神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

芦屋・打出天神社。

2007年07月30日 | □兵庫県 -阪神
学業成就・五穀豊穣

打出天神社

(うちでてんじんじゃ)
芦屋市春日町1-21




阪神・淡路大震災で倒壊した鳥居は、翌1996(平成8)年に再建されました。


〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらみちざねこう)
事代主命
(ことしろぬしのみこと)


 1905(明治38)年に阪神電車が開業したときに開設された打出駅。当時はすぐ近くまで海岸が迫っており、駅の開設と時を同じくして打出浜海水浴場が開かれたそうですが、牡蠣の貝殻が多いなど海水浴には適した砂浜ではなかったようで、あまり人気が出ずにまもなく廃止されたそうです。その打出駅から北へ3分ほど歩いたところにあるのが打出天神社です。





1964(昭和39)年に再建された打出天神社の社殿。



 創立時期ははっきりしていませんが、18世紀末に編纂された「摂津名所図会」によると打出天神社は「産土神」と記されていますので、菅原道真公を祀る天満宮としてではなく、元々は地元の守り神を祀る神社として創建されたようです。しかしながら、芦屋荘が京都・北野天満宮の社領だった事、そして打出が西国街道が通る交通の要衝だったことから天神信仰ブームが比較的早く伝わり、平安時代末期には菅原道真公を御祭神とする天神社としての体裁が整えられていたのではないかとも考えられます。また、1667(寛文7)年には初代宮守・南嶺氏が願主となって菅原道真公の木像が納められたという話が残されています。





打出の各地にあった神社が合祀されている摂社。



 1906(明治39)年の勅令に則り、「一町村一神社」の原則で進められた神社の合祀によって、全国に20万社あった神社は13万社に絞られました。ここ打出でも神社の合祀が進められ、宮川町の金比羅神社、南宮町の南宮八幡宮、春日町の春日神社、若宮町の若宮神社、金津山の厳島神社の各社が打出天神社の境内に合祀されました。その後、打出天神社は1945(昭和20)年8月5日の大空襲によって社務所を除いて境内のほとんどを焼失、ようやく1964(昭和39)年に社殿が再建されました。阪神淡路大震災でも拝殿や鳥居が倒壊しましたが、無事に再建されて現在に至ります。





社殿の左脇には稲荷社もあります。


アクセス
・阪神電車「打出駅」下車、北へ徒歩2分
打出天神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

大阪・泉殿宮(吹田市)。

2007年07月25日 | ◆大阪府
泉の如く「力」湧き出る 厄を追い払い運を開く

泉殿宮

(いづどのぐう)
大阪府吹田市西の庄町10-1





〔御祭神〕
宇迦之御魂大神
(うかのみたまのおおかみ)
建速須佐之男大神
(たけはやすさのおのおおかみ)

住吉大神(すみよしたいしん)
春日大神(かすがたいしん)
天香山命(あめのかぐやまのみこと)



 吹田市役所の北、阪急吹田駅から歩いてすぐのところに大きな看板の立つ神社があります。国道479号線と大阪府道14号線が交わる近くにあるので、自動車で通る方も見かけたことがあるのではないでしょうか。この神社は泉殿宮。1000年以上の長い歴史を誇り、北に隣接するアサヒビールさんとも深い繋がりを持つなど、非常に興味深いエピソードの宝庫です。




拝殿には宇迦之御魂大神と建速須佐之男大神が祀られています。



 日本神話の中で、高天原より降臨した瓊瓊杵尊とともに葦原の中つ国(地上)に降り立った天香山命の末裔とされる吹田連(すきたのむらじ)。史料によっては次田連とも呼ばれるこの一族が、勢力を保っていた河内国から淀川を遡って吹田に移住し、この地に五穀豊穣の神さまである宇迦之御魂大神を祀ったのが泉殿宮の始まりとされています。




伝説の泉殿霊泉が社殿の左脇に残されています。



 源氏の始祖でもある清和天皇の治世の869(貞観11)年、全国的に日照りが続いて疫病が流行するなど世情が大変乱れました。これを憂いた清和天皇は、播磨国にある広峯神社から御祭神の建速須佐之男大神を勧請して八坂神社を建立し、王城鎮護の守護神とすることで事態の収拾を図ろうとしました。

 神輿は京都に向かう途中で吹田を訪れ、しばらくのあいだ泉殿宮に滞在されました。この地も日照り続きで、氏子たちも旱魃に苦しんでいたため、建速須佐之男大神を社殿にお祀りして雨乞い祈願を行いました。この効果はてきめんで、たちまち雨が降り清泉が湧き出して田畑を潤したといわれています。このときの雨を喜ぶ童子たちの姿をベースに伝承されているのが、吹田市の地域無形民俗文化財に指定されている「泉殿宮神楽獅子(いづどのぐうかぐらじし)」だそうです。




天保年間に作られた地車を社殿にした地車戎神社。



 大化の改新天智天皇を支えた藤原鎌足の次男・藤原不比等の4人の息子たちを始祖とした南家北家式家京家藤原四家泉殿宮では、このうちの藤原南家の末裔である宮脇氏が代々宮司を務めていました。

 しかし、天保の大飢饉に端を発して起きた1837(天保8)年の大塩平八郎の乱の際、時の宮司・宮脇志摩大塩平八郎の叔父にあたることから首謀者の一人であるという容疑をかけられて泉殿宮は包囲されます。宮脇志摩は切腹して果て、残された子どものうち男児は全て島流しにされたうえに家門は闕所となって財産を全て没収されるという厳しい処分を受けたことで、泉殿宮も存続の危機を迎えます。

