神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・蛸薬師堂。

2010年04月22日 | ◇京都府 -洛中


浄瑠璃山 林秀院 永福寺

(じょうるりざん りんしゅういん えいふくじ)
京都市中京区新京極蛸薬師東側町503

洛陽四十八願所地蔵尊霊場・第33番札所
京都十二薬師霊場・第12番札所


通 称
蛸薬師堂



若者が集まる繁華街・新京極通の中に立つ蛸薬師堂。心身の病を癒す御利益があるといいます。


〔宗派〕
浄土宗西山深草派

〔御本尊〕
薬師如来像



 蛸薬師堂の正式名称は「浄瑠璃山林秀院永福寺」。元々は二条室町の地に創建されたといわれています。平安時代末期、この二条室町の地に、比叡山延暦寺の薬師如来に深い信仰を寄せる長者が住んでいました。この長者は出家して林秀という法名を名乗り、毎月欠かさず延暦寺への参詣を続けていました。しかしながら、寄る年波には勝てず、次第に長い山道を登っての参籠が叶わぬようになりました。そこで、これが最後と覚悟を決めて比叡山に登った林秀は、薬師如来像の前で「老いた身に、これ以上の月参りは厳しくなり申した。願わくば、ぜひ私めにお薬師様の御姿を1体授与賜りたい」と祈願します。するとその夜、林秀の夢枕に薬師如来が現れ、「そなたの深い信心尊し。その昔、伝教大師最澄が私の姿を刻みし石像が比叡山に埋められているゆえ、これを持ち帰って拝するが良い」と告げて姿を消しました。夢から覚めた林秀は、さっそく薬師如来より示された場所に赴いて地面を掘り進めると、お告げの通り立派な石像が見つかりました。非常に喜んだ林秀は、一宇の御堂を建立して薬師如来像を安置し、大切にお祀りしたといわれています。1181(養和元)年に建立されたというこの寺院は永福寺と名付けられ、多くの参拝者が訪れて栄えたといわれています。





繁華街である新京極通に面した本堂には多くの参拝客が絶えません(左)。入口には、湧水で
身体や家を清めると病が癒えるといわれる弁天様の御神水があります(右)。



 この永福寺が「蛸薬師堂」と呼ばれるようになったのは、鎌倉時代中期の建長年間(1249~1256年)の頃からだといわれています。この頃、永福寺善光という一人の若い修行僧がおり、修行に打ち込む日々を過ごしていました。その善光のもとに、母が病気になったという知らせが届きます。善光は直ちに母を寺に呼び寄せ、献身的に看病を行いましたが、なかなか母の体調は良くなりません。そんなある日、床に臥せっていた母は、弱々しい声で「子どもの頃に好んで食べた蛸を摂れば、病が良くなるかもしれないが…」と我が子に告げます。母の体調を良くしてあげたい、でも僧侶には「不殺生」の戒律がある。まだまだ戒律が厳然として存在していたこの時期のこと、善光が母への思いと戒律の狭間で悩み苦しんだことは容易に想像できます。しかし、病に苦しむ母の姿を見ると、何とか願いを聞き届けてあげたいという気持ちが勝り、ついに心を決めた善光は箱を用意して市へと向かい、蛸を買い求めて寺へと持ち帰ります。しかしながら、僧侶が生魚を買ったということに不審を抱いた人々は永福寺の門前で善光を囲み、「戒律破りではないか」と箱の中身を見せるよう責め立てます。

 人々に問い詰められた善光は、「この蛸は病にかかった母のために求めたもの。どうかこの思いを解したまえ」と、一心に祈りながら、深く帰依する薬師如来が祀られている本堂に向けて箱を開けました。すると不思議な事に、蛸の8本の足は8巻の経巻に姿を変え、周囲に霊光を発ち出しました。人々はたいそう驚いて合掌し、「南無薬師如来」と唱和すると、再び経巻は蛸へと姿を戻し、永福寺の門前にあった御池に飛び込んで行きました。蛸は池の中で薬師如来へと姿を変え、発せられた瑠璃光に照らされた母の病はたちまちに癒えたという事です。それ以来、人々は永福寺の薬師如来を「蛸薬師」と呼んで厚く敬うようになりました。病を癒し、人々を苦しみから救う蛸薬師の霊験はやがて後花園天皇の耳にも達し、1441(嘉吉元)年には勅願寺として朝廷の庇護を受ける事となりました。





奥の阿弥陀堂に続く参道。その壁面には参拝者の言葉や「福の神」などが飾られています。



 蛸薬師堂永福寺と呼ばれる浄土宗西山深草派の寺院ですが、「妙心寺」という名で呼ばれる事もあります。これは、蛸薬師堂が辿った歴史に由来しています。二条室町の地に創建された蛸薬師堂は、豊臣秀吉公による京都の都市計画に従って「寺町」と呼ばれる新京極の地に移転されて来ました。移転した境内の南には「圓福寺」という名の、同じ浄土宗西山深草派の総本山である寺院がありましたが、幕末に起きた大火のために焼失の憂き目に遭い、再建される事なく寺域を没収されてしまいます。圓福寺は、三河にあった浄土宗西山深草派の中本山・妙心寺の地へ移転する事で総本山の存続を図ります。この移転の際に寺号の交換が行われ、伽藍を圓福寺に提供した妙心寺永福寺の境内に建てられた仮本堂に本尊を祀ってその法灯を守り続ける事となりました。現在蛸薬師堂の奥に立つ阿弥陀堂が、その妙心寺の本堂ですが、同じ境内に2つの寺院があるために、永福寺の本堂である蛸薬師堂が、あたかも妙心寺の事であると混同されてしまっているというのが真相のようです。





扁額に「法性山」と記された阿弥陀堂。法性山妙心寺の本堂とされる堂宇です。


阿弥陀堂の脇にある弁天池(左)と、「妙心寺」の梵鐘(右)。


アクセス
・阪急電鉄京都線「河原町駅」下車、北へ徒歩5分。
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拝観料
・境内無料

拝観時間
・9時~17時30分

公式サイト









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