神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・摩耶山天上寺。

2008年10月30日 | ■神戸市灘区



摩耶山 忉利天上寺

神戸市灘区六甲山町2-12


KOBE七福神・布袋尊
新西国三十三ヶ所霊場・第22番札所
関西花の寺二十五霊場・第10番札所
ほか





〔宗 派〕
高野山真言宗

〔御本尊〕
十一面観世音菩薩像
(じゅういちめんかんぜおんぼさつぞう)



 須磨寺長田神社湊川神社生田神社と、街なかを中心に点在する「KOBE七福神」も、再度山大龍寺あたりからだんだん神戸の山手のほうにさしかかってきます。七福神のうちの布袋尊を祀る摩耶山天上寺も、その名の通り摩耶山の上にある寺院で、1400年近い歴史を誇る由緒ある真言宗の古刹です。





石段の脇にある摩耶夫人像(左)と、美しい眺望を誇る「天空の大舞台」(右)



 自動車で天上寺を目指す方は、六甲山牧場を目標にしながら行かれると良いと思います。公共交通機関を利用される方は、JR六甲道駅阪急六甲駅から出ている神戸市バス18系統に乗って「摩耶ケーブル下」バス停で下車。そこから摩耶ケーブル摩耶ロープウェイを乗り継いで「星の駅」から10分ほど歩くと天上寺に辿り着きます。ここは十一面観音菩薩のご利益である「開運」や「五穀豊穣」、そして摩耶夫人尊のご利益である「安産」と「子授け」の寺院として、古来より山麓一帯の住民から厚く信奉されてきた寺院です。ちなみに、全国に数多く見られる安産の腹帯は、ここ摩耶山天上寺が発祥だといわれています。





御本尊が安置されている金堂(左)とその南に立つ「一願地蔵尊」(右)。



 言い伝えによると、日本を訪れて難波(大阪)の地で布教を続けていたインドの高僧・法道仙人が西北方に瑞雲がたなびく様を見て瑞縁を感じ、導かれるように六甲山のこの地を訪れて仏法有縁の聖地であるとの確信に至ります。そこで、孝徳天皇より詔勅を賜り、純金の根本秘仏である十一面観世音菩薩像を御本尊として、この地に草庵を結んだのが天上寺の起こりだとされています。これが「大化の改新」の翌年、646(大化2)年の事でした。その後、奈良時代かけて勢力を拡げた天上寺は、僧坊300を越える規模を誇る大寺院へと発展を遂げますが、残念ながら落雷による大火事によって境内は焼失。寺勢も往時の栄華を窺うすべもなく衰退していきました。
 その後、密教の第7祖である唐・長安の青龍寺恵果和尚から伝法阿闍梨位の灌頂を受け、真言密教の奥義を極めて帰国した弘法大師空海が、持ち帰ってきた武帝自らが作られたという香木造の摩耶夫人像天上寺にお祀りし、806(大同8)年に荒廃していた天上寺を中興しました。それ以降、この摩耶夫人像の故事にちなんでこの山を「摩耶山」と呼ぶようになりました。お釈迦様の生母・摩耶夫人が大往生を遂げられた場所が忉利天という地名だったことから、この寺院は「忉利天上寺」という名で呼ばれるようになりました。





境内南側に立つ法道仙人像(左)と弘法大師活眼石(右)。



 天上寺は、残念なことに1984(昭和59)年に不慮の失火(賽銭泥棒の失火が原因)によって仁王門や一部の塔頭を除き境内の大部分が焼失してしまいました。しかし信徒・有志の皆さんの尽力によって、翌年の5月には元々建てられていた場所から1kmほど北側の地に金堂が再建され、1989(平成元)年には鐘楼や摩耶夫人像が再建されました。さらに2005(平成17)年8月には「天空の大舞台」と名付けられた展望台が完成して現在の威容が整いました。この展望台からは、晴れた日なら淡路島や小豆島までもが一望出来ます。都会の喧騒を離れ、のんびりとここからの素晴らしい眺望を楽しむのも良いのではないでしょうか。ちなみに、焼失してしまった天上寺跡はロープウェー駅側へ南に少し下ったところにあり、「摩耶山歴史公園」として神戸市による整備が行われています。





金堂の北隣にある「摩耶夫人堂」(左)と金輪堂(右)。


アクセス
・JR「六甲道駅」、阪急電車「阪急六甲駅」から神戸市バス18系統「摩耶ケーブル下」下車。
 摩耶ケーブルと摩耶ロープウェー(まやビューライン夢散歩)を乗り継ぎ、「星の駅」から北へ徒歩約10分。

摩耶山忉利天上寺地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・8時~17時

公式サイト
  摩耶山天上寺公式ホームページ


神戸・船寺神社。

2007年09月23日 | ■神戸市灘区
厄除け・航海安全・交通安全・家内安全


船寺神社

(ふなでらじんじゃ)
神戸市灘区船寺通2-1-25




阪神電鉄の高架の南、東向きに立つ鳥居。1973(昭和48)年に再建されました。


〔御祭神〕
八幡大神
(はちまんたいしん)
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
春日大神
(かすがたいしん)


