goo blog サービス終了のお知らせ 

神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・本願寺神戸別院(モダン寺)。

2009年11月27日 | ■神戸市中央区

本願寺神戸別院(モダン寺)

(ほんがんじ こうべべついん)
神戸市中央区下山手通8-1-1


通 称
モダン寺



JR神戸駅と元町駅の中間に立つ「モダン寺」。車窓からも望むことが出来ます。


〔宗派〕
浄土真宗本願寺派

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)


 JR神戸駅と元町駅のちょうど中間にある花隈は、戦国時代には織田信長公旗下の武将・荒木村重公が城主を務めた花隈城が建てられていた場所でもあります。この地下には阪急電車の花隈駅(正確には神戸高速鉄道の駅舎)があり、東出口を出ると花隈城址へと至りますが、反対側の西出口を出て少し歩くと、エスニックな雰囲気の美しい建物が異彩を放って建っている事に気付きます。ここは特徴ある外観から「モダン寺」と呼ばれて市民に親しまれている寺院で、正式名称を「本願寺神戸別院」といいます。





以前のモダンなイメージを生かしつつ1995(平成7)年に改築された美しい本堂。



 天正年間(1573~1592年)、本願寺の第11代門主・顕如上人に帰依して「教祐」という法号を賜った甲斐国の武田信久公が摂津国八部郡二ツ茶屋村に寺舎を営みます。小庵だったこの寺舎は1639(寛永16)年に入り二ツ茶屋村市場の地に道場を建立、第13代門主・良如上人から寺号を授与され、「善福寺」と名付けられる事となりました。この寺院が本願寺神戸別院の前身となったといわれています。その後、この辺りに鉄道が敷設されることになって1871(明治4)年に現在地へと移されました。さらに1908(明治41)年には本願寺の執行長で後に貴族院議員にもなった大谷尊由上人を住職に迎え、別格別院善福寺となりました。

 元々は木造寺院でしたが、1917(大正6)年1月に発生した火事によって本堂が全焼したため、我が国の寺院では最初となる鉄筋コンクリートでの本堂再建が進められました。1930(昭和5)年10月に完成した建物はインド仏教様式の美しく斬新なデザインだったために大きな話題を呼び、「モダン寺」という呼び名で信徒の方々のみならず多くの人々に親しまれる事となりました。1960(昭和35)年8月には西本願寺直属の別院となり、寺号も「本願寺神戸別院」と改められます。年月を経て老朽化が進んだ本堂は全面改築される事になり、それまでのモダン寺の印象を残す形で阪神・淡路大震災後の1995(平成7)年9月に竣工し、最大400名が収容できる本堂や600名まで収容できるホール、宿泊なども可能な28畳と26畳の書院などを備えた建物として生まれ変わりました。





本堂前の広場に立てられている親鸞聖人の銅像。


アクセス
・神戸高速鉄道「花隈駅」下車、西へ徒歩1分。
・神戸高速鉄道「西元町駅」下車、北へ徒歩3分。
・JR神戸線「神戸駅」下車、東へ徒歩10分。
・JR神戸線「元町駅」下車、西へ徒歩10分。
本願寺神戸別院(モダン寺)地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・9時~16時30分

公式サイト






神戸・大龍寺。

2008年04月30日 | ■神戸市中央区


再度山大龍寺

(ふたたびさん だいりゅうじ)
神戸市中央区再度山1

神戸十三仏霊場・第6番札所
KOBE七福神・大黒天 ほか



再度山ドライブウェイ沿いに立つ山門。すぐ前まで市バスで行くことが出来ます。


〔宗派〕
真言宗東寺派

〔御本尊〕
如意輪観音菩薩像
(にょいりんかんのんぞう)


 六甲山に向けて再度山ドライブウェイを北上すると、道の左手に大きな朱塗りの山門があります。ここから長い参道を登っていくと、弘法大師ゆかりの古刹・大龍寺があります。週末だけは三宮駅より神戸市バスが通っていますが、休止されていることもありますので事前に確認してから参拝されることをおすすめします。大龍寺は上記以外にも、安永年間(1772~81年)に真田山観智院月海上人によって開かれたといわれる「摂津八十八ヶ所霊場」の第82番札所、1979(昭和54)年に定められた「近畿三十六不動尊霊場」の第9番札所、1980(昭和55)年より始められた「摂津西国三十三ヶ所霊場」の第6番札所、1984(昭和59)年に設立された「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第8番札所、1994(平成6)年創設の「西国愛染十七霊場」の第5番札所など様々な霊場に名前を連ねています。



 
山門から急な坂を登ると石段(左)が現れます。途中には仁王門(右)が建っています。



 奈良時代に入ると、全国的に旱魃や飢饉が続き、天然痘が流行したり大地震が発生するなど人々は不安に包まれていました。さらに、740(天平12)年には藤原広嗣の乱が九州で起こるなど、政情も非常に不安定な状況でした。そんな中で聖武天皇は、国家鎮護の救いを仏教に求めようと741(天平13)年に国分寺建立の詔を出したり東大寺に752(天平勝宝4)年に巨大な盧舎那仏を建立するなど、国立寺院の建立を全国で積極的に行う政策を推し進めました。




仁王門の先に続く石畳の参道。



 そういう流れの中、称徳天皇の勅命を受けて寺院建立の適地調査のために摂津国を訪れていた和気清麻呂公は、摩耶山と鍋蓋山の間の辺りに差し掛かったところで、政敵・弓削道鏡の放った刺客に命を狙われますが、すんでのところで突如龍とも見まがう1匹の大蛇が現れて刺客を追い払ってくれたために危地を脱することができました。この不思議な出来事に霊験を感じた和気清麻呂公は、この地に一木造りの如意輪観音菩薩像を安置する祠を建てて「摩尼山」という霊場を開きました。



 
御本尊の如意輪観音菩薩像が安置されている本堂(左)と脇に立つ修行大師像(右)。



 大龍寺弘法大師ゆかりの寺院としても知られています。唐への留学に出発する前、弘法大師は船旅の安全と学問成就の祈願のためにここを訪れて修行しました。唐への船旅は過酷を極め、激しい風雨で何度も転覆の危機に陥りますが、不思議なことに荒波を遮るように大きな龍が現れ、船を守ってくれたという伝説が残されています。その加護によって無事に唐へ辿り着いた弘法大師は、長安・青竜寺にて驚異的なスピードで真言密教の秘法を会得。帰路も船を守ってくれた大龍は、神戸の沖合いまで戻ってきたところで突如海から飛び立ち、摩尼山の方角へと去っていきました。弘法大師は、唐への往復を守護してくれた龍に感謝するためもう一度この霊場を訪れて寺院を建立し、守護龍にちなんで大龍寺と名付けました。この山は、弘法大師が2度登られたという故事にならって「再度山」と呼ばれるようになったそうです。



