神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・徳井神社。

2006年09月29日 | ■神戸市灘区
厄除開運・縁結び・安産・家内安全・交通安全


徳井神社

(とくいじんじゃ)
神戸市灘区大和町4-5-5


通 称
箒の宮



JR六甲道駅にほど近い住宅街の中に鎮座する徳井神社。安産の神様として知られています。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
神功皇后
(じんぐうこうごう)


 JR六甲道駅から高架沿いに東へ歩くこと5分。ガードの南側に「神の恩恵」という意味の「トクイ」という名を持つ徳井神社が鎮座しています。1309(明徳5)年には「北野社領・摂津国得位時枝庄」という記述が見られるように、この辺りは京都の北野天満宮の荘園になっていたようです。ここ徳井の地には、古来より八幡神社が3社鎮座しており、それぞれ上宮中宮下宮と呼ばれていました。そのうちの上宮徳井神社にあたり、1911(明治44)年には中宮徳井神社の境内に遷座されました。ちなみに下宮は、旧徳井庄に含まれていた東灘区の旧東明村地域に鎮座している東明八幡神社の事を指しています。
 正式な創建時期は不明ですが、境内には17世紀半ば頃の天和年間(1681~1684年)の銘文の入った石灯籠が残っている事から、300年以上前より人々に支えられてきた神社だという事がわかります。明治時代には応神天皇神社と呼ばれていましたが、1961(昭和36)年に現在の徳井神社に社号を変更しています。





震災ののち修復された鳥居(左)。柱と笠木等の色が違っています。右は手水舎と御神木。



 徳井神社は別名「箒の宮」と呼ばれ、古来より安産の神としても崇敬を集めてきました。陣痛が始まった時に徳井神社から借りてきた荒神箒でお腹をなでると安産になるという言い伝えがあり、無事に出産が終わったあとは御礼として借りた箒に併せて新しい箒を添えて奉納するという風習があるそうです。これは神功皇后の御神徳にちなんだもので、応神天皇を身籠った身重の体でありながら軍船を率いて朝鮮半島へと進撃し、三韓征伐という偉業を成し遂げられたという伝説を持つ神功皇后の強い心をお手本として、妊娠中であっても日々の務めをしっかり果たしていきましょうという意味が込められているそうです。
 安産のご利益を授けてくれる神功皇后(息長帯比売命)は、社殿の左側に鎮座している旧徳井庄の中宮・八幡神社に祀られています。阪神・淡路大震災の時に倒壊しましたが、2002(平成14)年9月には新しい社殿が再建されています。





阪神・淡路大震災を耐え抜いた鉄筋コンクリート造りの社殿。


 
 1995(平成7)年1月17日の阪神・淡路大震災では本殿以外のすべての建物が倒壊。鉄筋コンクリート造りの本殿とは違い、木造だった社務所で休んでおられた宮司夫妻が大きな梁の下敷きになるという悲しい出来事がありました。しかし、氏子の皆さんは自分たちの生活の復興も困難な状況の中で徳井神社の復旧に尽力、2001(平成13)年には境内の修復工事が完了しました。さらに、前述したように2002(平成14)年9月には安産のご利益のある八幡神社の社殿も再建され、その後八幡神社に隣接して徳井資料館が建てられました。





社殿左手には安産で有名な八幡神社(左)、右手には廣目稲荷神社(右)が鎮座しています。

JRの高架沿い、北から見た徳井神社(左)。「厄除開運」「安産守護」の看板が目印です。


アクセス
・JR「六甲道駅」下車、東へ徒歩5分

徳井神社地図  Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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明石・熊野皇大神社。

2006年09月25日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
国土安穏・延命長寿・無病息災



(くまのこうだいじんじゃ)
兵庫県明石市東人丸町6-6



稲爪神社の北、明石市立天文科学館の東に位置する小さな神社です。


〔御祭神〕
伊邪那岐命
(いざなぎのみこと)
伊邪那美命
(いざなみのみこと)



 室町時代には「将軍弑殺」という大事件が2回起こりました。そのうち、松永久秀公によって行われた第13代将軍・足利義輝公の暗殺は、戦国時代を題材にした様々な小説や文献などでよく知られています。実はこれ以外にも将軍家の暗殺という悲劇が起きています。それが1441(嘉吉元)年に起きた、赤松満祐公による第6代将軍・足利義教公の暗殺事件です。

 足利義教公は、第5代将軍・足利義量公が急逝したのを受け、混沌とした後継者選びを解決すべく行われた石清水八幡宮でのくじ引き(!)の結果選ばれた将軍です。有力大名である斯波氏畠山氏細川氏に対し将軍家への忠誠の証文を取ったうえで将軍職に就任した足利義教公は「くじ引き=神に選ばれし将軍」という認識から、強権的な政治を行うようになります。




小さな社殿。境内はあまり手入れがされておらず、少し荒れた感じに見えました。
 


 「神に選ばれし者足利義教公による専制政治は次第に各守護の怖れるところとなり、看過できない脅威へと成長していきます。赤松満祐公にとっても、同族である赤松貞村公を寵愛して不当な裁定ばかりを下す足利義教公への不満は爆発寸前で、疑心暗鬼も募るばかり。それがエスカレートした結果「将軍家が赤松を討伐しようとしている」という風聞が流れたことから、身の危険を感じた赤松満祐公は「殺られる前に殺るべし」と戦勝祝いの宴にかこつけて将軍を自邸に招き、祝宴の最中に押し包んで暗殺してしまいます。

 この暗殺事件のあと赤松満祐公は領国・播磨国に戻り、足利直冬(足利尊氏公の息子)の孫で播磨に身を隠していた足利義尊公を将軍として擁立し室町幕府に対抗、明石においては弟の赤松祐尚公を大将として大蔵谷城に陣取らせて守りを固めます。これに対して幕府側は、讃岐守・細川持常公たちが兵を率いて赤松討伐に攻め寄せますが、そのときに幕府軍が本陣を置いたのが熊野皇大神社が鎮座している北山だったといわれています。




