神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

大阪・通天閣。

2008年07月19日 | ◆大阪府


通天閣

(つうてんかく)
大阪市浪速区恵美須東1-18-6

大阪のシンボル



雑多な雰囲気の中にも、なぜか人々を惹きつける魅力を持つ「新世界」。




 神戸のポートタワー、東京の東京タワー、姫路の姫路城や京都の京都タワー東寺五重塔など、街のシンボルとなるランドマークを持つ都市は数多くあります。そんなランドマークのひとつとして、大阪城とともに日本有数の大都市・大阪を象徴しているのが、天王寺エリアにそびえ立つ通天閣です。5階には幸運を呼ぶ神様・ビリケンさんの像が置かれた展望台があり、4階にも展望台や喫茶店があります。3階はイベントホールとして利用できる貸スペースがあり、2階には展望台へのエレベータ乗り口や売店があります。

 また、地下にはNHKの朝のドラマ「ふたりっ子」で有名になった通天閣歌謡劇場があります。ここは道頓堀にあったB1角座が閉鎖されたために代替施設として利用されることが決まり、「スタジオ210」と改称されました。2008(平成20)年7月5日からは、松竹芸能による演芸イベント「通天閣劇場 TENGEKI」が土・日曜日に行われ、これまで週末に行われていた歌謡ショーが「通天閣歌謡劇場」のタイトルで毎週月曜日に開催されています。庶民文化の中心地として大阪市民に深く愛されている通天閣は、2007(平成19)年5月15日付で国の有形文化財に登録されました。



 
にぎやかな新世界の町並み(左)。ここをまっすぐ行くと、通天角の入口に辿り着きます(右)。


 日本の近代化を急速に進めていた明治新政府は、殖産興業政策の一環として、1877(明治10)年に東京・上野公園を会場に第1回内国勧業博覧会を開催しました。そして、大阪でも1903(明治36)年に天王寺周辺を第1会場、堺を第2会場として第5回内国勧業博覧会が開催されました。天王寺会場では、開門を待つ人の列が遥か1キロ先の日本橋まで伸びるほどの大盛況だったそうです。

 博覧会跡地の大部分は天王寺公園として整備され、残った土地は民間企業に払い下げられました。「新世界」と呼ばれるこの地域には、パリをイメージした放射線状の通りが整備され、南エリアに作られた遊園地・「ルナパーク」とともにランドマークとなる塔が建設されました。下半分が凱旋門、上半分がエッフェル塔を模して1912(明治45)年に建てられたこの塔の名は、「通天閣」。儒学者の藤沢南岳氏によって「天に通じる高い建物」という意味で名付けられたこの塔の工事には、のちに松下電器産業を興して立志伝中の人物となった松下幸之助氏も配電工として参加していました。



 
5階展望台からの景色。スパワールドやフェスティバルゲートなどが並ぶ南側の景色(左)と、
天王寺動物園や大阪市立美術館などがある天王寺公園方面を望む東側の景色(右)。


 初代の通天閣は、真下にあった映画館から出た火災によって鉄骨がむき出しになって溶けるなど強度が大きく落ち、危険な状態となったために残念ながら解体されてしまい、軍需用資材として大阪府に供出されました。1943(昭和18)年のことです。さらに1945年(昭和20年)の大阪大空襲のため、新世界一帯は灰燼に帰しました。しかしながら、戦災からの復興の象徴としてもう一度通天閣を復活させようという地元の人々の熱意が高まり、1956(昭和31)年に見事に再建されました。避雷針を含め、103mの全高を誇る2代目通天閣東京タワー名古屋テレビ塔なども手がけた早稲田大学内藤多仲教授によって設計されたもので、関東大震災級の大地震や風速70mの強風にも耐えられる構造の建築物として建てられました。

 翌1957(昭和32)からは、塔の側面に日立製作所の広告が設置されました。以来、内容こそ時代とともに変更されこそすれ、一貫して日立製作所の広告看板が通天閣を彩り続けています。また、夜は塔全体がゴールドと白を基調としたネオンでライトアップされ、塔頂部分には翌日の天気予報を表すネオンサインが点灯されています。大阪管区気象台から専用回線でリンクされているこのネオンサインは、晴を白、曇をオレンジ、雨を青、雪をピンク色で表現していますので、夜にここを訪れた際はぜひ確認してみてください。毎時0分ちょうどになるときれいなグラデーションで光り輝く大時計も要チェックです。



