神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・落柿舎。

2007年06月28日 | ◇京都府 -洛西


落柿舎

(らくししゃ)
京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20



落柿舎の前には水田が広がります。


蕉門十哲・向井去来宅



 京都・嵐山の小倉山が醸し出す四季折々の風景は歌人を誘うのでしょうか。「奥のほそ道」で有名な江戸時代の俳人・松尾芭蕉の門人で「蕉門十哲」のひとりとして名高い向井去来が閑居した落柿舎も、常寂光寺二尊院などが立ち並ぶ小倉山の麓に軒を連ねています。






 向井去来は1651(慶安4)年、肥前国(今の長崎県)で儒医を営む父・向井玄升の二男として生まれました。本名を向井平次郎といい、1658(万治元)年に父とともに一家で京都へ上って聖護院に居を構えます。向井去来も父の道を継ぐべく医学や天文を学ぶことになりますが、五条坂の遊女・可南との出会いがその将来を大きく変えることとなります。




向井去来が在宅のときは、庵の壁に蓑と笠が掛けられていました。



 可南と所帯を持ってからの向井去来は、深く俳諧の道に傾注していくようになります。そして嵯峨野の美しい景色に惹かれた向井去来は、庵を結んで俳諧に打ち込んでいきます。この庵が落柿舎で、1685(貞享2)年に建てられたといわれています。

 「落柿舎」という名前は、ある商人との間で庭にあった40本もの柿の木の実を売る契約をして代金を受け取ったものの、その夜に都を襲った台風のために全てが落ちてしまったというエピソードから1689(元禄2)年頃に付けられたそうです。ちなみに向井去来はこの代金をすべて返却し、商人をたいへん感激させたそうです。




本庵の奥にある次庵。この脇にも柿が植えられています。



 落柿舎には師匠である松尾芭蕉もたびたび訪れ、1691(元禄4)年4月にはここで「嵯峨日記」を著したといわれています。向井去来が師匠・松尾芭蕉と出会ったのは「嵯峨日記」から遡ること7年前の1684(貞亨元)年のこと。上方へと向かう野ざらし紀行の道中、蕉門十哲の一の弟子である宝井其角の紹介で交流が始まったといわれています。




松尾芭蕉歌碑。「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」



 向井去来の過ごした落柿舎は今とは違う場所にあったそうですが、1770(明和7)年にはすでに廃されていたようです。現在の落柿舎は、1895(明治28)年に京都の俳人・井上重厚によって再建されたもので、売却されようとしていた弘源寺旧捨庵を買い受けて落柿舎として再建したものです。今でこそ40本もの柿の木が植えられるスペースはありませんが、もともとの落柿舎にはそれだけの広さがあったと考えられています。




落柿舎の北の弘源寺墓苑にある向井去来の墓。



アクセス
・JR「嵯峨嵐山駅」下車、東へ徒歩20分
・嵐電「嵐山駅」下車、北東へ徒歩15分
・トロッコ「嵐山駅」下車、北へ徒歩5分
 落柿舎地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・200円

拝観時間
・9時~17時




蕉門の人々―俳諧随筆 (岩波文庫 緑 106-2)
柴田 宵曲
岩波書店

京都・大井神社(嵐山)。

2007年06月21日 | ◇京都府 -洛西
商売繁盛・厄除け

大井神社

(おおいじんじゃ)
京都市右京区嵯峨天龍寺造路町




渡月橋のすぐ傍、レンタサイクル店と土産物屋の間にある鳥居。よく見ないと見落としてしまいそう。



〔御祭神〕
宇賀霊神
(うかのみたまのかみ)



 阪急嵐山駅を下車して歩を進め、小倉山などの美しい風景を愉しみながら渡月橋を渡ると、土産物屋や食事処が集まる賑やかな場所に至ります。観光客であふれる賑やかなその一角に、桂川の守護神として崇敬を集める大井神社が鎮座しています。桂川は、法律上の名称は全流域を通じ「桂川」となっています。しかし、京北の地では上桂川という呼称で呼ばれ、園部町周辺では桂川となり、亀岡市内では大堰川と名を変えます。そして亀岡から嵐山まで保津川、嵐山から南では再び桂川となって木津川宇治川と合流して淀川へと流れていきます。