社殿の左手にある荒熊稲荷神社。このほか、白竜神社も祀られています。



 時代は下って戦国時代。織田信長軍による播磨攻略の一環として、1578(天正6)年に羽柴秀吉旗下の武将・高山右近が別所勢が守る大蔵谷城に攻め寄せます。このときの兵火によって稲爪神社が焼失、一時的に仮社殿を移したのが前述した「嘉吉の乱」ゆかりの北山でした。

 その後、稲爪神社は1637(寛永14)年に元あった境内に再建されましたが、当時の明石城主・松平丹波守光重公は稲爪神社の仮社殿がおかれていた北山の地に熊野坐神社熊野那智神社熊野速玉神社三社権現を勧請しました。これが熊野皇大神社の起こりで、これ以降北山は「権現山」と呼ばれるようになったそうです。


アクセス
・山陽電車「人丸前駅」下車、北東へ徒歩5分
・山陽電車「大蔵谷駅」下車、北西へ徒歩3分
 熊野皇大神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

大阪・安倍晴明神社。

2006年09月25日 | ◆大阪府
方除け・火災除け・病気平癒・子授け安産・縁結び



(あべのせいめいじんじゃ)
大阪市阿倍野区阿倍野元町5-16



境内の前を通る道はかつて熊野詣の参詣客が通った街道です。


〔御祭神〕
安倍晴明公
(あべのせいめいこう)



 安倍晴明神社は、大阪・天王寺から路面電車に乗ること4駅目、阪堺電車上町線「東天下茶屋駅」から歩いてすぐのところにある神社です。その名のとおり陰陽師・安倍晴明公をお祀りしている神社で、約600㎡ほどの緑あふれる神社です。『安倍晴明宮御社伝書』よると、1005(寛弘2)年に85歳の天寿を全うした安倍晴明公の死を悼んだ一条天皇が、生誕の地に安倍晴明公を祀ることを子孫に命じ、没後2年たった1007(寛弘4)年に建立されたのが安倍晴明神社であると記載されています。現在は、すぐ南にある阿部王子神社によって管轄されています。




現在の社殿は1925(大正14)年に再建されたものです。



 安倍晴明公誕生の地に関してはいくつか説がありますが、大膳太夫を務めた安倍益材公の子として摂津国阿倍野の地で生まれたという説が最も有力です。安倍益材公は、第8代孝元天皇の皇子・大彦命(おおびこのみこと)をルーツとして古くから摂津国阿倍野を支配していた阿部氏の末裔です。
 



安倍晴明公が産まれたとき使用した産湯の井戸を再現した「安倍晴明公産湯井の跡」。



 いくつかの支族に分裂しながら勢力を拡大していった阿部氏の中で、「布施臣」を率いる阿部御主人(あべのみうし)は壬申の乱の時に大海人皇子(天武天皇)側について功績を挙げ、大宝律令下で初めての右大臣に任命されるなど大活躍しました。その阿部御主人安倍晴明公のご先祖といわれています。ちなみに、「阿部氏」を「安倍氏」に改めたのは平安時代初期のことだといわれています。




境内に入ってすぐ右手にある泰名稲荷。


 鳥居をくぐった右手にあるのが、摂社の秦名稲荷神社です。安倍晴明公の父といわれている安倍保名公と同じ名前ですが、とくに保名公と関係はないそうです。安倍晴明神社の境内には狐の化身といわれていた晴明公の母親・葛葉姫が信田の森から飛来してくる姿をイメージした「葛の葉霊狐の飛来像」が祀られています。




2005(平成17)年に行われた安倍晴明公一千年祭のときに建立された銅像。



アクセス
・阪堺電車上町線「東天下茶屋駅」下車、東南へ徒歩5分
 安倍晴明神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
 安倍晴明神社 Web Site


安倍晴明伝説 (ちくま新書)
諏訪 春雄
筑摩書房

神戸・野寄のだんじり(東灘)。

2006年09月24日 | ■神戸市東灘区



神戸市東灘区西岡本地域



前から見た野寄のだんじり。立派に復活!


大日女尊神社境内



 以前、神戸市東灘区西岡本に鎮座する大日女尊神社をご紹介した際、この地区の地車が大改装中だということを書かせていただきました。あれから4ヶ月以上が過ぎた9月23日、秋祭の日に新装成った「野寄のだんじり」がお披露目され、町内の曳き回しが行われました。




水引幕も新調。ピッカピカです。



 田畑300坪を売却して購入したという先代の地車は、1933(昭和8)年に大工・大石巳代吉氏が作成したもので、彫刻部分は川原啓秀氏の手によるものです。残念ながらこの地車は1945(昭和20)年6月5日の空襲によって全焼してしまい、長い間この野寄地区に地車の雄姿が見られることはありませんでした。




御影石を運び出す牛の様子を彫り上げてあります。



 戦災による焼失から41年の年月が経った1986(昭和61)年12月14日。地域の皆さんの熱意によって大阪から購入・改装された高さ4m・長さ6.9m・幅2.9mという立派な地車の入魂式が行われました。その後も毎年改修が行われ、1996(平成8)年には拝懸魚隣懸魚の彫刻が新調されています。老朽化を受けて2年前から改修が進められてきた野寄の地車は、とても地域色の豊かな彫刻に包まれた魅力ある地車へと生まれ変わりました。




かつて住吉川で栄えた水車製粉の模様を彫り上げてあります。



「うはらの大絵巻」という題の縁葛彫刻。東灘の名所が彫られています。



関連記事
だんじり20年ぶり新調 東灘・披露野寄地区(2006年9月21日・神戸新聞)



  西岡本からのお知らせ 
西岡本のホームページにも地車の話題が盛りだくさんです!

