神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

菅原道真公⑨ 「讃岐での鬱々たる日々」。

2009年10月31日 | ★特集

⑨ 讃岐での鬱々たる日々











 讃岐国という僻地へ左遷されたと感じ、4年もの長い任期を都を離れて過ごさなくてはならない辛さに気を落としていた菅原道真公ですが、国司に任じられた場合には120日以内に任地へ赴かなければならないという規則もあって重い腰を上げざるを得ず、留守中の「菅家廊下」の運営や家族のことなど気掛かりな事柄を差配しながら、ようやく旅支度が整って都を出立したのは除目の日から2ヶ月以上も経った3月下旬になってからでした。

 「老子」や「白氏文集」などいくらかの書物と身の回りのものを携えて都を出た菅原道真公は、山崎の河陽の津から淀川を下ろうとしていましたが、そこに現れたのが出立を聞き付けて都から追いかけてきた渤海からの帰化人で詩友の王氏という詩人でした。是非とも旅立つ友を見送りたいと駆け付けた友の気持ちに感激した菅原道真公は、河陽の駅亭の楼閣に登って語り合い、手を取り合って涙を流しながら別れを惜しみました。このように、温かい仲間の友情に励まされるようにして讃岐国への道を再び進み出した菅原道真公は、風光明媚な明石の駅亭を経て潮の渦巻く瀬戸内海を越え、3月26日に赴任地である讃岐国府へと辿り着きました

 讃岐に赴任した菅原道真公を待っていたのは破綻寸前の財政と窮乏に苦しむ民衆の姿でした。都への思いを抑えながら国中を視察して内情の把握に努めるなど、慌しい日々を過ごすうちに讃岐での生活にも慣れ、次第に落ち着きを取り戻すようになった菅原道真公は、秋には華やかな都の暮らしを思い起こして国府で重陽の宴を開き、田舎暮らしの寂しさを紛らわせています。このとき詠んだ「重陽日府衙小飲」という漢詩の中で、切ない気持ちと共に讃岐国の諸問題への対応に思いを巡らす胸のうちを吐露しています。











 菅原道真公は、ここで感じた庶民の暮らし向きの苦しさを「寒草十首」という長文の漢詩にしたためていますが、重い税金や労働に耐えかねて逃げ出したものの再び讃岐国に戻ってきた者や、他国から逃げ込んできた者たちの窮乏ぶり、老人や孤児たちに限らず、あらゆる職に就いて働く者にとっても貧しさゆえに満足に暖をとる事も出来ず、ただただ冬の厳しい寒さに打ち震えながら耐えざるを得ない様子を見つめ、そこから律令制による行政支配の問題点や限界を見事に看破しています。

 このように慧眼をもって国家政策の矛盾を見抜き、苦しい庶民の生活にしっかりと向き合っていた菅原道真公ですが、やはり僻地での侘しさや日々役所に押しかける民衆の訴えにいちいち対応しなければならない煩わしさに鬱々とした思いを抱えており、かつて善政を敷いて庶民に慕われた讃岐国司・藤原保則卿を理想として政務に励もうという思いと、いざ役所に向かうと山のように積み上げられた訴状や公文書の処理にもの倦む思いの相反する矛盾した心理を抱えての毎日を過ごしていました。

 地方の国司に任じられた者は、必要だと認められた場合には在任中でも一定の期間京都に戻ることを許されており、これを「中上り」と呼んでいました。正五位下の内示を受けていた菅原道真公は公式の手続きを踏み、叙勲を受けるために足取りも軽やかに懐かしい京都への「中上り」の旅路を急ぎます。その道すがら河陽の駅亭に立ち寄った菅原道真公は、讃岐国へ赴くときにわざわざ後を追って激励に駆け付けてくれた王氏のことを思い出し、懐かしさから旧交を温めようと駅亭の役人に王氏の消息を尋ねます。役人はためらいながらも駅亭の片隅に菅原道真公を連れていき、王氏が先日没していたことを告げて彼の眠る塚の場所を指し示しました。菅原道真公は、月日の流れの残酷さと人の縁の儚さを感じ、ただただ塚に手を合わせて亡き友の冥福を祈るしかありませんでした。















