神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

東京・蔵前神社。

2006年08月30日 | ▽関東・甲信越
厄除開運・家内安全・商売繁盛・交通安全・学業成就・安産

蔵前神社

(くらまえじんじゃ)
東京都台東区蔵前3-14-11






〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
神功皇后
(じんぐうこうごう)
姫大神
(ひめのおおかみ)

倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
塩土翁命(しおつちのおきなのみこと)



 天下の悪法といわれた「生類憐みの令」を出し、「犬公方」と揶揄された江戸幕府・第5代将軍徳川綱吉公。最近では、元禄時代に日本を訪れたドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの著した『日本誌』などの文献研究から、その評価にも変化が見られつつあります。生活困窮者の子どもを役所が保護する義務やホームレスの保護、囚人達の待遇の改善などを打ち出すなど、評価するべき点も多々あったようです。

 そんな徳川綱吉公が1693(元禄6)年に京都の石清水八幡宮をこの地に勧請して出来たのが蔵前神社です。当時の正式名称は、そのものずばり「石清水八幡宮」。将軍家祈願所のひとつとして篤く崇敬され、御朱印社領200石が寄進されていました。もちろん、将軍家だけでなく一般庶民からも「蔵前の八幡さま」「東石清水宮」と呼ばれ、たいへん親しまれていました。







 蔵前神社は、創建から40年ほどのちの1732(享保17)年に火事で全焼。その後しばらく浅草三嶋町に遷されていましたが、1744(延享元)年には元の土地であるこの地・八幡町(当時)に戻されました。別当寺として建立された雄徳山大護院にちなみ、「大護院の八幡宮」とも呼ばれていた蔵前神社には、将軍綱吉公の母・桂昌院たっての希望で江戸・日本橋に設けられていた成田山新勝寺の御旅所・成田不動が遷されていたこともあったそうです。

 明治に入って神仏分離令が出てから成田不動も深川に遷され、雄徳山大護院も廃寺になりました。社号も「石清水八幡宮」から「石清水神社」、そして再び「石清水八幡宮」と呼ばれた後の1951(昭和26)年に現在の社号「蔵前神社」と改称されました。

 


日本相撲協会や名力士たちから奉納された玉垣が並びます。



 江戸時代、隅田川沿いに幕府の米蔵「浅草御蔵」があったことから「蔵前」と呼ばれるようになったこの地から、大相撲を連想される方も多いと思います。戦後30年ほどの間、栃錦と初代若乃花の「栃若時代や大鵬柏戸の「柏鵬時代」をはじめ輪島北の湖千代の富士といった名力士たちが活躍した舞台となったのが蔵前国技館でした。

 もともと蔵前の地と相撲との係わりは古く、1757(宝暦7)年に行われた勧進相撲を皮切りに文政年間までの70年あまりの間に23回も勧進相撲がおこなわれるなど相撲熱は非常に高く、両国回向院深川八幡宮と並んで勧進相撲三大拠点のひとつと呼ばれ、名大関・谷風梶之助や関脇・小野川喜三郎、そして大関・雷電爲右エ門などの名力士が集い、数々の名勝負の舞台となりました。とくに1782(天明2)年2月場所、それまで4年間破竹の63連勝を誇っていた大関・谷風梶之助が新進気鋭の若手・小野川喜三郎に敗れた一番は人々に大きな衝撃を与え、江戸中の話題をさらう一大ニュースとなったそうです。

 こういった相撲と蔵前の強い結びつきから、蔵前神社には日本相撲協会から社号額や玉垣の奉納が行われており、今でも相撲で賑わった当時の名残りを感じることが出来ます。




境内南側に建つ鳥居。鮮やかな赤が目に染みます。



 1947(昭和22)年には隣接していた稲荷神社(倉稲魂命)と相殿だった北野天満宮(菅原道真公)を合祀。1995(平成7)年には境内社だった鹽竈神社(塩土翁命)を合祀しています。


アクセス
・都営浅草線「蔵前駅」下車、北へ徒歩1分
・都営大江戸線「蔵前駅」下車、北へ徒歩1分
・都バス「蔵前駅前」下車、徒歩1分
・都バス「蔵前二丁目」下車、徒歩2分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


