神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・梨木神社。

2008年11月30日 | ◇京都府 -洛中
心願成就

梨木神社

(なしのきじんじゃ)
京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町680

通 称
萩の宮





〔御祭神〕
三條実萬卿
(さんじょうさねつむ)
三條実美卿
(さんじょうさねとみ)


 応仁の乱など、長く続いた戦乱によって疲弊していた京都は、戦国の世を統一した豊臣秀吉公の手によって大きく復興されました。京都御所の東側を南北に走る東京極大路(富小路通とも)と呼ばれた道の東には、洛中に点在していた寺院を強制的に移転させて「寺町」と呼ばれる寺院街が形成されました。そして、寺町から道を挟んで西側、京都御所との間には公家たちの屋敷が集められて公家町が形成されていましたが、その公家町の一角には、明治維新に活躍した三條実萬卿と三條実美卿父子を輩出した名門・三條家の邸宅もありました。美しい萩の花が咲き誇ることから「萩の宮」の別称でも人々に愛されている梨木神社は、この三條家の邸宅跡に建てられた神社です。ちなみに、毎年9月の中旬から下旬頃に行われる「萩まつり」では、境内に咲き乱れる美しい萩に囲まれる中、献華式や狂言・舞などが奉納されるなど、多くの参拝客で賑わいを見せています。



 
幾何学模様の石畳の参道(左)と、楼門(右)。秋には美しい萩の花に包まれます。



 梨木神社は、明治維新に多大な貢献をした三條実萬卿と三條実美卿父子を御祭神とする神社です。三條実萬卿は、光格天皇仁孝天皇孝明天皇の3帝に仕え、その英明さから菅原道真公の生まれ変わりと賞されて当時の人々から「今天神」と呼ばれた人物です。早い時期から「王政復古」の大義を唱えて明治維新に多大な影響を与えた三條実萬卿は、1848(嘉永元)年に朝廷と幕府との意思疎通を図る役職である「武家伝奏」に就き、外交などについて何度も江戸幕府と交渉するなど活躍していました。

 しかしながら、幕府の対外政策に反対する者たちが一斉に弾圧された1859(安政6)年の「安政の大獄」によって謹慎の処分を受け、「澹空」と号して出家し、表舞台から引退することとなります。その年に58歳で亡くなった三條実萬卿の生前の功績に対し、1869(明治2年)には明治天皇より「忠成公」の諡が贈られ、1885(明治18)年には三條家の邸宅跡に地名の「梨木町」にちなんで「梨木神社」が創建され、別格官幣社の社格が与えられました。その父の遺志を継いで明治維新の実現に奔走した息子・三條実美卿も、その功績を讃えられて1915(大正4)年に行われた大正天皇即位御大典の際に合祀されました。



 
「萩まつり」ではこの拝殿で舞や狂言が行われます(左)。右の写真は本殿です。



 梨木神社の境内には、醒ヶ井県井と並んで「京都三名水」と呼ばれた染井があります。この井戸は、平安時代初期に活躍した藤原良房卿の娘で文徳天皇の皇后となった藤原明子の里御所だった清和院の跡にあったもので、京都御所の傍にあって水質も極上であることから宮中御用の染所として利用されたために「染殿」とも呼ばれていました。「京都三名水」の中で唯一、現在も清らかな水が湧き続けている井戸で、多くの方々がこの清水を汲むために列を成しています。



 
今も清水が湧き続ける「染井の水」(左)と、「天壌無窮」と刻まれた石碑(右)。



アクセス
・京阪電車「出町柳駅」下車、南へ徒歩15分
・京阪電車「丸太町駅」下車、北へ徒歩20分
・京都市バス1・3・4・59・205・快速205系統ほか「府立医大病院前」バス停下車、西へ徒歩3分
梨木神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
  梨木神社ホームページ









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宇治・橋寺放生院。

2008年11月26日 | ◇京都府 -洛外


雨宝山 放生院 常光寺

(うほうざん ほうじょういん じょうこうじ)
京都府宇治市宇治東内11

通 称
橋 寺





〔宗派〕
真言律宗

〔御本尊〕
地蔵菩薩像
(じぞうぼさつぞう)



