神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

明石・稲爪神社。

2006年02月27日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
勝ち運・農林水産業守護・商売繁盛・家内安全・厄除け

稲爪神社

(いなづめじんじゃ)
明石市大蔵本町6-10 



楼門には地元の名工・左甚五郎作の「素戔嗚尊の八岐大蛇退治」の彫刻が。


〔ご祭神〕
大山祇神
(おおやまづみのかみ)
面足大神
(おもだるのおおかみ)
惶根大神
(かしこねのおおかみ)



 休天神社の南東、国道2号線に面するところに稲爪神社があります。大きな看板も立ててあるので国道2号線沿いから入る方が多いと思いますが、1本南を東西に伸びる旧街道から入る事をお勧めします。この近辺は昔は畿内と以西をつなぐ交通の要衝で、旧街道には大蔵谷宿場があり、江戸時代中期には実に60件近くの旅籠があったそうです。往時の面影を残す建物もいくつか残っています。

 この神社の由緒は、6世紀末から7世紀初頭にかけての推古天皇の時代にさかのぼります。この頃三韓(朝鮮半島)から「鉄人」を大将に、約8,000人の大軍が侵攻。全身を鉄に包まれた「鉄人」の軍隊は破竹の勢いで九州の守りを突破し、都へ向けて進軍を続けます。この深刻な事態を受けて、朝廷は勇猛で知られた伊予国の越智益躬(おちのますみ)に勅命を下して迎撃に向かわせます。豪傑ながら、越智益躬公は『今昔物語』にも記されているほど非常に信心深い方で、出陣に際しても一族の氏神である大三島の大山祇神社に必勝祈願を行って九州へと向かいます。




拝殿の前には越智益躬の故事にちなみ、矢が祀ってあります。



 その越智益躬 公をもってしても「鉄人」軍を止めることは出来ませんでした。そこで彼は一計を案じます。偽装降伏をして都までの道案内をする振りをしながら、「鉄人」軍の一瞬のスキを狙う作戦に切り替えたのです。越智益躬公に導かれた「鉄人」軍は、瀬戸内海を通って播磨の室津から上陸。淡路島を一望できる明石の和坂のあたりにさしかかった時、連戦連勝の気の緩みもあったのか、あまりの景色の良さについつい寛いでしまいます。

 すると、大山祇神 の瑞顕で一天俄かにかき曇り、稲妻が光り雷鳴がとどろきました。馬上でおののく鉄人の足の裏に弱点を見つけた越智益躬公が放った矢は、足の裏から脳天へと突き抜け、みごと鉄人を倒すことができました。越智益躬公は大三島の大山祇神に感謝し、大蔵谷の地に社を建て稲妻大明神と崇め奉ったということです。これがのちに転訛して稲爪神社と呼ばれるようになりました。




拝殿東側には稲荷神社をはじめ、摂社がずらりと並びます。



 稲爪神社羽柴秀吉の三木合戦での大蔵谷城攻めによって社殿が炎上するなどして、一時いまの熊野皇大神社のあるあたりに移転したこともあります(今の拝殿は、1977年の失火でほとんど焼失したものを建て直したコンクリート製のものです)




拝殿脇には「えべっさん」の像がにこやかに鎮座しています。



祭礼
1月9日から10日までは十日えびすで賑わいます。また、10月の秋祭りでは、県の重要無形民族文化財に指定されている「神楽獅子」と、明石市の無形文化財に指定されている伝統芸能の「囃口流し」が行われます。




拝殿には祭りで担がれる神輿があります。


神輿の隣には祭りで引かれる牛のハリボテもあります。



アクセス
・山陽電車「人丸前駅」下車、東へ徒歩5分
・山陽電車「大蔵谷駅」下車、西へ徒歩5分
 稲爪神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


明石・休天神社。

2006年02月26日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
学業成就

休天神社

(やすみてんじんじゃ)
明石市大蔵天神町8-2511

菅公聖蹟二十五拝・第15番



国道2号線沿い、北側にある休天神社。


〔ご祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざね)



 明石には菅原道真公ゆかりの神社がいくつかあります。以前紹介した御厨神社、そして今回ご紹介する休天神社 も菅公ゆかりの神社の一つです。山陽電車人丸駅から国道2号線沿いを東へ3分ほど歩いた先にある休天神社は明石の駅家(うまや)の跡とされ、鳥居を入ったすぐ右に「菅公駐駕驛長宅址」と書かれた標柱があります。

 明石の駅家のあった場所は諸説あって、休天神社から800mほど北にいった太寺2丁目バス停の近くだったという説もあります。そこには「菅公旅次遺跡」という石碑が建てられています。菅原道真公は901(延喜元)年、大宰府への旅の途中でここに立ち寄り、明石の駅長(うまおさ)の出迎えを受けます。菅原道真公が讃岐守だったとき、何度か立ち寄ったことがあるらしく、面識があった駅長は左遷されて大宰府へ向かう菅原道真公に同情的でした。