 「有馬郡誌」によると、船寺神社はもともとは摂津国有馬郡の羽束郷にある大舟山の山上に創建された「船寺」という名の寺院の鎮守社として創祀された「八幡神社」にそのルーツがあるといわれ、のちに莵原郡の大石川の西に遷されたと伝えられています。「船寺」という地名はそれに因んで付けられたもので、1469(文明元)年に編纂された「都賀荘寺庵帳」という文献にはこの地に舟寺という名前の寺院があった事が記されています。ただ、船寺神社のある辺りは古来より「深淵」と呼ばれており、江戸時代中期の寛政年間(1789~1801年)頃に「船寺谷」と改称されています。
 この船寺は、1868(明治元)年に出された神仏分離令の影響で1875(明治8)年に廃寺になり、鎮守社であり河原村の氏神として崇敬を集めていた八幡神社が「船寺神社」として独立存続したと伝えられています。11月に行われる例大祭では、金獅子6頭をおしたてて100名を越える奉仕者が氏子地域を練り歩くことでも有名な神社です。





鳥居の脇にある「厄除東向八幡宮」の石碑(左)。境内にも多くの石碑が建てられています(右)。



 船寺神社神功皇后ゆかりの神社としても知られています。三韓征伐から都への凱旋の航海を続けていた神功皇后率いる船団は、灘の敏馬の浦にさしかかった際に暴風雨に襲われ、風雨を避けるために深淵と呼ばれたこの辺りに停泊して難を逃れたといわれています。
 前述した創祀に関する伝説には他にもいくつかの説があります。地形的に海上交通や陸上交通の要衝だった船寺地域ではありましたが、南北を貫いて流れる都賀川の河原部分にあたるために、長雨が続くたびに起こる水害に悩まされていました。そのため、神威によって難を避けようと888(仁和4)年に京都の石清水八幡宮から八幡大神を勧請し、都賀川が流れる東の方角に向けて社殿を建てて諸難除けを祈願したのが船寺神社の始まりだという説もあります。





1966(昭和41)年に再建された、鉄筋コンクリート造りの社殿。

社殿右手には、御神木を祀った岩楠社(左)と船吉稲荷大明神(右)が鎮座しています



 さらには「八幡太郎」の異名で知られ、武士勢力台頭の黎明期の象徴として名高い源義家公にまつわる説も残されています。1082(永保2)年、灘の沖を航行していた源義家公は、海中で光を放つ不思議な物体を発見します。不審に思った源義家公が発光体を追ううちに、導かれるかのように船は深淵の岸へと辿り着きました。そこで深淵の地が神功皇后ゆかりの地である事を知った源義家公は、これこそ天の導きであったかといたく感激し、さっそく都賀庄の公文に命じて天照大御神を祀る社を建てさせたのが船寺神社の始まりだといいます。いくつかご紹介したように、船寺神社の起源については諸説ありますが、実際にはこの時に初めて社殿が建てられ、八幡大神天照大御神を祀ったのではないかという説が一番有力なようです。
 1362(正平17)年には都賀野行家公によって奈良・春日大社より春日大神が勧請され、1668(寛文8)年には江戸幕府第4代将軍・徳川家綱公の寄進を受けて拝殿などの増改築が行われました。この社殿は、残念ながら1945(昭和20)年の神戸大空襲によって全焼し、長らく仮殿での祭祀が続けられてきましたが、焼失から20年経った1966(昭和41)年になって鉄筋コンクリート造りの社殿が再建されました。





以前は屋根に大きな看板が掲げられていた神社会館(左)。右は国道2号線沿いに立つ石碑。


アクセス
・阪神電車「大石駅」下車、南西へ徒歩1分
船寺神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
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神戸・大土神社。

2007年09月21日 | ■神戸市灘区
家内安全・事業繁栄・学業成就


大土神社

(おおつちじんじゃ)
神戸市灘区鶴甲3-15-24




六甲登山口交差点から六甲ケーブル下駅へと向かう道の脇に鎮座する大土神社。


〔御祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
住吉大神
(すみよしたいしん)
菅原道真公
(すがわらのみちざねこう)


 阪急六甲駅の北には、神戸大学神戸松蔭女子学院大学という2つの大きなキャンパスがあり、朝夕授業へと向かう学生たちの列が続いています。駅から六甲登山口の交差点を経由し、両キャンパスの間を抜けて六甲ケーブル下駅へと続く坂道をほぼ登りきったところに、小さな神社が鎮座しています。この神社の名は大土神社。「水車のお宮さん」とも呼ばれて崇敬を集めています。





無作為に伸びる野の草が境内を彩っています。



 18世紀の初め頃、この地域では紀州の郷士であった田林宇兵衛という人が六甲川の急峻な流れに目をつけ、菜種を搾って灯油を生産する目的で水車を建て始めました。天明年間(1781~89年)には25基の水車が操業していたことが記録に残っています。産業が興るにつれて雇用が生まれ、人が集まってきたことでコミュニティが成立していきました。水車新田村と呼ばれたこの村の守護神として、また搾った油を出荷する際の船の航行の安全祈願のために大土神社が創建されたのは1748(寛延元)年のことでした。





1748(寛延元)年に創建された大土神社の社殿。



 境内には駐車場も設けられていますが、その傍らに蛙の形に似た自然石が置かれています。この石は「蛙石」と呼ばれるもので、旅に出かける前に撫でて参拝すると「無事かえる」、つまり旅行安全の御利益があるといわれています。元々は大土神社のずっと南にあって鉄柵で囲われていましたが、道路建設の都合で大土神社の境内に移されたそうです。伝説では、この石は夜な夜な山道の真ん中まで現れ、大きな蛙の姿になっては人々を驚かせていたそうです。そこで村人は、出て来られないよう石の周囲を鉄柵で囲み、「蛙まつり」と称してこの石を祀ったといわれています。さらに、蛙石の後ろにはオタマジャクシの形をした石が幾つかあり、年々少しずつ大きくなっていたという伝説も残されています。





