神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・東福寺の紅葉(通天橋)。

2006年11月29日 | ◇京都府 -洛東


慧日山東福寺の紅葉(通天橋)

(えにちさん とうふくじ)
京都市東山区本町15丁目778



洗玉澗を埋め尽くす色鮮やかな紅葉。通天橋からの眺めです。
(奥に見えるのが偃月橋です)



慧日山東福寺・通天橋




 JR京都駅から1駅という近さにもかかわらず、美しい紅葉を楽しむことの出来る臨済宗の名刹・東福寺は、深秋のこの時期、紅葉を楽しむ観光客の人気スポットとなっています。東福寺の歴史についてのお話は後日に譲り、今回は境内の紅葉を一望できることで有名な通天橋からの紅葉の様子をご紹介します。




通天橋脇の紅葉。見事に赤く染まっています。



 東福寺の境内には、仏殿から開山堂までの間に洗玉澗(せんぎょくかん)と呼ばれる渓谷があります。そして、この渓谷を渡るために西から臥雲橋通天橋偃月橋の3つの橋が渡されています。なかでも、洗玉澗一面に広がる紅葉を一望できる通天橋は、紅葉シーズンの休日ともなれば通勤ラッシュの電車かと見まごうほどの混雑ぶり。悟りを開くはずの寺院の中で、少しでもいいポジションで紅葉を堪能しようとする観光客の煩悩が錯綜する舞台となってしまいます。




通天橋から洗玉澗を望む。



 通天橋は、洗玉澗の渓谷を渡って行き来する苦労から僧侶たちの負担を軽減するために1380(天授6)年に「普明国師春屋妙葩の手によって架けられた橋だといわれており、南宋にあった径山の橋を手本に造られたといわれています。橋の中央部には、切妻屋根の張り出しがあって紅葉観賞のベストスポットとなっています。




通天橋の南端に掲げられた「通天」の扁額。



 通天橋は何度も修復が行われており、1597(慶長2)年には豊臣秀吉公の手によって修復工事が行われたという記録も残されています。19世紀初頭の文政年間に架け替えられた橋も、1959(昭和34)年に猛威を振るった伊勢湾台風の影響で無惨にも倒壊してしまいました。現在の橋は1961(昭和36)年11月に再建されたもので、橋脚部分は鉄筋コンクリート製の丈夫なものに建て替わっています。




洗玉澗付近から見上げた通天橋。観光客でごった返している様子がわかります。



アクセス
・JR奈良線「東福寺駅」下車、南へ徒歩10分
 東福寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・通天橋・開山堂拝観料 400円(小中学生 300円)
・方丈八相庭園拝観料  400円(小中学生 300円)

拝観時間
・9時~16時(11月のみ8時30分~16時30分)

公式サイト 
   東福寺のWebページへようこそ


京都・泉涌寺。

2006年11月24日 | ◇京都府 -洛東


東山泉涌寺

(とうせん せんにゅうじ)
京都市東山区泉涌寺山内町27


神仏霊場京都 洛土の道・第41番札所
真言宗十八本山霊場・第8番札所
洛陽三十三所観音霊場・第20番札所
京都十三仏霊場・第6番札所



通 称
御 寺
(みてら)



慶長年間建立の御所の門を移築したといわれる大門。重要文化財に指定されています。


〔宗派〕
真言宗泉涌寺派 総本山

〔御本尊〕
釈迦如来阿弥陀如来弥勒菩薩


 JR京都駅の10番ホームから奈良線に乗り換えて1駅目の東福寺駅。美しく色づいた紅葉を愛でるために、毎年11月中旬から下旬にかけて「通天橋」で有名な東福寺へと向かう観光客で賑わいを見せています。その東側、東山三十六峰・月輪山の麓に静かに甍を連ねる古刹・泉涌寺も、それに劣らぬ紅葉の名所として知られています。今から1200年ほど昔の天長年間(824年~834年)、弘法大師空海月輪山の麓に修行のための庵を結びます。この庵が泉涌寺の原型だといわれています。855(斉衝2)年には左大臣・藤原緒嗣卿のバックアップを受けた神修上人がこの地に法輪寺を興し、のちに仙遊寺と改称されたといわれています。書物によって創建時期や開祖などに諸説ありますが、それほど古い歴史のある寺院であるともいえます。