京都・わら天神(敷地神社)。

2006年09月23日 | ◇京都府 -洛北
安産・子授け・家内安全・厄除開運・心願成就

敷地神社

(しきちじんじゃ)
京都市北区衣笠天神森町10

通 称
わら天神宮



安産の神様として名高い敷地神社。外国の方の姿も見られます。


〔御祭神〕
木花咲耶姫命
(このはなさくやひめのみこと)
天日鷲命
(あめのひわしのみこと)
栲幡千千姫命
(たくはたちぢひめのみこと)


 北野天満宮から鹿苑寺金閣に向けて歩みを進め、西大路通沿いに北へと進む途中に立派な鳥居を見つけました。この神社の名前は「わら天神」。正式名称を「敷地神社」といい、安産の神様として広く知られています。昔は神への神饌を藁の器に載せてお供えしていましたが、その神徳にあやかるために安産祈願の護符の中に藁を入れたことから「わら天神」と呼ばれるようになりました。ここに祀られている木花咲耶姫命は、山の神・大山祇神(おおやまづみのみこと)の娘で、天照大御神の孫である瓊瓊杵尊と結婚した皇統の母といわれる女神です。山の神の娘である木花咲耶姫命は、富士山を象徴する女神として、また桜の花の美しさや花の命の儚さを象徴する神としても知られています。





通りに面した鳥居の先を進むと、突き当たって右に二の鳥居があります。



 瓊瓊杵尊と結婚した木花咲耶姫命は一晩で子どもを身ごもります。しかし、夫から「たった一晩で子どもを授かるというのはおかしい。実は国津神の子どもで、私の子どもではないのでは?」という疑いをかけられた木花咲耶姫命は激怒。自ら産屋に入って火を放ち、「瓊瓊杵尊の子でなければ無事には産まれない。瓊瓊杵尊の子ならば無事に子どもを産むことが出来よう」と誓約(うけひ)をして出産に臨みます。木花咲耶姫命は、燃え盛る炎の中で無事に火照彦命火須勢理彦命火遠理彦命という3柱の神々を出産して身の潔白を証明しました。このような母としての力強さから「安産の神さま」として人々から厚く信仰されることになったそうです。




 
社殿には7段の石段があります(左)。妊婦さんが参拝する時には、足元を旦那さんが
しっかりサポートして下さい。杉の下で腹帯を結ぶと安産になるという綾杉明神(右)。


 わら天神の創建は桓武天皇の孫・淳和天皇の治世の831(天長8)年に遡ります。北山の地に氷室が設置されることになり、加賀国からノウハウを持った守役が呼ばれてきました。この人々が地元で祀っていたのが菅生石部神社で、その御祭神である日子穂穂出見命(ひこほほでみのみこと)の母神・木花咲耶姫命をお祀りしたのがわら天神の前身である北山天神宮だといわれています。ちなみに日子穂穂出見命火遠理彦命と同一神です。御祭神には、このように複数の呼ばれ方を持つ神さまがたくさんおられます。その後、1397(応永4)年に足利義満公が北山殿(金閣)を造営した際、北山天神宮を鎮守社としますが、山の上では参拝に不便だということで現在の場所に移転され、以来600年以上の歴史を誇っています。






アクセス
・JR「京都駅」より京都市バス50・101系統乗車(30分間)、「わら天神前」下車、徒歩すぐ
・京福電鉄北野線「北野白梅町」下車、徒歩15分
わら天神地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・8時30分~17時
(無料駐車場が14台ほどあり、車椅子でも参拝できるバリアフリーになっています)

京都ご利益めぐり
京都くまなく歩き隊
ナツメ社

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神戸・東川崎蛭子神社。

2006年09月22日 | ■神戸市中央区
商売繁盛・家内安全・航海安全

東川崎蛭子神社

(ひがしかわさきひるこじんじゃ)
神戸市中央区東川崎町7-4-12



住宅街の一角に、さりげなくたたずむ鳥居。真新しい白が夏の陽射しに映えます。


〔御祭神〕
蛭子大神
(ひるこたいしん)
火産霊大神
(ほむすびのおおかみ)
水波能賣大神
(みずはのめたいしん)
稲荷大神
(いなりたいしん)



 JR神戸駅の南に広がる神戸ハーバーランド。1992年に旧国鉄湊川貨物駅跡地を再開発して誕生した新しい街で、「MOZAIC」や「プロメナ神戸」、「キャナルガーデン」など多くの商業施設が立ち並び、休日には家族連れで賑わう一大レクリエーションゾーンです。そんな繁華街から少し離れた住宅街の片隅に、東川崎蛭子神社が鎮座しています。このエリアの地名は東川崎町といいます。近くに川崎重工業神戸工場があるためにこの地名が付いたと思われがちですが、江戸時代の頃には既に「川崎」という地名があったようです。ちなみに川崎重工業の社名は、創業者である川崎正蔵氏の名前に由来しています。



 
車庫の上に建てられた社殿(左)と、境内に設けられた東川崎児童館や公園(右)。



 創建年代は明確には分かりませんが、承安年間(1171~1174年)に平清盛公によって行われた大輪田泊の大改築のときに勧請された7弁天7恵比寿のうちの1つが祀られたのが東川崎蛭子神社だと言われています。航海安全・商売繁盛の神さまとして地元の方々より厚い崇敬を受けてきた東川崎蛭子神社は、かつては広大な境内を誇り「えべっさん」で有名なJR兵庫駅近くの柳原蛭子神社よりも賑わっていたそうです。しかし第2次世界大戦中の1943(昭和18)年には、軍需産業の一大拠点だった川崎造船所の生産量増強に向けた拡張工事のために現在の場所へと移転を強いられました。

 東川崎蛭子神社で有名なのが「東川崎恵比須太鼓」です。地域の発展と子どもたちの健全な育成を目的に1970(昭和45)年に結成された東川崎恵比須太鼓保存会によって伝承されている郷土芸能で、福井県の東尋坊太鼓の流れを汲むものだと言われています。この東川崎恵比須太鼓は神事の際に奉納されるほか、湊川神社で毎年5月に行われる楠公祭などでも勇壮な音色を奉納しています。



アクセス
・JR「神戸駅」下車、南へ徒歩5分
東川崎蛭子神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
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神戸・王子神社。

2006年09月20日 | ■神戸市灘区
盛業繁栄・交通安全・子どもの守護神


王子神社

(おうじじんじゃ)
神戸市灘区原田通3-8-43




王子動物園の南側に鎮座する王子神社。大きな看板の脇に入口があります。


〔御祭神〕
健御名方尊
(たけみなかたのみこと)
若一王子尊
(わかいちおうじのみこと)
大市比売尊
(たかいちひめのみこと)
ほか計10柱合祀。


 神戸市灘区にある王子公園。休日になると親子連れで賑わう王子動物園や、アメリカンフットボールの開催で熱気に包まれる王子スタジアム、兵庫県立美術館「原田の森ギャラリー」や関西学院跡地に建つ市民ギャラリーなど、神戸の市街地の近くに立地するレクリエーションゾーンとして市民に親しまれている王子エリア。その片隅に、町名の由来となった王子神社が静かに鎮座しています。

