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神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・田中神社。

2010年10月14日 | ◇京都府 -洛北
縁結び・厄除け

田中神社

(たなかじんじゃ)
京都市左京区田中西樋ノ口町1








〔御祭神〕
-主祭神-
大国主命
(おおくにぬしのみこと)

-合祀-
倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ) 稲田姫大神(いなだひめのおおかみ)
事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)  猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)



 京都の市街地には、JRをはじめとして阪急電鉄京阪電鉄京都市営地下鉄など、様々な鉄道が走っています。下鴨神社の南にある出町柳から比叡山へと伸びる叡山電鉄も、京都市民の貴重な移動手段として大きな役割を果たしています。その叡山電鉄の駅のひとつ、元田中駅のすぐ南に、長い歴史を持つ古社が鎮座しています。その神社の名は田中神社大国主命を御祭神に、地域の産土神として人々から崇敬を集めている神社です。





一の鳥居(左)から続く参道の途中には旧社殿地を偲ぶ榊が植えられています(右)。



 この地域は、元々「田中村」と呼ばれる村があり、田中氏と呼ばれる豪族が勢力を保っていた土地でした。「田中」という姓は特に西日本に数多く見られる名前ですが、これは稲作が西日本から各地へと広がっていたために水田にまつわる名前も同様に広がったためではないかと見られています。こういった事から、都に近いこの地が全国の「田中姓」の発祥の地であるという説もあるようです。田中の地は京都御所から北東の位置にあり、「鬼門」にあたる事から、古代より鬼門の方除けのための守護神が祀られていたといわれています。





参道の先に立つ二の鳥居(左)をくぐると、孔雀が飼われているケージがあります(右)。



 社伝によると、田中神社は1161(応保元)年に大国主命を御祭神として創建され、弘安年間(1278~88年)に河崎総社と呼ばれた神社の跡地に田中村の氏神として遷座されたと記されています。しかし、平安時代に編纂された歴史書である「日本三代実録」巻7の中の863(貞観5)年5月22日の条に「是日。勅遷山城國廣幡神。田中神於愛宕郡伊佐弥里。以舊社近於汗穢也。」つまり愛宕郡の伊佐弥里から田中神が遷座されて祭祀されたという記述が見られる事から、これが田中神社の真の創始ではないかとも見られています。





社殿の正面に立つ拝殿(左)と、1892(明治25)年に遷座された玉柳稲荷社(右)



 応仁の乱の頃には氏子たちが「田中講」を築き、田中神社を守るために結束を固めていましたが、1474(文明6)年8月1日に西軍の攻撃を受けてあえなく境内は炎上の憂き目に遭います。1536(天文5年)に起きた天文法華の乱でも、比叡山の僧兵と日蓮宗勢力との激しい戦いの兵火に巻き込まれ、田中講ともども焼き討ちに遭ってしまいました。
 近隣の下鴨神社とは中世にその末社となっていた事もあって何かと縁が深く、1628(寛永5)年に行われた下鴨神社の式年遷宮の際には、その境内に鎮座していた比良木社の旧殿を下賜され、これを移築して社殿としました。しかしながら、この社殿も1706(宝永3)年に田中村で発生した火災のために炎上し、同時に田中神社に関して記された貴重な古文書も焼失してしまいました。その後社殿は再建されましたが、徳川家の崇敬も厚く、三つ葉葵の御紋が付された事から、この再建に関して徳川幕府からも相応の支援があったと思われます。その後、1892(明治25)年には近隣の「団子の森」に祀られていた玉柳稲荷社を境内末社として遷座し、現在の威容が整う事となりました。





田中神社の社殿。提灯には徳川家の家紋「三つ葉葵」が描かれています。


同志社英学校に通った徳富蘇峰の学びの地である事を偲んで建てられた石碑(左)と北の鳥居(右)。



アクセス
・叡山電鉄本線「元田中駅」下車、南東へ徒歩3分。
田中神社地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)。

2009年12月17日 | ◇京都府 -洛北
開運招福・商売繁盛・交通安全・厄除け・縁結び

賀茂御祖神社

(かもみおやじんじゃ)
京都市左京区下鴨泉川町59




神仏霊場京都 楽土の道・第21番札所

通 称
下鴨神社






〔御祭神〕
賀茂建角身命
(かもたけつのみのみこと)
玉依媛命
(たまよりひめのみこと)



 下鴨神社は正式名称を「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」といい、上賀茂神社と併せて「賀茂社」と称され、山城国の一の宮として京都の守護神として厚い崇敬を集めてきた古社です。紀元前90(崇神天皇7)年に瑞垣の造営が行われたという記録や、紀元前2(垂仁天皇27)年に御神宝が奉られたという記録が残されている事から、かなり以前から祭祀が行われていたと考えられています。それを裏付けるかのように、社殿の南に広がる糺の森では古代の祭祀跡が発掘されています。





鬱蒼と茂る「糺の森」。柔らかな木漏れ陽が緑を鮮やかに引き立てています。


 
 下鴨神社には「丹塗り矢伝説」と呼ばれる伝承が残されています。賀茂建角身命の娘・玉依媛命が鴨川で禊を行っていた際、1本の丹塗りの矢が上流から流れて来ました。それを持ち帰って寝床に置いていたところ不思議な事に玉依媛命は懐妊、元気な男の子を出産します。賀茂建角身命は誕生を祝う宴を七日七晩開いたのち、孫に向かって「お前の父親と思う者にこの酒を飲ませよ」と声をかけたところ、男児は「この酒を天に捧げます」と答えて屋根を突き破り、天へと上っていきました。父親は雷の神・火雷命である事が分かり、この男児は祖父と父の名前にちなんで「賀茂別雷命」と名付けられました。この賀茂別雷命は、上賀茂神社の御祭神として祀られています。