前回の記事はこちら




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京都・大覚寺。

2009年10月28日 | ◇京都府 -洛北


嵯峨山 大覚寺

(さがざん だいかくじ)
京都市右京区嵯峨大沢町4



神仏霊場京都 楽土の道・第9番札所
真言宗十八本山霊場・第5番札所
近畿三十六不動尊霊場・第13番札所



慎ましやかな山門は、寺院というより嵯峨院の頃の佇まいを今に残しています。


〔宗派〕
真言宗大覚寺派 大本山

〔御本尊〕
五大明王像
(不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)


 もともと風光明媚な嵯峨野の地は「葛野」と呼ばれていましたが、弘法大師空海橘逸勢卿と並んで「三筆」と称される書の達人でもあった嵯峨天皇がこの地をこよなく愛し、憧れだった唐文化の中心地である都・長安の北方にある風光明媚な景勝地・嵯峨山に思いを馳せて「嵯峨」と名付けたといわれています。嵯峨天皇はお気に入りの嵯峨の地に、皇后と暮らす新居として嵯峨院を建立されました。書道を通じて嵯峨天皇と親しく交流を深め、東寺を下賜されるなど厚い信頼を寄せられていた空海は、811(弘仁2)年に勅願によってここに五大堂を建立し、五大明王の秘法を修法したといわれています。





菊の御紋の幕が下がる式台玄関(左)と、宸殿の回廊の狭間にある庭園(右)。



 嵯峨院が寺院となったのは、清和天皇の御世の876(貞観18)年のことです。嵯峨天皇の皇女・正子内親王は、嵯峨院を寺院に改めて亡き父と夫・淳和天皇の遺徳を偲びたいと発願し、勅許を受けて「大覚寺」という寺号を賜りました。ちなみに、この時の寺院建立の奏請文を書いたのは菅原道真公だといわれています。初代門主に就いたのは、夫・淳和天皇の間に生まれた第2皇子である恒寂法親王で、それ以降代々の住持を法親王が務める門跡寺院として栄えました。時代が進むにつれて徐々に寺勢は衰微していきましたが、鎌倉時代に入ってからは亀山法皇後宇多法皇がここで院政を行ったために「嵯峨御所」とも呼ばれて行政の中心地となり、特に1307(徳治2)年に後宇多天皇が第22代門跡として入山してからは大々的に堂宇の整備が進められ、往年の姿に勝る隆盛を取り戻しました。





後水尾天皇の女御御所が下賜されて移設された宸殿(左)と、その奥の霊明殿(右)。



 承久の乱によって3人の上皇が流罪に処され、室町幕府の後押しを受けて皇位に就いた後嵯峨天皇は4年の在任期間の後も後深草天皇亀山天皇を抑えて「治天の君」として30年近く実権を握り続けましたが、崩御に際して後継者を定めていなかったために皇位を巡る争いが起き、結局亀山天皇の第2皇子が後宇多天皇として皇位に就く結果となりました。2つの勢力の対立を利用し、双方に皇位を争わせることで朝廷の勢力を削ごうとした室町幕府はこの混乱に乗じて介入。後宇多天皇の後任には後深草上皇の皇子である後の伏見天皇を就け、以後は両統の皇子を10年ごとに皇位に就けるという調停を行いました。これよりそれぞれが本拠とした場所にちなんで「大覚寺統」と「持明院統」と呼ばれて対立を深めていくことになりました。この対立は1392(元中9)年に南朝のラストエンペラー・後亀山天皇から北朝の後小松天皇に三種の神器が引き継がれて南北朝の和解である「明徳の和談」が成立したことで終止符が打たれますが、その舞台となったのがまさにこの大覚寺でした。





御影堂(左)と、その右脇に立つ御霊殿(右)。


 
 南北朝争乱の兵火によって1336(延元元・建武3)年に炎上、半分の規模で再興された大覚寺は、1467(応仁元)年に応仁の乱の兵火によってまたも伽藍焼失の憂き目に遭い、さらには1528(享禄元)年にも戦国時代の兵火に巻き込まれて焼失するなど受難の歴史は続きましたが、ようやく江戸時代に入って後水尾天皇から女御御所を下賜されて宸殿とするなど再建が進み、現在の威容がほぼ整うこととなりました。