 古代より、北陸道から奈良・平城京を繋ぐ道として多くの旅人たちを見守ってきた奈良街道。宇治川に架かる宇治橋は、宇治を抜ける奈良街道を繋ぐ交通の要衝として重要な役割を果たしてきました。その宇治橋の東、京阪電車「京阪宇治駅」から歩いてすぐのところに、「宇治橋の守り寺」として人々の崇敬を集めてきた寺院があります。正式名称を「雨宝山放生院常光寺」というこの寺院は、通称「橋寺」もしくは「橋寺放生院」という名で広く親しまれている真言律宗の寺院です。




1631(寛永8)年の火災ののち再建されたといわれる本堂。



 橋寺の創建に関しては2つの説が伝えられています。ひとつは、優秀なブレーンとして聖徳太子から厚い信頼を寄せられていた秦河勝が、604(推古天皇12)年に聖徳太子の念持仏である地蔵菩薩像を祀る寺院として宇治川のほとりに建てた常光寺地蔵院橋寺の前身だという説。もうひとつは、646(大化2)年に大和国・元興寺(当時は法興寺と呼ばれていた)の僧侶・道登上人が初めてこの地に宇治橋を架けた際、工事の安全祈願のために川の傍に立っていた地蔵院の建物を造り替えたのを創建とする説です。

 当時は治水技術などもまだまだ十分なものではなく、大雨などのたびに激しい洪水に見舞われて何度も橋が流されるなどの被害が続き、宇治川のほとりにあった地蔵院も徐々に衰退していきました。そんな地蔵院の再興を行ったのが、鎌倉時代後期の真言律宗の高僧・叡尊上人です。大和国・西大寺の僧侶だった叡尊上人は、地蔵院の本尊・地蔵菩薩像が激しく損傷していたことに心を痛め、1281(弘安4)年に新たに大きな地蔵菩薩像を造り、傷ついていたそれまでの地蔵菩薩像をその胎内に納めて地蔵院を再興しました。

 さらに叡尊上人は、1286(弘安9)年に行われた宇治橋の再建に際し、宇治川の氾濫などで命を落とした人馬・魚介類などすべての菩提を弔うため、中州にある浮島に高さ約15mの巨大な十三重石塔を建立して供養のための盛大な放生会を営みました。このことに因んで地蔵院のことを「放生院」と呼ぶようになり、さらに叡尊上人の慈悲に溢れた思いに感銘を受けた後宇多天皇によって300石の寺領を与えられ、宇治橋や十三重石塔の管理を一任されたことから、「橋寺」とも呼ばれるようになりました。



 
国の重要文化財に指定されている宇治橋断碑(左)と、境内に立つ橋掛け観音像(右)。



 境内には、瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」、淀川を跨いで架けられていた「山崎橋」と並び、「日本三古橋」の一つである宇治橋の創建当時の経緯を刻んだ宇治橋断碑が立っています。天平時代に造られたといわれている宇治橋断碑は、もともと宇治橋の傍に立てられていたそうですが、宇治川の氾濫などでいつしか地中に埋没していました。この碑が境内の地中から発見されたのは、1791(寛政3)年のことでした。残念ながら、上の1/3の部分しか見つかりませんでしたが、鎌倉時代に記された史書「帝王編年記」にあった原文をもとに復元が行われ、1793(寛政5)年に現在の姿に修復されました。

 碑文には「名は道登と曰う。山尻恵満の家より出づ。大化2年丙午の歳、此の橋を構立す」と刻まれてあり、宇治橋が646(大化2)年に架けられていたことが分かります。この宇治橋断碑は、群馬県で発見された「多胡碑(たこのひ)」、宮城県で発見された「多賀城碑」とともに日本三古碑の一つといわれ、国の重要文化財に指定されたことから木造の覆屋の中に納められて保護されています。



 
石段を登った正面にある十二支守本尊像(左)と、近年建てられた石塔(右)。



アクセス
・京阪電車「京阪宇治駅」下車、南東へ徒歩2分
・JR奈良線「宇治駅」下車、東へ徒歩10分
橋寺放生院地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料(仏像観賞:300円、断碑観賞:200円) ※断碑の公開は3~5月、9~11月のみ

拝観時間
・9時~16時30分(冬季は9時~16時まで)








明石・法寫山善楽寺。

2008年11月24日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)

