神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・六宮神社 八宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月27日 | ■神戸市中央区
厄除

六宮神社・八宮神社(生田裔神八社)
  
(ろくのみやじんじゃ)          (はちのみやじんじゃ)
神戸市中央区楠町3-4-13


生田裔神八社
  



山手幹線から南へ入ってすぐのところに正面の鳥居があります。


〔御祭神〕
六宮神社
天津彦根命
(あまつひこねのみこと)
応神天皇
(おうじんてんのう)


八宮神社
熊野杼樟日命
(くまのくすひのみこと)
素盞鳴尊
(すさのおのみこと)



 四宮神社の前を山手幹線沿いに西に抜けていくと、ホテルオークラなどを建てた大倉財閥の創始者である大倉喜八郎の別荘の跡である大倉山公園が目に入ってきます。この大倉山公園の南に生田八裔神社のうちの2つ、六宮神社八宮神社が鎮座しています。もともとこの2つの神社は別々の場所に建っていたのですが、明治に入って公共施設の建設のため移転を余儀なくされ、今では同じ社殿に仲良く合祀されています。







 六宮神社天津彦根命応神天皇を御祭神とする神社で、以前はこの場所から西へ300mの場所にある楠中学校の地に鎮座していましたが、1909(明治42)年12月に楠高等小学校が開設されることになり移転されました。

 一方、八宮神社熊野杼樟日命素盞鳴尊を祀る神社で、兵庫県弁護士会館の地にありました。1909(明治42)年に神戸市の初代市役所が建てられるにあたり、現在地に遷座され、八宮神社の社殿に六宮神社が合祀された形となっています。




北側に六宮神社、南側に八宮神社を祀っています。



 今の楠町のあたりは、昔は八部郡坂本村と呼ばれており、六宮神社八宮神社坂本村の鎮守社として厚い崇敬を集めていました。この辺りには坂本臣と呼ばれる一族が住んでいたそうです。坂本臣は平安初期の815(弘仁6)年に編纂された氏族名鑑である新撰姓氏録の「摂津国皇別」の件に「紀朝臣(きのあそみ)と同じき祖。彦太忍信命の孫、武内宿禰命の後なり。」と記されているように、大和朝廷の初期に景行成務仲哀応神仁徳の5代の天皇に仕えて活躍したとされる武内宿禰の子孫とされています。武内宿禰ゆかりの応神天皇をともに祀ったのは、この坂本臣と考えられています。




この鳥居を見る限り、八宮神社の存在感のほうが大きいようです。



アクセス
・神戸市営地下鉄「大倉山駅」下車すぐ
 六宮神社・八宮神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・五宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月25日 | ■神戸市兵庫区
厄除・国家安穏・家内安全・五穀豊穣

五宮神社(生田裔神八社)

(ごのみやじんじゃ)
神戸市兵庫区五宮町22-10


生田裔神八社




民家の立ち並ぶ坂道を登りきると鳥居が出現。


〔御祭神〕
天穂日命
(あめのほひのみこと)



 創建時期は不明ですが、三韓遠征からの凱旋帰国の途中、神功皇后が5番目に巡拝された神社といわれており、御祭神の天穂日命出雲国の能義にあった天穂日神社から勧請されたと伝えられています。旧八部郡奥平野村の鎮守社として人々に崇敬を集めていました。







 御祭神である天穂日命は、天照大御神素盞鳴尊誓約(うけい)をした際に天忍穂耳神に次いで天照大御神の勾玉から生まれたといわれています。古事記日本書紀によると、天穂日命高天原から葦原つ中国平定の交渉のために出雲国の王・大国主命のもとに遣わされますが、大国主命に心服してその家中に留まり、娘の下照姫を妻に迎えて3年間高天原に戻らなかったといいます。国譲りの交渉役を放棄したということで記紀では否定的に扱われています。

 一方、天穂日命の末裔といわれる出雲氏によって記されたという「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」では、天照大御神より葦原中つ国の悪神を鎮圧し乱れを糺すために遣わされます。天穂日命は息子である天夷鳥神(あめのひなどりのかみ)経津主神(ふつぬしのかみ)を地上に派遣するなどして任務を遂行、天孫降臨の露払い役を見事に果たした偉大な神さまとして扱われています。