境内西の六甲川。この清流では蛍も見ることが出来ます。


アクセス
・阪急電車「阪急六甲駅」下車、北へ徒歩20分
・神戸市バス26系統「昭生病院」バス停下車、北へ徒歩2分
大土神社地図  Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・稗田水神社。

2007年05月03日 | ■神戸市灘区
水難守護・商売繁盛

稗田水神社

(すいじんじゃ)
神戸市灘区灘北通5-6-6




JRの車内からも見える大きなクスノキが目印です。


〔御祭神〕
罔象女神
(みずはのめのかみ)
倉稲魂神
(うかのみたまのかみ)



 JR灘駅から大阪行きの電車に乗ると、北側の住宅街の中にひときわ高く伸びるクスノキの緑を見つけることが出来ます。このクスノキは、水難守護と商売繁盛の神さまとしてこの地域の崇敬を集める稗田水神社の目印として、厳しい陽射しをさえぎり憩いの境内を演出しています。昔から水害が多く、稗しか作る事ができないということから「稗田」と呼ばれていたこの地域。そんな稗田の地で、村人たちが農作物の無事を祈念するために水の神様である罔象女神を祀る神社を設けたのは、17世紀半ば頃の承応年間(1171~1175年)の事だといわれています。





路地に入ったところに立っている鳥居。震災の被害を受けたのか、笠木はありません。


 
 豊臣秀吉公によって行われた太閤検地でも、村域の大小はありますが旧都賀荘の村の中では八幡村が360石、都賀村が330石の石高があるのに対し、稗田村はわずかに81石と、やはり稲作にとって厳しい土地であったようです。そのような土地であるが故に一層厚い崇敬を集めていた稗田水神社は、地域の厄災守護の神社として長く継承され、1873(明治6)年8月には村社に指定されました。その後、1909(明治42)年2月には稲荷神社が合祀されました。その稲荷神社では、毎年2月に初午祭が行われています。祭りといえば、1902(明治35年)までは「ふとんだんじり」が例大祭を盛り上げ、1910(明治43)年から昭和初期までは3基の神輿が出されて祭礼を盛り上げていたようです。戦後は一時期中断されていましたが、30年ほど前から神輿が復活しているそうです。





水の神・罔象女神を祀っている社殿。


社殿の右に建つのが稲荷神社です。


アクセス
・JR神戸線「灘駅」下車、北東へ徒歩5分
・阪急電車「王子公園駅」下車、南東へ徒歩3分
・阪神電車「西灘駅」下車、北へ徒歩3分
稗田水神社地図 Copyright:(C) 2014 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放


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神戸・素佐男神社。

2006年11月20日 | ■神戸市灘区
厄除開運・商売繁盛・家内安全・工事安全


素佐男神社

(すさのおじんじゃ)
神戸市灘区岸地通2-2-13




住宅街の中に静かに鎮座する素佐男神社。「東の祇園さん」として崇敬を集めています。


〔御祭神〕
建速素佐男命
(たけはやすさのおのみこと)



 阪急電車の王子公園駅を降り、水道筋商店街を抜けて山手幹線を南に下ると、ヤマタノオロチ退治で有名な荒魂の神・素盞鳴尊を祀る素佐男神社に辿り着きます。この地域は水害による被害にたびたび悩まされていたため、今から約500年ほど前、ヤマタノオロチを鉄剣で退治して製鉄技術や治水技術など大陸の進んだ技術をもたらしたという素盞鳴尊を御祭神にした神社を祀ったといわれています。素盞鳴尊を祀る神社は全国に2,600社以上あるといわれており、神戸でも素盞鳴尊を主祭神とする神社は40を越えます。中でも有名なのが兵庫区の有馬街道の入り口である平野交差点の脇にある祇園神社ですが、それに対してこの素佐男神社は「東の祇園さん」と呼ばれて人々の厚い崇敬を集めています。





ここ素佐男神社も阪神・淡路大震災で大きな被害を受けました。



 以前、この地域は天城郷都賀荘鍛冶屋村と呼ばれていました。摩耶山から流れていた大田川という清流の水が刀作りに適した水だったそうで、この地域に刀鍛冶が多数集まったために鍛冶屋村と呼ばれたそうです。徳川の世になって戦乱が無くなると刀鍛冶では生計を維持するのが難しくなり、幕府直轄の天領だった鍛冶屋村でも飢饉への備えとして幕府が奨励していた甘藷(さつまいも)作りを行うようになりました。ちなみに素佐男神社が鎮座する「岸地通」の"キシ"は、渡来人である吉士氏に由来するといわれており、その寺である岸寺(きしじ)岸地(きしち)という文字に変化していったのではないかともいわれています。





手水舎(左)と、社殿右奥に鎮座している白玉稲荷神社(右)。


アクセス
・阪急電車「王子公園駅」下車、東南へ徒歩5分
素佐男神社地図  Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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神戸・徳井神社。

2006年09月29日 | ■神戸市灘区
厄除開運・縁結び・安産・家内安全・交通安全


徳井神社

(とくいじんじゃ)
神戸市灘区大和町4-5-5


通 称
箒の宮



JR六甲道駅にほど近い住宅街の中に鎮座する徳井神社。安産の神様として知られています。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
神功皇后
(じんぐうこうごう)


