神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

大阪・少彦名神社。

2013年10月09日 | ◆大阪府
医薬の神・健康増進の神


少彦名神社

(すくなびこなじんじゃ)
大阪市中央区道修町2-1-8


通 称
神農さん
(しんのうさん)




ビルの狭間に鎮座する少彦名神社。隣の社務所ビルには「くすりの道修町資料館」があります。


〔御祭神〕
少彦名命
(すくなびこなのみこと)
神農
(しんのう)



 少彦名命(すくなびこなのみこと)は「古事記」や「日本書紀」に登場する神様で、我が国の黎明期における国造りに大きな役割を果たした神として描かれています。出雲国の美保岬に佇んでいた大国主命のもとに、海の彼方から「天の羅摩船(あめのかがみのふね)」に乗って現れた少彦名命は、その後大国主命とともに名コンビとして国土の開発に尽力。小人神として知られる少彦名命は、その小柄な体に備えた溢れんばかりの豊富な知識と技術を活かして大国主命の国造りをサポートしていきます。特に力を発揮したのは病気療養の分野で、医薬に関する豊富な知識で病気に苦しむものを精力的に救っていきます。また、「酒は百薬の長」「温泉療養」などの言葉に見られるように、疾病平癒に関する多岐に渡る分野において存分に能力を発揮したことから「医薬の神」「酒造の神」「温泉の神」として知られ、鳥害や虫害から作物を守る禁厭(=まじない)を用いたことから「禁厭の神」「農耕の神」としても人々の崇敬を集めています。本日ご紹介する少彦名神社は、その名のとおり少彦名命を主祭神として祀る神社で、「くすりの神」として多くの医薬品業界関係者に厚く信仰されている神社です。





ビルの間を伸びる参堂(左)と、入り口に建てられた「春琴抄の碑」(右)。

明治43年奉納の石灯籠(左)。「薬の神」らしく、氏子である製薬会社の製品が陳列されています(右)。



 大阪市中央区にある道修町(どしょうまち)。大阪市役所のやや南、大阪城の西側に広がるこの町には、カイゲン小林製薬塩野義製薬大日本住友製薬武田薬品工業田辺三菱製薬和光純薬工業などといった数多くの有名製薬会社が本社を構えています。これほどまでに医薬品会社が集中している理由を知るためには、安土桃山時代・江戸時代にまで遡らなければなりません。道修町を含めた船場地域は、豊臣秀吉公が大阪城三の丸を築城する際に築城予定地に住んでいた人々を移住させるため、城下町として新たに開いたエリアです。ここには徐々に薬種業者が集まるようになり、薬種取引の場として栄えていきました。寛永年間(1624~1644)に堺の商人・小西吉右衛門が薬種屋を開いてからは益々その傾向は顕著となり、1722(享保7年)に8代将軍徳川吉宗公が道修町の薬種中買仲間124軒を「株仲間」として公認し、薬に価格を付ける権利と、それを全国に売り捌く特権を認めたことから、道修町は「くすりの町」としての地位を確立します。当時は、薬の原料として中国から輸入されていた唐薬種や日本国内で採れる和薬種の品質を見分けることが非常に難しかったため、専門知識を持つ薬種業者に適正な検査をさせて医薬品の品質の安定を図ることが必要だったためにこのような措置を行ったといわれています。つまり、「命を守るために必要な規制」だった訳です。しかしながら、人命にかかわる薬の製造には多くの困難と責任が生じます。そこで薬種業者たちは日々の研鑽に加え、神の徳によって職責を誤ることなく果たそうと考え、1780(安永9)年に京都の五條天神宮より少彦名命を勧請し、すでに祀られていた中国の薬種神である神農炎帝王とともにお祀りしました。これが少彦名神社の祭祀の始まりです。





鳥居(左)。その後ろに高くそびえる御神楠。ご神木です(右)。



 薬種業者の崇敬を集めていた少彦名神社ですが、その歴史は決して平坦なものではありませんでした。1837(天保8年)には「大塩平八郎の乱」の兵火に巻き込まれて全焼の憂き目に遭いました。しかしながら数年のうちに新たに祠が再建され、無事に祭祀が再開されました。明治維新後しばらく経った1906(明治39)年には、財政上の理由から内務省神社局主導で全国的に進められた神社合祀政策のため、少彦名神社に対しても大阪府より「近隣の神社に御祭神を合祀させるか、独立社として維持していくのか」の決断を迫る通達が為されました。存続の危機を前に氏子の皆さんは一致結束、独立した神社として祭祀を続けていくことを決め、境内を拡充して社殿や社務所を新築。1910(明治43)年に無事正遷宮を執り行い、「くすりの神」が守られることとなりました。1980(昭和55)年には鎮座200周年を記念して拝殿と本殿の修復と社務所の新築工事が行われ、11月22日に「少彦名神社鎮座二百年祭」を斎行。この時、10年に一度式年大祭を行うことが決定されています。2007(平成19年)には少彦名神社を崇敬護持することを目的とした団体「薬祖講」が行っている行事である「神農祭」「冬至祭」が民俗行事として大阪市無形民俗文化財に指定されています。





1910年に建てられ、1980年に修復工事が行われた社殿。



 「神農祭」は毎年11月22~23日の2日間に渡って執り行われている祭礼で、張り子の虎を笹に吊るした疾病除けの「神虎」が授与されることで知られています。これは、1822(文政5)年に大阪でコレラが流行した際に「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬を作り、少彦名神社の神前で祈祷を行って病に苦しむ人々に施し、その時に丸薬と一緒に張子の虎を授与したことに由来するといわれています。「神虎」は神農祭の直前に丹波の笹を仕入れて作るために祭礼より前に求めることは出来ませんが、神農祭の日より1月末頃までお求め頂くことが出来ます。12月23日に「神農祭」の御礼祭りとして行われる冬至祭「満願成就祭」も、約400社の医薬業関係企業によって構成されている「薬祖講」の手によって執り行われ、歴史を紡ぎ続けています。また、毎月23日には「献湯祭」と呼ばれる湯神楽奉納式が、8時30分と12時30分の2回に渡って執り行われています。





参堂脇には絵馬がぎっしりと奉納されています(左)。社殿脇の手水舎(右)。


アクセス
・大阪市営地下鉄堺筋線「北浜駅」下車、南へ徒歩3分
・大阪市営地下鉄御堂筋線「淀屋橋駅」下車、南東へ徒歩8分

少彦名神社地図 Copyright:(C) 2013 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

【境内図】

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放 (※授与所・社務所の受付は平日午前9時~午後5時まで。

公式サイト




大阪・方違神社(堺市)。

2013年09月29日 | ◆大阪府
方災除け


方違神社

(ほうちがいじんじゃ)
大阪府堺市堺区北三国ケ丘町2-2-1


通 称
方違いさん




府道12号線沿い、「田出井町西」と「田出井町」交差点の中間地に鎮座する方違神社。


〔御祭神〕
方違幸大神
(かたたがえさちおおかみ)
素盞嗚尊
(すさのおのみこと)
住吉大神
(すみよしのおおかみ)
神功皇后
(じんぐうこうごう)



 大阪府堺市は、約2万年前の旧石器時代より人が定住していた跡が見つかるなど長い歴史を誇る町で、大和王朝成立後には100を超える古墳が築かれた重要な土地でもありました。また、難波京から上町大地へと南北に伸びる「難波大道」、飛鳥京から東西に伸びる「丹比道(のちの竹内街道)」や、それと平行して難波と飛鳥を結んだ「大津道(のちの長尾街道)」が通る要衝の地でもありました。摂津国・河内国・和泉国のまさに境目に位置する地として発展した町でもあります。南北朝時代に入り、南朝方の外港としての役割を担うようになり、室町時代には日明貿易、戦国時代にはさらに東南アジアへと門戸を拡げた国際貿易都市として繁栄を続けていきました。





明治42年建立の石鳥居(左)。参道脇には「三国丘」の石碑が建てられています(右)。



 崇神天皇5年、国内に疫病が流行して多くの人々が亡くなるという惨事が起こりました。この事態を憂えた崇神天皇は疫病鎮護のため、宮中にて祭祀を行っていた天照大御神を「笠縫邑(今の檜原神社ともいわれる。諸説あり)」に遷し、皇女である豊鍬入姫命に祭祀を行わせました。また、倭大国魂神を「長岡岬(今の大和神社といわれる)」に遷して同じく皇女の渟名城入媛命に祀らせます。さらに崇神天皇8年12月、物部大母呂隅足尼を遣わして素盞鳴命を祀らせたところ、疾病は治まり豊作に恵まれて国中が落ち着きを取り戻したといわれています。この伝説には別の説があり、崇神天皇7年2月に大物主神倭迹迹日百襲姫命の口を借りて託宣を行い、それに従って大田田根子大物主神の祭主とし、市磯長尾市倭大国魂神の祭主としたところ疫病は終息して五穀豊穣となった、という話もあります。ともあれ、物部大母呂隅足尼が「茅渟の石津原」と呼ばれたこの場所に素盞鳴命を祀る祠を築いたのが方違神社の祭祀の始まりだといわれています。ここは摂津国河内国和泉国が交わる地であることから「三国山」とも「三国丘」とも呼ばれ、3国いずれにも属さない「方位のない清らかなる地」と考えられていました。ここが祭祀の場所として選ばれたのも、それが理由の一つではないかと思います。ちなみに「」という地名は、3国が交わる境目の地であることに由来しています。