  
毘沙門堂(左)と、本堂の前に立つ「ぼけ封じ観音像」(右)。



 鎌倉時代には、再度山一帯が南朝方の多々部城(再度城)の城域だったこともあってたびたび戦火に巻き込まれ、伽藍も焼失してしまいました。しかし1351(観応2)年には赤松円心公の支援によって再建。このとき山主として再興に尽力し、「大龍寺中興の祖」と崇敬された善妙上人は、中風に苦しむ後円融上皇の病を1週間の祈祷によって平癒に至らしめたという伝説の持ち主で、このため大龍寺は「中風除け加持ご祈祷の寺」としても知られるようになりました。




境内から奥の院へと向かうと、山道を5分ほど登った先に大師堂があります。



 せっかく再興を果たしたにも関わらず、戦国の世の兵火に巻き込まれて再び荒廃してしまった大龍寺ですが、江戸時代に入った1668(寛文8)年には尼崎城主の光録居士(2代藩主・青山幸利公の事だと思われます)の助力を受けた実祐上人が「弘法大師八十八ケ所霊場」を勧請するなど再興に力を尽くされました。現在建っている境内の建物はこのとき再建されたもので、明治に入って日本中を襲った廃仏毀釈運動の時にも当時の住職・井上徳順和尚と地元の人々が懸命に努力をされて守り抜き、東寺真言宗所轄の寺院として今日までその法燈を維持し続けています。



 
大師堂の奥には険しい山道の先に弘法大師が自ら刻んだといわれる「亀の岩」があります。



アクセス
・神戸市バス25系統「森林植物園行」で「大龍寺前」下車すぐ(本堂まで登り坂を徒歩10分)
※25系統バスは4月1日から11月30日までの土・日・祝日のみ(臨時休止の場合あり)
 大龍寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~17時

公式サイト
  大龍寺公式ウェブサイト




神戸・インフィオラータこうべ。

2008年04月01日 | ■神戸市中央区


インフィオラータ神戸

(いんふぃおらーた こうべ)
神戸市灘区から神戸市垂水区までの市内各地




「のじぎく国体」が生んだ兵庫県マスコット「はばタン」。


※画像は以前の「インフィオラータこうべ」でのものです。




 「インフィオラータ」とは「花を敷きつめる」という意味のイタリア語です。イタリアでは、13世紀頃からキリストの祝日である『キリストの聖体』の大祝日(コルプス・ドミニ)の際、通りに花を撒く習慣がありました。そして17世紀頃にサンピエトロ寺院コルプス・ドミニの日に花びらをデザインして敷き詰めるイベントが行われてからは、同様のイベントが各地に広がるようになります。

 イタリア・ローマのジェンツァーノ市では、1782年から中心街であるスフォルツァ通りに花びらで絵を描くというイベントが始められ、200年もの間続けられています。1980年代からはミッソーニフェンディヴェルサーチなどイタリアを代表するデザイナーたちも参加するようになりました。




作品名は「トワイライト神戸」。西元町NPOチームの作品です。



 神戸でも阪神・淡路大震災追悼行事の一環として、震災犠牲者の鎮魂と残された人々への癒しなどを目的に、1997(平成9)年から毎年4月に行われるようになりました。インフィオラータこうべでは、多くのチューリップの花が使われていますが、これらの花は本来は球根の収穫後に廃棄されるはずだったもので、富山県砺波市新潟県新潟市の球根栽培農家の皆さんのご好意で神戸市に提供され、通りを彩る美しい花の芸術へとリサイクルされいます。




うどん屋さんの前にもかわいい作品が。手作りのあったかさを感じます。




開催エリア
 初年度は「三宮あじさい通り」と「北野町広場」の2ヶ所での開催でしたが、イベントの定着とともに会場数も増え、2008年はこれまでで最多の8エリアで花絨毯のイベントが行われます。


三宮東地区  三宮あじさい通り  2008年4月26日(土)~28日(月)

北野坂地区  北野坂・ムーンプラザ  2008年5月3日(土)~5日(月)

元町あなもん地区  元町穴門商店街  2008年4月26日(土)~27日(日)

西元町地区  元町6丁目商店街  2008年4月26日(土)~28日(月)

マリンピア神戸地区  ポルトバザール内  2008年4月27日(日)~29日(火)

灘中央筋地区  灘中央筋商店街  2008年4月26日(土)~28日(月)

北神地区  北神戸田園スポーツ公園  2008年4月28日(月)~30日(水)

医療産業都市地区  ポートライナー「先端医療センター前」駅広場  5月10日(土)






不敵な笑顔のこの豚のキャラクターの名は「ワケトン」。
神戸市のゴミ分別収集のPRに頑張ってます。「ゴミ、ちゃんと分けとん?」



地元の婦人会が作った力作。その名も「西元町へようこそ




公式サイト
  「FEEL KOBE」インフィオラータこうべ特集

神戸・関帝廟。

2008年03月17日 | ■神戸市中央区

関帝廟

(かんていびょう)
神戸市中央区中山手通7-3-2



山手幹線から住宅街を少し入ると、中国風の門構えが目を引きます。


〔宗派〕
単立寺院

〔御本尊〕
関羽雲長公
(かんううんちょう)


 詳しく読んだことはなくても、「桃園の誓い」で義兄弟の契りを結んだ劉備玄徳公・関羽雲長公・趙飛翼徳公や名軍師として名高い諸葛亮孔明公が中国大陸を舞台に大活躍した「三国志演義」のことは耳にされたことがあると思います。その中でも、最後まで劉備玄徳公に仕えて壮絶な最期を遂げた関羽雲長公は、信義に厚く約束を必ず守るという点や、蓄財に長けて経済に明るかったという伝説から、商売の神さまとして華僑の皆さんを中心に厚く崇敬されています。
 そんな関羽雲長公を祀る寺院は「関帝廟」と呼ばれ、函館・横浜・大阪・長崎など日本にも何ヶ所か存在しています。今回はそのひとつ、神戸にある関帝廟をご紹介します。




龍門をくぐると境内の奥に関羽雲長公が鎮座する本堂が見えます。




 神戸の関帝廟の歴史は1892(明治25)年、在日華僑として神戸で成功を収めていた呉錦堂氏たちが中心となり、華僑の寺院として東大阪市の布施にあった長楽寺が廃寺になるところを神戸に移転させ、宇治市にある黄檗宗の萬福寺の末寺にしたことに始まります。長楽寺は、中国風の外観から「南京寺」と呼ばれて崇敬を集めていました。このときには関羽雲長公像と十一面観音像、そして航海安全の神さまとして信仰を集めていた北宋時代の道教系信仰の開祖・媽姐(まそ)の像が祀られていたそうです。