一栄一落 是春秋

 そのとき菅原道真公は「栄えるものもいずれその勢威を失う、これは当たり前のことなのです」といったと言われていますが、真偽のほどは分かりません。



拝殿の前には天神さんにつきものの牛の像があります(左手の植栽の下)。



 大宰府へ行った菅原道真公が亡くなったということを聞いた駅長が、菅原道真公を祀る祠を903(延喜3)年に建てたのが休天神社の始まりといわれています。江戸時代の1673(延宝4)年、この祠は明石城主・松平信之の手によって神社として祀られるようになりました。菅原道真公が座って休んだといわれている菅公踞石も、この3年後に近くにある大蔵院からここに移設されたそうです。




本殿脇にある「菅公踞石」。柵があって近付けませんでした。



 1971(昭和46)年には本殿の屋根が半焼してしまいますが、翌年大修理を終えて正遷座祭が営まれました。2002(平成14)年には拝殿の前に梅の木が植えられ、鮮やかな彩を添えてくれています。




道真公没後1100年祭で植樹された梅。もう花を咲かせていました。



アクセス
・山陽電車「人丸前駅」下車、東へ徒歩5分
・山陽電車「大蔵谷駅」下車、西へ徒歩5分
 休天神社地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


三木・歓喜院聖天堂。

2006年02月22日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)

歓喜院聖天堂

(かんぎいんせいてんどう)
三木市吉川町毘沙門547



旧吉川町で最古の木造建築。風雨から保護するために小屋が建てられています。


〔宗派〕
曹洞宗



 東光寺から車で10分ほどいった細い道の奥に歓喜院聖天堂がありました。この聖天堂は旧吉川町の中ではもっとも古い木造建築で、1411(応永18)年に建立されたものとされています。この地には鎌倉末期に播磨の守護赤松則村が築いた毘沙門城があったそうです。もともと天台宗の法嶺山常楽寺があった場所に城を築いたといわれています。ここはその毘沙門城 の二の郭があった場所で、歓喜院聖天堂はこの一帯を治めていた藤田氏の氏神だったといわれています。




内部は鮮やかな朱塗り。



 境内の東の山裾に建っていたものを今の場所に移し、1970(昭和45)年に解体修理がおこなわれました。吉川の山中にひっそりとたたずんでいる歓喜院聖天堂は、国指定の重要文化財です。


アクセス
・中国自動車道吉川ICより南へ車で20分
 歓喜院聖天堂地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


三木・東光寺。

2006年02月21日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)


姑射山 東光寺

(こやさん とうこうじ)
三木市吉川町福吉261



中国自動車道脇にあるこのお寺、軽トラに田舎の風情を感じます。


〔宗派〕
高野山真言宗

〔御本尊〕
子安地蔵尊
(こやすじぞうそん)



 「平成の大合併」によって旧吉川町は三木市になりました。その吉川の名が残る中国自動車道・吉川JCの近くに東光寺はあります。正式名称を姑射山東光寺といい、地元の人には「こやでらさん」と呼ばれているこのお寺は、寺伝によると室町時代の前期、神亀年間(724年~728年)に行基上人の手で建立されたという真言宗の寺院で、最盛期には広大な寺域に28もの寺院や塔頭があったといいます。




奥に見えるのが本堂。



 元禄時代にも7坊あったという東光寺も、今ではこの地蔵院だけになってしまいました。室町中期から末期にかけての建築といわれているこの本堂は、国の重要文化財に指定されています。




境内に入ってすぐのところにある鐘楼。



 境内に残る鐘楼 の銅鐘は旧吉川町の重要文化財に指定されています。銅鐘には「慶長六年辛丑年三月二十六日」の刻印があります。当時の鋳物師の集団・姫路野里の鋳物師の特徴がみられる鐘だそうです。




兵庫県の重要文化財に指定されている多宝塔。



 境内の奥の石段の上には、朱がまだ鮮やかな多宝塔が建っています。高さ約13mというこの多宝塔は内部に来迎壁を設け、須弥壇に五智如来像を安置しており、本堂と同じく室町中期の建築物だといわれており、県の重要文化財に指定されています。一部は大正時代に補修されましたが、主要部分や内部の須弥壇などは建立当時のものだそうです。


アクセス
・中国自動車道 吉川ICから車6分
 東光寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~17時


鎌倉・建長寺。

2006年02月18日 | ▽関東・甲信越

巨福山 建長興国禅寺

(こふくざん けんちょうこうこくぜんじ)  
神奈川県鎌倉市山ノ内8

鎌倉五山・第一位



建長寺の外門。


〔宗派〕
臨済宗建長寺派本山

〔御本尊〕
地蔵菩薩坐像
(じぞうぼさつざぞう)



 鶴岡八幡宮の横を抜け、巨福呂坂の切通しを抜けて坂を下っていくと、目の前には鎌倉五山の第一位、建長寺 の伽藍が眼下に広がります。そのまま直接総門から入っても良かったんですが、せっかくなので外門までまわってから境内に入りました。




