と称されて里人から篤い崇敬を集めたこの祠が現在の津門西口町のあたりに遷宮されたのは、旧社殿の上棟札から1754(宝暦4)年11月であることがわかっています。この頃はまだまだ神仏習合の時代だったので毘沙門天も一緒に祀られていましたが、明治に入り神仏分離の流れの中で天照皇大神を勧請して主祭神とするお社へと変貌していきます。 このとき脇殿に毘沙門天神八意思兼命を合祀し、弁財天社武光稲荷愛宕社白王社などを末社に祀るようになりました。




津門神社碑。古代の豪族・津門首の残した大塚古墳の蓋石を用いたもの。



 津門神社の境内には、江戸時代の尼崎藩が建てた領界碑が残されています。江戸幕府は、大阪を西国の大名たちを監視する拠点と考えていて、大阪周辺の地域に天領(直轄領)や譜代大名・親藩大名などを配置していました。幕府統治が安定してくるに従って天領は譜代の大名たちに分配され、この尼崎・西宮のエリアは譜代大名である尼崎藩の領地になっていったのですが、製酒業などで発展した西宮地域から得られる税収を重要視した幕府によって、今津や鳴尾などのエリアの一部がふたたび天領となります。

 複雑に入り組んだ領地の境界線を明確にするために尼崎藩によって建てられたのがこの領界碑で、現在この津門神社境内以外に西宮市段上町の西広寺と小松南町の岡太神社の3ヶ所で存在が確認されています。




拝殿に至る参道の脇にある領界碑。



アクセス
・JR「西ノ宮駅」下車、南へ徒歩5分
 津門神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸・湊川神社 茅の輪神事。

2006年07月02日 | ■神戸市中央区
国家安泰・開運招福・厄除け・家内安全・交通安全

湊川神社・茅の輪神事

(みなとがわじんじゃ ちのわしんじ)
神戸市中央区多聞通3-1-1



参道の中央、「神さまが通る道」の上に茅の輪が設けられています。


〔御祭神〕
楠木正成公
(くすのきまさしげ)



 神社にはいろいろなお祭りがあります。元旦の歳旦祭から月々の月次祭、春の御田植祭や秋の新嘗祭など様々なお祭りがあり、それぞれ無病息災や五穀豊穣などを神さまに祈願するという意味合いのものが多いようです。

 そんなお祭りのひとつ、6月に行われるのが夏越大祭です。神道では、特に「穢れ(けがれ)」というものを嫌います。神社にお参りするときに、まず手水舎で手や口を清めるのも、穢れを落としてから神さまの前に進む、といった発想から行われるものです。本来は川や海などに入り、そこで全身を清める「(みそぎ)」を行うのですが、なかなか参拝するたびにそこまでは出来ませんので、その代わりにお清めとして手水舎を置いてその代用としています。





※何度も水を汲むのはNG。最初に汲んだ水で一連の所作を完結させてください。
※柄杓から直に水を口に含むのは、柄杓に穢れを残すという意味でNGです。






手水舎。「ちょうずしゃ」 とも 「てみずしゃ」 とも言います。



 日常生活で知らず知らずのうちに溜まった穢れを祓い、それから先の半年の災厄を除き幸せを祈るために行われるのが、年に2回(6月と12月)行われる「大祓(おおはらえ)」で、7世紀ごろから宮中で行われるようになった行事です。民間では6月の大祓をとくに「夏越の祓(なごしのはらえ)」と呼んで盛大に行うようになったそうです。昔はこの時期に疫病が流行ることが多く、病の流行は為政者の徳の欠如や自らの信心の欠如といった部分に原因を求める傾向があったため、こういう神事を行うことで疫病の流行を防ごうとしたのでしょう。




境内も夏色の緑で一杯です。



 夏越大祓では「茅の輪(ちのわ)」をくぐる事で身を清め、疾病から身を守る「茅の輪神事」も一緒に行われることが多いようです。茅の輪の由来としては、素盞鳴尊が諸国を巡り「世に疫病あらば、茅の輪を以て腰上に着けしめよ、着けしめば、即ち家なるものまさに免れむ」と仰せられたという伝説によるもの、「蘇民将来」の故事によるものなど諸説あります。

 蘇民将来の故事とは中国の古い言い伝えです。山中で道に迷った1人の旅人がいました。さまよううちに1軒の豪邸を見つけた旅人は、ホッとして門を叩き、一夜の宿と食事を求めましたが、ここの主人はケチで有名な荷担将来という男で、話もそうそうに旅人を追い払ってしまいます。落胆した旅人がさらに山道をとぼとぼ歩いていたところ、ボロボロのあばら家を見つけます。ここの主人はとても貧しい蘇民将来という男でしたが、心根が優しく、自分が食べるつもりだった食事を分け与え、なんとか寝床を作って旅人を泊めてやりました。

 その優しさに感動した旅人は、茅の茎で作った輪をお礼に渡して帰ります。実はこの旅人は疫病神で、置いていった「茅の輪」はあらゆる疫病から守ってくれるものだったそうです。疫病神を丁重にもてなした蘇民将来は病気にかかることなく、貧しくも幸せな一生を送りますが、疫病神を邪険に追い払った富豪(蘇民将来の兄)はまもなく疫病にかかって死んでしまったということです。 その故事にちなみ、茅の輪をくぐることで疫病から身を守ろうというのが「茅の輪神事」のルーツだといわれています。






アクセス
・神戸高速鉄道「高速神戸駅」下車すぐ
・JR「神戸駅」下車、北へ徒歩5分
・神戸市営地下鉄「大倉山駅」下車、南へ徒歩3分

拝観料
・無料

拝観時間
・日の出から日没まで

公式サイト



神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る