 華僑の皆さんの崇敬を集めていた関帝廟は、さきの大戦の際に神戸市民を無差別に襲った神戸大空襲によって全焼。しかしながら天台宗の僧侶・釈仁光師を住職に迎え、1948(昭和23)年に華僑の皆さんの有志が発起人となって寄付が集められて本堂や庫裏、休憩所などが無事に再建されました。その後も礼堂や山門などが徐々に整備されましたが、1977(昭和52)年に子供の火遊びから出火し、本堂が焼失してしまいます。この際にも有志の皆さんが尽力されて2年後の1979(昭和54)年に本堂が再建されました。

 関帝廟の苦難はまだ続きます。1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災による激しい揺れによって関帝廟も大きなダメージを受けました。この時も関帝廟復興委員会が設立されて再建工事が進められ、1999(平成11)年2月に復興落慶法要が営まれました。このように、関帝廟の苦難の歴史は同時に、その都度有志の皆さんの熱い思いが集結されて再建されるという不屈の歴史でもありました。それはあたかも曹操孟徳公率いる軍の圧倒的な兵力に何度も苦杯を喫しながらも苦難を跳ね除け、主君・劉備玄徳公を支えて蜀漢の建国に尽力した関羽雲長公の生き様であるかのように感じてしまうのは私だけでしょうか。




境内から本堂を眺めると、中国に居るような錯覚に陥ります。


 旧暦の7月13日から16日の盂蘭盆の時期に行われる水陸普度勝会(すいりくふどしょうえ)の際には、紙や竹で作られた冥宅(みんたく)と呼ばれるミニチュアの家が作られ、故人が生前に好んでいたお供え物をお供えするそうです。この祭事が行われている間は、太鼓や鐘などが鳴らされる中で読経が行われるなど賑やかな雰囲気でご先祖さまの霊を慰めるのですが、冥界の扉が閉まるという7月16日の午前0時までに「送り火」をしなければご先祖の霊が極楽浄土に戻れないということから、すべての冥宅関帝廟の前で燃やされるそうです。



アクセス
・神戸高速鉄道「花隈駅」下車、北へ徒歩7分
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車、西へ徒歩7分
 関帝廟地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~17時



にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村の村民になりました! 

神戸・相楽園「にわのあかり」

2007年08月26日 | ■神戸市中央区

相楽園・「にわのあかり」

(そうらくえん)
神戸市中央区中山手通5-3-1

夜間特別ライトアップ
「にわのあかり」



心が癒される「にわのあかり」の灯り



 8月24日(金)から26日(日)までの3日間、神戸市中央区の相楽園で行われた夜間特別ライトアップ「にわのあかり」。日没とともに園内に並べられた1000を超える灯りに火がともされ、25日には相楽園の本位田園長による園内ツアーや地泉のほとりに建てられている茶室浣心亭の障子に映る風景を楽しむスライドショー、26日にはインドネシアの音楽ガムランの演奏と影絵芝居ワヤンの上演が行われました。幻想的な灯りの中に響くガムランの音色に、心癒されるひと時でした。




旧ハッサム住宅。明治35年頃に建築されたもので、昭和38年に移設されました。



 相楽園にある地泉回遊式庭園の周りも温かい灯りに包まれ、まだまだ蒸し暑い時間帯にもかかわらず、予想以上に多くの方々が灯りの織り成す幻想的な風景を堪能されていました。このイベント「にわのあかり」は、相楽園の公募に応じて集まられたボランティアの方々で組織された「庭の灯り実行委員会」によって企画・運営されたそうで、灯りの設置・点灯だけでなく、開催中ずっと飛石や敷石・石段のそばに立って懐中電灯で足元を照らしてくださるなど、隅々まで行き届いた気配りをされていました。おかげで時が経つのを忘れて景色を愉しむ事ができ、ただただ感謝。




水面に姿を映す「船屋形」。17世紀末に姫路藩主の遊覧
のために建造された「川御座船」の屋形部分のみを移設。



障子を照らす灯りが柔らかな茶室「浣心亭」。


月のきれいな夜でした。



アクセス
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車、北へ徒歩3分
・JR「元町駅」下車、北西へ徒歩10分
・阪神電車「元町駅」下車、北西へ徒歩10分
 相楽園地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人300円 小人150円

拝観時間
・9時~17時(入園受付は16時30分まで)

兵庫県の日本庭園―歴史と美を訪ねて
西 桂
神戸新聞総合出版センター

神戸・六宮神社 八宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月27日 | ■神戸市中央区
厄除

六宮神社・八宮神社(生田裔神八社)
  
(ろくのみやじんじゃ)          (はちのみやじんじゃ)
神戸市中央区楠町3-4-13


生田裔神八社
  



山手幹線から南へ入ってすぐのところに正面の鳥居があります。


〔御祭神〕
六宮神社
天津彦根命
(あまつひこねのみこと)
応神天皇
(おうじんてんのう)


八宮神社
熊野杼樟日命
(くまのくすひのみこと)
素盞鳴尊
(すさのおのみこと)



 四宮神社の前を山手幹線沿いに西に抜けていくと、ホテルオークラなどを建てた大倉財閥の創始者である大倉喜八郎の別荘の跡である大倉山公園が目に入ってきます。この大倉山公園の南に生田八裔神社のうちの2つ、六宮神社八宮神社が鎮座しています。もともとこの2つの神社は別々の場所に建っていたのですが、明治に入って公共施設の建設のため移転を余儀なくされ、今では同じ社殿に仲良く合祀されています。







 六宮神社天津彦根命応神天皇を御祭神とする神社で、以前はこの場所から西へ300mの場所にある楠中学校の地に鎮座していましたが、1909(明治42)年12月に楠高等小学校が開設されることになり移転されました。

 一方、八宮神社熊野杼樟日命素盞鳴尊を祀る神社で、兵庫県弁護士会館の地にありました。1909(明治42)年に神戸市の初代市役所が建てられるにあたり、現在地に遷座され、八宮神社の社殿に六宮神社が合祀された形となっています。




北側に六宮神社、南側に八宮神社を祀っています。



 今の楠町のあたりは、昔は八部郡坂本村と呼ばれており、六宮神社八宮神社坂本村の鎮守社として厚い崇敬を集めていました。この辺りには坂本臣と呼ばれる一族が住んでいたそうです。坂本臣は平安初期の815(弘仁6)年に編纂された氏族名鑑である新撰姓氏録の「摂津国皇別」の件に「紀朝臣(きのあそみ)と同じき祖。彦太忍信命の孫、武内宿禰命の後なり。」と記されているように、大和朝廷の初期に景行成務仲哀応神仁徳の5代の天皇に仕えて活躍したとされる武内宿禰の子孫とされています。武内宿禰ゆかりの応神天皇をともに祀ったのは、この坂本臣と考えられています。