「人材を広く天下に求め育成する禅寺」という意味の「天下禅林」の扁額。



 鎌倉時代、鎌倉の域内にお墓を設けることは幕府によって禁じられていました。このため切通しを越えたあたりに墓地が設けられるようになり、御家人や僧侶たちは山腹に穴を掘ってつくった「やぐら」に葬られ、その前に広がる平地に庶民が葬られていきました。現在建長寺が建っているあたりも以前はそんな庶民の埋葬地の一つで、地獄谷と呼ばれる処刑場がありました。しかし地獄谷には土地が少なかったため、平地にお墓を建てることが禁じられていて、庶民は谷に亡骸を葬っていたそうです。もともと地獄谷には地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山 心平寺というお寺がありました。禅宗寺院の多くが釈迦如来像を本尊としているなかで、建長寺の御本尊が地蔵菩薩像だというのも、こういった歴史背景を踏まえたものだったのです。

 地蔵菩薩像 の胎内には、済田地蔵という小像が納められていました。この地蔵さんには次のようなエピソードがあります。済田佐衛門金吾という人が無実の罪で裁かれ、地獄谷の処刑場で処刑されることになりました。しかし彼が日頃から信仰して髻の中に納めていたお地蔵さまの像が身代わりとなって2度も刀を受け、彼には傷ひとつつかなかったそうです。ときの執権北条時頼公はこの不思議な話を聞いていたく感じ入り、その信仰心に免じて左衛門を放免したそうです。ご加護に感謝した彼は、この地蔵像を心平寺の地蔵菩薩の中に納めたということです。




この総門をくぐると鎌倉五山第1位、建長寺の境内。身が引き締まります



心平寺のあった地獄谷に臨在禅の古刹建長寺 が建てられたのは1253(建長5)年のこと。そのころには地蔵堂が残っていたそうです。建長寺 は、鎌倉幕府5代執権の北条時頼公が宋の禅僧・蘭渓道隆を招き、禅宗の専門道場として建立された禅寺で、中国五山のひとつ径山万寿寺を模して作られました。正式名称は巨福山建長興国禅寺 といい、地名である巨福呂坂と年号にちなんで名付けられました。

 古代インドの五精舎 にならって、中国では宋の時代に禅宗寺院の官寺制度である五山制度が設けられました。臨在禅の第1位とされたのが径山万寿寺です。その制度が日本に伝わったのは鎌倉時代の末期といわれており、ここ建長寺は、足利義満公が定めた鎌倉五山の第1位に格付けられました。ちなみに第2位は円覚寺、第3位は寿福寺、第4位は浄智寺、第5位は浄妙寺となっています。




1996年に改修された三門



 建長寺は禅宗の修行道場であるとともに、天皇家や将軍家の繁栄、天下太平の祈願、頼朝公をはじめとする源氏3代の将軍や北条政子ら北条一族の冥福を弔う寺院としても厚く保護されてきました。特にこの寺を建立した北条時頼公は、蘭渓道隆などに師事して禅宗に深く帰依し、経済的サポートを行い禅宗を全国へ広める役割を果たしました。残念ながら14世紀から15世紀にかけて何度か起きた火災で、創建当初49坊あったという伽藍の多くが焼失してしまいましたが、江戸時代に入って江戸幕府のサポートを受け、沢庵和尚の進言で再建されました。あの「天下の副将軍」徳川光圀公もここを訪れています。




三門を見上げると「建長興国禅寺」の文字が。



 1996(平成8)年には三門改修の落慶式が営まれ、2003(平成15)年には創建750年大法会がおこなわれました。長い年月が経った現在も、禅堂では創建以来の厳しい禅風が脈々と受け継がれ、雲水たちが厳しい修行を続けています。


アクセス
・JR横須賀線「北鎌倉駅」下車、鎌倉駅方面へ徒歩7分
・JR横須賀線「鎌倉駅」下車、北鎌倉方面へ徒歩10分
 建長寺地図Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人300円

拝観時間
・8時30分~16時30分

公式サイト
 臨済宗建長寺派大本山・建長寺公式ホームページ

まるごと建長寺物語 (日本の古寺)
高井 正俊
四季社

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神戸・神戸教会。

2006年02月18日 | ■神戸市中央区

神戸教会

(こうべきょうかい)
神戸市中央区花隈町9-16




前の歩道橋から写した神戸教会。隣接して幼稚園も運営しています。


〔所 属〕
日本基督教団
(プロテスタント)



 神戸教会の創始者は1870(明治3)年に来日したダニエル・C・グリーン という牧師でした。新婚だったグリーン牧師は、新妻のメリーさんとともにアメリカンボード最初の日本派遣宣教師として来日しました。当時はまだ幕府時代に引き続いてキリスト教が禁止されていたため、キリスト教関係者の動向は官憲に厳しく監視されていました。そのためグリーン牧師は、しばらく英語の教師として活動する事を余儀なくされました。1873(明治6)年になってキリスト教の布教が解禁されると、グリーン牧師は繁華街だった元町通5丁目にキリスト教関連の書籍販売店を構え、日曜ごとに礼拝を行うようになります。当初は10人程度の集まりでしたが、翌年に11人が洗礼を受けたのを機に教会を構えることになりました。1874年(明治7年)4月19日、西日本では最初のプロテスタント教会「摂津第一神戸基督公会」が産声をあげた瞬間です。