縁結びの御利益があるといわれる相生社(左)と、朱塗り色鮮やかな楼門(右)。



  平安京への遷都が行われた後、下鴨神社は王城の守護神として朝廷より厚い崇敬を受け、807(大同2)年には最高位である正一位の神階を受けます。さらには延喜式神名帳において名神大社に列せられるなど高い格式を誇る名社となり、平安時代末期には29ヶ所の社領を持つなど経済的にも恵まれていましたが、戦国時代の混乱の中でこのような荘園は次第に失われ、1582(天正9)年から始められた太閤検地のために経済的に非常に厳しい状況に陥る事となります。しかし、江戸時代には幕府によって社領が寄進され、財政的基盤も安定して再び隆盛を誇る事となりました。





青空に朱色が映える楼門


 
 下鴨神社上賀茂神社で毎年5月15日に行われる賀茂祭は、「祇園祭」や「時代祭」と並んで「京都三大祭」の1つに数えられています。祭りの歴史は古く、今から1,400年以上前の544(欽明天皇5)年4月には既に祭礼が行われたという記録が残されています。この頃は凶作による飢餓や疫病が蔓延した時期で、この鎮護のために欽明天皇が勅使を遣わされて祭礼を行ったのが起源とされています。応仁の乱の後から1693(元禄6)年までの約200年間と、1871(明治4)年から1883(明治16)年、戦中戦後の1943(昭和18)年から1952(昭和27)年までの間こそ祭礼の中断や行列の中止があったものの、京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かう祭礼行列は復活を遂げ、京都の初夏を彩る風物詩として現在も雅な京の名残りを今に伝えています。なお、この祭の事を「葵祭」と呼ぶのは、祭礼に用いる御所車や行列を彩る勅使、従者の衣冠や牛馬に至るまですべてを葵の葉で飾り立てた事に由来します。





楼門の正面に立つ舞殿。



 下鴨神社の境内には、「糺の森(ただすのもり)」と呼ばれる杜が広がっています。その面積は約12万4000㎡、実に甲子園球場の3倍以上の広さを誇っていますが、平安時代には約495万㎡もの森林が広がっていたといわれています。しかし、応仁の乱の真っ只中の1470(文明2)年6月の兵火に巻き込まれた際には総面積の70%が灰燼に帰したといわれています。さらに、明治維新後の上知令によって社領が没収された結果、現在の規模にまで縮小してしまいました。1983(昭和58)年には、杜全体が国の史跡の指定を受けて大切に保存されています。常緑樹だけでなく落葉樹も数多く群生している事から、鎮守の杜独特の清涼感と暖かな木漏れ日が愉しめる素晴らしい杜となっています。





舞殿の奥に建てられた下鴨神社の神門(左)と、その内陣にある本殿(右)。



 下鴨神社は「みたらし団子」発祥の地としても知られています。境内東側にある御手洗池に湧く水泡のさまにヒントを得て、下鴨神社の西にある「加茂みたらし茶屋」が作ったのがみたらし団子だといわれています。ここのみたらし団子は1本の串に5つの団子が刺されているのが特徴で、1番上の団子が少し大きめに作られていて、そこから少し間隔を空けて4つの団子が並んでいます。これは人間の姿を模しているといわれ、最初の団子が頭を、そして残りの4つの団子が両手両足を表すといわれています。





御手洗社の前に広がる御手洗池。


アクセス
・京阪電鉄本線「出町柳駅」下車、北へ徒歩10分。
・JR京都駅より京都市バス205系統、「下鴨神社前」バス停下車すぐ
下鴨神社地図  【境内図】 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  ※「大炊殿」の拝観には、大人・中高生:500円、小学生:250円の拝観料が必要

拝観時間
・5時30分~18時 ※夏時間
・6時30分~17時 ※冬時間
(特別拝観「大炊殿」:10時~16時、御祈祷時間:9時~16時)


公式サイト






京都・大覚寺。

2009年10月28日 | ◇京都府 -洛北


嵯峨山 大覚寺

(さがざん だいかくじ)
京都市右京区嵯峨大沢町4



神仏霊場京都 楽土の道・第9番札所
真言宗十八本山霊場・第5番札所
近畿三十六不動尊霊場・第13番札所



慎ましやかな山門は、寺院というより嵯峨院の頃の佇まいを今に残しています。


〔宗派〕
真言宗大覚寺派 大本山

〔御本尊〕
五大明王像
(不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)


 もともと風光明媚な嵯峨野の地は「葛野」と呼ばれていましたが、弘法大師空海橘逸勢卿と並んで「三筆」と称される書の達人でもあった嵯峨天皇がこの地をこよなく愛し、憧れだった唐文化の中心地である都・長安の北方にある風光明媚な景勝地・嵯峨山に思いを馳せて「嵯峨」と名付けたといわれています。嵯峨天皇はお気に入りの嵯峨の地に、皇后と暮らす新居として嵯峨院を建立されました。書道を通じて嵯峨天皇と親しく交流を深め、東寺を下賜されるなど厚い信頼を寄せられていた空海は、811(弘仁2)年に勅願によってここに五大堂を建立し、五大明王の秘法を修法したといわれています。





菊の御紋の幕が下がる式台玄関(左)と、宸殿の回廊の狭間にある庭園(右)。



 嵯峨院が寺院となったのは、清和天皇の御世の876(貞観18)年のことです。嵯峨天皇の皇女・正子内親王は、嵯峨院を寺院に改めて亡き父と夫・淳和天皇の遺徳を偲びたいと発願し、勅許を受けて「大覚寺」という寺号を賜りました。ちなみに、この時の寺院建立の奏請文を書いたのは菅原道真公だといわれています。初代門主に就いたのは、夫・淳和天皇の間に生まれた第2皇子である恒寂法親王で、それ以降代々の住持を法親王が務める門跡寺院として栄えました。時代が進むにつれて徐々に寺勢は衰微していきましたが、鎌倉時代に入ってからは亀山法皇後宇多法皇がここで院政を行ったために「嵯峨御所」とも呼ばれて行政の中心地となり、特に1307(徳治2)年に後宇多天皇が第22代門跡として入山してからは大々的に堂宇の整備が進められ、往年の姿に勝る隆盛を取り戻しました。