鳥居の脇に鎮座する神明社(左)と、きれいに剪定されている「神功皇后御馬繋之松旧蹟」(右)。



 方違神社には、御祭神として神功皇后が祀られています。三韓征伐に勝利し凱旋する神功皇后を待ち受けていたのは、亡夫・仲哀天皇が別の后である大中姫に産ませた香坂皇子忍熊皇子による叛乱でした。神功皇后が帰国途中に皇子(のちの応神天皇)を生んだとの報に接した香坂皇子忍熊皇子は、次の皇位がこの幼き皇子の手に渡ってしまうという危機感を強く抱き、神功皇后と皇子を亡き者にしようと兵を挙げます。この叛乱に勝利するため、神功皇后素盞鳴命を祀るこの地において住吉大神の御神託に従って神事を執り行いました。神武天皇が国見岳にて八十梟帥を討伐した際の故事に倣い、自ら「八十平瓮」と呼ばれる平瓦を作って天神地祇を祀り、埴土を菰の葉で包んで粽に見立てて神前に供えて方災除けを祈願した神功皇后は、武内宿禰武振熊命たちの活躍もあって叛乱軍を見事に討ち果たします。のちに成人して皇位に就いた応神天皇はこの御神徳に応えるために天神地祇住吉大神神功皇后を合わせ祀り、この社を「方違宮」と称して厚く崇拝したといわれています。以来方違神社は「方災除けの神」として朝廷や武家をはじめ、多くの人々からの崇敬を集めて隆盛していきました。





方違神社の社殿。ここで粽祭や夏越大祓、月次祭や例大祭の神事が執り行われます。



 方違神社には仁徳天皇が行幸されたという記述も残されており、孝徳天皇豊崎宮に遷都した際に奉幣使を遣わして方災除けの祈願をされたといわれています。また、弘法大師空海も804(延暦23)年に遣唐船にて唐に向かう際に航海の安全を祈って方違祈願を行ったと伝えられ、1180(治承4)年には福原遷都の方災除けのために平清盛公の奏請を受けた安徳天皇によって方違祈願が行われています。後鳥羽天皇後醍醐天皇後柏原天皇なども厚い崇敬を寄せ、1615(元和元)年には大阪夏の陣に臨む徳川家康公の命を受けた今井宗薫が武運長久の祈願のために方違神社を訪れています。1868(明治元)年には東京への遷都のために明治天皇が京都を離れて東上する際に17日間の祈祷の命を受けました。1873(明治6)年には郷社に列せられ、1907(明治40)年2月には水天宮社を合祀。同じ年の10月には向井神社愛宕神社、神明社など合祀して「方違天王神社」と改称されましたが翌月にはすぐに「方違神社」の名に戻され、12月にはさらに八幡社武内社が合祀されています。





「方違宮」と刻まれた石碑(左)と石灯籠、手水舎(右)。



 方位による災厄を避けるという考えは古くからあり、現在でも方位が良くないとされる時には一旦別の方角に向かってから目的地に出かけるという風習が残っています。住宅などにおける風水の考えにも通じるもので、方違神社は参拝すると方角による災厄を避けることが出来るといわれていることから、多くの人々が全国各地から新築や転居、旅行の際の方災除けのために参拝されています。年中を通じて数多くの厄除け神事が執り行われていますが、特に5月31日の「粽祭」では神功皇后の故事に倣い、菰の葉を用いた粽を神前に奉納して方災除けを祈願する神事が行われています。




社殿脇の摂社。鈴山・大年・末次・八幡・白髭の各大明神が祀られています。

方違神社のすぐ南側には反正天皇陵があります。大規模古墳群がある堺市ならではの光景です。



アクセス
・南海電鉄高野線「堺東駅」から東へ徒歩5分、JR阪和線「堺市駅」より西へ徒歩10分。

方違神社地図 Copyright:(C) 2013 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

【境内図】

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放(祈祷受付時間:9時~16時)

公式サイト



大阪・淀川天神社。

2011年10月19日 | ◆大阪府
五穀豊穣・産業繁栄


淀川天神社

(よどがわてんじんじゃ)
大阪市北区国分寺1-4-1





「樋之口町」交差点のすぐ北に鎮座している淀川天神社。


〔御祭神〕
天穂日命
(あめのほひのみこと)



 阪急電鉄「梅田駅」の北から関目までを東西に繋ぐ都島通と、淀川の支流である大川の西を南北に走る天満橋筋が交わる「樋之口町」の交差点のすぐ近くに、小さな神社が鎮座しています。この神社の名前は淀川天神社といい、旧国分寺村の氏神として崇敬を集めてきた神社です。鳥居の脇に伸びる銀杏の木こそ目を惹きますが、それ以外にはこれといった特徴もない、単なる小さな社のように見えます。しかしながら歴史を紐解くと、その創建時期は奈良・東大寺の大仏が造られた天平時代にまで遡るというから驚きです。





鳥居越しに見える、生活感あふれる境内(左)と、一際目を惹く銀杏の木(右)。



 社伝によると、738(天平10)年にこの地を訪れた行基上人が、天照大御神の第2子にあたる天穗日命を勧請して御祭神に定め、祭祀を始めたのが起源だといわれています。すぐ近くには655(斉明天皇元)年頃に創建された長柄寺の流れを汲むといわれる摂津国国分寺があり、この鎮守社として淀川天神社を創建したと考えられます。御祭神である天穗日命は五穀豊穣をもたらす農業神としての顔を持つ事から、秋の実りを守ってくれる神として近隣の住民たちより産土神とされて尊崇されてきました。また、天穗日命菅原道真公のルーツともいわれているため、農耕の恵みをもたらす神を祀る社という意味合いと菅原道真公にまつわる神社という事で「天神社(あまつかむのやしろ)」という名前が付けられたのではないかと思います。





1910(明治43)年に移築された社殿。享保年間(1716~1735年)のものといわれています。



 淀川天神社は、江戸時代の中頃からは東にある正徳寺によって管理されていましたが、明治時代に入ると神仏分離令により独立を果たします。1872(明治5)年には村社に列せられると同時に「天神社」と改称され、さらに1902(明治35)年からは「淀川天神社」という通称名で呼ばれるようになりました。その後、1908(明治41)年10月12日には、東梅ヶ枝町字砂原にあった砂原屋敷(作庭で名高い小堀遠州の邸宅といわれる)の中に祀られていた稲荷社が合祀されています。
 現在の社殿は1910(明治43)年に中島村(今の東淀川区内)の神社から社殿を購入して移築されたもので、建物自体は享保年間(1716~1735年)に建立されたものだといわれています。その翌年の1911(明治44)年5月29日には、祭礼の際に地方自治体より神饌幣帛料の供進が行われる神饌幣帛料供進社に指定されています。先の大戦時には、1945(昭和20)年6月7日と15日の二度にわたって米軍機の爆撃に遭いますが、社殿自体は戦火を潜り抜けて無事に残り、被災した鳥居や玉垣、社務所などは戦後になって再建されています。例祭は7月18日、秋祭は10月25日に行われています。

 



江戸時代中期のものといわれる石燈籠(左)と、東側に立つ石鳥居(右)。


アクセス
・大阪市営地下鉄堺筋線・谷町線「天神橋筋六丁目駅」下車、東へ徒歩5分
・阪急電鉄千里線「天神橋筋六丁目駅」下車、東へ徒歩5分

淀川天神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

大阪・堂島薬師堂。

2011年09月27日 | ◆大阪府


堂島薬師堂

(どうじまやくしどう)
大阪市北区堂島1-6-20




「堂島アバンザ」の敷地に祀られている堂島薬師堂。非常に斬新なデザインの御堂です。



〔宗派〕
法相宗

〔御本尊〕
薬師如来像



 JR大阪駅の南側に位置し、いわゆる「キタ」を代表する高級飲食店街として知られる「北新地」。高級クラブや料亭などが立ち並び、煌びやかなネオンに包まれながらも、どこか凛とした風格が漂う日本有数の歓楽街には、連日数多くの客が集まり、深夜までその喧騒が絶える事はありません。その西に、99.8mの高さを誇る地上23階、地下2階のガラス張りの「堂島アバンザ」と名付けられた高層ビルが聳え立っています。
 1999(平成11)年に毎日新聞大阪本社の跡地に建設された、この「堂島アバンザ」の敷地内に、ひときわ目を惹くミラーガラス造りの球体建築物が建てられています。この建物の名は「堂島薬師堂」。一見したところ何の建物か分からないほど個性的な外観をしていますが、実は一時期には1日に数十万人もの参拝者で賑わいを見せていたこともある、非常に古い歴史を持つ御堂なのです。





手水舎は伝統的なデザイン(左)。御堂の前にある「合掌」をイメージした燭台(右)。



 その個性的な外観とは裏腹に、堂島薬師堂の起源はとても古く、推古朝期に記された資料には、593(推古天皇元)年に聖徳太子四天王寺を創建した際に建立されたという記録が残されていますので、実に1400年以上の歴史を持つ古刹といえます。この経緯については1675(延宝3)年に一無軒道冶が著した大阪の名所案内書である「芦分船」にも詳細に記されており、「四天王寺を創建する際に建築用の資材を積んだ船が暴風雨のために難破したため、船が流れ着いた島にて御堂を建立した」という話が書かれています。
 堂島薬師堂が建てられた場所は堂島川と曽根崎川が流れる中州の島で、周囲を航行する船から島に建てられた御堂がよく見えた事から、この地を「薬師堂の建つ島」すなわち「堂島」と呼ぶようになったといわれています。