正面玄関(左)と、戦時中の空襲で破壊された教会前の敷石(右)。



 1873(明治6)年には米国婦人伝道会社タルカット牧師とダッドレー牧師が来日し、花隈に私塾を開いて教育活動を続けていた神戸教会は、旧三田藩の藩主夫人との縁がきっかけとなり、1875(明治8)年には山本通に少女教育のための寄宿学校「神戸ホーム」を建てました。この学校が「神戸英和女学校」・「神戸女学院」へと発展していきます。現在は西宮市の岡田山に才智の集う「神戸女学院」ですが、1933(昭和5)年までは神戸にあって神戸教会と密接な関係を持っていました。次第に信徒を増やした神戸教会は1878(明治11)年に北長狭通6丁目に移転。さらに1888(明治21)年に現在の地に移って布教活動を続けていきました。現在の建物は1932年(昭和7年)に第4期会堂として建てられたものです。

 戦時中には日本陸軍に接収され、空襲への備えとしてコールタールで真黒に塗装をされましたが、1945(昭和20)年6月1日の神戸大空襲で被災。しかし、周囲が全焼したにも関わらず、奇跡的に教会だけは被害を免れました。現在でも会堂の脇には被弾した敷石が平和の記念として保存されています。終戦後、アメリカの教会の支援によってコールタールを洗い流す工事が行われ、神戸教会は再び白い姿を取り戻すことができました。





教会の壁面にあるステンドグラスの窓(左)と、空に向かって聳え立つ塔(右)。


アクセス
・JR「元町駅」下車、北西へ徒歩10分
・阪急電車「花隈駅」下車、北へ徒歩5分
・神戸市営地下鉄「県庁前」下車、西へ徒歩3分
神戸教会地図  Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

公式サイト


近代日本と神戸教会

創元社

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鎌倉・巨福呂坂 切通し

2006年02月16日 | ▽関東・甲信越


巨福呂坂 切通し
  
(こぶくろざか きりどおし)
神奈川県鎌倉市雪ノ下2



巨福呂坂洞門。景色との違和感が出ないよう良く工夫されています。




 鶴岡八幡宮から鎌倉五山の第一位に列せられた禅宗の古刹、建長寺へと抜けていく道の途中、アーチ状の落石防護施設「巨福呂坂洞門」を抜けました。ここは「鎌倉七切通し」のひとつ巨福呂坂切通し で、源頼朝公の時代の切通しは西の尾根にありました。現在の切通しは日本陸軍の軍馬通行の便をよくするために1886(明治16)年に新たに開いたもので、関東大震災で壁面が崩落したため改修され、車両通行が可能なルートになりました。今のアーチ状の施設は1993(平成5)年、切通しの風情を損なわないように設置されたものです。

 鎌倉は三方が急峻な山に囲まれ、南にある由比ヶ浜の港も遠浅のため船団を使った強襲揚陸作戦も受けにくいという天然の要害の土地でした。鎌倉七切通しとは、その周囲の山から関東各地に抜けるために切り開かれた軍用連絡路です。非常に道幅が狭く、直角に折れ曲がったり道の真ん中に巨石を置いたりして、大群が動かしにくい造りになっていました。鎌倉幕府があったころの切通しは今よりもさらに幅が狭く、下り坂もぬかるんでいて鎧・兜に身を包んだ軍勢が攻めにくいようになっていたのだそうです。

 実際、鎌倉幕府が滅亡に追い込まれた1333(元弘3)年、鎌倉に攻め込んだ新田義貞公の軍勢は主力を投入したにも関わらず化粧坂の切通し攻略に大苦戦を強いられ、わずか80mほどの切通しを抜けるのに4日以上かかったといわれています。ちなみに、「鎌倉七切通しとは巨福呂坂亀ヶ谷化粧坂大仏坂朝比奈極楽寺名越の切通しのことです。


アクセス
・JR「鎌倉駅」東口より下車、北東へ徒歩20分
・江ノ電「鎌倉駅」下車、北東へ徒歩20分
 巨福呂坂切通し地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

鎌倉散歩 (エイムック 1717 別冊湘南スタイルmagazine)

エイ出版社

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鎌倉・白旗神社。

2006年02月15日 | ▽関東・甲信越
必勝祈願・学業成就

白旗神社

(しろはたじんじゃ)
神奈川県鎌倉市西御門2



「白旗」は源氏の旗の色です。ちなみに平氏は赤旗でした。


〔ご祭神〕
源頼朝公
(みなもとのよりとも)


 墓所にのぼる石段の脇には白旗神社があります。源頼朝公の墓所のところでも少し書きましたが、この辺りには源頼朝公が生前信仰していた観音像が収められた持仏堂がありました。この場所は、源頼朝公が幕府を開いて最初に政務をおこなった大蔵御所の北隅にあたります。死後源頼朝公はここに葬られ、持仏堂も法華堂と呼ばれるようになりました。鎌倉幕府もここを手厚く保護し、毎年源頼朝公の命日には代々の将軍が諸将をともなって参詣したといわれています。 そんな法華堂も、その後の幕府の権力争いとは無縁ではありませんでした。

