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神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

島根・瑞光山清水寺(安来市)。

2011年08月18日 | ▽中国・四国地方


瑞光山 清水寺

(ずいこうざん きよみずでら)
島根県安来市清水町528

出雲國神仏霊場・第11番札所
中国観音霊場・第28番札所
出雲観音霊場・第27番札所

通 称
安来清水寺
(やすぎきよみずでら)



緑溢れる静かな山中にある瑞光山清水寺。堂々たる規模を誇る天台宗の古刹です。


〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
十一面観世音菩薩像
(じゅういちめんかんぜおんぼさつぞう)


 瑞光山清水寺が開かれたのは587(用明天皇2)年。蘇我馬子厩戸皇子(のちの聖徳太子)が、仏教を巡って激しく対立していた物部守屋を攻め滅ぼした「丁未の乱」が勃発した年でもあります。寺伝によると、当時この地は松や柏の木が鬱蒼と茂る薄暗い山林で、近隣の者も近付く事のない気味の悪い山だったそうです。しかも、日が落ちるとこの山から里に向かって怪しげな光が差し込み、人々を畏怖させていたといいます。そんな時にここに立ち寄ったのが、山城国出身で出雲路を遊行中だった尊隆上人でした。瑞光に畏敬の念を抱いた尊隆上人が光の源を探るべく山中へと分け入ると、どこからともなく1人の白髪の老人が現れ、尊隆上人に「これまで観音様をお守りしてきたが、そろそろ常世へと旅立たなくてはならなくなった。代わりに観音様をお祀りしてくれる方を探していた」と1体の観音像を託して立ち去りました。この仏像をありがたく賜った尊隆上人はさっそく山中に小さな草堂を結び、観音様を安置してお祀りしたといいます。これが清水寺の創始とされています。当時は全く水の湧かない場所でしたが、1週間密行を施したところ、不思議な事に草堂のすぐ傍から滾々と清水が湧き出し、四季を通じて変わる事なく常に清らかな水を湛えるようになった事から、山号を「瑞光が射した山」に因んで「瑞光山」、清らかな水に恵まれた寺という事から「清水寺」という名前が付けられたと伝えられています。





石段の先にある大門(左)。参道の脇には岩不動像が参拝者を見守ってくれています(右)。

参道を登った先にある浮見観音(左)と、精進料理を戴ける旅館「紅葉館」(右)



 597(推古天皇5)年には清水寺の存在は都へと伝わり、厄払いの霊験あらたかなる事を知った推古天皇によって堂塔の造営や斎田の下賜などのバックアップを受け、山陰における鎮護国家の道場としての地位を築く事となります。しかしながら年を経るにつれて次第に堂宇は朽ち、やがて往時の盛観を窺い知る事も出来ないほどに荒廃の一途を辿っていってしまいました。そんな清水寺が輝きを取り戻すのは、9世紀に入ってから。16歳の若さで清水寺の再興を志した盛縁上人の懸命な努力に対し、時の平城天皇が詔を奉じて七堂伽藍再建の支援を行い、806(大同元)年に名刹の中興が実現しました。この落慶法要は都から多くの公家たちも参列した非常に煌びやかなものだったそうで、あたかも「絵巻を見るが如き」盛大な式典だったと伝えられています。





境内中庭の奥に鎮座する稲荷社(左)と、金魚が泳ぐ池に囲まれた弁天堂(右)。



 創建当初の宗派は分かっていませんが、9世紀の半ば頃に大きな転機が訪れます。9年半もの長期間唐で求法の修行を重ね、苦難の末に無事帰国を果たした慈覚大師円仁が、都へ帰る途中の847(承和14)年11月に清水寺を訪れ、「秘密大潅頂光明真言」の秘法と精進料理を伝えます。これを機に清水寺比叡山延暦寺を本山に仰ぐ天台宗寺院となり、出雲の鰐淵寺や「投入堂」で有名な鳥取県東伯郡の三仏寺、西伯郡の大山寺と並ぶ山陰道随一の天台密教の霊場として人々の崇敬を集めていく事となります。幾度か火災に見舞われながらもその都度再興が行われ、1393(明徳4)年には今もその姿を残す根本堂の建立が行われるなど寺域も定まり、七堂伽藍はもとより48の僧坊を持つ中国地方随一の規模を誇る大寺院として発展を遂げていきました。





中庭から望む「光明閣」と高灯篭(左)。根本堂への石段脇には千年杉が枝を伸ばしています(右)。



 しかし、時代は移って風雲急を告げる戦国の世となると、清水寺もその荒波に次第に飲み込まれていきます。京極氏の出雲守護代職から次第に勢力を拡大し、盛時には山陰・山陽8ヶ国を支配するほどの勢力を誇った尼子氏と、安芸国を本拠に急速に勢力を拡大していった知将・毛利元就公との間で起こった中国地方の覇権争いの中で、清水寺も戦乱の舞台となってしまいます。尼子氏は、1566(永禄9)年に本拠地・月山富田城を攻略され、毛利氏の軍門に下って戦国大名としての力を失い滅亡しますが、織田信長公の支援を受けた遺臣・山中鹿之助公や立原久綱公たちは京都・東福寺の僧侶となっていた尼子一族の尼子勝久公を擁立、尼子氏の再興を賭けて各地で抵抗運動を続ける事となりました。

 但馬国から隠岐国へと入り、機を窺っていた尼子勝久公は1569(永禄12)年に出雲国に上陸。尼子再興の号令に呼応して集結した尼子氏の旧臣たち約3,000の軍勢を率いて松江の新山城を攻め落とします。勢いに乗って出雲国の旧領を制圧した尼子軍は、本拠地であった安来の月山富田城奪還を目指して進撃しますが、守将・天野隆重公の頑強な抵抗に遭って攻めあぐね、支援のために押し寄せた毛利輝元公率いる13,000の大軍を防ぎきれず、1570(永禄13)年2月に「布部山の戦い」に敗れて撤退を余儀なくされました。この一連の戦いの中で尼子軍清水寺の根本堂に立て籠もって抵抗し、毛利軍の焼き討ちに遭って境内は炎に包まれてしまいます。この時、大半の堂宇は灰燼に帰してしまいましたが、根本堂だけは僧侶たちの必死の消火活動のおかげで全焼は免れ、今日に至るまでその姿を留める事となりました。その後、中国地方の覇権を握った毛利氏や江戸期の代々の松江藩主の庇護を受け、境内の再建が行われて法灯は守り続けられていきました。






