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松峰山金剛輪寺
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(しょうほうざん こんごうりんじ)
滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874
近江西国霊場・第15番札所
湖面十一面観音霊場・第11番札所
近江七福神霊場・大黒天
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黒門の脇には、みやげ物を売るお店が良い匂いをさせていました。
〔宗派〕
天台宗
〔御本尊〕
聖観世音菩薩
(しょうかんぜおんぼさつ)
金剛輪寺は、大仏建立を行った
聖武天皇の勅願寺院として、当時の民衆に絶大な支持を受けていた
行基上人の手で741(天平13)年に開山されたといわれる古刹で、御本尊の
聖観世音菩薩像は
行基上人自らが彫りあげたものだと伝えられています。萱の一木造りで彫刻されたこの仏像を
行基上人が彫り進めていたところ、まるで生きているかの如く木肌から一筋の赤い血が流れ出たため、驚いた
行基上人は霊験を感じ、手にしていた彫刻刀を折り捨てて荒削りのまま観音さまを御本尊として祀ったということです。この伝説から、御本尊は「
生身の観音さま」と呼ばれて厚く信仰されています。
金剛輪寺は、この観音さまを祀るお堂でしたが、9世紀の中頃に
比叡山延暦寺の
慈覚大師円仁による教化を受け、近江国の多くの寺院と同様に
天台宗の修業道場として発展しました。
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名勝庭園。晩秋には真っ赤に染まる「血染めの紅葉」で彩られます。
1183(寿永2)年には
源義経公が
木曽義仲追討の必勝祈願のために太刀を奉納したという伝説も残されており、「
元寇」と呼ばれる
文永・弘安の役では、
鎌倉幕府の執権・
北条時宗公の命を受けた近江国の守護・
佐々木頼綱公によって元軍調伏の祈願が為されたと言われています。
佐々木頼綱公は、1288(弘安11)年に本堂である
大悲閣を再建するなど境内建造物の復興を行って元軍撃退の法恩に感謝したといわれており、
金剛輪寺は守護・
佐々木氏の庇護を得て境内の整備を進め、かなりの規模を誇っていたようです。
応仁の乱では
佐々木氏の流れを汲む
六角氏と
京極氏が相争い、両軍が湖東地域に展開して兵糧や軍資金の徴用を強制的に行ったこともあり、戦国の騒乱に翻弄されることを防ぐ目的として
金剛輪寺は自衛のために武装化の道をたどります。
元来、
金剛輪寺を始めとする寺院勢力は石垣普請に関する高いノウハウを持っており、
六角氏の居城
観音寺城が鉄砲に備えて1556(弘治2)年から総石垣に改築した際には、
金剛輪寺の
西座衆(にしくらしゅう)と呼ばれる技術者集団が指導にあたったと伝えられるなど、各寺社勢力が自衛力を持って権益を守りつつ、地元の政治権力とも相互扶助の関係を保って戦乱の世を生き抜こうとしていたことが推し量れます。
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七難即滅を願う大草鞋が下がる二天門(左)と、1288(弘安11)年建立の大悲閣(右)。
そんな近江国の諸寺に最大の試練が訪れたのは1566(永禄11)年のこと。尾張国と美濃国を手中に収めた
織田信長公が近江国へと進攻し、
六角氏やそれを支持する寺社勢力との間で軍事的緊張が高まります。「
信長公記」によると、
織田信長公も最初から強硬策一辺倒だったわけではなく、当初は近江国の宗教勢力に対して協力もしくは中立を求め、受け入れた際には本領の安堵を誓約するなど懐柔策をとっていました。もちろん、この約定に違背した場合には軍事的制裁を課すと宣告しており、「アメとムチ」によって近江国の統治を行おうとしました。結局、宗教勢力からの抵抗が止まなかったのを受けて、1571(元亀2)年にはついに天台宗総本山で強大な軍事力を保持して反抗を続けていた
比叡山延暦寺を
根本中堂から山王21社を含め山上山下悉く焼き討ちし、高僧から女性・子供に至るまで3000以上の者の首を刎ねるなど、
織田信長公の「ムチ」は苛烈を極めました。
そのようなショッキングな出来事があったにも関わらず、2年後の1573(天正元)年には
鯰江城に籠城した
六角氏を
釈迦山百済寺が密かに支援したことが露見、表向きは恭順の意思を示していた古刹の背信行為に激怒した
織田信長公は、4月11日に軍勢を差し向けて完膚なきまでに焼き払いました。
金剛輪寺も同様の理由のために火を放たれましたが、僧侶の機転によって本堂の
大悲閣などは類焼を免れたと伝えられています。他にも本堂がかなり奥にあったために見落とされたのだという説もありますが、本気で焼き討ちをしようとした時の
織田軍の徹底ぶりを考えた場合、意図的に手を緩められたと考えるのが自然で、その理由としては
金剛輪寺に関わる土豪勢力の中に反信長勢力が少なかったこと、そして
西座衆の石垣普請技術を高く評価していたことが考えられます。
大打撃を受けた
金剛輪寺ですが、江戸時代に入って
徳川家康公や
天海大僧正、
井伊直孝公などの尽力で復興が行われ、1632(寛永9)年には
正親町天皇の孫にあたる
良恕親王によって
静仙院が建立されるなど、再び往時の活気を取り戻すことになりました。
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「待龍塔」と呼ばれる三重塔。1246(寛元4)年に建立されました。
アクセス
・近江鉄道「尼子駅」よりシャトルバス乗車、約25分
(10月28日~11月30日の毎日シャトルバスを運行)
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拝観料
・個人 500円(30名以上の団体の場合:1人450円)
拝観時間
・8時~17時
公式サイト