後水尾天皇の女御御所が下賜されて移設された宸殿(左)と、その奥の霊明殿(右)。



 承久の乱によって3人の上皇が流罪に処され、室町幕府の後押しを受けて皇位に就いた後嵯峨天皇は4年の在任期間の後も後深草天皇亀山天皇を抑えて「治天の君」として30年近く実権を握り続けましたが、崩御に際して後継者を定めていなかったために皇位を巡る争いが起き、結局亀山天皇の第2皇子が後宇多天皇として皇位に就く結果となりました。2つの勢力の対立を利用し、双方に皇位を争わせることで朝廷の勢力を削ごうとした室町幕府はこの混乱に乗じて介入。後宇多天皇の後任には後深草上皇の皇子である後の伏見天皇を就け、以後は両統の皇子を10年ごとに皇位に就けるという調停を行いました。これよりそれぞれが本拠とした場所にちなんで「大覚寺統」と「持明院統」と呼ばれて対立を深めていくことになりました。この対立は1392(元中9)年に南朝のラストエンペラー・後亀山天皇から北朝の後小松天皇に三種の神器が引き継がれて南北朝の和解である「明徳の和談」が成立したことで終止符が打たれますが、その舞台となったのがまさにこの大覚寺でした。





御影堂(左)と、その右脇に立つ御霊殿(右)。


 
 南北朝争乱の兵火によって1336(延元元・建武3)年に炎上、半分の規模で再興された大覚寺は、1467(応仁元)年に応仁の乱の兵火によってまたも伽藍焼失の憂き目に遭い、さらには1528(享禄元)年にも戦国時代の兵火に巻き込まれて焼失するなど受難の歴史は続きましたが、ようやく江戸時代に入って後水尾天皇から女御御所を下賜されて宸殿とするなど再建が進み、現在の威容がほぼ整うこととなりました。

 ここは嵯峨天皇が大沢池で舟遊びをしている時に、大沢池に浮かぶ菊が島に咲いていた野菊の花を手折られて生け花を愉しまれたのが発祥といわれる「嵯峨御流」発祥の地でもあります。江戸時代の末期には、華道の大家である未生斎広甫大覚寺の華務職に就いたのをきっかけに全国へと普及していきました。11月には嵯峨菊展が行われるなど、四季折々に境内を美しい花で飾ってくれています。





大正時代に再建された心経殿(左)と、五大明王像を安置する本堂・五大堂(右)。


湖面に映る衣笠山が美しい大沢池。中国の洞庭湖を模した日本最古の人造湖です。


アクセス
・京福電鉄嵐山本線「嵐電嵯峨駅駅」下車、北東へ徒歩20分。
・JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」下車、北東へ徒歩20分。
・京都市営バス・京都バス「大覚寺」バス停下車、北へ徒歩2分
大覚寺地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:500円、小中高校生:300円  ※大覚寺・祇王寺の共通拝観券は600円。 

拝観時間
・9時~17時(受付は16時30分まで)

公式サイト






京都・仁和寺。

2009年08月15日 | ◇京都府 -洛北


大内山 仁和寺

(おおうちざん にんなじ)
京都市右京区御室大内33




真言宗十八本山・第6番札所
京都十三仏霊場・第9番札所

通 称
旧御室御所
(きゅうおむろごしょ)



「京都三大門」の一つに並び称される名建築の二王門。


〔宗派〕
真言宗御室派 総本山

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)


 源氏物語の珠玉の章ともいわれる「若菜」。ここでは、病のために出家の決意を固めた朱雀院が、唯一その行く末に心を痛めていた愛娘の女三の宮を異母弟である光源氏に託すエピソードが綴られています。朱雀院は、愛娘の降嫁を見届けたのち造営を進めていた「西山の御寺」に隠棲することになりますが、そのモデルとなったのが仁和寺だといわれています。




広々とした参道(左)と、その奥に立つ朱塗りの中門(右)。


 仁和寺は886(仁和2)年、鎮護国家と仏法の繁栄を願った光孝天皇の勅願によって「西山御願寺(にしやまごがんじ)」として建立が始められました。光孝天皇はその完成を見ることなく翌年に崩御されましたが、その遺志を引き継いだ宇多天皇によって888(仁和4)年に金堂が完成され、弘法大師空海の弟子・真然上人の手によって落慶法要が営まれました。西山御願寺はやがて、創建時の年号を取って「仁和寺」と呼ばれることとなります。




御室桜に包まれた石畳の参道(左)と重要文化財の五重塔(右)。


 宇多天皇は、一度は臣籍降下して源定省と名乗っていましたが、関白・藤原基経卿の後押しで皇族に復帰、光孝天皇の崩御を受けて皇位に就きました。その後、菅原道真公と藤原時平卿を重用して「寛平の治」と呼ばれる天皇親政を推し進めたのち、897(寛平9)年に退位。その2年後には真言宗の僧・益信のもとで出家して法皇となります。そして904(延喜4)年には仁和寺の伽藍の西南の地に「御室」と呼ばれる僧坊を建立して入山しました。当初は僧坊の役割でしかなかった「御室」もやがて院政の中心としての政治的機能を持つようになり、それに伴って仁和寺一帯は平安時代から鎌倉時代にかけて隆盛を誇っていきました。

 しかし、仁和寺も京都の寺院の運命の例に漏れず、1467(応仁元)年から始まった「応仁の乱」の兵火によって堂宇僧坊が悉く焼け落ち、受難から150年以上の長きに渡って現在地の南にある双ケ丘の堂舎で細々と法灯を守るのみとなってしまいました。1524(大永4)年には寺僧である覚算によって再建の勧進が行われましたが、虚しく不調に終わるなど、不遇の時代はまだまだ続くこととなります。