法寫山善楽寺

(ほうしゃざん ぜんらくじ)
兵庫県明石市大観町11-8





善楽寺の山門。戒光院・圓珠院・実相院の3院で構成される寺院です。


〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
地蔵菩薩像



 善楽寺は「大化の改新(乙巳の変)」などで知られる大化年間(645)に、インドの高僧である法道上人の開基によって創建されたといわれています。この寺伝に基づくと、明石では最古の寺院となります。平安時代中期の990(正暦元)年には、天台宗の高僧・源信(恵心僧都)が姫路の書写山からの帰りに善楽寺に立ち寄り、自ら彫りあげた虚空蔵菩薩像を実相院に安置されたといわれていますので、やはり1,000年以上の歴史を持つ古刹であることは確かなようです。残念ながら、源信の彫った仏像はさきの大戦中の空襲によって焼失してしまいました。





善楽寺を構成する戒光院の本堂(左)と、東に並ぶ圓珠院(右)。


 
 善楽寺は1119(元永2)年に火災によって焼失しますが、保元の乱に勝利して播磨守に任じられるなど朝廷内での発言力を伸ばしていた平清盛公の手によって、1156(保元元)年に伽藍の再興が行われました。この地を重要視した平清盛公は、念持仏だった木造地蔵尊像と寺領500石を寄進するなど善楽寺に対して手厚い庇護を行いました。1182(養和元)年に平清盛公が亡くなった際には、その死を悼んで当時善楽寺の寺僧であった甥・忠快法印上人によって供養のための大きな五輪塔が建てられています。このような庇護もあり、平安時代の末期には17の塔頭を持つなど明石川の東岸一帯を境内とし、天台宗の最高位である天台座主を輩出するほどの大寺院となった善楽寺ですが、1539(天文8)年には、前年に始まった尼子詮久公の播磨侵攻によって一旦淡路島に撤退していた赤松政村公が、細川持隆公の支援をもとに岩屋に上陸して反撃を開始、善楽寺もその兵火に巻き込まれて全焼してしまいます。 





『源氏物語』の明石入道の碑(左)と、再建に貢献した平清盛公の供養塔(右)。



 その後1593(文禄2)年に再建された善楽寺は、1619(元和5)年に明石藩主・小笠原忠真公によって寺領を安堵する黒印状を与えられ、諸役の免除が行われました。ちなみに、領地の安堵を幕府が行う際には朱色の判が用いられたので「朱印状」、諸大名からの安堵の場合は黒色の判が用いられたので「黒印状」と呼ばれていました。この前年の1618(元和4)年には、小笠原忠真公の客分として明石に入り、明石城の築城や城下町の町割りに辣腕を揮っていた剣豪・宮本武蔵公の手によって圓珠院の本堂前に枯山水庭園が作庭されています。

 明石藩第5代藩主・松平忠国公が『源氏物語』の世界に思いを馳せて「明石入道の碑」を建てるなど、歴代明石藩主の厚い庇護のもとに歴史を連ねてきた善楽寺ですが、1871(明治4)年に起こった火災によって三重塔を焼失、1945(昭和20)年7月にはアメリカ軍による空襲によって境内を焼失するなど大きな打撃を受けて寺域も縮小、現在では、戒光院圓珠院実相院の3院で構成する寺院として法灯を守り続けています。





善楽寺を構成する院の一つ、圓珠院にある宮本武蔵作庭の枯山水(左)と、
道路を挟んで南に隣接する実相院の山門(右)。



 善楽寺は『源氏物語』の登場人物・明石入道の「浜辺の館」があった地とされ、境内には「明石入道の碑」が建てられています。『源氏物語』の第12帖「須磨の巻」で、スキャンダルによって都から逃れ、須磨で失意の日々を過ごす主人公・光源氏が、明石入道とその美しい娘・明石の君の噂を聞くところから明石にまつわるエピソードは始まります。続く「明石の巻」で、夢枕に立った亡き父皇・桐壺帝の言葉に従って須磨を離れ、迎えに現れた明石入道の誘いを受け入れた光源氏が招かれた邸宅・浜辺の館があった場所が、善楽寺のあるこの地だとされています。光源氏は、高潮などの危険から家族を守るために明石入道が山手に構えていた別宅・岡部の家に住む入道の娘・明石の君と文を交わしながら恋を温めていく事となります。




アクセス
・JR「明石駅」下車、南西へ徒歩15分
・山陽電車「西新町駅」下車、南へ徒歩10分
法寫山善楽寺地図   Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

