神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

滋賀・安土城址。

2009年09月30日 | ◆滋賀県
戦国時代

安土城址

(あづちじょうあと)
滋賀県蒲生郡安土町大字下豊浦



現在の安土城。緑に包まれた、織田信長公の夢の跡です。


〔代表的城主〕
織田信長公
(おだのぶなが)


 「安土の山を、丸ごとひとつ、城にする」 …実際にこう言ったかは分かりませんが、山全体を石垣で固め、壮大な天主を山頂に建てるという構想は、それまでの日本の城郭には見られない斬新な発想に基づくもので、以降に築城された近世城郭の原点となりました。その城郭の名は、安土城。外観は5層、内部は地上6階・地下1階という構造で、イエズス会の宣教師・ルイス=フロイスをして「このような豪華な城は欧州にも存在しない」といわしめた豪華絢爛な安土城は、天下統一に邁進する織田信長公の夢を象徴する、まさに「覇王の城」だったのです。




 
真っ直ぐに伸びる幅6mの広さの大手道(左)と伝羽柴秀吉邸跡(右)。



 それまで岐阜に本拠を置いていた織田信長公は、天下統一事業を象徴する壮大な城の建築に着手します。意中の地は、瀬戸内海に面して国際港湾都市・堺とも近い、交易・経済の中心であった大坂だといわれています。しかしながら当時は石山本願寺が頑強に抵抗を続けていたため、琵琶湖の水運を利用する事でいち早く京都に駆けつけられ、加えて北陸街道から京都への要衝に位置する安土の地に天下布武の象徴である新城を築こうと考えたと思われます。それに先立ち、1571(元亀2)年には明智光秀公に琵琶湖岸の坂本に坂本城を築城させて南近江を統治させ、さらに2年後の1573(天正元)年には、浅井攻めに功のあった羽柴秀吉公に北近江を与えて長浜城を築かせ、北陸への抑えとさせました。こうして琵琶湖の南北に最も信頼する2将を配置して備えを万全にしたのち、安土山への築城構想を実現化するために行動を開始します。




 
天主台の石垣(左)と礎石(右)。絢爛豪華な天主閣が建てられていました。



 1575(天正3)年に嫡男・織田信忠公に家督を譲った織田信長公は、翌年1月には重臣・丹羽長秀公を築城の総普請奉行に任じ、自身は身の回りのものだけを運ばせて安土に乗り込み、工事の進捗を督励しました。領国内の大工・職人を集め、各地から膨大な資材を集結させて日夜突貫工事が続けられた結果、天下無双の巨城・安土城はわずか3年後の1578(天正6)年にまず天主の完成を見ます。世界で最初の木造高層建築といわれるこの天主の高さは46mあったといわれ、周囲を湖水に囲まれた標高196mの安土山に山頂に聳え立つ絢爛豪華な風景は、人々に時代の変革を感じさせたに違いありません。

 麓から山頂へは、それまでの常識を破る幅6メートルの広さの直線状の大手道が築かれ、その両脇には羽柴秀吉公や前田利家公など織田家重臣の屋敷が並び、本丸には天皇の行幸を目的に建てられたと見られる清涼殿様式の本丸御殿が築かれていました。全体の工事は天主完成後も引き続き行われ、南西に続く百々橋口の途中には見寺が建立されるなど、すべての城郭が完成したのはさらに3年の年月を要したといわれています。




 
天主の近くにある織田信長公の廟所(左)と旧見寺跡(右)。



 残念ながら、当時の建築技術の粋を集めて築かれた名城はあっけない幕切れを迎えます。1582(天正10)年に本能寺の変が勃発、当時留守居役として城を守備していた蒲生賢秀公は主君の突然の悲報に接し、本拠地である日野城(滋賀県蒲生郡日野)へと撤退します。空き城となった安土城には明智光秀公の家臣である明智左馬助秀満公が入りましたが、間もなく起きた山崎の戦での敗戦を受けて坂本城へと撤退します。この後、突如起こった火災によって安土城は炎上し、威容を誇り織田家の栄華の象徴であった名城はまさに夢幻の如く地上から姿を消すこととなりました。

 この火災にはいくつかの説があり、「明智秀満軍が撤退する際、城に火を放った」という説、「明智秀満軍が撤退した後に安土入りした織田信長公の三男・織田信雄公が明智の残党狩りのために城下に火を放ち、その火が天主に延焼してしまった」という説、あるいは「安土城の財宝の略奪目的で乱入した土民が放火した」という説が残されています。現在では、土民が火を放ったという説が有力視されています。しかしながら、この時焼失したのは天主や本丸付近が中心で、後継者を決めるために開かれた清洲会議ののち、嫡孫である織田秀信公が二の丸に入城したという記録も残っていることから、総石垣造りの安土城はまだ城郭としての機能を十分果たしていたと考えられます。その後天下統一を果たした羽柴秀吉公は、大坂に壮大な城を築いて本拠を移したために再び安土に天主が築かれることはなく、近江の抑えとして1585(天正13)年に養子・豊臣秀次公が八幡山城を築城したことから、安土城は廃城の措置が採られてその役目を終えることとなりました。織田信長公が天下統一の要として築いた安土城は、着工からわずか10年の間に激動の戦国の世を象徴するように忽然と歴史の表舞台から姿を消す運命を辿りました。