鳥居から本殿への参道には雑然と自転車が置かれています(左)。その奥にある社殿(右)。



 平安京が出来る以前からこの地に勢力を伸ばしていた渡来氏族である秦氏は、8世紀の初頭には葛野川(桂川)に大堰を設ける大土木工事を完遂し、そこで得た水利をもとに嵯峨野一帯を肥沃な土地に変え、財を成して豪族へと成長していったといわれます。その大堰を完成させた際、堰の守護神として桂川のほとりに祠を祀ったのが大井神社といわれています。

 大井神社は、延喜式内社の山城国乙訓郡19座の中の大井神社がそのルーツだといわれており、876(貞観18)年に従五位下の位を授けられたと「日本三代実録」に記述がある山代大堰神がその前身にあたるといわれています。しかしながら、現在大井神社が鎮座している場所は旧葛野郡にあたるため、式内社の大井神社との繋がりは薄いと考えられています。御祭神は宇賀霊神ですが、当初は大綾津日神大直日神神直日神を祀っていたといわれ、松尾大社の末社の一つ・堰神だったという説があります。1877(明治10)年3月26日には村社に列格されました。





社殿は「縁結び」で有名な野宮神社の旧社殿を移築したもの(右)。左は脇社。



アクセス
・阪急電車「嵐山駅」下車、北へ徒歩8分
・嵐電「嵐山駅」下車、南へ徒歩4分
大井神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

京都・常寂光寺。

2007年06月19日 | ◇京都府 -洛西

小倉山常寂光寺

(おぐらさん じょうじゃっこうじ)
京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3






〔宗派〕
日蓮宗

〔御本尊〕
十界大曼荼羅
(じっかいだいまんだら)


 野宮神社を包む美しい竹林を抜け、JRの踏切を渡ってしばらく歩くと、平安時代の歌人・藤原定家卿が百人一首を撰んだ地として有名な小倉山の山裾に多くの名刹が肩を寄せ合ってたたずんでいるエリアへと辿り着きます。小倉山の名を山号にした日蓮宗の名刹・常寂光寺は、この地で閑寂たる趣きを湛えながら私たちを出迎えてくれます。





本圀寺客殿の南門を移築したという仁王門。南北朝時代の建築物。



 常寂光寺は1596(文禄4)年に究竟院日上人が結んだ庵がその始まりといわれています。権大納言広橋国光卿の家に生まれ、幼くして日蓮宗の大本山である本圀寺(当時は本國寺)に入り、18歳の若さで本圀寺の法灯を継いだ日上人は学識に優れ歌の道にも造詣が深かったといわれ、そのもとには小早川秀秋公や加藤清正公などの武将や京都町衆など、多くの門徒が帰依していました。





小早川秀秋公の助力で桃山城客殿を移築したといわれる本堂。



 しかし1596(文禄4)年、天下人として権勢を誇っていた豊臣秀吉公より方広寺大仏殿の千僧供養への出仕を命じられたことで事件が起こります。日蓮宗には、法華経の信者以外からは施しを受けず、法華経以外の教えを広める僧侶には施しを行わないという不受不施義の教えがあり、他宗派の僧侶も集う千僧供養に出仕すべきでないという不受不施義派受不施義派とに分かれて対立が起こり、分裂してしまいます。

 不受不施義派に立った日上人は信念を貫いて本圀寺を去り、小倉山の地に庵を結んで隠棲します。美しい自然に包まれ、常寂光土の趣きをたたえていることから常寂光寺と名付けられました。平安時代に藤原定家卿が籠もって百人一首の選定を行ったといわれる時雨亭があったといわれるこの地を日上人に提供したのは、安土桃山時代に豪商として名を馳せた角倉了以とその従兄である角倉栄可でした。そして小早川秀秋公ら大名の寄進により、元和年間に堂塔伽藍が整備されました。





