神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

福島・多珂神社(南相馬市)。

2011年08月26日 | ▽東北地方
縁結び・厄除開運・国家安寧


多珂神社

(たかのじんじゃ)
福島県南相馬市原町区高字城ノ内112




太田川の脇に立つ石造りの大鳥居。1900年もの歴史を持つ古社への入口です。



〔御祭神〕
伊邪奈伎命
(いざなぎのみこと)


「多珂荒御魂命」とも呼ばれる
※1857(安政4)年編纂「奥相志」より


 国の重要無形民俗文化財として知られる勇壮な「相馬野馬追」。福島県相馬市の相馬中村神社、南相馬市原町区の相馬太田神社、南相馬市小高区の相馬小高神社を中心に、毎年7月の最終土・日・月の3日間にわたって繰り広げられる、1000年以上の歴史を持つお祭です。第6代・相馬重胤公が陸奥国の行方郡に入って以来、小藩ながらも武勇に優れ、北方の雄・伊達氏や関東の佐竹氏に一歩も引けをとらず独立を維持し続けた相馬氏は、大勢力に囲まれながらも、常に武芸のみならず学問・礼儀作法など文武両道の鍛錬を重ね、高い結束力と士気を保ち続けた名族です。平将門公が敵の軍勢に見立てた野生馬を相手に軍事演習を行ったという故事が始まりだといわれる「相馬野馬追」は、鎌倉時代に幕府より軍事訓練一切に関する厳しい取り締まりが行われたにもかかわらず、「野馬追」という神事の形をとる事で実質的な軍事演習の場として継続して行われてきました。





福島第1原発事故に伴う警戒区域の看板(左)と、鳥居脇で倒れたまま放置されている石柱(右)。



 そんな伝統ある「相馬野馬追」ですが、2011(平成23)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震で一帯が甚大な被害を受けた事により、開催が危ぶまれるという事態に陥ります。「規模を縮小して開催すべき」「とても祭どころではない。中止すべき。」という意見や、「こういう時だからこそ犠牲者の鎮魂のためにいつも通りの規模で行おう」という意見など様々な意見が寄せられましたが、関係者の皆さんの真摯な議論の結果、最終的には行事を大幅に縮小し、震災で犠牲になった方々の鎮魂と地域の復興を願う「東日本大震災復興・相馬三社野馬追」として開催される事となりました。7月23日の相馬中村神社での出陣式を皮切りに、7月24日の相馬太田神社での例大祭を経て最終日へと進んだ「相馬野馬追」ですが、例年会場となっていた相馬小高神社福島第1原子力発電所の事故に伴う警戒区域内にあって立ち入り禁止になっているため、今年は半径20㎞の警戒区域のすぐ外にある多珂神社にて、神事や「上げ野馬神事」が開催されました。今回ご紹介するのは、「相馬野馬追」神事の代替地となった、1900年の歴史を持つといわれる古社・多珂神社とさせていただきます。





多珂神社の手水舎(左)。右は集落の中にある多珂神社の境内。



 多珂神社は、景行天皇の勅命を受けて東夷平定のために陸奥国へと進軍した日本武尊(ヤマトタケル)が、岩手県の北上川流域にあったとされる蝦夷の支配する国・日高見国を攻略する際、111(景行天皇40)年7月に大明神川原の近くにある玉形山に神殿を建てて戦勝祈願を行ったのが始まりとされています。現在の社地である城ノ内から西に500mほど行った所に古内という地区がありますが、この一部が大明神川原と呼ばれていて、元々の社殿が建てられた「往古の地」だといわれています。その後、199(仲哀天皇7)年2月にこの地を襲った暴風雨のために社殿が大破してしまい、9月になって城ノ内(当時は芦野平と呼んでいた)に遷座されて再建されました。創建時期に関してはあくまで社伝に基づく伝説の域を脱しませんが、同じ原町区内には4世紀後半頃に造られたと見られる桜井古墳がある事から、少なくともこの頃には大和朝廷の影響力が及んでいた事が分かります。