徳川4代将軍・家綱公によって1668(寛文8)年に再建された仏殿。



 時代は下って鎌倉時代。13年もの長きに渡り宋に学んで1211(建暦元)年に帰朝していた月輪大師・俊芿律師に深く帰依していた武将・宇都宮信房公は、1218(建保6)年に仙遊寺を大師に寄進します。このとき境内の一角から清水溢れる泉が発見されたことから「泉涌寺」と名付けられました。後鳥羽上皇後高倉院などの助力を受けた月輪大師は、1226(嘉禄2)年に宋風の大伽藍を築き上げ、泉涌寺律宗を中心に天台宗真言宗禅宗浄土宗四宗兼学(律宗も入れて五宗兼学ともいわれます)の修業道場として栄えることになります。





仏殿の奥にある舎利殿(左)と、「泉涌寺」の由来となった泉の上に建つ水屋形(右)。



 泉涌寺は皇室から厚い帰依を受け、後堀河天皇が山内の観音寺陵に葬られたのに続いて1242(仁治3)年に四条天皇の大葬の礼がここで行われて寺内に御陵が築かれるなど、代々の天皇の御陵が営まれるようになったことから、皇室の「御香華院(=菩提寺)」として尊崇を受けることとなり、敬意をもって「御寺(みてら)」と呼ばれるようになりました。現在でも孝明明治大正昭和天皇や皇族の方の法要が行われ、皇室からも「空腹凌料」と呼ばれる御下賜金を賜るなど、深いつながりを保っています。残念ながら、創建時の伽藍は応仁の乱の際にほとんど焼失しましたが、江戸時代に入り4代将軍・徳川家綱公によって再建されます。そのとき建てられた仏殿は国の重要文化財に指定されています。





本坊の御座所庭園の紅葉は一見の価値あり。



 境内の奥にある本坊には御座所があります。ここは、1884(明治17)年に明治天皇が使用されていた御里御殿を旧京都御所から移築したもので、玉座の間勅使の間門跡の間などがあり、現在も皇室の方が来寺の際には休憩所とされています。この御座所から眺める庭園には様々な色の紅葉が息づいており、晩秋の庭園を絶妙な色合いで飾り立ててくれています。泉涌寺の紅葉は11月末の今の時期が見頃です。観光客も多過ぎず少な過ぎず、ゆったりと秋の紅葉を堪能したいという方にはおススメのスポットです。特に、夕方の少し翳ってきた陽光の中での紅葉は何ともいえない風合いで、一見の価値ありです。





御座所庭園の紅葉。右の石灯籠は「泉涌寺式雪見灯籠」と呼ばれるものです。

本坊の奥にある月輪陵。江戸期の皇族が眠っています。


アクセス
・JR奈良線「東福寺駅」下車、泉涌寺道を東へ徒歩15分
・京都市バス208系統「泉涌寺道」バス停下車、泉涌寺道を東へ徒歩12分
御寺・泉涌寺地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

【境内図】

拝観料
・大人:500円、中学生以下:300円  ※本坊庭園は別途300円。

拝観時間
・9時~16時30分 (12月から2月は9時~16時)

公式サイト





神戸・中村八幡神社。

2006年11月22日 | ■神戸市中央区
厄除



(なかむらはちまんじんじゃ)
神戸市中央区日暮通2-4-11



立派な明神鳥居の奥に社殿が見えます。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)




「布引の 滝見て今日の日は暮れぬ 一夜宿かせ 峰の笹岳」


 鎌倉時代の天台宗の僧侶で、三千院の門跡であった後鳥羽天皇の孫 澄覚法親王の詠んだ歌からその名がつけられたという神戸市中央区の日暮通。このあたりは室町時代から江戸時代にかけて、摂津国莵原郡葺屋郷と呼ばれていたそうです。葺屋郷には生田村熊内村中尾村中村滝寺村小野新田などがあり、1874(明治7)年にはこれら6つの村が一つになって葺合村が出来ました。葺屋の村が合わさったから「葺合」だと言われています。
   