御堂の左手には白龍弁才天、右には豊田稲荷が鎮座(左)。正面に架けられた扁額(右)。



 1685(貞享2)年に、豪商だった河村瑞賢によって曽根崎川の改修が行われて「新地」と呼ばれる干拓地が開かれ、年間100万石から150万石にも及ぶ年貢米が集まる巨大米市場として発展した堂島には多くの富と人が集まり、その賑わいとともに堂島薬師堂も繁栄していきました。御堂の中には室町時代の作といわれる薬師如来像や、その薬師如来像よりも昔に作られたといわれる弘法大師像などの仏像が安置されており、毎月21日の弘法大師の縁日に所縁の寺院を巡る「大師巡り」の一つとして1893(明治26)年より行われた「大阪太師詣り」では第1番霊場とされ、1日で数十万人規模の人々が参拝するなど非常な賑わいを見せていました。
 1911(明治44)年に芝居小屋である「堂島座」が建てられる事となり、堂島薬師堂はすぐ近くに移転されました。この時、堂島薬師堂の移転に関わった方々が原因不明の病で次々に亡くなったため、「お薬師さんの祟り」だと怖れられた事もあったそうです。その後、1922(大正11)年には堂島座のあった土地に毎日新聞社が移転してきましたが、その毎日新聞社も梅田に移転し、1999(平成11)年になって「堂島アバンザ」という名の商業ビルが建てられた際に堂島薬師堂も旧来の場所である現在地に戻され、近代的なモダンなデザインの御堂が建てられました。





御堂の中には薬師如来像、弘法大師像、地蔵菩薩像などの仏像が安置されています。



 堂島薬師堂では、毎年2月3日の節分の日に「節分お水汲み祭り」が開催されています。このお祭りは、曽根崎新地で伝統的に行われていた「節分祭」と、関西経済同友会や北新地商店街の皆さんが「水都・大阪」の活性化を願って2004(平成16)年から開催している「お水汲み祭り」が一体化されたもので、本山である奈良・薬師寺の井戸から汲まれた「御香水」と堂島薬師堂の上水を混ぜ合わせ、それを薬師寺の僧侶が参拝者の竹筒に注いで無病息災、商売繁盛などを祈願するという「お水汲み」が行われて祭礼がスタートします。
 当日は薬師寺の僧侶や福男、そして6体の鬼が北新地を練り歩く「鬼追い」が行われたり、夜には「護摩焚き」や北新地の芸妓さんたちによる「奉納舞」、堂島薬師堂に祀られている白龍弁才天による「龍の巡行」などが行われて大いに賑わいます。皆さんも、普段とは異なる雰囲気に包まれる北新地を訪れてみてはいかがでしょうか。





御堂に隣接する池にある「水かけ弁才天」(左)。右は薬師堂の功労者追悼の記念碑。


アクセス
・JR東海道本線「大阪駅」下車、南へ徒歩7分。
堂島地蔵堂地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.
 

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

関連サイト



大阪・坐摩神社(摂津国一の宮)。

2011年09月21日 | ◆大阪府
住居守護・旅行安全・安産守護


坐摩神社

(いかすりじんじゃ)
大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号


摂津国一の宮
神仏霊場大阪 豊楽の道・第8番札所


通 称
ざまじんじゃ




オフィス街の中に鎮座する坐摩神社。


〔御祭神〕
坐摩大神
(いかすりのおおかみ)

生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神
以上5柱を総称して坐摩大神と呼ぶ




 豊臣秀吉公の大坂城築城に伴って続々と移住してきた家臣団の生活を支えるために各地から集められてきた商人たちによって商業地が形成され、江戸時代には「天下の台所」と呼ばれ、最大都市であった江戸をも凌ぐ日本一の商業都市として発展してきた船場地区。往時ほどの活況は失われつつありますが、今でも繊維問屋や証券会社、銀行などが数多く立ち並ぶオフィス街として賑わいを見せているこの町に鎮座しているのが、今回ご紹介する古社・坐摩神社です。
 「坐摩」と書いて「いかすり」と読みますが、これは土地や居住地を守るという意味の「居所知(いかしり)」が転じて付けられた名前だといわれています。坐摩神社は、住吉大社と並んで摂津国一の宮とされていますが、坐摩神社住吉大社の末社だったという記述や、住吉大社の遷宮の際には同様に坐摩神社も遷宮が行われていたと伝える文書が残されている事から、社格の上下は別にして、この2社が古来より密接な関わりを持っていたことが分かります。





鳥居をくぐって右手に建つ摂社群(左)。奥には多くの社殿が立ち並んでいます(右)。
※大江神社、繊維神社、大國主神社、天満神社、相殿神社の5社が祀られています。


 坐摩神社は、社伝によると神功皇后三韓征伐から帰還された時、新羅江とも窪津とも渡辺津とも呼ばれた淀川河口のこの地に坐摩神を祀る祠を建てて、我が子(のちの応神天皇)の安産を祈願したのが始まりといわれています。平安時代の後期には嵯峨源氏の流れを汲む源綱(「酒呑童子退治」や「一条戻り橋の鬼退治」で有名な渡辺綱公)渡辺津に移り住んで「渡辺」姓を名乗り、渡辺氏を興します。その子孫が「渡辺党」と呼ばれる武士団に成長し、海駆ける水軍として各地に進出して活躍した事で全国に「渡辺」や「渡部」など「ワタナベ」と呼ばれる名前が拡がり、「渡辺姓発祥の地」としても知られるようになりました。
 神功皇后ゆかりの古社・坐摩神社は、927(延長5)年に編纂された延喜式神名帳にも摂津国西成郡におけるただ一つの大社としてその名を連ね、939(天慶2)年には「祈雨11社」に選抜されるなど、雨乞いに御利益のある神社としても高い評価を受け、朝廷より祈雨御祈請を受ける事となりました。
 1583(天正11)年には天下人・豊臣秀吉公の大坂城築城に伴って移転を命じられ、長らく鎮座されていた渡辺津の社地から現在の鎮座地へと遷座されました(遷座されたのは寛永年間に入ってから)。この時、もとの社地にちなんで「渡辺町」という地名が付けられています。ちなみに「ワタナベ」の姓を持つ有志の方々によって「全国渡辺会」という団体が作られていますが、1989(平成元)年に行われた東区と南区の合併に伴って「久太郎町」への町名変更が決定し、由緒ある「渡辺町」という地名が消滅する事態となった事に「全国渡辺会」が反発して反対運動を展開、最終的に丁目の後に「渡辺」という番地名を付けるという異例の措置がとられ、地名に「渡辺」が無事残される事になりました。このように、代々守られてきた地名を大切に考える運動が多くの人々の理解を得て実を結んだという事は、伝統ある地名が簡単に変更されている現代において、その風潮に再考を促す意味で非常に意義深い事だったと思います。





戦前の外観を模して1959(昭和34)年に再建された鉄筋コンクリート造りの社殿。

木陰の中に立つ石碑(左)と、その隣で睨みを利かせる大きな狛犬(右)。



 神功皇后の故事にもあるように、安産の神としても有名な坐摩神社には、明治天皇が御降誕の際にも宮中より安産の御祈願があり、その後1868(明治元)年に全国を行幸された明治天皇坐摩神社において相撲を天覧されたという記録も残されています。その3年後の1871(明治4)年に府社に列せられた坐摩神社は、さらに1936(昭和11)年には官幣中社に昇格し、この際には官幣社の社格にふさわしい新社殿の造営が行われました。残念ながらこの社殿は1945(昭和20)年の大阪大空襲によって焼失し、1959(昭和34)年になって官幣社昇格時に建立された社殿の外観を模した鉄筋コンクリート造りの新社殿が再建され、現在に至っています。





社殿左手の参道(左)を抜けると、火防陶器神社と稲荷社が鎮座しています。



 社殿の左手にある参道を抜けると、2つの摂社が鎮座しています。そのうちの1社・火防陶器神社は、陶器問屋街の守護神として厚い崇敬を集めている神社です。もともとは、可燃性の高い藁を荷造りに多用していた陶器商人たちが「火避け」の守護神として愛宕山将軍地蔵尊をお祀りし、陶器製の人形を奉納して防火祈願を行っていましたが、1872(明治5)年に地蔵祭が禁止された事を受けて、これに代わる神として大陶祇神(おおすえつちのかみ)迦具突智神(かぐつちのかみ)という2柱の神を勧請して社殿を創建したのが始まりです。
 創建当初は瀬戸物町筋のある大阪市西区靭南通1丁目に鎮座していましたが、1907(明治40)年に大阪市電が敷設される事になり、その用地に掛かる事となった火防陶器神社坐摩神社内に遷座される事となりました。しかし、大阪大空襲に被災したため1951(昭和26)年に西横堀浜筋に遷されて再興されましたが、今度は阪神高速道路の建設のために立ち退きを余儀なくされ、1971(昭和46)年に再度坐摩神社の境内に遷座されて今日に至っています。庶民生活の象徴である「陶器の宮」が、公共事業の都合によって何度も翻弄される様は、まさに皮肉としか言いようがありませんが、市民の生活を第一に考えた場合、やむを得ない措置だったと思います。この火防陶器神社では、毎年7月23日には例祭が執り行われ、それと前後して「せともの祭」も開催されて賑わいを見せています。





西側の鳥居。鳥居の左脇には「陶器神社」の看板も掛けられています。


アクセス
・大阪市営地下鉄中央線「本町駅」下車、南へ徒歩1分。
坐摩神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

【境内図】

拝観料
・境内無料

拝観時間
・7時30分~17時30分 (平日)
・7時30分~17時 (土・日・祝日)

公式サイト



大阪・藤次寺。

2010年06月17日 | ◆大阪府


如意山 藤次寺

(にょいざん とうじじ)
大阪市天王寺区生玉町1-6


摂津国八十八箇所霊場・第19番札所

通 称
融通さん
(ゆうづうさん)



鮮やかな朱塗りが目を引く藤次寺の山門。谷町筋に面して立っています。



〔宗派〕
高野山真言宗

〔御本尊〕
如意宝珠融通尊像
(にょいほうじゅゆうづうそん)