境内摂社(左)と七福神の石像(右)。本来は台座の上にありますが、震災で倒れてしまいました。



 927(延長5)年に作成された「延喜式名神帳」には、陸奥国行方郡に鎮座する神社のうち多珂神社高座神社日祭神社冠嶺神社鹿嶋御子神社御刀神社益多嶺神社押雄神社の8社が選ばれています。中でも多珂神社名神大社にも列せられており、行方8座の中で最も霊験著しく格式の高い神社であるだけでなく、陸奥国でも屈指の名社とされ、東北各地に鎮座する多珂神社のルーツとなっているともいわれています。ちなみに「多珂」という名前は、朝鮮半島から渡来した高句麗氏族に由来しており、これらが東北各地へと移住していく中で「」「多珂」「多賀」などの地名を残していったといわれています。





社殿正面、南向きに立つ苔むした鳥居(左)。参道脇に立つ小さな摂社(右)。

多珂神社の拝殿。相馬中村藩主・相馬忠胤公によって1655(明暦元)年に修復されました。



 行方郡式内社8座の筆頭である多珂神社は、古来より身分の上下を問わず多くの人々の厚い信仰によって支えられてきました。1380(康暦2)年には藤原吉守公という人物より鰐口が寄進され、1655(明暦元)年4月には相馬氏の第19代当主で相馬中村藩の第3代藩主である相馬長門守忠胤公より資材の献上を受けて社殿の修復が行われました。相馬忠胤公は、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠公の近習も勤めたことのある上総久留里藩第2代藩主・土屋利直公の次男に生まれましたが、相馬中村藩の第2代藩主・相馬義胤公に世継ぎの男子がいなかったため、娘の亀姫のもとに婿入りする形で相馬氏の家督を継いだ人物で、藩政の運営に優れた手腕を発揮して名君として慕われました。元禄年間(1688~1704年)には第5代藩主・相馬昌胤公から白符鷹の彫刻が奉納され、さらに1724(享保9)年には、同じく相馬昌胤公より社田として1石9斗あまり(約2反)が寄進されています。多珂神社は明治維新後の近代社格制度において、1873(明治6)年に郷社に列せられ、1886(明治19)年10月には県社に昇格されています。なお、境内には八坂神社稲荷神社太田農神社の3社が境内社として祀られていますが、どれがどの社殿にあたるのかは表示がなく分かりませんでした。





本殿の脇に鎮座する摂社(左)。避難されているのか、社務所に人の気配はありません(右)。


アクセス
・JR常磐線「磐城太田駅」下車、南へ徒歩8分。

多珂神社 地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.
 

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放


島根・瑞光山清水寺(安来市)。

2011年08月18日 | ▽中国・四国地方


瑞光山 清水寺

(ずいこうざん きよみずでら)
島根県安来市清水町528

出雲國神仏霊場・第11番札所
中国観音霊場・第28番札所
出雲観音霊場・第27番札所

通 称
安来清水寺
(やすぎきよみずでら)



緑溢れる静かな山中にある瑞光山清水寺。堂々たる規模を誇る天台宗の古刹です。


〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
十一面観世音菩薩像
(じゅういちめんかんぜおんぼさつぞう)