 それからしばらく経った1897(明治30)年頃、港を中心とした市街地の発展に伴い、葺合地域などでは都市化に向けて区画整理や道路整備が行われました。それによって新たな区割りが行われて様々な町が誕生することになります。


 琴ノ緒町 … 「松の音を 琴に調ぶる山嵐は 滝の糸をやすけて弾くらむ」 (紀貫之)

 東雲通 …… 「みつか夜の まだ臥し慣れぬ芦の屋の つまもあらはに明る東雲」 (藤原隆家)

 雲井通 …… 「雲井より つらぬき懸る白玉を 誰れ布引の滝といひけむ」 (藤原隆家)


 …といったように、多くの町名が和歌に因んで付けられたそうで、神戸市もなかなかロマンを感じさせる粋な事をしたと感心させられます。そんな経緯で名付けられた日暮通と、北接する八雲通の境を東西に走る葺合センター街沿いにある神社が、今回ご紹介する中村八幡神社です。葺屋郷中村エリアにあった八幡神社だから中村八幡神社と呼ばれているのでしょう。




1954(昭和29)年10月に再建された社殿。



 明確な創建年代は不明ですが、9世紀末の元慶年間の頃に当地の有力者が京都の男山八幡宮から八幡大神(=応神天皇)を勧請してお社を建てたのが始まりとされています。昭和初期の書物には、中村八幡神社の古いご神体に『仁和丙午年(886年)』と刻まれていたことや、『寛元四年(1246年)』という刻印のある石灯籠があったということが書かれていますが、どちらも残念ながら残されていません。




社殿左手にある蛭子神社。商売繁盛の神さまです。



 老朽化が激しかった社殿は1930(昭和5)年に建て替えが行われましたが、第2次世界大戦中の1945(昭和20)年に行われた神戸大空襲によって全焼してしまいます。そんな中村八幡神社も1954(昭和29)年に氏子の皆さんのご尽力によって再建され、鉄筋コンクリート造りの立派な社殿が建てられました。1995(平成7)年の阪神・淡路大震災では社務所が全壊するなど大きな被害を受けますが、同年9月には立派に再建されました。




朱塗り鮮やかな稲荷神社と祖霊社。社殿の右手にあります。



 毎年4月の第3日曜日には春季大祭、10月の第3土曜日には秋季大祭が行われます。子ども御輿幼児鼓笛隊などが巡行し、子どもたちの元気な声が商店街を駆け巡るそうです。




商店街の中にある神社です。




アクセス
・阪急電車「春日野道駅」下車、南西へ徒歩5分
・阪神電車「春日野道駅」下車、北西へ徒歩5分
 中村八幡神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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神戸・素佐男神社。

2006年11月20日 | ■神戸市灘区
厄除開運・商売繁盛・家内安全・工事安全


素佐男神社

(すさのおじんじゃ)
神戸市灘区岸地通2-2-13




住宅街の中に静かに鎮座する素佐男神社。「東の祇園さん」として崇敬を集めています。


〔御祭神〕
建速素佐男命
(たけはやすさのおのみこと)



 阪急電車の王子公園駅を降り、水道筋商店街を抜けて山手幹線を南に下ると、ヤマタノオロチ退治で有名な荒魂の神・素盞鳴尊を祀る素佐男神社に辿り着きます。この地域は水害による被害にたびたび悩まされていたため、今から約500年ほど前、ヤマタノオロチを鉄剣で退治して製鉄技術や治水技術など大陸の進んだ技術をもたらしたという素盞鳴尊を御祭神にした神社を祀ったといわれています。素盞鳴尊を祀る神社は全国に2,600社以上あるといわれており、神戸でも素盞鳴尊を主祭神とする神社は40を越えます。中でも有名なのが兵庫区の有馬街道の入り口である平野交差点の脇にある祇園神社ですが、それに対してこの素佐男神社は「東の祇園さん」と呼ばれて人々の厚い崇敬を集めています。