1393(明徳4)年に建立された根本堂(左)と、その奥に立つ鐘楼(右)。



 清水寺の広大な境内には、数多くの文化財が点在しています。国の重要文化財にも指定されている根本堂は1393(明徳4)年に建立されて以来、戦国の兵火を乗り越えて現在へと伝えられているもので、江戸時代に何度か修復工事が行われた後、傾斜が著しく腐食や破損も目立ってきたために近年全面解体修理が行われ、4年半の工期ののち1992(平成4)年に修復工事が完了して往時の盛観を取り戻しています。また、有名な三重塔は1859(安政6)年に建立されたもので、33mの高さを誇る山陰唯一の総欅造の木造多重塔です。建立の際には1万人講を組織して資金が集められ、33年もの歳月が費やされました。この間に工事に携わった大工は3世代、ご住職も2代に渡るという大プロジェクトでした。島根県の指定文化財となっているこの三重塔には拝観料を納めると登る事ができますので、訪れた際にはぜひ素晴らしい眺望を味わってみてください。その他にも山陰屈指と讃えられる美しい庭園「満月の庭」のある光明閣や、「鶴亀の庭」と呼ばれる庭園と1805(文化2)年に松江藩7代藩主・松平不昧公をもてなすために時のご住職・恵教和尚が建てたといわれる茶室「古門堂」が見所の蓮乗院、国の重要文化財に指定されている十一面観世音菩薩立像(伝平安時代作)などが所蔵されている宝物館、精進料理を戴く事のできる旅館「松琴館」や「紅葉館」など、山陰の古刹・清水寺の境内は魅力に満ち溢れた癒しの場となっており、厄払いはもちろんの事、山陰に根付いた仏教文化や美しい自然を堪能するために訪れた数多くの参拝客で連日賑わいを見せています。





緑に包まれた蓮乗院(左)と、1859年建立の三重塔(右)。山陰唯一の木造重層塔です。

三重塔は内部拝観が可能で、最上階からは緑あふれる森の向こうに中海を望むことが出来ます。


アクセス
・JR山陰本線「安来駅」下車、車で15分 (境内駐車場:100台)

瑞光山清水寺 地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

【境内図】

拝観料
・境内無料
 光明閣書院庭園(抹茶付) 大人:600円、学生:400円
 宝蔵(宝物館) 大人:300円、学生:150円
 三重塔登閣 大人:200円、学生:150円、小学生・幼稚園:100円

 ※上記3点セットだと900円(大人のみ適用)となります

拝観時間
・6時~18時(4月~10月)
・6時~17時(11月~3月)
 ※庭園や三重塔の拝観時間は9時~17時

公式サイト



高知・高知県立坂本龍馬記念館。

2010年10月28日 | ▽中国・四国地方


高知県立坂本龍馬記念館

(さかもとりょうまきねんかん)
高知県高知市浦戸城山830




桂浜に向けて突き出すように立つ坂本龍馬記念館。ガラス張りのモダンな建物です。


〔顕彰人物〕
坂本龍馬



 幕末の動乱期を駆け抜け、日本の夜明けのために東奔西走しながらも明治維新の大業を果たす寸前に凶刃に斃れた志士・坂本龍馬。その活躍は司馬遼太郎氏の著書「竜馬がゆく」や大河ドラマ「龍馬伝」などでも良く知られています。坂本龍馬は1836(天保6年)11月15日、土佐藩の郷士・坂本八平の次男として生まれ、江戸で剣術修行の傍ら佐久間象山の私塾に入塾してその思想を学び、武市半平太や、土佐脱藩後に知己を通じた勝海舟らとの交流を通じて日本を取り巻く状況に危機感を抱き、徳川幕府に代わる新たな枠組みで「日本」を世界に通ずる国家へと生まれ変わらせるために尽力しました。当時犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩の手を結ばせ、土佐藩の山内容堂公を動かし、長く日本を統治していた徳川幕府からその統治権を返上させる「大政奉還」へと道を切り拓いた坂本龍馬は、天皇による親政を宣言した「王政復古の大号令」を見ることなく1867(慶応3)年11月15日、京都・河原町の近江屋において同志・中岡慎太郎とともに何者かの襲撃を受けて暗殺され、短くも激しいその生涯を閉じました。





入口の脇には坂本龍馬像が来館者を見守っています(左)。内部は開放感のある造り(右)。


 
 坂本龍馬の遺した偉大な軌跡を現代に生きる人々に知ってもらおうという施設は、各地に建てられています。最も有名なのが高知県の桂浜に立つ巨大な「坂本龍馬像」。それ以外にも生誕地である高知市上町には2004(平成16)年に「高知市立龍馬の生まれたまち記念館」がオープン、亀山社中結成の地である長崎市風頭公園内にも「坂本龍馬之像」が建てられ、北海道函館市にも蝦夷地開拓の構想を抱いていた坂本龍馬の遺志を継いだ甥・坂本直寛が羅臼町に入植した事にちなみ、2009(平成21)年11月に開設された「北海道坂本龍馬記念館」などがあります。今回ご紹介するのは、前述した桂浜の「坂本龍馬像」にほど近い高台に面して建てられた「高知県立坂本龍馬記念館」です。





階段には坂本龍馬の写真が飾られ(左)、龍馬ゆかりの品々が展示されています(右)。


 
 1991(平成3)年11月に開館された「高知県立坂本龍馬記念館」は、坂本龍馬の生誕150年を記念し、その偉大な功績を後世に伝えていく事を目的として建てられた施設ですが、そのオープンまでの道程は決して平坦なものではありませんでした。1984(昭和59)年、「桂浜の坂本龍馬像以外に、坂本龍馬の精神を伝えるものを造りたい」という思いから、高知商工会議所の青年部メンバーを中心に「龍馬生誕150年記念事業実行委員会」が発足、約1,300名の若者たちの賛同を得て建設募金活動が開始されました。10億円を目標に全国的に活動を行いましたが当初は思うように事業は進まず、活動の中止まで覚悟するような状況にまで追い込まれました。しかしながら、高知県知事との直談判を行って支援を取り付けるなど諦める事なく活動を続けた結果、ようやく募金総額8億円と高知県からの助成2億円を受けて1991(平成3)年11月、「高知県立坂本龍馬記念館」はオープンの日を迎える事ができました。





坂本龍馬の生涯を綴ったパネル(左)。土佐帆船「夕顔」の模型も展示してあります(右)。



 ここには、坂本龍馬寺田屋事件で伏見奉行の捕り方百数十人に襲撃された際に使用したものと同じ型の「スミス&ウェッソン・モデル2」型拳銃が展示されていますが、この展示を巡っても紆余曲折がありました。松山市内の男性から拳銃の寄贈を受け、展示を開始したものの、すぐに高知県警から銃刀法違反の疑いがあるという事で物言いがつき、わずか1週間で一旦撤去するという事態となりました。博物館で拳銃を展示する場合には公務員が常勤して管理することが必要で、この点が問題となりましたが、当時の中井洽国家公安委員長が早急に展示できるよう警察庁に指示、運営を委託されている高知県文化財団の職員に県職員の身分を与えるという形で解決が図られ、再び展示が可能となりました。





坂本龍馬像(左)。坂本龍馬が暗殺された近江屋の座敷も実物大で再現されています(右)