公開時間
・不明






宇治・縣神社。

2008年11月22日 | ◇京都府 -洛外
縁結び・安産・商売繁盛・家内安全・病気平癒

縣神社

(あがたじんじゃ)
京都府宇治市蓮華72




宇治を訪れた人が一度は目にする大鳥居。この道を進むと縣神社に辿り着きます。


〔御祭神〕
木花開耶姫命
(このはなさくやひめのみこと)



 JR宇治駅を降り立ち、宇治橋通商店街を抜けて茶の香り漂う平等院の表参道へと向かう交差点まで来ると、巨大な石造りの明神鳥居が圧倒的な存在感をもってそびえ立っています。車道をひと跨ぎし、隣接するビルにもあと少しで接するのではないかという大きな笠木を持つこの大鳥居は、平等院の南西に位置する古社・縣神社に連なる参道へと導いてくれます。





縣神社の石鳥居(左)と、参道の左手に並ぶ摂社(右)。東位稲荷大明神や天神社の
奥には「縣祭」で用いられる「梵天」が祀られています。


 宇治を代表する古刹・平等院の裏鬼門の方角・南西に位置する縣神社は、山の神である大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘で、高天原より降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚して日嗣の皇子を産んだ女神・木花開耶姫命を御祭神に祀る神社です。神社名である「」の由来は2説あり、ひとつは木花開耶姫命の別名である「吾田津姫(あがたつひめ)」からついたという説、もうひとつは古代の行政区で朝廷の直轄地だった宇治県の守護神として祀られていたことから付けられたという説があります。





桧皮葺の本殿は江戸時代に再建され、拝殿は1936(昭和11)年に再建されました.。



 神代の頃からの地主神だとされており、藤原道綱母が975(天延3)年ごろに書き上げたといわれる『蜻蛉日記』には宇治の「縣の院」に訪れたエピソードが書かれている事から、少なくとも1,000年以上の歴史を持つ古社だといわれています。1052(永承7)年に藤原頼通卿が父の遺した別荘・「宇治殿」を寺院に改めて平等院を開創した際には、宇治神社宇治上神社の前身である「宇治離宮明神」と並んで鎮守社とされました。平等院の開山が三井寺(園城寺)のや天台座主も務めたことのある高僧・明尊上人だった関係から、明治維新に至るまでは滋賀県大津市にある三井寺円満院の管理下にありました。春の大祭には円満院の院主が毎年宇治を訪れて国家安康の護摩法要を行っていたそうですが、明治維新の後に出された神仏分離令によって三井寺から独立したそうです。





社殿の左手にある「木の花桜」(左)と、右手にそびえ立つ見事なムクノキ(右)。



 縣神社は、「縣祭」と呼ばれる奇祭が行われることでも有名です。縣祭は江戸時代に始まったといわれるお祭りで、毎年6月5日の夜から6日の未明にかけて行われる事から「暗夜の奇祭」という別名を持ち、神が乗るとされる「梵天」と呼ばれる祭具を神輿に乗せて練り歩きます。当日は通りに露店が立ち並び、10万人を越える人々で賑わいます。しかし、現在は梵天の渡御を巡り、地元の人々が中心となって支える縣神社側と、大阪の堺や兵庫の姫路などの氏子たちが中心となって支える県祭奉賛会が対立し、それぞれが梵天を用意して分裂開催を行う残念な事態となっています。

 もともと梵天は、宇治神社にある御旅所を出発し、縣神社で「神移し」神事を行って神さまをお乗せしたのち、宇治神社へと巡行。そして、最終的には縣神社まで帰ってきて神さまを戻す「還幸祭」を行う事になっていますが、2003(平成15)年の梵天渡御の際に「還幸祭」が行われなかった事から、以前からギクシャクしていた両者の対立が決定的となり、翌年から分裂開催となったそうです。また、旧宇治郡の氏神である宇治神社旧久世郡宇治県の氏神である縣神社との御祭神を巡る長年に渡る対立や、南北朝の争乱期に平等院周辺を焼き払った楠木正成公や、応仁の乱の際に宇治を蹂躙した畠山勢など、歴史的に虐げられてきた宇治の人々が畿内勢力や他所者に対して持つ潜在的なアレルギーなども、地元以外の大阪・兵庫の人々で構成されている県祭奉賛会との対立に影響を与えているような気がします。





参道右手に立つ祖霊社(左)と、境内に住み着いているマイペースなわんこ(右)。


アクセス
・JR奈良線「宇治駅」下車、徒歩10分
・京阪電車「宇治駅」下車、徒歩7分
縣神社地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放