1620(元和2)年建立の多宝塔よりの展望。


 
 常寂光寺の寺域を提供した角倉了以は、保津川の水運を開削して丹波から京都、そして大阪へと通ずる流通ルートを整備したことでも知られています。急流のうえ巨石が多数転がって水運の難所であった保津川流域の整備の必要性を認識していた角倉了以は、1606(慶長11)年3月に流域の開削工事に着手。巨額を投じ、少なくない犠牲を払っての大土木工事は半年後の8月に見事完成しました。これによって豊富な木材や農作物を生み出す丹波地方と京都・大阪経済圏を結ぶ大動脈が整備され、関西経済の発展に大きな恩恵をもたらすこととなりました。この大工事が行われるにあたり、常寂光寺の日上人も本圀寺の檀家である瀬戸内水軍の来住一族に働きかけて熟練の水夫たちを派遣させ、角倉了以の大事業の支援を行ったといわれています。





藤原定家卿が百人一首を選定したといわれる時雨亭跡。



方丈の前に広がる庭園。初夏の緑が地泉に映えます。


アクセス
・阪急電車「嵐山駅」下車、北へ徒歩30分
・京福電鉄(嵐電)「嵐山駅」下車、北へ徒歩20分
 常寂光寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・400円

拝観時間
・9時~17時(受付は16時30分まで)




常寂光寺の四季―水野克比古写真集 (京・古社寺巡礼)
水野 克比古
東方出版

京都・野宮神社。

2007年06月17日 | ◇京都府 -洛西
良縁結婚・子宝安産・勝運・芸能上達・商売繁盛・交通安全

野宮神社

(ののみやじんじゃ)
京都市右京区嵯峨野宮町1







鬱蒼と茂る美しい竹林が「縁結びの神様」として有名な野宮神社へと導いてくれます。


〔御祭神〕
野宮大神
(ののみやたいしん)

 

 足利尊氏公が後醍醐天皇の菩提を弔うために嵐山の地に建立した天龍寺。その天龍寺から北へ少し歩いたところ、「古都芋本舗」や「よーじやカフェ」などの集まる一角から左の小道に入ると、左右に美しい竹林が広がります。この竹林を歩いていくと、「縁結び」の神さまとして人気の高い野宮神社に辿り着きます。





クヌギの木を皮を剥かずに使った「黒木の鳥居」は日本最古の様式です。



 「野宮(ののみや)」いうのは、天皇の代理として伊勢神宮天照大御神にお仕えする斎王が伊勢へ向かう前に身を清められたところです。野宮は嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられ、黒木の鳥居と小柴垣によって俗世と切り離された聖地として扱われていました。斎王は天皇の即位のたびに交代が行われ、皇族の未婚の姫君の中から卜占によって選ばれていました。とはいえ、母親の身分の低い者や帝の寵愛の薄い者が選ばれることが多く、非常に「俗っぽい」占いだったようです。彼氏をつくってもいけない、次の天皇の即位まで都に戻ってこれない、そんな斎王になった娘の大変さを考えると、卜占によって神に選ばれる名誉な役割というよりは、出来れば回避したい大変な役割だったようです。禊を行う野宮の場所は斉王が交代するたびに定められ、現在野宮神社が建っている場所が使われたのは嵯峨天皇の息女・仁子内親王斉王に選ばれたときが最初とされています。





朱塗りの鮮やかな社殿には野宮大神(=天照大御神)が祀られています。



 飛鳥時代、天武天皇の治世にはすでに確立されていたとされる斎王制度天武天皇の皇女・大来内親王から継続されるようになり、鎌倉時代末期まで約660年間続けられました。選ばれた斉王は下は2歳から上は28歳までの64人に及びましたが、南北朝の動乱の時代にしだいに衰退していき、結局は断絶してしまいました。「源氏物語」の「賢木の巻」に書かれている野宮神社は、斎王の母である六条の御息女光源氏への想いを絶ちきろうと、娘と共に禊斎の日々を送ったという悲恋の場所だったのですが、現在は逆に「縁結びの神」として有名になっています。ちなみに縁結びの御利益をもたらしてくれるのは、社殿の向かって左側に鎮座している野宮大黒天です。