 
百々橋口へと続く道の途中にある見寺の三重塔(左)と仁王門(右)。


アクセス
・JR琵琶湖線「安土駅」下車、北東へ徒歩30分
安土城址地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:500円、小人:100円

拝観時間
・9時~17時

関連サイト
  安土城天主・信長の館ホームページ

  映画「火天の城」公式ホームページ


復元安土城 (講談社学術文庫)
内藤 昌
講談社

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大阪・法案寺。

2009年09月29日 | ◆大阪府


志宜山 法案寺

(しぎさん ほうあんじ)
大阪市中央区島之内2-10-4

摂津国八十八ヶ所霊場・第1番札所
大阪七福神・弁財天

通 称
日本橋聖天
(にほんばししょうてん)



道頓堀から1本北に入ったところに、朱塗りの山門が立っています。


〔宗派〕
高野山真言宗 準別格本山

〔御本尊〕
大聖歓喜天像
(だいしょうかんぎてん)


 法案寺の創建は非常に古く、推古天皇が皇位に就いていた6世紀末から7世紀初頭にかけての時期に開かれたといわれています。当時は、摂政として活躍していた聖徳太子が、仏教の受け容れを巡って対立していた排仏派の物部守屋公を打ち破った直後の時期でした。593(推古天皇元)年には「物部守屋公を破る事が出来れば仏塔を造り仏法の弘通に努める」と手彫りの四天王像に戦勝祈願をした聖徳太子が、その約束を果たすために四天王寺の建立を開始していることから、法案寺もこの頃に創建されたと考えられます。





「志宜大将」の扁額が掲げられた楠稲荷大明神(左)と、美しい松(右)。



 法案寺は摂津国の志宜野に建てられたことから「志宜山」という山号が付けられ、聖徳太子がこの地で仏法や経典を広めるための公案をされた事から寺号を「法案寺」としました。創建の地・志宜野は現在の法円坂町付近のことで、法案寺の「法案」が時代を下るにつれて「法眼」、そして「法円」と転じて今の「法円坂」という地名になったといわれています。

 その後は時の移ろいと共に衰微していきましたが、室町時代に入った応永年間(1394~1428年)には、長い対立の末に南北朝合一が行われた「明徳の和約」の際の天皇・後小松天皇の第1皇子だった称光天皇が再興を発願。その勅命を受けた松永政廣公が尽力し、四天王寺と並ぶほどの大規模な伽藍が再建されて往時の華やかさを取り戻すことが出来ました。この時の伽藍の広大さは、法案寺の第3世・正教上人の帰依を受けた蓮如上人法案寺の敷地を借りて石山本願寺を建立したという記述が「天文日記」にあることでも推し量ることが出来ます。





山門をくぐった正面にある本堂。



 法案寺は、戦国時代に本願寺が石山から退去した直後に起こった火災で類焼して灰燼に帰し、その後1583(天正11)年に大阪城築城に伴って強制移転され、同様に焼失した生玉明神(現在の生国魂神社)と共に現在の天王寺区生玉町に移転しました。それ以来、法案寺生国魂神社の別当寺となり、神社にあった9つの官寺を束ねる立場にありました。江戸時代には幕府から寺領300石を与えられ、歴代の大坂城代が帰依したこともあったので、法案寺は隆盛していきました。

 明治時代に入ると、法案寺は1879(明治12)年に新政府によって出された神仏分離令に伴って全国に激しく吹き荒れた廃仏棄釈のあおりを受け、大阪府の命を受けて寺領を失うこととなり、現在地である大阪市中央区島之内に移転してきました。1883(明治16)年6月には復興されましたが、残念ながら境内は往時のような規模に復することは叶いませんでした。その後も、1945(昭和20)年3月には米軍による大阪大空襲で焼失するなど受難が続きますが、聖観音立像大聖歓喜天は疎開していて焼失を免れ、戦後復興した堂宇に戻されて人々の崇敬を集めています。





「聖天さま」を象徴する巾着の形の香炉(左)と弁天堂(右)。



 本堂には平安時代末期の作といわれる聖観音立像が安置されています。聖観音は十一面観音とも呼ばれていることから、この立像も「十一面さん」と呼ばれており、元旦から1週間の間のみ開扉されます。さまざまな資料では御本尊は薬師如来だとされていますが、お寺の方にお伺いしたところ、この「十一面さん」の奥に安置されている秘仏・大聖歓喜天が御本尊だそうです。大聖歓喜天は「日本橋の聖天さん」と呼ばれ、「貧を転じて福を与える神」として広く信仰を集めていますが、非常に人間臭い仏様のため願い事が成就した際にはきちんと御礼参りをしなくてはならないなど、実際に人と接する時のような礼儀作法をわきまえて向き合わなくてはなりません。





山門をくぐってすぐ右にある水掛け不動尊。


アクセス
・大阪市営地下鉄千日前線・堺筋線「日本橋駅」下車、北東へ徒歩5分。
・近畿日本鉄道難波線「日本橋駅」下車、北東へ徒歩5分。
法案寺地図   Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  (※御朱印は300円)

拝観時間
・7時30分~16時

公式サイト



全国七福神めぐり―七難をさけて七福を得る
工藤 寛正,みわ 明
東京堂出版

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京都・安井金比羅宮。

2009年09月25日 | ◇京都府 -洛東
悪縁切り・良縁結び・海上安全

安井金比羅宮

(やすいこんぴらぐう)
京都市東山区東大路松原上ル下弁天町70

通 称
安井の金比羅さん



東大路通沿いに立つ鳥居。「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」として有名です。


〔御祭神〕
崇徳天皇
(すとくてんのう)
大物主神
(おおものぬしのみこと)
源頼政公
(みなもとのよりまさこう)