 谷町9丁目、通称「谷9」交差点のすぐ脇に、朱塗りの壁が非常に印象的な寺院が建っています。この寺院の名は藤次寺。御本尊である如意宝珠融通尊にちなんで「融通さん」と呼ばれ、開運厄除けのご利益のあるお寺として今も多くの人々の信仰を集めています。





朱塗りの山門をくぐると、白砂青松の清涼感にあふれた境内が広がります。



 「融通さん」として親しまれている藤次寺は、正式名称を「如意山藤次寺」といいます。この寺院の歴史は古く、弘仁年間(810~824年)に藤原冬嗣卿の発願によって開かれたといわれています。藤原冬嗣卿は嵯峨天皇の側近として厚い信頼を受け、左大臣にまで登りつめるなど藤原北家隆盛の基礎を築いた人物で、藤原家の氏長者として一族の繁栄と結束に心を砕いたといわれています。この藤原冬嗣卿が藤原家の安泰を願って、甥である任瑞上人を開基として建立したのが藤次寺です。「藤原家を治める寺」という意味合いから、もともとは「藤治寺」と称していました。





金堂の左奥には不動明王や大黒天、稲荷社等が祀られています(左)。右は、阿波野青畝の歌碑。



 藤原家の権勢の衰えとともに藤次寺の寺勢も衰退していきましたが、慶長年間(1596~1615年)に豊臣秀吉公子飼いの猛将・加藤清正公が大檀主となってバックアップを行い、金堂や伽藍、堂宇などの再建が進められて往時の輝きを取り戻します。江戸時代に入った1764(明和元)年には、時の左大臣・九条尚実卿より家運長久を祈るため「永代不易の祈願寺」として改めて旨辞が授けられ、九条家祈願寺として隆盛を誇りました。

 明治時代に入り、神仏分離令によってすぐ南西に鎮座する生国魂神社の神宮寺・生玉宮寺(法案寺)が廃絶された際には、「藤治寺」はここを構成していた「生玉十坊」のうちの地蔵院を合併して「藤次寺」と改称しました。その後、藤次寺は廃仏毀釈の嵐にも耐えて法灯を守り続けていましたが、1945(昭和20)年の大阪大空襲では境内がほとんど焼失するなど壊滅的なダメージを受けてしまいます。しかしながら御本尊の如意宝珠融通尊は奇跡的に焼失を免れ、1960(昭和35)年になって京都大学村田治郎教授と棚橋諒教授の手によって設計が行われ、当時の最新の建築技術によって金堂や寺務所、庫裡などの伽藍が再建されて今日に至ります。




山門・寺壁に負けず劣らず鮮やかな朱塗りの金堂。



アクセス
・大阪市営地下鉄谷町線「谷町九丁目駅」下車、南へ徒歩2分。
・大阪市営地下鉄千日前線「谷町九丁目駅」下車、南へ徒歩2分。
藤次寺地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・6時~18時  (※毎月1日・11日・21日の縁日の時は5時~21時)







大阪・土佐稲荷神社。

2010年02月28日 | ◆大阪府
商売繁盛・諸業発展

土佐稲荷神社

(とさいなりじんじゃ)
大阪市西区北堀江4-9-7

三菱グループ発祥の地



土佐稲荷神社の鳥居。南側には土佐公園が広がり、子供たちの歓声で包まれています。



〔御祭神〕
宇賀御魂大神
(うがのみたまのかみ)



 大阪市西区役所の前を東西に走る長堀通。ここは、1960(昭和35)年から始められた埋め立て工事によって出来た道路で、それより以前には「長堀川」と呼ばれる川が流れていました。長堀川は、物資の水上輸送を円滑にするため、1622(元和8)年に伏見町の町人だった三栖清兵衛池田屋次郎兵衛伊丹屋平右衛門岡田心斎たち4名が中心となって開削した川で、この開削工事が完工したのとほぼ同時期には土佐藩がここに蔵屋敷を建てています。

 土佐藩は非常に経済に通じていた藩で、長堀川の両岸に蔵屋敷街を設けて土佐の特産物である鰹や和紙、材木などを商都・大坂に運び、全国へと流通させることで大きな利益を生み出していました。土佐鰹の市が建てられたことから、蔵屋敷の脇に架かる橋が「鰹座橋」や「土佐殿橋」などと呼ばれていたことからも、「天下の台所」と呼ばれた経済の中心地・大坂での土佐藩の存在の大きさを推し量ることが出来ます。





土佐稲荷神社の社殿。神紋には三菱グループの象徴・スリーダイヤモンドマークが入っています。


 
 土佐藩の経済力の源であった土佐藩蔵屋敷に守護神として祀られていたのが、土佐稲荷神社です。土佐稲荷神社は天正年間(1573~1592年)には既に創建されていたとも1770(明和7)年に伏見稲荷大社から勧請されたともいわれていますが、1717(享保2)年になって土佐藩主・山内豊隆公の崇拝するところとなって本格的に社殿の造営が行われ、蔵屋敷の鎮守社として一般にも開放されるようになりました。それ以来、山内家は参勤交代の折には必ず土佐稲荷神社を訪れて参拝するようになり、社殿の造営や修復の土佐藩の藩費をもって行われるようになりました。





東側の鳥居の南側には、放生池(左)と石宮大神社(右)があります。


 
 1868(慶応4)年、誕生間もない明治新政府を震撼させる事件が起きました。「堺事件」と呼ばれるこの事件は、大坂に滞在していたフランス領事たちが堺へと入ろうとしたことをきっかけに起こった事件で、事前にこの移動の通達を受けていなかった土佐藩兵たちと、フランス領事を迎えようとしたフランス海軍の兵士たちとの間で衝突が起こり、土佐藩の旗を倒すなどして小競り合いを起こしたフランス海軍の水兵に対して土佐藩側が発砲。フランス人11人が殺傷される騒ぎとなったため、フランス公使ロッシュが賠償金や事件関係者の処罰を求めて猛抗議を行うという事態に至りました。

 圧倒的な軍事力を背景に圧力をかけるフランスに対し、明治政府は法外な要求を呑まざるを得ず、結局賠償金の支払いと20名の切腹という条件を飲み、事件に関わった29名に籤を引かせて切腹する者を決めさせました。この籤引きが行われた場所が、ここ土佐稲荷神社です。この後、堺の妙国寺に護送された20名は、立ち会っていたフランス海軍の水兵たちの前で切腹を行いましたが、藩士たちは腹を切った後、その腸をフランス兵士たちに投げつけながら絶命していき、その凄惨さを見かねたフランス側は、たまらずフランス側の被害者数と同じ11名が切腹したところで刑の執行の中止を要請したといいます。自刃して果てた土佐藩士たちは妙国寺で厚く葬られ、フランス人犠牲者たちの碑も神戸市立外国人墓地に建てられています。





東側鳥居の北側に鎮座する稲荷社(左)と、岩崎弥太郎の屋敷跡である事を伝える石碑(右)。


 
 土佐稲荷神社は「三菱グループ発祥の地」としても知られています。坂本龍馬が暗殺されたことをきっかけに解散した海援隊の後を継ぐ形で、土佐藩は1870(明治3)年に大坂の長堀にあった土佐藩蔵屋敷を拠点に「九十九商会」を発足させ、その総責任者を岩崎弥太郎に命じます。九十九商会は翌年には個人事業会社に改組されて岩崎弥太郎が所有することとなり、同時に土佐藩屋敷も譲り渡される事となりました。代々土佐藩主が崇敬してきた土佐稲荷神社九十九商会に引き継がれ、岩崎弥太郎も社殿の造営などを行うなど、社の守護神として厚い崇敬を寄せました。九十九商会は1873(明治6)年に「三菱商会」と改称され、積極的に事業を展開して大成功を収めることとなりました。三菱が東京に本社を移転した後も土佐稲荷神社は三菱グループが守る事となり、今でも毎年4月には三菱グループの各社の代表が集まり、三菱の発展を願う祈祷祭が行なわれているそうです。





社殿の裏手に居並ぶ摂社(左)と、その南側にある植栽(右)。美しい梅が花を咲かせています。


社殿の真裏にある奥殿(左)と、社殿の東側にある蘇鉄の植栽(右)。



アクセス
・大阪市営地下鉄千日前線・長堀鶴見緑地線「西長堀駅」より徒歩5分
土佐稲荷神社地図  Copyright (C) 2000-2010 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放








大阪・綱敷天神社。

2010年01月28日 | ◆大阪府
学業成就・諸芸上達・筆法上達

綱敷天神社

(つなしきてんじんじゃ)
大阪市北区神山町9-11


通 称
喜多埜天神



梅田の中心街より東、庶民的な雑居ビル街の中に綱敷天神社が鎮座しています。


〔御祭神〕
嵯峨天皇
菅原道真公




 綱敷天神社の創建は、平安時代の843(承和10)年と伝えられています。822(弘仁13)年に嵯峨天皇が摂津国・難波兎我野の地に行幸され、現在綱敷天神社が建っている地に仮殿を構えて逗留されたという縁から、嵯峨天皇が崩御された後にその皇子で「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルともいわれた源融卿が遺徳を偲んで太融寺を創建。それと同時に嵯峨天皇をお祀りする神社として「神野太神宮」を創建したのが綱敷天神社の始まりといわれています。