 瑞光山清水寺が開かれたのは587(用明天皇2)年。蘇我馬子厩戸皇子(のちの聖徳太子)が、仏教を巡って激しく対立していた物部守屋を攻め滅ぼした「丁未の乱」が勃発した年でもあります。寺伝によると、当時この地は松や柏の木が鬱蒼と茂る薄暗い山林で、近隣の者も近付く事のない気味の悪い山だったそうです。しかも、日が落ちるとこの山から里に向かって怪しげな光が差し込み、人々を畏怖させていたといいます。そんな時にここに立ち寄ったのが、山城国出身で出雲路を遊行中だった尊隆上人でした。瑞光に畏敬の念を抱いた尊隆上人が光の源を探るべく山中へと分け入ると、どこからともなく1人の白髪の老人が現れ、尊隆上人に「これまで観音様をお守りしてきたが、そろそろ常世へと旅立たなくてはならなくなった。代わりに観音様をお祀りしてくれる方を探していた」と1体の観音像を託して立ち去りました。この仏像をありがたく賜った尊隆上人はさっそく山中に小さな草堂を結び、観音様を安置してお祀りしたといいます。これが清水寺の創始とされています。当時は全く水の湧かない場所でしたが、1週間密行を施したところ、不思議な事に草堂のすぐ傍から滾々と清水が湧き出し、四季を通じて変わる事なく常に清らかな水を湛えるようになった事から、山号を「瑞光が射した山」に因んで「瑞光山」、清らかな水に恵まれた寺という事から「清水寺」という名前が付けられたと伝えられています。





石段の先にある大門(左)。参道の脇には岩不動像が参拝者を見守ってくれています(右)。

参道を登った先にある浮見観音(左)と、精進料理を戴ける旅館「紅葉館」(右)



 597(推古天皇5)年には清水寺の存在は都へと伝わり、厄払いの霊験あらたかなる事を知った推古天皇によって堂塔の造営や斎田の下賜などのバックアップを受け、山陰における鎮護国家の道場としての地位を築く事となります。しかしながら年を経るにつれて次第に堂宇は朽ち、やがて往時の盛観を窺い知る事も出来ないほどに荒廃の一途を辿っていってしまいました。そんな清水寺が輝きを取り戻すのは、9世紀に入ってから。16歳の若さで清水寺の再興を志した盛縁上人の懸命な努力に対し、時の平城天皇が詔を奉じて七堂伽藍再建の支援を行い、806(大同元)年に名刹の中興が実現しました。この落慶法要は都から多くの公家たちも参列した非常に煌びやかなものだったそうで、あたかも「絵巻を見るが如き」盛大な式典だったと伝えられています。





境内中庭の奥に鎮座する稲荷社(左)と、金魚が泳ぐ池に囲まれた弁天堂(右)。



 創建当初の宗派は分かっていませんが、9世紀の半ば頃に大きな転機が訪れます。9年半もの長期間唐で求法の修行を重ね、苦難の末に無事帰国を果たした慈覚大師円仁が、都へ帰る途中の847(承和14)年11月に清水寺を訪れ、「秘密大潅頂光明真言」の秘法と精進料理を伝えます。これを機に清水寺比叡山延暦寺を本山に仰ぐ天台宗寺院となり、出雲の鰐淵寺や「投入堂」で有名な鳥取県東伯郡の三仏寺、西伯郡の大山寺と並ぶ山陰道随一の天台密教の霊場として人々の崇敬を集めていく事となります。幾度か火災に見舞われながらもその都度再興が行われ、1393(明徳4)年には今もその姿を残す根本堂の建立が行われるなど寺域も定まり、七堂伽藍はもとより48の僧坊を持つ中国地方随一の規模を誇る大寺院として発展を遂げていきました。





中庭から望む「光明閣」と高灯篭(左)。根本堂への石段脇には千年杉が枝を伸ばしています(右)。



 しかし、時代は移って風雲急を告げる戦国の世となると、清水寺もその荒波に次第に飲み込まれていきます。京極氏の出雲守護代職から次第に勢力を拡大し、盛時には山陰・山陽8ヶ国を支配するほどの勢力を誇った尼子氏と、安芸国を本拠に急速に勢力を拡大していった知将・毛利元就公との間で起こった中国地方の覇権争いの中で、清水寺も戦乱の舞台となってしまいます。尼子氏は、1566(永禄9)年に本拠地・月山富田城を攻略され、毛利氏の軍門に下って戦国大名としての力を失い滅亡しますが、織田信長公の支援を受けた遺臣・山中鹿之助公や立原久綱公たちは京都・東福寺の僧侶となっていた尼子一族の尼子勝久公を擁立、尼子氏の再興を賭けて各地で抵抗運動を続ける事となりました。