ここ素佐男神社も阪神・淡路大震災で大きな被害を受けました。



 以前、この地域は天城郷都賀荘鍛冶屋村と呼ばれていました。摩耶山から流れていた大田川という清流の水が刀作りに適した水だったそうで、この地域に刀鍛冶が多数集まったために鍛冶屋村と呼ばれたそうです。徳川の世になって戦乱が無くなると刀鍛冶では生計を維持するのが難しくなり、幕府直轄の天領だった鍛冶屋村でも飢饉への備えとして幕府が奨励していた甘藷(さつまいも)作りを行うようになりました。ちなみに素佐男神社が鎮座する「岸地通」の"キシ"は、渡来人である吉士氏に由来するといわれており、その寺である岸寺(きしじ)岸地(きしち)という文字に変化していったのではないかともいわれています。





手水舎(左)と、社殿右奥に鎮座している白玉稲荷神社(右)。


アクセス
・阪急電車「王子公園駅」下車、東南へ徒歩5分
素佐男神社地図  Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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滋賀・百済寺(湖東三山)。

2006年11月17日 | ◆滋賀県

釈迦山 百済寺

(しゃかざん ひゃくさいじ)
滋賀県東近江市百済寺町323


近江西国霊場・第16番札所
湖面十一面観音霊場・第10番札所
湖東二十七名刹霊場・第11番札所
神仏霊場近江 欣求の道・第9番札所




バス駐車場を出るとすぐのところに立つ山門。ここから境内へと進みます。


〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
十一面観世音菩薩



 湖東三山巡りで一番最後に立ち寄ったのが釈迦山百済寺です。正式な呼び方を「くだらでら」ではなく「ひゃくさいじ」というこの天台宗の寺院は、3つの寺院の中でも最も古い歴史を持つ名刹です。本当は1650(慶安3)年に建立されたという赤門や、「天下遠望の名園」と称される見事な本坊庭園なども見ていきたかったのですが、スケジュールの都合で御本尊との結縁を優先することにしました。百済寺は、606(推古天皇14)年に創建されたと伝えられる湖東三山随一の古刹で、聖徳太子によって創建されたと伝えられています。この地は朝鮮半島の古代国家・百済国からの渡来人である秦氏が多数住んでいた地域だといわれており、その一族の族長的な立場であった秦河勝聖徳太子のブレーンとして活躍した人物です。渡来人と繋がりの強かった聖徳太子が百済の僧・恵慈とともに秦氏の里である湖東の地を訪れたという話も、あながち伝説上の話として片付けられない説得力があります。





仁王門の大草鞋に触れると身体健康・無病長寿のご利益があるそうです。



 伝説によると、聖徳太子が仏教の師と仰ぐ恵慈とともにこの地を訪れた時のこと、東に瑞光を放つ山があるのを見つけます。不思議に思ってその地を訪れたところ、上半分が伐採された杉の巨木が光を放っているのを発見します。「この杉は何か」と聖徳太子恵慈に尋ねたところ、どうやらこの杉の上半分は百済国に運ばれ、龍雲寺という寺院の本尊・十一面観世音菩薩像になっていたことが判りました。この話を聞いた聖徳太子は、これは願ってもない素晴らしい「御衣木(みそぎ)」であるということで、植わったままの幹に仏像を彫刻したといわれており、こうして作られた十一面観世音菩薩像は、「植木の観音」と呼ばれて人々の崇敬を集めたそうです。太子はこの地に龍雲寺を模した寺院を開き、「百済寺」と名づけたといいます。平安時代に入ると西明寺金剛輪寺と同様に天台宗の教化を受けて天台寺院となり、鎌倉時代にかけて最盛期を迎えた百済寺は300の僧坊と1300の僧侶を抱える壮大な寺院となり、その様は「湖東の小叡山」と称されたほどでした。