この鳥居を見る限り、八宮神社の存在感のほうが大きいようです。



アクセス
・神戸市営地下鉄「大倉山駅」下車すぐ
 六宮神社・八宮神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

神戸・四宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月24日 | ■神戸市中央区
芸能成就・縁結び・交通安全

四宮神社(生田裔神八社)

(よのみやじんじゃ)
神戸市中央区中山手通5-2-13


生田裔神八社




山手幹線に面して立つ鳥居。隣の高層マンションの1階が社務所です。


〔御祭神〕
市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと)




 創建時期は不明ですが、神功皇后による三韓遠征の帰途、稚日女命を生田の森にお祀りした際に巡拝した8社のうちの4番目の神社として「四の御前の神」と名付けられました。

 ご祭神は天照大御神素盞鳴尊との誓約(うけい)の際に誕生された5男神3女神のうちの一柱・市杵島姫命です。市杵島姫命は神仏習合の中では弁財天に比定されており、美人の誉れの高い宗像3女神の中でも特に美しい女神として高い人気を誇っている神さまです。広島県・安芸宮島の厳島神社から勧請されたとされていますが、宗像3女神を祀る福岡・宗像神社とも関係があったようです。




朱塗りの鳥居。「芸能の神さま」への入口です。



 戦国時代の1574(天正2)年、石山本願寺毛利氏との補給路を分断する大きな楔として、織田信長公の命によって花隈城が大改修された際、四宮神社は城の鬼門鎮護の神と定められ、城主・荒木村重公より幣帛が奉納されました。その頃の花隈城は山手幹線辺りまで城域が広がっていたと伝えられており、荒木村重公の謀反を受けた織田軍の制圧戦によって花隈城が落城した際には兵火に巻き込まれたこともあったようです。現在の場所に移されたのは1854(安政元)年。その際三議稲荷神社が境内に祀られ、続く1855(安政2)年には八幡神社が祀られました。




社殿も朱塗りが鮮やかです。1963(昭和38)年の再建です。



 1902(明治35)年に兵庫県の新庁舎(現在の兵庫県公館)が建設されると、「県政守護の神様」とされて県庁関係者からの厚い崇敬も受けるようになります。1905(明治38)年6月に起きた大火事によって被害を受けましたが、芸能人・文化人や各界の有力者の助力を受けて5年後には無事復興されます。

 1927(昭和2)年には村社に列せられ、歴代の兵庫県知事四宮神社の例大祭に参列されるようになりました。1945(昭和20)年の空襲で大きな被害を受けますが、当時副知事を務めていた金井元彦氏の声掛けによって復興奉賛会が結成され、1960(昭和35)年5月から浄財を募集、氏子崇敬者・神戸市民や芸能・文化人など多くの方々の協力を受けて1963(昭和38)年5月10日に現社殿が再建されました。






 その昔、神戸で「花街」といえば福原ではなく花隈のことを指していました。料亭やお茶屋さんが50軒以上立ち並び、多いときには1000人近くの芸妓さんがお座敷に彩を添え、客層も皇族から財界人まで錚々たる顔ぶれだったそうです。そんな花隈に鎮座する四宮神社は、芸能の神さま・市杵島姫命を祀っていることもあり、花隈の芸妓さんの襲名奉告や舞の奉納が行われ、花隈芸者は一度は鑑札(営業許可書)を受けなければならなかったといわれており「花隈芸者の名付けの神」として有名でした。

 そんな四宮神社の境内には、弁財天芸能塚が建てられています。美と芸事の神さま・市杵島姫命を祀る四宮神社を崇敬する方々によって1984(昭和59)年4月に弁財天崇敬会が結成され、多くの方の浄財を受けて1年後の1985(昭和60)年4月に建立されたのが、この弁財天芸能塚です。毎年4月の第1土曜日もしくは日曜日には「芸能塚祭」が執り行われ、文化・芸能活動に打ち込んでいる方々から奉納された愛用の筆や扇や楽譜、鉛筆等を焚き上げてその長年の労をねぎらい、供養するという神事が行われています。




社殿前に鎮座する八幡神社。1855(安政2)年に勧請されました。




アクセス
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車、徒歩2分
 四宮神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
   四宮神社公式ホームページ

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

神戸・三宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月14日 | ■神戸市中央区
交通安全・商売繁盛・知恵授け


三宮神社(生田裔神八社)

(さんのみやじんじゃ)
神戸市中央区三宮町2-4-4


生田裔神八社





大丸神戸店のすぐ傍に鎮座する三宮神社。都会の喧騒をしばし忘れさせてくれます。


〔御祭神〕
湍津姫命
(たきつひめのみこと)



 神戸の中心地・三宮。その「三宮」という地名の由来となったのが、今回ご紹介する三宮神社です。大丸神戸店のすぐ傍にある神社だといえば思い当たる人も多いはずです。一般に「三宮」といえば、律令制時代の国における3番目の格式を持つ神社の事を指しますが、神戸元町にある三宮神社は、生田神社に所縁のある神々を祀る「生田八裔神社」のうちの3番目の神社という位置付けで、航海・交通安全と商売繁盛に御利益があり、知恵授けの御神徳のある神社としても知られています。
 三宮神社は、かつては西国街道に面していました。田園風景の中にひときわ目を引く深い森が広がり、アヤメが植えられ、境内に清水が湧き出す井戸があるなど、まさに文字通り「オアシス」として旅人たちの渇きを癒していたそうです。御祭神が宗像三女神の一人・水の神様である湍津姫命だというのもうなずけます。三宮神社の井戸から湧き出す上質の清水は、開港間もない神戸港を出入りする船舶の飲料水としても重宝されたそうです。





「神戸事件」と同時代に使われていたという大砲(左)。並ぶように手水舎があります(右)。



 三宮神社に関しては、古い史料が残されていないため創建時期は明らかではありませんが、社伝によると三韓征伐からの帰途に神功皇后が巡拝された神社だといわれています。そうだとすると、西暦200年以前には既に祭祀の場が存在したという事になりますが、あくまで伝説の域を越えません。江戸時代には尼崎藩の領地であったために代々の尼崎藩主が厚い崇敬を寄せ、1748(寛延元)年の銘がある石灯籠は尼崎藩主の奉納したものだと伝えられています。また、境内には1732(享保17)年の銘のある石鳥居や手水鉢も残されています。
 旧八部郡神戸村の鎮守社とされ、人々の崇敬も厚かった三宮神社の御祭神で、天照大御神素盞鳴尊の誓約により生まれた五男三女神のうちの娘神、いわゆる「宗像3女神」の1柱である湍津姫命は年に一度、兄神にあたる二宮神社の御祭神・天忍穂耳尊と御対面をされるといわれ、それにちなんだ神事が行われています。 





