神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・圓徳院。

2007年03月26日 | ◇京都府 -洛東


圓徳院

(えんとくいん)
京都市東山区高台寺下河原町530


鷲峯山高台寺塔頭



「ねねの道」に面して建つ長屋門。ここが圓徳院の入口です。


〔宗派〕
臨済宗建仁寺派



 豊臣秀吉公の正室「高台院北政所の終の棲家となった高台寺は、江戸時代の初め頃には永興院永昌院月真院玉雲院岡林院春光院昌純院、そして圓徳院の8つの塔頭を抱える規模を誇っていました。そのうち、圓徳院月真院岡林院春光院の4つが現代に至るまで高台寺を護るように法灯を継いでいます。京都・東山の地に移り住んだ北政所は、亡き夫・豊臣秀吉公との思い出がたくさん詰まった伏見城から化粧御殿と前庭を移築し、そこで余生を過ごすことになります。飾らない性格ゆえに老若男女貴賎を問わず万人に愛された北政所の元には加藤清正公や福島正則公などの太閤子飼いの大名たちや、禅僧や公家、茶人や歌人などの文化人がその人徳を慕って集まり、賑やかな楽しい時を過ごしたといわれています。この様子を「高台寺文化サロン」と例えた方がいますが、政争から離れて唯ひたすら平安を祈りながら風雅の中で余生を楽しもうとしていた北政所の生き方が良く伝わる秀逸な表現です。




 
1994(平成6)年に解体修理された方丈(左)と、その前に広がる南庭(右)。



 北政所は、亡くなる直前の1624(寛永元)年に化粧御殿を甥・木下利房公に譲り渡しました。木下利房公は1627(寛永4)年には仙洞御所の守護職を辞して圓徳院と号し、その5年後には高台寺三江紹益上人を開基に迎えてこの地に木下家の菩提を弔う寺院を開きます。この寺院は院号にちなんで圓徳院と名付けられ、高台寺の塔頭となりました。化粧御殿と一緒に伏見城から移築された北庭は、当時の多くの大名が持ち寄ったという多くの巨石をふんだんに配置した豪壮絢爛な枯山水庭園で、安土桃山時代の作風をよく残した名庭です。この庭は伏見城の庭を作庭した賢庭の作と言われており、後に小堀遠州が手を加えたと伝えられています。




 
左は「ねねの小径」。国指定名勝で、巨石をふんだんに配した北庭。



 北庭を堪能して方丈を出ると、三面大黒天を祀るお堂の脇に出ます。三面大福天は正面に大黒天、左右に毘沙門天弁財天の顔を持つ珍しい仏像で、比叡山延暦寺の開祖・伝教大師最澄が唐より伝えたといわれています。一度に3体の仏様を拝むことが出来る合理性を好んで豊臣秀吉公が念持仏として厚く信仰したと言われており、18世紀末頃の「絵本太閤記」や人形浄瑠璃・「絵本太功記」のヒットによって起こった豊臣秀吉公ブームの時には三面大黒天も有名となって人々の厚い崇敬を集めることとなりました。





京都御苑から移築された御堂に安置されている三面大黒天。



 木下家定公の嫡男に生まれた木下勝俊公は、身内の少なかった豊臣秀吉公に重用されて19歳で龍野城城主となり、1594(文禄3)年には26歳で正五位下左近衛権少将の官位を受け、若狭小浜城の城主にも任ぜられました。豊臣秀吉公の没後は政争の波に翻弄され、所領の没収を受けるなど受難が続きましたが、東山霊山に隠棲して文人としての道を歩み始めると解き放たれたかのようにその才能に磨きをかけていきます。もともと文雅の才に恵まれ、細川幽斎に和歌を学ぶなど若い頃から才能を発揮していた木下勝俊公は、雅号を長嘯子と名乗って松永貞徳林羅山春日局冷泉為影卿などと親交を深め、豊かな感性から詠まれる歌で文壇をリードしていきました。晩年は東山を離れ、西行法師ゆかりの勝持寺の傍に庵を結んで余生を過ごしたと言われています。





「歌聖」木下長嘯子を祀る歌仙堂。詩仙堂・雅仙堂と並び「京都三堂」と称されました。


アクセス
・JR「京都駅」より京都市バス206・207系統に乗車。「東山安井」にて下車、徒歩10分
圓徳院地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:500円、中高生:200円(小学生以下は無料)

拝観時間
・10時~17時(16時30分受付終了)  ※春と秋には特別夜間拝観があります。

公式サイト




京都・高台寺、和の彩り。

2007年03月11日 | ◇京都府 -洛東


高台寺、和の彩り

京都市東山区高台寺下川原町526

和の彩り



庫裏・方丈の北にある茶室。





 庭を見たくなった時、自然と京都へ、そして高台寺へと足が向くことがあります。東山の尾根を背に歩く「ねねの道」と名付けられた石畳の道は、おのずと悠揚たる気分にさせてくれる「いのちの道」でもあります。400年前、正しくは高台寿聖禅寺と呼ばれる高台寺で亡き夫・豊臣秀吉公の菩提を弔いながら静かに余生を送られていたねね様が、この道を通り、東山からの同じ眺めを愉しまれていたということに思いを馳せると、とても不思議な気持ちになります。