 JR六甲道駅から高架沿いに東へ歩くこと5分。ガードの南側に「神の恩恵」という意味の「トクイ」という名を持つ徳井神社が鎮座しています。1309(明徳5)年には「北野社領・摂津国得位時枝庄」という記述が見られるように、この辺りは京都の北野天満宮の荘園になっていたようです。ここ徳井の地には、古来より八幡神社が3社鎮座しており、それぞれ上宮中宮下宮と呼ばれていました。そのうちの上宮徳井神社にあたり、1911(明治44)年には中宮徳井神社の境内に遷座されました。ちなみに下宮は、旧徳井庄に含まれていた東灘区の旧東明村地域に鎮座している東明八幡神社の事を指しています。
 正式な創建時期は不明ですが、境内には17世紀半ば頃の天和年間(1681~1684年)の銘文の入った石灯籠が残っている事から、300年以上前より人々に支えられてきた神社だという事がわかります。明治時代には応神天皇神社と呼ばれていましたが、1961(昭和36)年に現在の徳井神社に社号を変更しています。





震災ののち修復された鳥居(左)。柱と笠木等の色が違っています。右は手水舎と御神木。



 徳井神社は別名「箒の宮」と呼ばれ、古来より安産の神としても崇敬を集めてきました。陣痛が始まった時に徳井神社から借りてきた荒神箒でお腹をなでると安産になるという言い伝えがあり、無事に出産が終わったあとは御礼として借りた箒に併せて新しい箒を添えて奉納するという風習があるそうです。これは神功皇后の御神徳にちなんだもので、応神天皇を身籠った身重の体でありながら軍船を率いて朝鮮半島へと進撃し、三韓征伐という偉業を成し遂げられたという伝説を持つ神功皇后の強い心をお手本として、妊娠中であっても日々の務めをしっかり果たしていきましょうという意味が込められているそうです。
 安産のご利益を授けてくれる神功皇后(息長帯比売命)は、社殿の左側に鎮座している旧徳井庄の中宮・八幡神社に祀られています。阪神・淡路大震災の時に倒壊しましたが、2002(平成14)年9月には新しい社殿が再建されています。





阪神・淡路大震災を耐え抜いた鉄筋コンクリート造りの社殿。


 
 1995(平成7)年1月17日の阪神・淡路大震災では本殿以外のすべての建物が倒壊。鉄筋コンクリート造りの本殿とは違い、木造だった社務所で休んでおられた宮司夫妻が大きな梁の下敷きになるという悲しい出来事がありました。しかし、氏子の皆さんは自分たちの生活の復興も困難な状況の中で徳井神社の復旧に尽力、2001(平成13)年には境内の修復工事が完了しました。さらに、前述したように2002(平成14)年9月には安産のご利益のある八幡神社の社殿も再建され、その後八幡神社に隣接して徳井資料館が建てられました。





社殿左手には安産で有名な八幡神社(左)、右手には廣目稲荷神社(右)が鎮座しています。

JRの高架沿い、北から見た徳井神社(左)。「厄除開運」「安産守護」の看板が目印です。


アクセス
・JR「六甲道駅」下車、東へ徒歩5分

徳井神社地図  Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放


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神戸・王子神社。

2006年09月20日 | ■神戸市灘区
盛業繁栄・交通安全・子どもの守護神


王子神社

(おうじじんじゃ)
神戸市灘区原田通3-8-43




王子動物園の南側に鎮座する王子神社。大きな看板の脇に入口があります。


〔御祭神〕
健御名方尊
(たけみなかたのみこと)
若一王子尊
(わかいちおうじのみこと)
大市比売尊
(たかいちひめのみこと)
ほか計10柱合祀。


 神戸市灘区にある王子公園。休日になると親子連れで賑わう王子動物園や、アメリカンフットボールの開催で熱気に包まれる王子スタジアム、兵庫県立美術館「原田の森ギャラリー」や関西学院跡地に建つ市民ギャラリーなど、神戸の市街地の近くに立地するレクリエーションゾーンとして市民に親しまれている王子エリア。その片隅に、町名の由来となった王子神社が静かに鎮座しています。

 鎌倉時代初期に信濃国松本から移り住み、原田の地に根を下ろした松本忠公公は、1204(元久4)年に故郷の神・諏訪神社健御名方尊を勧請して神社を建立しました。現在の王子動物園の敷地内にあったといわれるこの神社の境内は約13,000坪という広大なものだったそうです。この周辺は「原田の森」と呼ばれる広大な森で、一ノ谷の合戦には東軍の陣地となったり、鎌倉時代末期には後醍醐天皇方について倒幕の軍を上げた赤松円心公が籠もった摩耶城を攻略するために幕府軍が拠点を置いたと伝えられるなど、軍事上の重要地点でもあったようです。神代の昔、健御名方尊がこの地で軍旅の休息を取られたという言い伝えも、軍事上の要害の地だった原田の森と軍神・健御名方神のイメージが結び付いたものだったのかもしれません。