三宮神社の社殿。



 境内の南西には「神戸事件発生地碑」が建てられています。「神戸事件」とは、1868(慶應4)年2月4日(旧暦の1月11日)に起きた岡山藩兵と外国兵との衝突事件で、新体制へと移行した維新政府が初めて直面した外交事件といわれています。当時は新体制を不服とする旧幕府勢力と明治新政府との間で戊辰戦争と呼ばれる軍事衝突が起き、神戸を所管していた兵庫奉行・柴田日向守戊辰戦争勃発に恐れをなし、任地を捨てて早々に逃亡してしまっていたために、神戸の町は一時統治機能が麻痺した騒然とした状況に陥っていました。そんな中、徳川方である尼崎藩の牽制のために新政府から西宮の警備を任ぜられて西国街道を東上していた岡山藩兵と、開港直後の居留地に赴任していた欧米各国の水兵たちとの間で「神戸事件」が発生しました。

 三宮神社付近に差し掛かった岡山藩兵の隊列の前を、横切ろうとしたフランス兵やアメリカ兵たちに対し、岡山藩第3砲兵隊長を務めていた滝善三郎正信公が槍を持ってこれを制止(大名行列など、武家の隊列を横切る事は「伴割」と呼ばれる大変無礼な行為とされていました)。しかしながら、言葉も通じず風習も当然ながら把握していなかった欧米の水兵たちがそのまま通行しようとしたため、滝善三郎正信公が槍で突きかかって軽症を負わせた事から事態は急変します。
 これに驚いた水兵側が拳銃を持ち出した事から岡山藩兵が発砲。これに外国兵が応戦し、さらに現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークスによる要請を受けたアメリカ海兵隊・イギリス警備隊・フランス水兵が神戸港に停泊中だった軍艦から上陸して岡山藩兵を追撃し、生田川の川原での銃撃戦に発展します。まもなく岡山藩家老より射撃中止と撤退の命令が出された事から、双方に死者が出る事なく戦闘は終結しました。

 諸外国側は居留の自国民保護の名目で付近一帯を軍事占拠し、日本側に対して謝罪と責任者の処罰を要求。とき折りしも欧米列強における植民地政策が進められていた時代で、文化の違いから起きた不幸な衝突とはいえ一歩間違えれば本格的な戦争や長期間にわたる軍事占領が続くなどの重大な外交問題になり兼ねない状況の中で双方による交渉が行われ、最終的に責任を一身に背負った砲兵隊長の滝善三郎正信公が兵庫・永福寺において見事切腹して果てることで最悪の状況を回避、事態の収拾が図られることとなりました。





社殿脇に鎮座する三宮稲荷・安高稲荷(左)と、その東に鎮座する河原霊社(右)。



 境内には、源平合戦の折に生田の森に拠って堅い守りを固めていた平知盛公率いる平家軍に対し、勇敢にも先陣を切って斬り込んでいった河原太郎高直公と河原次郎盛直公兄弟を祀る霊社も鎮座しています。もともと、生田神社の馬場先のやや西に河原兄弟を祀る塚が築かれていましたが、神戸港の開港などで町並みが急速に変わるうちにその跡は失われてしまいました。
 これを憂えた地元・三宮町3丁目の有志の方々が、1922(大正11)年に河原霊社を建てて遺徳を顕彰しましたが、神戸市の都市計画の影響で1958(昭和33)年4月に少し北に遷されます。1971(昭和46)年12月になって、再び市街地整備のために三宮神社の境内に遷されて現在に至ります。





震災の影響か、一部傷ついた狛犬(左)。北側から見ると、大丸神戸店の近くだと良く分かります(右)。


アクセス
・地下鉄「旧居留地・大丸前駅」下車、徒歩1分
・JR「元町駅」下車、徒歩3分
・阪神電車「元町駅」下車、徒歩3分
三宮神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

神戸・二宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月10日 | ■神戸市中央区
勝運・金運・家門繁栄・病気平癒・厄除


二宮神社(生田裔神八社)

(にのみやじんじゃ)
神戸市中央区二宮町3-1-12


生田裔神八社

通 称
正勝さん
(まさかつさん)





商店街と民家が並ぶ街なかに鎮座する二宮神社。


〔御祭神〕
天忍穂耳尊
(あめのおしほみみのみこと)



 「やまかん」の呼び名で国道2号線、国道43号線とともに神戸の東西を結ぶ山手幹線。神戸市役所の横を通り、新神戸駅へと南北に貫くフラワーロード。その2本の道路が交差する加納町3丁目交差点からすぐの場所に鎮座しているのが二宮神社です。先日ご紹介した一宮神社同様、生田神社の八裔神のうちの一社です。周囲には二宮筋商店街などの昔ながらの商店街が立ち並び、数多くの民家が軒を連ねる閑静な住宅街に囲まれ、飾らない「庶民の神様」といった佇まいで鎮座されています。





参道脇に繁る御神木(左)と、社殿の前に残されている御幸石(右)。

朱塗りの社殿。



 二宮神社の御祭神は天照大御神の長男である天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)で、天孫降臨神話では息子神である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に降臨の大役を譲ることでも有名な神さまであり、実る稲穂を讃える農業神といわれています。この天忍穂耳尊には正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)という長い別名があります。これは天照大御神との誓約に勝った素盞鳴尊が「正に勝つ、吾勝てり。勝つ速さ昇る日の如し」と喜んで名付けたと言われています。天忍穂耳尊を祀る神社は珍しく、神戸市内では北区にある杉尾神社二宮神社の2社だけです。「勝運の神様」として有名な二宮神社には、それ以外にも芸能向上や受験運、就職成就や結婚、安産、財運向上などの御利益があるといわれています。