相撲の歴史
新田 一郎
山川出版社

東京・靖国神社。

2006年08月25日 | ▽関東・甲信越
国家安泰

靖国神社

(やすくにじんじゃ)
東京都千代田区九段北3-1-1



早朝に総理が訪れたこともあって多くの参拝客が来ていました。


〔御祭神〕
戊辰戦争以来の国難に殉じた御霊



 日本はこの夏、戦後61回目の8月15日を迎えました。教科書問題が起きた際、痛烈に日本の教科書を批判していた某国の幹部が「私は実際の教科書そのものの内容はまったく読んでいない」とのコメントを残したという話を聞いたことがあります。それが事実にしろそうでないにしろ、非常に違和感を感じた覚えがあります。

 批判するにしても、肯定するにしても、実際にその場に足を運ばないことには話が始まらないという思いから、今回初めて「8月15日の靖国」を自分の五感で味わってきました。今まで何度か訪れたことのある靖国神社。この地を訪れるたびに独特の重苦しさを感じ、それゆえに平和への思いをいっそう新たにします。ただ、初めての「8月15日の靖国」は、戦争を肌で感じた人たちの思いが神社全体を包み込み、重苦しい中にも厳粛な、背筋のピンと伸びる緊張感がありました。




旧日本陸軍の創設者・大村益次郎像。



 1853(嘉永6)年の浦賀沖へのペリー艦隊来航を機に尊皇攘夷の機運が高まり、各地で倒幕の火の手が上がるようになります。既存の幕藩体制と「勤皇の志士」たちとの間で衝突が繰り返され、多くの血が流されました。その戦闘のさなか、官軍では士気向上と天皇家への忠誠心を高めるために陣中で何度も招魂慰霊の儀式が行われました。

 江戸城無血開城から9日後の1868(明治元)年4月20日に「東征大総督有栖川宮熾仁親王の名前にて下達された「東海道先鋒総督府達」では、東征軍の各部隊長に対して、戦場で討死もしくは負傷した者の氏名を報告するよう命じています。続いて4月28日に再度下達された文書では、具体的に「戦死者の慰霊のための招魂祭を行う」目的のために殉難者名簿を提出するようにあらためて命じています。




1967(昭和42)年に奉納された「慰霊の泉」。戦場で水を求めながら
落命された方々に水を捧げたい、という思いから建てられたそうです。



 1868(明治元)年6月2日には、無血開城された江戸城西の丸大広間において招魂祭が執り行われました。同年7月10・11日にも京都・川東操練場においても招魂祭が行われました。この招魂祭は、それまでの東征軍主催のものとは異なり、新政府主催として行われた初めての国家的慰霊行事でした。こういった流れを受け、常設の祭祀場としての「招魂社」建立が本格的に検討されるようになります。

 当初は兵火によって多くが焼失した上野・寛永寺の境内(現在の上野公園)近辺が候補地として挙げられていましたが、大学病院の建設計画や公園化計画などもあって断念。その後、1869(明治2)年6月に行われた大村益次郎以下6名の検分によって九段坂の歩兵屯所跡(東京府所有地)に建立されることが決定されました。

 その月の29日には早くも仮社殿が建てられ、この地で初めての招魂祭が執り行われました。これが「東京招魂社」創立の瞬間です。その後1872(明治5)年5月10日に本格的な社殿が竣工し、1879(明治12)年の太政官令によって全国の招魂社が神社へと改称されたのを機に「靖国神社」と呼ばれるようになりました。




1934(昭和9)年に建てられた「神門」



 「靖国」とは、国家を安らかにし、平和安寧にすること。そのような理念のもと、漢籍の中にふさわしい文字を求めた結果、『春秋左氏伝』第六巻・僖公二十三年秋条にある「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠に「靖国」という言葉が社号に決められました。





三の鳥居。ここを抜けると拝殿は目の前です。



 靖国神社に祀られている方々としては、次の国難の犠牲になった方々がおられます。

 ・明治維新 :     7,751柱
 ・西南戦争 :     6,971柱
 ・日清戦争 :    13,619柱
 ・台湾征討 :     1,130柱
 ・日露戦争 :    88,429柱
 ・第1次大戦:     4,850柱
 ・済南事変 :       185柱
 ・満州事変 :    17,176柱
 ・日中戦争 :   191,250柱
 ・第2次大戦: 2,133,915柱