境内の奥には見事な苔庭がありました。鮮やかな緑が目に映えます。


アクセス
・阪急電車「嵐山駅」下車、北へ徒歩15分
・嵐電「嵐山駅」下車、北へ徒歩7分
野宮神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
野宮神社 -源氏物語の宮-




京都ご利益めぐり
京都くまなく歩き隊
ナツメ社

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神戸・有馬天神社。

2007年06月15日 | ■神戸市北区
学業成就・鬼門除け

有馬天神社

(ありまてんじんじゃ)
神戸市北区有馬町1402





湯煙湧き立つ境内。有馬温泉の観光ガイドなどによく使われる風景。


〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざね)



 JRの駅には様々なパンフレットやチラシが並べられています。真っ青な空と真っ赤な幟、それを包み込む白い湯煙。「神戸休暇へ。」と題された企画のパンフレットの表紙を飾っていたのが、有馬温泉の中心地で1000年以上の長い歴史を刻んできた有馬天神社でした。この写真に収められた美しい景色に心魅かれて足を運んでみることにしました。





妙見寺の立つ落葉山越しに映える青空。



 神戸電鉄「有馬温泉駅」を下車し、有馬川沿いに少し上がると土産物屋さんや観光案内所が立ち並ぶ太閤通。その太閤通の奥にあるバス乗り場の向こうを左に曲がって湯本坂を少し登ったところに昔懐かしい円筒の赤い郵便ポストが建っています。そこの小道を左に曲がると件の風景に出会うことが出来ます。真っ青な空と真っ赤な幟、一面に立ちのぼる白い湯煙。ここが有馬天神社です。有馬天神社は、979(天元2)年4月に京都の北野天満宮より御祭神・菅原道真公を勧請したのが起こりだといわれています。大洪水や火災、地震などで何度もダメージを受けてきた有馬温泉の鬼門の方角を治める守護神として、厄除けの神社として人々の崇敬を集めてきました。

 平安時代後期の1097(承徳元)年に起きた大洪水で温泉街が荒廃した際には有馬天神社も同様に荒廃していたと見られますが、鎌倉幕府が創建された1192(建久3)年の秋に再建されます。このとき、境内の隣には蘭若院阿弥陀坊という寺院が建立され、ここの住職によって有馬天神社の奉祀が続けられたと伝えられています。阿弥陀坊は、火災などをくぐり抜けて明治時代まで続きましたが、残念ながら1872(明治5)年には無住の寺となって廃寺となってしまいました。





98度の温泉が湧き、常に激しく湯煙を上げている天神泉源。



 有馬天神社と切っても切れないのが、絶えず元気良く湯煙を噴出し続ける天神泉源有馬温泉を代表する泉源である天神泉源が掘られたのは戦後まもなくの1948(昭和23)年のこと。有馬温泉自体の湧出量の低下を受けて新たな泉源の掘削が行われた結果、みごと有馬天神社境内の地下約200mから常時98度の温泉が噴出しました。以来有馬温泉の豊かな湯量を支える代表的な泉源として、観光客の旅の疲れを癒し続けています。天神泉源の泉質は含鉄ナトリウム塩化物強塩高温泉で、神経痛や疲労回復・リウマチ・慢性消化器病・慢性婦人病などに利くそうです。この温泉は地中では無色透明ですが、湧き出して空気に触れると酸化して赤錆色に変わるとのことでした。





有馬天神社の社殿。温泉独特の硫黄の匂いに包まれています。


アクセス
・神戸電鉄「有馬温泉駅」下車、南へ徒歩5分
有馬天神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