若松稲荷には花隈芸者の絵馬も残されています。



 北区へと抜ける動脈である有馬街道の東の山裾にある五宮神社。その昔は、この神社の東側を通る道が北に抜ける動脈のうちの一本の役割を果たしていました。真北にある鍋蓋山を経由して再度山大龍寺へ参拝したり有馬へと向かう人々で賑わいを見せ、そういった人々のために境内に茶店が設けられた時期もあったそうです。また、花隈の花街が盛んだった頃には四宮神社と並んで芸妓たちの厚い崇敬も受け、その当時に奉納されたという絵馬も若松稲荷社に残されています。




御祭神・天穂日命との縁の深い大国主命も祀られています。



 1872(明治5)年に湊川神社が創建された際には湊川神社の氏子社に指定されましたが、古くからの生田神社との深い繋がりを訴え、地元・奥平野村の庄屋や年寄などの代表者たちが連名で嘆願書を出した結果認められたということもあったそうです。これは、稚日女尊の神託「吾は活田長峡国に居らむと 海上五十狭茅に命じて生田の地に祀らしめ。」という一節にも出てくる海上五十狭茅(うなかみのいそさち)の子孫の家があったからといわれています。



アクセス
・神戸市バス⑥⑦系統「五宮」バス停下車、北へ徒歩5分
 五宮神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
   五宮神社公式ホームページ


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神戸・四宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月24日 | ■神戸市中央区
芸能成就・縁結び・交通安全

四宮神社(生田裔神八社)

(よのみやじんじゃ)
神戸市中央区中山手通5-2-13


生田裔神八社




山手幹線に面して立つ鳥居。隣の高層マンションの1階が社務所です。


〔御祭神〕
市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと)




 創建時期は不明ですが、神功皇后による三韓遠征の帰途、稚日女命を生田の森にお祀りした際に巡拝した8社のうちの4番目の神社として「四の御前の神」と名付けられました。

 ご祭神は天照大御神素盞鳴尊との誓約(うけい)の際に誕生された5男神3女神のうちの一柱・市杵島姫命です。市杵島姫命は神仏習合の中では弁財天に比定されており、美人の誉れの高い宗像3女神の中でも特に美しい女神として高い人気を誇っている神さまです。広島県・安芸宮島の厳島神社から勧請されたとされていますが、宗像3女神を祀る福岡・宗像神社とも関係があったようです。




朱塗りの鳥居。「芸能の神さま」への入口です。



 戦国時代の1574(天正2)年、石山本願寺毛利氏との補給路を分断する大きな楔として、織田信長公の命によって花隈城が大改修された際、四宮神社は城の鬼門鎮護の神と定められ、城主・荒木村重公より幣帛が奉納されました。その頃の花隈城は山手幹線辺りまで城域が広がっていたと伝えられており、荒木村重公の謀反を受けた織田軍の制圧戦によって花隈城が落城した際には兵火に巻き込まれたこともあったようです。現在の場所に移されたのは1854(安政元)年。その際三議稲荷神社が境内に祀られ、続く1855(安政2)年には八幡神社が祀られました。




社殿も朱塗りが鮮やかです。1963(昭和38)年の再建です。



 1902(明治35)年に兵庫県の新庁舎(現在の兵庫県公館)が建設されると、「県政守護の神様」とされて県庁関係者からの厚い崇敬も受けるようになります。1905(明治38)年6月に起きた大火事によって被害を受けましたが、芸能人・文化人や各界の有力者の助力を受けて5年後には無事復興されます。

 1927(昭和2)年には村社に列せられ、歴代の兵庫県知事四宮神社の例大祭に参列されるようになりました。1945(昭和20)年の空襲で大きな被害を受けますが、当時副知事を務めていた金井元彦氏の声掛けによって復興奉賛会が結成され、1960(昭和35)年5月から浄財を募集、氏子崇敬者・神戸市民や芸能・文化人など多くの方々の協力を受けて1963(昭和38)年5月10日に現社殿が再建されました。






 その昔、神戸で「花街」といえば福原ではなく花隈のことを指していました。料亭やお茶屋さんが50軒以上立ち並び、多いときには1000人近くの芸妓さんがお座敷に彩を添え、客層も皇族から財界人まで錚々たる顔ぶれだったそうです。そんな花隈に鎮座する四宮神社は、芸能の神さま・市杵島姫命を祀っていることもあり、花隈の芸妓さんの襲名奉告や舞の奉納が行われ、花隈芸者は一度は鑑札(営業許可書)を受けなければならなかったといわれており「花隈芸者の名付けの神」として有名でした。

