神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

東京・湯島天満宮。

2007年09月29日 | ▽関東・甲信越
学業成就・開運招福・就業成就

湯島天満宮

(ゆしまてんまんぐう)
東京都文京区湯島3-30-1



1667(寛文7)年に建てられた銅製の鳥居。東京都の指定有形文化財です。


〔御祭神〕
天之手力雄命
(あまのたぢからおのみこと)
菅原道真公
(すがわらみちざねこう)


 JR御茶ノ水駅から聖橋を越えてまっすぐ北へ道なりに向かうと、銅製の味のある鳥居を見つけることが出来ます。ここが江戸にある天満宮でも一番有名な神社である湯島天満宮です。「学問の神様」として名高い菅原道真公を祀っており、受験シーズンには多くの受験生たちが合格祈願に詰め掛けます。また江戸時代初期より、境内に咲き誇る見事な白梅で有名な神社で、初春には白梅めあての参拝客で大変な賑わいをみせます。




1995(平成7)年に再建された社殿。拝殿と本殿が繋がる権現造の建物です。



 458(雄略天皇2)年の1月、勅命によって天之手力雄命を祀る社を建てたのが始まりといわれています。天之手力雄命は、天照大御神が天岩戸に姿を隠したために世の中が暗闇に包まれたという「天岩戸伝説」の際、わずかに開いた岩戸の隙間に腕をさしこみ、天照大御神の手をつかんで引っ張り出して再び世界に光を取り戻すことに貢献した強力の神として知られています。




湯島天満宮が登場する「婦系図」の作者・泉鏡花の「筆塚」。
白梅で有名な梅園の中に1942(昭和17)年に建てられました。



 湯島天満宮の歴史の中でよく出てくるのが「夢」です。室町時代初期の1355(正平10・文和4)年、近隣の住民が見た「夢」がもとで、湯島の古い松の木の下に菅原道真公を祀る祠を建てたのが湯島天満宮の始まりだといわれています。社伝では前述したように458年建立となっていますが、実際の創建はこの室町時代初期のことではないかという説が有力です。

 その次は、江戸城の築城で知られる室町時代の武将・大田道灌公が見た「夢」です。ある時、菅原道真公の夢を見た大田道灌公は、偶然にも目覚めた朝に菅原道真公直筆の絵の寄贈を受けたことから不思議な縁を感じ、湯島の神社に菅原道真公を祀って社殿の再興に尽力されたといわれています。




左が笹塚稲荷神社、右が天之手力雄命とつながりの深い戸隠神社です。



 安土桃山時代になって徳川家康公が江戸に移ってきてからは、徳川家からの崇敬を受けるようになり、多くの学者や文人が湯島天満宮を崇敬するようになりました。1703(元禄16)年には火災で全焼してしまいますが、翌年に第5代将軍・徳川綱吉公から金500両の寄進を受けて無事再建を果たしました。江戸時代末には上野の寛永寺の喜見院が別当を兼ねる時期もあったそうです。

 明治維新後の1872(明治5)年に郷社に列せられ、1885(明治18)年には府社に昇格しました。現在は神社本庁の別表神社に指定されています。2000(平成12)年3月末に湯島神社から湯島天満宮に神社名が改められました。




1981(昭和56)年に設置されたガス灯。
明治の頃は境内に5基のガス灯があったそうです。



アクセス
・東京メトロ「湯島駅」下車、西へ徒歩2分
 湯島天満宮地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・6時~20時

公式サイト
   湯島天神公式サイト



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神戸・船寺神社。

2007年09月23日 | ■神戸市灘区
厄除け・航海安全・交通安全・家内安全


船寺神社

(ふなでらじんじゃ)
神戸市灘区船寺通2-1-25




阪神電鉄の高架の南、東向きに立つ鳥居。1973(昭和48)年に再建されました。


〔御祭神〕
八幡大神
(はちまんたいしん)
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
春日大神
(かすがたいしん)


 「有馬郡誌」によると、船寺神社はもともとは摂津国有馬郡の羽束郷にある大舟山の山上に創建された「船寺」という名の寺院の鎮守社として創祀された「八幡神社」にそのルーツがあるといわれ、のちに莵原郡の大石川の西に遷されたと伝えられています。「船寺」という地名はそれに因んで付けられたもので、1469(文明元)年に編纂された「都賀荘寺庵帳」という文献にはこの地に舟寺という名前の寺院があった事が記されています。ただ、船寺神社のある辺りは古来より「深淵」と呼ばれており、江戸時代中期の寛政年間(1789~1801年)頃に「船寺谷」と改称されています。
 この船寺は、1868(明治元)年に出された神仏分離令の影響で1875(明治8)年に廃寺になり、鎮守社であり河原村の氏神として崇敬を集めていた八幡神社が「船寺神社」として独立存続したと伝えられています。11月に行われる例大祭では、金獅子6頭をおしたてて100名を越える奉仕者が氏子地域を練り歩くことでも有名な神社です。





