近江山 近江寺
(きんこうざん きんこうじ)
神戸市西区押部谷町近江142
播磨西国三十三箇所霊場・第26番札所
明石西国三十三箇所霊場・第17番札所
車1台が通れるほどの細い道の途中に、近江寺の山門が立っています。
〔宗派〕
高野山真言宗
〔御本尊〕
十一面千手観音像
7世紀中頃の話。その頃、琵琶湖には夜な夜な光る物が湖上に現れて漁師たちを悩ましていました。民衆に仏教を説きながら行脚を続けていた法道仙人は、その話を聞きつけて琵琶湖を訪れ、光の正体が湖水に浮かぶ桜の霊木であることを突き止めます。霊験を感じた法道仙人は、この霊木で千手観音像を刻もうと考えましたが、不思議な事に霊木は中空へと飛翔し、西方へと飛び去ってしまいます。その後を追った法道仙人は、ようやく播磨国の東端の地でこの霊木に再会する事が出来ました。この場所は、霊木が着いた地であることから「木津」という地名が付けられたといわれています。
さらに道を進んでいくと、境内へと続く石段を見つけることが出来ます。
これからこの霊木で観音像を彫り、どこかふさわしい土地を見つけて観音様を安置しようと考えながら歩いていた法道仙人は、木見の地にさしかかったところで黄色い牛に乗った一人の老人と出会います。老人から霊木を譲り受けたいとの申し出を受けた法道仙人は「この木を使って観音様を彫り上げたいと思っています」と丁重に断りました。「それならば共にその地を探そう」と老人は法道仙人と一緒に歩き出しますが、とある山にさしかかったところで突然、山一帯に法華経を唱える声が響き渡り始めました。何事かと驚く法道仙人に、老人は「我は牛頭天王なり。この地に寺を建て仏教を広めよ。必ずやそなたを護り布教を援けよう」と言葉を残し、忽然と姿を消したそうです。そこで、法道仙人はこの老人の言葉に従ってここに寺院を建立し、近江国の琵琶湖に浮かぶ霊木から御本尊を彫り上げた事にちなんで近江寺と名付けたといわれています。646(大化2)年に創建された近江寺は、法道仙人に深く帰依していた孝徳天皇の庇護を受けて栄えたと伝えられています。
【本堂内陣】 【御本尊】
近江寺の本堂。徳川幕府によって再建された当時の様子を今に伝える唯一の建造物です。
1172(承安2)年には、平清盛公によって摂津国の清澄寺から慈心上人が招かれて近江寺に入り、境内伽藍の整備して中興に尽力されました。南北朝の争乱期には多数の僧兵を擁し、南朝方の名和長年公や新田義貞公を支援するなど隠然たる影響力を持ち、寺勢も大いに栄えました。室町時代には播磨国の守護職・赤松満祐公が一族の祈願所に定め、伽藍の拡充を図ったといわれています。その後、三木城に本拠を置いた別所長治公も近江寺を祈願所にしましたが、西へと勢力を広げつつあった織田方の羽柴秀吉公と激突した1579年の三木合戦では、別所方の兵站基地だったために攻撃を受け、兵火によって焼失の憂き目に遭います。これによって荒廃していた近江寺は、1662(寛文2)年になって徳川幕府の支援を受けて伽藍の再建を果たします。この時再建されたのは、本堂や三重塔、祖師堂・阿弥陀堂・護摩堂でしたが、現在その頃の姿をとどめているのは本堂のみとなっています。
本堂の左手に立つ朱塗りの鐘楼(左)と、その脇に立つ聖観世音菩薩の石像(右)。
近江寺は、毎年2月11日に「修正会」が行われる事で知られています。近江寺の修正会は江戸時代に始まったといわれ、現在では地元の8つの地区の自治会が持ち回りで運営しています。修正会の主役は様々な鬼たちです。本堂での法要が終わった後、太鼓と法螺貝の合図によって鬼の踊りが始まります。毘沙門天の化身とされる赤鬼、不動明王の化身とされる青鬼、そして小鬼を従えた2匹の婆々鬼たちによって、「無の踊り」「平の踊り」「火合せ」「火供え」「餅割り」「花の踊り」の6番の踊りが奉納され、境内は詰め掛けた人々の歓声で包まれます。
本堂の右手に立つ阿弥陀堂(左)と、その奥の一段あがった高台に立つ護摩堂(右)。
アクセス
・JR「明石駅」より神姫バスにて「上細田」バス停下車、東へ徒歩30分。
・神戸電鉄粟生線「押部谷駅」より神姫バスにて「上細田」バス停下車、東へ徒歩30分。
近江山近江寺地図 【境内図】 Copyright (C) 2000-2010 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.
拝観料
・境内無料
拝観時間
・常時開放
ところで昔から疑問なんですが、このような寺社の縁起などは正しいのでしょうか?
このような寺社の縁起は、よく分かりませんが事実も含まれているのではないでしょうか。
しかしながら、現在は縁起を記した古文書自体が焼失したりして失われていることも多く、確かめるすべはありません。
そのあたりを注意しながら歩いてみます。ありがとうございました。