阪神・淡路大震災で被害を受けた社殿。2007(平成19)年に修築されました。



 平安時代中期から鎌倉にかけて流行した熊野信仰。浄土信仰が広がっていたこの時期、熊野三山は阿弥陀如来千手観音の浄土とされて現世・来世を問わず幸福を願う人々の厚い崇敬を集めていました。そんな熊野信仰の広がりをうけて、この地でも「諏訪大明神の本体は熊野から出てきた」という由来付けがなされ、1252(建長4)年に紀伊国熊野より若一王子神を勧請して合祀し(1336年、延元元年のことだという説もあります)王子権現」と呼ばれるようになりました。現在ここが「王子」といわれるのは、この若一王子神の名前に由来します。この一帯は原田字王子免と呼ばれるようになり、のちに王子町と呼ばれるようになりました。ちなみに「」とは、社寺の境内など租税の免除地の事を意味するものです。





天照大神など5柱の神々を祀る末社(左)と、社殿脇に繁る立派な御神木(右)。
※末社には、天満大神・松尾大神・住吉大神・愛宕大神・天照大神が祀られています。


 王子権現と呼ばれて人々の崇敬を集めていた王子神社は、1873(明治6)年には境内の約75%を神戸市に上地し、名称も「健御名方尊神社」と変更されました。氏子の皆さんは御祭神の名前の付いた社号を呼ぶ事は恐れ多いとして、地名にちなんで「原田神社」という通称で呼んでいたそうです。一方、原田村には他に高林神社という神社も祀られていました。文献の記述からも876(貞観18)年時点にはその存在が確認されている古社で、穀物の神である大歳神宇迦御魂神の母神といわれる大市比売神を御祭神に祀り、商売繁盛の神様として崇敬を集めていましたが、1903(明治39)年5月にはこの「原田神社」に合祀されています。1931(昭和6)年には大規模な改築が行われて境内が整備され、戦後の1946(昭和21)年12月10日には、現在の名称である「王子神社」に改称されました。





朱塗りの鳥居も整備された大瀧稲荷社(左)と、その参道に立っている歌碑(右)。



 戦後の王子神社は神戸市の都市計画に翻弄されて移転を重ねます。1950(昭和25)年、神戸で日本貿易産業博覧会が開催されることになりました。湊川エリアと王子エリアが開催地に選ばれ、その会場として王子公園が作られることになりました。このため博覧会の前年の1949(昭和24)年、王子神社は境内地の約8割を市へ提供し、神社そのものも王子町1丁目へと遷されます。さらに1956(昭和31)年には兵庫県で国民体育大会が行われることになり、メインスタジアムとして王子公園内に陸上競技場(現在の王子スタジアム)が建設されることになったために再び王子神社は移転を余儀なくされました。1995(平成7)年1月17日に起こった阪神・淡路大震災で大きなダメージを受けましたが、2007(平成19)年には氏子の皆さんの御尽力によって社務所や社殿などが再建されました。社殿脇に建つ大滝稲荷神社も鮮やかな朱色に塗り替えられるなど、美しく生まれ変わる息吹が感じられる神社です。





「元原田神社」と刻まれた石碑(左)と、2007年に建てられた社務所(右)。


アクセス
・阪急電車神戸線「王子公園駅」下車、西へ徒歩3分
・JR神戸線「灘駅」下車、北へ徒歩5分
王子神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
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神戸・兵庫県神戸護国神社。

2006年08月20日 | ■神戸市灘区
武運長久・健康長寿


兵庫県神戸護国神社

(こうべごこくじんじゃ)
神戸市灘区篠原北町4-5-1




市道山麓線沿いに立つ兵庫県神戸護国神社。春には美しい桜の花で包まれます。


〔御祭神〕
兵庫県東部地域出身の戦没者53,000余柱



 阪急六甲駅から北に歩くと六甲登山口の交差点に出ます。そこから市道山麓線に沿って西へ少し歩くと、桜の名所でもありフリーマーケットでも賑わいを見せる兵庫県神戸護国神社に辿り着きます。ここ兵庫県神戸護国神社は、兵庫県東部出身の戦没者約5万3千柱を祀っている神社で、兵庫県姫路護国神社と合わせて11万柱にものぼる兵庫県出身戦没者を祀る祭祀・鎮魂の場となっています。参拝を済ませ、数多く立ち並ぶ慰霊碑に手を合わせていると、自ずと「2度とあのような惨事を引き起こしてはならない」という思いと、今の平和な日本社会のありがたさ、そしてその礎となって戦場に散っていった先人たちへの感謝の念に包まれました。





境内にはこのような慰霊碑が多数建てられています。



 明治以来、毎年官民合同で神戸市兵庫区会下山町の地に祭壇を設けて招魂祭が行われていました。その後、王子町にあった関西学院の跡地3,000坪を取得、1940(昭和15)年4月27日に地鎮祭が行われて社殿の造営が始まり、翌1941(昭和16)年7月18日には境内が整い護国神社鎮座祭が執り行われました。
 護国神社鎮座祭に先立ち、1940(昭和15年6月25日には内務省指定の「護国神社」に列せられ、出征した兵士たちの御霊を弔い且つ戦地での無事を祈る人々に厚く崇敬されてきましたが、1945(昭和20)年6月5日に来襲した474機のB29による神戸大空襲に遭い、兵庫県神戸護国神社は境内の全てを焼失する大被害を受けました。この時の空襲では、米軍による絨毯爆撃によって3,000t以上の焼夷弾が落とされ、神戸の市街地の約28%が無差別に焼き尽くされました。この時の空襲を含めた神戸での犠牲者の数は9,000人近くにのぼり、15万人近くの市民が負傷、焼失した家屋は15万戸など、壊滅的な被害を受けています。





