神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

篠山・青山神社。

2014年03月26日 | □兵庫県 -丹波・但馬
篠山藩主・青山家の遺徳を偲ぶ神社


青山神社

(あおやまじんじゃ)
兵庫県篠山市北新町2-3




篠山城内、本丸のあった場所に鎮座している青山神社。



〔御祭神〕
青山忠俊公
(あおやまただとしこう)
青山忠裕公
(あおやまただやすこう)


 丹波国の中心地として栄え、京都と山陰を行き交う人で賑わいを見せてきた篠山。地理的に京都の北西部にあたり、山陰道の要衝の地であったことから、長い歴史の中で様々な勢力がこの地を重要視してきました。関ヶ原の合戦に勝利して天下人としての地位を固めていった徳川家康公もやはり篠山を重視し、1609(慶長14)年に譜代の松平康重公を常陸国から篠山に移して八上城を守らせ、さらには篠山盆地の中心にある笹山丘陵に新たな城・篠山城を築かせて西国の豊臣系諸大名への抑えとしました。
 以来260年の長きに渡って篠山城には松井松平家藤井松平家形原松平家の松平3家8代、そして青山家6代が入って城主を務め、要衝の地・丹波篠山藩を良く治めていきました。明治時代に入った1871(明治4)年に篠山城は廃城となりますが、藩主・青山家の旧恩を追慕する人々が青山家の御霊を祀る神社の創建を熱望。青山家の遠祖・青山忠俊公を御祭神として1882(明治15)年5月に創建されたのが、ここ青山神社です。






大正5年4月に建てられた石鳥居(左)。緑豊かな境内には御神木が残されています(右)。


青山家第21代当主・青山忠誠公の遺徳を偲ぶ追慕碑(左)と神輿庫(右)。




 1880(明治13)年に入った頃、旧丹波篠山藩の士族の方々が集まり、神社の創建もしくは記念碑の建立という形をもって旧主・青山家からの恩義に報いたいという思いを確認し合い、「篠山町士族記念講」という団体を結成しました。旧丹波篠山藩の氏族のほとんどがこれに入講したといわれています。もともと篠山城の本丸には青山家代々の御霊を祀る霊神社がありましたが、丹波篠山藩が廃された際に城の北方に鎮座する春日神社に移されていました。講に集う旧士族たちは何度も協議を重ねた結果、これを城内に再建して「青山神社」とすることを決め、神社の創建願を申請します。この時の申請には許可が下りませんでしたが、さらに書式を改めて再出願を行い、めでたく1882(明治15)年1月23日に認可されるに至ります。そこから4ヶ月のち、鎮座式と大祭が恙なく執り行われ、大阪夏の陣徳川秀忠公を支えて赫々たる戦果を挙げ、徳川家光公幼少時の養育役にも抜擢されて青山家発展の礎を築いた名君・青山忠俊公を御祭神に祀る青山神社が産声を上げました。






入母屋造の拝殿。現在の建物は1916(大正5)年に改築されたものです。




 創建されて以来、青山家の遺徳を偲ぶ人々の崇敬を集めてきた青山神社でしたが、長い年月の中で社殿の傷みも進んできたため、1916(大正5)年4月に入母屋造・銅板葺の社殿が改築されました。この時には社殿のみならず、石鳥居や灯籠なども建立されています。創建時には青山家歴代の複数の御霊を祀ることが認められなかった青山神社ですが、青山家の遠祖ではあるものの篠山とは直接の縁がなかった青山忠俊公だけでなく、実際に篠山の地で藩主として善政を敷いて青山家中興の祖と慕われた青山忠裕公を御祭神として祀ろうという機運が高まり、1930(昭和5)年に合祀が認められました。さらに同年7月7日には郷社に列せられています。この社格については、1946(昭和21)年に出された宗教法人令によって取り消されています。






青山神社の本殿(左)。社殿の右側にも青山忠誠公頌彰碑が建てられています(右)。




 境内には、篠山で人々の敬慕の念を集めた青山忠誠公の遺徳を偲ぶ石碑が建てられています。青山忠誠公は第5代藩主・青山忠良公の10男で、兄の青山忠敏公が亡くなった後に跡継ぎがいなかったために家督を継ぐこととなります。青山忠誠公は郷土・篠山の発展のためには優れた人材の育成が不可欠と考え、慶応義塾を創立して子弟の育成に務めていた福沢諭吉翁に相談。青山忠誠公の志を賞賛した福沢諭吉翁は、のちに青山忠誠公が設立した「私立篠山中年学舎」に英語と物理・化学の優秀な教師を派遣して支援を行っています。
 青山忠誠公は有志が開いていた私塾「共茂舎」をもとに、1876(明治9)年12月に「私立篠山中年学舎」を設立、子弟を集めて漢文や数学、英語の授業を始めました。さらに1877(明治10)年には「私立篠山中年学舎」を多紀郡立の公立校とし、校名も「公立篠山中学校」と改称しました。公立篠山中学校は1883(明治16)年に火災で全焼の憂き目に遭いますが、青山忠誠公は「学舎は焼くとも教育焼くな」という名言とともに巨額の私財を投じて校舎を再建。翌1884(明治17)年には「中学校設備規則」の発布によって廃校の危機を迎えますが、ここでも青山忠誠公は存続のために基金を募り、私財も投じて設備を整え「私立鳳鳴義塾」と改称し、1885(明治18)年8月に存続の許可を勝ち取って篠山の学問の火を守り続けました。
 残念ながら青山忠誠公は29歳の若さでこの世を去りますが、篠山の教育の発展のために注いだ情熱と多大な功績、真っ直ぐな人柄を慕った人々が集って1936(昭和11)年7月に建立したのが「青山忠誠公追慕碑」で、さらには社殿の隣にも「青山忠誠公頌彰碑」が建てられています。青山忠誠公の熱い志は兵庫県立篠山鳳鳴高等学校へと脈々と引き継がれ、今も優秀な人材を輩出し続けています。






境内北西角にある天守台(左)。天守台からの景色も味わい深いものがあります(右)。


アクセス
・JR福知山線「篠山口駅」下車、神姫グリーンバスにて篠山営業所行き「二階町」バス停下車、南へ徒歩5分。

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【境内図】

拝観料
・境内無料

拝観時間
・8:30頃~19時頃(篠山城の開門時間に準ずる)