     合計: 2,466,532柱 =2004(平成16)年10月17日現在

 このうち、「ひめゆり挺身隊」や従軍看護婦、小中学校児童を含む5万7千余柱が女性だそうです。そのほかにも、シベリア抑留中に落命した軍属の方々・終戦直後に自決した軍属の方々・民間防空組織の責任者として落命した方々・学徒動員で軍需工場で労働中に爆撃などで落命した方々・米潜水艦に撃沈された学童疎開船「対馬丸」と運命をともにした小学生児童たちなど、数多くの戦争犠牲者が祀られているそうです。




1901(明治34)年に建てられた拝殿。1989(平成元)年には屋根が葺き替えられました。



 靖国神社に国難の殉難者が祀られているのをみて、御霊信仰が思い浮かびました。崇徳天皇菅原道真公に象徴されるように、無実の罪で命を落とした方々の霊を慰めることでその荒魂和魂に変え、災いをもたらす怨霊を人々を守る御霊に昇華させようという考え方です。

 何の罪を犯したわけでもない一般国民が、赤紙(召集令状)一枚で戦場へと狩り出され、見たこともない土地で「お国のため」という言葉のもとに命を落としていく。そういった無辜の御霊を異郷に迷うことなく祖国へと導き、意義のある死だと讃えることでその無念を晴らし弔うためにあるのが「靖国神社」ではないか、と思います。

 つまり靖国神社において、祀られている方々の御霊を讃えているのは「戦争」や「国のために命を捧げること」を礼賛することが目的ではなく、若くして命を落とした殉難者の方々に、「あなたがたの死は決して無駄なものではなかったのですよ。今日の日本の繁栄を築くうえで意義のある犠牲だったのですよ。」と語りかけることによって納得していただくのが目的なのではないか、という風に感じました。




明治の初めに作られたという神池庭園。1999(平成11)年に復元されました。



 いまの豊かな日本は、幕末の困難な時期に欧米諸国に植民地化されることなく独立を守っていくために戦った方々、そして良くも悪くも様々な道を歩むことで、他国への侵略や他民族の民族自決権の侵害、無辜の人々の命を否応なく奪い去る戦争行為は絶対にしてはいけないという教訓をその2つとない命をもって我々に伝えてくれた先達の犠牲のうえに成り立っているということを忘れてはならないと思います。

 ですので、国権の発動たる戦争によって失われた命は、国家の責任において追悼されるべきだと思いますし、「戦争」が実際にこの日本において遂行され、「この国がより良くなるために」「残された家族がより良い社会で暮らせるように」とその命を悲壮な思いで捧げた方々がこれだけ多く存在したのだということを実感し、平和への思いを新たにさせる場所は必要だと思います。 

 戦場で力尽いた御霊がその時代、望む望まざるに関わらず「とにかく靖国へ向かえば迷わずに祖国に帰られる」と考えていたのであれば、やはり彼らにとってひとつのランドマークとしての靖国神社は大切に存立して行かなくてはならないのではないか、そんな気がします。

 「無宗教の追悼施設」を設けるという意見もありますが、やはり良くも悪くも実際に戦争に大きくかかわりを持ち、戦火の中をくぐり抜けてきた生々しい施設を残し、そこで犠牲者を追悼していくことでこそ、リアルな記憶を呼び覚まし、今まで私たちの国が歩んできた歴史を実感していけるのだと思います。


 もちろん、こういった慰霊の場を政争の具にしないために解決すべき問題は多々あります。特に靖国神社に関しての議論は日本人の宗教観、死生観に関わる事柄でもあります。多くの国民がこの問題に関心を持って考えるようになったことは意義深いことだと思っていますが、外圧によって国内の事柄を云々することは、「外圧によって政策を変更させることが出来る」という前例を作ることにも繋がります。近隣諸国への配慮も重要ですが、日本による安易な妥協や諸国からの必要以上の外圧は却って解決への道筋を見失わせ、アジアの未来のために良くないことではないかと考えます。