鳥居の脇にある「厄除東向八幡宮」の石碑(左)。境内にも多くの石碑が建てられています(右)。



 船寺神社神功皇后ゆかりの神社としても知られています。三韓征伐から都への凱旋の航海を続けていた神功皇后率いる船団は、灘の敏馬の浦にさしかかった際に暴風雨に襲われ、風雨を避けるために深淵と呼ばれたこの辺りに停泊して難を逃れたといわれています。
 前述した創祀に関する伝説には他にもいくつかの説があります。地形的に海上交通や陸上交通の要衝だった船寺地域ではありましたが、南北を貫いて流れる都賀川の河原部分にあたるために、長雨が続くたびに起こる水害に悩まされていました。そのため、神威によって難を避けようと888(仁和4)年に京都の石清水八幡宮から八幡大神を勧請し、都賀川が流れる東の方角に向けて社殿を建てて諸難除けを祈願したのが船寺神社の始まりだという説もあります。





1966(昭和41)年に再建された、鉄筋コンクリート造りの社殿。

社殿右手には、御神木を祀った岩楠社(左)と船吉稲荷大明神(右)が鎮座しています



 さらには「八幡太郎」の異名で知られ、武士勢力台頭の黎明期の象徴として名高い源義家公にまつわる説も残されています。1082(永保2)年、灘の沖を航行していた源義家公は、海中で光を放つ不思議な物体を発見します。不審に思った源義家公が発光体を追ううちに、導かれるかのように船は深淵の岸へと辿り着きました。そこで深淵の地が神功皇后ゆかりの地である事を知った源義家公は、これこそ天の導きであったかといたく感激し、さっそく都賀庄の公文に命じて天照大御神を祀る社を建てさせたのが船寺神社の始まりだといいます。いくつかご紹介したように、船寺神社の起源については諸説ありますが、実際にはこの時に初めて社殿が建てられ、八幡大神天照大御神を祀ったのではないかという説が一番有力なようです。
 1362(正平17)年には都賀野行家公によって奈良・春日大社より春日大神が勧請され、1668(寛文8)年には江戸幕府第4代将軍・徳川家綱公の寄進を受けて拝殿などの増改築が行われました。この社殿は、残念ながら1945(昭和20)年の神戸大空襲によって全焼し、長らく仮殿での祭祀が続けられてきましたが、焼失から20年経った1966(昭和41)年になって鉄筋コンクリート造りの社殿が再建されました。





以前は屋根に大きな看板が掲げられていた神社会館(左)。右は国道2号線沿いに立つ石碑。


アクセス
・阪神電車「大石駅」下車、南西へ徒歩1分
船寺神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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神戸・大土神社。

2007年09月21日 | ■神戸市灘区
家内安全・事業繁栄・学業成就


大土神社

(おおつちじんじゃ)
神戸市灘区鶴甲3-15-24




六甲登山口交差点から六甲ケーブル下駅へと向かう道の脇に鎮座する大土神社。


〔御祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
住吉大神
(すみよしたいしん)
菅原道真公
(すがわらのみちざねこう)


 阪急六甲駅の北には、神戸大学神戸松蔭女子学院大学という2つの大きなキャンパスがあり、朝夕授業へと向かう学生たちの列が続いています。駅から六甲登山口の交差点を経由し、両キャンパスの間を抜けて六甲ケーブル下駅へと続く坂道をほぼ登りきったところに、小さな神社が鎮座しています。この神社の名は大土神社。「水車のお宮さん」とも呼ばれて崇敬を集めています。





無作為に伸びる野の草が境内を彩っています。



 18世紀の初め頃、この地域では紀州の郷士であった田林宇兵衛という人が六甲川の急峻な流れに目をつけ、菜種を搾って灯油を生産する目的で水車を建て始めました。天明年間(1781~89年)には25基の水車が操業していたことが記録に残っています。産業が興るにつれて雇用が生まれ、人が集まってきたことでコミュニティが成立していきました。水車新田村と呼ばれたこの村の守護神として、また搾った油を出荷する際の船の航行の安全祈願のために大土神社が創建されたのは1748(寛延元)年のことでした。