 東山を訪れた方は、一度は東大路通沿いに建つ「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」という幕を掲げた鳥居を目にしたことがあると思います。この神社は安井金比羅宮。もともとこの辺りは藤や山吹の花が咲く名勝の地だったそうで、668年から671年の頃には美しい風景が広がるこの地を気に入った藤原鎌足卿が「藤寺」という寺院を建立し、藤原一門の繁栄を祈願したといいます。

 安井金比羅宮の御祭神である崇徳天皇は、5歳という幼齢で1123(保安4)年に皇位に就きました。しかし幼帝を擁立することで強大な権力の維持を目論んだ曽祖父・白河法皇に実権を握られ、あげく1142(永治2)年には24歳という若さで異母弟・近衛天皇に譲位して退位せざるを得ない状況に追い込まれました。退位後も父・鳥羽上皇が院政を敷いて権力を掌握し続けたため、崇徳天皇は鬱々とした日々を送ります。そんな日々に潤いを与えてくれたのが、寵妃・阿波内侍です。1146(久安2)年、崇徳上皇藤寺があった美しいこの地に彼女を住まわせ、たびたび行幸して癒しの時を過ごされていました。しかし、そんな時間も長くは続かず、近衛天皇の崩御後に皇位に就いた後白河天皇による圧迫により、次第に追い詰められていきます。





鳥居から長く続く参道の途中には、「絵馬の道」の石碑があります。



 1156(保元元)年、崇徳上皇はこの状況を打開しようと武力による決起を図りますが、かねてから警戒を強めていた後白河天皇方の奇襲攻撃を受けて敗北(保元の乱)。この結果崇徳上皇は讃岐国に流されることとなり、阿波内侍との別離を余儀なくされます。上皇は自筆の尊影を彼女に下賜して讃岐へと下り、1164(長寛2)年に悲運のうちに無念の死を迎えます。悲報に接した阿波内侍は出家して尼となり、上皇の尊影を眺めながらひたすら冥福を祈ったといわれています。その後、この地に夜な夜な怪しい光が現れたことから、真言宗の名僧・大円法師がここを訪れたところ崇徳上皇の御霊が現れたため、建治年間(1275年~1277年)になって御霊鎮護のための光明院観勝寺が建立されましたが、残念なことに室町時代には応仁の乱の兵火に焼かれて荒廃してしまいました。




 
悪縁を切り良縁を結ぶといわれる「縁切り縁結び碑」。



 後白河法皇の娘・亮子内親王は1200(正治元)年、太秦の安井の地にあった自らの御所に堂宇を建立し、平家打倒の軍を挙げて敗死した異母弟・以仁王の遺児である道尊僧正を開基とする寺院・蓮華光院を開きました。この寺院は、1695(元禄8)年に光明院観勝寺のあった場所に移転されますが、崇徳上皇の想いの込められた地に移されるということで、上皇にゆかりの深い讃岐国の金刀比羅宮を鎮守社として勧請し、御祭神である大物主神崇徳上皇をお祀りすることで亡き上皇の御霊を慰めようとしました。この際、以仁王を支えて挙兵した功績を称え、源頼政公の御霊も合祀されることとなりました。人々は、鎮守社にちなんで「安井の金比羅さん」と呼び、厚い崇敬を寄せたということです。

 その後、明治時代には廃仏毀釈運動のために蓮華光院は廃寺に追い込まれ、鎮守社のみが「安井神社」と改称されてその命脈を保ちます。戦後、国家神道が廃されて神道の宗教法人となった際に「安井金比羅宮」と改称され、現在に至っています。





拝殿(左)と、日本初の絵馬ギャラリーである「金比羅絵馬殿」(右)。



 讃岐に流された崇徳上皇は、金刀比羅宮に参籠されて一切の情欲を断ち切り、ひたすら仏道修行に励んだといわれています。それにちなみ、ここは「断ち物の祈願所」としても信仰されてきました。男女の縁だけでなく、病気やギャンブルなど、全ての悪縁を断ってくれるという御利益があるそうです。さらに、流罪となって阿波内侍との悲しい別れを経験された上皇が、優しい気持ちで幸せな男女の縁を守り、それを妨げようとする全ての悪縁をも断ち切ってくれるそうです。境内にある「縁切り縁結び碑」には、ここを訪れた人々の悲痛なまでの願いが記された御札である「形代」が数多く貼り付けられていますが、悪意を持って男女の離別を望む祈願は聞き届けられることはなく、幸せを望む真っ直ぐな想いだけがその御利益に授ることが出来ます。





境内には、天満宮(左)や厳島神社(右)など摂社が立ち並びます。


アクセス
・JR「京都駅」より京都市バス206系統にて「東山安井」バス停下車、南へ徒歩1分
・京阪電鉄「祇園四条駅」下車、南東へ徒歩20分。
安井金比羅宮地図  【境内MAP】 Copyright (C) 2009 google

拝観料
・境内無料  ※絵馬館は拝観料が必要。(大人:500円、高校生以下:400円、幼児無料)

拝観時間
・常時開放 (絵馬館は10時~16時、月曜・盆・年末は休み)