宇治・平等院。

2008年11月19日 | ◇京都府 -洛外


朝日山平等院

(あさひさん びょうどういん)
京都府宇治市宇治蓮華116 







平安美の象徴である鳳凰堂。御本尊の阿弥陀如来像が安置されています。


〔宗派〕
天台浄土宗
(単立寺院)

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)



 「宇治」の代名詞といっても過言ではないほど全国に名高い平等院。御本尊である阿弥陀如来坐像が安置されている本堂・「鳳凰堂」は、「観無量寿経」に記された阿弥陀如来の宮殿を模したといわれる美しい建物で、伝説上の瑞鳥・鳳凰が両翼を広げるさまを表現しています。その美しい姿は10円硬貨や新1万円札のデザインにも採用されるなど、日本を代表する建築物として国内外を問わず多くの人々に愛され続けています。

 都からの交通の便も良く、景観も美しい風光明媚な宇治には、平安時代から多くの貴族たちが別荘を構えていました。嵯峨天皇の12男で「河原左大臣」と呼ばれ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルになったといわれる源融卿もその一人で、宇治川のほとりに別荘「宇治院」を築いてこの地の景色を愛していました。宇治院はその後、宇多天皇から源重信卿の手へと渡り、998(長徳4)年になって全盛期を迎えていた摂政・藤原道長卿の別荘となって「宇治殿」と呼ばれるようになります。



 
1654(承応3)年に創建された天台宗寺門派系の子院・最勝院の不動堂(左)
不動堂の脇にひっそりと祀られている源三位頼政公の墓所(右)




 藤原道長卿の没後、宇治殿は息子である関白・藤原頼通卿によって1052(永承7)年に寺院に改められ、園城寺長吏天台座主も務めた高僧・明尊上人を開山に迎えて平等院が開創されました。この年は釈尊が入滅して2,000年後に訪れるといわれる「末法」の初年にあたり、仏法が廃れて世の中が荒廃に向かうのではと不安に包まれていた貴族たちの極楽往生を求める思いを体現した平等院は、「末法思想」が産んだ平安時代の浄土信仰を象徴する寺院として人々の厚い信仰を集めていました。

 創建当初は大日如来を御本尊としていましたが、翌1053(天喜元)年に現在「鳳凰堂」と呼ばれている本堂・阿弥陀堂が建立された際、平安時代を代表る仏師・定朝が彫り上げた阿弥陀如来像が御本尊とされるようになりました。阿弥陀堂が建てられた後も多宝塔や法華堂など諸堂が建てられるなど、堂々たる威容を誇る寺院となった平等院ですが、藤原氏の衰退と共に苦難の道を歩むことになります。



 
15世紀末の明応年間に創建された浄土宗系の子院・浄土院(左)と、
その境内の隅に1640(寛永17)年に建てられた羅漢堂(右)




 武士の台頭によって源氏と平家が激突した平安時代末期。平家の専横に対し全国の源氏に決起を促した以仁王源頼政公は、宇治川で平知盛公率いる平家軍と戦火を交え、戦いに敗れた源頼政公は平等院の境内で自刃して果てます。この時には直接的な被害を受けることはありませんでしたが、南北朝の対立が激化していた1336(建武3)年に宇治を戦場として足利尊氏方の畠山高国公と戦った南朝方・楠木正成公によってこの一帯に火が放たれ、阿弥陀堂を残して伽藍の大半が焼失してしまいました。

 その後も応仁の乱などの兵火によって荒廃が進み、内部でも天台宗勢力である子院・最勝院と浄土宗勢力の浄土院との間で平等院の管理運営や権益などを巡って対立が起こるなど波乱の時代を迎えますが、1680(延宝8)年頃に阿弥陀堂の再興が行われ、翌1681(天和元)年には寺社奉行の裁定によって天台宗と浄土宗の共同管理として双方の住職が交互に管理することで内部対立にも終止符が打たれます。この頃から阿弥陀堂は「鳳凰堂」と呼ばれるようになりました。

 『源氏物語』では主人公・光源氏の別荘「宇治殿」のあった場所とされ、『宇治十帖』の「椎本の巻」では宇治川のほとりに隠棲する八の宮の娘たちに興味を持った匂宮が、初瀬詣でを口実に宇治を訪れた際、光源氏から長男の夕霧に譲り渡されていた宇治殿を訪問する場面が描かれています。