阿弥陀三尊を祀る金堂。京都御所の紫宸殿を移築したものです。


 苦悩の時代が続いた仁和寺の運命が大きく変わったのは、江戸時代に入ってから。1634(寛永11)年、門跡を務めていた覚深法親王による復興の願いが江戸幕府第3代将軍・徳川家光公によって認められ、大規模な復興が行われることとなったのです。折りしもこの時期、京都御所も再建の時期を迎えており、紫宸殿や清涼殿をはじめとする多くの建造物が仁和寺に移築されるなど、1646(正保3)年には王朝文化の香りが色濃く残る見事な伽藍が再興されて落慶法要が営まれました。




遅咲きの「御室桜」の咲き乱れる風景は圧巻の一言に尽きます。


 「仁和寺」と聞いてまず連想するのが桜です。仁和寺にはソメイヨシノやシダレ桜などさまざまな種類の桜がありますが、中でも有名なのが「御室桜」と呼ばれる遅咲きの里桜で、3m前後という背丈の低さが特徴の桜です。御室桜は17世紀末の伽藍再建のころに植えられたもので、約200株もの桜が毎年4月下旬ころに見事な花を咲かせ、多くの参拝客の目を愉しませてくれます。江戸時代より庶民の桜として親しまれ、当時の有名な儒学者・貝原益軒によって吉野山の桜に勝るとも劣らないと絶賛された御室桜は、1924(大正13)年には天然記念物法によって名勝に指定されています。




御所の清涼殿を移築して建てられた御影堂。重要文化財指定。


アクセス
・京福電鉄北野線「御室仁和寺駅」下車、北へ徒歩5分。
仁和寺地図  【境内MAP】 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  ※御室桜の開花時期に行われる「さくらまつり」の期間は拝観料が必要。
 (大人・高校生:500円、小中学生:200円)

・御殿=大人・高校生:500円、小中学生:300円
・霊宝殿=大人:500円、高校生・中学生:300円

拝観時間
・9時~16時30分(受付は16時まで)

公式サイト








京都・実相院。

2009年04月30日 | ◇京都府 -洛北


岩倉山 実相院

(いわくらさん じっそういん)
京都市左京区岩倉上蔵町121

近畿三十六不動尊霊場・第16番札所

通 称
実相院門跡
岩倉門跡




1721(享保6)年に下賜された四脚門。洛北の名刹への入口です。


〔宗派〕
単立寺院
※1952(昭和27)年に天台宗寺門派より独立

〔御本尊〕
不動明王像
(ふどうみょうおうぞう)


 実相院は、鎌倉時代の1229(寛喜元)年に大納言鷹司兼基卿の子・静基僧正によって開かれた寺院で、三井寺を総本山とする天台宗寺門派の寺院として創建された当初は京都市北区紫野の地にありました。その後、現在も地名にその名を残す京都市上京区実相院町に移された後、応仁の乱による激しい戦火を避けるために大雲寺の塔頭・成金剛院があった洛北・岩倉の地に移転してきました。




 
四脚門をくぐった先にある玄関脇の「御車寄」と本殿となっている「客殿」は、
1721(享保6)年に宮中より下賜された承秋門院旧殿の一部です。


 
 実相院は、皇族や摂家等の子弟が住職を務める門跡寺院だったため「岩倉門跡」「実相院門跡」などの別称で呼ばれています。室町末期までに戦火によって多くの伽藍が失われて寺勢も衰退していましたが、 江戸時代初期の1641(寛永18)に室町幕府最期の将軍である足利義昭公の孫・義尊僧正が第17世門主となり、その母である法誓院三位局後陽成天皇の後宮となった関係で皇室からの支援を受け、さらに後陽成天皇の皇子・後水尾天皇の中宮だった東福門院の兄である江戸幕府第3代将軍・徳川家光公からも援助を受けて再興されました。義周法親王が第20世門主となった際には京都御所より東山天皇の中宮・承秋門院の旧殿が下賜され、1721(享保6)年に「四脚門」・「御車寄」・「客殿」などが移築されています。




 
書院の縁側から眺めた池泉回遊庭園。



 幕末には、尊王攘夷派から佐幕派(親幕府派)と見做されて排斥運動の末に蟄居処分となった岩倉具視卿が、過激な志士たちからの暗殺を避けるために一時ここに身を潜め、池泉庭園脇の書院で密談を重ねたという記録が残るなど、激動の時代と無縁ではなかった実相院ですが、客殿「滝の間」の黒塗りの床に映り込む「床緑」「床紅葉」と呼ばれる風情のある景色は、そんな記憶も忘れさせるかの如く静寂の時を過ごさせてくれます。




 
蹴鞠の庭だった「八相の庭」。見事な枝垂桜が薄紅色の彩りを添えます。


アクセス
・叡山電鉄鞍馬線「岩倉駅」下車、北西へ徒歩20分
・市営地下鉄烏丸線「国際会館前駅」下車、京都市バス24系統・岩倉実相院行にて終点すぐ
実相院地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:500円、小中学生:250円

拝観時間
・9時~17時(12月~2月は16時まで)

公式サイト


京都岩倉 実相院
室田 康雄
光村推古書院

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京都・平野神社。

2009年04月07日 | ◇京都府 -洛北
開運出世・安産祈願・健康祈願・厄除開運・交通安全

平野神社

(ひらのじんじゃ)
京都市北区平野宮本町1




西大路通に面して立つ鳥居。「平野の夜桜」で有名な桜苑が広がります。


〔御祭神〕
今木神(いまきのかみ)
久度神(くどのかみ)
古開神(ふるあきのかみ)
比売神(ひめのかみ)


 京都は四季折々で様々な表情を見せ、訪れる人々を愉しませてくれます。早春に心地よい香りとともに咲き誇る梅に包まれた北野天満宮や、紅葉に赤く染め上げられる嵐山東山など、季節によって繰り広げられる美しい平安絵巻は、観光客の心を捉えて離しません。ここ平野神社も、春になると見事な桜が咲き乱れ、花見を愉しむ人々の歓声が途絶えることはありません。



