神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・安楽寺。

2007年11月29日 | ◇京都府 -洛東

住蓮山安楽寺

(じゅうれんざん あんらくじ)
京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町21





美しい紅葉に包まれた山門。通常は非公開となっている浄土宗の寺院です。


〔宗派〕
浄土宗

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)



 鎌倉時代初期。「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、身分の貴賎や性別などに関わらずみな平等に救われるという法然上人の教えは、武士や農民、女性や末法の世を儚む僧侶や貴族にまで急速に広がりを見せていました。一心に念仏を唱えて阿弥陀如来による救済を求めるという専修念仏の拡大は、既得権益を持つ延暦寺興福寺など、いわゆる南都北嶺の寺院勢力に非常な危機感を抱かせることとなり、次第に激しい反発と圧力を受けるようになります。





山門をくぐった境内には、常緑の植栽と紅葉が絶妙に組み合わさった庭園があります。



 安楽寺は、浄土宗の宗祖・法然上人の弟子である住蓮上人安楽上人が東山の地に結んだ「鹿ケ谷草庵」が始まりといわれています。非常に優秀な弟子であった住蓮上人安楽上人は揃って美声の持ち主だったといわれており、両上人が中国浄土教の大成者・善導大師が記した「往生礼賛」に節をつけた「六時礼賛声明」の美しい調べは多くの人々の心を惹き付け、参拝者の中にはそのまま出家して仏門に入る者も現れるほどでした。

 そんな鹿ケ谷草庵を訪れる人々の中に、容姿端麗なうえに教養が豊かだったために後鳥羽上皇から深い寵愛を受けていた女官の鈴虫姫松虫姫がいました。1206(建永元)年7月、後鳥羽上皇が熊野へと行幸するため京都を離れた際に休暇をもらった2人は、清水寺を訪れた帰りに鹿ケ谷草庵を訪れ、ここで法然上人の説法を聞いて深い感銘を受けます。御所に帰ってからも阿弥陀仏への帰依の思いを膨らませ続けた2人は、ついに夜陰に乗じて御所を抜け出し、鹿ケ谷草庵を訪れて出家させて欲しいと願います。後鳥羽上皇の許しを得ないまま出家することが引き起こす事態を憂慮した住蓮上人安楽上人は、当初は2人の願いを押しとどめようと説得しますが、最終的にはその熱意に押され、住蓮上人は19歳の松虫姫を剃髪受戒して「妙智法尼」という法名を与え、安楽上人は17歳の鈴虫姫を剃髪受戒して「妙貞法尼」という法名を与えて出家させる事となりました。





天文年間(1532~1555)に再建されたといわれる本堂。



 しかし、熊野参拝から戻ってきた後に2人の出家を知った後鳥羽上皇は激怒。専修念仏を説く僧侶たちに対する非常に厳しい弾圧を行います。鈴虫姫松虫姫の出家に直接関与した住蓮上人は近江国の馬渕で斬首され、安楽上人も京都の六条河原で討ち首となりました。念仏も禁止され、宗祖である法然上人も讃岐国に流罪となり、親鸞聖人も越後国へ流罪に処せられるなど、いわゆる「建永の法難」が浄土宗に容赦なく襲いかかりました。住蓮上人安楽上人が処刑された後、鹿ケ谷草庵はすっかり荒れ果ててしまいましたが、流罪を解かれて京都に戻ってきた法然上人がこの場所に草庵を再建し、両上人の名前から「住蓮山安楽寺」と名付けて菩提を弔いました。その後、荒廃を繰り返した安楽寺は1681(延宝9)年になって現在地に伽藍が整備され、今日に至っています。





「建永の法難」によって処刑された住蓮上人と安楽上人の菩提を弔う供養塔です。



 安楽寺には「鹿ケ谷カボチャ供養」と呼ばれる行事があります。毎年7月25日になると、京野菜として有名な瓢箪型の鹿ケ谷カボチャを煮炊きしたものが参拝者にふるまわれます。鹿ケ谷カボチャはふつうのカボチャに比べて荷崩れしにくく水気もたっぷり含んでいます。鹿ケ谷カボチャ供養は、200年ほど前に「カボチャを食べると中風にかからなくなる」という霊験を得た真空益随上人が、カボチャを仏前に供えたのが始まりだといわれています。