 1213(建保元)年に頼朝が伊豆で挙兵した時代からの重臣だった和田義盛公が北条氏に対して兵を起こしたとき、時の将軍源実朝公は彼の軍勢の放った火から逃れるためにここに避難したといいます。また、1247(宝治元)年に起こった宝治合戦の時には、北条時頼公と安達景盛公の軍に居館を攻められた三浦泰村公がここ法華堂に立て籠ったといいます。奮戦むなしく三浦一族をはじめとする500名あまりがここで自害して果てました。最大のライバル三浦氏を滅ぼしたことで北条氏の専制基盤が確立した出来事が、源頼朝公の廟所で起きたというのもなんとも皮肉なものですね。

 その後、明治維新の時に発せられた神仏分離令によって白旗神社に改められ今日に至ります。


アクセス
・JR「鎌倉駅」東口から下車、北東へ徒歩15分
 江ノ電「鎌倉駅」から下車、北東へ徒歩15分
 白旗神社地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


鎌倉散歩 (エイムック 1717 別冊湘南スタイルmagazine)

エイ出版社

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神戸・神戸栄光教会。

2006年02月14日 | ■神戸市中央区


神戸栄光教会

(こうべえいこうきょうかい)
神戸市中央区下山手通4-16-1




兵庫県庁と兵庫県公館の間に立つ神戸栄光教会。レンガの色が彩りを添えています。


〔所 属〕
日本基督教団
(プロテスタント)



 神戸栄光教会 は、関西学院の創立で有名なJ・W・ランバス氏が旧居留地47番に創立した南メソジスト派神戸教会がその基礎となっています。1886(明治19)年に来日したランバス氏は、その4ヶ月後に来日した息子のウォルター夫妻とともに伝道に努め、2年後には中央区下山手5丁目に会堂を新築しました。ウォルター夫妻は1890(明治23)年にアメリカに帰国し、J・W・ランバス氏もその2年後に亡くなりましたが、神戸栄光教会 自体はその後も発展を続けていきました。1922(大正11)年には赤レンガのモダンな建物が建てられ、長く神戸のランドマークとして市民に親しまれています。





神戸栄光教会の正面玄関(左)と、その前にある手入れの行き届いた美しい花々(右)。



 美しい景観で市民に愛された神戸栄光教会 も、阪神・淡路大震災によって全壊し、長い間仮設での暮らしが続きました。震災の5ヵ月後には再建委員会が作られ、再建に向けて議論を続けましたが「震災の記憶を払拭するためにも21世紀にふさわしい教会を」「慣れ親しんだ以前の姿に戻したい」など様々な意見が出てなかなか再建案がまとまりませんでした。それだけ信徒の皆さんの教会に対する思いが強かった事が伺われますが、「一日でも早く再建を。しかし急いで進める事はせず、じっくりみんなの気持ちをまとめよう」」というスタンスで意見の集約が進められ、ようやく2002(平成14)年になって再建案がまとまりました。最終的には「やはり以前の姿が一番良かった」という意見でまとまり、寄付金も集まってきた事で2004(平成16)年にレンガ造りの懐かしい姿での再建を果たす事となりました。

 神戸栄光教会 の創始者であるランバス親子は関西の教育界にも大きな功績を残しています。1886(明治19)年にウォルター夫妻が開いた読書館は、のちのパルモア学院となり、原田の地に設立した関西学院は、のちに西宮市上ヶ原に移転して関西有数の私立総合大学へと発展していきました。関西学院大学と合併した聖和大学ランバス氏が設立したものです。





レンガ造りの美しい建築は「第19回神戸景観・ポイント賞」を受賞しました。


アクセス
・JR「元町駅」下車、北へ徒歩8分
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車、西へ徒歩2分
 神戸栄光教会地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料 (教会なので見学は控えめに)


神戸のハイカラ建築
石戸 信也
神戸新聞出版センター

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明石・柿本神社。

2006年02月13日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
芸能上達・学業成就・水難よけ・火除け・安産

柿本神社

(かきのもとじんじゃ)
明石市人丸町1-26



柿本神社の広い境内。ここから明石海峡が一望できます。


〔御祭神〕
柿本人麻呂
(かきのもとのひとまろ)



 明石で「初詣はどこに行く?」というとまず名前が挙がるのが柿本神社です。地元では「人丸さん」の名前で親しまれているこの神社は、明石城の奥、明石市立天文科学館の北隣にあります。この神社は、万葉集で有名な歌人柿本人麻呂を祀った神社で、境内には柿本人麻呂公の歌碑が多数建てられ、雅な雰囲気を味わうことができます。




「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも」



 歌人として有名な柿本人麻呂公は、赴任していた石見国(=島根県)で亡くなった下級官吏と言われていましたが、近年では流人として非業の死を遂げた中級以上の役人だったという説が出てきています。