 
桜苑に咲き乱れる美しい桜の木々。50種400本の桜で埋め尽くされています。


 平野神社は、平安京への遷都と同じ794(延暦13)年に創建されたといわれています。御祭神は今木神・久度神・古開神・比売神。この4神は元々は古都・平城京に祀られていた神々で、平安京への遷都とともにこの地に遷座して祀られました。今木神は「今食」の神で生きる力を与える神とされ、元々は平城京の田村後宮に祀られていた祭神です。久度神は「おくどさん」という言葉があるように竈を指し、豊かな暮しと家運の隆盛を導く神といわれています。古開神は邪気を払い除ける神といわれ、この2神は大和国平群郡の久度神社に祀られていました。比売神は平城京において皇子の無事の誕生を守るために祀られていたとされる女神で、承和年間(834~848年)より平野神社に祀られるようになりました。

 この御祭神には様々な説があり、今木神桓武天皇の母・高野新笠の祖先である百済国の聖明王のことを指し、久度神聖明王の先祖である仇首王(くどおう)古開神の「」は沸流王(ふるおう)、「」は尚古王という朝鮮の王を指して、桓武天皇の母方の先祖を祀る神社とされていたともいわれています。



 
東神門(左)と、1650(慶安3)年に東福門院によって建立された拝殿(右)。


 平野神社延喜式神名帳名神大社に列せられるなど天皇家の崇敬の厚い神社で、毎年春と秋に行われる例大祭には代々の皇太子が参向して奉幣する慣わしとなっていました。また、平野神社には981(天元4)年の円融天皇の行幸を皮切りに代々の天皇によって21度もの行幸が行われており、特に985(寛和元)年4月10日には花山天皇によって臨時の勅祭が行われ、舞楽や競べ馬などが催されました。このことにちなみ、毎年4月10日には「桜花祭」が行われて神輿や山車の練り歩きが行われています。



 
拝殿脇で見事に咲く桜(左)と、「平野造」と呼ばれる国指定重要文化財の本殿(右)。


 「平野の夜桜」で知られるように、平野神社の境内には50種400本の桜で埋め尽くされています。最も早く咲き始める品種「魁桜」は3月中旬頃から咲き始め、一番遅くに咲く品種「御衣黄桜」「手弱女桜」などは4月20日頃に咲くなど、約1ヶ月間に渡って様々な種類の桜を愉しむことが出来ます。



 
東向きに立つ鳥居(左)と、東神門に続く参道(右)。


アクセス
・京福電車“嵐電”北野線「北野白梅町駅」下車、北へ徒歩5分
・JR「京都駅」より京都市バス205系統にて「衣笠校前」バス停下車、北へ徒歩2分
平野神社地図 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・6時~17時(桜の開花時期は22時頃まで)

公式ホームページ
  平野神社公式サイト





京都・鞍馬寺。

2009年02月01日 | ◇京都府 -洛北


鞍馬山 鞍馬寺

(くらまざん くらまでら)
京都市左京区鞍馬本町1074

新西国33ヶ所霊場・第19番札所



丹塗りの仁王門。1891(明治24)年に焼失、1911(明治44)年に再建。


〔宗派〕
鞍馬弘教総本山
(くらまこうきょう)

〔御本尊〕
尊天
(そんてん)


 鞍馬寺は、苦難の末に6度の挑戦でついに日本へと渡り、失明したにもかかわらず布教に人生を捧げた唐の高僧・鑑真和上と共に唐から渡ってきた高弟たちの一人である鑑禎上人(がんじょうしょうにん)が770(宝亀元)年に鞍馬山に庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりだと伝えられています。796(延暦15)年には、藤原南家の流れを引く貴族・藤原伊勢人卿が、深く帰依する観音菩薩を祀る寺院の建立を発心し、夢に現れた貴布禰明神のお告げに従って鞍馬山へと辿り着きます。しかし、そこにはすでに毘沙門天を祀る庵が立っていたため藤原伊勢人卿は当惑しますが、その夜、夢で「毘沙門天も観音も根本は一体」というお告げを受け、王城鎮護のために毘沙門天と千手観音を共に祀る伽藍の整備に力を尽くしたといわれています。





急な石段が続く参道(左)と、ケーブル「多宝塔駅」の北に立つ多宝塔(右)。


 
 9世紀末の寛平年間(889~897年)には東寺の僧・峯延上人が入山して、真言宗の色合いが強くなります。この時上人が山中に現れた大蛇を法力で退治したという故事にちなみ、「竹伐り会式(たけきりえしき)」と呼ばれる祭事が現在も続けられています。1009(寛弘6)年や1126(大治元)年には火災で伽藍が焼失しますが、1127(大治2)年に再建されたのち保延年間(1135~1141年)に天台宗の忠尋座主が入山したことから天台宗寺院となり、長い間青蓮院の支配下にありました。その後も何度も火災に見舞われて荒廃しますが、江戸時代の1609(慶長14)年には徳川秀忠公から全ての徴税課役の免除を認める黒印状を受けるなどの庇護を受けて再興されます。戦後の1947(昭和22)年には鞍馬弘教を開宗、1949(昭和24)年に天台宗からの独立を果たして鞍馬弘教の総本山となりました。

 鞍馬寺では山内に漲る「全ての生命を活かす宇宙の気」を信仰主体とし、その象徴としての「尊天」を御本尊としています。尊天の働きが光となって現れる時は毘沙門天、愛となって現れる時は千手観音菩薩、力となって現れる時は「護法魔王尊」となって姿を現すとされています。本堂に安置されている毘沙門天像、千手観音菩薩像、そして室町時代の絵師・狩野元信が描いたとされる護法魔王尊絵図は普段は秘仏とされ、60年に1度「丙寅」の年にのみ開帳されています。次回のご開帳は2046年の予定です。





