落柿舎
(らくししゃ)
京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20
落柿舎の前には水田が広がります。
蕉門十哲・向井去来宅
京都・嵐山の小倉山が醸し出す四季折々の風景は歌人を誘うのでしょうか。「奥のほそ道」で有名な江戸時代の俳人・松尾芭蕉の門人で「蕉門十哲」のひとりとして名高い向井去来が閑居した落柿舎も、常寂光寺や二尊院などが立ち並ぶ小倉山の麓に軒を連ねています。
向井去来は1651(慶安4)年、肥前国(今の長崎県)で儒医を営む父・向井玄升の二男として生まれました。本名を向井平次郎といい、1658(万治元)年に父とともに一家で京都へ上って聖護院に居を構えます。向井去来も父の道を継ぐべく医学や天文を学ぶことになりますが、五条坂の遊女・可南との出会いがその将来を大きく変えることとなります。
向井去来が在宅のときは、庵の壁に蓑と笠が掛けられていました。
可南と所帯を持ってからの向井去来は、深く俳諧の道に傾注していくようになります。そして嵯峨野の美しい景色に惹かれた向井去来は、庵を結んで俳諧に打ち込んでいきます。この庵が落柿舎で、1685(貞享2)年に建てられたといわれています。
「落柿舎」という名前は、ある商人との間で庭にあった40本もの柿の木の実を売る契約をして代金を受け取ったものの、その夜に都を襲った台風のために全てが落ちてしまったというエピソードから1689(元禄2)年頃に付けられたそうです。ちなみに向井去来はこの代金をすべて返却し、商人をたいへん感激させたそうです。
本庵の奥にある次庵。この脇にも柿が植えられています。
落柿舎には師匠である松尾芭蕉もたびたび訪れ、1691(元禄4)年4月にはここで「嵯峨日記」を著したといわれています。向井去来が師匠・松尾芭蕉と出会ったのは「嵯峨日記」から遡ること7年前の1684(貞亨元)年のこと。上方へと向かう野ざらし紀行の道中、蕉門十哲の一の弟子である宝井其角の紹介で交流が始まったといわれています。
松尾芭蕉歌碑。「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」
向井去来の過ごした落柿舎は今とは違う場所にあったそうですが、1770(明和7)年にはすでに廃されていたようです。現在の落柿舎は、1895(明治28)年に京都の俳人・井上重厚によって再建されたもので、売却されようとしていた弘源寺の旧捨庵を買い受けて落柿舎として再建したものです。今でこそ40本もの柿の木が植えられるスペースはありませんが、もともとの落柿舎にはそれだけの広さがあったと考えられています。
落柿舎の北の弘源寺墓苑にある向井去来の墓。
アクセス
・JR「嵯峨嵐山駅」下車、東へ徒歩20分
・嵐電「嵐山駅」下車、北東へ徒歩15分
・トロッコ「嵐山駅」下車、北へ徒歩5分
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拝観料
・200円
拝観時間
・9時~17時
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