公式サイト



縁切り神社 (幻冬舎文庫)
田口 ランディ
幻冬舎

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京都・目疾地蔵(仲源寺)。

2009年09月23日 | ◇京都府 -洛中


寿福山 仲源寺

(じゅふくざん ちゅうげんじ)
京都市東山区四条通大和大路東入ル祇園町東側585-1

洛陽三十三所観音霊場・第16番札所

通 称
目疾地蔵
(めやみじぞう)



慌しく人々が行き交う四条通。その一角に「目疾地蔵」の境内があります。


〔宗派〕
浄土宗

〔御本尊〕
地蔵菩薩像
(じぞうぼさつぞう)


 華やかな京の雅を目で、そして肌で感じることの出来る街・祇園。多くの観光客が、その祇園花見小路や目当ての寺社を目指して足早に通り過ぎていく四条通の商店街の中に、小さな寺院があることをご存知でしょうか。その寺院の名は「仲源寺」。眼病平癒の霊験があるといわれ、人々からは「目疾地蔵さん」と呼ばれて崇敬を集めている浄土宗の寺院です。

 仲源寺は、平安時代を代表する仏師・定朝が1022(治安2)年に四条橋の東北の地に祠を建て、地蔵菩薩を安置して祀ったのが起源だといわれていますが、実は仲源寺は当初から眼病平癒の「目疾(めやみ)地蔵」の寺院だったわけではありません。以前は、地蔵堂が建てられた傍を流れる鴨川は大雨のたびに洪水を起こし、多くの死者を出すなど甚大な被害をもたらしていました。この鴨川の荒れ狂う激流に悩む人々が大雨の際に「雨が止みますように」と地蔵菩薩に祈願していたため、当初は「雨止み地蔵」と呼ばれていたのです。





正面の本堂には「眼病平癒」で有名な地蔵菩薩坐像が祀られています。


 
 この「雨止み地蔵」伝説にはいくつかの説があります。地蔵菩薩像をお祀りする祠が寺院となったのは、1228(安貞2)年のこと。鴨川の治水対策の責任者とも言うべき防鴨河使(ぼうかし)についた勢多判官・中原為兼卿が、地蔵菩薩の霊験に報いるために堂宇を建て、朝廷から「仲源寺」の寺号が下賜されたといわれています。「」を「」から救った中原為兼卿の功績をたたえる意味で、「中原」のそれぞれの漢字に「にんべん」と「さんずいへん」を附けて名付けたとも言われています。

 中原為兼卿が仲源寺を建立したきっかけには諸説あって、「鴨川の氾濫の際に地蔵菩薩の霊告を受けて洪水被害を防ぐことが出来たため、感謝の念を込めて堂宇を建てて地蔵菩薩像を祀った」という説や、「大雨が降り続いて洪水が起こった際に地蔵菩薩に一心に祈願したところ、雨が止んで水も引いていったことから報恩のために堂宇を建てた」という説、あるいは「洪水の際、鴨川で溺れていた人々を地蔵菩薩が救う姿を見てその霊験に触れ、報恩のために堂宇を建てた」など、様々な伝説が残されています。当時は有効な治水対策もなく、強大な権力を誇った白河法皇でさえ「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と匙を投げていたほどなので、鴨川が大雨で氾濫した際には神仏に祈願するしか方法はなかったことを考えると、仲源寺の建立は治水・防災対策としての公共事業の側面もあったと思えてなりません。





参道左手に祀られている地蔵尊(左)と、本堂の右側にある大黒天(右)。


 
 「あめやみ(雨止み)地蔵」と呼ばれていた仲源寺は、いつの頃からか「めやみ(目疾)地蔵」と呼ばれるようになり、眼病平癒のご利益があるとして人々の厚い崇敬を集めていきますが、これにも伝説が残されています。昔、この近くに熱心に仲源寺の地蔵菩薩を信仰している老夫婦が住んでいました。不幸なことに、このお爺さんは重い眼病を患って視力を失ってしまいます。お婆さんがこの病の平癒を一心に祈ったところ、霊夢に地蔵菩薩が現れ「目の病は汝の宿業ゆえ。私が汝を救おう。」と告げて薬を授けました。地蔵菩薩の言葉に従って境内の阿伽水に浸して洗ったところ、眼病は癒えて視力が回復したそうです。喜んだ老夫婦がお礼参りをしたところ、地蔵菩薩の右目からは涙が流れ、真っ赤になっていたそうです。身代わりとなった地蔵菩薩の評判は次第に拡がり、「目疾地蔵」と呼ばれて眼病を患う人々の崇敬を集めるようになったそうです。

 仲源寺は1585(天正13)年に現在の場所に移され、江戸時代には祇園に集まる芝居の見物客の雨宿りの場としても重宝されることとなりました。また、女御と不仲になった白河法皇が千手観音の法要のひとつである「愛敬法」を奉修したところ、仲直りを果たしたことから、仲違いした男女の仲を取り持つご利益があるともいわれています。





観音堂には、重要文化財の千手観世音菩薩像が安置されています。


アクセス
・京阪電鉄「祇園四条駅」下車、東へ徒歩3分。
「目疾地蔵」 仲源寺地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・7時~20時