社殿の右にある朱鳥居(左)をくぐった先に鎮座する稲荷神社(右)。

稲荷神社の向かいに立つ「おイネ狐」の像(左)と、1955年に創建された椋白龍社(右)。



 創立時期は明らかではありませんが、神功皇后三韓遠征から凱旋した201(摂政元)年に神徳著しかった神々をお参りになられた際、2番目に巡られた事から二の宮というようになったそうです。また、生田神社が祀られていたという布引山砂山が貞観年間(859~877年)に大洪水によって崩壊した際、神主だった刀弥七太夫が御神体を背負って避難したのが二宮神社のあるこの地だったといわれており、境内には御神体を祀ったとされる「御幸石」が残されています。これらの話は伝説の域を超えませんが、二宮神社の近辺に建っていた二宮小学校(現在は廃校)の跡地の発掘調査の結果、6世紀末から7世紀初頭に作られたとみられる鍛冶工房の跡と祭祀用の土偶等が発掘された事から、少なくとも1400年前にはこの地で何らかの祭祀が行われていた事が分かっています。
 明治時代に入り、葺合地区にあった神社の全てが二宮神社に合祀され、葺屋荘総鎮守として人々の崇敬を集めました。現在、地域の発展とともに合祀された神社も元の地域に戻されましたが、生田北向八幡宮だけが現在でも合祀され、天忍穂耳尊とともに応神天皇もお祀りされています。1945(昭和20)年の神戸大空襲では二宮神社の境内にも焼夷弾が2発命中し、御神木であるケヤキを一部焦がしたほか、機銃による銃弾の跡も石鳥居に残されています。





東側の鳥居(左)と、その脇にある手水舎(右)。


アクセス
・JR「三ノ宮駅」下車、北へ徒歩8分
・阪急電車・阪神電車「三宮駅」下車、北へ徒歩8分
二宮神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

神戸・一宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月07日 | ■神戸市中央区
生成発展・厄除・交通安全・縁結び・商売繁盛

一宮神社(生田裔神八社)

(いちのみやじんじゃ)
神戸市中央区山本通1-3-5


生田裔神八社




観光客で賑わう北野坂から少し東に入ったところに鎮座しています。


〔御祭神〕
田心姫命
(たごりひめのみこと)



 最近何かと話題の多い生田神社。神戸には、その生田神社を取り巻くように生田八裔神と呼ばれる神社が点在しています。古事記における素盞鳴尊天照大御神との誓約(うけひ)のエピソードの際に生まれたとされる3人の女神と5人の男神が祀られている神社で「港神戸守護神厄除八社」とも呼ばれ、数字の順番に全ての神社を巡ると厄除けになるとも言われています。






 本来は、旧来の行政単位である「」のなかで最も由緒が深く厚い崇敬を集めている神社が「一宮」と定められ、国司が赴任した際には一宮から順に着任挨拶の参拝を行っていました。ここ神戸の一宮神社は、「」における一宮ではなく、生田神社における末社の一番目のお社、という意味で名付けられています。ちなみに摂津国の一宮は大阪の住吉大社とされています。




本多忠直公が1710年に建てた大和郡山城の御門を移築したといわれる手水舎



 ここ一宮神社の御祭神は、素盞鳴尊天照大御神の誓約の際に生まれた3女神のうちの一人である田心姫命で、福岡県の宗像大社より勧請されたといわれています。創建時期は不明ですが、神功皇后三韓遠征からの帰りに神徳著しかったこのお社を参拝されたという伝説があり、旧八部郡北野村の鎮守社として古くから崇敬を集めていたようです。

 最近では田心姫命=縁結びの神さまだということで、そごう神戸店ではバレンタインデー・フェアの一環として、特設コーナーに備え付けてあるメッセージカードに大切な人へのメッセージを書いてもらい、一宮神社でご祈祷を行って恋愛成就を祈るというイベントも行われています。



  
3~4世紀頃、この地域を切り拓いた氏族名から名付けられたという伊久波神社(右)と
商売繁盛のご利益があるといわれる熊高稲荷神社(左)。



アクセス
・JR「三ノ宮駅」下車、北へ徒歩10分
・阪急電車・阪神電車「三宮駅」下車、北へ徒歩10分
 一宮神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

神戸・中村八幡神社。

2006年11月22日 | ■神戸市中央区
厄除



(なかむらはちまんじんじゃ)
神戸市中央区日暮通2-4-11



立派な明神鳥居の奥に社殿が見えます。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)




「布引の 滝見て今日の日は暮れぬ 一夜宿かせ 峰の笹岳」


 鎌倉時代の天台宗の僧侶で、三千院の門跡であった後鳥羽天皇の孫 澄覚法親王の詠んだ歌からその名がつけられたという神戸市中央区の日暮通。このあたりは室町時代から江戸時代にかけて、摂津国莵原郡葺屋郷と呼ばれていたそうです。葺屋郷には生田村熊内村中尾村中村滝寺村小野新田などがあり、1874(明治7)年にはこれら6つの村が一つになって葺合村が出来ました。葺屋の村が合わさったから「葺合」だと言われています。
   
 それからしばらく経った1897(明治30)年頃、港を中心とした市街地の発展に伴い、葺合地域などでは都市化に向けて区画整理や道路整備が行われました。それによって新たな区割りが行われて様々な町が誕生することになります。


 琴ノ緒町 … 「松の音を 琴に調ぶる山嵐は 滝の糸をやすけて弾くらむ」 (紀貫之)

 東雲通 …… 「みつか夜の まだ臥し慣れぬ芦の屋の つまもあらはに明る東雲」 (藤原隆家)

 雲井通 …… 「雲井より つらぬき懸る白玉を 誰れ布引の滝といひけむ」 (藤原隆家)


 …といったように、多くの町名が和歌に因んで付けられたそうで、神戸市もなかなかロマンを感じさせる粋な事をしたと感心させられます。そんな経緯で名付けられた日暮通と、北接する八雲通の境を東西に走る葺合センター街沿いにある神社が、今回ご紹介する中村八幡神社です。葺屋郷中村エリアにあった八幡神社だから中村八幡神社と呼ばれているのでしょう。




1954(昭和29)年10月に再建された社殿。



 明確な創建年代は不明ですが、9世紀末の元慶年間の頃に当地の有力者が京都の男山八幡宮から八幡大神(=応神天皇)を勧請してお社を建てたのが始まりとされています。昭和初期の書物には、中村八幡神社の古いご神体に『仁和丙午年(886年)』と刻まれていたことや、『寛元四年(1246年)』という刻印のある石灯籠があったということが書かれていますが、どちらも残念ながら残されていません。




社殿左手にある蛭子神社。商売繁盛の神さまです。



 老朽化が激しかった社殿は1930(昭和5)年に建て替えが行われましたが、第2次世界大戦中の1945(昭和20)年に行われた神戸大空襲によって全焼してしまいます。そんな中村八幡神社も1954(昭和29)年に氏子の皆さんのご尽力によって再建され、鉄筋コンクリート造りの立派な社殿が建てられました。1995(平成7)年の阪神・淡路大震災では社務所が全壊するなど大きな被害を受けますが、同年9月には立派に再建されました。