 鎌倉時代初期に信濃国松本から移り住み、原田の地に根を下ろした松本忠公公は、1204(元久4)年に故郷の神・諏訪神社健御名方尊を勧請して神社を建立しました。現在の王子動物園の敷地内にあったといわれるこの神社の境内は約13,000坪という広大なものだったそうです。この周辺は「原田の森」と呼ばれる広大な森で、一ノ谷の合戦には東軍の陣地となったり、鎌倉時代末期には後醍醐天皇方について倒幕の軍を上げた赤松円心公が籠もった摩耶城を攻略するために幕府軍が拠点を置いたと伝えられるなど、軍事上の重要地点でもあったようです。神代の昔、健御名方尊がこの地で軍旅の休息を取られたという言い伝えも、軍事上の要害の地だった原田の森と軍神・健御名方神のイメージが結び付いたものだったのかもしれません。





阪神・淡路大震災で被害を受けた社殿。2007(平成19)年に修築されました。



 平安時代中期から鎌倉にかけて流行した熊野信仰。浄土信仰が広がっていたこの時期、熊野三山は阿弥陀如来千手観音の浄土とされて現世・来世を問わず幸福を願う人々の厚い崇敬を集めていました。そんな熊野信仰の広がりをうけて、この地でも「諏訪大明神の本体は熊野から出てきた」という由来付けがなされ、1252(建長4)年に紀伊国熊野より若一王子神を勧請して合祀し(1336年、延元元年のことだという説もあります)王子権現」と呼ばれるようになりました。現在ここが「王子」といわれるのは、この若一王子神の名前に由来します。この一帯は原田字王子免と呼ばれるようになり、のちに王子町と呼ばれるようになりました。ちなみに「」とは、社寺の境内など租税の免除地の事を意味するものです。





天照大神など5柱の神々を祀る末社(左)と、社殿脇に繁る立派な御神木(右)。
※末社には、天満大神・松尾大神・住吉大神・愛宕大神・天照大神が祀られています。


 王子権現と呼ばれて人々の崇敬を集めていた王子神社は、1873(明治6)年には境内の約75%を神戸市に上地し、名称も「健御名方尊神社」と変更されました。氏子の皆さんは御祭神の名前の付いた社号を呼ぶ事は恐れ多いとして、地名にちなんで「原田神社」という通称で呼んでいたそうです。一方、原田村には他に高林神社という神社も祀られていました。文献の記述からも876(貞観18)年時点にはその存在が確認されている古社で、穀物の神である大歳神宇迦御魂神の母神といわれる大市比売神を御祭神に祀り、商売繁盛の神様として崇敬を集めていましたが、1903(明治39)年5月にはこの「原田神社」に合祀されています。1931(昭和6)年には大規模な改築が行われて境内が整備され、戦後の1946(昭和21)年12月10日には、現在の名称である「王子神社」に改称されました。





朱塗りの鳥居も整備された大瀧稲荷社(左)と、その参道に立っている歌碑(右)。



 戦後の王子神社は神戸市の都市計画に翻弄されて移転を重ねます。1950(昭和25)年、神戸で日本貿易産業博覧会が開催されることになりました。湊川エリアと王子エリアが開催地に選ばれ、その会場として王子公園が作られることになりました。このため博覧会の前年の1949(昭和24)年、王子神社は境内地の約8割を市へ提供し、神社そのものも王子町1丁目へと遷されます。さらに1956(昭和31)年には兵庫県で国民体育大会が行われることになり、メインスタジアムとして王子公園内に陸上競技場(現在の王子スタジアム)が建設されることになったために再び王子神社は移転を余儀なくされました。1995(平成7)年1月17日に起こった阪神・淡路大震災で大きなダメージを受けましたが、2007(平成19)年には氏子の皆さんの御尽力によって社務所や社殿などが再建されました。社殿脇に建つ大滝稲荷神社も鮮やかな朱色に塗り替えられるなど、美しく生まれ変わる息吹が感じられる神社です。





「元原田神社」と刻まれた石碑(左)と、2007年に建てられた社務所(右)。


アクセス
・阪急電車神戸線「王子公園駅」下車、西へ徒歩3分
・JR神戸線「灘駅」下車、北へ徒歩5分
王子神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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京都・福長神社。

2006年09月18日 | ◇京都府 -洛中
井戸と水の神・商売繁盛・五穀豊穣

福長神社

(ふくながじんじゃ)
京都市上京区室町通武者小路下ル福長町538




住宅街の中にある小さなこの神社も、京都の様々な歴史を目撃しています。


〔御祭神〕
福井神
(さくいのかみ)
綱長井神
(つながいのかみ)
宇迦之御魂神
(うかのみたまのかみ)



 京都御所から霊光殿天満宮への道の途中に民家に囲まれてひっそりと佇む神社があります。祀られている御祭神の名前にちなんで福長神社と呼ばれるこの神社は、福長町の地名の起源となった神社でもあります。今でこそ社殿と御神木が1本祀られているだけの小さな神社ですが、元々は井戸や泉を守る水の神である福井神綱長井神をそれぞれ御祭神とする福神社長井神社という2社に分かれて祀られており、延喜式内社にも名を連ねる由緒ある神社でした。福神社長井神社は、現在の京都市上京区一条通猪熊辺りにあった律令制度における国家機関「神祇官(祭祀を司る役所)」の西院に祀られていた「座摩巫祭神(いかすりのみかんこのまつるかみ)」5座のうちの2座で、公家屋敷が立ち並ぶ高級住宅街の中心地に立っていた両社は貴族たちの厚い崇敬を受けていたといわれています。ちなみにその他の3神は生井神(いくいのかみ)波比祇神(はひきのかみ)阿須波神(あすはのかみ)です。