関連サイト
  洛陽三十三所観音巡礼公式サイト


京都ことこと観音めぐり―洛陽三十三所観音巡礼
京都新聞出版センター
京都新聞出版センター

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京都・東本願寺(真宗本廟)。

2009年09月21日 | ◇京都府 -洛中


真宗本廟

(しんしゅうほんびょう)
京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754


通 称
お東さん
東本願寺




烏丸通に面して立つ豪壮な阿弥陀堂門。1911(明治44)年再建。


〔宗派〕
浄土真宗大谷派 本山

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)


 本願寺山科本願寺合戦によって拠点を失ったのち、交通の便もよく小高い山や川の多い要害の地である大坂・石山に本拠を移して勢力を拡大していきました。特に、なす術もなく敗れた山科での教訓から軍備を拡充していったため、各勢力も警戒を深めて攻略を試みましたが果たせず、正面からの闘争を避けて同盟を結ぶなど懐柔策に出たために年々石山本願寺の影響力は拡大していきます。そういう状況の中で1568(永禄11)年、織田信長公が上洛を果たし、畿内を制圧して勢力を拡大していきます。両者の対立は起こるべくして起こったと言えます。

 1570(元亀元)年に織田軍が三好三人衆征伐を行うと、「次の標的は本願寺である」という危機感から本願寺は決起、三好氏攻略のために摂津国・福島に陣を敷いていた織田軍を急襲。同じ頃、長島一向一揆が尾張国を攻撃。ここに11年間にも及ぶ「石山合戦」が始まりました。1558(永禄元)年に顕如上人の長男として生まれた教如上人も、父とともに「石山合戦」に身を投じていきます。





現在修築中で大屋根に覆われた阿弥陀堂(左)。右はその内部の様子。


 
 本願寺勢力との間で一進一退の戦いが続き、足利義昭公が中心となって包囲戦線が築かれるなど当初は苦戦していた織田信長公でしたが、1571(元亀2)年に比叡山延暦寺を攻略、さらに1573(元亀4)年に最大の対抗勢力である武田信玄公が病没した事を契機に戦況が大きく変化を見せます。朝倉義景公を急襲して滅亡させ、返す刀で浅井長政公を滅ぼすなど各個撃破を進め、長島一向一揆を徹底的に制圧。1575(天正3)年には武田勝頼公を長篠の戦いで撃破、さらには朝倉氏滅亡後の越前で実権を握っていた越前一向一揆勢力を内部分裂に乗じて瞬時に制圧するなど包囲網を次々に破っていきます。そして1578(天正6)年には本願寺の支援のために攻め寄せた毛利水軍を破り、補給路を断たれた石山本願寺を完全に孤立化させます。これにより、ついに石山本願寺は1589(天正8)年、朝廷からの和議を受け入れ、石山からの退去を余儀なくされました。





見る者を圧倒する迫力の御影堂。2009(平成21)年に修復が完了しました。


 
 和議に対して徹底抗戦を唱えた教如上人顕如上人と対立して抵抗を続けますが、情勢悪化を受けて石山を明け渡し、雑賀へと退去します。この後、本能寺の変の後に2人は和解しますが、最終的に内紛の原因となった教如上人は廃嫡され、三男の准如上人が後継者に定められます。顕如上人示寂ののち一度は教如上人が跡を継ぎますが、1592(文禄元)年になって顕如上人の遺志を尊重すべく顕如上人の妻・如春豊臣秀吉公に働きかけた結果、翌年に隠居(裏方)させられて准如上人が跡を継ぐ(表方)こととなります。

 この対立に目をつけたのが徳川家康公です。当初は関が原の戦いに協力した教如上人の返り咲きを考えていましたが、重臣である本多正信公から出た内部対立を残すことで勢力を弱体化させるべきだという進言を受け容れ、1602(慶長7)年に寺院を建立させて勢力を二分させます。教如上人が建立した寺院は「東本願寺」と呼ばれ、准如上人が継承した本願寺は「西本願寺」と通称されるようになりました。長らく共に正式名称を本願寺と名乗っていましたが、1987(昭和62)年に入り、東本願寺側の宗教法人「本願寺」は法的に解散し、「真宗大谷派」という新たな宗教法人に生まれ変わりました。それ以降、宗祖の教えを聞信する根本道場であるという意味で「真宗本廟」と名乗るようになり、現在に至っています。





東本願寺の総合窓口として、1934(昭和9)年に建てられた参拝接待所。


 
 江戸時代に4度もの火災に遭い、「火出し本願寺」という不本意な呼び方もされたほど受難の歴史を持つ東本願寺。現在の諸堂は幕末の騒乱期の1864(元治元)年に勃発した禁門の変の兵火が引き起こした「どんどん焼け」で境内が全焼した後に再建されたもので、御影堂と阿弥陀堂は1895(明治28)年、御影堂門と阿弥陀堂門は1911(明治44)年に再建されました。また、境内から東へ5分ほど歩いた場所には、飛び地境内である渉成園があり、美しい庭園風景を愉しむことが出来ますので、東本願寺を訪れた際にはぜひ足を運んでみてください。




阿弥陀堂門と同じく、1911(明治44)年に再建が果たされた御影堂門。




渉成園に関しては、当ブログ「渉成園」に掲載しております。ぜひご覧ください。

アクセス
・JR線「京都駅」下車、北へ徒歩5分。
東本願寺地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・5時50分~17時30分(3月~10月)
・6時20分~16時30分(11月~2月)