1650(慶安3)年に再建された本堂。



 そんな百済寺も1498(明応7)年の大火で全焼。その直後の1503(文亀3)年にも兵火に巻き込まれ、創建以来の建築物はもとより仏像や記録類などの大部分が焼失してしまいました。こういった戦乱による被害に対し、百済寺は自衛のために1518(永正15)年から城砦化工事を始めます。これには六角氏の重臣・進藤山城守が指導を行ったといわれています。参道の入口には進藤山城守の館が配され、北と南の尾根に砦を設置したり周囲に土塁を築くなどして中央部の200を超える坊院群を守護するという構造だったようです。こうして武装化されていた百済寺も、1573(天正元)年には織田信長公の焼き討ちに遭ってまたも全山焼失の憂き目に遭います。この5年前の1568(永禄11)年に観音寺城を攻略して六角氏を追い落としていた織田信長公は、六角氏の残党勢力と寺院勢力が連携するのを警戒しており、城砦化して僧兵を多数抱えていた百済寺にも寺領安堵を行うなど懐柔政策を採っていました。しかし、六角氏配下の武将だった森備前守の三男・宗恕百済寺の塔頭・光浄院の住持を務める縁もあって六角氏鯰江城に籠城した際、密かに気脈を通じて支援を行いました。

 寺領安堵まで行い、一時は恭順の姿勢を見せていた百済寺の裏切り行為に激怒した織田信長公は、諸将に命じて全山に火を放ちます。「信長公記」にも「近年、鯰江の城、百済寺より持続け、一揆と同意たるの由、聞こしめし及ばる。四月十一日、百済寺堂塔・伽藍・坊舎・仏閣、悉く灰燼となる。哀れたる様、目も当てられず。」と記されていますし、宣教師ルイス・フロイスもその著「日本史」の中でこの焼き討ちのことを伝えています。焼き討ちは徹底的に行われ、7堂300坊と言われた百済寺は僅かな仏像と経典を残し、全てが灰燼に帰して壊滅しました。織田信長公による焼き討ちの後しばらく荒廃していた百済寺は、1584(天正12)年になって堀秀政公の手で仮本堂が建立されます。「黒衣の宰相」として有名な天海僧正の高弟・亮算上人が再建に着手。井伊家の援助もあって1650(慶安3)年に本堂が再建されました。これが現在残っている本堂で、2004(平成16)年12月に重要文化財の指定を受けました。





弥勒菩薩半跏思惟石像。2000(平成12)年建立。



アクセス
・近江鉄道「尼子駅」よりシャトルバス乗車、約45分
・近江鉄道「八日市駅」下車、バス30分「百済寺本坊前」
百済寺地図  【境内MAP』 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:500円 中学生:300円 小学生:100円

拝観時間
・8時~17時

公式サイト


滋賀・金剛輪寺(湖東三山)。

2006年11月07日 | ◆滋賀県

松峰山金剛輪寺

(しょうほうざん こんごうりんじ)
滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874

近江西国霊場・第15番札所
湖面十一面観音霊場・第11番札所
近江七福神霊場・大黒天



黒門の脇には、みやげ物を売るお店が良い匂いをさせていました。


〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
聖観世音菩薩
(しょうかんぜおんぼさつ)



 金剛輪寺は、大仏建立を行った聖武天皇の勅願寺院として、当時の民衆に絶大な支持を受けていた行基上人の手で741(天平13)年に開山されたといわれる古刹で、御本尊の聖観世音菩薩像行基上人自らが彫りあげたものだと伝えられています。萱の一木造りで彫刻されたこの仏像を行基上人が彫り進めていたところ、まるで生きているかの如く木肌から一筋の赤い血が流れ出たため、驚いた行基上人は霊験を感じ、手にしていた彫刻刀を折り捨てて荒削りのまま観音さまを御本尊として祀ったということです。この伝説から、御本尊は「生身の観音さま」と呼ばれて厚く信仰されています。金剛輪寺は、この観音さまを祀るお堂でしたが、9世紀の中頃に比叡山延暦寺慈覚大師円仁による教化を受け、近江国の多くの寺院と同様に天台宗の修業道場として発展しました。