昭和34年に現在地に建てられた社殿。



 兵庫県姫路護国神社の記事でも述べましたが、戦後のGHQによる占領下では「護国神社」という名前は軍国主義施設として廃止される恐れがあったため、「兵庫御霊神社」と改称する事でかろうじて存続が認められる事となりました。その後、1950(昭和25)年には「兵庫県神戸護国神社奉賛会」が設立されて社殿の復興計画が進められ、1951(昭和26)年9月8日に締結されたサンフランシスコ平和条約によって独立国家として日本が再出発した後の1952(昭和27)年に再び「兵庫県神戸護国神社」の名前に戻されました。
 1957(昭和32)年1月、社務所が完成し、さらに1959(昭和34)年11月には灘区篠原北町の現在地にて社殿が再建され、本格的に復興を果たすこととなり、継続的に境内の整備も進められてきました。しかしながら、1995(平成7)年1月17日未明に神戸を襲った阪神・淡路大震災によって社務所が半壊するなど、兵庫県神戸護国神社は大きな被害を受けましたが、戦没者遺族崇敬者の皆さんの熱意によって再興され、翌1996(平成8)年11月には無事「阪神・淡路大震災被害修復竣工奉告祭」が執り行われました。





北方異民族慰霊の碑。先の大戦でなくなられた他国の方もお祀りされています。



アクセス
・阪急電車「阪急六甲駅」下車、北西へ徒歩8分
・JR「六甲道駅」下車、北西へ徒歩15分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
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神戸・敏馬神社

2006年05月08日 | ■神戸市灘区
航海安全・厄除け・悪縁解除・眼病平癒


敏馬神社

(みぬめじんじゃ)
神戸市灘区岩屋中町4-1-8




国道2号線沿いに鎮座する敏馬神社。「みぬめじんじゃ」と読みます。


〔御祭神〕
素盞鳴命
(すさのおのみこと)
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
熊野座大神
(くまのいますおおかみ)



 国道2号線沿い、HAT神戸への入り口になっている「岩屋中町4」の交差点そばに鎮座する神社、それが敏馬神社です。「みるめ」と呼ぶ人も多いのですが、正式には「みぬめ」神社といいます。漢字が伝わる前からあった「みぬめ」という呼び名に「敏馬」という漢字を当てたもので、とても古くからある名前です。もともとの祭神である「彌都波能売神(みずはのめのかみ=水の神)」の名前がその由来となっているそうです。当初は「敏馬」ではなく「美奴賣」や「見宿女」、「三犬女」や「汶賣」などの文字が当てられていました。





敏馬神社の境内(左)。社殿への石段脇には寛政年間寄進の灯篭が立っています(右)。



 昭和初期までは、敏馬神社の境内の南側には「敏馬の浦」と呼ばれる海が広がり、「敏馬の泊」という港がありました。「灘・住吉神社」のところでも書きましたが、この港は中国大陸や朝鮮半島に向けて都を出港した使節団が最初に停泊する港でした。当時は月明かりくらいしか闇を照らす光がなかったために夜間の航海はとてもリスクが高く、朝一番に難波の津を出発した船団は日没前にこの敏馬の泊にたどり着いて一泊するという日程を取っていたようです。また、新羅などの使節が都を訪れた際にも一旦この敏馬の泊に寄航しており、生田神社で醸造した酒を飲んでの宴が開かれるなど、海外使節団が畿内に入る前の禊の場所としての役割も果たしていました。このように、敏馬の泊は、兵庫の大輪田の泊が出来るまでは、瀬戸内の海上交通の要衝として栄えていたようです。そんな敏馬の浦も、1931(昭和6)年頃より、阪神電車のトンネル工事で出た残土を利用して埋め立てが行われてしまったために、往時の面影はすっかり姿を消してしまいました。





左は万葉歌人・柿本人麻呂の歌碑。右奥には稲荷神社も鎮座しています。

社務所前に立つ数多くの記念碑(左)。向き合うように閼伽井があります(右)。



 社殿が建っている高台は「敏馬の崎」と呼ばれ、西風をシャットアウトする役目を果たしていました。往古の「敏馬の泊」はこの東側の入り江にあったといわれています。現在、南側は広い範囲が埋め立てられ、HAT神戸などの新興住宅街や摩耶埠頭などが拡がっていますが、それでもここからの眺めはなかなかのものがあります。そんな美しい風景に惹かれて、奈良時代から江戸時代、さらには現代にかけて多くの歌人・俳人がこの地を訪れ、和歌や俳句を残しています。とくに江戸期には、酒造業や廻船業を営む豪商たちの庇護を得ようと多くの俳人が灘の地を訪れました。