朱塗り鮮やかな稲荷神社と祖霊社。社殿の右手にあります。



 毎年4月の第3日曜日には春季大祭、10月の第3土曜日には秋季大祭が行われます。子ども御輿幼児鼓笛隊などが巡行し、子どもたちの元気な声が商店街を駆け巡るそうです。




商店街の中にある神社です。




アクセス
・阪急電車「春日野道駅」下車、南西へ徒歩5分
・阪神電車「春日野道駅」下車、北西へ徒歩5分
 中村八幡神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

神戸・東川崎蛭子神社。

2006年09月22日 | ■神戸市中央区
商売繁盛・家内安全・航海安全

東川崎蛭子神社

(ひがしかわさきひるこじんじゃ)
神戸市中央区東川崎町7-4-12



住宅街の一角に、さりげなくたたずむ鳥居。真新しい白が夏の陽射しに映えます。


〔御祭神〕
蛭子大神
(ひるこたいしん)
火産霊大神
(ほむすびのおおかみ)
水波能賣大神
(みずはのめたいしん)
稲荷大神
(いなりたいしん)



 JR神戸駅の南に広がる神戸ハーバーランド。1992年に旧国鉄湊川貨物駅跡地を再開発して誕生した新しい街で、「MOZAIC」や「プロメナ神戸」、「キャナルガーデン」など多くの商業施設が立ち並び、休日には家族連れで賑わう一大レクリエーションゾーンです。そんな繁華街から少し離れた住宅街の片隅に、東川崎蛭子神社が鎮座しています。このエリアの地名は東川崎町といいます。近くに川崎重工業神戸工場があるためにこの地名が付いたと思われがちですが、江戸時代の頃には既に「川崎」という地名があったようです。ちなみに川崎重工業の社名は、創業者である川崎正蔵氏の名前に由来しています。



 
車庫の上に建てられた社殿(左)と、境内に設けられた東川崎児童館や公園(右)。



 創建年代は明確には分かりませんが、承安年間(1171~1174年)に平清盛公によって行われた大輪田泊の大改築のときに勧請された7弁天7恵比寿のうちの1つが祀られたのが東川崎蛭子神社だと言われています。航海安全・商売繁盛の神さまとして地元の方々より厚い崇敬を受けてきた東川崎蛭子神社は、かつては広大な境内を誇り「えべっさん」で有名なJR兵庫駅近くの柳原蛭子神社よりも賑わっていたそうです。しかし第2次世界大戦中の1943(昭和18)年には、軍需産業の一大拠点だった川崎造船所の生産量増強に向けた拡張工事のために現在の場所へと移転を強いられました。

 東川崎蛭子神社で有名なのが「東川崎恵比須太鼓」です。地域の発展と子どもたちの健全な育成を目的に1970(昭和45)年に結成された東川崎恵比須太鼓保存会によって伝承されている郷土芸能で、福井県の東尋坊太鼓の流れを汲むものだと言われています。この東川崎恵比須太鼓は神事の際に奉納されるほか、湊川神社で毎年5月に行われる楠公祭などでも勇壮な音色を奉納しています。



アクセス
・JR「神戸駅」下車、南へ徒歩5分
東川崎蛭子神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

神戸・花隈城址。

2006年07月27日 | ■神戸市中央区

花隈城址

(はなくまじょうあと)
神戸市中央区花隈町1-1



市営花隈駐車場として利用されている城跡。ちなみに駐車料金は15分100円です。


〔代表的城主〕
荒木村重公
(あらきむらしげ)



 三宮の旧居留地から元町の大丸百貨店へと、おしゃれなミナト街の表情を見せるまち・神戸。そんな神戸も少し西へ進むと、硝煙の匂い燻り覇権を競って血生臭い争いが繰り広げられた戦国の世の名残りに思いを馳せる史跡に出会うことができます。JR線でいうと元町駅と神戸駅の中間。阪急電車を利用すると「花隈駅」を下車して東へ3分ほど歩いた交差点に石垣が見えます。ここが戦国時代につくられた平城・花隈城の跡です。




「天守台」兼地下駐車場の通気口。 こういうと戦国のロマンも何もあったもんじゃないですよね
 


 今でこそ内部は市営花隈駐車場・上部は花隈公園と、外観だけ石垣で城跡っぽく作られただけの城跡で、周囲にはホテルが立ち並び、公園内には落書きも目立つなど、期待を持って訪れた方には少々酷なものとなっていますが、築城当時は現在の花隈町のエリア全体に匹敵する広大な敷地に本丸・二の丸・三の丸を備えた、堂々たる海岸線の要衝だったそうです。 




「花隈公園」として整備されています。犬の散歩に来る人もたくさんいます。



 戦国の世。摂津国を勢力下に収めた織田信長公は、顕如上人を中心に激しく抵抗を見せる石山本願寺を相手に、厳しい戦いを繰り広げていました。本願寺打倒の戦略として、織田信長公は各方面から石山本願寺に向かう補給路を寸断する作戦を遂行します。その一環として、兵糧や武器などの後方支援を行っていた毛利氏や西国の門徒勢力との連携を断つために打たれた楔、それが花隈城です。

 1568(永禄11)年に摂津国守護・和田惟政公によって築かれた花隈城は、1574(天正2)年には織田信長公の命を受けた荒木摂津守村重公の手によって大幅に改築されます。その結果この城は、東は神戸生田中学校東側の道路、西は花隈町と下山手通の境界線、南はJR線、北は兵庫県庁の南を走る筋までという、およそ東西350m、南北200メートルほどの広さを誇る、東西の陸海の交通に睨みを利かせる重要戦略拠点となりました。




石垣の北側にはお地蔵さまが祀られています。



 残念ながら、そんな要害の城・花隈城も、非情な戦国の運命に飲み込まれていきます。荒木村重公に「本願寺へ寝返り、石山に糧秣を運び込んでいる気配あり」という嫌疑がかけられてしまうのです。猜疑心の強い主君・織田信長公から一度かけられた疑念を晴らすことの困難さを良く知る荒木村重公は、「ここはやむなし」と織田方に叛旗を翻し本願寺方に就きます。1578(天正6)年11月、伊丹・有岡城でのことでした。

 家中に真宗門徒を多く抱え、板挟みになったうえでの謀反という説や、密約により毛利方からの支援を取り付けた野心の末の謀反と、説はさまざまですが、とにかく謀反を起こした荒木村重公への怒りは相当に激しく、織田信長公はすぐさま鎮圧軍を向かわせて荒木村重公の勢力圏に激しい攻撃を加えます。支えきれなくなって有岡城から脱出した荒木村重公は尼崎へと撤退、さらに1580(天正8)年3月には尼崎城を捨てて海路、毛利領内へと逃亡します。