司馬遼太郎氏の手紙(左)が展示されています。右は展望台から見た桂浜の景色。


アクセス
・JR土讃線「高知駅」より、高知県交通バス「桂浜」行きに乗車(所要時間約30分)、「龍馬記念館前」バス停下車、徒歩2分。
 高知県立坂本龍馬記念館地図   Copyright (C) 2000-2010 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:500円 高校生以下:無料

拝観時間
・9時~17時 (年中無休)

公式サイト


龍馬道 あきらめない力―昭和の龍馬が成し遂げた、土佐青年一三〇〇人の夢「坂本龍馬記念館」建設への道
橋本 邦健
主婦の友社

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高知・山内神社。

2010年10月13日 | ▽中国・四国地方
開運招福・心願成就・夫婦和合

山内神社

(やまうちじんじゃ)
高知県高知市鷹匠町2-4-65




御神木が鬱蒼と茂る山内神社。土佐藩の歴代藩主の御霊が祭られています。




〔御祭神〕
山内一豊公と妻・見性院をはじめとする土佐藩の歴代藩主




 大河ドラマ「龍馬伝」でも、独特の存在感を持ってストーリーの重要な位置を占める土佐藩主・山内豊信(容堂)公。土佐の山内家には、本家のほかに江戸初期に分かれた中村藩山内家、土佐新田藩の麻布山内家という分家のほか、幕末に設けられた第9代藩主・山内豊雍公の二男・山内豊敬公を始祖とする西邸山内家、第10代藩主・山内豊策公の三男・山内豊道公を始祖とする東邸山内家、四男・山内豊著公を始祖とする南邸山内家、六男・山内豊栄公を始祖とする追手山内家などの分家がありました。

 土佐藩の第15代藩主である山内容堂公は、このうちの南邸山内家の嫡男として生まれた傍流の出身でしたが、藩主が相次いで早世したために本家を相続。尊皇攘夷運動や薩摩藩・長州藩を中心とする雄藩と幕府との激しい対立で揺れる幕末の政界で絶えず重要な役回りを演じ、明治維新の実現に大きな役割を果たしました。そのような山内容堂公を含む山内家代々の藩主の御霊を祀っているのが、高知の中心街の南を流れる鏡川のほとりに鎮座している山内神社です。





苔に覆われた趣のある石燈籠(左)と、1835(天保6)年に寄進されたといわれる手水鉢(右)。



 1806(文化3)年、第10代土佐藩主・山内豊策公は、土佐藩の初代藩主・山内一豊公とその妻・見性院(千代)、第2代藩主・山内忠義公の御霊を祀るために、高知城の城内に藤並神社を創建します。藤並神社は1835(天保6)年には「大明神」に昇格され、翌年にはこれを祝うために土佐藩を挙げて大祭が執り行われました。この際、現在山内神社が鎮座している場所に御旅所も設けられました。明治維新後の1871(明治4)年には、土佐藩最後の藩主で初代高知県知藩事を務めた山内豊範公が御旅所の地に山内神社を創建、第3代藩主・山内忠豊公から第14代藩主・山内豊惇公までの歴代藩主の御霊が祀られる事となりました。

 1933(昭和7)年には、第15代藩主・山内容堂公と第16代藩主・山内豊範公が明治維新を実現するために尽力した功績を讃えるための神社が建てられる事となり、山内神社に祀られていた歴代藩主の御霊をいったん藤並神社に遷座した上で新社殿の造営が始められました。この社殿は1935(昭和9)年に完成し、「別格官幣社・山内神社」が新たに創建されました。





西参道沿いにある土佐山内家宝物館(左)と、その脇に立つ西神門(右)。



 山内家代々の遺徳を偲ぶ人々の厚い崇敬を集めていた山内神社藤並神社は、残念ながら1945(昭和20)年1月19日から7月24日までの約半年の間に計8回行われたアメリカ軍の空襲のために焼失してしまいます。戦後しばらくは本格的な社殿の再建は行われず、それぞれ仮宮での祭祀が続けられていましたが、1970(昭和45)年になってようやく現在地に社殿が再建され、同時に藤並神社の合祀も行われて、山内神社は土佐藩歴代の全ての藩主を祀る神社として無事に復興を果たします。1990(平成2)年に高知城に残っていた熊野社・春日社・住吉社が境内に遷座され、2002(平成14)年には山内容堂公を顕彰する銅像も建立されて現在の威容が整う事となりました。





山内一豊公の「よの山の太刀」が御神体として納められている社殿。1970年再建。


熊野・春日・住吉の3社が祀られている脇殿(左)と、「大政奉還を慶ぶ山内容堂公」の銅像(右)。



アクセス
・土佐電鉄「県庁前電停」より南へ徒歩5分。
山内神社地図  【境内図】 Copyright (C) 2000-2010 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  ※土佐山内家宝物資料館は入館料が必要(大人:300円、高校生以下無料)

拝観時間
・常時開放  ※土佐山内家宝物資料館=9時~17時

公式サイト


龍馬伝 (NHKシリーズ NHK大河ドラマ歴史ハンドブック)

日本放送出版協会

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鳥取・妖怪神社。

2010年09月30日 | ▽中国・四国地方


妖怪神社

(ようかいじんじゃ)
鳥取県境港市大正町62-1




JR境港駅から続く「水木しげるロード」の中に鎮座する妖怪神社。


〔御祭神〕
美穂津姫命
(みほつひめのみこと)



 今回は、少し風変わりな神社をご紹介します。漫画「ゲゲゲの鬼太郎」でその名を知られる漫画家・水木しげるさんの妻・武良布枝さんが著した小説をもとにNHKで放送された朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」。放送が進むにつれてその人気も急上昇し、「妖怪の父」というにふさわしい水木しげるさんが幼少期を過ごした鳥取県境港市の「水木しげるロード」には、200万人を越える観光客がつめかけるなど一大ブームが巻き起こりました。この「水木しげるロード」は、町おこしの一環として1993(平成5)年に整備された観光名所で、JR境港駅から本町アーケードまでの約800mほどの通りに妖怪のブロンズ像が設置されています。当初は23体しかなかった妖怪像も「ゲゲゲの女房」が放送された2010(平成22)年9月の時点で139体まで増やされています。そんな「水木しげるロード」の中に鎮座しているのが妖怪神社です。





鳥居左の碑文は水木しげるさん自筆のもの。右には「目玉おやじ清めの水」があります。



 「水木しげるロード」の中に鎮座する妖怪神社。神社といっても玉垣や見慣れた形の鳥居があるわけではなく、よく気を付けていないとうっかり通り過ぎてしまうほどの小さな神社です。民間の町づくり会社である株式会社アイズさんによって建立され、2000(平成12)年の元旦午前0時に落成入魂式が行われました。「水木しげるロード」に集まる妖怪たちの故郷として建てられた妖怪神社の境内は決して広くはありませんが、妖怪一反もめんをイメージして作られた鳥居や高さ3mと2.5mの黒御影石と樹齢300年のケヤキを組み合わせて作った御神体、そして手水鉢代わりに設置されている「目玉おやじ清めの水」などが、独特の雰囲気を醸し出しています。