940(天慶3)年頃に勧請された由岐神社(左)と、その傍に立つ義経公供養塔(右)。



 鞍馬寺は、のちに源義経と名乗る牛若丸が兵法修行したことでも知られています。1159(平治元)年に起きた平治の乱平清盛公に敗れて落命した源義朝公の9男に生まれた牛若丸は、当時数えで2歳の幼な子でしたが、成人した後の復讐を警戒した平清盛公によって一度は処刑の決定が下されます。しかし、母・常盤御前が身を挺して必死に助命を乞うた結果牛若丸は赦免され、7歳になった頃に鞍馬寺東光坊に預けられることとなります。鞍馬に入山してからの牛若丸は学問に一心に打ち込む日々を送り、その熱心さには師である阿闍梨・蓮忍も思わず感嘆したといわれています。

 そんな牛若丸の人生も、己の素性を初めて知った時から大きく運命の歯車に突き動かされていきます。自分が源氏の棟梁・源義朝公の遺児であること、今をときめく平家の棟梁・平清盛公がその仇であることなどを知った牛若丸は「遮那王」と名を改め、平家討伐を念じて武芸に打ち込むようになります。武蔵坊弁慶と五条大橋の上で運命の出会いを果たすという伝説も、この頃生まれました。噂を聞きつけて鞍馬を訪れた「金売り吉次」の異名を持つ奥州の商人・吉次信高から、奥州の王・藤原秀衡公が遮那王に関心を寄せ、源氏の再興への助力の意志を持っているということを伝えられた遮那王は、奥州へ渡るために鞍馬山を下ります。時に1174(承安4)年、遮那王16歳の時のことでした。





鞍馬寺の本殿金堂。1971(昭和46)年に再建されました。



 鞍馬寺では、5月の満月の日に行われる「五月満月祭(うえさくさい)」や、6月20日に行われる「竹伐り会式」など様々な祭事が執り行われています。このような鞍馬山の祭事の中でも最も有名なのが10月22日に行われる「鞍馬の火祭」です。940(天慶3)年、災害や争乱などに揺れる世情の不安を鎮めるため朱雀天皇の詔によって御所内に祀られていた由岐明神鞍馬山に勧請し、北方の守護神とすることになりました。この遷座は国家的な儀式として盛大に執り行われ、松明や神具を伴った遷宮の行列は1kmにも及んだといい、鞍馬の人々も篝火を焚いて歓迎したといわれています。この時の光景を偲んで始められた神事が鞍馬の火祭の起源となりました。ちなみにこの祭りは由岐神社の神事として行われています。





鞍馬天狗と牛若丸の出会いの場といわれる不動堂(左)と、奥の院魔王殿(右)。
 

アクセス
・叡山電鉄鞍馬線「鞍馬駅」下車、仁王門まで徒歩4分
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拝観料
・大人200円(中学生以下無料)

拝観時間
・9時~16時30分





京都・建勲神社。

2008年07月10日 | ◇京都府 -洛北
国家安泰・難局突破・大願成就

建勲神社

(たけいさおじんじゃ)
京都市北区紫野北舟岡町49




1880(明治13)年に新築された木造明神型大鳥居。1934(昭和9)年に建て替えられ、
2000(平成12)年に大改修が行われました。



〔御祭神〕
織田信長公
(おだのぶなが)
織田信忠公
(おだのぶただ)


 794(延暦13)年に平安京が造営された際、四神相応思想の玄武の位置(北)にあたるとして北方の基点となった船岡山聖徳太子の文献にも名前が見られるなど、古くから京都盆地の中で存在感を持つ重要なポイントだった船岡山は、平安時代には宇多天皇が鷹狩りを愉しんだり、円融上皇が若菜を摘んで歌会を催すなど皇族・貴族の清遊の地として愛され、この山を題材にした和歌も多く読まれています。かの清少納言も『枕草子』の231段で「岡は船岡。片岡。靹岡は笹の生ひたるがをかしきなり。かたらひの岡。人見の岡。」と1番に賞賛しています。

 雅な空気を湛えていた船岡山も、武士が台頭してきた動乱の時代には軍事戦略上の拠点として重要視され、応仁の乱の際の1511(永正8)年には西軍の細川澄元公が本陣を置いて細川高国公や大内義興公の軍勢と「船岡山の戦」を繰り広げました。以来、船岡山一帯は「西陣」という名前で呼ばれるようになりました。




道半ばで本能寺に斃れた織田信長公を祀る社殿。



 実父・織田信秀公の頃から困窮に瀕していた朝廷に経済的支援を行うなど、朝廷と友好的な関係を保っていた織田信長公は、1568(永禄11)年に正親町天皇の勅命を拝して上洛を果たしたのち、ただちに皇居の修理に着手、戦火に巻き込まれて疲弊しきっていた京都の町の再建に取り組みました。その後の朝廷との関係には諸説あるため明確なことは言えませんが、圧倒的な軍事力を持って秩序を取り戻し、大きな経済力を背景に積極的に京都の町の復興に尽力した織田信長公の貢献度は大きなものがあります。そんな戦国時代最大の風雲児・織田信長公も、1582(天正10)年6月2日払暁、本能寺の変によって劫火に焼かれ、志半ばで早すぎる死を迎えます。

  悲報に接した豊臣秀吉公は、速やかに軍を返して天王山の戦で謀反人・明智光秀公を討伐。さらに、自らが実質的な主催者となり、船岡山の北にある名刹・大徳寺において盛大な追善大法要を営むことで、織田信長公の偉業を継ぐ者だというイメージを大きく天下にアピールします。続いて朝廷へ巧みにはたらきかけた豊臣秀吉公は、正親町天皇の勅許を得て「天正寺」という寺号も賜わり、船岡山織田信長公の菩提を弔う寺院を建立する計画を立てました。残念ながら、この計画は中途で頓挫してしまいましたが、それ以来船岡山織田信長公ゆかりの霊地として手厚く保護されてきました。