開山堂の西にある偃月池。



 「ねねの道」から高台寺の境内へと導いてくれるのは、石組みの美しい台所坂。楓や椿で彩られた坂を登りきると左手に庫裡が見えます。庫裡の周囲にもさりげなく、しかしながらしっかりと手入れの行き届いた庭園が息づいており、参拝客をあたたかく迎えてくれます。庫裡脇を通り抜けると湖月庵、そして桃山時代の豪商灰屋紹益とその妻で元島原の名妓・2代目吉野太夫が好んだといわれる遺芳庵といった茶室が並び、その奥には小掘遠州の影響が色濃く残る庭園が広がります。手前には偃月池が静かに水を湛え、開山堂へと伸びる楼船廊の中ほどには美しい月を眺めるために設けられた観月台があります。檜皮葺で三方にむけて唐破風屋根を設けた観月台は国指定の重要文化財になっています。




臥龍池より開山堂を望む。



 開山堂には高台寺の開山・三江紹益禅師が祀られています。創建当時から今に至るまで京都の町並みを見守り続ける貴重な建造物として、国の重要文化財に指定されている開山堂の中央の彩色天井には北政所の御所車の天井が用いられ、前方にある格子屋根には太閤豊臣秀吉公が使った御船の天井が使われています。また、左右の壇上には北政所の兄・木下家定公とその妻・雲照院の像が安置されています。




瓦葺壮観なる臥龍廊。



 開山堂からあたかも龍の背中のように高台へと伸びる臥龍廊。一枚一枚の瓦が龍の鱗の如く息づき、今に蠢動しそうな迫力を感じます。その臥龍廊が結ぶ先にあるのが霊屋(おたまや)です。霊屋もまた、創建当時から残る建造物で、表門と建物自体が国の重要文化財に指定されています。




北政所の亡骸を葬った霊屋(おたまや)。



 北政所の亡夫への追慕の念を表すように、阿弥陀ヶ峰に祀られた豊臣秀吉公の廟堂に似せて造られたという霊屋の中央には隨求菩薩像が、そして右側には豊臣秀吉公、左側には北政所の坐像が安置されています。坐像の背景の絵画は狩野永徳の筆によるものと伝えられ、須弥壇や厨子には高台寺蒔絵と称される華麗な蒔絵が施されるなど、安土桃山時代の工芸美術の美しさを堪能することができます。三江紹益和尚が高台寺に入られたのを見届けるように危篤に陥った北政所は、手当ての甲斐なくその2ヵ月後に76年の生涯を閉じられました。その亡骸を収めた棺は甥たちに担がれてこの霊屋まで運ばれ、地下深くに手厚く葬られたそうです。




御霊屋の南東にある傘亭。



 霊屋の南東には、北政所伏見城より移設させたといわれる茅葺きの茶室が2棟並んでいます。北側にある茶室は正式名称を安閑窟といい、放射状に組まれた竹垂木の形状が傘のように見えることから傘亭と呼ばれています。

 伏見城から移設した際、小掘遠州によって付設されたといわれる土間廊下で傘亭と繋がっているのが、もう一つの茶室・時雨亭です。「時雨亭」という名前は、傘亭との取り合わせで新しく付けられた名前だといわれています。茶室としては珍しい2階建の茅葺き入母屋造りの建物となっていて、1階を調理スペースに、2階を茶室に使用していたそうです。千利休の好みの建物と伝えられていますが、千利休は1594(文禄3)年の伏見城の築城よりも前の1590(天正18)年に豊臣秀吉公の逆鱗に触れて自害していますので、千利休自らが作ったのではなく、その意匠を汲んだ者の手によって造られたと考えられています。




傘亭と隣接する時雨亭。どちらも重要文化財に指定されています。



アクセス
・JR「京都駅」より京都市バス206・207系統に乗車。「東山安井」にて下車、徒歩10分
 高台寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人600円、中高生250円、小学生以下無料
 (隣の圓徳院と掌美術館との共通拝観券は900円)

拝観時間
・9時~17時(17時30分閉門)

 ※春の特別夜間拝観
 2008(平成20)年3月14日(金)~5月6日(火)
 日没後ライトアップ~21時30分まで受付(22時閉門)


公式サイト



京都・高台寺。

2007年03月07日 | ◇京都府 -洛東


鷲峰山高台寺

(じゅぶさん こうだいじ)
京都市東山区高台寺下川原町526



名庭のある高台寺。参道の石組みも綺麗です。


〔宗派〕
臨済宗建仁寺派

〔御本尊〕
釈迦如来像
(しゃかにょらい)