 孝昭天皇の皇子である天足彦国押入命の子孫という説もある柿本人麻呂公を祀る柿本神社。「歌聖」としての文化人の面を讃えるといった意味合いだけでなく、やはり非業の死を遂げた者の怨霊を鎮めるために建てられたのではないでしょうか。





柿本神社の社殿。



 811(弘仁2)年に弘法大師が明石を訪れた折、今の明石城の本丸にあたる赤松山に湖南山楊柳寺月照寺)を建立したそうです。その後887(仁和3)年に柿本人麻呂公の霊夢を見た楊柳寺覚証上人によって大和の柿本寺から柿本人麻呂公が念持仏としていた船乗観世音像が遷され、寺の背後に人麿祠堂を建てたのが始まりといわれています。

 1620(元和6)年には小笠原忠政公が明石城を築城。しかし城が建てられたのが人麿祠堂の建つ赤松山だったため、人麿祠堂を自由に参拝できなくなってしまった民衆が京都所司代に訴えを起こします。明石藩の統治のためには民衆の信仰を妨げることは得策でないと考えたか、京都所司代仲介もあって人麿祠堂は2年後の1622(元和8)年に月照寺とともに現在の場所に移されることとなりました。その後1871(明治4)年の神仏分離令によって月照寺と分けられ、柿本神社となりました。

人丸」は「火止まる」「人生まる」に通じるということで、火除けや安産の信仰があります。学問や文芸の神様としての信仰も厚い神社です。


人丸講祭    3月18日
春季例大祭  4月第2日曜日
春季献詠祭  5月最後の仏滅の日(春のお歌会)
秋季例大祭  10月18日
秋季献詠祭  11月最後の仏滅の日(秋のお歌会)


アクセス
・山陽電車「人丸前駅」下車、北へ徒歩3分
・山陽電車「山陽明石駅」下車、北へ徒歩10分
・JR「明石駅」下車、北へ徒歩10分
 柿本神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


水底の歌―柿本人麿論 (上) (新潮文庫)
梅原 猛
新潮社

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水底の歌―柿本人麿論 (下) (新潮文庫)
梅原 猛
新潮社

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鎌倉・源頼朝公墓所。

2006年02月12日 | ▽関東・甲信越


源頼朝公墓所

(みなもとのよりともこうぼしょ)
神奈川県鎌倉市西御門2





〔被葬者〕
源頼朝公
(みなもとのよりとも)

〔戒 名〕
武皇嘯厚大禪門



 鶴岡八幡宮から東側に隣接する横浜国大付属小中の脇を通り抜けて10分ほど歩いたところにある小高い丘の中腹に、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝公の墓所があります。ここにはかつて源頼朝公が信仰していた観音像を収めた持仏堂があり、死後は法華堂と呼ばれていました。その脇の石段を登りきったところに源頼朝公の墓所があります。

 木々の中にひっそりと建っているこの墓所は、源頼朝公の妾腹の息子で島津家の始祖である島津忠久公が建てたものであると言われています。正妻である北条政子が建てたものではないばかりか、当の北条政子の墓所は源頼朝公の墓所とは反対側の寿福寺にあり、3代将軍源実朝公とともに眠っています。




1779(安永8)年に薩摩藩主・島津重豪により再建。現在の塔は1990(平成2)年補修。



 源頼朝公の死は謎に包まれています。1198(建久9)年12月27日、亡き妻の追善供養のために御家人の稲毛重成公が相模川にかけた橋の落成式に出席した源頼朝公はその帰り道に落馬し、病の床に伏せったといわれています。手当ての甲斐なく事故から2週間ほど経った1199(建久10)年1月13日、源頼朝公は53年の波乱の生涯を終えました。しかし、後年北条氏によって編纂された鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」には、源頼朝公の死の前後3年間のことが一切欠落しています。このことが脳溢血による落馬、糖尿病、北条氏の謀略説、はては平家の怨霊説など数多くの説が生まれるもとになりました。

 落馬が死亡の大きな原因であることは確かだったかもしれませんが、源頼朝公が亡くなって一番恩恵を受けたのが北条氏であることを考えれば、将軍家に権力が集中していく体制は都合の良いものではなく、北条氏鎌倉幕府の実権を掌握するための様々な工作が行われた可能性があります。落馬事故が意図的に引き起こされたのかもしれませんし、突発的に起こった落馬事故を利用し、療養の過程で何らかの謀略が行われたのかもしれません。確実に言えることは、決して芳しい最期ではなかったということです。


アクセス
・JR「鎌倉駅」東口から下車、北東へ徒歩15分
 江ノ電「鎌倉駅」から下車、北東へ徒歩15分
 源頼朝公墓所地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


鎌倉おさんぽマップ (ブルーガイド・ムック)
ブルーガイド
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鎌倉・鶴岡八幡宮。

2006年02月11日 | ▽関東・甲信越
商売繁昌・縁結び・厄除け

鶴岡八幡宮

(つるがおかはちまんぐう)
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31




朱塗り鮮やかな一の鳥居の向こうに本殿が見えます。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
比売神
(ひめがみ)
神功皇后
(じんぐうこうごう)