 この御神体は水木しげるさん自らが入魂されたものですが、黒御影石を見た水木しげるさんが「この場所に目玉をつけると面白いなぁ」と指した部分の石が、不思議な事に設置の際に突然剥がれ落ちたそうです。この石は「目玉石」と名付けられ、御神体の左側に祀られる事となりました。





妖怪神社の御神体(左)。その右手には護摩木「妖怪念力棒」を納める一角があります。



 妖怪神社の公式ホームページには、「妖怪神社縁起」が記されています。それによると、妖怪神社の御神体は黄泉国の3霊山の一つである須弥山の麓の洞窟で生まれた岩だそうです。この岩は、突如8つに砕けて各地に飛び去り、それぞれが恐山、淡路島、石垣島、国後島、屋久島、青木ヶ原、谷川岳、夜見ヶ浜へと辿り着いたそうです。このうち夜見ヶ浜へ着いたものが妖怪神社の御神体として祀られるようになりましたが、岩の大部分は地中深くまで刺さったままで、現在地表にあって御神体として祀られている部分はそのほんの一部に過ぎないそうです。この御神体は、あくまで拝殿に過ぎず、本殿は御神体が生まれた須弥山麓の洞窟の中にあり、常世と現世を行き来することの出来る選ばれたものしか訪れることが出来ないとされています。

 御神体が夜見ヶ浜に辿り着いた時には一筋の光が龍の如く天空より射し込み、その光に導かれるように村人たちは御神体のもとへと集まってきたそうです。さらには「投入堂」で有名な三徳山の開山の折にこの地を訪れた役行者が霊験を感じて祈祷を行うと、不思議な事に御神体の一部が音もなく剥がれ落ちたという話も伝えられています。この石は「目玉石」と呼ばれ、一心に祈りながら撫でると眼病に効くとも言われています。

 妖怪神社が歴史の表舞台に登場するのは、約1,600年前の雄略天皇の時代の事で、社伝によると朝鮮半島に対する外交政策の転換を図った雄略天皇百済へ勅使を派遣する際、護国祈願のために妖怪神社に玉と鏡を奉納したとされています。この段で述べた「縁起」はあくまでフィクションですが、8世紀末に編纂された「続日本紀」に「妖怪」という記述があり、平安時代には清少納言紫式部も「もののけ」という言葉を残していることから、「物の怪」や「妖かし」などに対する人々の畏敬の念は大昔から存在していたと思われる事は確かで、昔の人々が妖怪を祀りその御霊を慰めることで怪異現象から身を守ろうと考えたとしても不思議ではありません。そう考えると、この「縁起」も妙に説得力があり、一瞬本当の事ではないかと信じてしまいそうになります。





御神体から剥がれ落ちた「目玉石」(左)。御神体の奥にはこんなスポットもあります(右)。



アクセス
・JR境線「境港駅」下車、東へ徒歩3分。
妖怪神社地図   Copyright (C) 2000-2010 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・9時~18時

公式サイト


ゲゲゲの女房
武良布枝
実業之日本社

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妖怪のまち境港 公式ガイドブック (ブルーガイド)

実業之日本社

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島根・八重垣神社。

2010年09月02日 | ▽中国・四国地方
縁結び・夫婦和合・授児安産・災難厄難

八重垣神社

(やえがきじんじゃ)
島根県松江市佐草町227

出雲國神仏霊場・第14番札所




光に溢れた明るい境内。「縁結び」の御神徳にふさわしい清々しい気に満ちた神社です。


〔御祭神〕
素盞嗚尊
(すさのおのみこと)
稲田姫命
(いなたひめのみこと)



 最近「パワースポット」という言葉を良く聞きます。風水や気学などの観点から特別なパワーが宿るといわれている場所の事で、書店にも様々なパワースポットを紹介する書籍が並べられています。今回は、そのようなパワースポットの一つといわれ、出雲神話とも縁の深い島根県の八重垣神社をご紹介します。松江市の中心街から市営バスに30分ほど揺られた山沿いに鎮座する八重垣神社は、八岐大蛇を退治した事で有名を馳せた素盞鳴尊とその妻・稲田姫命を御祭神とする古社で、「早く出雲の八重垣様に、縁の結びが願いたい」と出雲国の昔からの民謡にも詠われているように、縁結びの御神徳でも広く知られています。





楼門(左)をくぐると、青々とした葉を茂らせた御神木が優しい日陰を演出してくれています(右)。



 社伝によると、高天原を追われて葦原中国・出雲国の烏髪山へと降り立った素盞鳴尊は、そこで美しい娘を囲んで歎き悲しんでいる老夫婦と出会います。訳を尋ねてみると、足名椎命(あしなづちのみこと)手名椎命(てなづちのみこと)と名乗る老夫婦は、8人いた娘を毎年この地にやって来る八岐大蛇に1人ずつ食べられてしまい、最後に残された末娘の稲田姫命も、餌食になる運命だと悲しんでいたのです。娘の美しさに魅せられた素盞鳴尊は、娘を守る代わりに妻として貰い受けたいと願い、老夫婦もすがる思いでこの提案を受け入れました。

 八岐大蛇の来襲を待ち受ける素盞鳴尊は、佐草にある「佐久佐女の森」に伸びる大杉を囲むように八重垣を造って結界を作り、稲田姫命をそこに避難させました。そして、八岐大蛇が好物としている酒を満たした8つの桶を用意します。娘を襲いに来た八岐大蛇は計略通り酒に惹かれ、一気に飲み干して泥酔し、その場で眠り込んでしまいます。それを好機と素盞鳴尊は剣を持って襲い掛かり、八岐大蛇を八つ裂きに切り刻んで討ち果たすことに成功しました。その後、約束通り稲田姫命を妻とした素盞鳴尊は、この地に宮を築いて新居を定め、正式に夫婦としての結婚を行ったといわれています。この故事から八重垣神社は夫婦和合と縁結びの聖地として広くその名を知られるようになりました。しかしながら出雲神話では若干内容が異なり、素盞鳴尊八岐大蛇を退治する際には稲田姫命を櫛の姿に変えて自らの髪に刺して戦い、退治が成功した後に今の雲南市にある須賀の地に築いた宮で夫婦の契りを交わします。その後、八重垣神社が鎮座する地である佐草里八雲床に宮を構えて、遷座されたといわれています。