 
5階展望台にはビリケンさま(左)や、昔のエレベーター部品などが展示されています(右)。


 5階の展望台には、「ビリケンさん」が安置されています。足の裏を撫でて願い事をすると、必ず願いを叶えてくれるという幸運の神様・ビリケンさんは、1908(明治41)年にアメリカの女性彫刻家であるE=I=ホースマンさんの夢枕に現れた「世界に幸運をもたらす神様」を具現化したキャラクターといわれています。世界的に流行していたこのキャラクターは、1912(明治45)年に新世界ルナパークが開園された際に安置され、幸福を夢見る人々の人気を博していましたが、閉園と同時に行方不明となったまま長い年月が経っていきました。

 ビリケンさんが復活したのは、1980(昭和55)年のこと。初代の写真など資料が残されていなかったことから復元は難航しましたが、ビリケン像の版権を持っていた企業の好意によってビジュアルイメージの提供を受け、伊丹市の彫刻家・安藤新平氏によって木彫りのビリケン像が製作されて見事に復活を果たしました。



 
2階にある遊び心満載の「ビリケンロマン通り」(左)。右は、北から見た通天閣です。



アクセス
・JR大阪環状線「新今宮駅」下車、北東へ徒歩10分
・大阪市営地下鉄堺筋線「恵美須町駅」下車、南東へ徒歩3分
・大阪市営地下鉄御堂筋線「動物園前駅」下車、北へ徒歩10分
・阪堺電軌阪堺線「恵美須町駅」下車、南東へ徒歩3分
通天閣地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:600円、大学生:500円、中高生:400円、小人:300円

拝観時間
・10時~18時30分
 ※年始(1月1~10日)10時~20時、夏季(7月21日~8月31日)10時~20時30分

公式サイト
  通天閣オフィシャルサイト



神戸・厳島神社(御影)。

2008年07月14日 | ■神戸市東灘区
技芸上達・交通安全

厳島神社

(いつくしまじんじゃ)
神戸市東灘区御影町西平野伊賀塚27




神戸市東灘区内に残されている中では最古といわれている石造りの鳥居。


〔御祭神〕
市杵島姫神
(いちきしまひめのかみ)


 都会の喧騒を離れた緑豊かな神戸市東灘区の御影地区は、閑静な住宅街として人気の高いエリアです。この地域は、平安時代中期の承平年間 (931-938年)に源順卿によって編纂された辞典「和名類聚抄」に収録されている古代律令制の行政区画資料によると、摂津国莵原郡の覚美郷(かがみごう)と呼ばれていた地域で、のちに東部を郡家荘、西部を徳井荘と呼ぶようになりました。1582(天正9)年より豊臣秀吉公によって行われた太閤検地ののち、東灘エリアは豊臣家の直轄地となりましたが、豊臣家滅亡後の1617(元和3)年には尼崎藩の領地として戸田氏鉄公に与えられました。1769(明和6)年になると、江戸幕府は東灘の大部分を天領(直轄地)としましたが、そのとき徳井荘平野村は東西に二分され、東側は天領となり、残った西半分が尼崎藩の領地として残されて西平野と呼ばれるようになりました。この地域に鎮座しているのが、女神・市杵島姫神を祀る厳島神社です。





元禄時代に創建されて以来、数々の試練をくぐり抜けてきた社殿。



 正確な創建時期は不明ですが、江戸時代の元禄年間にはすでにこの御影の地に市杵島姫神(弁才天)を祀る神社が創建されていたことが、1692(元禄5)年にまとめられた「社寺書上帳」に記載されている「辯才天宮座若太夫」という言葉や、境内西側の石鳥居に刻まれた「元禄十四年巳歳九月十一日・平野村氏子中」という銘文からも推測することが出来ます。ちなみにこの鳥居は、東灘区に残されている石鳥居の中では最も古いものだそうです。明治新政府が発足してすぐの1868(明治元)年に出された太政官達(版籍奉還は翌年だったため、この時は尼崎藩に対して出された)によって「厳島神社」という名前に改称され、1873(明治6)年には村社に列せられました。厳島神社の社殿は、先の大戦における神戸大空襲の被害も受けず、阪神・淡路大震災でも倒壊せずに現在まで生き残っています。ここでは、女性神である市杵島姫神を祀っているため、祭祀や境内のメンテナンスなどはすべて氏子の女性が携わるという風習が残っているそうです。




 
稲荷社(左)と、境内南東隅に立つ1982(昭和57)年建立の地蔵尊(右)。
 

アクセス
・阪急電車「御影駅」下車、西へ徒歩10分
厳島神社(御影)地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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京都・建勲神社。