※若干の抵抗感がありましたので、あえて「英霊」という表現は行わず「御霊」という表現にしました。



アクセス
・JR「飯田橋駅」下車、南へ徒歩10分
・JR「市ヶ谷駅」下車、東へ徒歩10分
・東京メトロ半蔵門線・東西線・都営新宿線「九段下駅」下車、徒歩3分
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拝観料
・無料

拝観時間
・開門:午前6時(通年)
・閉門:午後5時(1・2・11・12月)、午後6時(3・4・9・10月)、午後7時(5~8月)

公式サイト
  靖国神社公式サイト


神戸・松尾稲荷神社。

2006年08月21日 | ■神戸市兵庫区
商売繁盛・家内安全・縁結び

松尾稲荷神社

(まつおいなりじんじゃ)
神戸市兵庫区東出町3-21-3





〔御祭神〕
稲荷大明神
(いなりだいみょうじん)



 神戸ハーバーランドから住宅地へと入っていくと、神戸市中央区と兵庫区の区境の兵庫区側に松尾稲荷神社があります。創建時期ははっきりしませんが、楠木正成公にまつわる伝説から、14世紀頃にはすでに祠があったと考えられており、600年近くの歴史を持つ神社だと推測されます。




商店街に隣接して建つ境内。けっこう奥行きがあります。



 兵庫区を流れる湊川湊川神社の名前の由来となったこの川は、楠木正成公が活躍していた南北朝時代には、現在の荒田町から湊川神社西側を通ってこの地の脇に流れ出ていたそうです。松尾稲荷神社(といってもお稲荷さまを祀った祠ですが)はその湊川の堤防の上にありました。

 戦いを前にした楠木正成公は、この地に建っていた大きな松を目印に一族郎党を集め、みんなが身に着けていたお守りの護符が血で穢れてしまうのを避けるために、この松の根元に祀られていたお稲荷さまの祠に納めたという話が伝えられています。残念ながら、この松の大樹は枯れてしまったため、1914(大正3)年に社殿が建てられたときに伐られてしまって残されてはいませんが、「松尾稲荷」という名前にその名残りが残されています。 




赤が鮮やかな社殿。このなかに拝殿や摂社、ビリケンさまがいらっしゃいます。



 戦前まではこの近くまで福原遊郭が広がっていたため、そこに集まる人々から「商売繁盛の神さま」と崇敬をあつめ、賑わいを見せていたそうです。また、社殿の中にたくさん吊られている提灯にちなんで「ちょうちん持ちのお稲荷さん」と呼ばれ親しまれていたそうです。




地域のみなさんに親しまれているビリケンさまの像。



 ビリケンさまは、1907(明治40)年にアメリカの彫刻家が神さまの姿をイメージして作ったものだそうです。「幸運の神さま」として世界的に流行したビリケンさまですが、ここに祀られているものは大正初期にアメリカの水兵によって神戸に持ち込まれたものを、元町の洋食屋のご主人が見よう見真似で作ったものだそうです。

 このビリケンさまの像は、新しいもの好きの神戸っ子の中でたいへん評判になって洋食屋の入口が見物客で大混雑するようになり、「こんなん商売にならへん」ということで松尾稲荷神社に奉納されることになったそうです。

 ご近所の方に話を伺ったのですが、昔は「ビリケンさま」ではなく「ピリケンさま」と呼んでいたそうです。「足が悪かったので、ビリケンさまの足を撫でて願をかけていたんや」という話から、地元の方々からずっと愛され親しまれている像なんだと実感させられました。




伊勢神宮を拝む遥拝所。赤いガラスは太陽神・天照大御神をあらわしています。




アクセス
・JR「神戸駅」下車、南へ徒歩10分
・神戸高速鉄道「高速神戸駅」下車、南へ徒歩12分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
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神戸・兵庫県神戸護国神社。