有馬温泉 るるぶグラフにっぽんの温泉

JTB

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神戸・須磨寺(上野山福祥寺)。

2007年06月13日 | ■神戸市須磨区


上野山福祥寺

(じょうやさん ふくしょうじ)
神戸市須磨区須磨寺町4-6-8

神仏霊場兵庫 豊饒の道・第7番札所
KOBE七福神・福禄寿尊
ほか


通 称
須磨寺





〔宗派〕
真言宗

〔御本尊〕
聖観世音菩薩坐像
(しょうかんぜおんぼさつざぞう)


 JR・山陽須磨駅から徒歩10分、山陽須磨寺駅からは駅前の商店街を抜けて5分ほど歩いたところにあるのが真言宗18大本山の一つ・須磨寺です。「須磨寺」というのは人々に親しまれている通称名で、正式な呼び名は上野山福祥寺といいます。須磨を象徴する寺院ですが、少しも威圧感や気取ったところが全くなく、青々とした木々に溢れた山裾に広がる境内は清々しい空気に満ち溢れています。この須磨寺は、平安時代初期の886(仁和2)年に光孝天皇の勅命を受けた聞鏡上人によって開かれました。御本尊の聖観世音菩薩坐像は、平安時代初期に和田岬沖で不思議な光を放っているところを発見され、漁師の投げ入れた漁網によって引き揚げられたという伝説が残されている仏像で、近くの会下山北峯寺に安置されて霊験あらたかだと評判になっていたものでした。





平敦盛公と熊谷直実公の名場面を再現した「源平の庭」(左)と、石段の上の山門(右)。


 
 1169(嘉応元)年には、平氏政権と良好な関係を保っていた源頼政公によって寺領の寄進を受け、「房舎十二宇あり」と伝えられる偉容が整えられましたが、交通・軍事上の要衝として重要視されていた須磨に立地していたために源平争乱の時には一ノ谷の戦いなど激しい戦闘の兵火に巻き込まれ、寺院の縁起や記録類など重要な資料が混乱の中で失われてしまいました。境内には源平ゆかりのものが多く、平敦盛公と熊谷次郎直実公の一騎打ちのシーンを再現した「源平の庭」や、平敦盛公の首を洗い清めたという首洗池源義経公が平敦盛公の首実検をするために腰掛けたという腰掛松など様々な史跡が残されています。また、宝物館には平忠盛公が鳥羽上皇から拝領し、平忠盛公の孫である平敦盛公が愛用したという青葉の笛が展示されています。室町時代にはこの笛をみるための「笛見料」をとっていたという商魂のたくましさも伝えられています。





1602年の「慶長の再興」の時に建立された本堂。



 その後も須磨寺は何度も存亡の危機を迎えるほどの打撃を受けながら、そのつど復興を遂げてきました。1360(延文5)年には大火事が起こって仏像や伽藍の大半が焼失、その後半世紀をかけて再建が行われましたが、1427(応永34)年には赤松氏細川氏の争いに巻き込まれて炎上。この時には本堂と惣門を残して境内がほとんど破壊されるという大打撃を受けました。その兵火からも復興された須磨寺に、今度は地震が襲い掛かります。1596(文禄5)年7月に発生し、伏見城を倒壊させた事でも有名な慶長大地震の際には本堂が倒壊するなどの被害を受けます。この時も豊臣秀頼公と片桐且元公の尽力によって1602(慶長7)年に再興されました。この時期には15の塔頭が整備され、多くの参拝客が訪れて賑わいを見せたといわれています。





頭を撫でると智恵を授かれるという福禄寿尊(左)と、源義経公腰掛の松(右)。



 その後の須磨寺は、芝居小屋やカラクリ小屋、茶屋や料理屋などが数多く立ち並び、非常に賑わっていましたが、江戸時代後期に起きた山崩れによって本堂や大師堂、仁王門だけを残して大破。このため、かつて7堂12房の規模を誇った須磨寺は完全に荒廃してしまいましたが、明治時代に入って須磨寺再興を求める声が高まった事から相次いで数々の堂塔が再建され、現在に至ります。名刹として名高い須磨寺は様々な霊場巡りのコースに組み込まれており、冒頭でご紹介した神仏霊場神戸七福神霊場のほかにも須磨寺真言宗十八本山霊場新西国霊場摂津西国霊場摂津88ケ所霊場福原西国霊場神戸六地蔵霊場神戸十三仏霊場など、数多くのコースの札所として崇敬を受け、親しまれている寺院でもあります。