 
社殿前の神楽殿(左)と織田家の木瓜の家紋の入った手水舎(右)。



 1869(明治2)年、明治天皇織田信長公の功績に対して「建勳神社」の神号を下賜し、神社創立の宣下を行います。それを受け、翌1870(明治3)年には、まず織田信長公の次男・織田信雄公の血脈を継いできた出羽天童藩主・織田信敏公が東京に構えていた邸宅内と天童藩の主城・天童城内に「建勲社」が造営されました。1875(明治8)年に別格官幣社に列せられた建勲社(「建織田社」とも呼ばれた)は、ゆかりの霊地・船岡山に社地を与えられて遷座され、山の東麓に社殿の造営が行われました。1880(明治13)年には、織田信長公と共に本能寺の変で命を落とした嫡男・織田信忠公も祀られることとなり、1910(明治43)年には中腹に建っていた社殿以下諸舎を現在の山上の地に移設しました。

 御祭神である織田信長公が上洛を果たした日にちなんで毎年10月19日に行われる「船岡大祭」では、午前11時から神事が執り行われたあと、織田信長公が特に好んだといわれる幸若舞の「敦盛」などの舞楽奉納が行われ、「長篠の戦」において武田軍を打ち破った故事に基づいて火縄銃三段打奉納が行われます。



 
大鳥居を上がったところに鎮座する稲荷命婦元宮と義照稲荷神社(左)。
建勲神社には、南から石段を上がって参拝するルートもあります(右)。



アクセス
・京都市バス205・206系統ほか「建勲神社前」バス停下車、南へ徒歩3分
建勲神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放




京都・上品蓮台寺。

2008年06月02日 | ◇京都府 -洛北

蓮華金宝山 九品三昧院 上品蓮台寺

(れんげきんぽうざん くぼんざんまいいん じょうぼんれんだいじ)
京都市北区紫野十二坊33-1

通 称
千本十二坊



千本通を北上していくと、通りに面して建つ上品蓮台寺の山門を見つけました。


〔宗派〕
真言宗智山派

〔御本尊〕
延命地蔵菩薩
(えんめいじぞうぼさつ)


 千本釈迦堂(大報恩寺)釘抜地蔵(石像寺)千本閻魔堂(引接寺)などが立ち並ぶ千本通。「千本通」という名前は、かつてこの通りに沿って1,000本近い卒塔婆が立ち並んでいたことに由来します。この卒塔婆には冥界に近い場所といわれていた蓮台野葬場らしい伝説が残されています。

 醍醐天皇が崩御されてから4年が経った934(承平4)年8月のこと。吉野山で修行していた日藏上人は突然気を失い、気がつくと冥界の地に立っていました。そこには、菅原道真公を無実の罪で大宰府へと左遷してしまった罪のために地獄で苦しむ醍醐天皇の姿がありました。「船岡山の地に1,000本の卒塔婆を立てて供養してもらえればこの苦しみから救われる」という醍醐天皇の懇願を受けた日藏上人は、さっそく朱雀天皇に奏上して1,000本の卒塔婆供養を行ったといいます。ちなみに、地獄で醍醐天皇が詠んだという歌も伝えられています。


「いふならく ならくの底に 入りぬれば 刹那も首陀も かはらざりけり」



 
明るく咲き乱れる枝垂桜と、整然と伸びる石畳や銅像との美しいコントラスト。



 その千本通に建つ上品蓮台寺は、母の菩提を弔うために聖徳太子が創建し、蓮台野にあって皇族の葬送にも関わりがあったと伝えられる香隆寺がルーツだといわれています。960(天徳4)年に入り、宇多法皇から真言密教奥義の灌頂を受けた寛空上人が、その勅願を受けて寺院を再興して「上品蓮台寺」という寺号を定めたといわれています。再建当時は広大な境内に伽藍が建ち並び壮大なものでしたが、残念ながら1467(応仁元)年から10年以上続いた応仁の乱の兵火によって悉く焼失してしまいました。

 それから約1世紀後、16世紀末の文禄年間に入って紀州の根来寺の僧侶・性盛上人が中心となって上品蓮台寺を復興、真言宗智山派の寺院として再出発を図ることとなりました。この時、千本通の両サイドに12院の塔頭を持つ大寺院となったために「千本十二坊」という呼び名がつきました。広大な寺域を誇った上品蓮台寺も、明治時代に入って出された上地令によって寺領の多くを国家に納め、現在の規模に落ち着きました。




 
境内の至るところで咲き誇る枝垂桜。どれもみな立派な枝振りです。



 上品蓮台寺には、京都に現存する最古の絵巻物といわれる国宝の「絵因果経」や、重要文化財に指定されている「絹本著色六地蔵像」が所蔵され、境内には平安時代中期の仏師で、寄木造の手法を完成させて宇治・平等院鳳凰堂に納められている国宝・阿弥陀如来像を彫り上げたことでも知られる定朝の墓があります。また、多田源氏の祖である源満仲公の嫡男で、優れた武勇で有名だった平安時代の貴族・源頼光公の墓も境内に残されています。周辺にある観光スポットとは異なり、それほど知名度は高くありませんが、その分きれいな枝垂桜を心ゆくまで愉しむことができる隠れた名刹です。





境内の南側に建つ本堂。


アクセス
京都市バス1・12・204・205・206・101洛バス・102洛バスほか「千本北大路」バス停下車、徒歩3分
京都市バス6・46・59・206系統「千本鞍馬口」バス停下車、徒歩3分
上品蓮台寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料  ※観光寺院ではありません

拝観時間
・9時~17時

京都の寺社505を歩く (PHP新書)
槇野 修
PHP研究所

京都・わら天神(敷地神社)。

2006年09月23日 | ◇京都府 -洛北
安産・子授け・家内安全・厄除開運・心願成就

敷地神社

(しきちじんじゃ)
京都市北区衣笠天神森町10

通 称
わら天神宮



安産の神様として名高い敷地神社。外国の方の姿も見られます。


〔御祭神〕
木花咲耶姫命
(このはなさくやひめのみこと)
天日鷲命
(あめのひわしのみこと)
栲幡千千姫命
(たくはたちぢひめのみこと)