2006年08月20日 | ■神戸市灘区
武運長久・健康長寿


兵庫県神戸護国神社

(こうべごこくじんじゃ)
神戸市灘区篠原北町4-5-1




市道山麓線沿いに立つ兵庫県神戸護国神社。春には美しい桜の花で包まれます。


〔御祭神〕
兵庫県東部地域出身の戦没者53,000余柱



 阪急六甲駅から北に歩くと六甲登山口の交差点に出ます。そこから市道山麓線に沿って西へ少し歩くと、桜の名所でもありフリーマーケットでも賑わいを見せる兵庫県神戸護国神社に辿り着きます。ここ兵庫県神戸護国神社は、兵庫県東部出身の戦没者約5万3千柱を祀っている神社で、兵庫県姫路護国神社と合わせて11万柱にものぼる兵庫県出身戦没者を祀る祭祀・鎮魂の場となっています。参拝を済ませ、数多く立ち並ぶ慰霊碑に手を合わせていると、自ずと「2度とあのような惨事を引き起こしてはならない」という思いと、今の平和な日本社会のありがたさ、そしてその礎となって戦場に散っていった先人たちへの感謝の念に包まれました。





境内にはこのような慰霊碑が多数建てられています。



 明治以来、毎年官民合同で神戸市兵庫区会下山町の地に祭壇を設けて招魂祭が行われていました。その後、王子町にあった関西学院の跡地3,000坪を取得、1940(昭和15)年4月27日に地鎮祭が行われて社殿の造営が始まり、翌1941(昭和16)年7月18日には境内が整い護国神社鎮座祭が執り行われました。
 護国神社鎮座祭に先立ち、1940(昭和15年6月25日には内務省指定の「護国神社」に列せられ、出征した兵士たちの御霊を弔い且つ戦地での無事を祈る人々に厚く崇敬されてきましたが、1945(昭和20)年6月5日に来襲した474機のB29による神戸大空襲に遭い、兵庫県神戸護国神社は境内の全てを焼失する大被害を受けました。この時の空襲では、米軍による絨毯爆撃によって3,000t以上の焼夷弾が落とされ、神戸の市街地の約28%が無差別に焼き尽くされました。この時の空襲を含めた神戸での犠牲者の数は9,000人近くにのぼり、15万人近くの市民が負傷、焼失した家屋は15万戸など、壊滅的な被害を受けています。





昭和34年に現在地に建てられた社殿。



 兵庫県姫路護国神社の記事でも述べましたが、戦後のGHQによる占領下では「護国神社」という名前は軍国主義施設として廃止される恐れがあったため、「兵庫御霊神社」と改称する事でかろうじて存続が認められる事となりました。その後、1950(昭和25)年には「兵庫県神戸護国神社奉賛会」が設立されて社殿の復興計画が進められ、1951(昭和26)年9月8日に締結されたサンフランシスコ平和条約によって独立国家として日本が再出発した後の1952(昭和27)年に再び「兵庫県神戸護国神社」の名前に戻されました。
 1957(昭和32)年1月、社務所が完成し、さらに1959(昭和34)年11月には灘区篠原北町の現在地にて社殿が再建され、本格的に復興を果たすこととなり、継続的に境内の整備も進められてきました。しかしながら、1995(平成7)年1月17日未明に神戸を襲った阪神・淡路大震災によって社務所が半壊するなど、兵庫県神戸護国神社は大きな被害を受けましたが、戦没者遺族崇敬者の皆さんの熱意によって再興され、翌1996(平成8)年11月には無事「阪神・淡路大震災被害修復竣工奉告祭」が執り行われました。





北方異民族慰霊の碑。先の大戦でなくなられた他国の方もお祀りされています。



アクセス
・阪急電車「阪急六甲駅」下車、北西へ徒歩8分
・JR「六甲道駅」下車、北西へ徒歩15分
兵庫県神戸護国神社地図  Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved. 