 ここは嵯峨天皇が大沢池で舟遊びをしている時に、大沢池に浮かぶ菊が島に咲いていた野菊の花を手折られて生け花を愉しまれたのが発祥といわれる「嵯峨御流」発祥の地でもあります。江戸時代の末期には、華道の大家である未生斎広甫大覚寺の華務職に就いたのをきっかけに全国へと普及していきました。11月には嵯峨菊展が行われるなど、四季折々に境内を美しい花で飾ってくれています。





大正時代に再建された心経殿(左)と、五大明王像を安置する本堂・五大堂(右)。


湖面に映る衣笠山が美しい大沢池。中国の洞庭湖を模した日本最古の人造湖です。


アクセス
・京福電鉄嵐山本線「嵐電嵯峨駅駅」下車、北東へ徒歩20分。
・JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」下車、北東へ徒歩20分。
・京都市営バス・京都バス「大覚寺」バス停下車、北へ徒歩2分
大覚寺地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:500円、小中高校生:300円  ※大覚寺・祇王寺の共通拝観券は600円。 

拝観時間
・9時~17時(受付は16時30分まで)

公式サイト






奈良・橿原神宮。

2009年10月14日 | ◆奈良県
家内安全・健康長寿・厄除け・合格祈願・商売繁盛

橿原神宮

(かしはらじんぐう)
奈良県橿原市久米町934

神仏霊場奈良 鎮護の道・第20番札所



一の鳥居。100mほど先、宮川に架かる神橋の向こうには二の鳥居が立っています。


〔御祭神〕
神武天皇
(じんむてんのう)
媛蹈鞴五十鈴媛命
(ひめたたらいすずひめのみこと)


 710(和銅3)年に平城京への遷都が行われてから、2010(平成22)年でちょうど1300周年を迎えます。奈良では「平城遷都1300年祭」と称して、平城京跡を中心に各地で様々なイベントが行われます。古代日本の政治の中心地であった明日香に近い橿原の地でも、2009年10月31日から11月1日にかけて「奈良まほろば市・食と農、商工フェスタ」が橿原公苑で行われるなど記念事業が進められています。その橿原公苑のすぐ脇に鎮座しているのが、神武天皇を御祭神として祀る橿原神宮です。





12,000坪の広さの自然豊かな深田池(左)と、広場を挟んだ北に立つ南神門(右)。


 
 初代天皇とされる神武天皇は、即位前の名を神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)といい、紀元前711年に鵜草葺不合命の四男(三男という説も)として生まれたといわれています。日向国の高千穂宮にいた磐余彦は「天孫降臨」以来、長きに渡り(伝説では179万年余)九州の地に君臨しているにもかかわらず未だに日本全土を統治することが出来ていないことを憂い、「青い山が四方を囲み、饒速日命が天より降臨している東の美しき地」すなわち大和国こそが天下統治の中心となるべき地であり、そこに進出して全国統治を行うことを決意して東征を開始します。

 船団を率いて出陣した磐余彦の軍勢は、筑紫国から安芸国を経由して吉備国に入り、3年ほど滞在して軍備を整えた後に満を持して浪速国へと進出します。河内国から生駒山を越えて進もうとした磐余彦の軍勢は、最大の強敵である長髄彦(ながすねひこ)が率いる軍勢の激しい抵抗に遭います。多大な損害を出した磐余彦は一旦兵を引いて軍勢を迂回させ、熊野ルートから吉野川を遡っての進軍を試みます。ここでも厳しい状況は続きましたが、何とか各地の勢力を攻略して勢いに乗った磐余彦の軍勢は、ついに長髄彦との決戦を迎えます。





大和三山の中で最も高い畝傍山(標高199m)をバックに広がる境内。


 
 「日本書紀」によると、戦いの際に一羽の鵄が現われて磐余彦の弓の先にとまり、その鵄が放った金色の光に驚いた長髄彦の軍の混乱に乗じた磐余彦の軍は一気に攻勢に転じ、窮地に追い込まれた大和国の王・饒速日命長髄彦を殺して降伏したといわれています。磐余彦は畝傍山の東南にある橿原の地を都と定め、紀元前660年の正月(太陽暦の2月11日)橿原宮で践祚して始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称し、初代天皇の座に就きました。のち、8世紀半ばになって淡海三船によって漢風諡号である「神武天皇」の称号が追贈されています。神武天皇に関してはその実在に疑問も多く、「御肇國天皇」という同じ読みの諡号を持つ第10代・崇神天皇がモデルである説や、実在する最古の王であるとされる応神天皇がモデルとなったという説もあり、議論が分かれています。