 それから30年ほど後に明治維新が起こり、これにともなって島流しにあっていた子孫たちも赦免され、再び宮脇志津摩氏が第33代宮司となって泉殿宮は復興されました。ちなみに、現在の宮司さんは阪神・淡路大震災の直前まで神戸の生田神社におられたそうです。




大国主命・神産巣日大神・奇稲田姫神が祀られている摂社です。



 貞観年間の雨乞いの際に霊験によって湧き出したといわれる泉殿霊泉。ここから湧き出る清水の水質は非常に優れ、1889(明治22)年には本場ミュンヘンでビール醸造に最適だという高い評価を受けました。この清水に着目した大阪麦酒会社が1891(明治24)年に吹田村醸造所を建設、翌年に誕生したのが「アサヒビール」です。こうしてアサヒビールの創成期を支えた水脈も、昭和30年代には惜しくも枯れてしまいましたが、境内には泉殿霊泉の遺構が残されています。

 このほかにも境内には、1970(昭和45)年に行われた日本万国博覧会泉殿宮が地鎮祭や立柱祭など全ての祭事を執り行ったことを記念し、当時の祭事で使用された元柱(もとつはしら)が祀られています。




大きな看板が目印です。



アクセス
・阪急電車「吹田駅」下車、北へ徒歩2分
・JR「吹田駅」下車、南西へ徒歩8分
 泉殿宮地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
 泉殿宮公式サイト

京都・二尊院。

2007年07月15日 | ◇京都府 -洛西

小倉山二尊教院華台寺

(おぐらやま にそんきょういんけだいじ)
京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27

法然上人二十五霊場・第17番札所



豪商・角倉了以が伏見城の薬医門を移設したといわれる総門。


〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
釈迦如来像
(しゃかにょらいぞう)
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)



 小倉山の山裾には、徒歩で散策するにはちょうど良い間隔で名刹や史跡が軒を連ねています。常寂光寺落柿舎を堪能したあと、わずか5分ほど北に歩みを進めるだけで、立派な総門を持つ大きな寺院へとたどり着きます。この寺院が、平安初期に建立されて1200年近くの長い歴史を誇る天台宗の古刹・二尊院です。




紅葉の馬場。夏はまぶしい青、秋は鮮やかな赤で埋められます。



 二尊院は正式名称を小倉山二尊教院華台寺といい、平安時代初期の承和年間(834~848年)に嵯峨天皇の勅願によって、慈覚大師・円仁が開祖となって建立されました。円仁伝行大師・最澄の弟子で、唐に渡って仏教を学んだ最澄空海常暁円行恵運円珍宗叡とともに「入唐八家」と並び称された高僧で、のちに比叡山延暦寺の第3代座主も務めました。

 その円仁が悪天候などで何度も失敗を重ねたのち、ようやく最後の遣唐使の一員として唐に渡ることが出来たのは838(承和5)年のこと。そして帰国を果たしたのが847(承和14)年の秋。嵯峨天皇は842(承和9)年に崩御されているので、二尊院は承和年間の初期に創建されたのではないかと思われます。





「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」が安置されている本堂。



 「二尊院」という名はこの寺院の本尊に由来します。人が生まれて人生を始める際に送り出してくださるという釈迦如来尊像と、寿命を全うして浄土へ旅立つ際に迎えてくださる阿弥陀如来尊像、いわゆる「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の2体の如来尊像が安置されていることからその名が付けられました。




書院と納経所の間に広がる枯山水。



 慈覚大師・円仁が開基した二尊院も一時期荒廃してしまいますが、鎌倉時代の初期にこの地に法然上人が庵を結び、その弟子である湛空上人らによって二尊院の再興が行われたといいます。これには異説もあり、九条家の支援を受けた法然上人が再興の指揮をとったという説もあります。法然上人の入寂後、その遺骨を収めた雁塔が建てられ、二尊院天台宗真言宗律宗浄土宗の四宗兼学の道場となったといわれています。




「しあわせの鐘」。誰もが撞くことが出来ます。



 その後、15世紀のなかばに起きた応仁の乱の兵火に巻き込まれて諸堂が全焼の憂き目に遭いますが、焼失から約30年後の永正年間(1504~1521年)に長門国の僧・広明恵教が、三条西実隆三条西公条父子の援助を得て、本堂や唐門などを復興したと伝えられています。本堂にある「二尊院」の後奈良天皇の勅額や唐門の「小倉山」の後柏原天皇の勅額はこの時に下賜されたものだそうです。




廟所へ向けての急な石段。



 本堂脇の急な石段を登っていくと、両脇に公家や著名人の墓所が並んでいます。二条家三条家四条家三条西家鷹司家などの公家たちの菩提所でもあり、さらには戦国時代の豪商・角倉了以の墓所や俳優の阪東妻三郎など有名人の墓が多数並んでいます。「阪妻」の長男にあたり、先だって亡くなられた田村高廣さんの墓所も二尊院にあります。




石段を登りきったところにある湛空上人廟



藤原定家卿が「百人一首」を撰定した場所といわれる「時雨亭」の跡。



アクセス
・JR「嵯峨嵐山駅」下車、東へ徒歩25分
・嵐電「嵐山駅」下車、北東へ徒歩20分
・トロッコ「嵐山駅」下車、北へ徒歩10分
 二尊院地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・500円

拝観時間
・9時~16時30分