緑に囲まれた美しい高台に鎮座する社殿。1951年に再建されました。



 敏馬神社神功皇后ゆかりの神社のひとつです。神功皇后三韓征伐に赴くにあたり、神崎松原の地(今の神崎川)にて従軍する神々を集めたところ、能勢の美奴売山(今の三草山)の神が駆けつけて「我が山の杉の木で舟を造って遠征に向かえば良い結果が得られるであろう」と告げました。その言葉に従ったところ出兵は大成功、見事に勝利を収めて凱旋を果たします。ところが、その帰還の途中、敏馬の浦で船が進まなくなったために占いを立てると、これは「神の御心」による立ち往生であるとの結果が出ました、そのためこの地に美奴売の神をお祀りし、舟も神社に献上したといわれています。東灘の本住吉神社や垂水の海神社などの御由緒にも荒海の中で船が立ち往生した話が見られますが、やはり当時の航海が天候や汐の流れに左右されて相当厳しいものであったという事が推し量れます。
 神功皇后に関する言い伝えの真偽はともかく、平安時代に神社の格式を定めた「延喜式」にも生田神社長田神社と並んでその名が記されており、敏馬神社が神戸市内でも有数の歴史を抱える神社であることは間違いありません。1873(明治6)年8月に村社に列せられた敏馬神社は、1930(昭和5)年9月には県社に昇格するなど地元の人々の崇敬を集めていましたが、残念なことに1945(昭和20)年6月5日の神戸大空襲によって境内は被災、社殿は焼失の憂き目に遭います。しかしながら、氏子の皆さんの尽力によって無事1951(昭和27)年に社殿の再建が為され、現在に至っています。





左は「奥の宮」と「水神社」。右は神功皇后をお祀りする「后の宮」と「松尾神社」。

社殿東側に立つ田辺福麻呂の歌碑(左)。境内のすぐ南は国道2号線が走っています(右)。



アクセス
・JR神戸線「灘駅」下車、南へ徒歩10分
・阪神電車「岩屋駅」下車、南へ徒歩3分
敏馬神社地図  Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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神戸・住吉神社(灘)。

2006年05月02日 | ■神戸市灘区
交通守護


住吉神社

(すみよしじんじゃ)
神戸市灘区大石南町1-1-2







〔御祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
表筒男神
(うわつつおのみこと)
中筒男神
(なかつつおのみこと)
底筒男神
(そこつつおのみこと)



 神戸の南を走る交通の大動脈である国道43号線。この南側には「灘五郷」と呼ばれる日本酒の代表的な生産地があり、全国的に名の知られた数多くの蔵元が軒を連ねています。今回ご紹介するのは、神戸市灘区を南北に流れる都賀川の傍、1717(享保2)年創業の名門「沢の鶴」の資料館の南に鎮座している住吉神社です。
 目立たない場所にあり、目印となるような大きな社叢を持たない住吉神社に辿り着くには、前述の「沢の鶴資料館」を目指して来るのがベスト。資料館の南、都賀川沿いの道を1本西に入った道路を南下すると、住吉神社の玉垣が目に入ってきます。
 住吉神社が鎮座する大石地域は、神を祀る氏族が住んでいたところで、もともとは生石(おいし)と呼ばれていたと伝えられています。神功皇后による三韓征伐の時、この地域から従軍した舟人たちが手柄を立て、その褒賞として米18石を賜わりました。その栄誉を後世に残すために「十」と「八」を合わせて「大」として「大石」と改名した、という伝説が残っています。これとは別に、大石村が所有していた北部の長峰山では大阪城を築城する際に御用石の指定を受けるなど良質の石が産出されており、これらの巨大な石を大石浜から全国各地に海上輸送していたため、「大石」と呼ばれるようになった、という説もあります。





1998年に再建された石鳥居(左)。右は、敏馬神社の御旅所である事を示す石碑。



 住吉神社の創建当時の詳細を書いた資料は18世紀中頃に大石村を襲った大火によって焼失してしまい、詳しい事は分かりませんが、社伝によると1681(天和元)年に大石浜の海中から御神体が発見され、社殿を建てて航海守護の神として祭祀を行ったのが始まりだということです。すぐ隣の新在家で、この数年前に若宮神社が建てられていて御神体の現れ方も似ている事(どちらも海から現れたとされる)神功皇后の頃からの由緒ある土地であるという大石の人々の川を挟んでの対抗意識、これらが住吉神社の創建と何らかの関連性があるのかも知れません。1814(文化11)年、1822(文政5)年、1855(安政2)年には灯篭が奉納されています。





阪神・淡路大震災では社殿が倒壊するなど大きな被害を受けましたが、無事再建されています。



 大石から岩屋までの一帯の海は、古来より「敏馬の浦(みぬめのうら)」もしくは「みぬめの浜(みぬめのはま)」と呼ばれ、奈良時代の中頃までは「敏馬の泊(みぬめのとまり)」と呼ばれた港がありました。敏馬の泊は中国へ向かうために奈良の都を出た使節団が停泊する最初の経由港で、故郷・大和国を遠望できる西端の港でもあったことや、白砂青松の風光明媚な景勝地として有名だったことから、多くの文人・歌人たちがこの地を訪れて和歌を詠んでいます。敏馬の泊では新羅からの使節の歓待も行われるなど、海外に開かれた国際港としての役割を果たしていましたが、のちに兵庫津に大輪田の泊が出来ると次第にハブ港としての地位を奪われていきました。
 その後、六甲山系から切り出された良質の石を発送する拠点として都賀川の河口付近が船着場として発展、海上輸送の要衝としての便利さに目をつけた酒造業者が多数この地域に蔵を構えるようになると、灘五郷で出来た清酒を樽廻船で全国に輸送する主要港として発展していきます。このように酒造業や廻船業が大変栄えた土地だったため、財を成した豪商たちも多く住んでおり、その庇護を得ようとして多くの文人たちが訪れました。歌碑の残る与謝蕪村も、西国に向かう際には弟子だった大石村の松岡士川松岡士巧の屋敷に逗留していく事が多く、境内に建てられた歌碑に刻まれた「畑打ちに 眼をはなれずよ 摩耶が岳」をはじめ「菜の花や 月は東に 日は西に」など、灘の風景を詠んだ名句を残しています。