左は1996(平成8)年再建の神楽殿。右は1939(昭和14)年建立の外拝殿(右)。


 
 神武天皇が都に定めた畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)は、「橿原」という地名が残されていなかったために長い間どこにあったのかはっきりしていませんでした。しかし幕末の1863(文久3)年に宇都宮藩が中心となって行った「文久の修陵」によって天皇陵の推定地が決められた事を契機に橿原宮跡への顕彰施設建立の機運が高まり、明治時代に入った1888(明治21)年に地元議会が宮跡の保存を議決しました。翌年には明治天皇の勅許が下されて奈良県による橿原宮跡の推定地の買収が行われ、京都御所の建物が下賜されて内侍所を本殿、神嘉殿を拝殿(現在の神楽殿)として境内の整備が行われ、橿原神社が創建されました。さらに1890(明治23)年には神宮号の宣下が行われて「橿原神宮」と改称、官幣大社に列せられました。ちなみに神武天皇陵に関しては、現在地のほかにも綏靖天皇陵とされている橿原市四条町付近の地や、「丸山」と呼ばれる橿原市畝傍町付近の地にあったなどという諸説があり、そのうちの「丸山」説が最有力視されているなど現在も議論が分かれています。





整然と神燈が並ぶ外拝殿の回廊(左)と、主要な祭典が執り行われる内拝殿(右)。


アクセス
・近鉄南大阪線・橿原線・吉野線「橿原神宮前駅」下車、西へ徒歩5分。
・近鉄橿原線「畝傍御陵前駅」下車、西へ徒歩10分。
・近鉄南大阪線「橿原神宮西口駅」下車、東へ徒歩10分。
橿原神宮地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  ※宝物館は入館料が必要。(大人:300円、高校生以下:200円)

拝観時間
・日の出から日没まで (宝物館・祈祷・その他受付は9時~16時)

公式サイト






滋賀・豊国神社。

2009年10月10日 | ◆滋賀県
出世開運・商売繁盛

豊国神社

(ほうこくじんじゃ)
滋賀県長浜市南呉服町6-37

近江長浜6瓢箪巡り霊場・第1番札所



豊国神社の鳥居。脇には「豊國神社」と「長浜恵比須宮」の碑が立っています。


〔御祭神〕
事代主大神
(ことしろぬしのみこと)
豊臣秀吉公
(とよとみひでよし)
加藤清正公
(かとうきよまさ)
木村重成公
(きむらしげなり)


 卑賤の身からその才智と強運で立身出世し、ついには天下人となった戦国時代の英雄・豊臣秀吉公。その人気は死後も衰えることはなく、「豊国大明神」と神格化されて各地に威徳を称える神社が建てられました。聚楽第を建てて政務を執るなど馴染みの深かった京都をはじめ、豊臣秀吉公と親交の厚かった前田利家公が治めた加賀国や天下の巨城・大坂城など、ゆかりの場所に建てられた神社は「豊国神社」の名で人々の厚い崇敬を集めていますが、浅井長政公攻略の功によって織田信長公より初めて領国を与えられた記念すべき土地である近江国・長浜にも豊国神社が建立されています





江戸時代中期の建立といわれる豊国神社の社殿(左)と、出世稲荷神社(右)。


 
 豊臣秀吉公の3回忌を迎えた1600(慶長5)年、京都ではその遺徳を偲ぶために豊国社が建立され、前年に後陽成天皇から正一位の神階と「豊国大明神」という神号を贈られて神となった豊臣秀吉公が御祭神として祀られることとなりました。それに合わせて長浜でも神社が創建され、京都のものと同じく豊国社と名付けられました。これが豊国神社の始まりです。しかし、1615(元和元)年の大坂夏の陣によって豊臣秀頼公が自決して豊臣家が滅亡した後、すでに江戸幕府を開いて全国統治を推し進めていた徳川家康公は豊臣秀吉公の遺徳の象徴として人心の集まるところであった豊国社に対して不快感をあらわにし、存続を認めずに破却することで太閤信仰を徹底的に排除しようとしました。