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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姫路・兵庫県姫路護国神社。

2006年08月14日 | □兵庫県 -姫路
国家国民の安全守護

兵庫県姫路護国神社

(ひめじごこくじんじゃ)
兵庫県姫路市本町118



姫路城を背に鎮座する姫路護国神社。


〔御祭神〕
兵庫県西部地域出身の戦没者56,988柱



 毎年8月のこの時期になると、「ヒロシマ」「ナガサキ」そして「終戦記念日」と、わが国最大の不幸であり試練であった太平洋戦争第2次世界大戦大東亜戦争、立場・信条によって呼び名は異なりますが、先の大戦で起こった悲劇をしっかりと心に刻む季節がやってきました。そんな中、訪れたのが兵庫県姫路護国神社です。




姫路護国神社の拝殿。



 JR姫路駅に着くと、中央出口から真っ直ぐ伸びる大手前通。その先には国宝であり、世界遺産でもある姫路城が優雅な姿でわたしたちを迎えてくれます。その城域の南側に接するように、兵庫県姫路護国神社が鎮座しています。1938(昭和13)年に創建されたこの神社には、明治維新時の戊辰戦争以来、国難に殉じた兵庫県西部地域(播州・但馬など)出身の戦没者56,988柱が祀られています。




境内に入って左手にある手水舎。



 明治時代に各地に設立された招魂社。これが1939(昭和14)年の内務省令に基づいていっせいに改称されたのが護国神社です。護国神社には、その県出身の戦死者・自衛隊殉職者などが、日本の国のために殉じた英霊として祀られています。

 姫路でも1893(明治26)年より官民合同で招魂祭が執り行われてきましたが、兵庫県知事が会長となって兵庫県招魂社造営奉賛会が組織され、正式に社殿を創建して招魂社を設けることとなりました。1936(昭和11)年には現在の場所に鎮座地が決定され、1938(昭和13)年4月に竣工しました。前述の通り、1939(昭和14)年に内務省令に基づいて「護国神社」と改称されました。




「比島散華」碑。姫路第10師団揮下の鉄5454部隊に
所属しフィリピンで戦死した兵士の御霊を祀る慰霊碑



 終戦後のGHQ占領下では、軍国主義関連の施設とみなされて神社自体が廃止される危険性が高まったため姫路城の別名「白鷺城」にちなんで「白鷺宮」と改称していましたが、サンフランシスコ平和条約を締結し、独立国家として日本が新しい歩みを始めたのちの1954(昭和29)年には元の名前に戻して現在に至ります。




「比島散華碑」左手にある「散華鎮魂の鐘」。
このような慰霊モニュメントが境内には多数あります。


 
 護国神社などを訪れることで、「今まで『日本のために』と戦って貴重な命を散らした大先輩たちのおかげで私たちは現在の豊かな生活を謳歌できている」ということに改めて感謝の念を持つこと。そして、「愛する家族と別れて戦地へ赴きながらも、未来の日本がより良い国になって残された家族が幸せに暮らせる日が来ることを信じ若い命を散らした思い」を受けとめ、2度とこのような悲劇を繰り返さないという決意を新たにすることが大事なのではないでしょうか。

 護国神社を敬い訪れること=戦争礼賛と考えることは、あまりにも短絡的で疑問を感じます。

 

アクセス
・JR「姫路駅」下車、北へ徒歩10分
・山陽電車「山陽姫路駅」下車、北へ徒歩10分
 姫路護国神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・7時~17時

神戸・豊国稲荷神社。

2006年08月08日 | ■神戸市兵庫区
家内安全

豊国稲荷神社

(ほうこくいなりじんじゃ)
神戸市兵庫区平野町獺谷401-2



鳥居から拝殿まではけっこう距離があります。


〔御祭神〕
豊国大神
(ほうこくたいしん=豊臣秀吉公
豊受大神
(とようけのおおかみ)
稲倉魂大神
(いなくらたまのおおかみ)



 神戸の市街地から北区への玄関口、有馬街道の入口に当たる平野交差点。この地域は、平清盛公が病を癒すために1169(仁安4)年1月に京都から移り住み、後にはわずか半年ではありますが遷都を行った場所として有名です。この近辺には、福原京への遷都と前後して創建された神社・仏閣が数多くありますが、今日ご紹介する豊国稲荷神社は、少しそれらの寺社とは毛色が異なるようです。
 



山道を一歩一歩踏みしめていくと、苔に包まれたお社にたどり着きます。



 ここ豊国稲荷神社が、いつ創建されたのかは明らかではありません。しかし、豊臣秀吉公を神格化した豊国大神を祀る神社として、兵庫城の中に鎮座していたそうです。兵庫城があった場所は、現在の神戸中央卸売市場付近だといわれています。