 鶴岡八幡宮 は1063(康平6)年、「前九年の役」によって奥州を平定して鎌倉に戻った源頼義公が、出陣前に戦勝祈願をした京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜(現在の材木座1丁目)にお祀りしたのが始まりといわれています。そのころは鶴岡若宮と呼ばれていたそうです。

 その後、源頼朝公が鎌倉に入った1180(治承4)年に現在の地に遷されましたが、火事によって全焼してしまいます。そのため、1191(建久2)年には幕府と関東の総鎮守としてふさわしいよう上下宮を造営、鶴岡八幡宮と名がつけられました。それまでは源氏の氏神は大阪府羽曳野の壺井八幡宮だったのですが、鎌倉に幕府が開かれてからはここ鶴岡八幡宮に移ったといわれています。流鏑馬相撲舞楽など、今に伝わる神事もこのころ始められたそうです。




 舞殿では結婚式が行われていました。神社での結婚式もいいですね。



 この建物は、静御前「しずやしず しずのをだまき…」源義経公を慕う舞を舞ったという伝説にちなんで舞殿と呼ばれています。実際のところ、当時はまだ舞殿はなく「静の舞」は若宮社殿の回廊で舞われたそうです。この故事に因み、毎年4月の第2日曜には、「静の舞」が奉納されています。




石段脇にそびえ立つ大銀杏の木。



 石段の脇にある大銀杏は、1219年1月の右大臣拝賀の儀式の後に起きた3代将軍源実朝公暗殺の際、甥の公暁 が身を隠していたという樹齢千年以上の大銀杏で、別名「隠れ銀杏」とも呼ばれています。この暗殺には幕府の覇権を狙う三浦義村公が関わっており、公暁が北条義時公を討ち漏らしたことで計画も水泡に帰したといいます。




2002(平成15)年の大改装で、朱も鮮やかに生まれ変わりました



 現在の本殿は、1828(文政11)年に11代将軍徳川家斉公が造営したもので、若宮とともに国の重要文化財に指定されています。


アクセス
・JR「鎌倉駅」東口より下車、北東へ徒歩10分
・江ノ電「鎌倉駅」下車、北東へ徒歩10分
 鶴岡八幡宮地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料(ボタン庭園への入園料500円、シーズン以外は300円)

拝観時間
・9時~17時

公式サイト
  鶴岡八幡宮公式サイト


元気(パワー)をもらう神社旅行
辰宮 太一,中野 晴生,Kankan
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明石・住吉神社(魚住)。

2006年02月09日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
厄除け・交通安全・安産・育児安寧

魚住住吉神社

(すみよしじんじゃ)
明石市魚住町中尾1031



鳥居から楼門、拝殿、本殿が一直線に並ぶのは東播磨の神社の典型。


〔ご祭神〕
底筒男命
(そこつつのおのみこと)
中筒男命
(なかつつのおのみこと)
表筒男命
(うわつつのおのみこと)
息長足姫命
(おきながたらしひめのみこと=神宮皇后)



 山陽電鉄魚住駅から7分ほど歩くと、海の守りの神社・住吉神社に着きます。一の鳥居のある南にまわってみたんですが、播磨灘が眼前に広がるまさに「海の神社」。夕方に訪れたこともあって、夕日がきれいでした。

 かつて東の谷八木川から二見までの地域は摂津国の住吉大社の神領地でした。そのためこのあたりには住吉神社と名のつく神社が数多くあります。その中でもここ魚住住吉神社は総鎮守社として古い歴史を持っています。




鳥居をくぐると立派な楼門があります。
1648(慶安元)年建立、明石市の指定文化財。



楼門をくぐると、本殿の手前に能舞台が建っています。



 拝殿前に建つ能舞台は、初代明石城主だった小笠原忠政が1627(寛永4)年に建立したもので、楼門と同じく明石市の指定文化財になっています。実はこの舞台、まだまだ現役で毎年5月1日には奉納能楽会が催されています。江戸時代から続く伝統ある行事でしたが戦争のため一時中断。1974(昭和49)年に地元の皆さんの尽力により復活し、以来毎年続けられています。




朱塗り鮮やかな拝殿に掲げられた2つの絵馬は円山応挙と石田幽汀の作。



 拝殿の裏には樹齢100年を越える藤の花の名所としても有名です。ちょうど奉納能楽会が行われるころ、5月の上旬にはきれいな花を咲かせてくれます。その昔、大阪の住吉大明神が「播磨の国に住みたい。藤の枝を海に浮かべて、それが流れ着いたところに祀ってほしい」といって流した藤がこのあたりに流れ着いた、という故事から雄略天皇8(464)年に当地に建てられたという住吉神社。この近くにある藤江という地名も含めて、優美な感じがします。


アクセス
・山陽電車「魚住駅」下車、南へ徒歩5分
 魚住住吉神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


杜を訪ねて―ひょうごの神社とお寺〈下〉 (のじぎく文庫)