「敦盛塚」。平敦盛公の首級を葬ったといわれています。


アクセス
・JR「須磨駅」下車、北へ徒歩10分
・山陽電車「須磨駅」下車、北へ徒歩10分
・山陽電車「須磨寺駅」下車、北西へ徒歩5分
須磨寺地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト



新西国霊場法話巡礼 (法話と札所案内)

朱鷺書房

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神戸・雪国神社(有馬温泉)。

2007年06月07日 | ■神戸市北区
商売繁盛・無病息災・家内安全

雪国神社

(ゆきぐにじんじゃ)
神戸市北区有馬町




御祭神にちなんだ手描きのキツネの絵がほのぼのとした気分にしてくれます。


〔御祭神〕
雪国稲荷大明神
(ゆきぐにいなりだいみょうじん)



 有馬川沿いの杖捨橋の手前、湯本坂と交差する角に可愛い手書きのキツネ(お稲荷さま)が描かれた小さなお社があります。「元気いっぱい 有馬のまち そこの小さな 雪国神社 商売繁盛 無病息災 家内安全 たちよる 価値は ここにあり 有馬に来たら まずここから」というメッセージとともに温泉客を迎えてくれるこの神社は雪国神社といいます。








 1907(明治40)年のこと、ここより南東に位置する射場山の中腹に鎮座する有馬稲荷神社の宮司・児玉繁太夫氏が稲荷大明神の神託を受け、上ノ町と呼ばれる町の入口にあたる場所に雪国稲荷大明神を勧請してお祀りしたのが始まりといわれています。社殿には時国大明神石名大明神をともにお祀りしています。





 
狭い境内の左奥にある祠(左)と、雪国稲荷大明神を祀る社殿(右)。


アクセス
・神戸電鉄「有馬温泉駅」下車、東へ徒歩10分
雪国神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


有馬温泉 るるぶグラフにっぽんの温泉

JTB

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神戸・関守稲荷神社。

2007年06月04日 | ■神戸市須磨区
五穀豊穣・産業興隆

関守稲荷神社

(せきもりいなりじんじゃ)
神戸市須磨区関守町1-3




登り坂の途中にある鳥居。脇には「須磨関屋跡」の石碑があります。


〔御祭神〕
稲倉魂神
(うかのみたまのかみ)



 夏になると多くの海水浴客で賑わう神戸・須磨海岸。海のすぐそばまで山が迫り、遠く淡路島も望むことが出来る須磨独特の景観はとても美しいものがあります。そんな須磨の交通の要、JR須磨駅山陽須磨駅から国道2号線沿いに東へ歩いてすぐ、千守交差点の手前に村上天皇を祀った村上帝社があります。その境内の西沿いの道を北に抜け、山陽電車の高架をくぐって少し坂道を登ると、左手に石段と真っ赤な鳥居が見えてきます。ここが関守稲荷神社です。





鳥居をくぐり、突き当たりを右に折れると社殿が鎮座しています。



 今でこそ風光明媚な観光地・住宅地として人気の高い須磨ですが、古代より畿内と西国とをつなぐ交通と軍事の要衝として地政学上非常に重要視された土地で、摂津国の南西の隅にあたる須磨には摂津関が設置されていました。いわゆる須磨関で、「天下の三関」と呼ばれた伊勢・鈴鹿関、美濃・不破関、越前・愛発関に次ぐ位置にランクされていたようです。天智天皇の治世の7世紀中頃に設置され、789(延暦8)年に廃止されたという須磨関の置かれていた場所については様々な説があります。1868(明治元)年にここから少し南西の所にある現光寺の裏手から発掘された石碑の一面には「長田宮」、もう一面には「川東左右関屋跡」と彫られていました。この石碑に彫られている「川」とは現在は暗渠になっている千森川のことで、川沿いの地にあたる現光寺境内近辺に関屋があったのではないかと考えられています。ほかにも関守稲荷神社辺りが関屋跡だという説や、多井畑にあった陸関という説も残されていますが、明確な位置は分かっていません。