 明治に入ると、兵庫城があった場所には初代の兵庫県庁が置かれることとなります。その後、県庁は神戸地方裁判所がある中央区橘通に移転。さらにその6年後の1873(明治6)年には現在の中央区下山手通の地に移されます。兵庫城内にあった豊国稲荷神社も、県庁とともに移転を重ねますが、公的な役所の中に神社があるのはおかしいのではないかということで、明治7年に兵庫県庁から移されることとなります。「政教分離」が憲法で謳われた戦後のことならいざ知らず、明治のこの時期にそういう意見があったというのは興味深い話です。




山中でひっそりとたたずむ社殿。不思議な緊張感に包まれます。



 県庁からの移転を余儀なくされた豊国稲荷神社は、有馬温泉の守護神という意味合いを込めて、温泉のある平野の地の山中に遷座されることになったそうです。ちなみに、この地にある湊山温泉の歴史は古く、福原遷都後に平清盛公が温泉に入ったという記録が残されています。1596(慶長元)年には豊臣秀吉公がこの地の住人・正直屋寿閑に対して湯坪取り立ての朱印状を与えた、という話も残されています。




社殿のほかに目に付くものといえば、この建物くらい。社庫でしょうか。



アクセス
・神戸市営バス7系統・9系統ほか「石井橋」下車、北へ徒歩10分。
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放(山の中なので、日の高いうちに参拝してください)

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
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西宮・鳴尾八幡神社。

2006年08月03日 | □兵庫県 -阪神
開運厄除・国家鎮護

鳴尾八幡神社

(なるおはちまんじんじゃ)
兵庫県西宮市上鳴尾町14



阪神電車の線路沿いに建つ鳥居。
創建時には海(今の「ららぽーと甲子園」辺り)まで境内があったそうです。




〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
天照皇大神
(あまてらすおおみかみ)
琴刀比羅神
(こんぴらのかみ)
砂浜大神
(すなはまおおかみ)



 甲子園球場の喧騒から離れて阪神電車沿いに東へ歩いていくと、住宅街の先に鬱蒼と茂った森が現れます。このあたりは上鳴尾町(あげなるおちょう)という地域です。鳴尾は江戸時代に「鳴尾に過ぎしは 寺、西瓜」と謳われたほど寺院が多く、森へと向かう道の途中にも浄願寺常楽寺などの寺院に出会いました。

 最初に上鳴尾町八幡神社があるというのを知ったときには、「住宅地の中にある小規模の八幡さまではないか」と想像していたのですが、実際に足を運んでみて当初の予想を裏切る深い奥行きの境内に驚きました。そういえば、偶然入り口を見つけて拝殿の裏側から入った津門神社の境内を見たときも、同じくらい嬉しい悲鳴を上げた記憶があります。慰霊碑や歌碑、神輿台などが点在する境内はけっこう見応えがありました。




予想に反して広大な境内に感激。



 鳴尾に人々が住み始めたのは、今から1800年ほど前のことだといわれています。もともと武庫川の河口は多くの洲が点在する遠浅の海で、海岸線も現在の国道2号線あたりまで達するところもあったようです。人々は今で言う甲山六甲山などの山麓辺りに住んでいましたが、土砂の堆積によって河口付近に居住可能なエリアが広がってきたのを見て徐々に移住してきました。

 「鳴尾」の名の由来は、(1)土砂が堆積して形成された砂洲のゆるやかな傾斜を表す「ナル」という言葉と、その先端部分をあらわす「オ」を合わせて出来た地名だという説、(2)河口付近の洲のうえに群生した葦や葭のかたちがケモノの尾のように見えたので「ナル尾」になったという説、(3)砂洲に多く棲みついた海鳥たちの鳴く声からついたという説など、いくつかの説があるようです。





境内と拝殿を区切るかのような池と石橋。此岸と彼岸の区切りの感がします。





 鳴尾八幡神社は、社伝によると15世紀半ば、室町時代の文安年間(1444-1448年)に創建されたといわれています。文明年間(1469-1488年)に書かれた文献にも八幡神社に関する記述があることから、ほぼ社伝のとおりの創建だったと思われます。