 北野天満宮から鹿苑寺金閣に向けて歩みを進め、西大路通沿いに北へと進む途中に立派な鳥居を見つけました。この神社の名前は「わら天神」。正式名称を「敷地神社」といい、安産の神様として広く知られています。昔は神への神饌を藁の器に載せてお供えしていましたが、その神徳にあやかるために安産祈願の護符の中に藁を入れたことから「わら天神」と呼ばれるようになりました。ここに祀られている木花咲耶姫命は、山の神・大山祇神(おおやまづみのみこと)の娘で、天照大御神の孫である瓊瓊杵尊と結婚した皇統の母といわれる女神です。山の神の娘である木花咲耶姫命は、富士山を象徴する女神として、また桜の花の美しさや花の命の儚さを象徴する神としても知られています。





通りに面した鳥居の先を進むと、突き当たって右に二の鳥居があります。



 瓊瓊杵尊と結婚した木花咲耶姫命は一晩で子どもを身ごもります。しかし、夫から「たった一晩で子どもを授かるというのはおかしい。実は国津神の子どもで、私の子どもではないのでは?」という疑いをかけられた木花咲耶姫命は激怒。自ら産屋に入って火を放ち、「瓊瓊杵尊の子でなければ無事には産まれない。瓊瓊杵尊の子ならば無事に子どもを産むことが出来よう」と誓約(うけひ)をして出産に臨みます。木花咲耶姫命は、燃え盛る炎の中で無事に火照彦命火須勢理彦命火遠理彦命という3柱の神々を出産して身の潔白を証明しました。このような母としての力強さから「安産の神さま」として人々から厚く信仰されることになったそうです。




 
社殿には7段の石段があります(左)。妊婦さんが参拝する時には、足元を旦那さんが
しっかりサポートして下さい。杉の下で腹帯を結ぶと安産になるという綾杉明神(右)。


 わら天神の創建は桓武天皇の孫・淳和天皇の治世の831(天長8)年に遡ります。北山の地に氷室が設置されることになり、加賀国からノウハウを持った守役が呼ばれてきました。この人々が地元で祀っていたのが菅生石部神社で、その御祭神である日子穂穂出見命(ひこほほでみのみこと)の母神・木花咲耶姫命をお祀りしたのがわら天神の前身である北山天神宮だといわれています。ちなみに日子穂穂出見命火遠理彦命と同一神です。御祭神には、このように複数の呼ばれ方を持つ神さまがたくさんおられます。その後、1397(応永4)年に足利義満公が北山殿(金閣)を造営した際、北山天神宮を鎮守社としますが、山の上では参拝に不便だということで現在の場所に移転され、以来600年以上の歴史を誇っています。






アクセス
・JR「京都駅」より京都市バス50・101系統乗車(30分間)、「わら天神前」下車、徒歩すぐ
・京福電鉄北野線「北野白梅町」下車、徒歩15分
わら天神地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・8時30分~17時
(無料駐車場が14台ほどあり、車椅子でも参拝できるバリアフリーになっています)

京都ご利益めぐり
京都くまなく歩き隊
ナツメ社

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京都・金閣寺(北山鹿苑寺)。

2006年04月04日 | ◇京都府 -洛北

北山鹿苑寺

(ほくざん ろくおんじ)
京都市北区金閣寺町1



通 称
金閣寺



鹿苑寺、通称「金閣寺」の総門。

〔宗派〕
臨在宗相国寺派

〔御本尊〕
聖観世音菩薩像
(しょうかんぜおんぼさつぞう)


 北野天満宮にいった流れで「付近の名勝めぐりをしてやろう!」と神社や仏閣をハシゴしていってたどり着いたのが、「金閣寺」で有名な北山鹿苑寺。実は、今まで1回も金閣寺に行ったことがなかったので、門をくぐる前からかなりドキドキしてました。総門をくぐって受付を抜け、庭園の広がる場所に出たときは感動ものでした。




鏡湖池に映える金閣。火災で焼失しましたが、1955年に再建。



 実際、テレビや本では何度か見たことがあったのですが、いざ実物を目の当たりにすると金色のあまりの鮮やかさに感動してしまいました。周りの観光客も 「うわー、ほんとにピカピカや!」 「教科書と一緒やー!(笑)」 とみな一様に感動の言葉をあげていました。


 ここは臨済宗相国寺派の禅寺です。もともと西園寺公経という貴族の別荘があったのですが、室町幕府3代将軍の足利義満がとても気に入り、1397(応永4)年にここを譲り受けて北山殿という別荘を造ったということです。義満といえば、室町の将軍の中でも一番の権勢を誇った大将軍。そんな人から 「譲ってくれ」 といわれれば断れるわけはありませんよね(笑)


 天皇をも凌ぐ、あるいは自らが天皇の座をおびやかそうとしたという足利義満。ここ金閣を新天皇・義満の御所とするプランがあったという説は、作家の井沢元彦氏が述べられています。そこまでのプランがあったかどうかは何とも言えませんが、タイミングよく(悪く?)死去した権力者の話には、なにかキナ臭いものを感じてしまいます。



 義満は息子・義嗣の元服式を、天皇の子「親王」の元服と同じ格式で、しかもそれを宮中で行うということを強行しています。天皇側からすれば、かなりのプレッシャーや危機感を感じる「暴挙」だったのでしょう。偶然にも(?)その10日あまり後に義満は急の病で亡くなってしまいます。何だかキナ臭い感じがしませんか?




そんなキナ臭さを忘れさせてくれる茶室「夕佳亭」。ここから金閣を一望できます。




 夕佳亭を抜けると、あとは出口へ向かう参道が延びています。石畳と、これを囲む木々の景色が気に入ったので思わず写真を撮りました。心が和む景色でした









アクセス
・京都市バス「金閣寺道」下車、徒歩3分

拝観料
・大人・高校生400円(小・中学生300円)

拝観時間
・午前9時~午後5時

公式サイト
   金閣寺公式サイト 相国寺・金閣寺・銀閣寺の合同サイトです。

新版 古寺巡礼京都〈21〉金閣寺
有馬 頼底,梅原 猛
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