 
博物館「鳳翔館」を美しく彩る紅葉(左)と、その脇に建つ養林庵書院(右)。



アクセス
・JR奈良線「宇治駅」下車、東へ徒歩10分。
・京阪電鉄「京阪宇治駅」下車、徒歩10分。
平等院地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:600円、中高生:400円、小人:300円 (鳳凰堂内部は別途300円)

拝観時間
・8時30分~17時30分 (※受付終了:17時15分)

公式サイト
  平等院公式サイト








京都・廬山寺。

2008年11月17日 | ◇京都府 -洛中


廬山天台講寺

(ろざんてんだいこうじ)
京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町397



洛陽三十三所観音霊場・第32番札所
京都七福神・3番毘沙門天






〔宗派〕
天台系圓浄宗大本山

〔御本尊〕
阿弥陀三尊像
(あみださんぞんぞう)



 京の都の中心地ともいえる京都御所桓武天皇の手によって船岡山の南・千本丸太町付近に築かれた御所は、応仁の乱などの戦乱や火事によって移転を繰り返した結果、土御門東洞院殿だった現在地に遷されて現在に至ります。その周辺には数々の寺社が軒を連ねていますが、今回ご紹介する廬山寺も御所のすぐ東側に位置する古刹で、世界最古の長編小説として有名な『源氏物語』の作者・紫式部の邸宅があった場所としても知られています。



 
山門の奥に建つ元三大師堂(左)、と庭園の脇に立つ紫式部の歌碑(右)。



 廬山寺の前身は、天台18世座主を務め、比叡山延暦寺中興の祖として有名な高僧・元三大師良源(慈恵大師ともいわれる)の手によって938(天慶元)年に京都・北山に創建された輿願金剛院だといわれています。一方、1245(寛元3)年には船岡山の南麓の地に、浄土宗の始祖・法然上人の弟子だった住心坊覚瑜上人廬山寺を開きました。創建からしばらく経ち、寺勢の衰えていた両寺は1304(嘉元2)年に本光禅仙上人によって再興され、さらに1368(正平23・応安元)年には双方の住職を兼務していた明導照源上人の手によって1つの寺院に統合されます。名前も廬山天台講寺と改められて天台宗密教戒律浄土宗の四宗兼学の道場となりました。

 室町時代に応仁の乱で焼失、1571(元亀2)年には織田信長公によって比叡山延暦寺の焼き討ちが行われ、天台宗系の廬山寺もその対象とされますが、正親町天皇の女房奉書によって兵火を免れ、1573(天正元)年に正親町天皇の勅命によって現在地に移転されました。その後も1708(宝永5)年と1788(天明8)年の火災によって焼失し、1794(寛政6)年に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院閑院宮家の御下賜によって再建されたのが現在の堂宇となっています。



 
元三大師堂の右手に立つ鐘撞堂(左)と、源氏庭に通ずる本堂の入口(右)。



 平安時代、廬山寺のあった辺りには中川と呼ばれる清流が流れていました。その川沿いに建てられていた屋敷が「堤第」。「堤中納言」と呼ばれた紫式部の曽祖父・権中納言藤原兼輔卿が建てた邸宅で、紫式部はここで育ち、結婚生活を送って一人娘の賢子を産み育て、1031(長元4)年に亡くなるまでの59年の生涯をこの邸宅で過ごしました。『源氏物語』『紫式部日記』『紫式部集』など、紫式部が著した作品のほとんどはこの邸宅で執筆されたといわれています。ここは『源氏物語』で光源氏の心を安らげることの出来る才女として描かれた花散里の邸宅のあった場所とされています。

 1965(昭和40)年には、歴史学者である角田文衞氏によって廬山寺の建つこの地が紫式部の邸宅址だったという考証が発表されました。それにちなんで、本堂方丈の前には平安時代の貴族邸の庭園を模した「源氏庭」が作庭され、平安文学の薫りを今に伝えて参拝客の心をしばし『源氏物語』の世界へと導いてくれます。



 
純白の砂と鮮やかな緑の苔に、凛とした風情を添える紫の桔梗が柔らかい曲線で
絶妙に調和する「源氏庭」(左)。その中に紫式部顕彰碑があります(右)。





アクセス
・京阪電車「出町柳駅」下車、南へ徒歩15分
・京阪電車「丸太町駅」下車、北へ徒歩20分
・京都市バス1・3・4・59・205・快速205系統ほか「府立医大病院前」バス停下車、西へ徒歩3分
廬山寺地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・本堂および庭園:大人400円 小人300円(特別展期間中のみ大人500円)