豊臣秀吉公が愛したといわれる「虎石」(左)と、境内に立つ天満宮(右)。


 
 しかし人々の豊臣秀吉公への追慕の念は根強く、徳川政権への反発もあって御祭神は破却される前に密かに運び出され、しばらく町年寄の家に祀られることとなります。そして、1792(寛政2)年に長浜八幡宮の御旅所が出来たのを契機にその敷地の片隅にお堂を建て、翌年になって長浜八幡宮の恵比須命を勧請して「恵比須宮」としました。人々は、商売の神様である恵比須命を祀るということを方便にして、実際は奥社に豊臣秀吉公の御神像を安置して密かに御霊への祭祀を続けようとしたのです。こういう経緯があるため、恵比須命と同一神とされる事代主命が今もなお御祭神として祀られています。

 江戸幕府が倒れて徳川の世が終わり、明治新政府が発足すると恵比須宮は「豊神社(みのりじんじゃ)」と名を変え、1892(明治25)年には現在の鎮座地に移転されました。そして1898(明治31)年の豊臣秀吉公300回忌の際には社殿が造営されて現在の姿となり、1920(大正9)年には晴れて「豊国」の名が復活し豊国神社と呼ばれるようになりました。





福万年亀といわれる石と瓢箪池があります。


加藤清正公像(左)と、長浜開町を祝って竹中半兵衛が歌った詩文を刻む石碑(右)。
「君が代も わが代も共に 長濱の 真砂のか須の つき屋らぬまで」



アクセス
・JR北陸本線「長浜駅」下車、北へ徒歩3分。
豊国神社地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放


近江の城下町を歩く (近江旅の本)
淡海文化を育てる会
サンライズ出版

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滋賀・多賀大社。

2009年10月04日 | ◆滋賀県
延命長寿・厄除け・縁結び・家内安全・交通安全

多賀大社

(たがたいしゃ)
滋賀県犬上郡多賀町多賀604

神仏霊場近江 欣求の道・第1番札所

通 称
お多賀さん
(おたがさん)






〔御祭神〕
伊邪那岐命
(いざなぎのみこと)
伊邪那美命
(いざなみのみこと)



 社伝によると、神代の昔に多賀・杉坂山に降臨された伊邪那岐大神が、麓にある栗栖の里で休まれた後に多賀の地に鎮座されたのが多賀大社の始まりだといわれています。多賀の地には第1回目の遣唐使に名を連ねる犬上御田鍬を輩出した名族・犬上氏が古くから勢力を広げており、その祖神を祀っていた社が多賀大社へと発展していったのではないかとも考えられています。712(和銅5)年に編纂された「古事記」にも「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す」という記述が見られることから、この頃にはすでに多賀で祭祀が行われていたようです(「淡海の多賀」は淡路島の多賀にある伊弉諾神宮を指すという説も有力です)。738(天平10)年には社殿が造営され、766(天平神護2)年に田鹿神と日向神を合祀、808(大同3)年には山田神が合祀されました。927(延長5)年に編纂された「延喜式神名帳」にも「近江国犬上郡・多何神社二座」という記述があり、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命の2柱が祀られていたことが分かります。





美しいアーチ状の太閤橋とその奥に立つ御神門(左)。右は神馬社。



 1180(治承4)年に平重衡公が行った南都焼討ちによって伽藍の大部分を焼失した東大寺の再建を強く願った後白河法皇は、名僧・重源上人を総責任者である東大寺勧進職に任じます。当時すでに60歳の老齢だった重源上人は、長期間に及ぶであろう困難な再建事業に取り組むにあたり、伊勢神宮に参拝して成就祈願のために17日間の参籠を行いました。すると、その満願の夜の夢枕に天照大御神が現れ「再建事業の成就のために寿命を延ばしたいと望むなら多賀神に祈願せよ」との神託が与えられました。