手水舎(左)と、商売繁盛の神として崇敬を集める喜多埜稲荷神社(右)。



 それより半世紀ほど経った901(延喜元)年、無実の罪に陥れられて大宰府へと左遷される事となった菅原道真公がこの地を訪れます。失意の旅の途中、この地に咲き誇る梅の花に心を奪われて足を留めた菅原道真公は、船の艫綱を円座に敷いて休息を取り、しばらく美しい紅梅を堪能したといわれています。この時菅原道真公は、都からずっと付き従ってきていた「白大夫」度会春彦公の一族に「汝らはこの地に留まり、いつしか私が戻ってくる日まで待っていて欲しい」との言葉を残して大宰府へと旅立っていきました。菅原道真公から「白江」の姓を賜った一族はその言葉に従ってこの地に留まり、菅原道真公が愛でた紅梅の木の下に小さな祠を営んで「梅塚天満宮」と名付け、主君の御霊をお祀りしました。この「梅塚」が「梅田」という地名の由来となったといわれています。





戦災で焼失した後、1956(昭和31)年に再建された社殿。



 その後、菅原道真公の怨霊の脅威に大きな畏怖を感じた朝廷は、993(正暦4)年に冤罪を認めて菅原道真公に「正一位」の位階を追贈し、その名誉回復を行います。さらに、ゆかりの土地であった梅塚天満宮のあるこの地に改めて社殿を建立してその御霊を慰める事となりました。その結果、神野太神宮梅塚天満宮は合祀されて「北野天神社」として新しく生まれ変わります。この「北野」は「喜多埜」とも「北埜」とも表記されていましたが、ここが「北野」と名付けられた理由には、嵯峨天皇が愛していた京都の北野の地名から付けられたという説や菅原道真公が祀られている北野天満宮から採ったという説など諸説がありますが、確かなことは分かっていません。とにもかくにもこの「北野」が現在の梅田の繁華街の別名である「キタ」の語源となったといわれています。この北野天神社は、菅原道真公が綱を敷いて休息を取られた故事にちなんで綱敷天神社と称されるようになりました。





北野村から日清戦争へ出征した氏子の無事を祈念して建立された従軍紀念碑(左)。
右は菅公ゆかりの狛牛と、元々は喜多埜稲荷神社の裏手に鎮座していた白龍社。


 1874(明治7年)に大阪駅~神戸駅間に鉄道が開業し、それと同時に大阪駅が建てられると、それまでのどかな田園風景が広がっていた梅田も関西の交通の要衝として急速に都市化が進みました。それにともなって綱敷天神社も「キタの氏神」としてさらに崇敬を集めて発展していきましたが、1945(昭和20)年6月1日に起きた大阪大空襲によって境内は炎上、社殿や文献などが悉く焼失の憂き目に遭います。特に、社殿の裏手にあった「神山」と呼ばれる小山は激しい爆撃によってその形を留めぬほどに吹き飛びましたが、奇跡的な事に菅原道真公が座ったとされる御神宝の御綱と御影は難を逃れました。その後、綱敷天神社は氏子の皆さんを中心とした熱意によって復興が進められ、再び「キタの氏神」として人々の崇敬を集めるようになりました。なお、梅田駅のすぐ近くの茶屋町には綱敷天神社御旅所が、そして綱敷天神社の北西の角田町には境外末社である歯神社が鎮座しています。





社殿前の、丸みを帯びた独特の形をした灯篭(左)と、ともに「三筆」と「三蹟」の一人として
賞賛された書の大家・嵯峨天皇と菅原道眞公にちなんで建てられた筆塚(右)。


アクセス
・JR「大阪駅」下車、東へ徒歩15分
・阪急電車「梅田駅」下車、東へ徒歩15分
・阪神電鉄「梅田駅」下車、東へ徒歩15分
・大阪市営地下鉄谷町線「中崎町駅」下車、南へ徒歩10分
綱敷天神社地図  綱敷天神社公式ホームページより転載

拝観料
・境内無料

拝観時間
・6時~日没まで(祈祷受付は9時~16時)

公式サイト









大阪・今宮戎神社。

2010年01月06日 | ◆大阪府
商売繁盛・福徳円満

今宮戎神社

(いまみやえびすじんじゃ)
大阪市浪速区恵美須西1-6-10

神仏霊場大阪 豊楽の道・第4番札所
なにわ七幸めぐり・第6番札所
大阪七福神・恵比寿






〔御祭神〕
天照皇大神
事代主神
素盞鳴命月読尊稚日女尊



 今宮戎神社は、聖徳太子が建立した四天王寺の西方の守護神として600(推古8)年に創建されたと伝えられています。そして翌601(推古9)年の3月には聖徳太子自らが御祭神の祈誓を行い、市場鎮護の神として祀られるようになったといわれています。1274(文永11)年にはここに御厨子所が設けられ、毎日宮中へ鮮魚を納めるようになりました。これは南北朝の騒乱期こそ中断したものの、1557(弘治3)年には後奈良天皇の綸旨を賜って再開され、1868(明治元)年までの毎年正月、宮中への鮮魚奉納が行われ続けました。「朝役」とよばれるこの鮮魚奉仕を継続的に行うため、今宮戎神社は京都の四条油小路に土地と家屋を拝領していましたが、この土地が八坂神社の氏子地だったために祇園祭にも奉仕する事となったそうです。





今宮戎神社の社殿。「十日戎」が行われる3日間には100万人もの人出で賑わいます。


 
 平安時代の末期には四天王寺の西門に「浜の市」と呼ばれる市が開かれるようになり、市の守護神として今宮戎神社の御祭神が祀られるようになりました。この「浜の市」が繁栄するのに比例して今宮の「えべっさん」の御神徳も高まり、これを契機に諸業繁栄の神である「えべっさん」への信仰が庶民の間に広く根付いていく事となります。安土桃山時代に入っても「えべっさん」への信仰はますます高まりを見せていき、1609(慶長14)年には豊臣秀頼公によって社殿の造営や社領の寄進が行われるなど、今宮戎神社は庶民からも大名からも厚い崇敬を集める「商売の神様」として繁栄を続けていきます。江戸時代、「天下の台所」と称されるように大坂が日本経済の中心地としてさらに発展するにつれ、今宮戎神社も商業の守護神として上方商人たちから一層厚く崇敬されるようになり、有名な「十日戎」もそれに比例するように賑わいを見せることとなりました。明治維新ののちも経済発展の守護神として崇敬を集めていましたが、1945(昭和45)年3月14日の大阪大空襲によって社殿は灰燼に帰してしまいます。しかしながら11年後の1956(昭和31)年には氏子の皆さんや多くの人々の支援によって再興されました。





歌碑(左)と、社殿の右手に立つ大黒社(右)。


 
 御祭神の1柱である事代主命は、「出雲の国譲り神話」において神の託宣を受けて国譲りを決定するという重要な役割を果たした神で、「国譲り」を行った後に海中へと姿を消したといわれている事から、海の彼方から現れる「戎神」と結び付けられて祀られるようになったため、「商売繁盛の神」として崇敬を集めるようになりました。この事代主命は古来より耳の不自由な神といわれており、参拝する際には拝殿で祈願を行った後、本殿の裏にある羽目板を叩きながらもう一度大声で願い事をして念を押すという風習が残されています。





社殿の右奥にある稲荷神社(左)と、本殿の裏にある祈願の念押しの羽目板(右)


 
 「商売繁盛、笹持ってこい!」の掛け声で有名な今宮戎神社の「十日戎」行事は江戸時代になって始められたといわれており、前述したように元禄時代には現在のような祭礼のスタイルが確立されたと伝えられています。初詣の人出こそ50,000人ほどですが、「十日戎」が行われる1月9日の「宵えびす」、1月10日の「本えびす」、1月11日の「残り福」の3日間には実に100万人を越える人々が押し寄せ、いつもは静かな境内が「商売繁盛」を祈願する参拝客の熱気に包まれて大変な賑わいを見せます。

 「福笹」の笹は無料で授与されますが、この笹を飾り付ける縁起物の「吉兆」と呼ばれる小宝は参拝者が自由に選んで購入するシステムとなっています。「吉兆」は1,500円程度から数万円する物まで数多く取り揃えられており、銭叺・銭袋・末広・小判・丁銀・烏帽子・臼・小槌・米俵・鯛など様々な「吉兆」を自分で選んで購入し、「福娘」の皆さんに飾り付けてもらうというのが今宮戎神社の「十日戎」の特徴的なスタイルです。





社殿の奥に立つ大燈籠(左)と、境内の南のビルの狭間に立つ一の鳥居(右)。


アクセス
・南海電車高野線「今宮戎駅」下車すぐ。
・大阪市営地下鉄御堂筋線「大国町駅」下車、東へ徒歩5分
・大阪市営地下鉄堺筋線「恵美須町駅」下車、西へ徒歩5分
・阪堺電鉄「恵美須町駅」下車、西へ徒歩5分
・JR「新今宮駅」下車、北へ徒歩10分
今宮戎神社地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・9時~17時 (十日えびすが行われる1月9日~11日は終日)

公式サイト


福の神 えびすさんものがたり
吉井 貞俊
戎光祥出版

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大阪・豊崎神社。

2009年11月04日 | ◆大阪府
諸業繁栄・商売繁盛・病気治癒・疫病退散

豊崎神社

(とよさきじんじゃ)
大阪市北区豊崎6-6-4

通 称
豊崎宮






〔御祭神〕
孝徳天皇
(こうとくてんのう)
素盞嗚尊
(すさのおのみこと)
応神天皇
(おうじんてんおう)


 「天下の台所」と呼ばれ、商売の町として栄えた大阪。今も独特の文化とパワーで日本を代表する大都市のひとつとして広く知られています。瀬戸内に面し広大な台地を持ち水利にも優れた難波の地は、何度か首都が置かれて政治の中心地となったことがありました。古くは507(継体天皇元)年に即位を果たした継体天皇筒城宮(京都府京田辺市)に遷都する511(継体天皇5)年までのあいだ都と定めて政務を執った樟葉宮(大阪府枚方市)に始まり、遷都こそされなかったものの(皇居は京都に置かれたままでした)戦国の世を統一した豊臣秀吉公が大坂城を築いて天下に号令を下すなど、事実上政治の中心地として機能していた時代もありました。また、明治維新の際には京都から首都を遷す際に一度はその候補地として名前が挙がったこともありました。





