神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

西宮・門戸厄神(松泰山東光寺)。

2009年02月14日 | □兵庫県 -阪神


松泰山 東光寺

(しょうたいざん とうこうじ)
兵庫県西宮市門戸西町2-26

通 称
門戸厄神

西国薬師四十九霊場・第20番札所
西国愛染十七霊場・第2番札所
摂津国八十八霊場・第76番札所



男性の厄年にちなんで42段ある「男厄神坂」の先には門戸厄神の表門があります。


〔宗派〕
高野山真言宗 別格本山

〔御本尊〕
薬師如来像
(やくしにょらいぞう)



 毎年1月18日・19日を中心に各地で厄神祭が開かれ、厄年を迎えた人々や1年間の厄除開運を願う参拝客で賑わいを見せます。数多ある厄神祭の中でも特に霊験あらたかという事で多くの参拝客が詰めかけるのが、兵庫県西宮市にある門戸厄神です。ここには弘法大師空海が3体刻んだといわれる厄神明王像の一つが安置されていますが、門戸厄神にある像は民衆の安泰を祈念して彫られたものだといわれています。残りの2体、高野山の天野社に納められたものは国家安泰を、そして石清水八幡宮に納められたものは天皇家の安泰を祈念して刻まれたといわれており、これらを総称して「日本三体厄神」と呼んでいます。





中楼門(左)と、楼門に至る女厄神坂は、女性の厄年にちなんで33段あります(右)。



 「門戸厄神」の愛称で人々の崇敬を集めるこの寺院の正式名称は、松泰山東光寺嵯峨天皇の勅願によって829(天長6)年に弘法大師空海が開基されたと伝えられますが、御本尊よりも厄神信仰を集める厄神明王のほうがよく知られています。おそらく最初に厄神明王像を祀る厄神堂が建てられ、その地を真言宗寺院として空海が整備したために、真言宗の御本尊である薬師如来像を納める薬師堂は主役の位置から一歩引いたところに建てられているのではないかと考えられます。





楼門正面の厄神堂。弘法大師空海が刻んだ厄神明王像が安置されています。



 「主役」である厄神明王像についてのお話。嵯峨天皇が大厄を迎えられて弘法大師空海による厄除祈願が行われた際、煩悩と愛欲といった人間の持つ本能を否定せず、むしろ本能を原動力に向上心へと変える事で仏道を歩ませるという功徳を持つ愛染明王と、密教の根本仏である大日如来の化身として、煩悩から逃れ得ずに苦悩する衆生を力尽くででも救済しようという功徳を持つ不動明王が一体となって厄神明王となり、あらゆる災厄を打ち払ってくれるという霊感を得た嵯峨天皇は、これを空海に伝えて諸厄退散祈願を命じられました。勅願を受けた空海は、白檀の霊木を用いて3体の厄神明王像(正式な名前は両頭愛染明王像)を刻まれ、国家安泰と天皇家の安泰、そして民衆の安泰を祈念されました。この像は嵯峨天皇によって3年間宮中で祈願されたのち、829(天長6)年になって民衆の安泰を祈念した1体が門戸厄神厄神堂に祀られました。その御姿は厄除けの護符に描かれて民衆の間に広がっていったといわれています。





高安稲荷神社(左)と、門戸厄神の御本尊である薬師如来を祀る薬師堂(右)。



 民衆の開運厄除を願う信仰心に支えられてきた門戸厄神も、1578(天正6)年には謀反を起こした荒木村重公を討滅する戦乱に巻き込まれ、織田信長公の軍勢によって焼き討ちされた伽藍は焼失の憂き目に遭います。にも関わらず厄神明王像は奇跡的に無傷のまま焼け跡の中に屹立していた事から人々の信仰は益々強くなり、信者の数も年を追うごとに増えていきました。その信仰は衰える事なく、開運厄除を祈願する人々によって今もなお門戸厄神は強く支えられ続けています。





大黒様と愛染明王を祀る大黒堂・愛染堂(左)と、不動明王を祀る明王堂(右)。



 毎月19日は厄神明王の御縁日とされ、新年の初縁日である1月18・19日には厄除大祭が行われています。男性の場合、数え年で25歳・42歳(大厄)・61歳、女性の場合19歳・33歳(大厄)・37歳といわれている厄年の厄落としを祈願する人々を中心に、一年の開運厄除を願う参拝客で賑わいを見せる門戸厄神厄神大祭には、毎年40万人にものぼる参拝客が詰めかけます。他にも2月3日の節分には、平安時代より密教寺院で行われているという厄除招福祈念の星祭が行われるほか、4月19日には春季厄除祭8月19日には夏季厄除祭である「厄神まつり」、10月19日には秋季厄除祭12月19日には納厄神など、19日を軸に様々な祭事が執り行われています。





樹齢800年を全うした杉の根を祀る「延命魂」(左)と、空海を偲ぶ弘法堂(右)。


アクセス
・阪急電車「門戸厄神駅」下車、北西へ徒歩10分
門戸厄神地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式ホームページ






京都・鞍馬寺。

2009年02月01日 | ◇京都府 -洛北


鞍馬山 鞍馬寺

(くらまざん くらまでら)
京都市左京区鞍馬本町1074

新西国33ヶ所霊場・第19番札所



丹塗りの仁王門。1891(明治24)年に焼失、1911(明治44)年に再建。


〔宗派〕
鞍馬弘教総本山
(くらまこうきょう)

〔御本尊〕
尊天
(そんてん)