 さっそく多賀大社に向かった重源上人は、参拝の最中に目の前に舞い落ちた一枚の柏の葉に「莚」という字の形をした虫食いがあるのを見て、「莚という文字は廿(二十)に延と書く。さては我にさらに20年の寿命を与え給うたということか」と喜んだといわれています。その後、様々な困難を克服しながら1185(文治元)年8月には盧舎那大仏を再建、1195(建久6)年には大仏殿の再建を成し遂げた重源上人は、無事に再建事業が成功したことへの御礼のために再びこの地を訪れ、境内の石に座り込むとそのまま眠るように入寂されたと伝えられています。その石は今も「寿命石」と呼ばれて境内に安置されており、健康長寿の御利益があるといわれています。





多賀大社の本殿。1930(大正5)年に改修されました。


 
 鎌倉時代には、神官を兼ねた御家人による衆議制によって神社の運営が行われていましたが、室町時代の1494(明応3)年に守護職・佐々木一統公の命を受けた多賀豊後守高備公が天台宗の不動院を別当寺として建立して以来、多賀大社で行われる法会の勤行・護摩供などの修法をこの寺院が行うようになりました。その後、織田信長公や豊臣秀吉公からも庇護を受けたこともあって不動院の坊人たちは活発に諸国を行脚して御神札を配り、伊勢信仰や熊野信仰と融合して多賀大社の御神徳を全国に広めていきました。





能舞殿(左)の奥には「寿命石」と「祈願の白石」(右)があります。


 
 1588(天正16)年には豊臣秀吉公が母・大政所の延命祈願成就の御礼として、社殿の改築や米1万石の寄進など財政的に大きなバックアップを行っています。江戸時代に入っても手厚い庇護は続き、1615(元和元)年に社殿を焼失させてしまった多賀大社に対し、1622(元和7)年に徳川秀忠公より350石の神領の寄進が行われ、さらに1633(寛永10)年には徳川家光公の命によって社殿の再建が始められています。1651(慶安4)年には井伊家からも150石の神領の寄進が行われました。以降、1773(安永2)年と1782(天明2)年には火災で、そして1791(寛政3)年には暴風で社殿が焼失・倒壊するなど苦しい時期もありましたが、彦根藩と幕府からの手厚い支援を受けて復興を果たしています。明治時代には廃仏毀釈運動の盛り上がりによって別当寺の不動院は境内より排されますが、多賀大社自体は1914(大正3)年に官幣大社に列せられ、政府の支援を受けて栄えます。戦後の1947(昭和22)年には社名が「多賀神社」から「多賀大社」に改められました。





延喜式内社の日向神社(左)と豊臣秀吉公の寄進で建てられた太閤蔵。



 多賀大社にはいくつか名物があります。健康長寿の御守として知られる「お多賀杓子」は、養老年間(717~724年)に元正天皇が病の床に臥された際、その平癒を祈念した神官たちが強飯を炊き、シデの木製の杓子を添えて献上したところ無事に全快されたという故事に由来して作られたもので、ご飯をよそう「お玉杓子」の語源となったといわれています。また、神社の向かいの土産屋で売られている「糸切餅」も名物のひとつです。元寇の際の戦勝祈願が見事に叶えられた事に感謝して奉納されたのが始まりだといわれる和菓子で、餡を包んだ餅の表面に蒙古の旗印を表す青・赤・青の3本の線が入っており、弓の弦に見立てた糸で切り分けられています。刃を使わずに糸で切ることで悪霊を断ち、平和を祈念するという意味が込められているそうです。





勤皇志士たちが密議を行ったといわれる文庫(左)。右は徳川寄進の大鍋(右)。


アクセス
・近江鉄道多賀線「多賀大社駅」下車、東へ徒歩10分。
多賀大社地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料 (※奥書院庭園:300円、1~2月は拝観不可)

拝観時間
・8時~16時 (※奥書院庭園は15時30分まで)

公式サイト






大阪・三光神社。

2009年10月01日 | ◆大阪府
中風除け・富貴長寿

三光神社

(さんこうじんじゃ)
大阪市天王寺区玉造本町14-90

大阪七福神・寿老人

別 名
三柱神社・日月山神社







〔御祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
月読尊
(つくよみのみこと)
素戔鳴尊
(すさのおのみこと)