手水舎と並ぶ社務所(左)。社殿の傍らにある孝徳天皇の「沓脱ぎ石」(右)。


 
 今回ご紹介する豊崎神社のある場所は、645(大化元)年に起きた乙巳の変によって朝廷の実権を握った中大兄皇子中臣鎌足が、孝徳天皇を奉じて652(白雉3)年に遷都を行った難波長柄豊碕宮が置かれた場所といわれています。この宮は唐の長安を模して造営されたといわれており、「日本書紀」にも「その宮殿の状、殫に諭ふべからず」と記されていて、言葉で表現できないほど立派な宮殿が築かれていた様子を窺い知ることが出来ます。その所在地については、豊崎神社の辺りから長柄へかけての一帯に広がっていたという説や、淀川の右岸に広がる宮原地域にあったという説、大阪城の付近の法円坂辺りにあったという説などいくつかの説があり、法円坂には難波宮跡公園が整備されてます。なお、近年の調査では豊崎神社が宮の跡地であるという説は否定されてきています。





1934(昭和19)年の大空襲で燃えた社殿は、1964(昭和39)年に再建されました。


 
 653(白雉4)年に大和国への遷都を求める中大兄皇子孝徳天皇との間で対立が起こった際、天皇を置き去りにするかのように中大兄皇子が天皇の母である先帝・皇極天皇や皇后を連れて大和国に引き上げるという強硬手段を行い、臣下の大半もこれに従っていったために、非常に落胆された孝徳天皇は病に倒れて翌年この地で寂しく崩御されました。これを受けて皇極天皇は重祚して斉明天皇となり、威容を誇った難波長柄豊碕宮も廃されて飛鳥板葺宮に遷されることとなりました。

 遷都の後、皇居のあったといわれる豊崎の地は荒れ果てて松が茂る林となり、「八本松」と呼ばれるようになっていました。この状態を哀れた一条天皇藤田重治(一説には藤原重治とも)は、正歴年間(990年~995年)の頃、この地の開墾を進めるにあたって孝徳天皇ゆかりの地が歴史に埋没しないようにと孝徳天皇を祀る祠を建立したのが豊崎神社の始まりといわれています。その後、村人たちの希望を受けて、商業・農業の守護神であり病疫退散の守護神でもある素盞鳴尊が合祀されるようになりました。残念ながら1772(明和9)年6月に起こった火災のために社殿が炎上、代々伝わる由来書なども悉く焼失してしまったため、豊崎神社の由緒に関する詳細は分からなくなってしまっています。


 


社殿右隣には鹿島神社(左)が、境内北側には豊崎恵比寿神社(右)が祀られています。


 
 豊崎神社には1908(明治41)年に南長柄八幡宮が合祀されました。境内にも多くの摂社が鎮座しており、社殿の右隣にある鹿島神社は江戸時代初期に豊崎で疫病が蔓延した際、その鎮護の意味を込めて常陸国の鹿島神宮から勧請されたものです。また、1614(慶長19)年の大阪冬の陣の際、豊崎で休息を取るために村人・足立市兵衛宅へ立ち寄った徳川家康公が、差し出された麦飯にとても喜んで「永く足立と唱へよ」と家紋などを賜ったという故事にちなんで足立家邸に勧請されていた東照宮も1907(明治40)年4月に境内に遷座されており、相殿として厳島神社も祀られました。境内にはほかにも「商売繁盛の神様」である恵美須神社や「五穀豊穣の神様」である稲荷神社も祀られています。





恵比寿社と並んで鎮座している厳島神社・東照宮(左)と稲荷神社(右)。


アクセス
・大阪市営地下鉄御堂筋線「中津駅」下車、北東へ徒歩6分。
豊崎神社地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

難波の宮
山根 徳太郎,中尾 芳治
學生社

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大阪・三光神社。

2009年10月01日 | ◆大阪府
中風除け・富貴長寿

三光神社

(さんこうじんじゃ)
大阪市天王寺区玉造本町14-90

大阪七福神・寿老人

別 名
三柱神社・日月山神社







〔御祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
月読尊
(つくよみのみこと)
素戔鳴尊
(すさのおのみこと)


 社伝によると、三光神社は1600年前の反正天皇の治世(406~410年)の頃に創建されたといわれる古社で、景行天皇から仁徳天皇までの5代の天皇に244年の長きに渡って仕え、善く国政を補佐して活躍したとされる伝説上の人物・武内宿禰公の末裔である武川氏が神職を務められています。その縁もあって境内には長寿の神として武内宿禰公が祀られています。もともとは姫山神社と呼ばれていて、この一帯は「姫の松原」と呼ばれていたそうです。





石段の上には「一本足の鳥居」にくっつくように鳥居が再建されています。



 この三光神社が有名になったのは、大坂冬の陣において大阪方の猛将・真田幸村公がこの場所に陣を張ったことが大きいと思われます。関が原の戦いの後もなお大きな影響力を保っていた豊臣秀頼公の勢力(大坂方)と江戸幕府との対立が最高潮に達して勃発した大坂冬の陣では、真田幸村公は大坂城の広大な外堀の南側に陣を張って徳川方を迎え撃ちました。12月3日と4日の2日間に渡って行われた戦闘では、前田利常公を中心に総勢26,000人以上の兵力で攻め寄せた徳川方に対し、大阪方は真田幸村公率いる5,000人の軍勢をはじめ17,000の兵力をもって迎撃し、「真田丸・城南の攻防戦」と呼ばれた戦いは大損害を受けた徳川方の撤退をもって終結しました。この戦いに先立ち、比較的防御の薄かった大坂城の南に真田丸と呼ばれる砦を築いていた真田幸村公は城内に通じる抜け穴を設けており、その跡が今も境内に「真田の抜け穴」として残されています。ちなみにこの辺りを「真田山」と呼ぶのは真田幸村公が陣を敷いたことに由来し、対陣していた前田利常公の陣屋が近かったことから「加賀宰相」という別名にちなんで「宰相山」という呼び名も残っています。





真田丸と大坂城を繋いだ「真田の抜け穴」(左)と、真田幸村公像(右)。



 その後、三光神社は1661(寛文元)年に現在地の南東、御旅所があった圓珠庵(鎌八幡)の隣に移され、1706(宝永3)年には再び現在地に戻されました。時期ははっきりしていませんが、江戸時代には「中風封じ」のご利益で有名な陸前国の青麻三光宮(今の青麻神社)の御分霊を勧請して境内に祀っています。1908(明治41)年には、この三光宮が本殿に合祀されて神社名も「三光神社」と改められました。この「三光」という名は、青麻三光宮が崇拝していた日・月・星を表す「三光神(天照大御神・天之御中主神・月読尊)という3柱の神の総称から付けられた名前で、そのため「三柱神社」とも「日月山神社」とも呼ばれています。





復興された社殿(左)と、「大阪七福神」のひとつに数えられる寿老人像(右)。


 
 長い歴史を持つ三光神社も、1945(昭和20)年6月に行われた大阪大空襲では境内が炎に包まれ、周囲も灰燼に帰して全滅してしまいます。復興は絶望的だといわれていた三光神社を救ったのは、戦後の荒野をたくましく生き抜いた氏子崇敬者の皆さんの復興に懸ける熱い思いでした。まず本殿が再建され、続いて社務所や拝殿、大鳥居など5回に渡って境内が整備され、1600年の歴史を持つ古社は往時の姿を取り戻すことが出来ました。本殿前の鳥居には、空襲で破壊された鳥居の石柱が「世界の平和と国家の安泰を祈願して残す」という氏子奉賛会の人々の思いによって残され、「一本足の鳥居」と呼ばれて戦争の悲惨さを今に伝えています。境内は古くから桜の名所として知られ、毎年4月上旬は満開の桜を愉しむ地域住民の憩いの場となっていて、平和な日常の素晴らしさを感じることが出来ます。





仁徳天皇や野見宿祢などが祀られる摂社(左)と、北側の鳥居(右)。

アクセス
・JR大阪環状線「玉造駅」下車、西へ徒歩5分。
・大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線「玉造駅」下車、南へ徒歩2分。
三光神社地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料 (※御朱印は300円)

拝観時間
・常時開放 (※御朱印の受付は16時まで)

公式サイト



抜け穴物語―真田軍記
四橋 詳二
文芸社

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大阪・法案寺。

2009年09月29日 | ◆大阪府


志宜山 法案寺

(しぎさん ほうあんじ)
大阪市中央区島之内2-10-4

摂津国八十八ヶ所霊場・第1番札所
大阪七福神・弁財天

通 称
日本橋聖天
(にほんばししょうてん)



道頓堀から1本北に入ったところに、朱塗りの山門が立っています。


〔宗派〕
高野山真言宗 準別格本山

〔御本尊〕
大聖歓喜天像
(だいしょうかんぎてん)


 法案寺の創建は非常に古く、推古天皇が皇位に就いていた6世紀末から7世紀初頭にかけての時期に開かれたといわれています。当時は、摂政として活躍していた聖徳太子が、仏教の受け容れを巡って対立していた排仏派の物部守屋公を打ち破った直後の時期でした。593(推古天皇元)年には「物部守屋公を破る事が出来れば仏塔を造り仏法の弘通に努める」と手彫りの四天王像に戦勝祈願をした聖徳太子が、その約束を果たすために四天王寺の建立を開始していることから、法案寺もこの頃に創建されたと考えられます。