2003(平成15)年に屋根が葺き替えられた社殿。



 実際の創建時期は明らかではありませんが、素盞鳴尊の子である青幡佐久佐日古命を祀る佐久佐神社がこの地に鎮座していた事が出雲国風土記に記されています。出雲国風土記は733(天平5)年に完成したといわれている事から、それ以前よりこの地で祭祀が行われていたことがわかります。そして、神話に記されている通り「須賀の地から遷座」された本来の八重垣神社がこの境内に遷り、縁結びの御神徳に思いを寄せる人々の支持を受けていつしかメジャーな八重垣神社が本社、佐久佐神社が末社というように入れ替わってしまったのではないでしょうか。

 八重垣神社は朝廷の崇敬社として厚く庇護を受け、江戸時代にも松江藩主だった松平氏が厚く崇敬を寄せるなどして栄えました。1872(明治5)年には本社と末社を入れ替え、本来のこの地の御祭神であった佐久佐神社八重垣神社を合祀する形で郷社に列せられる事となりました。しかし、やはり人々の「八重垣」の名前に対する思いは強く、1878(明治11年)には八重垣神社に社号を戻す事となりました。1981(昭和56)年には神社本庁の別表神社へと社格を上げ、2003(平成15)年には遷宮が行われて本殿の屋根の葺き替えや境内の整備が進められました。





山神社(左)と、それに並んで立つ歌碑(右)。素盞鳴尊の御歌が刻まれています。



 ここに訪れる際には、ぜひ奥の院への参拝をお勧めします。ここには、八岐大蛇からの難を避けるためにこの地に避難していた稲田姫命が、鏡代わりに自分の姿を映したといわれる「鏡の池」と呼ばれる神池があります。「鏡の池」は良縁占いが行われる事でも有名で、社務所で販売されている占い用紙に10円玉や100円玉などを乗せて池に浮かべて吉凶を占います。水面に浮かんだ紙にはお告げの文字が浮かび、その紙が早く沈めば近々良縁に恵まれ、近くで沈めば身近な人と、遠くに流れていけば離れた場所の人と結ばれるといわれています。さらには、紙の上をイモリが横切って泳いでいくようなことがあれば、大変な吉縁に恵まれるともいわれています。





奥の院の涼やかな森(左)の奥に「良縁占い」で有名な「鏡の池」(右)があります。



アクセス
・JR山陰本線「松江駅」より松江市営バス15・66系統に乗車(約25分)、「八重垣神社」バス停下車すぐ。
八重垣神社地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2010 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  (宝物殿:大人・中高校生:200円、小学生:100円)

拝観時間
・9時~17時


出雲国神仏霊場巡り心の旅
藤岡 大拙
ハーベスト出版

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高知・坂本龍馬像。

2010年05月14日 | ▽中国・四国地方

坂本龍馬像

(さかもとりょうまぞう)
高知県高知市浦戸・桂浜公園内


坂本龍馬ファンの聖地



桂浜公園内の龍頭岬に立つ坂本龍馬像。台座を含めた全高は約13.4mあります。


〔モデル〕
坂本龍馬



 司馬遼太郎氏のベストセラー小説・「竜馬がゆく」や2010(平成22)年度のNHK大河ドラマ「龍馬伝」など様々なメディアで脚光を浴び続けている国民的英雄・坂本龍馬。動乱の幕末期を全力で翔け抜け、明治維新の実現に大きく貢献しながらも33歳の若さで凶刃に倒れたその壮絶な人生は、今も多くの人々の心を揺り動かし続けています。そんな坂本龍馬が生まれた土佐国の広大な太平洋に面した桂浜龍頭岬には、坂本龍馬の巨大な銅像が立っており、多くの龍馬ファンが訪れる「聖地」となっています。





桂浜より太平洋の波濤を見つめる坂本龍馬像のアップ(左)。後ろはこうなっています(右)。


 
 この銅像の建立については、土佐国が誇る幕末の志士・坂本龍馬に心酔する高知県の青年たちが中心となって計画が進められました。銅像を建てる場所としては、海援隊を率いて海外へと思いを馳せた坂本龍馬の生涯にふさわしいという事で、太平洋の波濤を一望できる桂浜の地が選ばれました。資金についてはこれら有志の青年たちが県下を募金行脚、さらには陸援隊の幹部として中岡慎太郎坂本龍馬たちと動乱の幕末を駆けた田中光顕もこれに賛同し、秩父宮雍仁親王からも寄付金が下賜されるなど、2万5,000円(現在の価値で約8,000万円)もの資金が集まりました。そして、中岡慎太郎板垣退助など明治維新の元勲たちの銅像を数多く手がけた、高知県宿毛市出身の高名な彫塑家・本山白雲の手によって作成が行われ、ついに1928(昭和3)年5月27日に除幕式を迎えました。この際、日本海軍の軍艦「浜風」も銅像の傍に投錨参列して祝意を表しています。





旧制高知高校の校歌碑(左)と、「土佐百首」を詠んだ歌人・吉井勇の歌碑(右)。


 
 建立された坂本龍馬像の高さは約5.3m、台座を含めた総高は約13.4m。銅像の前に立って見上げると、その大きさを実感する事ができます。毎年、坂本龍馬の誕生日であり命日でもある11月15日の前後の2ヶ月間には銅像の横に展望台が設置され、坂本龍馬と同じ目線で広大な太平洋を一望する事ができます。また、2010(平成22)年1月16日から2011(平成23)年1月10日まで高知県の各地で開催されている「土佐・龍馬であい博」の一環として、特別に2010(平成22)年4月3日から5月10日までの約1ヶ月間、この展望台が設置されています。

 多くの坂本龍馬ファンが訪れるこの銅像も、長年潮風にあたった事で損傷が進んだ事から改修工事が計画され、ふたたび高知県の有志の青年が1口100円の街頭募金運動を進めた結果、目標額を上回る573万4195円が集まり、往時の輝きを取り戻して1983(昭和58)年3月20日に竣工式が行われました。1988(昭和63)年5月28日には建立から60年が経ち、還暦を迎えた坂本龍馬の銅像に対して司馬遼太郎氏からメッセージも寄せられました。さらに1999(平成11)年3月28日にも再度リニューアル工事が行われ、5941万4590円の浄財を受けて修復・強化されました。




浦戸砲台の跡(左)と、旧制高知高校出身の詩人・余田弦彦が遺した「豪気節」の碑文(右)。



アクセス
・JR土讃線「高知駅」バスターミナルより高知県交通バス桂浜行で約30分、「桂浜バス停」下車。
坂本龍馬像地図  【周辺図】  Copyright (C) 2000-2010 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料  ※展望台に登るには拝観料が必要(100円)

拝観時間
・常時開放  ※展望台は平日:9時~17時、休日:8時~17時営業

公式サイト


龍馬巡礼 京都・高知・長崎--ゆかりの地を歩く
1週間編集部
講談社

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高知・土佐神社。

2010年05月10日 | ▽中国・四国地方
家内安全・農産繁栄・航海安全・交通安全・病気平癒

土佐神社

(とさじんじゃ)
高知県高知市しなね2-16-1

しなね様



「神光門」とも呼ばれる楼門。山内忠義公の寄進によるもので、国の重要文化財に指定されています。


〔御祭神〕
味鉏高彦根尊
(あじすきたかひこねのみこと)
一言主命
(ひとことぬしのみこと)