 但馬国から隠岐国へと入り、機を窺っていた尼子勝久公は1569(永禄12)年に出雲国に上陸。尼子再興の号令に呼応して集結した尼子氏の旧臣たち約3,000の軍勢を率いて松江の新山城を攻め落とします。勢いに乗って出雲国の旧領を制圧した尼子軍は、本拠地であった安来の月山富田城奪還を目指して進撃しますが、守将・天野隆重公の頑強な抵抗に遭って攻めあぐね、支援のために押し寄せた毛利輝元公率いる13,000の大軍を防ぎきれず、1570(永禄13)年2月に「布部山の戦い」に敗れて撤退を余儀なくされました。この一連の戦いの中で尼子軍清水寺の根本堂に立て籠もって抵抗し、毛利軍の焼き討ちに遭って境内は炎に包まれてしまいます。この時、大半の堂宇は灰燼に帰してしまいましたが、根本堂だけは僧侶たちの必死の消火活動のおかげで全焼は免れ、今日に至るまでその姿を留める事となりました。その後、中国地方の覇権を握った毛利氏や江戸期の代々の松江藩主の庇護を受け、境内の再建が行われて法灯は守り続けられていきました。






1393(明徳4)年に建立された根本堂(左)と、その奥に立つ鐘楼(右)。



 清水寺の広大な境内には、数多くの文化財が点在しています。国の重要文化財にも指定されている根本堂は1393(明徳4)年に建立されて以来、戦国の兵火を乗り越えて現在へと伝えられているもので、江戸時代に何度か修復工事が行われた後、傾斜が著しく腐食や破損も目立ってきたために近年全面解体修理が行われ、4年半の工期ののち1992(平成4)年に修復工事が完了して往時の盛観を取り戻しています。また、有名な三重塔は1859(安政6)年に建立されたもので、33mの高さを誇る山陰唯一の総欅造の木造多重塔です。建立の際には1万人講を組織して資金が集められ、33年もの歳月が費やされました。この間に工事に携わった大工は3世代、ご住職も2代に渡るという大プロジェクトでした。島根県の指定文化財となっているこの三重塔には拝観料を納めると登る事ができますので、訪れた際にはぜひ素晴らしい眺望を味わってみてください。その他にも山陰屈指と讃えられる美しい庭園「満月の庭」のある光明閣や、「鶴亀の庭」と呼ばれる庭園と1805(文化2)年に松江藩7代藩主・松平不昧公をもてなすために時のご住職・恵教和尚が建てたといわれる茶室「古門堂」が見所の蓮乗院、国の重要文化財に指定されている十一面観世音菩薩立像(伝平安時代作)などが所蔵されている宝物館、精進料理を戴く事のできる旅館「松琴館」や「紅葉館」など、山陰の古刹・清水寺の境内は魅力に満ち溢れた癒しの場となっており、厄払いはもちろんの事、山陰に根付いた仏教文化や美しい自然を堪能するために訪れた数多くの参拝客で連日賑わいを見せています。





緑に包まれた蓮乗院(左)と、1859年建立の三重塔(右)。山陰唯一の木造重層塔です。

三重塔は内部拝観が可能で、最上階からは緑あふれる森の向こうに中海を望むことが出来ます。


アクセス
・JR山陰本線「安来駅」下車、車で15分 (境内駐車場:100台)

瑞光山清水寺 地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

【境内図】

拝観料
・境内無料
 光明閣書院庭園(抹茶付) 大人:600円、学生:400円
 宝蔵(宝物館) 大人:300円、学生:150円
 三重塔登閣 大人:200円、学生:150円、小学生・幼稚園:100円

 ※上記3点セットだと900円(大人のみ適用)となります

拝観時間
・6時~18時(4月~10月)
・6時~17時(11月~3月)
 ※庭園や三重塔の拝観時間は9時~17時

公式サイト



宍粟市・伊和神社(播磨国一の宮)。

2011年08月16日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
農工商業など諸産業繁栄・縁結び・病気平癒