 社伝によると、三光神社は1600年前の反正天皇の治世(406~410年)の頃に創建されたといわれる古社で、景行天皇から仁徳天皇までの5代の天皇に244年の長きに渡って仕え、善く国政を補佐して活躍したとされる伝説上の人物・武内宿禰公の末裔である武川氏が神職を務められています。その縁もあって境内には長寿の神として武内宿禰公が祀られています。もともとは姫山神社と呼ばれていて、この一帯は「姫の松原」と呼ばれていたそうです。





石段の上には「一本足の鳥居」にくっつくように鳥居が再建されています。



 この三光神社が有名になったのは、大坂冬の陣において大阪方の猛将・真田幸村公がこの場所に陣を張ったことが大きいと思われます。関が原の戦いの後もなお大きな影響力を保っていた豊臣秀頼公の勢力(大坂方)と江戸幕府との対立が最高潮に達して勃発した大坂冬の陣では、真田幸村公は大坂城の広大な外堀の南側に陣を張って徳川方を迎え撃ちました。12月3日と4日の2日間に渡って行われた戦闘では、前田利常公を中心に総勢26,000人以上の兵力で攻め寄せた徳川方に対し、大阪方は真田幸村公率いる5,000人の軍勢をはじめ17,000の兵力をもって迎撃し、「真田丸・城南の攻防戦」と呼ばれた戦いは大損害を受けた徳川方の撤退をもって終結しました。この戦いに先立ち、比較的防御の薄かった大坂城の南に真田丸と呼ばれる砦を築いていた真田幸村公は城内に通じる抜け穴を設けており、その跡が今も境内に「真田の抜け穴」として残されています。ちなみにこの辺りを「真田山」と呼ぶのは真田幸村公が陣を敷いたことに由来し、対陣していた前田利常公の陣屋が近かったことから「加賀宰相」という別名にちなんで「宰相山」という呼び名も残っています。





真田丸と大坂城を繋いだ「真田の抜け穴」(左)と、真田幸村公像(右)。



 その後、三光神社は1661(寛文元)年に現在地の南東、御旅所があった圓珠庵(鎌八幡)の隣に移され、1706(宝永3)年には再び現在地に戻されました。時期ははっきりしていませんが、江戸時代には「中風封じ」のご利益で有名な陸前国の青麻三光宮(今の青麻神社)の御分霊を勧請して境内に祀っています。1908(明治41)年には、この三光宮が本殿に合祀されて神社名も「三光神社」と改められました。この「三光」という名は、青麻三光宮が崇拝していた日・月・星を表す「三光神(天照大御神・天之御中主神・月読尊)という3柱の神の総称から付けられた名前で、そのため「三柱神社」とも「日月山神社」とも呼ばれています。





復興された社殿(左)と、「大阪七福神」のひとつに数えられる寿老人像(右)。


 
 長い歴史を持つ三光神社も、1945(昭和20)年6月に行われた大阪大空襲では境内が炎に包まれ、周囲も灰燼に帰して全滅してしまいます。復興は絶望的だといわれていた三光神社を救ったのは、戦後の荒野をたくましく生き抜いた氏子崇敬者の皆さんの復興に懸ける熱い思いでした。まず本殿が再建され、続いて社務所や拝殿、大鳥居など5回に渡って境内が整備され、1600年の歴史を持つ古社は往時の姿を取り戻すことが出来ました。本殿前の鳥居には、空襲で破壊された鳥居の石柱が「世界の平和と国家の安泰を祈願して残す」という氏子奉賛会の人々の思いによって残され、「一本足の鳥居」と呼ばれて戦争の悲惨さを今に伝えています。境内は古くから桜の名所として知られ、毎年4月上旬は満開の桜を愉しむ地域住民の憩いの場となっていて、平和な日常の素晴らしさを感じることが出来ます。





仁徳天皇や野見宿祢などが祀られる摂社(左)と、北側の鳥居(右)。

アクセス
・JR大阪環状線「玉造駅」下車、西へ徒歩5分。
・大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」下車、南へ徒歩2分。
三光神社地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料 (※御朱印は300円)

拝観時間
・常時開放 (※御朱印の受付は16時まで)

公式サイト



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