 JR高知駅から土讃線に乗って東へ2駅目の「土佐一宮駅」で下車すると、北方に緑鮮やかな山並みが見えます。穏やかで素朴な景色を愉しみながら15分ほど歩いていくと、県道に面して立つ立派な楼門のもとに辿り着きます。ここから長く伸びる白砂の参道の先に鎮座しているのが、土佐国一宮として崇敬を集める古社・土佐神社です。の創建時期については明らかではありませんが、第21代の雄略天皇の治世の5世紀後半頃に、現在も境内の北東に鎮座している「礫石」と呼ばれる自然石を磐座として祭祀が始められたと考えられています。「日本書紀」にも675(天武天皇4)年の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」、686(朱鳥元)年の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」という記述が残されています。





楼門から長く伸びる白砂の参道(左)の奥に立つ木造の鳥居が参拝客を出迎えてくれます(右)。



 御祭神である「土左大神」は都佐国造が奉斎したものといわれており、「土佐国風土記」の記述から一言主尊味鋤高彦根尊が御祭神である「土左大神」にあたるとされています。この2柱神は、賀茂氏によって大和国の葛城で祀られていた神々で、賀茂一族が土佐国造に任ぜられて土佐国に赴いた時に祀られたのではないかと考えられています。平安時代には、延喜式内社として「都佐坐神社」と称され、940(天慶3)年には海賊平定の祈願成就で霊験を発揮したということで、最高位である正一位の神階を授けられるなど皇室の厚い崇敬を受けました。鎌倉時代に入ると神仏習合思想の影響を受け、「土佐高賀茂大明神」や「土佐高賀茂大社」などと称されて土佐国総鎮守一宮として繁栄しました。





1570(元亀元)年に長宗我部元親公によって再建された社殿。国の重要文化財に指定されています。



 室町時代、戦国の動乱期に入ると武門の崇敬を集め、1563(永禄6)年の兵火によって社殿が焼失の憂き目に遭った際には、宿敵である本山氏長浜の戦いで破り、安芸氏八流の戦いで滅ぼして土佐国の統一に王手をかけていた31歳の若き戦国武将・長宗我部元親公が支援の手を差し伸べ、四国平定を祈念して1570(元亀元)年に本殿・幣殿・拝殿の再興を行いました。現在の社殿はこの時のもので、国の重要文化財に指定されています。1601(慶長6)年、関が原の戦いでの功績によって土佐国を与えられた山内一豊公は、土佐に入るにあたって以前の社領を安堵し、山内家2代当主・山内忠義公によって1649(慶安2)年に摂社・末社をはじめ鳥居・楼門・鼓楼が建立され、土佐国最上の名社としての威容を整えるに至りました。明治時代には、神仏分離令によって社名も「土佐神社」と改称され、国弊中社に列せられることとなります。戦後、官国幣社制度が廃止されたことに伴い、神社本庁の別表神社として祀られることとなって現在に至ります。2010(平成22)年度のNHK大河ドラマ「龍馬伝」では、坂本龍馬役の福山雅治さん、岩崎弥太郎役の香川照之さん、平井加尾役の広末涼子さんがドラマのロケで訪れたことでも有名になりました。





1649年に山内忠義公によって建立された鼓楼(左写真の右)と、その奥にある厳島社(右)。



 土佐神社で毎年8月24日・25日の2日間に渡って行われる「志奈禰祭(しなねさい)」は、吾川郡仁淀川町にある秋葉神社の「秋葉祭り」、高岡郡中土佐町の久礼八幡宮で行われる「久礼八幡宮大祭」と並んで「土佐三大祭」のひとつとして広く知られ、5万人以上の参拝客で賑わいを見せます。「志奈禰祭」の「志奈禰(しなね)」は、新嘗祭の「にいなめ」が転じたものだという説や、新稲(しいね)が転じたという説、風の神様である「志那都比古神」に由来するという説など様々な説があります。

 1日目は、1年の無病息災を祈願する宵宮祭です。社殿前で神楽などの奉納神事を行った後、松明に魔除けの象徴とされる篝火が焚かれます。この篝火は祭礼が終わるまで赤々とした炎を絶やすことなく燃やし続けられ、この炎から分け与えられた「御松明」を持ち帰って神棚に供えると、一層の御加護があるといわれています。2日目は商売繁盛などを願う神幸祭で、厳かな雰囲気の中で神事が行われた後、御旅所へ向けて神輿行列が練り歩きます。この神輿の下をくぐると御利益があるといわれ、御旅所への沿道は神輿の通過を待つ参拝客が列を成して大変な賑わいを見せます。地元のタクシー運転手の方に伺った話では、なぜか「志奈禰祭」のある時期は雨になることが多いそうで、昔から「しなね様が終わると夏が終わる」といわれるなど、季節の変わり目の風物詩として古くから人々に親しまれている祭りです。





土佐神社の祭祀の原点とも言える「礫石」(左)と、その南にある輪抜祓所。


社殿の裏手を流れる清流(左)と、社殿左に立つ事代主神社・西御前社・大国主神社(右)。


アクセス
・JR土讃線「土佐一宮駅」下車、北へ徒歩15分。
土佐神社地図  【境内図】 Copyright (C) 2000-2010 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト



広島・厳島神社。

2007年08月24日 | ▽中国・四国地方
家内安全・合格祈願・商売繁盛・航海安全

厳島神社

(いつくしまじんじゃ)
広島県廿日市市宮島町1-1





海中に建つ有名な大鳥居。水面に鮮やかな朱が映えます。


〔御祭神〕
市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと)
田心姫命
(たごりひめのみこと)
湍津姫命
(たぎつひめのみこと)


 全国に500社ほどある厳島神社の総本社として1,400年以上の歴史を誇り、延喜式神名帳にも「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」とその名を刻む古社です。鎮座する宮島には、弘法大師が修行したといわれる幽玄たる霊山・弥山(みせん)をはじめ美しい自然が今もなお豊かに護られており、日本三景のひとつとして訪れる人々は引きも切りません。1996(平成8)年には厳島神社を中心としたエリアがユネスコの世界文化遺産に登録されています。





受付のすぐ奥にある門神社。五重塔が見えます。



 古来より、神を斎き祀る島を意味する「イツキシマ」という名前が表す通り、厳島は神の宿る島として人々の厚い崇敬を集めていました。その厳島に神社が建てられたのは、推古天皇が即位した593年のことといわれており、当時この一帯を治めていた佐伯鞍職公が、市杵島姫命の神託を受けて社殿を創建したのが最初といわれています。