伊和神社

(いわじんじゃ)
宍粟市一宮町須行名407


播磨国一の宮




国道29号線沿いに鎮座する、伊和神社の社叢。約1万7000坪(約5万5000㎡)もの広さを誇る。


〔御祭神〕
大己貴神
(おおなむじのかみ)

※ここでは伊和大神とも言われています


 播磨国の一の宮・伊和神社の御祭神である大己貴命は、神話において国土開発・産業の振興・医療の普及など国家の礎を築いた「国造り」の神として知られています。社伝によると、ここ播磨国に入った大己貴神は播磨各地を巡って国造りを行い、最後に伊和神社の鎮座する地に辿り着きます。その時「於和(おわ)(=我が事業は終わった)という言葉を発してこの地に鎮まった事から、人々がその偉業を讃え御神徳を慕って社殿を築いて奉斎したのが伊和神社の始まりとされています。もともとの社名も「伊和坐大名持御魂神社」、すなわち伊和の地に坐す大名持御魂神(おおなむじのかみ)の神社、という意味の名前となっています。

 創祀についてはこれとは異なる説もあります。144(成務天皇14)年(564(欽明天皇25)という説もある)の事、伊和恒郷公の夢に伊和大神より「我を祀るべし」との神託がありました。驚いた伊和恒郷公の目に飛び込んできたのは、一夜のうちに杉や檜が生い茂り、多くの鶴がその上を舞っている光景でした。この地に分け入った伊和恒郷公は、石の上で北向きに眠る2羽の大きな白鶴の姿を発見します。伊和恒郷公はこの石があった場所に社殿を築いて伊和大神を祀ったといわれ、伊和神社の社殿が珍しい北向きの社殿であるのは、この鶴にちなんだものだといわれています。これに関しても異なる説があり、出雲系の神とされる伊和大神を北向きに祀る事で、出雲大社の御祭神・大国主命が西向きに祀られている事と同様に、大和朝廷によって征服された神々が怨霊となって祟る事を封じ込める意味合いがあったのだという説もあります。





境内に入ると、大きな「両部鳥居」と呼ばれる鳥居(左)があり、その奥に随神門が立っています(右)。



 伊和神社に祀られている御祭神・大己貴神大国主命とも呼ばれ、ここでは伊和大神と同一神とされています。「播磨国風土記」には、出雲国からやって来た伊和大神(=大己貴神)が紆余曲折を経ながら播磨国を平定し、「国造り」を行っていく様子が描かれています。最初に現在の佐用郡辺りから播磨国入りした伊和大神は、やがて「宍禾の郡(しさわのこおり)」、現在の宍粟市周辺を本拠地に勢力を拡大していきます。ちなみに「宍禾」の名は、この地を訪れた伊和大神が鹿に出会った故事から生まれたといわれ、「鹿に会われた」→「ししあわ」→「しさわ」と転じ、現在の「しそう」へと変化していったと伝えられています。「宍禾の郡」を手中にした伊和大神は、南方の播磨平野へと進出して播磨国を制覇し、各地で国土の整備や諸産業の振興に努めていきました。播磨国の王として君臨した伊和大神は、国譲りを求めて攻め寄せた天日槍命の軍勢を退けるなど、自らが開発した播磨を死守していましたが、その後強大な軍事力を背景に進攻してきた大和朝廷の圧力に押されるように播磨平野を追われ、宍粟の山野へと押し戻されてしまいました。