公式サイト





京都・西本願寺。

2009年09月20日 | ◇京都府 -洛中


龍谷山 本願寺

(りゅうこくざん ほんがんじ)
京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町60


通 称
お西さん
西本願寺




堀川通沿いに立つ御影堂門。門の向こうには「目隠し塀」が見えます。


〔宗派〕
浄土真宗本願寺派 本山

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)


 本願寺の源流となったのは、浄土真宗の宗祖である親鸞上人が入滅されたあとに建てられた御廟所です。1262(弘長2)年に90歳の長寿で入滅された親鸞上人は、京都・東山の大谷の地に葬られましたが、1272年(文永9)年になって末娘の覚信尼が大谷の西にある吉水の地に廟堂を建て、遺骨を安置されました。この御廟所は「大谷廟堂」と呼ばれ、廟堂を守る「留守職」には覚信尼が就きました。大谷廟堂に対しては、時の亀山天皇より「久遠実成阿弥陀本願寺」という寺号が下賜されています。

 1309(延慶2)年には、留守職の座を巡って内紛が勃発し、御遺骨と宗祖真影が持ち去られて廟堂が破壊されるという「唯善事件」が起こります。青蓮院の仲裁によって紛争が解決した後に第3代留守職に就任した覚如上人は早速再建に着手し、1311(応長元)年に復興。その翌年には寺院化を図って「専修寺」と名乗りますが、寺号に対して比叡山からの圧力を受けたためにこの名称の使用を断念します。しかし寺院化への努力は引き続き行われ、1321(元亨元)年には「本願寺」という寺号を掲げるようになりました。





1636(寛永13)年建立の御影堂。親鸞聖人の木像が安置されています。


 
 1457(長禄元)年に法灯を継承した第8代蓮如上人の代には積極的な布教活動を展開、近畿地方をはじめ東海・北陸へと門徒の数は飛躍的に増大していきます。しかし、急速な拡大に対して既存の寺院勢力は危機感を抱き、1465(寛正6)年、比叡山延暦寺が武装宗徒を率いて大谷本願寺を急襲、伽藍を徹底的に破却するという事態に至ります。難を逃れた蓮如上人は越前国の吉崎御坊に本拠を移転。ここでもその教えは古い支配体制に圧迫されていた民衆に熱狂的に受け入れられ、次第に権力者に対する反抗への機運を呼び、ついには門徒たちが武装して一揆を起こすまでになります。





境内の南にある色彩鮮やかな鐘楼(左)と、御影堂の前に茂る大銀杏(右)。



 争いを鎮めようとした蓮如上人は1475(文明7)年に吉崎を退去。京に近い山科の地に拠点を確保して1478(文明10)年から伽藍の造営を開始し、1480(文明12)年に諸堂の整備を終えます。こうして誕生した山科本願寺は「寺中広大無辺、荘厳ただ仏国の如し」と呼ばれるほどの繁栄を見せましたが、寺勢を恐れた細川晴元公の策謀で攻め寄せた六角定頼公と日蓮衆徒の軍勢によって1532(天文元)年に焼き討ちを受け、堂宇は跡形もなく焼失。その後大坂に遁れて再興を伺うこととなります。





1760(宝暦10)年に再建された阿弥陀堂。御本尊が安置されています。


 
 大坂・石山に本拠を移した本願寺は、山科でのトラウマから強大な城郭を築き、再び勢力を拡大していきますが、ここで時の実力者・織田信長公と軋轢が生まれます。当初、両者の関係は穏やかなものでしたが、1570(元亀元)年に伊勢長島の一向一揆が尾張国の尾木江城を襲い、織田信長公の弟・織田信興公を切腹に追い込んだことから戦端が開かれ、11年間にわたる長い戦いが始まります。

 宗教勢力が本来の衆生を救う目的から離れ、武力を持って政治に圧力を掛ける姿勢に非常な不快感を持っていた織田信長公は、各地の一向一揆勢力を撃破するなど徹底的に対決。ついに1580(天正8)年に本願寺は仏法存続を条件に和議を受け入れ、大坂・石山を退去して紀伊国・鷺森に移転することとなって戦いに終止符が打たれました。この退去の際、和議を受け入れた顕如上人と徹底抗戦を主張した教如上人との間に対立が生じ、東西分裂の萌芽が芽生えます。





安穏殿と経蔵(左)。その向かいにも立派な銀杏が茂っています(右)。



 鷺森から和泉国の願泉寺へと本拠を移した本願寺は、豊臣秀吉公から寺地の寄進を受けて1585(天正13)年に大坂・天満に移転。さらに1590(天正18)年、七条堀川の現在地に寺基を移し、1592(文禄元)年に諸堂の落慶法要が営まれました。その後、石山退去の時から対立していた教如上人徳川家康公に接近。烏丸七条に寺地を寄進されて1603(慶長8)年に御堂を建立し、本願寺は東西に分裂することとなりました。教如上人が開いた寺院を東本願寺と呼んだことから、それまでの本願寺西本願寺と通称されるようになりました。

 その後、西本願寺は1596(慶長元)年に起きた慶長の大地震で阿弥陀堂を除く諸堂が倒壊。翌年に御影堂は再建されますが、1617(元和3)年には失火によって御影堂や阿弥陀堂が焼失してしまいます。翌年、阿弥陀堂が仮御堂として再建され、1636(寛永13)年には御影堂も再建。書院や飛雲閣、唐門もこの頃整備されています。1760(宝暦10)年、仮御堂だった阿弥陀堂も本格的に再興されて現在に至る偉容が完成されました。幕末には新撰組の本拠地のひとつにもなっています。