拝観時間
・9時~16時(休日:1/1・2/1~9・12/31)

公式サイト
廬山寺公式ホームページ




 

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宇治・宇治上神社。

2008年11月15日 | ◇京都府 -洛外
合格祈願・開運

宇治上神社

(うじがみじんじゃ)
京都府宇治市宇治山田59







宇治神社から北へ100mほど離れた地に鎮座する宇治上神社。


〔御祭神〕
菟道稚郎子尊
(うじのわきいらつこのみこと)
応神天皇
(おうじんてんのう)
仁徳天皇
(にんとくてんのう)


 宇治神社の脇を伸びる「さわらびの道」を進み、その名のもととなった「早蕨の碑」に心を留めつつ100mほど歩みを進めると、朱塗り鮮やかな鳥居のもとへ辿り着きます。木々に囲まれ、あたかも古の貴人が隠棲する草庵の如き境内に一歩踏み入れると、平安の名残りが色濃く残る寝殿造りの拝殿と、前垂注連に結界された中に円錐形に盛られた「清め砂」と呼ばれる盛砂が、否が応でもここが神々を祀る厳かな地であるという事を気付かせてくれます。この神社の名は宇治上神社。南接する宇治神社と一対の社として、明治維新まで「宇治離宮明神」などと称されて人々の崇敬を集めていた古社です。




朱塗りの鳥居をくぐって参道を進むと、豊かな木々に囲まれた境内へと辿り着きます。


 宇治上神社は、前述したように宇治神社と一対として建てられた神社で、「宇治離宮明神」、「離宮八幡」などと呼ばれていた古称にちなみ、「離宮下社」と呼ばれていた宇治神社に対し、「離宮上社」と呼ばれていました。

 応神天皇の息子である兄皇子・大鷦鶺命(のちの仁徳天皇)との間で「百世の美徳」と賞賛される皇位の譲り合いを繰り広げた末に、自ら宇治川に入水することによって継承問題にピリオドを打った悲運の皇子・菟道稚郎子命の遺徳を偲び御魂を安らかしめるために、その邸宅跡に建立されたというのが宇治上神社宇治神社の起源とされています。また、神託を受けた醍醐天皇が901(延喜元)年に社殿を設けたのが始まりともいわれていますが、詳細は定かではありません。



 
宇治上神社の拝殿。



 『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとされる源融卿が、美しい景観を誇る宇治川のほとりに建てた別荘・宇治院。藤原氏の全盛期を築いた藤原道長卿は、宇多天皇から源重信卿の手へと渡っていた宇治院を手に入れ、別荘「宇治殿」を営みました。1052(永承7)年には、その子・藤原頼通卿が宇治殿を寺院に改めて平等院と名付けます。この時、鎮守社と定められたのが宇治離宮明神、今の宇治上神社宇治神社でした。1067(治暦3)年に後冷泉天皇平等院に行幸した際、その鎮守社である宇治離宮明神に対して正三位の神位授与を行ったことが文献に残されています。毎年5月に行われた例祭には、藤原氏から神馬が奉納され、散楽等も奉仕されたそうです。

 その歴史を裏付けるように、覆屋と呼ばれる建物の中に鎮座する3社の本殿は、年輪測定法に基づく調査によって平安時代末期の1060(康平3)年頃に切り出された木材を使って建立されたものであることが判明しました。その前に建つ拝殿も鎌倉時代初期に切り出された檜を使い、平安時代に貴族の邸宅で数多く用いられた寝殿造りによって建てられた建物です。

 拝殿の右手には、室町時代に選定された「宇治七名水」の1つである桐原水(きりはらすい)が、今もなお澄んだ清水を湧出しています。残念ながら、残りの高浄水泉殿百月夜公文水法華水阿弥陀水は、宅地造成や工場建設などのために枯渇し、現在も清水を湛えているのは桐原水のみとなっています。




社殿覆屋。この中に平安時代後期に建てられた3つの本殿が並んで鎮座しています。



 御祭神・菟道稚郎子命をモデルとして描かれたといわれる『源氏物語』の『宇治十帖』の登場人物・八の宮光源氏の異母弟である八の宮は、政争に倦んで宇治川のほとりに隠棲しますが、その邸宅とされた場所が、現在宇治上神社宇治神社が建つエリアにあったといわれる菟道稚郎子命桐原日桁宮跡といわれています。この2つの神社の間には、『源氏物語』の第四十八帖・「早蕨」を偲ぶ碑が建てられています。