「志宜大将」の扁額が掲げられた楠稲荷大明神(左)と、美しい松(右)。



 法案寺は摂津国の志宜野に建てられたことから「志宜山」という山号が付けられ、聖徳太子がこの地で仏法や経典を広めるための公案をされた事から寺号を「法案寺」としました。創建の地・志宜野は現在の法円坂町付近のことで、法案寺の「法案」が時代を下るにつれて「法眼」、そして「法円」と転じて今の「法円坂」という地名になったといわれています。

 その後は時の移ろいと共に衰微していきましたが、室町時代に入った応永年間(1394~1428年)には、長い対立の末に南北朝合一が行われた「明徳の和約」の際の天皇・後小松天皇の第1皇子だった称光天皇が再興を発願。その勅命を受けた松永政廣公が尽力し、四天王寺と並ぶほどの大規模な伽藍が再建されて往時の華やかさを取り戻すことが出来ました。この時の伽藍の広大さは、法案寺の第3世・正教上人の帰依を受けた蓮如上人法案寺の敷地を借りて石山本願寺を建立したという記述が「天文日記」にあることでも推し量ることが出来ます。





山門をくぐった正面にある本堂。



 法案寺は、戦国時代に本願寺が石山から退去した直後に起こった火災で類焼して灰燼に帰し、その後1583(天正11)年に大阪城築城に伴って強制移転され、同様に焼失した生玉明神(現在の生国魂神社)と共に現在の天王寺区生玉町に移転しました。それ以来、法案寺生国魂神社の別当寺となり、神社にあった9つの官寺を束ねる立場にありました。江戸時代には幕府から寺領300石を与えられ、歴代の大坂城代が帰依したこともあったので、法案寺は隆盛していきました。

 明治時代に入ると、法案寺は1879(明治12)年に新政府によって出された神仏分離令に伴って全国に激しく吹き荒れた廃仏棄釈のあおりを受け、大阪府の命を受けて寺領を失うこととなり、現在地である大阪市中央区島之内に移転してきました。1883(明治16)年6月には復興されましたが、残念ながら境内は往時のような規模に復することは叶いませんでした。その後も、1945(昭和20)年3月には米軍による大阪大空襲で焼失するなど受難が続きますが、聖観音立像大聖歓喜天は疎開していて焼失を免れ、戦後復興した堂宇に戻されて人々の崇敬を集めています。





「聖天さま」を象徴する巾着の形の香炉(左)と弁天堂(右)。



 本堂には平安時代末期の作といわれる聖観音立像が安置されています。聖観音は十一面観音とも呼ばれていることから、この立像も「十一面さん」と呼ばれており、元旦から1週間の間のみ開扉されます。さまざまな資料では御本尊は薬師如来だとされていますが、お寺の方にお伺いしたところ、この「十一面さん」の奥に安置されている秘仏・大聖歓喜天が御本尊だそうです。大聖歓喜天は「日本橋の聖天さん」と呼ばれ、「貧を転じて福を与える神」として広く信仰を集めていますが、非常に人間臭い仏様のため願い事が成就した際にはきちんと御礼参りをしなくてはならないなど、実際に人と接する時のような礼儀作法をわきまえて向き合わなくてはなりません。





山門をくぐってすぐ右にある水掛け不動尊。


アクセス
・大阪市営地下鉄千日前線・堺筋線「日本橋駅」下車、北東へ徒歩5分。
・近畿日本鉄道難波線「日本橋駅」下車、北東へ徒歩5分。
法案寺地図   Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  (※御朱印は300円)

拝観時間
・7時30分~16時

公式サイト



全国七福神めぐり―七難をさけて七福を得る
工藤 寛正,みわ 明
東京堂出版

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大阪・通天閣。

2008年07月19日 | ◆大阪府


通天閣

(つうてんかく)
大阪市浪速区恵美須東1-18-6

大阪のシンボル



雑多な雰囲気の中にも、なぜか人々を惹きつける魅力を持つ「新世界」。




 神戸のポートタワー、東京の東京タワー、姫路の姫路城や京都の京都タワー東寺五重塔など、街のシンボルとなるランドマークを持つ都市は数多くあります。そんなランドマークのひとつとして、大阪城とともに日本有数の大都市・大阪を象徴しているのが、天王寺エリアにそびえ立つ通天閣です。5階には幸運を呼ぶ神様・ビリケンさんの像が置かれた展望台があり、4階にも展望台や喫茶店があります。3階はイベントホールとして利用できる貸スペースがあり、2階には展望台へのエレベータ乗り口や売店があります。

 また、地下にはNHKの朝のドラマ「ふたりっ子」で有名になった通天閣歌謡劇場があります。ここは道頓堀にあったB1角座が閉鎖されたために代替施設として利用されることが決まり、「スタジオ210」と改称されました。2008(平成20)年7月5日からは、松竹芸能による演芸イベント「通天閣劇場 TENGEKI」が土・日曜日に行われ、これまで週末に行われていた歌謡ショーが「通天閣歌謡劇場」のタイトルで毎週月曜日に開催されています。庶民文化の中心地として大阪市民に深く愛されている通天閣は、2007(平成19)年5月15日付で国の有形文化財に登録されました。



 
にぎやかな新世界の町並み(左)。ここをまっすぐ行くと、通天角の入口に辿り着きます(右)。


 日本の近代化を急速に進めていた明治新政府は、殖産興業政策の一環として、1877(明治10)年に東京・上野公園を会場に第1回内国勧業博覧会を開催しました。そして、大阪でも1903(明治36)年に天王寺周辺を第1会場、堺を第2会場として第5回内国勧業博覧会が開催されました。天王寺会場では、開門を待つ人の列が遥か1キロ先の日本橋まで伸びるほどの大盛況だったそうです。

 博覧会跡地の大部分は天王寺公園として整備され、残った土地は民間企業に払い下げられました。「新世界」と呼ばれるこの地域には、パリをイメージした放射線状の通りが整備され、南エリアに作られた遊園地・「ルナパーク」とともにランドマークとなる塔が建設されました。下半分が凱旋門、上半分がエッフェル塔を模して1912(明治45)年に建てられたこの塔の名は、「通天閣」。儒学者の藤沢南岳氏によって「天に通じる高い建物」という意味で名付けられたこの塔の工事には、のちに松下電器産業を興して立志伝中の人物となった松下幸之助氏も配電工として参加していました。



 
5階展望台からの景色。スパワールドやフェスティバルゲートなどが並ぶ南側の景色(左)と、
天王寺動物園や大阪市立美術館などがある天王寺公園方面を望む東側の景色(右)。


 初代の通天閣は、真下にあった映画館から出た火災によって鉄骨がむき出しになって溶けるなど強度が大きく落ち、危険な状態となったために残念ながら解体されてしまい、軍需用資材として大阪府に供出されました。1943(昭和18)年のことです。さらに1945年(昭和20年)の大阪大空襲のため、新世界一帯は灰燼に帰しました。しかしながら、戦災からの復興の象徴としてもう一度通天閣を復活させようという地元の人々の熱意が高まり、1956(昭和31)年に見事に再建されました。避雷針を含め、103mの全高を誇る2代目通天閣東京タワー名古屋テレビ塔なども手がけた早稲田大学内藤多仲教授によって設計されたもので、関東大震災級の大地震や風速70mの強風にも耐えられる構造の建築物として建てられました。

 翌1957(昭和32)からは、塔の側面に日立製作所の広告が設置されました。以来、内容こそ時代とともに変更されこそすれ、一貫して日立製作所の広告看板が通天閣を彩り続けています。また、夜は塔全体がゴールドと白を基調としたネオンでライトアップされ、塔頂部分には翌日の天気予報を表すネオンサインが点灯されています。大阪管区気象台から専用回線でリンクされているこのネオンサインは、晴を白、曇をオレンジ、雨を青、雪をピンク色で表現していますので、夜にここを訪れた際はぜひ確認してみてください。毎時0分ちょうどになるときれいなグラデーションで光り輝く大時計も要チェックです。



 
5階展望台にはビリケンさま(左)や、昔のエレベーター部品などが展示されています(右)。


 5階の展望台には、「ビリケンさん」が安置されています。足の裏を撫でて願い事をすると、必ず願いを叶えてくれるという幸運の神様・ビリケンさんは、1908(明治41)年にアメリカの女性彫刻家であるE=I=ホースマンさんの夢枕に現れた「世界に幸運をもたらす神様」を具現化したキャラクターといわれています。世界的に流行していたこのキャラクターは、1912(明治45)年に新世界ルナパークが開園された際に安置され、幸福を夢見る人々の人気を博していましたが、閉園と同時に行方不明となったまま長い年月が経っていきました。

 ビリケンさんが復活したのは、1980(昭和55)年のこと。初代の写真など資料が残されていなかったことから復元は難航しましたが、ビリケン像の版権を持っていた企業の好意によってビジュアルイメージの提供を受け、伊丹市の彫刻家・安藤新平氏によって木彫りのビリケン像が製作されて見事に復活を果たしました。



 
2階にある遊び心満載の「ビリケンロマン通り」(左)。右は、北から見た通天閣です。



アクセス
・JR大阪環状線「新今宮駅」下車、北東へ徒歩10分
・大阪市営地下鉄堺筋線「恵美須町駅」下車、南東へ徒歩3分
・大阪市営地下鉄御堂筋線「動物園前駅」下車、北へ徒歩10分
・阪堺電軌阪堺線「恵美須町駅」下車、南東へ徒歩3分
通天閣地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:600円、大学生:500円、中高生:400円、小人:300円