事件の後、瀬戸内の生口島で念仏三昧の余生を送った鈴虫姫と松虫姫の供養塔。


アクセス
・JR「京都駅」下車、京都市バス100系統「上宮ノ前町」バス停より東へ徒歩10分
安楽寺地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・400円 (中学生以下無料)
※通常非公開:春季(4月~6月)と鹿ケ谷カボチャ供養(7月25日)、秋季(11月~12月)の特別拝観期間のみ公開。

拝観時間
・9時30分~16時30分(受付は16時まで)

公式サイト









京都・霊鑑寺。

2007年11月25日 | ◇京都府 -洛東

円成山霊鑑寺

(えんじょうさん れいかんじ)
京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町12


通 称
鹿ヶ谷比丘尼御所
谷の御所




春と秋、椿と紅葉の季節のみ一般公開されます。


〔宗派〕
臨済宗南禅寺派

〔御本尊〕
如意輪観音像
(にょいりんかんのんぞう)


 哲学の道沿いには、銀閣寺をはじめ多くの古刹があります。一年を通じて多くの観光客が訪れ、四季折々のさまざまな表情を愉しんでいますが、その中に春と秋のごく限られた時期しか公開されていない寺院が2つあります。そのうちのひとつが、450年の歴史を持つ霊鑑寺。代々天皇家の皇女が住職を務め、「谷の御所」と呼ばれた尼門跡寺院です。春の椿の時期と秋の紅葉の時期にしか公開されないため、スケジュールをしっかりチェックする必要があります。





方丈前の庭園から石段と本堂を望む。



 霊鑑寺臨済宗南禅寺派に属する尼門跡寺院で、1654(承応3)年に後水尾天皇の勅許寺院として皇女・多利宮(浄法身院宮宗澄)を開基として創建されました。創建当初は現在地よりも南にあり、天台宗寺院としてのスタートだったそうです。御本尊である如意輪観音像は、如意ヶ岳とも呼ばれていた大文字山の山麓にあったものの南北朝時代には衰退して廃寺となっていた如意寺の御本尊だったといわれ、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉公の寄進による本堂に納められています。まもなく臨済宗に改められた霊鑑寺は、1687(貞享4)年に後水尾天皇の第8皇子だった後西天皇の屋敷を賜って現在地へと移されます。霊鑑寺の住職は明治維新に至るまで代々皇女が務め、「谷の御所」や「鹿ヶ谷比丘尼御所」と呼ばれてきました。皇室にゆかりが深い寺院のため、歴代天皇の宸翰や御所人形、平安時代から伝わる遊びの道具であった貝合わせなど皇室との繋がりを窺わせる品々が伝えられています。





御本尊の如意輪観音像を安置する本堂(左)。奥の境内も紅葉で朱に染まります(右)。



 書院は1675(延宝3)年に建てられた後西天皇旧殿の御休息所を移築したもので、狩野派の手による襖絵などが残されています。特別公開時には見学することができ、ここから池泉観賞式庭園を本来の位置から愉しむことが出来ます。東山の稜線を巧みに利用した庭園には大きな石が大胆に組まれ、かつて山中からの清水で満たされていた池泉は味わいのある枯山水となっています。





書院の縁側から眺めた庭園。


アクセス
・JR「京都駅」下車、京都市バス100系統「上宮ノ前町」バス停より東へ徒歩10分
霊鑑寺地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・500円  ※通常非公開:春季(4月上旬)と秋季(11月下旬)の特別拝観期間のみ公開。

拝観時間
春季特別拝観: 4月上旬 10時~16時(受付は15時30分まで)
秋季特別拝観:11月下旬 10時~16時(受付は15時30分まで)

※正確な日時についてはこちらでご確認ください。

 







京都・八神社。

2007年11月07日 | ◇京都府 -洛東
諸願成就・開運招福・厄除

八神社

(はちじんじゃ)
京都市左京区銀閣寺町26




銀閣寺に入る前に、ふと左手に目をやると、八神社の鳥居を見つけることが出来ます。


〔御祭神〕
高御産日神
(たかみむすびのかみ)
含め8柱

十禅師大明神
(じゅうぜんじだいみょうじん)
相殿


 京都市バスの銀閣寺道停留所を降り、銀閣寺を目指して琵琶湖疏水の一部である鹿ヶ谷疎水沿いの哲学の道をひたすら東に進んでいくと、土産物屋などが並ぶ商店街の突き当たりに、銀閣寺の総門へと続く蟹真黒の石畳へと辿り着きます。このまま銀閣寺へと入る前に、視線を左に向けてみると、小径の向こうに石造りの明神鳥居が建っているのが見えます。ここが、銀閣寺の鎮守社とされる八神社の境内です。