 そんな四宮神社の境内には、弁財天芸能塚が建てられています。美と芸事の神さま・市杵島姫命を祀る四宮神社を崇敬する方々によって1984(昭和59)年4月に弁財天崇敬会が結成され、多くの方の浄財を受けて1年後の1985(昭和60)年4月に建立されたのが、この弁財天芸能塚です。毎年4月の第1土曜日もしくは日曜日には「芸能塚祭」が執り行われ、文化・芸能活動に打ち込んでいる方々から奉納された愛用の筆や扇や楽譜、鉛筆等を焚き上げてその長年の労をねぎらい、供養するという神事が行われています。




社殿前に鎮座する八幡神社。1855(安政2)年に勧請されました。




アクセス
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車、徒歩2分
 四宮神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
   四宮神社公式ホームページ

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神戸・三宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月14日 | ■神戸市中央区
交通安全・商売繁盛・知恵授け


三宮神社(生田裔神八社)

(さんのみやじんじゃ)
神戸市中央区三宮町2-4-4


生田裔神八社





大丸神戸店のすぐ傍に鎮座する三宮神社。都会の喧騒をしばし忘れさせてくれます。


〔御祭神〕
湍津姫命
(たきつひめのみこと)



 神戸の中心地・三宮。その「三宮」という地名の由来となったのが、今回ご紹介する三宮神社です。大丸神戸店のすぐ傍にある神社だといえば思い当たる人も多いはずです。一般に「三宮」といえば、律令制時代の国における3番目の格式を持つ神社の事を指しますが、神戸元町にある三宮神社は、生田神社に所縁のある神々を祀る「生田八裔神社」のうちの3番目の神社という位置付けで、航海・交通安全と商売繁盛に御利益があり、知恵授けの御神徳のある神社としても知られています。
 三宮神社は、かつては西国街道に面していました。田園風景の中にひときわ目を引く深い森が広がり、アヤメが植えられ、境内に清水が湧き出す井戸があるなど、まさに文字通り「オアシス」として旅人たちの渇きを癒していたそうです。御祭神が宗像三女神の一人・水の神様である湍津姫命だというのもうなずけます。三宮神社の井戸から湧き出す上質の清水は、開港間もない神戸港を出入りする船舶の飲料水としても重宝されたそうです。





「神戸事件」と同時代に使われていたという大砲(左)。並ぶように手水舎があります(右)。



 三宮神社に関しては、古い史料が残されていないため創建時期は明らかではありませんが、社伝によると三韓征伐からの帰途に神功皇后が巡拝された神社だといわれています。そうだとすると、西暦200年以前には既に祭祀の場が存在したという事になりますが、あくまで伝説の域を越えません。江戸時代には尼崎藩の領地であったために代々の尼崎藩主が厚い崇敬を寄せ、1748(寛延元)年の銘がある石灯籠は尼崎藩主の奉納したものだと伝えられています。また、境内には1732(享保17)年の銘のある石鳥居や手水鉢も残されています。
 旧八部郡神戸村の鎮守社とされ、人々の崇敬も厚かった三宮神社の御祭神で、天照大御神素盞鳴尊の誓約により生まれた五男三女神のうちの娘神、いわゆる「宗像3女神」の1柱である湍津姫命は年に一度、兄神にあたる二宮神社の御祭神・天忍穂耳尊と御対面をされるといわれ、それにちなんだ神事が行われています。 





三宮神社の社殿。



 境内の南西には「神戸事件発生地碑」が建てられています。「神戸事件」とは、1868(慶應4)年2月4日(旧暦の1月11日)に起きた岡山藩兵と外国兵との衝突事件で、新体制へと移行した維新政府が初めて直面した外交事件といわれています。当時は新体制を不服とする旧幕府勢力と明治新政府との間で戊辰戦争と呼ばれる軍事衝突が起き、神戸を所管していた兵庫奉行・柴田日向守戊辰戦争勃発に恐れをなし、任地を捨てて早々に逃亡してしまっていたために、神戸の町は一時統治機能が麻痺した騒然とした状況に陥っていました。そんな中、徳川方である尼崎藩の牽制のために新政府から西宮の警備を任ぜられて西国街道を東上していた岡山藩兵と、開港直後の居留地に赴任していた欧米各国の水兵たちとの間で「神戸事件」が発生しました。