 
鎌倉時代建立で藤原氏の氏神を祀る春日神社(左)と宇治2社の間に立つ「早蕨の碑」(右)。


アクセス
・京阪電車「宇治駅」より南へ徒歩約5分
・JR「宇治駅」より東へ徒歩約13分
宇治上神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~16時30分






宇治・宇治神社。

2008年11月13日 | ◇京都府 -洛外
合格祈願・開運

宇治神社

(うじじんじゃ)
京都府宇治市宇治山田1





塔の島から宇治川東岸へと架けられた朝霧橋の向こうに、宇治神社の鳥居が見えます。


〔御祭神〕
菟道稚郎子尊
(うじのわきいらつこのみこと)


 京都の南東に位置する宇治。美しい宇治川の風景は平安時代の頃から貴族たちに愛され、全盛時代の藤原道長卿の「宇治殿(現在の平等院)」が設けられるなど、数多くの貴族がこぞってこの地に別荘を構えていました。また、宇治は紫式部の『源氏物語』の『宇治十帖』の舞台となったことでも有名で、宇治川の東には「宇治市源氏物語ミュージアム」が建てられるなど、平安時代の優雅な恋絵巻の香りを楽しもうと多くの観光客で賑わいを見せています。そんな宇治川のほとり、朝霧橋の東詰に美しい木々に囲まれた古社・宇治神社が鎮座しています。隣接する宇治上神社と並び、『宇治十帖』ゆかりの神社として人々の崇敬を集めています。



 
宇治川のすぐ傍に建つ朱塗り鮮やかな鳥居(左)と、参道の奥に建つ拝殿(右)。


 宇治神社は、応神天皇(八幡大神)の皇子である菟道稚郎子命を祀る神社です。この地は応神天皇の離宮とも関わりがあったといわれ、また菟道稚郎子命の造営した桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)跡ともいわれているため、古くは離宮八幡宮桐原日桁宮宇治離宮明神と呼ばれていたそうです。

 父である応神天皇は、後継者である皇太子の位を実兄である大鷦鶺命(仁徳天皇)でなく菟道稚郎子命と定めますが、菟道稚郎子命大鷦鶺命に皇位継承権を譲って宇治へと隠棲します。大鷦鶺命もこの継承を望まず、譲り合いを重ねて3年もの月日が流れました。その葛藤から、死をもって節を通そうとして菟道稚郎子命はついに宇治川に入水して自ら命を絶ってしまいます。運命に翻弄された悲しい最期を悼んで皇子の邸宅跡にその御魂を祀る社を建てたのが宇治神社の起源だといわれています。宇治神社には、悲運の皇太子を偲び、菟道稚郎子命の等身大の坐像が祀られています。

 宇治エリアの産土神として崇敬されていた離宮八幡宮は、平安時代に平等院が建てられた際には鎮守社とされて藤原氏からのバックアップを受け、繁栄の時代を迎えました。明治維新までは隣接する宇治上神社と2社一体とされ、宇治上神社は「離宮上社」、宇治神社は「離宮下社」と名付けられていました。鎌倉時代に建立された流造りの本殿は国の重要文化財に指定され、毎年6月8日には離宮祭と呼ばれる例祭が行われて田楽や神輿の巡行などが行われています。




宇治神社の社殿。


 御祭神である菟道稚郎子命の伝説をモデルとして描かれたのが、『宇治十帖』で桐壺帝の第8皇子(光源氏の異母弟)として登場した「八の宮」です。東宮時代の冷泉帝を廃して八の宮を担ごうとする陰謀に巻き込まれ、さらに出産がもとで最愛の妻をも失った八の宮は、都の邸宅を火事で焼失したことも重なって、世を儚み宇治に隠棲して仏教に傾倒していました。同じく出生の秘密に悩み、世を儚む薫君が宇治の八の宮邸を訪れ、その人柄と信心の厚さに感銘して親交を重ねるところから『宇治十帖』は始まります。




朝霧橋から見た宇治川上流の風景。平安の昔から変わらぬ静かな時が流れています。


アクセス
・京阪電車「宇治駅」より南へ徒歩約5分
・JR「宇治駅」より東へ徒歩約13分
宇治神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放