二の鳥居の右奥には摂社・雨之社が建っています。



 創建年代は明らかではありませんが、社伝によると大同年間(806~810年)の頃に建てられたとも、延喜年間(901~923年)に建てられたともいわれています。昔は八所大明神十禅師大明神と呼ばれていたようです。現在も社殿には八所大明神で祀られていた高御産日神をはじめとする8柱の神々が祀られ、相殿には十禅師大明神が祀られています。なぜこの神々が祀られるようになったのか、その由緒は定かではありませんが、銀閣寺が建てられる前にこの地域に建っていた天台宗寺院・浄土寺の名前から付けられた浄土寺村一帯の産土神として、人々の厚い崇敬を集める神社であった事は確かなようです。





石段を上がると正面に鎮座する稲荷社。ここから左へと曲がる石段を登ると本殿です。



 二の鳥居の脇には雨之社が鎮座し、社殿へと続く石段の途中には、五穀豊穣の神・稲倉魂命を祀る稲荷社が草木鬱蒼と茂る薄暗い境内に鮮やかな朱を添えています。ちなみに本殿に祀られている8柱の神々とは、高御産日神(たかみむすびのかみ)神産日神(かむすびのかみ)生産日神(いくむすびのかみ)、足産日神(たるむすびのかみ)玉積産日神(たまつめむすびのかみ)大宮売神(おおみやめのかみ)御食津神(みけつかみ)事代主神(ことしろぬしのかみ)の8神です。





石段を登った先に建つ社殿。向かいには舞殿が建っています。


アクセス
・JR「京都駅」下車、京都市バス5系統・203系統「銀閣寺道」バス停より徒歩5分
八神社地図  Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放






京都・天龍寺。

2007年11月05日 | ◇京都府 -洛西

霊亀山天龍資聖禅寺

(れいきざん てんりゅうしせいぜんじ)
京都市右京区嵯峨天竜寺茫ノ馬場町68







〔宗派〕
臨済宗天龍寺派大本山

〔御本尊〕
釈迦如来尊像
(しゃかにょらいそんぞう)



 紅葉に包まれた錦秋の嵐山の美しさは、筆舌に尽くしがたいものがあります。古来より、桜や紅葉に包まれた景色の美しさから、嵐山・小倉山周辺は皇族・貴族や僧侶・歌人など、多くの雅な人々に愛されてきました。

 鎌倉時代、嵯峨野の地を愛した亀山上皇が、大堰川にかかる橋の上を移動していく月を見て「くまなき月の渡るに似る」と例えられたことから名付けられた渡月橋のすぐ北には、室町時代の名僧で作庭家としても最高の評価を得ている夢窓疎石国師の手による名庭を持つ天龍寺が、私たちを枯淡の美の世界へいざなってくれます。




庫裏の前に立つ力強い石組み。



 もともとこの地には、嵯峨天皇の皇后で「檀林皇后」と称された橘嘉智子が9世紀中期に建立した檀林寺(現在の檀林寺とは無関係)がありました。檀林寺は平安中期には廃絶してしまいますが、その跡地には13世紀中期に後嵯峨上皇の仙洞御所、すなわち退位した天皇の御所である亀山殿が営まれました。形が亀の甲に似ていることから「亀山」と呼ばれた小倉山の麓に築かれた亀山殿は、後嵯峨天皇の息子・亀山上皇にも仙洞御所として愛され、後に建武の新政を行った後醍醐天皇も幼少期をここで過ごしたとされています。




曹源池の奥に見えるのは書院です。



 鎌倉幕府の倒幕の際には「勲功第一」とされ、後醍醐天皇から諱の「尊治」の一字を賜って「高氏」から「尊氏」へと改名するなど讃えられた足利尊氏公ですが、天皇中心の政治への復古を目指し「建武の新政」を展開する新政権と対立。新政に対して不満を募らせていた武士層の支持を受けた足利尊氏公は、持明院統光厳上皇の院宣を得て朝廷軍を破り、1336(建武3)年に建武式目を制定して室町幕府を開きます。