2008年07月10日 | ◇京都府 -洛北
国家安泰・難局突破・大願成就

建勲神社

(たけいさおじんじゃ)
京都市北区紫野北舟岡町49




1880(明治13)年に新築された木造明神型大鳥居。1934(昭和9)年に建て替えられ、
2000(平成12)年に大改修が行われました。



〔御祭神〕
織田信長公
(おだのぶなが)
織田信忠公
(おだのぶただ)


 794(延暦13)年に平安京が造営された際、四神相応思想の玄武の位置(北)にあたるとして北方の基点となった船岡山聖徳太子の文献にも名前が見られるなど、古くから京都盆地の中で存在感を持つ重要なポイントだった船岡山は、平安時代には宇多天皇が鷹狩りを愉しんだり、円融上皇が若菜を摘んで歌会を催すなど皇族・貴族の清遊の地として愛され、この山を題材にした和歌も多く読まれています。かの清少納言も『枕草子』の231段で「岡は船岡。片岡。靹岡は笹の生ひたるがをかしきなり。かたらひの岡。人見の岡。」と1番に賞賛しています。

 雅な空気を湛えていた船岡山も、武士が台頭してきた動乱の時代には軍事戦略上の拠点として重要視され、応仁の乱の際の1511(永正8)年には西軍の細川澄元公が本陣を置いて細川高国公や大内義興公の軍勢と「船岡山の戦」を繰り広げました。以来、船岡山一帯は「西陣」という名前で呼ばれるようになりました。




道半ばで本能寺に斃れた織田信長公を祀る社殿。



 実父・織田信秀公の頃から困窮に瀕していた朝廷に経済的支援を行うなど、朝廷と友好的な関係を保っていた織田信長公は、1568(永禄11)年に正親町天皇の勅命を拝して上洛を果たしたのち、ただちに皇居の修理に着手、戦火に巻き込まれて疲弊しきっていた京都の町の再建に取り組みました。その後の朝廷との関係には諸説あるため明確なことは言えませんが、圧倒的な軍事力を持って秩序を取り戻し、大きな経済力を背景に積極的に京都の町の復興に尽力した織田信長公の貢献度は大きなものがあります。そんな戦国時代最大の風雲児・織田信長公も、1582(天正10)年6月2日払暁、本能寺の変によって劫火に焼かれ、志半ばで早すぎる死を迎えます。

  悲報に接した豊臣秀吉公は、速やかに軍を返して天王山の戦で謀反人・明智光秀公を討伐。さらに、自らが実質的な主催者となり、船岡山の北にある名刹・大徳寺において盛大な追善大法要を営むことで、織田信長公の偉業を継ぐ者だというイメージを大きく天下にアピールします。続いて朝廷へ巧みにはたらきかけた豊臣秀吉公は、正親町天皇の勅許を得て「天正寺」という寺号も賜わり、船岡山織田信長公の菩提を弔う寺院を建立する計画を立てました。残念ながら、この計画は中途で頓挫してしまいましたが、それ以来船岡山織田信長公ゆかりの霊地として手厚く保護されてきました。



 
社殿前の神楽殿(左)と織田家の木瓜の家紋の入った手水舎(右)。



 1869(明治2)年、明治天皇織田信長公の功績に対して「建勳神社」の神号を下賜し、神社創立の宣下を行います。それを受け、翌1870(明治3)年には、まず織田信長公の次男・織田信雄公の血脈を継いできた出羽天童藩主・織田信敏公が東京に構えていた邸宅内と天童藩の主城・天童城内に「建勲社」が造営されました。1875(明治8)年に別格官幣社に列せられた建勲社(「建織田社」とも呼ばれた)は、ゆかりの霊地・船岡山に社地を与えられて遷座され、山の東麓に社殿の造営が行われました。1880(明治13)年には、織田信長公と共に本能寺の変で命を落とした嫡男・織田信忠公も祀られることとなり、1910(明治43)年には中腹に建っていた社殿以下諸舎を現在の山上の地に移設しました。

 御祭神である織田信長公が上洛を果たした日にちなんで毎年10月19日に行われる「船岡大祭」では、午前11時から神事が執り行われたあと、織田信長公が特に好んだといわれる幸若舞の「敦盛」などの舞楽奉納が行われ、「長篠の戦」において武田軍を打ち破った故事に基づいて火縄銃三段打奉納が行われます。



 
大鳥居を上がったところに鎮座する稲荷命婦元宮と義照稲荷神社(左)。
建勲神社には、南から石段を上がって参拝するルートもあります(右)。



アクセス
・京都市バス205・206系統ほか「建勲神社前」バス停下車、南へ徒歩3分
建勲神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放