 ある時、家臣を連れて釣りに興じる佐伯鞍職公のもとに西から一艘の立派な船が近付いてきました。その船の主と思しき女性より「厳島に鎮座する神である」ということ、そして「島に社殿を建てて祀って欲しい」との言葉を賜った佐伯鞍職公は、朝廷にこの事を奏上して勅許を得、改めて神意を伺って鎮座地を定めて社殿を建てたということです。このとき「高天原から連れてきた神鴉が導く地に社殿を築くように」との神意を受けた佐伯鞍職公は、船の主である市杵島姫命に従って厳島の浦々を巡っていたところ、弥山から1羽の鴉が飛来して一行を御笠の浜に導いたため、ここに社殿を築いたといわれています。こうして鎮座した祠は、心身を清め神に仕えるという意味の「伊都伎」をとって伊都伎島神社と名付けられました。





朱塗りの社殿には青空が一番似合います。

 

 厳島神社が現在の形を整えたのは、平清盛公が安芸守に任じられ、平家が一門の守護神として、そして瀬戸内支配の拠点として厚い崇敬を寄せるようになってからのことです。1168(仁安3)年、平清盛公の庇護を受けた佐伯鞍職公の子孫・佐伯景弘公は、厳島に37棟からなる内宮を、そして対岸の地御前に19棟からなる外宮を造営。現在見られるような立派な海上神殿が姿を現しました。1174(承安4)年には都から遠路はるばる後白河上皇建礼門院の行幸があり、1180(治承4)年には高倉上皇が2度も行幸されました。

 鎌倉時代に入った1207(承元元)年と1223(貞応2)年には火災に遭って被害を受けますが、そのつどすぐに再建されました。参拝口を入ってすぐ左手にある客神社はこの頃に再建されたものです。室町時代には足利尊氏公や足利義満公なども参詣されましたが、政情が不安定になったこともあって社勢は一時期衰退します。





1571(元亀2)年に毛利元就公によって改築された本殿。



 厳島神社が隆盛を取り戻すのは、戦国時代にこの島を舞台に繰り広げられた厳島の合戦以降のことです。1551(天文20)年に周防国・長門国の守護大名だった大内義弘公を下克上で倒した陶隆房(のち改名して陶晴賢)と国境を接する安芸国で勢力を伸ばしていた毛利元就公。両者は互いの版図の拡大を狙って何度も小競り合いを繰り広げていましたが、ついに1555(弘治元)年に大規模な戦闘が起こります。これが厳島の合戦です。

 兵力では毛利軍の4,000に対し陶軍は20,000以上と圧倒的な差がありましたが、毛利軍は周到な計略によって宮島の狭隘の地に陶軍をおびき出して大軍の動きを封じることに成功。夜の嵐に乗じて厳島への上陸に成功した毛利軍は、陶軍に察知されないまま敵陣に肉薄し、夜明けをもって一斉に突撃を開始しました。まさかの奇襲に陶軍は成す術なく惨敗。陶晴賢公も島内を敗走、毛利軍の海上封鎖が完璧だったために島を脱出すること叶わず、大江浦まで逃げ延びたところで自刃して果てます。

 



幅4m・長さ約275m(108間)の廻廊。床板の間に隙間があり、
潮の圧力を吸収するしなやかな構造になっています。


 この大勝利をきっかけに勢力を伸ばして中国地方に一大勢力を築いた毛利元就公ですが、聖なる島である厳島を血で穢したことへの贖罪の念から、1571(元亀2)年に厳島神社の大規模な再建を行いました。現在の本殿はこの造営されたものだといわれています。もちろん、ただ敬虔な贖罪の意味だけで修復造営を行ったのではなく、いかに戦国の世を勝ち抜く謀略とはいえ「神宿る島」で戦を行ったということに反発する世論を恐れたのではないかと考えられます。こうして再興された厳島神社は、豊臣秀吉公による千畳閣の建立や江戸時代の広島藩主・浅野氏代々の厚い崇敬もあって栄え、明治時代に入ってからは1871(明治4)年に国幣中社に列せられ、1911(明治44)年には官幣中社に昇格しました。




1557(弘治3)年に毛利元就・隆元親子によって再建された反橋。
朝廷からの勅使が渡ったことから勅使橋とも呼ばれています。


アクセス
・JR山陽本線「宮島口駅」下車、宮島口桟橋よりフェリー(JR、松大汽船)にて海路10分
・広島電鉄「広電宮島口駅」下車、宮島口桟橋よりフェリー(JR、松大汽船)にて海路10分
(宮島口~宮島フェリー片道料金:JR・松大汽船ともに大人170円、子ども80円)
厳島神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人300円、高校生200円、小・中学生100円

拝観時間
・6時30分~18時(冬期17時まで)

世界文化遺産の島 宮島を楽しむ
中国新聞社,中國新聞社=,中国新聞=,中國新聞=
中国新聞社

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広島・尾長天満宮。

2007年08月13日 | ▽中国・四国地方
学業成就・書道上達

尾長天満宮

(おながてんまんぐう)
広島市東区山根町33-16




坂を登った先に鎮座する尾長天満宮。鳥居の先の随神門の奥に社殿が立っています。


〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざねこう)



 JR広島駅の北、歩いて15分ほどの場所にある二葉山。今から400年ほど前の戦国時代末期に中国地方の覇王・毛利元就公の孫である毛利輝元公が太田川の河口エリアに広島城を築城して以来、城の鬼門に当たる二葉山周辺には様々な神社仏閣が建てられました。これらの史跡は1983(昭和58)年に広島市によって「二葉の里歴史散歩道」として整備されています。今回ご紹介するのはその史跡のうちの一つ、尾長天満宮です。





社殿は近隣にある饒津神社の招魂社を1937(昭和12)年に移設したもの。
原爆によって倒壊しましたが、1947(昭和22)年に再建されました。


 大宰府へ左遷される失意の旅の途中にこの地に立ち寄った菅原道真公は、当時山裾近くまで入り込んでいた海岸に船を寄せ、尾長山に足を踏み入れて泉から湧き出る清水でのどを潤し、しばしの休息をとったといわれています。また、平安時代末期には安芸守に任じられた平清盛公が1154(久寿元)年に尾長の地を訪れた際、暴風雨に巻き込まれて進退窮まりますが、加護を祈った菅原道真公の神威からか、無事に危機を脱することができました。平清盛公は、ここを「菅大臣の峰」と名付け、社殿を建てて神徳に報いたといわれています。





社殿の東に鎮座する水神社(左)と、菅原道真公が休息したといわれる「腰掛石」(右)。

 