 その後、後醍醐天皇は奈良の吉野山に脱出して南朝を成立させますが、1339(暦応2)年に無念のうちに崩御し、その波乱の生涯を閉じました。この報を受けた足利尊氏公は、師として慕う夢窓疎石国師の進言を容れ、後醍醐天皇の菩提を弔うために亀山殿のあった地に寺院を開きます。亀山にちなんで「霊亀山」の山号を冠し、暦応資聖禅寺と名付けられたこの寺院は、1341(暦応4)年には弟・足利直義公の夢に現れた金龍にちなんで「天龍資聖禅寺」と名を改められました。一説には、元号を冠する寺院は延暦寺以外は許されない、という比叡山の僧侶らによる強訴が一因ともいわれています。

 「天龍寺船」による日元貿易を行って伽藍建立の資金を調達し、1342(康永2)年にはほぼ整備が整い、京都五山の第一位という高い格式を誇った天龍寺ですが、1356(延文元)年の焼失を皮切りに、幕末の1864(元治元)年に起きた禁門の変にいたるまで、8度も火災や兵火に襲われる受難の歴史を辿ってきました。そのため、現在ある堂宇のほとんどが明治時代に入ってから再建されたものとなっています。




曹源池の龍門瀑。中国・黄河の故事を力強い石組みで表現しています。



 足利尊氏公をはじめ、朝野を問わず数多くの人々から慕われ尊敬された夢窓疎石国師は「山水に得失なし、得失は人の心にあり」とし、作庭を通じて人々を禅の悟りに導こうとされました。「苔寺」の愛称で知られる西芳寺や鎌倉の瑞泉寺の庭園も夢窓疎石国師の手によるものといわれています。

 黄河の急流の3段の滝を登りきった鯉が龍となって天に登るという、中国の故事「登龍門」に基づいて組まれた龍門瀑と呼ばれる石組みや蓬莱思想に基づいた鶴島・亀島、滔々と清水を湛える曹源池など、創建当初の姿を偲ばせる天龍寺庭園は、1955(昭和30)年に我が国初の史跡特別名勝に指定され、1994(平成6)年12月にはユネスコの世界文化遺産に選ばれています。




大方丈と曹源池。中ほどで左から右に突き出しているのが出島です。



アクセス
・阪急電車「嵐山駅」下車、徒歩15分
・京福電車「嵐山駅」下車、徒歩3分
・JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」下車、徒歩10分
 天龍寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・庭園拝観料:高校生以上500円(本堂・庭園拝観料600円)

拝観時間
・8時30分~17時30分(11月~3月は17時まで)

公式サイト
  臨在禅・黄檗禅公式サイト 天龍寺








京都・銀閣寺(東山慈照寺)。

2007年11月03日 | ◇京都府 -洛東

東山慈照寺

(とうざん じしょうじ)
京都市左京区銀閣寺町2





総門前の石畳は「蟹真黒(かにまぐろ)」と呼ばれています。


〔宗派〕
臨済宗相国寺派

〔御本尊〕
釈迦如来尊像
(しゃかにょらいそんぞう)



 その昔、哲学者の西田幾多郎らが思案に耽りながら散策した「哲学の道」。この周辺には、数多くの名刹が軒を連ねています。一般に「銀閣寺」の名で有名な東山慈照寺も、大文字山を背景にたたずんでいます。




総門の先にある銀閣寺垣。俗世と境内の境界の役割を果たします。



 群雄が割拠し、戦乱に明け暮れた室町時代。動乱の時代を象徴するように「将軍殺し」の大事件が2度も起こりました。1565(永禄8)年、松永久秀公らが謀反を起こして第13代将軍・足利義輝公を自害に追い込んだ永禄の変。そしてもう一つが、1441(嘉吉元)年に赤松満祐公が第6代将軍・足利義教公を自邸に招いて暗殺した嘉吉の乱です。