 三宮神社付近に差し掛かった岡山藩兵の隊列の前を、横切ろうとしたフランス兵やアメリカ兵たちに対し、岡山藩第3砲兵隊長を務めていた滝善三郎正信公が槍を持ってこれを制止(大名行列など、武家の隊列を横切る事は「伴割」と呼ばれる大変無礼な行為とされていました)。しかしながら、言葉も通じず風習も当然ながら把握していなかった欧米の水兵たちがそのまま通行しようとしたため、滝善三郎正信公が槍で突きかかって軽症を負わせた事から事態は急変します。
 これに驚いた水兵側が拳銃を持ち出した事から岡山藩兵が発砲。これに外国兵が応戦し、さらに現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークスによる要請を受けたアメリカ海兵隊・イギリス警備隊・フランス水兵が神戸港に停泊中だった軍艦から上陸して岡山藩兵を追撃し、生田川の川原での銃撃戦に発展します。まもなく岡山藩家老より射撃中止と撤退の命令が出された事から、双方に死者が出る事なく戦闘は終結しました。

 諸外国側は居留の自国民保護の名目で付近一帯を軍事占拠し、日本側に対して謝罪と責任者の処罰を要求。とき折りしも欧米列強における植民地政策が進められていた時代で、文化の違いから起きた不幸な衝突とはいえ一歩間違えれば本格的な戦争や長期間にわたる軍事占領が続くなどの重大な外交問題になり兼ねない状況の中で双方による交渉が行われ、最終的に責任を一身に背負った砲兵隊長の滝善三郎正信公が兵庫・永福寺において見事切腹して果てることで最悪の状況を回避、事態の収拾が図られることとなりました。





社殿脇に鎮座する三宮稲荷・安高稲荷(左)と、その東に鎮座する河原霊社(右)。



 境内には、源平合戦の折に生田の森に拠って堅い守りを固めていた平知盛公率いる平家軍に対し、勇敢にも先陣を切って斬り込んでいった河原太郎高直公と河原次郎盛直公兄弟を祀る霊社も鎮座しています。もともと、生田神社の馬場先のやや西に河原兄弟を祀る塚が築かれていましたが、神戸港の開港などで町並みが急速に変わるうちにその跡は失われてしまいました。
 これを憂えた地元・三宮町3丁目の有志の方々が、1922(大正11)年に河原霊社を建てて遺徳を顕彰しましたが、神戸市の都市計画の影響で1958(昭和33)年4月に少し北に遷されます。1971(昭和46)年12月になって、再び市街地整備のために三宮神社の境内に遷されて現在に至ります。





震災の影響か、一部傷ついた狛犬(左)。北側から見ると、大丸神戸店の近くだと良く分かります(右)。


アクセス
・地下鉄「旧居留地・大丸前駅」下車、徒歩1分
・JR「元町駅」下車、徒歩3分
・阪神電車「元町駅」下車、徒歩3分
三宮神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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神戸・二宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月10日 | ■神戸市中央区
勝運・金運・家門繁栄・病気平癒・厄除


二宮神社(生田裔神八社)

(にのみやじんじゃ)
神戸市中央区二宮町3-1-12


生田裔神八社

通 称
正勝さん
(まさかつさん)





商店街と民家が並ぶ街なかに鎮座する二宮神社。


〔御祭神〕
天忍穂耳尊
(あめのおしほみみのみこと)



 「やまかん」の呼び名で国道2号線、国道43号線とともに神戸の東西を結ぶ山手幹線。神戸市役所の横を通り、新神戸駅へと南北に貫くフラワーロード。その2本の道路が交差する加納町3丁目交差点からすぐの場所に鎮座しているのが二宮神社です。先日ご紹介した一宮神社同様、生田神社の八裔神のうちの一社です。周囲には二宮筋商店街などの昔ながらの商店街が立ち並び、数多くの民家が軒を連ねる閑静な住宅街に囲まれ、飾らない「庶民の神様」といった佇まいで鎮座されています。





参道脇に繁る御神木(左)と、社殿の前に残されている御幸石(右)。

朱塗りの社殿。



 二宮神社の御祭神は天照大御神の長男である天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)で、天孫降臨神話では息子神である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に降臨の大役を譲ることでも有名な神さまであり、実る稲穂を讃える農業神といわれています。この天忍穂耳尊には正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)という長い別名があります。これは天照大御神との誓約に勝った素盞鳴尊が「正に勝つ、吾勝てり。勝つ速さ昇る日の如し」と喜んで名付けたと言われています。天忍穂耳尊を祀る神社は珍しく、神戸市内では北区にある杉尾神社二宮神社の2社だけです。「勝運の神様」として有名な二宮神社には、それ以外にも芸能向上や受験運、就職成就や結婚、安産、財運向上などの御利益があるといわれています。