神社に隣接して立つ地蔵堂(左)と、鳥居をくぐってすぐのところにある手水舎(右)。



 時代は下って安土桃山時代。福神社長井神社は1586(天正14)年に建設されることになった関白・豊臣秀吉公の邸宅「聚楽第」の縄張りの中に含まれることになってしまいます。このあおりを受けて福神社長井神社は1つの社殿に合祀され、両方の名前を一字ずつとって「福長大明神」と呼ばれるようになったといわれています。豊臣秀吉公より関白の座を譲位された甥・豊臣秀次公に譲られた聚楽第は、1595(文禄4)年の豊臣秀次公の失脚・切腹の悲劇を受けて取り壊されることになり、それに伴って福長神社も移転を余儀なくされ、現在の地に遷座されました。





福井神と綱長井神を祀る社殿。稲荷神も祀られた事から「福長稲荷」とも呼ばれました。



 1788(天明8)年、京都の街を大火災が襲います。「天明の大火」といわれたこの火災のもたらした被害は応仁の乱を上回る大規模なもので、当時の市街地の実に9割近くを焼き尽くし、京都の歴史上最大最悪の火災といわれました。1月30日から2月2日までの3日間に渡って京の街を焼き尽くした大火は37,000軒の住宅を焼き、京都御所二条城なども灰燼に帰してしまいました。福長神社もこの大火に巻き込まれて全焼。再建はされたとはいえすっかりその規模は小さくなってしまい、今では往時を偲ぶ残滓すらなくなってしまいました。





社殿の奥にある本殿(左)と、境内の一角にポツンと立っている御神木(右)。


アクセス
・京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、南西へ徒歩1分
福長神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

京都・霊光殿天満宮。

2006年09月17日 | ◇京都府 -洛中
学業成就・国家鎮護

霊光殿天満宮

(れいこうでんてんまんぐう)
京都市上京区新町通今出川下ル徳大寺殿町365




京都御所の近くの住宅街の中に鎮座する霊光殿天満宮。


〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざね)
徳川家康公
(とくがわいえやす)


 霊光殿天満宮は、「老松神」と呼ばれた菅原道真公の6代目の子孫・菅原定義公によって祀られた神社です。「霊光殿」という仰々しい名前の由来は、901(昌泰4)年に菅原道真公が大宰府に左遷された際、俄かに天から一条の霊光が差し込み、その光とともに天一神(大乗仏教でいう十二神将の主将である方角神)帝釈天が降臨して「菅公よ、汝には罪はない。左遷されても落ち込むことはない。3年後には汝を天に召し、策を弄して汝を陥れた政敵どもを悉く滅ぼしてあげよう」と告げていったというエピソードから名付けられたといわれています。

 この霊光が差し込んだ場所が菅公の所領地があったといわれる河内国若江(現在の東大阪市)の地で、社伝によると1018(寛仁2)年に後一條天皇の勅命を受けた菅原定義公が社殿を建立したとあります。ゆかりのある土地であったが故に、菅原道真公との繋がりをより深いものにしたいという思いから、当時起こったであろう自然現象を「霊光伝説」として語り継いで神社の名前にしたと考えられます。





社殿の前に建つ舞殿。春には美しい梅の花に映えます。



 天変地異などが収まってきた平安末期から鎌倉にかけて、憤死した菅原道真公の強烈な怨霊を鎮めるといった意味合いのあった天神信仰も少しずつ趣を変え、「勧善懲悪の神」として正直者・一心に思いを込める者を救ってくれるという信仰に発展していたようです。霊光殿天満宮の建立においても、一心に国家鎮護を祈る思いを叶えて欲しいという後一條天皇の思いが込められていたのではないでしょうか。ちなみに後一條天皇からは「霊光殿」の勅額と神嶺3ヶ庄が下賜されたそうです。このあと霊光殿天満宮は若江の地から京都へと遷座されました。





近衛家の旧鎮守社の社殿をこの地に移転し、社殿としています。



 「弘安の役」と呼ばれる1281(弘安)年の蒙古襲来の際には、勅命を受けて霊光殿天満宮において敵国降伏の祈祷を行ったところ、モンゴルの軍船が「神風」によって悉く沈没したという伝説が伝わっています。この時には全国の寺社に対して夷敵調伏の勅命が下っていたため、このような伝説は各地の寺社に残されています。残念ながら応仁の乱の際には戦火に遭って社殿や社領はすっかり荒廃してしまい、御神体も東寺に遷されて難を逃れました。

 その神徳は引き続き広く知られていたようで、1570(元亀元)年には徳川家康公によって鎧剣が奉納され、天下泰平の願文も納められております。27歳の若き徳川家康公は、三河国を完全に掌握して三河守の叙任を受け、今川氏真公を追いやって遠江国の大半を制覇した時期で、この祈願が効いたのか家運の開けた徳川家康公によって深く信仰され、手厚い庇護を受けました。





社殿右にある、菅原定家公を御祭神に祀る老松神社(左)。右はその奥にある古井戸。



 代々霊光殿天満宮の祠官を務めていた若江家は、江戸時代には家系が絶えていましたが1616(元和2)年に幕府の手で再興されて再び祠官の任に着きます。その頃には現在地より東、京都御所の北側の塔之段町に遷されており、1636(寛永13)年には若江家の再興に尽力したということで徳川家康公が合祀されました。現在地に遷されたのは1761(宝暦11)年。霊光殿天満宮は皇室からも厚い崇敬を受け、1840(天保11)年と1858(安政4年)に社殿が修築されたときには、禁中より寄付をうけ、禁祀御祈祷所と定められました。 現在境内に鎮座する社殿は、1872(明治5)年に近衛家の旧鎮守社の社殿を拝領したものだそうです。





1902(明治35)年の菅公没後千年祭で建てられた記念碑(左)。右は境内の狛牛。


アクセス
・京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、南西へ徒歩2分
霊光殿天満宮地図   Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


天神信仰の成立―日本における古代から中世への移行
河音 能平
塙書房

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姫路・射楯兵主神社(播磨国総社)。

2006年09月16日 | □兵庫県 -姫路
幸福増進・産業開発・施薬治病・縁結び・植樹

射楯兵主神社(播磨国総社)