現光寺の裏から発見された石碑(左)と、源頼昌卿の名歌が彫られた歌碑(右)。



 関守稲荷神社の境内には、須磨を題材にして詠まれた歌を刻んだ歌碑がいくつも建てられています。中でも社殿の脇に1935(昭和10)年に建てられた歌碑には、百人一首にも撰ばれた平安時代中期の歌人・源兼昌卿の名歌が彫られています。ほかにも、平安末期を代表する歌人・藤原俊成卿と藤原定家卿親子の歌碑が1998(平成10)年に建てられ、雅な香り漂う境内となっています。


「淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝覚めぬ 須磨の関守」 源 兼昌

「桜花 たが世の若木 ふり果てて 須磨の関屋の 跡うづむらん」 藤原定家

「聞き渡る 関の中にも 須磨の関 名をとどめける 波の音かな」 藤原俊成





境内には、豊川大明神や車折大神など、多くの神々が祀られています。


アクセス
・JR「須磨駅」下車、北東へ徒歩5分
・山陽電車「須磨駅」下車、北東へ徒歩4分
関守稲荷神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸・西出町鎮守稲荷神社。

2007年06月02日 | ■神戸市兵庫区
商売繁盛・交通安全

西出町鎮守稲荷神社

(ちんじゅいなりじんじゃ)
神戸市兵庫区西出町13



震災でダメージを受けましたが、無事復興されました。


〔御祭神〕
宇賀魂命
(うかのみたまのみこと)



 JR神戸駅から国道2号線沿いに西へ5分ほど歩いたところに、地元の人々から「ちぢみさん」の愛称で親しまれている鎮守稲荷神社が鎮座しています。鳥居の脇に大きな看板が立てられているので、建物の間に建っているにもかかわらず意外と目に付く神社です。




うっそうと茂る木々の奥に鎮座する社殿。



 稲荷鎮守神社は、平清盛公が兵庫津の整備を進めるにあたって工事の安全を祈願して創建したという説もありますが、はっきりとしたことは分かっていません。ただ、少なくとも18世紀末の寛政年間には鎮座していたといわれており、境内には「文政七稔歳次甲申十二月」つまり1824(文政7)年に兵庫津ゆかりの高田屋嘉兵衛によって寄進された石灯篭が残されています。境内には安産守護のご利益があるといわれる日向社と浄水守護の白龍社が鎮座しています。




高田屋嘉兵衛が奉納した石灯籠。



 鎮守稲荷神社の鳥居の脇には、平家の若き武者を供養する五輪塔が建てられています。1184年2月に神戸の市街地で行われた源氏と平家の激戦。東は生田の森、西は一の谷の間で展開された両軍入り乱れての戦闘では、平清盛公の異母弟である平経盛公の二男で若干18歳の若武者・平経俊公も平知盛公の軍勢に属して奮闘しました。

 しかし「鵯越の逆落とし」と言われる源義経公の奇襲攻撃によって両軍の均衡は崩れ、敗軍の混乱の中で西出の浜まで落ちてきた平経俊公は、源範頼公の郎党・名和太郎たちの追撃に遭い、平清房公・平清定公とともに3騎で立ち向かって壮絶な討ち死にを遂げます。

 そんな平経俊公の御魂を慰めるために14世紀の南北朝の時代に建てられたのが、鎮守稲荷神社にある五輪塔だといわれています。この塚にはお参りすれば子どもの夜鳴きを鎮めるご利益があると言われており、今でもお参りに来る親が絶えないそうです。




平経俊公を供養する五輪塔。



アクセス
・JR「神戸駅」より南西へ徒歩5分
 鎮守稲荷神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放