社殿の左手にある与謝蕪村の歌碑(左)。社殿の裏にも2柱の神石が祀られています(右)。


アクセス
・阪神電車「大石駅」下車、南へ徒歩10分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・若宮神社(灘)。

2006年05月01日 | ■神戸市灘区
厄除け・酒造守護


若宮神社

(わかみやじんじゃ)
神戸市灘区新在家南町3-2-25


通 称
若宮八幡宮







〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
迦具突智神
(かぐつちのかみ)
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)


 阪神電車の大石駅から南へと歩みを進めると、数多くの酒造会社の看板と、一際高く聳える工場の煙突群が目に入ってきます。神戸の市街地の南側を走る交通の大動脈・国道43号線の南には、日本を代表する酒造メーカーや神戸製鋼所の神戸製鉄所などが軒を連ね、それを囲むように数多くの民家が立ち並んでいます。都賀川の河口付近にあたるこのエリアは、古くから海運業が栄え、酒造業の町として発展してきた、いわゆる「灘五郷」のうちの「西郷(にしごう)」と呼ばれる地域です。今回ご紹介するのは、都賀川の東、1681(天和元)年創業の名門酒造メーカー「富久娘酒造」のすぐ傍に鎮座している若宮神社です。





1938年に発生した阪神大水害の記念碑(左)。右は、阪神・淡路大震災の名残りが残る灯篭。



 江戸時代初期の1678(延宝6)年9月のこと、新在家村の沖合に不思議な光が現れました。この報告を受けた地元の役人・花木正時公が数日間この怪しげな光を監視して事態の推移を見守っていたところ、9月15日になって沖から一つの小箱が流れ着きます。花木正時公が箱を持ち帰って確認したところ、中から八幡大神秋葉権現の御真影が出てきました。
 花木正時公が早速この一連の不思議な出来事を領主である松平前若州公に上申したところ、「八幡宮は我が尊敬する霊神なり。今二神、領地に留まること誠に良縁なり」と非常に喜び、直ちに新在家浜に適地を求めて社殿を建立し、二柱の神をお祀りして花木正時公を神主の任に充てたといいます。創建当初は御祭神にちなんで「若宮八幡宮」という名が付けられ、戦後になって「若宮神社」と改称されました。ちなみに、御祭神に名を連ねている迦具突智神(かぐつちのかみ)」は火を司る神様で、秋葉神社の御祭神とされています。





阪神・淡路大震災で倒壊した社殿は、2000年10月に再建されました。

社殿右手にある玉水稲荷社の鳥居(左)。奥には玉水稲荷社など2つの摂社が鎮座しています。




 新在家は都賀川の清流にも恵まれ、河口付近も六甲山系から採れる良質の石を各地に発送するための船着場として発展していたために酒造業が大変栄えた土地でもありました。元禄年間(1688~1703年)より次々に蔵元が創業し、1802(享和2)年には大石村に25軒、新在家村に24軒、岩屋村に9軒、八幡村に8軒、河原村に2軒、稗田村と五毛村に各1軒と、7ヶ村合わせて計70軒もの蔵元が軒を連ねるようになりました。生産量も非常に多く、1830(天保元)年には大石村・新在家村・八幡村の3ヶ村だけで実に17万7千樽以上の酒が江戸をはじめ各地へと出荷されていたと伝えられています。
 こうして「灘の酒」は全国的なブランドとして認知され、文化・文政期(1804年~1829年)には江戸市中でのシェアの7割を占めるほどに発展を遂げていきました。現在でも「富久娘」「月桂冠」「沢の鶴」「忠勇」「福徳長」「白鶴」など伝統ある有名酒造メーカーがこの一帯で酒造りを続けています。日本酒党の方なら、若宮神社周辺を歩くだけでも仄かに漂ってくる日本酒の香りに満足されるかもしれません。





社殿左奥に鎮座している「醸造の神」松尾社(左)。震災で倒壊した狛犬は2001年に再建(右)。


アクセス
・阪神電車「大石駅」下車、南東へ徒歩10分
若宮神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・都賀川(灘)。

2006年05月01日 | ■神戸市灘区


都賀川

(とががわ)
神戸市灘区内





 阪神大石駅を降りると、改札口の前を流れる川があります。この川が「都賀川(とががわ)」です。都賀川は、西六甲から流れる六甲川と摩耶山から流れる谷川が篠原公園付近で合流したもので、全長7kmほどの川です。町なかを流れる川にもかかわらず、とにかく水が綺麗です。






 川辺も舗装されており、水深も浅いので気軽に水遊びをすることができます。水鳥たちもたくさんいますし、春にはアユの放流も行われるそうです。江戸時代には酒の仕込み水に利用されたりしたほどの清流だったのですが、やはり公害問題がクローズアップされた昭和50年頃にはゴミの不法投棄や生活排水などで汚染され、悪臭が漂う死の川となっていました。






 そこで地元の方々が『都賀川を守ろう会』を結成して川の清掃活動を始めたのですが、今のような清流に戻るのには10年もの年月がかかったそうです。現在は、企業をはじめ地域の方々が自主的にイベントを開催してきれいな川を守る活動をされています。

 一度汚してしまったものを元の姿に戻すのには、これだけの人々の努力と年月がかかってしまうんですね。「汚さない」努力、自然を愛する気持ちの大切さを痛感します。