拝観時間
・10時~18時30分
 ※年始(1月1~10日)10時~20時、夏季(7月21日~8月31日)10時~20時30分

公式サイト
  通天閣オフィシャルサイト



大阪・玉造稲荷神社。

2008年07月04日 | ◆大阪府
商売繁盛・子孫繁栄・芸能向上・家内平安

玉造稲荷神社

(たまつくりいなりじんじゃ)
大阪市中央区玉造2-3-8




伏見稲荷大社からの勧請ではない稲荷社。創祀年代の古さから「もといなり」との呼び名も。



〔御祭神〕
宇迦之御魂大神
(うがのみたまのおおかみ)

下照姫命(したてるひめのみこと)
雅日女命(わかひるめのみこと)
月読命(つきよみのみこと)
軻遇突智命(かぐつちのみこと)



 大阪城の南方に位置する玉造。ここは、古代より交通の要衝として多くの街道や水路が通っており、651(白雉2)年には孝徳天皇によって難波宮が築かれるなど古くから栄えていた地域でした。また、「日本書紀」に記されているように、493(仁賢天皇6)年の話として朝鮮半島から渡来した工匠に関する記述があることから、勾玉などを製作する玉造部が居住していたことが分かります。そういった歴史ある町に鎮座しているのが、玉造稲荷神社です。



 
1954(昭和29)年に再建された社殿(左)と、その前にある利休井(右)



 社伝によると、紀元前12(垂仁天皇18)年の秋に創建されたといわれる古社で、もともとは比売社と称していたそうです。この周辺には、紀元前1世紀ごろには弥生文化が伝わり、人々も定住して生活を営んでいたということなので、豊作や豊漁などを祈願する祭祀の場が設けられていたいう可能性は十分考えられます。

 比売社は、588(用命天皇3)年に社殿の改築が行われたという記録が残されていますが、この前年の587(用命天皇2)年に仏教の受け容れを巡る争いが高じて物部守屋公と武力衝突する事態に至った聖徳太子蘇我馬子公が、ここ玉作岡に陣を敷いて「吾に勝利を与えるならこの栗の白木に枝葉を生じさせ給え」と戦勝祈願したといいます。のちに枝葉が生え、戦乱も無事勝利のうちに終わったことから、戦勝に対する感謝の意味を込めて社殿整備を行ったと考えられます。一説には、このとき聖徳太子自ら彫ったといわれる十一面観音像多聞不動像を祀る観音堂が建立されたといい、四天王寺の最初の創建地だったのではないかとも言われています。



 
縁結びにご利益があるといわれる「恋キツネ」(左)と、社殿の東側に並ぶ多くの摂社(右)。



 戦国時代には織田信長公による石山本願寺攻略時の兵火によって1576(天正4)年に境内が悉く焼失しますが、稲荷神を厚く信仰していた豊臣秀吉公によって経済的な支援が行われ、大阪城の鎮守神とされて五幸稲荷大明神として崇敬を集めました。大阪城で行われる神事の大半は、当時「豊津稲荷神社」とも呼ばれていたこの神社の神職によって執り行われていました。1603(慶長8)年には豊臣秀頼公によって社殿や月見・花見のための高殿が建立され、境内に残されている石鳥居もこのとき寄進されています。

 1615(元和元)年の大阪夏の陣の兵火によって焼失した玉造稲荷神社は、1619(元和5)年に入って大坂城代・内藤紀伊守信正公を始め、氏子や崇敬者の皆さんの寄進によって再建されました。江戸時代には交通の要衝地としてお伊勢参りの出発地とされ、境内にあった観音堂大坂三十三所観音の第10番札所とされていたこともあって多くの参拝客で賑わっていました。

 その後、1863(文久3)年11月に起こった「新町焼」と呼ばれる大火事によって全焼しましたが、1871(明治4)年に再建。1945(昭和20)年6月の大阪大空襲によってまたもや焼失しますが、戦後の政教分離により、「玉造稲荷社」「玉造いなり」など古くから使われていた呼び名にちなんで、宗教法人玉造稲荷神社として再出発、1954(昭和29)年には氏子の皆さんの尽力によって境内の再建・整備が行われて現在に至ります。



 
豊臣秀頼公寄進の石鳥居(左)と、地元ゆかりの千利休の顕彰碑(右)。



 社殿のすぐ東隣には陸上海上交通の守護神として有名な厳島神社があります。境内にある池は白龍が現れたといわれる池で、雨乞いに霊験があるといわれています。その隣には、江戸時代の享保年間に大阪城内のさまざまな屋敷に祀られていた稲荷社を1社にまとめて建立されたといわれる万慶稲荷神社と、大阪城代・松平輝和公の屋敷に祀られていた稲荷社を(明治40)年に境内に遷座したといわれる新山稲荷神社豊臣秀頼公の胞衣を祀るといわれる胞衣塚大明神が立っています。

 1603(慶長8)年に豊臣秀頼公が境内を整備された際に寄進されたという石鳥居も残されていますが、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災によって基礎部分が壊れてしまったため、上半分のみが保存されています。その隣には、この辺りに屋敷を構えていたといわれる名茶人・千利休の遺徳を偲んで1977(昭和52)年に大阪青年会議所の働きかけによって建てられた千利休居士顕彰碑があります。



 
1986(昭和61)年に創祀2000年祭の奉祝記念として開館した難波・玉造資料館(左)と、
地元出身の漫才作家・故秋田實氏を顕彰する「笑魂碑」(右)。



アクセス
JR大阪環状線「森ノ宮駅」下車、南西へ徒歩10分
大阪市営地下鉄中央線「森ノ宮駅」下車、南へ徒歩8分
JR大阪環状線「玉造駅」下車、北へ徒歩10分
大阪市営地下鉄長堀・鶴見緑地線「玉造駅」下車、北へ徒歩8分 ほか
玉造稲荷神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
  玉造稲荷神社ホームページ

大阪・豊国神社(大阪城)。

2008年06月27日 | ◆大阪府
出世開運

豊国神社(大阪城)

(ほうこくじんじゃ)
大阪市中央区大阪城2-1



大阪城本丸の南側、二の丸の南東部分に広がる境内。この鳥居から参拝します。


〔御祭神〕
豊臣秀吉公
(とよとみひでよし)
豊臣秀頼公
(とよとみひでより)
豊臣秀長卿
(とよとみひでなが)


 織田信長公の後を継いで、天下統一の偉業を成し遂げた名将・豊臣秀吉公。その遺徳を偲んで、豊臣秀吉公ゆかりの各地に「豊国神社」が建てられました。前回ご紹介した京都市東山区の豊国神社や、出生の地のある愛知県名古屋市中村区、領主となって手腕を振るった滋賀県長浜市にも神社が建てられ、さらには石川県金沢市にも、豊臣秀吉公と友情を育み豊家五大老の一人として律儀に誠実に豊臣政権を支えた前田利家公の遺命を受けて豊国神社が建てられています。石山本願寺が退去した要害の土地に築かれた、安土桃山時代を代表する巨大城郭・大阪城の二の丸跡地に建立されている豊国神社も、豊臣秀吉公の遺徳を偲んで建てられた神社のひとつです。



 
1905(明治38)年に建てられた二の鳥居(左)と、2007(平成19)年4月に
再建された豊臣秀吉公銅像(右)。高さは5.2メートルあります。


 徳川家康公によって京都・東山の豊国社が破却されるなど、江戸時代には豊臣秀吉公の遺徳を偲ぶものは悉く破壊の憂き目に遭いましたが、そんな不遇の時代も大政奉還によって徳川幕府が瓦解し、明治新政府が発足したことによってピリオドが打たれます。貧しい身分から位人臣を極める立身出世を果たしたということで庶民からの人気が根強かった豊臣秀吉公を高く評価することで、徳川幕府の歴史を貶め明治新政府の正当性を高める効果を狙った、という政治的思惑もあって、各地で豊臣秀吉公ゆかりの史跡の建立や復興が進められました。




豊国神社の社殿。1961(昭和36)年1月に遷座されました。


 1868(明治元)年、大阪に行幸された明治天皇によって、国家に対し大きな功績のあった豊臣秀吉公の遺徳を讃えるための神社建立の勅命が下されました。それによって、まず1873(明治6)年に京都に豊国大明神を祀る豊国神社が建立され、その別社として1879(明治12)年11月に大阪にも豊国神社が建立されました。このとき鎮座地に選ばれたのは、現在地よりもさらに市街地の中心に近い中之島地区でした。中之島に建てられた豊国神社は、1912(大正元)年に大阪市中央公会堂の建設に伴って現在大阪府立図書館が建っている西側の公園内に移転されました。  ※簡単な位置関係図



 
1879(明治12)年に豊国神社の摂社として遷座された白玉神社(左)と、
1927(昭和2)年に御堂筋の拡張に伴って移転された若永神社(右)。


 1935(昭和10)年あたりから、大阪市庁舎の増築を理由に、隣接する豊国神社の移転が検討されるようになります。戦争の激化に伴って一時下火になっていた移転計画は、終戦後の1956(昭和31)年から具体的に話が進められ、豊臣秀吉公ゆかりの大阪城への遷座が決定されて1961(昭和36)年、桜門南側の二の丸の跡地に社殿が建立されました。戦争中、陸軍第四師団司令部が設置されていた大阪城には、空襲や本土決戦に備えて各所に地下陣地が築かれており、豊国神社が遷座された二の丸にも地下司令部が構築されていたそうです。



 
名作庭家・重森三玲氏の指導のもと1972(昭和47)年に作られた「秀石庭」(左)と
社殿左奥に立つ鳥居(右)。1897(明治30)年建立の銘が刻まれています。



アクセス
・JR大阪環状線「森ノ宮駅」下車、北西へ徒歩10分
・JR大阪環状線「大阪城公園駅」下車、南西へ徒歩15分ほか
豊国神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
  出世開運の神様 豊國神社ホームページ

大坂城 (PHPムック)
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