 池田信輝公によって諏訪山生田大倉山の三方から激しく攻め立てられた花隈城は、1580(天正8)年7月にあえなく落城。城将・大河原具雅は自害し、荒木村重公の謀反に始まった一連の戦乱はここに結末を迎えます。落城後この地を与えられた池田信輝公は、ここの石材などを転用して兵庫の切戸町に兵庫城を築いて本拠としたため、花隈城は廃城となってしまいます。わずか13年間のことでした。




「花隈城址」碑文。池田輝政公の子孫・池田宣政公爵が1928(昭和3)年に建立。
震災で倒れましたがふたたび復元されています。



アクセス
・神戸高速鉄道「花隈駅」東口下車、東へ徒歩3分
・JR「元町駅」西口下車、西へ徒歩5分
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車、南へ徒歩3分
 花隈城地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸・湊川神社 茅の輪神事。

2006年07月02日 | ■神戸市中央区
国家安泰・開運招福・厄除け・家内安全・交通安全

湊川神社・茅の輪神事

(みなとがわじんじゃ ちのわしんじ)
神戸市中央区多聞通3-1-1



参道の中央、「神さまが通る道」の上に茅の輪が設けられています。


〔御祭神〕
楠木正成公
(くすのきまさしげ)



 神社にはいろいろなお祭りがあります。元旦の歳旦祭から月々の月次祭、春の御田植祭や秋の新嘗祭など様々なお祭りがあり、それぞれ無病息災や五穀豊穣などを神さまに祈願するという意味合いのものが多いようです。

 そんなお祭りのひとつ、6月に行われるのが夏越大祭です。神道では、特に「穢れ(けがれ)」というものを嫌います。神社にお参りするときに、まず手水舎で手や口を清めるのも、穢れを落としてから神さまの前に進む、といった発想から行われるものです。本来は川や海などに入り、そこで全身を清める「(みそぎ)」を行うのですが、なかなか参拝するたびにそこまでは出来ませんので、その代わりにお清めとして手水舎を置いてその代用としています。





※何度も水を汲むのはNG。最初に汲んだ水で一連の所作を完結させてください。
※柄杓から直に水を口に含むのは、柄杓に穢れを残すという意味でNGです。






手水舎。「ちょうずしゃ」 とも 「てみずしゃ」 とも言います。



 日常生活で知らず知らずのうちに溜まった穢れを祓い、それから先の半年の災厄を除き幸せを祈るために行われるのが、年に2回(6月と12月)行われる「大祓(おおはらえ)」で、7世紀ごろから宮中で行われるようになった行事です。民間では6月の大祓をとくに「夏越の祓(なごしのはらえ)」と呼んで盛大に行うようになったそうです。昔はこの時期に疫病が流行ることが多く、病の流行は為政者の徳の欠如や自らの信心の欠如といった部分に原因を求める傾向があったため、こういう神事を行うことで疫病の流行を防ごうとしたのでしょう。




境内も夏色の緑で一杯です。



 夏越大祓では「茅の輪(ちのわ)」をくぐる事で身を清め、疾病から身を守る「茅の輪神事」も一緒に行われることが多いようです。茅の輪の由来としては、素盞鳴尊が諸国を巡り「世に疫病あらば、茅の輪を以て腰上に着けしめよ、着けしめば、即ち家なるものまさに免れむ」と仰せられたという伝説によるもの、「蘇民将来」の故事によるものなど諸説あります。

 蘇民将来の故事とは中国の古い言い伝えです。山中で道に迷った1人の旅人がいました。さまよううちに1軒の豪邸を見つけた旅人は、ホッとして門を叩き、一夜の宿と食事を求めましたが、ここの主人はケチで有名な荷担将来という男で、話もそうそうに旅人を追い払ってしまいます。落胆した旅人がさらに山道をとぼとぼ歩いていたところ、ボロボロのあばら家を見つけます。ここの主人はとても貧しい蘇民将来という男でしたが、心根が優しく、自分が食べるつもりだった食事を分け与え、なんとか寝床を作って旅人を泊めてやりました。

 その優しさに感動した旅人は、茅の茎で作った輪をお礼に渡して帰ります。実はこの旅人は疫病神で、置いていった「茅の輪」はあらゆる疫病から守ってくれるものだったそうです。疫病神を丁重にもてなした蘇民将来は病気にかかることなく、貧しくも幸せな一生を送りますが、疫病神を邪険に追い払った富豪(蘇民将来の兄)はまもなく疫病にかかって死んでしまったということです。 その故事にちなみ、茅の輪をくぐることで疫病から身を守ろうというのが「茅の輪神事」のルーツだといわれています。






アクセス
・神戸高速鉄道「高速神戸駅」下車すぐ
・JR「神戸駅」下車、北へ徒歩5分
・神戸市営地下鉄「大倉山駅」下車、南へ徒歩3分

拝観料
・無料

拝観時間
・日の出から日没まで

公式サイト



神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る

神戸・熊野神社(山手)。

2006年06月10日 | ■神戸市中央区
家内安全・夫婦円満

山手熊野神社

(くまのじんじゃ)
神戸市中央区中山手通7-28-30






〔御祭神〕
伊弉諾命
(いざなぎのみこと)
伊弉冉命
(いざなみのみこと)



 神戸で熊野神社といえば、平清盛公が福原遷都の際に創建した神社の中でも厳島神社とともに厚く信仰したという「夢野の権現さま」、“夢野”熊野神社が有名ですが、こちらの“山手”熊野神社も古い歴史を持つ神社です。兵庫県庁の脇を東西に横切る山手幹線沿いに、歩道橋が目印の「下山手7丁目」の交差点があります。その交差点を北に進むと鳥居が見えてきます。ここが熊野神社です。





交差点の脇にある「山手熊野神社」の石碑が出迎えてくれます。



 このあたりは八部郡宇治郷と呼ばれた地域で、8世紀中頃の書物にも地名が記されているなど古くから人々が生活を営んでいました。そんな宇治に住んでいた「宇治物部族の創建」によって宇治野山と呼ばれていた丘に祀られたのが熊野神社です。ここにも物部の一族が住み着いていたのでしょうか。そういえば、神戸には物部氏の氏神の石上神社(いそがみじんじゃ)と同じ読みの「磯上」という地名があります。浜辺に近かったために付いた地名ですが、偶然とはいえ因縁を感じます。





鳥居は阪神・淡路大震災で倒壊、再建されました。


 
 熊野神社は、福原遷都が行われた1180(治承4)年あたりに大納言・藤原邦綱によって再建されたといわれています。このとき邦綱卿は「宇治新亭」とよばれる屋敷を構え、安徳天皇も一泊されたことがあるそうです。





拝殿の右手には「熊高稲荷神社」が建っています。



アクセス
・神戸市営地下鉄「大倉山駅」下車、北東へ徒歩8分
・神戸高速鉄道「花隈駅」下車、北西へ徒歩10分

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る