(いたてひょうずじんじゃ)
兵庫県姫路市総社本町190


播磨国総社





〔御祭神〕
射楯大神
(いだてたいしん=五十猛命
兵主大神
(ひょうずたいしん=大己貴命



 その優雅なたたずまいが白鷺の飛び立つ姿に例えられる天下の名城・姫路城。その城域の東側、姫路郵便局の東隣にあるのが播磨国総社。またの名を射楯兵主神社というこの神社は、姫路の市街地の中心にあるにも関わらずその境内は広大で、都会の喧騒をひととき忘れさせてくれる一服の清涼剤のような神社です。713(和銅6)年に書かれた「播磨国風土記」には「息長帯比売命、韓国を平けむと欲して渡り坐しし時、御船前の伊太代神、此処に在す」という記述があります。息長帯比売命とは神功皇后の事で、神功皇后が三韓征伐に向けて渡海された時に先導役を果たされた伊太の神がこの地にいたという事にちなんで「飾磨郡因達里(いたてのさと)」という名前が付けられたそうです。この因達里に祀られた伊太和神射楯神だといわれおり、素戔嗚尊の子である五十猛命(いそたけるのみこと)と同一神だともいわれています。





南の鳥居をくぐり、民家の立ち並ぶ参道を抜けると、播磨国総社の神門に辿り着きます。



 兵主神は、562(欽明天皇25)年に飾磨郡伊和里に初めてその姿を現されたといいます。その後、新羅の大軍を討伐したという播磨国の国司・藤原貞国公によって764(天平宝字8)年に飾磨郡伊和里水尾山、現在の姫路市山野井町の辺りに祀られたそうです。この地域は「播磨国の一の宮」といわれる伊和神社の御祭神・伊和大神を祀っていた伊和族の本拠地で、兵主神伊和大神と同一神だといわれています。また、伊和大神は出雲系の神だったので、大国主命(大己貴神)とも同一視されています。787(延暦6)年には、勅命により兵主神坂上田村麻呂の手によって播磨国国衙(播磨国の役所)のあった小野江に遷されてきました。905(延喜5)年に編纂が始められた「延喜式神名帳」にも射楯兵主神社の名前が見られることから、この頃までに射楯神が合祀されてきたと考えられます。当時の社殿は現在地よりも500mほど北側にあったといわれています。





射楯兵主神社の社殿。東側には射楯大神、西側には兵主大神が祀られています。



 射楯兵主神社には、播磨国にある174の神社が一括して合祀されています。国司が赴任した際には、まず任地にある地元の神々にお参りする慣習があり、巡礼する順番に従って一の宮、二の宮という名称が付けられていました。しかし現在のように交通機関が発達していなかった当時の事情を鑑みても、かなりの労力と財政的な負担を強いるものだったため、このような負担を軽減するために考案されたのが総社制度でした。

 播磨国でも1181(養和元)年、政治・経済の中心地に建っていた射楯兵主神社に播磨国内の16郡174座の神を合祀するという措置が執られました。これよりのち、射楯兵主神社播磨国総社府中社と称されるようになりました。社殿の奥に並ぶ摂社には、播磨国の神々が一堂に会して祀られています。ちなみに播磨国総社に隣接する姫路郵便局の敷地内からは古代の建物や堀・井戸などの遺跡が発掘され(本町遺跡)、その規模や出土品からここが古代の播磨国の国衙跡である事はほぼ間違いないと考えられています。





社殿の脇から奥に続く摂社。播磨国の神々が一堂に会しています。



 安土桃山時代の1581(天正9)年には、羽柴秀吉公が姫路城を築城する事となり、それに伴って射楯兵主神社も現在の場所に移転され、同時に100石が寄贈されて経済的基盤も強化されました。江戸時代に入っても代々の姫路城主の厚い崇敬に支えられて繁栄してきましたが、第2次世界大戦中の1945(昭和20)年7月には空襲を受け、社殿をはじめ境内が悉く焼失の憂き目に遭います。しかし、地元の氏子の皆さんの御尽力によって翌1946(昭和21)年より再建が開始され、1965(昭和40)年9月には復興事業が無事完成し、往時の威勢を取り戻しました。





姫路城側からやって来ると、この西の鳥居が玄関口になります。



 播磨国中の神々が集うこの神社では、多くの祭礼も執り行われています。元旦に行われる歳旦祭や1月14日から16日にかけて行われる初えびす祭、2月に行われる厄神大祭、6月の夏越の輪抜け神事や11月13日から4日間行われる霜月例大祭など多くの年中行事が行われてますが、その他にも珍しいお祭りがあります。

 御祭神が祀られたという6月11日が、暦でいうところの「丁卯(ていぼう)」と一致する年に行われる60年に一度の神事・「一つ山祭」。天神地祇祭とも丁卯祭ともいわれるこのお祭りは、939(天慶2)年に起きた藤原純友の乱の平定祈願のため、勅使の藤原好時卿が行った儀式が始まりといわれています。神が降り立つ聖なる「山」に見立てた高さ約18m・直径10mの竹組みの円筒に5色の絹布を巻いた物を1つ作って神霊降臨を願い、その前で能楽の奉納や競馬、流鏑馬など5種の神事を奉納するというものです。また、20年に一度行われる「三つ山祭」も有名です。一つ山祭とよく似たお祭りで、竹組みの三つの山を祭る事からその名が付けられました。東の山には浅黄と白の絹布が、中央の山には5色の絹布が、西の山には小袖が巻かれているところが異なる点です。どちらのお祭りも、国の重要無形民俗文化財に指定されています。





西の鳥居に隣接するように立てられている楼門。朱塗りがとても映えます。


アクセス
・JR山陽本線「姫路駅」下車、北東へ徒歩15分
・山陽電鉄「山陽姫路駅」下車、北東へ徒歩15分
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拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト


長岡京・角宮神社。

2006年09月12日 | ◇京都府 -洛外
雨乞いの神様・農業守護・商売繁盛・安産

角宮神社

(すみのみやじんじゃ)
京都府長岡京市井ノ内南内畑35



閑静な住宅地の中にこんもりとした森。ここが角宮神社です。


〔御祭神〕
火雷神
(ほのいかづちのかみ)
玉依姫命
(たまよりひめのみこと)
建角身命
(たけつのみのみこと)
活目入彦五十狹茅尊
(いくめいりひこいさちのみこと)