社殿の右にある朱鳥居(左)をくぐった先に鎮座する稲荷神社(右)。

稲荷神社の向かいに立つ「おイネ狐」の像(左)と、1955年に創建された椋白龍社(右)。



 創立時期は明らかではありませんが、神功皇后三韓遠征から凱旋した201(摂政元)年に神徳著しかった神々をお参りになられた際、2番目に巡られた事から二の宮というようになったそうです。また、生田神社が祀られていたという布引山砂山が貞観年間(859~877年)に大洪水によって崩壊した際、神主だった刀弥七太夫が御神体を背負って避難したのが二宮神社のあるこの地だったといわれており、境内には御神体を祀ったとされる「御幸石」が残されています。これらの話は伝説の域を超えませんが、二宮神社の近辺に建っていた二宮小学校(現在は廃校)の跡地の発掘調査の結果、6世紀末から7世紀初頭に作られたとみられる鍛冶工房の跡と祭祀用の土偶等が発掘された事から、少なくとも1400年前にはこの地で何らかの祭祀が行われていた事が分かっています。
 明治時代に入り、葺合地区にあった神社の全てが二宮神社に合祀され、葺屋荘総鎮守として人々の崇敬を集めました。現在、地域の発展とともに合祀された神社も元の地域に戻されましたが、生田北向八幡宮だけが現在でも合祀され、天忍穂耳尊とともに応神天皇もお祀りされています。1945(昭和20)年の神戸大空襲では二宮神社の境内にも焼夷弾が2発命中し、御神木であるケヤキを一部焦がしたほか、機銃による銃弾の跡も石鳥居に残されています。





東側の鳥居(左)と、その脇にある手水舎(右)。


アクセス
・JR「三ノ宮駅」下車、北へ徒歩8分
・阪急電車・阪神電車「三宮駅」下車、北へ徒歩8分
二宮神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・一宮神社(生田裔神八社)。

2007年02月07日 | ■神戸市中央区
生成発展・厄除・交通安全・縁結び・商売繁盛

一宮神社(生田裔神八社)

(いちのみやじんじゃ)
神戸市中央区山本通1-3-5


生田裔神八社




観光客で賑わう北野坂から少し東に入ったところに鎮座しています。


〔御祭神〕
田心姫命
(たごりひめのみこと)



 最近何かと話題の多い生田神社。神戸には、その生田神社を取り巻くように生田八裔神と呼ばれる神社が点在しています。古事記における素盞鳴尊天照大御神との誓約(うけひ)のエピソードの際に生まれたとされる3人の女神と5人の男神が祀られている神社で「港神戸守護神厄除八社」とも呼ばれ、数字の順番に全ての神社を巡ると厄除けになるとも言われています。






 本来は、旧来の行政単位である「」のなかで最も由緒が深く厚い崇敬を集めている神社が「一宮」と定められ、国司が赴任した際には一宮から順に着任挨拶の参拝を行っていました。ここ神戸の一宮神社は、「」における一宮ではなく、生田神社における末社の一番目のお社、という意味で名付けられています。ちなみに摂津国の一宮は大阪の住吉大社とされています。




本多忠直公が1710年に建てた大和郡山城の御門を移築したといわれる手水舎



 ここ一宮神社の御祭神は、素盞鳴尊天照大御神の誓約の際に生まれた3女神のうちの一人である田心姫命で、福岡県の宗像大社より勧請されたといわれています。創建時期は不明ですが、神功皇后三韓遠征からの帰りに神徳著しかったこのお社を参拝されたという伝説があり、旧八部郡北野村の鎮守社として古くから崇敬を集めていたようです。

 最近では田心姫命=縁結びの神さまだということで、そごう神戸店ではバレンタインデー・フェアの一環として、特設コーナーに備え付けてあるメッセージカードに大切な人へのメッセージを書いてもらい、一宮神社でご祈祷を行って恋愛成就を祈るというイベントも行われています。



  
3~4世紀頃、この地域を切り拓いた氏族名から名付けられたという伊久波神社(右)と
商売繁盛のご利益があるといわれる熊高稲荷神社(左)。



アクセス
・JR「三ノ宮駅」下車、北へ徒歩10分
・阪急電車・阪神電車「三宮駅」下車、北へ徒歩10分
 一宮神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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