 鞍馬寺は、苦難の末に6度の挑戦でついに日本へと渡り、失明したにもかかわらず布教に人生を捧げた唐の高僧・鑑真和上と共に唐から渡ってきた高弟たちの一人である鑑禎上人(がんじょうしょうにん)が770(宝亀元)年に鞍馬山に庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりだと伝えられています。796(延暦15)年には、藤原南家の流れを引く貴族・藤原伊勢人卿が、深く帰依する観音菩薩を祀る寺院の建立を発心し、夢に現れた貴布禰明神のお告げに従って鞍馬山へと辿り着きます。しかし、そこにはすでに毘沙門天を祀る庵が立っていたため藤原伊勢人卿は当惑しますが、その夜、夢で「毘沙門天も観音も根本は一体」というお告げを受け、王城鎮護のために毘沙門天と千手観音を共に祀る伽藍の整備に力を尽くしたといわれています。





急な石段が続く参道(左)と、ケーブル「多宝塔駅」の北に立つ多宝塔(右)。


 
 9世紀末の寛平年間(889~897年)には東寺の僧・峯延上人が入山して、真言宗の色合いが強くなります。この時上人が山中に現れた大蛇を法力で退治したという故事にちなみ、「竹伐り会式(たけきりえしき)」と呼ばれる祭事が現在も続けられています。1009(寛弘6)年や1126(大治元)年には火災で伽藍が焼失しますが、1127(大治2)年に再建されたのち保延年間(1135~1141年)に天台宗の忠尋座主が入山したことから天台宗寺院となり、長い間青蓮院の支配下にありました。その後も何度も火災に見舞われて荒廃しますが、江戸時代の1609(慶長14)年には徳川秀忠公から全ての徴税課役の免除を認める黒印状を受けるなどの庇護を受けて再興されます。戦後の1947(昭和22)年には鞍馬弘教を開宗、1949(昭和24)年に天台宗からの独立を果たして鞍馬弘教の総本山となりました。

 鞍馬寺では山内に漲る「全ての生命を活かす宇宙の気」を信仰主体とし、その象徴としての「尊天」を御本尊としています。尊天の働きが光となって現れる時は毘沙門天、愛となって現れる時は千手観音菩薩、力となって現れる時は「護法魔王尊」となって姿を現すとされています。本堂に安置されている毘沙門天像、千手観音菩薩像、そして室町時代の絵師・狩野元信が描いたとされる護法魔王尊絵図は普段は秘仏とされ、60年に1度「丙寅」の年にのみ開帳されています。次回のご開帳は2046年の予定です。





940(天慶3)年頃に勧請された由岐神社(左)と、その傍に立つ義経公供養塔(右)。



 鞍馬寺は、のちに源義経と名乗る牛若丸が兵法修行したことでも知られています。1159(平治元)年に起きた平治の乱平清盛公に敗れて落命した源義朝公の9男に生まれた牛若丸は、当時数えで2歳の幼な子でしたが、成人した後の復讐を警戒した平清盛公によって一度は処刑の決定が下されます。しかし、母・常盤御前が身を挺して必死に助命を乞うた結果牛若丸は赦免され、7歳になった頃に鞍馬寺東光坊に預けられることとなります。鞍馬に入山してからの牛若丸は学問に一心に打ち込む日々を送り、その熱心さには師である阿闍梨・蓮忍も思わず感嘆したといわれています。

 そんな牛若丸の人生も、己の素性を初めて知った時から大きく運命の歯車に突き動かされていきます。自分が源氏の棟梁・源義朝公の遺児であること、今をときめく平家の棟梁・平清盛公がその仇であることなどを知った牛若丸は「遮那王」と名を改め、平家討伐を念じて武芸に打ち込むようになります。武蔵坊弁慶と五条大橋の上で運命の出会いを果たすという伝説も、この頃生まれました。噂を聞きつけて鞍馬を訪れた「金売り吉次」の異名を持つ奥州の商人・吉次信高から、奥州の王・藤原秀衡公が遮那王に関心を寄せ、源氏の再興への助力の意志を持っているということを伝えられた遮那王は、奥州へ渡るために鞍馬山を下ります。時に1174(承安4)年、遮那王16歳の時のことでした。





鞍馬寺の本殿金堂。1971(昭和46)年に再建されました。



 鞍馬寺では、5月の満月の日に行われる「五月満月祭(うえさくさい)」や、6月20日に行われる「竹伐り会式」など様々な祭事が執り行われています。このような鞍馬山の祭事の中でも最も有名なのが10月22日に行われる「鞍馬の火祭」です。940(天慶3)年、災害や争乱などに揺れる世情の不安を鎮めるため朱雀天皇の詔によって御所内に祀られていた由岐明神鞍馬山に勧請し、北方の守護神とすることになりました。この遷座は国家的な儀式として盛大に執り行われ、松明や神具を伴った遷宮の行列は1kmにも及んだといい、鞍馬の人々も篝火を焚いて歓迎したといわれています。この時の光景を偲んで始められた神事が鞍馬の火祭の起源となりました。ちなみにこの祭りは由岐神社の神事として行われています。





鞍馬天狗と牛若丸の出会いの場といわれる不動堂(左)と、奥の院魔王殿(右)。
 

アクセス
・叡山電鉄鞍馬線「鞍馬駅」下車、仁王門まで徒歩4分
鞍馬寺地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人200円(中学生以下無料)

拝観時間
・9時~16時30分