 その後、9歳の若さで将軍位に就きながらわずか8ヶ月後に夭折した足利義勝公の後を継いで第8代将軍に選ばれたのが、弟の足利義政公でした。正式に将軍に就任したのはその6年後、元服を迎えた1449(宝徳元)年のことですが、足利義教公の強権政治への反動と、後継があまりにも若年だったことから諸将が様々に介入したため、将軍といえどもなかなか思う政治が行えない状況に陥ってしまいます。これが、次第に足利義政公から政治に対する情熱を失わせ、風流の道へと逃避させる原因となりました。




方丈から眺める向月台と銀沙灘。



 思うに任せない状況から、将軍職を離れて自由気儘に隠居生活を楽しみたいと考えていた足利義政公は、出家していた実弟の義尋を粘り強く説得し、「仮に今後男児が生まれたとしても、出家させて跡継ぎにはしない」という誓約までして還俗させます。義尋足利義視と名乗って後継者の座につきますが、皮肉なことに1年後、足利義政公に男児が誕生してしまいます。

 当然ながら我が子を後継者にしたいと強く望む正室・日野富子に圧されるように、足利義政公が約束を反故にして息子・足利義尚公を後継者にしたことから、足利義尚公を支持する山名宋全公と足利義視公の後見役である細川勝元公が激しく対立し、これに管領家や守護大名の家督争いなども絡まって大規模な武力衝突が起こります。これが11年もの長きに渡って都を戦火に包んだ応仁の乱(1467年~1477年)の始まりでした。




俗に「銀閣」と呼ばれる国宝・観音殿。銀箔が貼られることはありませんでした。



 すでに1465(寛正6)年に山荘を築く土地探しを始めていた足利義政公は、戦乱の激化によって建設に着手できずにいましたが、両軍の総大将の死去によって大規模な戦闘が収まり終戦のチャンスが訪れた1473(文明5)年、事態の解決を行うことなく実子・足利義尚公に将軍の座を譲ってあっさりと引退。そして1477(文明9)年に戦乱が終結するのを待ちかねたように、1482(文明14)年に入ると天台宗浄土寺があった東山の地で念願の山荘建築に打ち込んでいきます。当時、京都の街は戦災からの復興もままならない厳しい状況だったにもかかわらず、東山殿と呼ばれたこの山荘の工事は庶民へ税や労役を課すなどして進められました。

 翌年に常御所が完成すると早速ここに移り住み、1485(文明17)年の禅室・西指庵の完成とともに出家して慈照院喜山道慶の法名を名乗り、非常に好んだ西芳寺を手本として作庭や建築に情熱を傾けていきます。国宝に指定されている東求堂や「銀閣」として有名な観音殿もこのころ次々に建立されていきました。




方丈と東求堂。戦火をかいくぐった東求堂は国宝に指定されています。



 しかしながら、持病の中風を悪化させた足利義政公は完成を見ることなく1490(延徳2)年に亡くなります。遺言に従い、法名にちなんで慈照院と名付けられて禅刹となった東山殿は、その翌年に夢窓疎石を勧請開山(名誉開山)に、相国寺宝処周財を初代住持に迎えて慈照寺と寺名を改めました。

 戦乱に倦んで幽玄の文化の世界に没頭した足利義政公が築き上げた慈照寺は、皮肉にも自らの失政(政権放棄)が招いた戦乱の世の中で2度の兵火に遭って大きなダメージを受けます。1558(永禄元)年に付近で起きた第13代将軍足利義輝公と三好長慶公の武力衝突では、銀閣(観音殿)と東求堂などを残してその大半が焼失の憂き目に遭いました。

 荒廃していた慈照寺が復興されたのは1615(元和元)年のこと。宮城丹波守豊盛公が指揮を取って補修が進められ、創建当初は存在しなかった向月台銀沙灘などの砂盛りもこのときに始められたといわれています。こうして復興され護り継がれてきた慈照寺は、1994(平成6)にユネスコの世界文化遺産に登録されました。




将軍足利義政公が愛した庭園。



アクセス
・JR「京都駅」下車、京都市バス5系統・203系統「銀閣寺道」バス停より徒歩5分
 東山慈照寺(銀閣寺)地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人500円、小・中学生300円

拝観時間
・8時30分~17時(3月1日から11月30日までの夏季)
 9時~16時30分(12月1日から2月末日までの冬季)

公式サイト
   銀閣寺公式サイト