1881(文化8)年再建の拝殿は阪神・淡路大震災で全壊。
今の拝殿は2000(平成12)年3月に再建されたものです。



 鳴尾本郷7ヶ村の総鎮守として村人たちの篤い崇敬を集めていた鳴尾八幡神社には、明治時代以降、政府の方針もあって村内の神社が数多く合祀されます。菅原道真公をお祀りしている天神社素盞鳴神社が合祀され、大正に入ってからも金刀比羅神社砂浜神社も境内に合祀されています。




境内には稲荷社(左)や天神社(右)など、数多くの摂社があります。



アクセス
・阪神電車「甲子園駅」下車、東へ徒歩10分
・阪神電車「鳴尾駅」下車、北西へ徒歩3分
 鳴尾八幡神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

西宮・甲子園素盞鳴神社。

2006年08月01日 | □兵庫県 -阪神
縁結び・開運厄除・子孫繁栄・商売繁盛・文武成就

甲子園素盞鳴神社

(こうしえんすさのおじんじゃ)
兵庫県西宮市甲子園町2-40




甲子園球場をスタンド沿いに歩いてくると、この神社にたどり着きます。


〔御祭神〕
素盞鳴尊
(すさのおのみこと)



 高校野球のメッカであり、すっかり強豪チームに成長した阪神タイガースの本拠地・阪神甲子園球場。「西宮市」といわれてピンとこない方も全国にはたくさんいらっしゃいますが、「甲子園球場があるところなんです」というとわかってもらえたりするんですよね。そんな甲子園球場のライトスタンドの向こう側に静かにたたずむ神社が甲子園素盞鳴神社です。




試合前には、タイガースの勝利を祈願する熱心なファンの姿も。



 「タイガース神社」などと呼ばれたりして、甲子園球場で公式戦がある前には熱心なタイガースファンも訪れる素盞鳴神社。野球ボールの形に見立てたお守りや絵馬などが置かれ、境内には岡田彰布監督揮毫の「野球塚」もあるなど、すっかりスポーツの神さまのような感があります。しかし、ここは300年以上の歴史を持ち、昔から牛頭天王社として村人の厚い崇敬を集めた荘厳な神社だったのです。




岡田監督揮毫の「野球塚」。このまわりには絵馬がいっぱい。



 西宮市の東を流れる武庫川。この川は長い間に六甲山系を削り取った土砂が河底に堆積した「天井川」と呼ばれる河川で、大雨のたびに氾濫を起こして周辺の住民を苦しめてきました。1557(弘治3)年には堤防を破った水流が西南の方角へ流れ、そのまま枝川を形成。1740(元文5)年の水害の際には枝川の堤防を破った流れがそのまま申川(さるかわ)となります。

 この分岐点が、今の阪神電車甲子園駅の南側辺りといわれています。その枝川申川の三角州の中心地に祀られていたのが素盞鳴神社で、1688(元禄元)年の再建記録などに記述が見られるように、江戸時代の早い時期にはすでにこの地にお社が存在していたようです。




狛犬の足元には蹴鞠が。野球だけでなくサッカーにもご利益が?!



 素盞鳴尊といえば、八岐大蛇を退治した話が有名ですが、この神話に出てくる八岐大蛇のモデルは出雲を流れる河川だったといわれています。船通山を基点に8つの流れに分かれて出雲平野に流れ込む斐伊川江の川伯太川などは、しばしば氾濫して人々を苦しめたことから、頭が8つある大蛇(ヤマタノオロチ)に見立てられたいう説があります。

 ここ鳴尾村の人々も、度々大きな水害を引き起こす武庫川や、その水害によって生まれた枝川申川の流れをどうにか制したいという思いから、両川の三角州にあたるこの地に素盞鳴尊を祀ったのだと思われます。今は阪神タイガースの勝利を祈る人々で賑わう素盞鳴神社も、昔は水害という大きな敵と戦う人々の思いで満ち溢れた神社だったんでしょうね。




歩道のポールも硬球のカタチをしています。さすが野球の町!



アクセス
・阪神電車「甲子園駅」下車、南へ徒歩3分
 甲子園素盞鳴神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放