神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・能福寺。

2008年01月16日 | ■神戸市兵庫区

宝積山能福寺

(ほうしゃくざん のうふくじ)
神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39

新西国三十三観音霊場・第23番札所





〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
十一面観世音菩薩像
(じゅういちめんかんぜおんぼさつぞう)



 804(延暦23)年5月、桓武天皇の勅命によって遣唐使船に乗り込み、摂津国・難波津より出航した伝教大師最澄は、唐の天台山国清寺で天台宗の奥義を学んで8ヶ月滞在したのち帰国しました。都へと帰る途中に和田岬に立ち寄った最澄を歓待した人々は堂宇を建てて教えを乞い、最澄も薬師如来像を彫り上げてこれに応え、この寺院を能福護国密寺と名付けて我が国初の天台密教の教化道場としました。





平清盛公800年回忌の年、1980(昭和55)年再建の平相国廟。



 1168(仁安3)年には平清盛公が能福寺で剃髪して出家。1180(治承4)年に福原遷都が行われた際には平清盛公をはじめとする平家一門が帰依して伽藍の整備が行われるなど能福寺は隆盛を極めました。平清盛公が亡くなった1181(治承5)年には遺言に従って遺骨が納められ、慰霊のために平相国廟が建立されました。都落ちした平家が西国へと落ちていく途中、能福寺にあった平清盛公の墓前で管弦講を行ったという話も残されています。残念ながら、1341(興国2・暦応4)年に兵火に見舞われて全焼してしまいますが、1599(慶長3)年になって長盛法印上人によって再建されました。





毘廬舎那仏の台座部分には十一面観世音菩薩立像が納められています。



 能福寺といえば、奈良・鎌倉と並んで日本三大仏に数えられた「兵庫大仏」が有名です。明治維新後、積極的に布教活動を展開するキリスト教に対して強い対抗意識を持っていた兵庫津の住民の間で、仏教興隆のために大仏を建立しようという機運が盛り上がりました。それを受けて豪商・南条荘兵衛氏などが中心になって寄進が行われ、材料となる銅を調達するために不要になった銅鏡の提供を呼びかけたところ、実に1万数千枚が集まったといいます。それをもとに造られた高さ8.5mの大仏は1891(明治24)年に完成し、人々の信仰の中心として、また「布引の滝、楠公さん、兵庫の大仏」と呼ばれる観光の名所として賑わいました。

 1944(昭和19)年5月には戦争の激化による物資欠乏のために出された金属回収令によって供出され、出征する兵士の如く大きな赤タスキをかけられて運ばれていったといいます。その後、長らく台座だけが残る寂しい状態が続きましたが、1991(平成3)年には信徒の皆さんや地元の企業が協賛して47年ぶりに高さ11m、重さ60tの立派な大仏が再建されました。その開眼法要には比叡山延暦寺の天台座主を導師に、東大寺の管長や鎌倉大仏のある高台院貫主のご臨席を仰いで盛大に挙行されたそうです。





境内に立つ「滝善三郎正信慰霊碑」。神戸事件ゆかりの史跡です。



 1868(慶応4)年1月に三宮神社付近で起こった神戸事件。岡山藩兵の行列を外国人が横切ろうとしたことに端を発したこの事件では、報復のために上陸した外国人兵によって居留地が制圧されるなど、開国以来初の外交問題に発展しました。結局、砲兵隊長だった滝善三郎正信公を責任者として処分することで事態の収拾が行われ、兵庫・永福寺において見事切腹することで最悪の状況が回避されましたが、異文化間で起きた事件の不幸な犠牲者であるという思いから、人々は永福寺滝善三郎公の慰霊碑を建てて菩提を弔いました。残念ながら永福寺神戸大空襲で焼失してしまいましたが、焼けずに残った慰霊碑は1969(昭和44)に能福寺に移されました。





本堂・月輪影殿は、京都・泉涌寺の月輪御陵から移築されたものです。


アクセス
・JR「兵庫駅」下車、南へ徒歩10分
・神戸市営地下鉄海岸線「中央市場前駅」下車、西へ徒歩5分
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拝観料
・境内無料

拝観時間
・10時~16時


杜を訪ねて―ひょうごの神社とお寺〈上〉 (のじぎく文庫)

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