神戸・多聞六神社。

2008年07月06日 | ■神戸市垂水区
五穀豊穣・家内安全・健康長寿

多聞六神社

(たもんろくじんじゃ)
神戸市垂水区多聞台2-17-5







〔御祭神〕
伊弉諾命(いざなぎのみこと) 伊弉冉命(いざなみのみこと)
大日霊命(おおひるめのみこと) 素盞鳴命(すさのおのみこと)
月読命(つくよみのみこと) 蛭子命(えびすのみこと)

※1904(明治37)年合祀
大山咋命(おおやまくいのかみ) 天鈿女命(あまのうずめのみこと)


 社伝では863(貞観5)年創建とされていますが、すぐ南西にあって平安時代前期の861年(貞観3)年に慈覚大師によって開かれたといわれている多聞寺の記録では、この年に創建されたのは多聞寺の鎮守社として大山咋神を祀っていた日吉神社のことであって、多聞六神社とは関係ないということが書かれています。舞子六神社のところでも書きましたが、御祭神が明石の岩屋神社とまったく同じであることから、舞子六神社と同じく岩屋神社からの勧請によって江戸時代に創建された神社だと考えられます。多聞六神社は、少なくとも1777(安永6)年には鎮座していたとみられ、境内には1851(嘉永4)年の銘の入った狛犬や、1856(安政3)年奉納の石灯籠も奉納されていました。





川に面して立つ石鳥居(左)と、81段ある石段(右)。



 明治政府による神道の国教化によって、各地の神社は「延喜式」を参考に官幣・国幣大社中社小社などにランク付けされました。多聞六神社は、1874(明治7)年に入って官国幣社別格官幣社の次の社格の「諸社」の中の村社に列せられました。多聞村の総鎮守社として人々の厚い崇敬を集めていましたが、1890(明治23)年には社殿を焼失してしまいます。しかし、氏子の皆さんの尽力によってすぐに再建工事が始められ、1897(明治30)年5月には遷宮祭が行われました。1904(明治37)年には同じ多聞村に鎮座していて多聞寺の鎮守社といわれていた日吉神社が合祀されています。





1984(昭和59)年再建の社殿。震災では壁面にひびが入り、狛犬も倒壊しました。



 1984(昭和59)年9月には老朽化した社殿の建て替えが行われましたが、1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災によって社殿壁面にひびが入り、石灯籠や狛犬、鳥居なども倒壊するなど大きな被害を受けました。まだまだ混乱が続いていたにも関わらず、その年の4月には早速「多聞六神社復興委員会」が結成され、翌1996(平成8)年には全壊した社務所が再建されるなど、境内の整備が完了しました。震災の悲劇と亡くなった方々の鎮魂、それを乗り越えた地域の人々の絆を後世に伝えるために、社務所奥の境内西端には震災復興記念碑も建てられています。

 氏子の皆さんが守り続けた多聞六神社の境内では、7月の第4日曜日には夏祭が行われ、10月10日には秋季例大祭が行われています。秋季例大祭では、古来より受け継がれてきた獅子舞神事が現在も催され、子ども神輿と合わせて五穀豊穣・子孫繁栄・村内安全を祈願する神事で賑わいを見せています。




社殿の東隣に立つ摂社(左)と、境内の西端に建てられている震災復興記念碑(右)。


アクセス
・JR舞子駅下車、神戸市バス50系統「本多聞2丁目バス停」下車、西へ徒歩5分
・JR舞子駅下車、神戸市バス54系統「多聞寺前バス停」下車、北東へ徒歩5分
多聞六神社地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
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大阪・玉造稲荷神社。

2008年07月04日 | ◆大阪府
商売繁盛・子孫繁栄・芸能向上・家内平安

玉造稲荷神社

(たまつくりいなりじんじゃ)
大阪市中央区玉造2-3-8




伏見稲荷大社からの勧請ではない稲荷社。創祀年代の古さから「もといなり」との呼び名も。



〔御祭神〕
宇迦之御魂大神
(うがのみたまのおおかみ)

下照姫命(したてるひめのみこと)
雅日女命(わかひるめのみこと)
月読命(つきよみのみこと)
軻遇突智命(かぐつちのみこと)



 大阪城の南方に位置する玉造。ここは、古代より交通の要衝として多くの街道や水路が通っており、651(白雉2)年には孝徳天皇によって難波宮が築かれるなど古くから栄えていた地域でした。また、「日本書紀」に記されているように、493(仁賢天皇6)年の話として朝鮮半島から渡来した工匠に関する記述があることから、勾玉などを製作する玉造部が居住していたことが分かります。そういった歴史ある町に鎮座しているのが、玉造稲荷神社です。