1748(寛延元)年に創建された大土神社の社殿。



 境内には駐車場も設けられていますが、その傍らに蛙の形に似た自然石が置かれています。この石は「蛙石」と呼ばれるもので、旅に出かける前に撫でて参拝すると「無事かえる」、つまり旅行安全の御利益があるといわれています。元々は大土神社のずっと南にあって鉄柵で囲われていましたが、道路建設の都合で大土神社の境内に移されたそうです。伝説では、この石は夜な夜な山道の真ん中まで現れ、大きな蛙の姿になっては人々を驚かせていたそうです。そこで村人は、出て来られないよう石の周囲を鉄柵で囲み、「蛙まつり」と称してこの石を祀ったといわれています。さらに、蛙石の後ろにはオタマジャクシの形をした石が幾つかあり、年々少しずつ大きくなっていたという伝説も残されています。





境内西の六甲川。この清流では蛍も見ることが出来ます。


アクセス
・阪急電車「阪急六甲駅」下車、北へ徒歩20分
・神戸市バス26系統「昭生病院」バス停下車、北へ徒歩2分
大土神社地図  Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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京都・渉成園。

2007年09月20日 | ◇京都府 -洛中

渉成園

(しょうせいえん)
京都市下京区烏丸通七条下ル



東本願寺(真宗大谷派) 飛地境内



渉成園西門。この先に広がる「洛中の静寂」。


〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)
~持仏堂・園林堂内~


 JR京都駅から京都タワーの脇を北へ向かうと、巨大な門構えが目に飛び込んできます。ここは正式名称を真宗本廟、一般に「東本願寺」や「お東さん」と呼ばれる真宗大谷派の本山で、巨大な門は御影堂門といいます。東本願寺にはここ以外にも、御影堂門から東へ3分ほど歩いたところに飛び地の境内があります。約10,600坪の広さを持ち、美しい池泉回遊式庭園を持つこの境内は渉成園と呼ばれ、都会の喧騒から隔離された洛中の静寂を私たちに与えてくれます。1602(慶長7)年に徳川家康公より烏丸の土地を寄進されて建立された東本願寺は、さらに第13代宣如上人のときの1641(寛永18)年に徳川家光公より東側の土地の寄進を受けます。宣如上人は1653(承応2)年に隠棲の地をここに定め、徳川家康公近侍として活躍したこともある文人・石川丈山に作庭を依頼しました。東晋の詩人・陶淵明の詩の一節にある「園日渉而成趣(園、日に渉って趣を成す)」を採って渉成園と名付けられたこの庭園は、かつてカラタチの生け垣に囲まれていたことから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれ、代々の門主の隠居所となりました。





庭園までの道のりにも様々な演出が(左)。右は北側の池を囲む臨池亭と滴翠軒。



 渉成園にはゆったりと水を湛える印月池が南東に広がり、桜やカエデをはじめ椿・菖蒲・ツツジや睡蓮などの豊かな自然に包まれ、多くの水鳥が羽根を休めています。この自然を支える豊富な水は、かつては東側を流れる高瀬川から引いてきていたのですが、明治に入って高瀬川の水位が下がったこともあって難しくなっていました。この頃、防火水源の確保のため、1885(明治18)年から工事が始められて東山の蹴上まで伸びていた琵琶湖疏水から東本願寺まで水を引くことが計画され、1897(明治30)年に「本願寺水道」と呼ばれる分流が完成しました。渉成園もこの本願寺水道を利用して邸内の水源を確保することに成功しました。今では北側・臨池亭前の池へと引き込まれた流れは、邸内の鑓水によって南東の広大な印月池へと導かれています。





1892(明治25)年再建の傍花閣。2階建の楼門造り。



 渉成園は、もともとは平安時代に嵯峨天皇の息子で『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとなった源融卿が邸宅を構えていた六条河原院の跡地だったのではないかという話が古くから伝えられていました。それにちなんで印月池には、源融卿の供養塔といわれる九重の石塔が建てられています。『源氏物語』では、光源氏が四季になぞらえて4つの御殿を建て、それぞれに愛する女君を住まわせたという六条院があった場所とされています。近年の調査では六条河原院は現在渉成園が広がる場所よりも東北にあったという説が強くなっています。