 弘法大師の開基といわれる乙訓寺。その境内の西側に接する道をまっすぐ北上していくと、道の交差する角に鎮座している神社があります。ここが角宮神社です。乙訓郡19座のひとつ、延喜式にもその名を連ねる乙訓坐火雷神社(ほのいかづち)がその前身といわれています。「山城国風土記」には、賀茂建角身命の娘である玉依姫丹塗矢と結ばれ、上賀茂神社のご祭神である賀茂別雷神が誕生したという話が書かれていますが、この「丹塗矢」が角宮神社のご祭神である乙訓坐火雷神だといわれています。







 乙訓の火雷神は「続日本紀」の中にも名を残しています。702(大宝2)年の出来事を書いた記事に、日照りのたびに「乙訓郡火雷神」に雨乞いをしたことが書かれています。それ以来、雨乞いの神さまとして度々書物に名前が見られるようになりました。




本殿の手前にある拝殿。その手前には磐座があります。



 社伝には、512(継体天皇6)年に勅命を以って「乙訓社」が建てられて火雷神が祀られるようになったと書かれています。また、桓武天皇の勅命で玉依姫命建角身命活目入彦五十狹茅尊の3神が合祀され、「角宮乙訓大明神」と呼ばれるようになったことや、天皇の行幸があったことなどが書かれています。




乙訓郡火雷神はじめ4神を祀る本殿です。



 1221(承久3)年に後鳥羽上皇が倒幕のために挙兵した「承久の変」では、東国から攻め寄せた鎌倉幕府軍の猛攻の前に朝廷軍は総崩れとなり、角宮乙訓大明神も兵火に巻き込まれて全てが灰燼に帰してしまいました。その後、社はなかなか復興が許されませんでしたが、1464(文明16)年に再興されたそうです。 




社殿の右側に並ぶ摂社。



アクセス
・阪急電車京都線「西向日駅」下車、西へ徒歩10分。
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

長岡京・走田神社。

2006年09月05日 | ◇京都府 -洛外
早稲田の守護神・無病息災・五穀豊穣

走田神社

(はしりだじんじゃ)
京都府長岡京市奥海印寺走田3



走田神社の「走田」とは「走り稲=早稲」を作る水田、という意味です。


〔御祭神〕
天津兒屋根神
(あめのこやねのかみ)

武甕槌神(たけみかづちのかみ)
経津主神(ふつぬしのかみ)
姫大神(ひめのおおかみ)


 長岡天満宮から北西に2㎞ほどのところ、バス道沿いに建つ長岡京市在宅介護センターのすぐ脇に、白い鳥居が建っています。この鳥居をくぐった奥に鎮座しているのが走田神社です。走田神社は延喜式内社に列せられる由緒ある神社だったといわれており、かつては妙見菩薩が合祀されていたため「妙見社」とよばれていました。




鳥居の奥の100段以上の石段を登ると、能舞台と社殿のある境内に着きます。



 平安時代のはじめの頃の話。嵯峨天皇の命を受け、鎮護国家のための大寺院の建立地を捜し求めていた弘法大師の高弟・道雄僧都は、夢の中に現れた童子より長岡京の西山の地に適地があるとの啓示を受けます。夢に従ってこの地を訪れた道雄僧都の前に姿を現した童子は、「吾はこの山を守護する妙見菩薩なり。寺院建立の暁には千手観音を本尊に崇め、吾を走田神社に合祀せよ」というお告げを残したといいます。

 やがてこのお告げにしたがってこの地に築かれた大寺院が「海印寺」ですが、残念ながら応仁の乱で焼失してしまい、現在は塔頭であった寂照院のみが残っています。海印寺建立の前からこの地に鎮座していたといわれる走田神社奥海印寺村長法寺村の産土神として村人たちの崇敬を集めていました。海印寺が建立された際、走田神社寂照院の鎮守社とされ、お告げの通り妙見菩薩が合祀されたそうです。その後、明治維新以降の神仏分離令にともなって妙見菩薩像は寂照院に遷され、社号も正式に「走田神社」と呼ばれるようになりました。




江戸時代後半に再建された社殿。



 実際のところ、この走田神社=延喜式内社の走田神社かどうかは定かではありませんが、1825(文政8)年に再建された社殿には1483(文明15)年の写しが残されていますので、少なくとも500年以上の歴史を持つ古社であることは間違いありません。




拝殿脇の摂社。社号は分かりませんが、お稲荷さんだと思われます。



 走田神社のお祭りで有名なのが、正月13日に行われる「弓講」です。無病息災や五穀豊穣を祈念して行われる「弓講」では、羽織袴に身を包んだ2人の射手が、合わせて12本の矢を直径約1.3メートルの的に向かって射ます。12本の矢は睦月から師走までの月を表しているそうで、矢が的の中央の黒点に命中すれば、その月は豊作になるといわれています。

 参詣人は、神事が終わると的の両側に立ててある御幣に一斉に押し寄せます。この御幣を見事とることができた人は、1年間息災に暮らせるといわれています。


アクセス
・阪急京都線「長岡天神駅」またはJR「長岡京駅」下車、阪急バス「明神前」バス停下車すぐ。
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸・竹尾稲荷神社。

2006年09月04日 | ■神戸市兵庫区
航海安全・商売繁盛・家内安全

竹尾稲荷神社

(たけおいなりじんじゃ)
神戸市兵庫区七宮町1-3-18



赤と青の2本のノボリがその存在を知らせてくれました。

〔御祭神〕
宇迦御魂大神
(うかのみたまおおかみ)



 松尾稲荷神社を訪れたあと、生田8裔神のひとつ七宮神社へと向かう道すがら、竹尾稲荷神社を訪ねてみました。創建時期に関する確かな資料は残っていませんが、この辺りを描いた古い地図には竹尾稲荷神社は載っていませんし、境内に建っている石灯籠に1813(文化10)年と1818(文政元)年の刻文が残されていることから、この時期の創建だといわれています。

 一説には、江戸幕府では11代将軍・徳川家斉が、そして朝廷では光格天皇がその座に就いていた1802(享和2)年、この地の人々が京都の伏見稲荷大社から御祭神を勧請し、兵庫の津を一望できる岬にお社を築いてお祀りしたのが始まりだとも言われています。







