梨木神社
(なしのきじんじゃ)
京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町680
通 称
萩の宮
〔御祭神〕
三條実萬卿
(さんじょうさねつむ)
三條実美卿
(さんじょうさねとみ)
応仁の乱など、長く続いた戦乱によって疲弊していた京都は、戦国の世を統一した豊臣秀吉公の手によって大きく復興されました。京都御所の東側を南北に走る東京極大路(富小路通とも)と呼ばれた道の東には、洛中に点在していた寺院を強制的に移転させて「寺町」と呼ばれる寺院街が形成されました。そして、寺町から道を挟んで西側、京都御所との間には公家たちの屋敷が集められて公家町が形成されていましたが、その公家町の一角には、明治維新に活躍した三條実萬卿と三條実美卿父子を輩出した名門・三條家の邸宅もありました。美しい萩の花が咲き誇ることから「萩の宮」の別称でも人々に愛されている梨木神社は、この三條家の邸宅跡に建てられた神社です。ちなみに、毎年9月の中旬から下旬頃に行われる「萩まつり」では、境内に咲き乱れる美しい萩に囲まれる中、献華式や狂言・舞などが奉納されるなど、多くの参拝客で賑わいを見せています。
幾何学模様の石畳の参道(左)と、楼門(右)。秋には美しい萩の花に包まれます。
梨木神社は、明治維新に多大な貢献をした三條実萬卿と三條実美卿父子を御祭神とする神社です。三條実萬卿は、光格天皇・仁孝天皇・孝明天皇の3帝に仕え、その英明さから菅原道真公の生まれ変わりと賞されて当時の人々から「今天神」と呼ばれた人物です。早い時期から「王政復古」の大義を唱えて明治維新に多大な影響を与えた三條実萬卿は、1848(嘉永元)年に朝廷と幕府との意思疎通を図る役職である「武家伝奏」に就き、外交などについて何度も江戸幕府と交渉するなど活躍していました。
しかしながら、幕府の対外政策に反対する者たちが一斉に弾圧された1859(安政6)年の「安政の大獄」によって謹慎の処分を受け、「澹空」と号して出家し、表舞台から引退することとなります。その年に58歳で亡くなった三條実萬卿の生前の功績に対し、1869(明治2年)には明治天皇より「忠成公」の諡が贈られ、1885(明治18)年には三條家の邸宅跡に地名の「梨木町」にちなんで「梨木神社」が創建され、別格官幣社の社格が与えられました。その父の遺志を継いで明治維新の実現に奔走した息子・三條実美卿も、その功績を讃えられて1915(大正4)年に行われた大正天皇即位御大典の際に合祀されました。
「萩まつり」ではこの拝殿で舞や狂言が行われます(左)。右の写真は本殿です。
梨木神社の境内には、醒ヶ井・県井と並んで「京都三名水」と呼ばれた染井があります。この井戸は、平安時代初期に活躍した藤原良房卿の娘で文徳天皇の皇后となった藤原明子の里御所だった清和院の跡にあったもので、京都御所の傍にあって水質も極上であることから宮中御用の染所として利用されたために「染殿」とも呼ばれていました。「京都三名水」の中で唯一、現在も清らかな水が湧き続けている井戸で、多くの方々がこの清水を汲むために列を成しています。
今も清水が湧き続ける「染井の水」(左)と、「天壌無窮」と刻まれた石碑(右)。
アクセス
・京阪電車「出町柳駅」下車、南へ徒歩15分
・京阪電車「丸太町駅」下車、北へ徒歩20分
・京都市バス1・3・4・59・205・快速205系統ほか「府立医大病院前」バス停下車、西へ徒歩3分
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拝観料
・無料
拝観時間
・常時開放
公式サイト
梨木神社ホームページ
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