 
名勝庭園。晩秋には真っ赤に染まる「血染めの紅葉」で彩られます。



 1183(寿永2)年には源義経公が木曽義仲追討の必勝祈願のために太刀を奉納したという伝説も残されており、「元寇」と呼ばれる文永・弘安の役では、鎌倉幕府の執権・北条時宗公の命を受けた近江国の守護・佐々木頼綱公によって元軍調伏の祈願が為されたと言われています。佐々木頼綱公は、1288(弘安11)年に本堂である大悲閣を再建するなど境内建造物の復興を行って元軍撃退の法恩に感謝したといわれており、金剛輪寺は守護・佐々木氏の庇護を得て境内の整備を進め、かなりの規模を誇っていたようです。応仁の乱では佐々木氏の流れを汲む六角氏京極氏が相争い、両軍が湖東地域に展開して兵糧や軍資金の徴用を強制的に行ったこともあり、戦国の騒乱に翻弄されることを防ぐ目的として金剛輪寺は自衛のために武装化の道をたどります。

 元来、金剛輪寺を始めとする寺院勢力は石垣普請に関する高いノウハウを持っており、六角氏の居城観音寺城が鉄砲に備えて1556(弘治2)年から総石垣に改築した際には、金剛輪寺西座衆(にしくらしゅう)と呼ばれる技術者集団が指導にあたったと伝えられるなど、各寺社勢力が自衛力を持って権益を守りつつ、地元の政治権力とも相互扶助の関係を保って戦乱の世を生き抜こうとしていたことが推し量れます。




 
七難即滅を願う大草鞋が下がる二天門(左)と、1288(弘安11)年建立の大悲閣(右)。



 そんな近江国の諸寺に最大の試練が訪れたのは1566(永禄11)年のこと。尾張国と美濃国を手中に収めた織田信長公が近江国へと進攻し、六角氏やそれを支持する寺社勢力との間で軍事的緊張が高まります。「信長公記」によると、織田信長公も最初から強硬策一辺倒だったわけではなく、当初は近江国の宗教勢力に対して協力もしくは中立を求め、受け入れた際には本領の安堵を誓約するなど懐柔策をとっていました。もちろん、この約定に違背した場合には軍事的制裁を課すと宣告しており、「アメとムチ」によって近江国の統治を行おうとしました。結局、宗教勢力からの抵抗が止まなかったのを受けて、1571(元亀2)年にはついに天台宗総本山で強大な軍事力を保持して反抗を続けていた比叡山延暦寺根本中堂から山王21社を含め山上山下悉く焼き討ちし、高僧から女性・子供に至るまで3000以上の者の首を刎ねるなど、織田信長公の「ムチ」は苛烈を極めました。

 そのようなショッキングな出来事があったにも関わらず、2年後の1573(天正元)年には鯰江城に籠城した六角氏釈迦山百済寺が密かに支援したことが露見、表向きは恭順の意思を示していた古刹の背信行為に激怒した織田信長公は、4月11日に軍勢を差し向けて完膚なきまでに焼き払いました。金剛輪寺も同様の理由のために火を放たれましたが、僧侶の機転によって本堂の大悲閣などは類焼を免れたと伝えられています。他にも本堂がかなり奥にあったために見落とされたのだという説もありますが、本気で焼き討ちをしようとした時の織田軍の徹底ぶりを考えた場合、意図的に手を緩められたと考えるのが自然で、その理由としては金剛輪寺に関わる土豪勢力の中に反信長勢力が少なかったこと、そして西座衆の石垣普請技術を高く評価していたことが考えられます。

 大打撃を受けた金剛輪寺ですが、江戸時代に入って徳川家康公や天海大僧正井伊直孝公などの尽力で復興が行われ、1632(寛永9)年には正親町天皇の孫にあたる良恕親王によって静仙院が建立されるなど、再び往時の活気を取り戻すことになりました。

 



「待龍塔」と呼ばれる三重塔。1246(寛元4)年に建立されました。


アクセス
・近江鉄道「尼子駅」よりシャトルバス乗車、約25分
 (10月28日~11月30日の毎日シャトルバスを運行)
金剛輪寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・個人 500円(30名以上の団体の場合:1人450円)

拝観時間
・8時~17時

公式サイト