神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・三王神社。

2007年12月25日 | ■神戸市東灘区
福徳開運・諸産業振興

三王神社

(さんのうじんじゃ)
神戸市東灘区田中町2-2-1



阪神淡路大震災では大きなダメージを受けました。


〔御祭神〕
大山咋神
(おおやまくいのかみ)



 JR摂津本山駅から山手幹線を西に向かうと、岡本交差点から南に抜ける広い道に出ます。東灘区岡本2丁目から魚崎南町6丁目にかけて延びるこの道路は正式には魚崎幹線といいますが、その道幅から地元では「十二間道路」と呼ばれています。この十二間道路を南に下って国道2号線まで出ると、田中交差点の北西角に美味しいアイス最中で有名な鈴木商店があります。そこから横断歩道を渡った東側に、地車庫のあるコンパクトな神社を見つけることが出来ます。ここが、山の神さまである大山咋神を祀る三王神社です。







 三王神社の創建に関して詳しいことは不明ですが、1781年から1788年にかけての天明年間にはすでにこの場所に石で作られた祠が祀られていたそうです。もともと東灘の辺りでは、春には人里に下りて「田の神」となり、秋に稲穂を実らせて山に戻っていくという「山の神」に対する信仰が深かったといわれています。山の上にいくつかの祠があり、現にJR摂津本山駅の東側の踏切の近くには遥拝所である小祠が建てられていることを考えると、三王神社もそういった山の神が人里に下りてきたときの「里の社」という存在だったのではないでしょうか。




社殿の左手には宇迦之御魂神を祀る三王稲荷があります。



 阪神淡路大震災では本殿や鳥居など境内の大半が倒壊。社務所や隣接する宮司さんの家も倒壊し、宮司のご長男も亡くなるなど悲しく辛い出来事も起こりましたが、氏子の皆さんのご尽力によって4年後には社殿などが再建され、玉垣や手水舎などの整備も行われるなど不死鳥の如く甦りました。5月3・4日の春祭には勇壮なだんじり祭が行われ、10月第3日曜日に行われる例祭では湯立て神事なども行われて賑わいを見せています。



震災から10年建って手水舎も見事に再建されました。



アクセス
・JR「摂津本山駅」下車、南へ徒歩5分
・阪急「岡本駅」下車、南へ徒歩10分
 三王神社地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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神戸・六條八幡宮。

2007年12月18日 | ■神戸市北区
家内安全・厄除

六條八幡宮

(ろくじょうはちまんぐう)
神戸市北区山田町中字宮ノ片57



美しい田園風景の中に鎮座する古社です。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)



 標高515mの丹生山の裾野に広がる山田荘は、すでに平安時代には開けていた土地で、奈良・東大寺の荘園として治められていたそうです。源為義公がこの地を治めていたという言い伝えもありますが、1169(嘉応元)年には、福原に別荘を構えて日宋貿易に取り組んでいた平清盛公が東大寺から山田荘を譲り受けて領主となっています。この年は、平清盛公が後白河法皇とともに東大寺で受戒するなど、その関係が強まっていた時期でもありました。




流鏑馬神事では、鳥居から本殿までの100mほどの距離を騎馬武者が疾走します。



 一の谷の合戦から壇ノ浦の戦いに至り平家が没落した後は、源頼朝公が山田荘を統治しました。源頼朝公は、1187(寛文15)年には山田荘を京都の左女牛八幡宮に社領として寄進しています。左女牛八幡宮は、京都・六条にあった源氏の邸宅の中にあった神社で、そこから八幡大神の分霊を招いたことから六條八幡宮と呼ばれるようになったそうです。

 また、山田荘神功皇后が三韓遠征の際に務古の水門に碇を下ろして上陸して山田の地に行宮を築いたという伝説のある土地で、平安時代の995(長徳元)年に周防国の僧侶・基灯上人円融寺という寺院を建立した際に、神功皇后の皇子である応神天皇=八幡三神を祀る若宮八幡神社を建てたのが起源という話もあります。おそらくは、もともと神功皇后ゆかりの地に建てられていた祠をベースに基灯上人若宮神社を建立し、源氏が山田荘を掌握した頃に一族が崇拝する八幡大神を祀っているこの神社を再興して六條八幡宮として整備を行ったと思われます。




1688(貞享5)年に再建された社殿。神戸市の指定文化財になっています。



 建立以来、山田13か村の総鎮守として人々から崇敬されてきた六條八幡宮には、17mを超える立派な三重塔が建っています。これは基灯上人が建立し神宮寺として村人たちの崇敬を集めていた円融寺に、1466(文正元)年に氏子である鷲尾綱貞公が発願して建立されたもので、当時の神仏混交の名残りを今に伝える貴重な建造物として重要文化財に指定されています。




社殿の西隣に建つ薬師堂。基灯上人が創建した円融寺の遺構といわれています。



 六条八幡宮は、1月19日の厄除祭の引目神事、10月第2日曜日の例祭の流鏑馬神事など、弓矢にまつわる神事が行われることでも有名です。これは山田荘を領有していたとされる源為義公ならびに弓の名手として有名だった息子・源為朝公にちなんだものだと思われ、江戸時代には行われていたそうです。「ウマカケ」と呼ばれている流鏑馬神事では、まず静止した馬上から矢を射たあと鳥居から本殿までの約100mの距離を早駆けします。これを2度行った後、今度は疾走する馬の鞍上から矢を射るという神事を2度行います。当番に当たった乗り手の方は、1ヶ月ほど練習をされるそうですが、乗馬と弓矢を両方こなすのは大変なようで、落馬されたり的を外すことも多いようです。