左は阿弥陀堂門。太鼓楼(右)には、新撰組の刀傷が残っているそうです。


アクセス
・JR「京都駅」下車、北西へ徒歩10分。
西本願寺地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  ※庭園の拝観には事前に申し込みが必要。

拝観時間
・5時30分~17時30分(3月~4月、9月~10月)
・5時30分~18時(5月~8月)
・6時~17時(11月~2月)

公式サイト






京都・毘沙門堂(山科)

2009年09月18日 | ◇京都府 -洛南


毘沙門堂

(びしゃもんどう)
京都市山科区安朱稲荷山町18

神仏霊場京都 楽土の道・第47番札所

通 称
毘沙門堂門跡



住宅街を抜ける緩やかな上り坂の先にある、緑豊かな毘沙門堂の森。


〔宗派〕
天台宗延暦寺派

〔御本尊〕
毘沙門天像
(びしゃもんてんぞう)


 JR山科駅を降りた先の踏切脇に立つ案内板に従って歩を進め、住宅街の中を切り裂くようにまっすぐ北に伸びる緩やかな上り坂を進んでいくと、「天台宗京都五門跡」のひとつ、毘沙門堂へと辿り着きます。毘沙門堂がある安朱稲荷山町の「安朱(あんしゅ)」はもともとあった地名ではなく、江戸時代に入ってから「安祥寺村」と「朱雀村」が合併したことによって作られた地名です。兵庫県にも2005(平成17)年に城崎郡香住町と美方郡美方町・村岡町が合併し、香住の「」と美方の「」を合わせて命名された「香美町」がありますが、今も昔も同じような発想で命名された町名があることに面白さを感じます。




 
急峻な石段(左)を登った先に立つ、1665(寛文5)年建立の仁王門(右)。


 
 毘沙門堂の正式な名称は護法山安国院出雲寺。代々皇族が住持を務める門跡寺院だったために「毘沙門堂門跡」とも呼ばれています。寺伝によると、文武天皇の勅願によって703(大宝3)年に行基上人が建立した出雲寺がルーツだといわれています。出雲寺はもともと山科にあったわけではなく、上御霊神社が鎮座している京都市上京区の地にあったと考えられています。この付近からは奈良時代前期に作られたとみられる瓦が出土しており、この地に寺院とおぼしき建造物があったことは確かなようです。出雲寺伝教大師最澄が自ら彫られたといわれる毘沙門天像を御本尊としていたことから「毘沙門堂」とも呼ばれていました。しかし平安時代末期には寺勢は衰退し、荒れ寺となってしまいます。





伝教大師最澄自らが刻まれたと伝えられる毘沙門天像を安置する本堂。


 
 出雲寺が復興されたのは鎌倉時代に入ってからのこと。1174(承安4)年に出家して円智と名乗り、大原に隠棲していた平親範卿は、父・平範家卿が伏見に建立するも焼失し、御本尊のみが残るだけという状態になっていた護法寺の再建を行います。再建された護法寺は1195(建久6)年に出雲寺があった地へと移され、この時に桓武平氏の祖・葛原親王が開いた平等寺平親信卿が開いた尊重寺という平家ゆかりの寺院も合併させます。この寺院は出雲寺の寺籍を引き継いだため、ここに「護法山出雲寺」の復興が果たされることになりました。鎌倉時代から室町時代にかけて洛北の桜の名所としてその名を知られていた毘沙門堂も兵火に巻き込まれて焼失。再び苦難の時期を迎えます。




 
本堂の右手には経堂(左)や弁天社(右)などが立ち並んでいます。


 
 慶長年間(1596年~1614年 )に入り、徳川家康公のブレーンとして江戸幕府の朝廷政策や宗教政策に深く関わっていた天台宗の僧・天海僧正毘沙門堂の再建に乗り出します。江戸幕府によって山科の古刹・安祥寺の寺領の一部を与えられた天海僧正は志半ばで没しますが、弟子の公海大僧正が遺志を継いで再建を進め、1665(寛文5)年に諸堂が整備されて復興されました。

 毘沙門堂は第4代将軍・徳川家綱公が大壇越となるなど強力なバックアップを受けて財政的にも安定、さらに1674(延宝2)年に後西天皇の第6皇子・公弁法親王毘沙門堂で受戒、天台座主を務めたのちの1715(正徳5)年にここに隠棲したことから、代々出家して僧籍となった親王である法親王が住持を務める門跡寺院となり、「毘沙門堂門跡」と称されて隆盛を極めるようになりました。




 
本堂の奥に立つ宸殿(左)。右は狩野永叔の手による見事な天井龍の図。



 本堂や御霊殿、そして後西天皇の旧殿を拝領して移築したことから宸殿と呼ばれる書院は狩野派の画家の手による襖絵などで飾られており、中でも狩野永叔によって御霊殿の天井に描かれた「天井龍の図」や、見る位置を移動すると描かれた机の向きが変化して見えるという狩野益信筆の「九老之図」、円山応挙によって描かれた「鯉の図」など、数多くの文化財に満ちた境内はなかなか見応えがあります。





宸殿の奥に広がる晩翠園。秋には紅葉の朱に染め上げられます。


アクセス
・JR「山科駅」から北へ徒歩20分
・京阪電鉄京津線「京阪山科駅」下車、北へ徒歩20分。
毘沙門堂地図  【境内MAP】 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  ※宸殿・晩翠園へは拝観料が必要。(大人:500円、高校生:400円、小中学生:300円)