 以前は、鳥居の前には入江佐比江へと流れ込む水路があったそうで、明治時代になって埋め立てが行われるまでは竹尾稲荷神社の参道も今の東西に走るものではなく、南北に走るものだったそうです。その頃には多くの赤鳥居も建っていたそうですが、1944(昭和29)年6月に都市計画に従ってやや西に遷されて現在の地に落ち着きました。

 この地域には「竹尾会」という会があり、神社の管理・運営を行っています。阪神淡路大震災でダメージをうけた社殿を修復するなど、地域でしっかりとお社を守っているそうです。




1953(昭和28)年に育友会と婦人会の手で建てられた「高田屋嘉兵衛顕彰碑」
題字は当時の原口忠次郎神戸市長によるものです。



 淡路島の津名郡都志村に生まれた高田屋嘉兵衛。1792(寛政4)年に24歳で兵庫に出てきた高田屋嘉兵衛は、西出町の樽廻船問屋・堺屋喜兵衛のもとでメキメキとその才能を発揮していきます。

 やがて廻船問屋として独立を果たした高田屋嘉兵衛は、ここ兵庫・西出町に本店を構えて活躍。北海航路を開拓するなど大成功を収め、兵庫津の繁栄に大きな貢献を果たしました。また、測量中に松前藩に拿捕されたロシア海軍軍人・ゴローニンをめぐる「ゴローニン事件」では一身を賭して問題解決に奔走し、長年にわたる紛争を巧みに収めたその手腕は、日ロ両国から大きな尊敬の念をもって賞賛されました。

 その高田屋嘉兵衛の功績を讃える意味を込めて建てられたのがこの記念碑で、もともとは旧入江小学校の校庭に建てられていたのですが、学校の統廃合の影響を受けて境内に移設されました。
 



道を挟んだ向かい側には、嘉兵衛の本店跡の記念碑もあります。



アクセス
・JR「神戸駅」下車、南西へ徒歩10分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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深江・大日霊女神社。

2006年09月03日 | ■神戸市東灘区
家内安全・厄除・交通安全

大日霊女神社

(おおひるめじんじゃ)
神戸市東灘区深江本町3-5-7

大日っつぁん



南に立つ真っ白な神明鳥居。伊勢神宮の鳥居と同じタイプのものです。


〔御祭神〕
大日霊女尊
(おおひるめのみこと)
宇迦之御魂神
(うかのみたまのかみ)
戎大神
(えびすのおおかみ)



 阪神電車の「深江駅」。阪神電車の駅の中では市内でもっとも東端にあるこの駅の南には、なかなか面白い成り立ちをした神社が鎮座しています。その神社の名前は、大日霊女神社。地元の方々が親しみを込めて「大日つぁん」と呼んでいるこの神社は、一人の住職さんのある行動がきっかけで生まれた神社です。





1908(明治41)年に神明造で建てられた本殿は、阪神淡路大震災で倒壊。
現在の本殿は2000(平成12)年に再建されたものです。


 昔、この辺りには薬王寺という寺院があり、大日如来尊を本尊としていました。しかし薬王寺の住職だった観空和尚は、1481(文明13)年にこの地を教化に訪れた蓮如上人の教えに帰依し、真言宗だった寺院を浄土真宗へと改宗してしまいます。この頃は応仁の乱が終わり、加賀国で加賀一向一揆が起こったり、京都・山科の地に本願寺が築かれるなど、浄土真宗がその勢力をどんどん拡大している時代でした。今もこの周辺に残る永井山正寿寺(深江)香雲山無量寺(青木)青木山西林寺(北青木)などは、この半世紀後に前後して開基された浄土真宗の寺院です。





かつては「踊り松」の南にあった白玉稲荷。隣には末光稲荷も。



 当時は「浄土真宗」という呼び名が浄土宗の否定というふうに受け取られる恐れがあったため、「真宗」と名乗っていたそうです。「一向宗」という呼び名は江戸時代、浄土宗側から幕府へと働きかけがあった結果「浄土真宗」いう名称の使用が禁じられたために付けられた呼び名です。「浄土真宗」と公に名乗るのは、明治時代に政府の大教院に宗教団体登録を行う際、浄土真宗本願寺が「浄土真宗」という名で登録して以降の事だそうです。





この地域で獲れた新鮮な魚介類を有馬温泉まで運ぶために設けられた「魚屋道」の記念碑。



 真言宗から浄土真宗へと宗旨替えしてしまった観空和尚は、寺号も「延寿寺」とかえてしまいます。このときご本尊も浄土真宗の教えに基づき阿弥陀如来尊に替えられてしまったため、寺を追い出される形になった大日如来尊像を村人たちが引き取って祀ったのが大日霊女神社の始まりだといわれています。ただ、深江村の氏神はこの大日霊女神社ではなく、森稲荷神社保久良神社が正式な氏神さまでした。深江を含む青木中野小路北畑田辺(以上神戸市)・三条津知(以上芦屋市)の村々は「本庄9ヶ村」とよばれ、森稲荷神社保久良神社を氏神にしていました。明治に入り、そのどちらか一方を氏神として選択しなければならなくなった際、深江青木の3ヶ村は森稲荷神社を、ほかの6ヶ村は保久良神社を氏神としたそうです。いまも、大日霊女神社の神主は森稲荷神社神田宮司が兼務しています。





今の国道43号線あたりを通っていた「旧西国浜街道」の記念碑。
この辺りでは43号線より1本北、神社の鳥居前を通っていました。


 1908(明治41)年には神明造瓦葺流造の本殿と瓦葺入母屋造の拝殿などが建てられました。残念ながら、1945(昭和20)年8月の米軍による無差別大空襲によって社務所やだんじり庫、樹齢集百年の松が焼かれるなど大きなダメージを受けましたが、本殿・拝殿は何とか戦災を免れました。その社殿も1995(平成7)年の阪神淡路大震災で全壊。2000(平成12)年に無事新しい社殿が再建されました。





「深江史の庭」。この地域にあった記念碑や石碑が一同に集められています。



アクセス
・阪神電車「深江駅」下車、南へ徒歩2分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


ウォーカームック 灘・東灘Walker 61802-69 (ウォーカームック 168)
クリエーター情報なし
角川マーケティング(角川グループパブリッシング)