真っ直ぐに伸びた御神木の杉(左)と、境内の西側に立つ神楽殿(右)。



 実際のところは出雲国の大己貴命伊和大神は同一のものではなく、異なった存在だったと考えられます。大和朝廷成立以前に各地を統べていた豪族たちは、次第に強力な軍事力を誇る大和朝廷に制圧されて臣従し、あるいは滅亡させられていきますが、その際に大和朝廷が各地の首長を神格化し、一つの神格として祀ったのが「大国主命」という存在でした。ここ播磨国でも同様に、宍粟を中心に播磨平野全体へ勢力を伸ばしていた伊和族の象徴である「伊和大神」が、大和朝廷の軍事力に屈して「国譲り」をし、宍粟へと後退した事によって大和朝廷より「大国主命」という神格の一部に組み込まれて同一神視されていったという事ではないかと考えられます。





珍しい北向きの社殿。創祀の際の白鶴の故事に由来するとも、怨霊封じのためともいわれています。



 伊和神社は、859(貞観元)年に従五位勲八等の神階から従四位下に格上げされ、881(元慶5)年には正四位下に、そして991(正暦2)年には、最高の正一位の神階に叙せられています。さらには927(延長5)年に編纂された「延喜式神名帳」においては「伊和坐大名持魂神社」の名で名神大社に列せられています。また、伊和神社は度々火災に見舞われて社殿炎上の憂き目に遭いますが、その都度再建が行われてきました。1249(建長元)年4月には社殿が炎上、この時は朝廷によって再建が行われました。1392(明徳3)年には赤松義則公によって再興され、1562(永禄5)年には長水城の城主・宇野村頼公によって再建されています。1816年(文久元年)には入母屋造の社殿を再建、1852(嘉永5)年2月に炎上した際には播磨国の一の宮である事から播磨国中より再興資金や資材などが集められ、まず1858年(安政五年)に拝殿や幣殿などが再建され、1862(文久2)年には領主である小笠原信濃守によって本殿が造営されています。





拝殿内にある神楽太鼓(左)と拝殿奥の幣殿(右)。拝殿には多くの絵馬が飾られています。



 立春から数えて210日前後は台風襲来の特異日といわれていますが、ここ伊和神社ではその210日の前の8月26日に「風鎮祭」を行っています。別名「油万燈祭」とも呼ばれるこのお祭りでは、210日の風を鎮めて五穀豊穣と家内安全を願う神事が行われ、日暮れとともに境内に並べられた油灯明に火が灯されて幻想的な雰囲気に包まれます。また、例年10月15・16日には秋季大祭が行われます。特に16日の神幸祭では神輿の渡御が行われ、5台の屋台による練り合わせの後に神輿を中心に100人近くの神職や奉仕者の方々による渡御行列が御旅所に向かって行われ、大いに盛り上がります。

 さらに、伊和神社では21年に一度「一つ山祭」が、そして61年に一度の甲子の年には「三つ山祭」が行われています。菅原道真公の編纂によって892(寛平4)年に完成された「類聚国史」には「斉明天皇四年秋、百済の葛海をして伊和山に猟せしめられしに山頂鳴動し、一毛も得ずして帰りぬ。一少年ありて語るに、『神山なり猟なきは神の御心なり』と。これにより即時の祭を始め給う」と記されていますが、伊和神社一つ山祭はこの故事に因んで始められたといわれています。祭礼の際には宮山に近い御旅所である「篳篥の宮」から神祠を遥拝し、伊和神社でも神事が行われます。三つ山祭では、揖保川の河原にある御旅所で白倉山高畑山花咲山の伊和三山の磐座を祀る神事を執り行います。次回の一つ山祭は2024年、三つ山祭は2044年に開催予定です。





本殿の東側には御霊殿・五柱社・播磨十六郡神社(東8郡の神々を祭祀)が並び(左)、本殿右手には
播磨国の西8郡の神を祀る播磨十六郡神社があります(右)。ちなみに本殿の奥には、創建の故事に
記されている2羽の白鶴が留まって眠っていたといわれる「鶴石」があります。



アクセス
・JR山陽本線「姫路駅」より神姫バス山崎行にて終点下車。乗換ののち神姫バス曲里・戸倉行にて「一の宮伊和神社」バス停下車すぐ
伊和神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