1884(明治17)年に再建された回棹廊。



 1858(安政5)年の安政の大火と1864(元治元)年の蛤御門の変による兵火で灰燼に帰した渉成園。池泉や道などは作庭当時のままの姿を残していますが、建造物に関しては1865(元治2)年に再建された漱枕居閬風亭をはじめ、ほとんどが後年に建てられたものです。焼失以前の景色については1827(文政10)年にここを訪れた頼山陽が「渉成園記」の中で絶賛、「渉成園十三景」として紹介しています。1936(昭和11)年には国の名勝に指定されました。





縮遠亭の麓にある侵雪橋(左)と、印月池に浮かぶ北大島(右)。



 (東本願寺)
東本願寺(真宗本廟)に関しては、当ブログ「東本願寺(真宗本廟)」に掲載しております。ぜひご覧ください。

アクセス
・JR「京都駅」下車、北東へ徒歩10分
渉成園地図  【境内MAP】 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・「参観者協力寄付金」という形で500円以上の寄付金から志納。

拝観時間
・9時~16時(受付は15時30分まで)




長岡京・乙訓寺。

2007年09月12日 | ◇京都府 -洛外

大慈山乙訓寺

(だいじさん おとくにでら)
京都府長岡京市今里3-14-7

洛西三十三観音霊場・第6番札所





〔宗派〕
真言宗豊山派

〔御本尊〕
合体大師像
(がったいだいしぞう)



 7世紀のはじめに推古天皇の勅願によって聖徳太子十一面観音像を御本尊として創建したのが乙訓寺の始まりといわれ、京都最古の寺院といわれる広隆寺とほぼ同時期の建立ではないかと見られています。桓武天皇が長岡京へ遷都した際には「京内七大寺」の筆頭としての寺格を与えられて大規模な伽藍の増築が行われたそうです。

 ちなみに「乙訓」という地名は山城国葛野郡から新しい郡を分離させる際、葛野を「兄国」、新しい郡を「弟国」と呼んだことから付いた名前だといわれています。越前国から王朝を継いだ継体天皇が518年に河内国で即位されたのち、同年3月に都を移したのが「弟国」といわれ、その時に宮を築いたのが乙訓寺のあるあたりだといわれています。




空海が唐から持ち帰ったという故事から植えられた蜜柑の木。



 784(延暦3)年に行われた長岡京への遷都。天武系から天智系への皇統の移動、南都仏教勢力の政治力を削ぐため、大仏建立後も災難が続くなど鎮護都市としての効力に期待が持てなくなったため、など様々な理由が考えられますが、新都造営にかかる莫大な出費や南都仏教勢力の抵抗など、遷都への反対意見も強かったようです。

 そんな状況で始められた長岡京の造営工事のさなか、建都長官の藤原種継卿が建築現場で暗殺されるという大事件が起きます。たちまち容疑者として遷都反対派だった大伴一族が検挙され、一族の長・大伴継人卿が斬罪の処されます。さらに大伴一族と深い交流があったという理由で、桓武天皇の異母弟である早良親王が黒幕の嫌疑を掛けられて乙訓寺に幽閉されるという事態に発展します。




長岡京市の指定文化財である本堂。



 実の息子・安殿親王への譲位を望む桓武天皇にとって、幼少期に東大寺で修行し、還俗して親王となったのちも奈良の寺院勢力に対して影響力を持っていた早良親王に対する警戒は強かったはずで、暗殺事件に乗じて無実の罪を被せて陥れたと考えられます。早良親王は身の潔白を訴え、断食して抗議しますが、淡路島への流罪となって護送される途中、淀川沿いの河内国高瀬橋付近で衰弱して無念の死を遂げます。しかし遺骸は都に戻されることなく、非情にもそのまま淡路島へ送られて葬られました。

 それ以後桓武天皇の周囲を襲った悲劇は凄まじく、夫人である藤原旅子と母・高野新笠が相次いで亡くなり、皇后・藤原乙牟漏までもが31歳の若さで急逝します。安殿親王も病いに伏せることが増え、悪疫の流行や天変地異が相次いで起こり、「早良親王の怨霊の成せる業である」ということで親王鎮魂のために様々な対策を施しますが、最終的に風水的により怨霊から身を護ることが出来る都・平安京への遷都を行うに至りました。