 時代は下って江戸時代。福島正則公が広島城を無断で改修したという理由で改易され、安芸藩には紀州藩主だった浅野長晟公が藩主として任ぜられていました。その浅野長晟公が京都より招いた連歌師の松尾忠正は、菅原道真公を厚く崇敬していた人物で、この地に菅原道真公ゆかりの尾長天満宮があるのを知って大変喜び、老朽化した社殿の建て替えに力を注ぎました。そして1640(寛永17)年、尾長天満宮は現在の場所に遷座されて立派な社殿が再建され、威容が整えられました。1640(寛永17)年に建てられた社殿は、1925(大正14)年に水害に遭って流されてしまいますが、1937(昭和12)年に西方に鎮座する饒津神社にあった招魂社の建物を譲り受けて社殿とし、無事に復興を果たします。その社殿も、1945(昭和20)年8月6日にアメリカ軍の爆撃機「エノラ・ゲイ」によって投下された原子爆弾によって大きな被害を受けますが、復興に燃える氏子の皆さんの尽力によって1947(昭和22)年に再建されました。





境内から見える美しい広島の空。狛犬などの石造物は原爆にも耐えました。


アクセス
・JR「広島駅」下車、北へ徒歩15分
尾長天満宮地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

広島・原爆ドーム。

2007年08月09日 | ▽中国・四国地方
広島市平和記念公園内

原爆ドーム

(げんばくどーむ)
広島市中区大手町1-10





近くに立つと、その壮絶な姿に圧倒されて息苦しさを感じます。



 原爆ドームは、当時の広島県知事・寺田祐之氏の肝煎りで計画が進められ、チェコ人建築家のヤン・レツル氏の設計によって1915(大正4)年4月に竣工、その年の8月に「広島県物産陳列館」として開館された地上5階・地下1階建の建築物です。

 日清戦争をきっかけに広島の産業は成長を遂げ、そこで生み出された地場産業製品をアピールするために建設された原爆ドームは、1921(大正10)年に「広島県商品陳列所」、1933(昭和8)年に「広島県産業奨励館」と改称され、地元製品の展示・販売をはじめ展覧会や博覧会などの文化イベントに利用されました。しかし、戦争が厳しくなるにつれて徐々にその役割は縮小されていき、1944(昭和19)年には内務省の出先機関など、戦時下の統制機関として利用されるようになっていきました。




内部の瓦礫も当時のまま残されています。



 1945(昭和20)年8月6日早朝。広島県産業奨励館には約30人ほどの職員がいたと見られていますが、8時15分に広島上空580mで炸裂した原子爆弾によって崩壊した建物とともに即死しました。このときの地表の温度は4000℃、爆風の風速は440m、圧力は1㎡あたり35tという凄まじいものでした。そんな状況にも拘らず原爆ドームがその形を留める事が出来たのは、真上から垂直に衝撃を受けたこと、そして建物自体に窓が多く、爆風がそこを抜けて衝撃を軽減したからだといわれています。

 1966(昭和41)年に広島市議会によって永久保存が決議された原爆ドームは、その翌年に市民からの募金によって保存工事が行われ、1989(平成元)年にも補修が行われました。1995(平成7)年には国の史跡に指定され、その翌年の12月にはユネスコ世界文化遺産にも登録されるなど、原爆の恐ろしさを語り継ぐ象徴として、そして平和の大切さを世界に語り継ぐシンボルとして、これからも人々を見守り続けます。




元安川にかかる相生橋。ここを目印に原爆が投下されました。



アクセス
・広島電鉄「原爆ドーム前」下車、南へすぐ
 原爆ドーム地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.


厳島神社・原爆ドーム (地図で旅する日本の世界遺産)
クリエーター情報なし
東京地図出版

広島・平和記念式典。

2007年08月06日 | ▽中国・四国地方
広島市平和記念公園

広島平和記念式典

広島市中区中島地区



早朝の雨も、式典が始まる頃にはピタリと止みました。




 今から62年前、1945(昭和20)年8月6日午前8時15分。米軍機エノラ=ゲイから投下され、上空580メートルで炸裂した1発の原子爆弾が、広島の人々の日常も、古から積み重ねてきた歴史も、全てを焼き尽くして破壊していきました。当時35万人ほどの方々が広島で暮らしていたといわれていますが、原爆は一瞬にして10万以上の命を奪い、そして今もその後遺症は人々を苦しめ続けています。わが国は、核兵器の恐ろしさを知る唯一の国だからこそ、無辜の市民を瞬時に大量殺戮する核兵器への警鐘を鳴らし続けていくべきではないでしょうか。




会場は参列する方々であふれました。



 原爆投下から62年目を迎えた平和記念式典には、国内外から約4万人もの人々が参列し、原爆死没者の冥福と核兵器の廃絶、そして世界平和への祈りを捧げました。正式には「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」と呼ばれる平和記念式典は、1947(昭和22)年に「広島平和祭」として開催されて以来ほぼ毎年開催され(1950年の朝鮮戦争時、盛り上がる反核運動に対してGHQが式典の中止を命令)、1954(昭和29)年の平和記念公園の完成以降は毎年現在のような形式で開催されています。 




秋葉忠利・広島市長の平和宣言。




2007年 平和宣言

 運命の夏、8時15分。朝凪を破るB-29の爆音。青空に開く「落下傘」。そして閃光、轟音‐静寂‐阿鼻叫喚。

 落下傘を見た少女たちの眼は焼かれ顔は爛れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰れた家の下敷になり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人‐辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨むほどの「地獄」でした。

 14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病、甲状腺癌等、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。

 しかし、その中から生れたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、忘れてしまいたい体験を語り続け、3度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来永劫忘れてはなりません。

 こうした被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのままに膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、未だに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。

 しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。かつての植民地は独立し、民主的な政治が世界に定着しました。さらに人類は、歴史からの教訓を汲んで、非戦闘員への攻撃や非人道的兵器の使用を禁ずる国際ルールを築き、国連を国際紛争解決の手段として育ててきました。そして今や、市民と共に歩み、悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、人類の叡智を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしています。

 世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までの核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。我がヒロシマは、全米101都市での原爆展開催や世界の大学での「広島・長崎講座」普及など、被爆体験を世界と共有するための努力を続けています。アメリカの市長たちは「都市を攻撃目標にするな」プロジェクトの先頭に立ち、チェコの市長たちはミサイル防衛に反対しています。ゲルニカ市長は国際政治への倫理の再登場を呼び掛け、イーペル市長は平和市長会議の国際事務局を提供し、ベルギーの市長たちが資金を集める等、世界中の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には、地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは、人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。

 唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。また、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、平均年齢が74歳を超えた被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

 被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた伊藤前長崎市長の御霊に心から哀悼の誠を捧げ、核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することをここに誓います。

2007年(平成19年)8月6日
広島市長 秋葉 忠利






原爆死没者慰霊碑からは原爆ドームが見えます。



2007年8月6日、8時15分の広島の空。


この空が、核の光に包まれることのない平和な空であり続けますように。



アクセス
・広島電鉄「原爆ドーム前」下車、南へすぐ
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厳島神社・原爆ドーム (地図で旅する日本の世界遺産)
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