【境内図】

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

関連サイト



夢前町・百丈山臨済寺(夢前七福神)。

2011年08月07日 | □兵庫県 -姫路


百丈山 臨済寺

(ひゃくじょうざん りんざいじ)
兵庫県姫路市夢前町新庄1468


夢前七福神霊場・第5番札所
- 大黒天 -



緑豊かな山中に建つ山門。清流を跨ぐ石橋を踏み越えると、臨済禅の古刹・臨済寺の境内です。


〔宗派〕
臨済宗妙心寺派

〔御本尊〕
聖観世音菩薩立像
(しょうかんぜおんぼさつ)


 「平成の大合併」によって姫路市へと編入された夢前町。町の北部には県立自然公園になっている標高915mの名峰・雪彦山(せっぴこさん)が聳え、鮎狩りで知られる清流・夢前川が涼を運ぶなど豊かな自然に囲まれ、雪彦温泉塩田温泉など、骨休めが出来る癒しの里として多くの人々が訪れる静かな町です。この町には「西の叡山」とも称される名刹・書写山円教寺のすぐ北に位置する事から天台宗寺院が多く、町の北東部にも真言宗寺院が軒を連ねるなど、寺社仏閣が町の全域にわたって点在しています。そんな夢前町には、この地域の臨済禅の草分けといわれる寺院が、中東部の新庄地区の山間で法灯を守り続けています。その寺院の名は臨済寺。600年以上の歴史を持つ古刹です。




山門をくぐると、苔生した石段が続きます(左)。境内には水子供養の地蔵尊は祀られています(右)。


 鎌倉時代から戦国の世にかけて、播磨地方で強大な勢力を保っていた赤松氏。その中でも、1371(建徳2)年に父・赤松則祐公の死によって家督を継いだ赤松義則公の功績は大きく、1391(元中8)年に起きた明徳の乱で多大な武功を挙げて将軍・足利義満公より美作国守護職を与えられ、さらには侍所の所司にも任じられて幕政に参加するなど、赤松氏が有力守護大名として勢力拡大を果たしていく上で著しい功績を上げた名将としてその名を天下に知らしめました。赤松義則公は寺院の建立や再建、財政的バックアップも数多く行っており、この臨済寺赤松義則公が発願して別峯大朱圓光国師を開山に招き、1379(康暦元)年に建立されています。この臨済寺の建立が、夢前地域に臨済宗が伝わるきっかけとなったといわれています。




境内の西側に立つ大師堂(左)と、その北側に祀られている「夢前七福神」の1柱・大黒天(右)。


 臨済寺赤松氏の興隆とともに赤松一門の参禅修行の道場として栄えていきましたが、天正年間(1573~1592年)、播磨国攻略を進める毛利軍と、包囲網打破のために「中国攻め」に着手した織田信長軍の指揮官・羽柴秀吉公との間で起こった戦乱に巻き込まれて焼失の憂き目に遭い、赤松氏の運命と歩を一にして寺勢は衰退していく事となります。それから1世紀後の江戸時代初期、1667(寛文7)年に姫路城主となった松平直矩公が山形の大龍寺から霊應紹泉和尚を中興開山に招いて臨済寺の再建を行い、1675(延宝3)年に無事復興がなされました。また、明治時代に入って弘法大師信仰が盛んになった影響で、臨済宗の寺院にもかかわらず近隣信者の皆さんの尽力で裏山に八十八箇所札所の石仏がお祀りされています。




姫路城主・松平直矩公によって1675(延宝3)年に再建された本堂。

赤松義則公の墓所と伝えられる宝篋印塔(左)と、臨済寺の歴代住持の御墓所(右)。


アクセス
・JR山陽本線「姫路駅」より神姫バス51・52系統「山之内」行にて「上新庄」バス停下車、徒歩5分
臨済寺地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・受付時間は不明ですが、9時~17時くらいの参拝がお勧めです

紹介サイト(姫路市HP内)