1466(文正元)年に建てられた三重塔。
大工・藤原周次と小工・藤原光重の2人が造営。



アクセス
・神戸電鉄「箕谷駅」下車、神戸市バス111系統衝原行きで「山田小学校前」バス停より北西へ徒歩5分
 六條八幡宮地図 Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
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京都・清水寺

2007年12月03日 | ◇京都府 -洛東

音羽山清水寺

(おとわさん きよみずでら)
京都市東山区清水1-294



神仏霊場京都 洛土の道・第37番札所
洛陽三十三所観音霊場・第10~14番札所
西国三十三所霊場・第16番札所




仁王門と三重塔。ここからが清水寺の境内です。


〔宗派〕
北法相宗総本山

〔御本尊〕
十一面千手観音像
(じゅういちめんせんじゅかんのんぞう)


 京都を代表する寺院として、日本はおろか世界にまでその名を知られる清水寺。年間を通じて実に1,200万人近い観光客が訪れる京都観光の中心地です。その清水寺の創建は今より1,200年以上前の奈良時代末期に遡ります。大和国出身の僧・賢心が「木津川の北流に清泉を求めよ」という夢のお告げを受けて東山の地に辿り着きます。そこで賢心は、音羽山の麓にある滝のほとりで庵を結んで修行をしている一人の行者と出会いました。齢200歳を越えるという行叡居士と名乗るこの行者は、観音菩薩の霊木を授け、その地を託してどちらともなく姿を消します。賢心は授かった霊木で千手観音像を彫り上げ、居士が結んでいた庵に安置しました。奈良・平城京から長岡京へと都が遷る少し前の778(宝亀9)年の事でした。





紅葉に包まれる三重塔。日本最大級の三重塔で、31mの高さを誇ります。



 その2年後の780(宝亀11)年、賢心が修行を続ける音羽山麓に一人の武人が足を踏み入れます。武人の名は坂上田村麻呂。妊娠中の妻の病を癒すために鹿の生き血を求めてやってきた坂上田村麻呂公は、水を求めて立ち寄った音羽の滝で賢心に出会います。事の顛末を聞いた賢心は殺生の非を説いた上で夫人の安産の祈願を行います。その甲斐あって、無事出産を終えたことを喜んだ坂上田村麻呂公は深く賢心に帰依して堂宇を建立し、観音像を御本尊に、脇侍に地蔵菩薩像と毘沙門天像を安置しました。賢心延鎮と名を改め、師である大和国・子島寺報恩大師を開山に迎えて寺院を創建します。





「清水の舞台」として有名な本堂は1633(寛永10)年に再建。国宝に指定されています。
御本尊の十一面千手観音菩薩像は秘仏とされ、33年に一度しか御開帳されません。


 810(弘仁元)年には嵯峨天皇の勅許を得て鎮護国家の道場と認められ、延鎮上人ゆかりの子島寺が「観音寺」と呼ばれていたことから「北観音寺」の法号を賜い、音羽の滝の清水にちなんだ「清水寺」の額が掲げられました。847(承和14)年には三重塔が建てられるなど伽藍の整備が進み、老若男女・貴賎を問わず広い層から崇敬を集めました。清少納言紫式部もそれぞれ枕草子源氏物語にその盛況ぶりを記しています。





奥の院(重要文化財)に安置されている三面千手観音菩薩坐像も秘仏とされています。
毎年、年末に発表される「今年の漢字」はここで発表されます。


 広い信仰を集めた清水寺も、976(天延4)年の大地震で三重塔が倒壊するなど何度も天災や大火で深刻な被害を受けています。京都では珍しい南都六宗のひとつ・法相宗の寺院だった清水寺は、999(長保元)年に奈良の興福寺と本山末寺の関係を深めていましたが、そのために興福寺と対立していた比叡山延暦寺から圧力を受け、1146(久安2)年と1165(永万元)年にはその門徒によって焼き討ちされました。応仁の乱の際にも兵火に巻き込まれた清水寺は、1469(文明元)年に本堂以下境内の大部分を焼失するなど壊滅的な被害を受けましたが、1484(文明16)年に再建。江戸時代の1629(寛永6)年にも大火で境内全域を焼失しますが、江戸幕府第3代将軍・徳川家光公や後水尾天皇の中宮・東福門院の尽力によって1631(寛永8)年から1633(寛永10)年にかけて諸堂の再建が進められました。現在の伽藍は大部分がこの時の再建によるものです。明治維新後は神仏分離令によって地主権現社地主神社として分離独立。次いで出された上知令によって境内の7割以上が没収され、寺領も1割程度に減らされるなど大変厳しい状況を強いられました。明治維新まで法相宗真言宗の兼学道場だった清水寺は1965(昭和40)年に独立宗派である北法相宗を立宗しました。





「清水寺」の由来となった音羽滝(左)と、紅葉に包まれる清水の舞台(右)。


アクセス
・JR「京都駅」より京都市バス206・100系統「五条坂」バス停下車、東へ徒歩10分
清水寺地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:300円、小中学生:200円
※夜間特別拝観期間中は、夜間の部が大人:400円、小中学生:200円

拝観時間
・6時~18時 (夜間特別拝観期間中は17時30分でいったん閉門されます)
※夜間特別拝観期間中は、夜間の部が18時30分~21時30分まで公開

公式サイト





新版 古寺巡礼京都〈26〉清水寺
森 清範,田辺 聖子
淡交社

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