拝観時間
・8時30分~17時





姫路・魚吹八幡神社。

2009年09月11日 | □兵庫県 -姫路
厄除け・安産祈願・家内安全・事業繁栄・合格祈願


魚吹八幡神社

(うすきはちまんじんじゃ)
兵庫県姫路市網干区宮内193

通 称
津の宮
(つのみや)



宮内交差点を曲がると、大きな鳥居が魚吹八幡神社へと導いてくれます。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
神功皇后
(じんぐうこうごう)
玉依比賣命
(たまよりひめのみこと)


 202(神功皇后摂政3)年のこと。神功皇后三韓征伐から凱旋しての帰途、宇須伎津と呼ばれていたこの地に船を停泊させた際に、神託を受けて玉依比賣命を祀る小さな社を築き「敷嶋宮」と名づけたのが魚吹八幡神社の始まりといわれています。これに関しては様々な伝説が残されており、皇后が乗った船が浅瀬に乗り上げた際に船べりに魚が群れを成して集まり、砂を吹き出して船を進めたという話や、神社を建てる際に多数の魚たちが群れをなして集まって砂を吹き上げ、一夜にして浅瀬を埋め立てて土地を生み出したという話が伝えられています。実際に魚が浅瀬を埋め立てたということはないでしょうが、瀬戸内海に面し、温暖で住み良い土地だった網干津に多くの人々が住み着き、砂で堤防を築いて干拓を進めていった姿を魚に例え、魚が砂を吹き上げていったという伝説を創作し、神話として語り継いでいったのではないかと考えられます。





車2台が通行可能な幅広い石畳の参道を進むと神社が見えてきます(左)。
右は、1686(貞享3)年以前に建てられた入母屋造りの壮大な楼門。


 創建に関しては、319(仁徳天皇7)年に「御父・応神天皇、御祖母・神功皇后を宇須伎津の地に祀るべし」との霊夢を見た仁徳天皇が、この地に紀角宿禰を遣わして応神天皇神功皇后玉依比賣命の3神を祀る神社を建立したという伝説も残されています。しかし、725(神亀2)年説や860(貞観2)年説など様々な説も残されていて、正確な時期は定かではありません。敷嶋宮は平安時代の末期には京都の石清水八幡宮の別宮となり、「魚吹八幡神社」と呼ばれるようになりました。また、網干津にあることから「津の宮」とも呼ばれています。





淡路島の神社建築技術が用いられている魚吹八幡神社の社殿。



 播磨を代表する古社である魚吹八幡神社も、1576(天正4)年には播磨攻略を進める羽柴秀吉軍の兵火に巻き込まれて境内が灰燼に帰してしまうなど苦難の時期を迎えたこともありましたが、江戸時代の1645(正保2)に入って当時の龍野藩の藩主であった京極家が社領を寄進して財政的にバックアップを行い、それをもとに氏子の皆さんが中心になって見事魚吹八幡神社は再建を果たします。このような魚吹八幡神社の氏子の皆さんのパワーは今もなお健在で、播州地区では最大の12,000戸の氏子数を誇り、強い結束で伝統文化を守りながら地域の絆を深めています。秋季大祭の翌日には地元の中学校の生徒たちが境内の大掃除に協力するなど、次世代への継承もしっかりと行われています。





鐘楼と手水舎(左)。右は、社殿前にある砲弾を用いた戦利兵器奉納碑。



 魚吹八幡神社では元旦の「千本突き」や3月の最終土曜日に行われる「武神祭」、7月14日に行われる「千燈祭」など様々な祭事が執り行われていますが、もっとも有名なのは10月21日と22日の秋季例祭で行われる「提灯祭り」です。もともと3柱の御祭神を乗せた神輿の渡御の際、道中の御神燈として御旅提灯を出したのが始まりではないかといわれている「提灯祭り」は、2日に渡って行われる秋季大祭の宵宮、10月21日の夜7時頃から行われます。
 平松吉美大江島興浜新在家余子浜垣内の7地区がそれぞれに趣向を凝らして作りあげた提灯の隊列が、すっかり陽の落ちた石畳の参道を進んでいく様はまさに壮麗のひと言。しかし、これらの隊列が楼門前まで来ると一転、地区ごとに互いの提灯を激しくぶつけ合い、抑えていたパワーが爆発。光の乱舞、竹を打ち鳴らす激しい音、そしてそれを見守る群衆のどよめきが入り混じって、祭りは最高潮の盛り上がりを見せます。3台の神輿、18地区の屋台、4地区の壇尻(だんじり)、1地区の獅子舞、そして7地区の提灯練りが参加する魚吹八幡神社の秋季大祭は、2007(平成19)年には兵庫県の指定無形重要文化財に指定されています。





1645(寛永21)年頃の建築といわれる摂社・敷島神社(左)と神輿庫(右)。
 
社務所前にある、力石を抱える三ノ宮卯之助の像(左)と「さざれ石」(右)。


アクセス
・JR「網干駅」下車、南へ徒歩20分。
・山陽電鉄網干線「網干駅」下車、北へ徒歩10分。
魚吹八幡神社地図  Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.
 
【境内図】

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト


播磨の祭り
藤木 明子,北村 泰生
神戸新聞出版センター

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