神戸新聞総合出版センター

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明石・ボタン寺(閼伽寺薬師院)。

2006年02月04日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)


閼伽寺薬師院

(あかでら やくしいん)
明石市魚住町西岡

通 称
ボタン寺

明石西国霊場・第7番札所





〔宗派〕
真言宗

〔御本尊〕
薬師如来像
(やくしにょらいぞう)



 山陽電車魚住駅から西へ徒歩10分、JR魚住駅からは徒歩25分、瀬戸川を越えた浜国道の1本南の道沿いに、「ボタン寺」と呼ばれて市民に親しまれている寺院があります。この寺院の名は薬師院。1,300年近い歴史を持つ古刹は、5月には境内いっぱいに育てられたボタンの香りで満たされ、多くの見物客で賑わいをみせます。




1657(明暦3)年に再建されたといわれる本堂。



 薬師院の正式名称は、清冷山閼伽寺聖武天皇の時代の730(天平2)年にこの地を訪れた行基上人は、西岡の地に差し掛かったところで景色の美しさに感動を受けます。その時、持っていた錫杖を地面に突き立てたところ滾々と霊泉が湧き出し、不思議な事にその水の中から薬師如来像が現れました。聖武天皇にこの事を奏上した行基上人は、早々に勅許を得て寺院を創建しました。寺院は錫杖によって湧き出した「神仏に供える浄水を汲む井戸」という意味の「閼伽井」から、清冷山閼伽寺と名付けられました。長い年月の間に本坊は失われ、現在残っているのは5つの塔頭のみで、そのうちの一つがここ薬師院です。




「元禄八年」と刻まれている薬師院の石橋。現在の伽藍は江戸時代に建てられたそうです。



 境内には臥龍松とよばれる松があります。1054(天喜2)年に植えられたといわれるこの松は、かつては高砂の松尾上の松と並び称される名松で、境内いっぱいに枝を広げていました。残念ながら1945(昭和20)年頃に松喰虫のために枯れてしまい、今ではその根の部分だけがゆっくりと身を休めています。

 名物となったボタンの花が薬師院を彩るようになったのは明治に入ってから。最初は数株程度でしたが、時代を追うごとに次第にその数と種類は増やされていき、今では20種類以上・1,000株を優に越える規模となって参拝客の目と鼻を愉しませてくれています。






アクセス
・山陽電車「魚住駅」下車、西へ徒歩10分
 薬師院地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料(ボタン園は大人350円)

拝観時間
・9時~17時


杜を訪ねて―ひょうごの神社とお寺〈下〉 (のじぎく文庫)

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明石・御厨神社。

2006年02月04日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
厄除け・学業成就・交通安全

御厨神社

(みくりやじんじゃ)
明石市二見町東二見1323



社殿から南へ伸びる参道の東側が東二見、西が西二見。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
菅原道真公
(すがわらのみちざね)
素蓋鳴命
(すさのおのみこと)



 明石市の西部に二見という地区があります。ここの東二見地区西二見地区の境界線の真ん中に二見の鎮守神社として鎮座しているのが御厨神社です。御厨というのは「神饌を調進するところ」、つまり神さまにお供えをする供物を調達・提供するところという意味で、この地より伊勢神宮皇室へと海産物や農産物が納められていたのではないかと考えられます。

 一説には、神功皇后三韓遠征のとき、皇后の軍勢が兵糧などを集めるためにこの二見浦に立ち寄ったことがあり、そのとき二見の方々が食物を奉ったことからこの名前がついたとも言われています。




御厨神社の社殿。社殿前には隣接するように能舞台が建ちます。



 幕末の火災によって古文書が焼失したため創建年代は不明ですが、貞観年間(859~877年)には八幡大神(=応神天皇)が勧請されていたようです。859(貞観元)年には石清水八幡宮が創建されており、各郡に1社石清水八幡宮から八幡大神を勧請するように令が下っていたとの記述があります。これに照らし合わせると時期的にも一致します。

 現在の場所に祀られるようになったのは平安時代のこと。当初祀られていた土地が明石海峡の波によって侵食されたため、長暦年間(1037~39年)に卯の花の森と呼ばれる現在地に遷って来たと言われ、この頃から二見の鎮守社として崇敬を集めるようになったといわれています。




鳥居をくぐった左側にある「菅公仮寝の松」



 この地には、901(延喜元)年に菅原道真公が都での政争に破れて筑紫国大宰府へと下る途中、二見浦に船を泊めて仮眠をとったと言われ、「菅公仮寝の松」が残されています。しかし、菅原道真公が仮寝をしたのは現在君貢神社がある菅公仮寝の岡と呼ばれる場所で、菅原道真公の故事から100年以上経った長暦年間(1037~39年)になって海の侵食を避けるためにその地に祀られていた八幡宮天満宮とともに卯の花の森に遷されたと考えられています。



アクセス
・山陽電車「東二見駅」下車、西へ徒歩5分
 御厨神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


杜を訪ねて―ひょうごの神社とお寺〈下〉 (のじぎく文庫)

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