 
1954(昭和29)年に再建された社殿(左)と、その前にある利休井(右)



 社伝によると、紀元前12(垂仁天皇18)年の秋に創建されたといわれる古社で、もともとは比売社と称していたそうです。この周辺には、紀元前1世紀ごろには弥生文化が伝わり、人々も定住して生活を営んでいたということなので、豊作や豊漁などを祈願する祭祀の場が設けられていたいう可能性は十分考えられます。

 比売社は、588(用命天皇3)年に社殿の改築が行われたという記録が残されていますが、この前年の587(用命天皇2)年に仏教の受け容れを巡る争いが高じて物部守屋公と武力衝突する事態に至った聖徳太子蘇我馬子公が、ここ玉作岡に陣を敷いて「吾に勝利を与えるならこの栗の白木に枝葉を生じさせ給え」と戦勝祈願したといいます。のちに枝葉が生え、戦乱も無事勝利のうちに終わったことから、戦勝に対する感謝の意味を込めて社殿整備を行ったと考えられます。一説には、このとき聖徳太子自ら彫ったといわれる十一面観音像多聞不動像を祀る観音堂が建立されたといい、四天王寺の最初の創建地だったのではないかとも言われています。



 
縁結びにご利益があるといわれる「恋キツネ」(左)と、社殿の東側に並ぶ多くの摂社(右)。



 戦国時代には織田信長公による石山本願寺攻略時の兵火によって1576(天正4)年に境内が悉く焼失しますが、稲荷神を厚く信仰していた豊臣秀吉公によって経済的な支援が行われ、大阪城の鎮守神とされて五幸稲荷大明神として崇敬を集めました。大阪城で行われる神事の大半は、当時「豊津稲荷神社」とも呼ばれていたこの神社の神職によって執り行われていました。1603(慶長8)年には豊臣秀頼公によって社殿や月見・花見のための高殿が建立され、境内に残されている石鳥居もこのとき寄進されています。

 1615(元和元)年の大阪夏の陣の兵火によって焼失した玉造稲荷神社は、1619(元和5)年に入って大坂城代・内藤紀伊守信正公を始め、氏子や崇敬者の皆さんの寄進によって再建されました。江戸時代には交通の要衝地としてお伊勢参りの出発地とされ、境内にあった観音堂大坂三十三所観音の第10番札所とされていたこともあって多くの参拝客で賑わっていました。

 その後、1863(文久3)年11月に起こった「新町焼」と呼ばれる大火事によって全焼しましたが、1871(明治4)年に再建。1945(昭和20)年6月の大阪大空襲によってまたもや焼失しますが、戦後の政教分離により、「玉造稲荷社」「玉造いなり」など古くから使われていた呼び名にちなんで、宗教法人玉造稲荷神社として再出発、1954(昭和29)年には氏子の皆さんの尽力によって境内の再建・整備が行われて現在に至ります。



 
豊臣秀頼公寄進の石鳥居(左)と、地元ゆかりの千利休の顕彰碑(右)。



 社殿のすぐ東隣には陸上海上交通の守護神として有名な厳島神社があります。境内にある池は白龍が現れたといわれる池で、雨乞いに霊験があるといわれています。その隣には、江戸時代の享保年間に大阪城内のさまざまな屋敷に祀られていた稲荷社を1社にまとめて建立されたといわれる万慶稲荷神社と、大阪城代・松平輝和公の屋敷に祀られていた稲荷社を(明治40)年に境内に遷座したといわれる新山稲荷神社豊臣秀頼公の胞衣を祀るといわれる胞衣塚大明神が立っています。

 1603(慶長8)年に豊臣秀頼公が境内を整備された際に寄進されたという石鳥居も残されていますが、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災によって基礎部分が壊れてしまったため、上半分のみが保存されています。その隣には、この辺りに屋敷を構えていたといわれる名茶人・千利休の遺徳を偲んで1977(昭和52)年に大阪青年会議所の働きかけによって建てられた千利休居士顕彰碑があります。



 
1986(昭和61)年に創祀2000年祭の奉祝記念として開館した難波・玉造資料館(左)と、
地元出身の漫才作家・故秋田實氏を顕彰する「笑魂碑」(右)。



アクセス
JR大阪環状線「森ノ宮駅」下車、南西へ徒歩10分
大阪市営地下鉄中央線「森ノ宮駅」下車、南へ徒歩8分
JR大阪環状線「玉造駅」下車、北へ徒歩10分
大阪市営地下鉄長堀・鶴見緑地線「玉造駅」下車、北へ徒歩8分 ほか
玉造稲荷神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
  玉造稲荷神社ホームページ