ご本尊「合体大師像」でゆかりの深い八幡宮が鎮座しています。



 811(弘仁2年)になると、嵯峨天皇の勅命を受けた弘法大師・空海が別当として乙訓寺にやってきます。唐に渡り、長安の青龍寺で密教第7祖である恵果和尚の灌頂を受け、真言密教の奥義を極めて帰国した空海に大きな関心を寄せていた嵯峨天皇にとって、早良親王ゆかりの乙訓寺空海を配したのは、その霊験で怨霊を鎮めるという効果も期待してのことだったと思われます。

 翌年10月には、乙訓寺において初めて空海最澄が顔をあわせました。唐で学ぶ期間の短かった最澄にとって、空海から学ぶ「真言の法」は大変有意義なものだったと考えられます。その後2人は宗教観の違いから袂を分かつ結果となりましたが、仏教界の両巨頭が始めて対面した場所として、乙訓寺は大きな舞台の役割を果たしました。




修行大師像



 菅原道真公を重用したことで有名な宇多天皇は、醍醐天皇へと譲位したのち仁和寺で出家して法皇となり、897(寛平9)年に乙訓寺を行在所として移られてきました。これにちなんで乙訓寺「法皇寺」とも呼ばれるようになりました。室町時代には内紛が起こるなど次第に寺勢は衰えを見せます。足利義満公によって僧侶たちの追放が行われて南禅寺伯英禅師が配され、一時期乙訓寺は禅寺となったこともありました。戦国時代の兵火に巻き込まれたことも時勢の衰退に拍車をかけたようです。

 江戸時代中期、乙訓寺徳川綱吉公の大きな信任を受けた新義真言宗の僧・隆光の手によって再興が行われ、境内の整備がなされて再び真言宗の寺院として勢力を取り戻すこととなりました。隆光が学んだ長谷寺は7000を越える牡丹でも有名で、その縁から昭和に入って長谷寺から牡丹が移されて境内を彩っています。




国指定の重要文化財・毘沙門天立像が納められている毘沙門堂。



アクセス
・阪急電車「長岡天神駅」下車、北へ徒歩15分
・阪急電車「長岡天神駅」より阪急バス20系統にて「薬師堂」下車、北東へ徒歩3分
 乙訓寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人300円、小人100円

拝観時間
・8時~17時

公式サイト
   京都洛西・乙訓寺

神戸・皇大神社(垂水)。

2007年09月08日 | ■神戸市垂水区
漁業繁栄・商売繁盛・家内安全

皇大神社(垂水)

(こうたいじんじゃ)
神戸市垂水区平磯4-4-18




境内のすぐ北をJRが通過していきます。


〔御祭神〕
大日霊貴尊
(おおひるめのみこと)


 JR垂水駅のホームのすぐ南に鎮座する海神社の存在は、多くの方がご存知だと思います。しかし、もう一つ、JR垂水駅の東側にあって車窓から一瞬見える小さな神社の存在に気付かれる方は少ないかもしれません。この神社は「大神宮さん」と呼ばれて地域の人々の崇敬を集めている皇大神社です。JR垂水駅の東改札口を出て、線路沿いの路地を入ってすぐのところに鎮座するこの皇大神社は、その名の通り大日霊貴尊(天照大御神)をお祀りする神社で、江戸時代には東垂水村の鎮守社として厚い崇敬を集め、畑作と漁業を生業とする村人たちを護ってきました。





1980(昭和55)年に再建された社殿。



 かつて皇大神社の南には海が広がり、北側も小川が流れて周辺は畑に囲まれていたため、陽射しも明るく降り注ぐ見晴らしの良い境内でしたが、1888(明治21)年に入って兵庫から明石の間に鉄道が敷設され、境内のすぐ西側に垂水駅が建てられた事から周辺の開発が急速に進み、次第にその中に埋没して目立たなくなってしまいました。老朽化していた社殿は、1980(昭和55)年に氏子の皆さんの協力で無事再建され、今では境内に皇大神社をはじめ猿田彦大神倉稲魂大神を祀る稲荷社や、白龍大神黒龍大神を祀る社殿が整備され、商売繁盛と家内安全の神として信仰されています。毎年6月1日に行われる例祭では、子供たちによって「火の用心」と毛筆で書かれた奉納行燈が掛けられ、子供会による出店などが並んで活気に包まれるそうです。





正面に白龍・黒龍社、西隣に稲荷社が建っています。


アクセス
・JR「垂水駅」下車、東改札口より東へ徒歩1分
・山陽電車「山陽垂水駅」下車、東改札口より東へ徒歩2分
皇大神社地図  Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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