 京都には日本を代表する素晴らしい日本庭園が多数あります。西芳寺桂離宮龍安寺など、名前を挙げていけばきりがありません。太閤豊臣秀吉公の菩提を弔うために正室だった北政所(ねね)が1606(慶長11)年に建てた高台寺も、そんな名庭を持つ名刹の一つです。




高台寺方丈。ここが名庭への入口です。



 1603(慶長8)年、北政所後陽成天皇より「高台院」の号を賜わります。寺院への入堂の意志を固めていた北政所は、すでに亡き両親杉原助左衛門旭日局の菩提寺として寺町に康徳寺を建てており、当初はそこに隠棲して亡き夫豊臣秀吉公の菩提を弔うつもりでいました。その気持ちを察したかのように新寺院の建立を勧めたのは、関が原の戦いに勝利し、次代のリーダーとしての地位を固めつつあった徳川家康公でした。

 関が原の闘いに勝ったとはいえ、依然大坂城には淀君豊臣秀頼公が健在。さらには豊家恩顧の諸大名がひしめく中で、彼らから「天下のおっかさん」として慕われた北政所の持つ影響力に対して最大限の神経を使っていた徳川家康公は、この寺院建立のときにも土地の選定から工事の手配まで財を惜しまずバックアップを行い、北政所に対する敬意を表しています。




一番最初に目にするのが遺芳庵と呼ばれる茶室です。



 徳川家康公は、大徳寺の開祖・宗峯妙超が修行を積んだという雲居院の跡地に建っていた岩栖院康徳寺の地へ移転させるなど、新寺院の建立に向けて手回し良く事を進めます。この地からは、淀君が亡父・浅井長政公の菩提を弔うために建てた養源院を見下ろすことが出来たそうで、北政所を一番に立てるという徳川家の姿勢を示す効果もあったと思われます。

 北政所の院号をとって「高台寺」と名付けられたこの寺院の建設には徳川家の大名だけでなく、北政所を実の母親の如く慕う加藤清正公や福島正則公など豊家恩顧の大名もこぞって助力を惜しまなかったといいます。

 豊臣秀吉公と過ごした思い出がたくさん詰まった伏見城化粧御殿や前庭などを移設してこの地に1605(慶長10)年に移り住んだ北政所は、1624(寛永元)年に76歳で亡くなるまでの19年間、この地を離れることはありませんでした。




方丈前の南庭。公式サイトのライブカメラでは、この庭の様子が楽しめます。



 曹洞宗の寺院として開かれた高台寺でしたが、住職がなかなか長続きしないこともあり、北政所は、兄・木下家定公とも昵懇だった建仁寺の名僧三江紹益を迎えて高台寺の開山となっていただく運びとなりました。兄の縁もありましたが、やはり和尚の大きな人柄に惹かれたというのが大きかったようです。

 臨済宗建仁寺から住職を迎えるということは曹洞宗からの転派を意味します。同じ仏教とはいえ、宗派を変えるということはやはり大変なことでしたが、1624(寛永元)年にようやく認められ、その年の7月に三江紹益和尚の入寺が行われました。




創建当初の名残りを伝える開山堂。重要文化財に指定されています。



 世に出ようとはせず、豊臣家とその子飼いの実の息子のような大名たちの行く末を見守りながら、静かな余生を送られていた北政所は、三江紹益和尚の入山を見届けるかのように危篤に陥り、2ヶ月後の9月6日に息を引き取ります。その亡骸は、甥の木下利房公や木下延俊公などに担がれて境内の御霊屋(おたまや)に納められました。豊臣秀吉公への追慕の思いから、その廟所に似た建物を建てたといわれています。



アクセス
・JR「京都駅」より京都市バス206・207系統に乗車。「東山安井」にて下車、徒歩10分
 高台寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人600円、中高生250円、小学生以下無料
 (隣の圓徳院と掌美術館との共通拝観券は900円)

拝観時間
・9時~17時(17時30分閉門)
 ※春の特別夜間拝観
 2008(平成20)年3月14日(金)~5月6日(火)
 日没後ライトアップ~21時30分まで受付(22時閉門)

公式サイト




新版 古寺巡礼京都〈37〉高台寺
小堀 泰巖,飯星 景子
淡交社

神戸・生田神社兵庫宮。

2007年03月02日 | ■神戸市兵庫区
家内安全・商売繁盛・交通安全

生田神社兵庫宮

(いくたじんじゃひょうごぐう)
神戸市兵庫区大開通6-4-8


生田神社御旅所




阪神・淡路大震災の翌年、1996(平成8)年に再建された赤鳥居。


〔御祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)



 神社の例祭のクライマックスを飾る神輿。地域の氏子たちが威勢良く神輿を担ぎ、声を枯らしながら町中を練り歩く風景に心躍らせる人も多いことと思います。いつもは神社の本殿の奥深くに祀られている神さまも、この時ばかりはその威光を近隣地域に行き渡らせるべく神輿に乗って境内を飛び出し、町中を練り歩く神幸祭に臨みます。「御旅所」というのは、巡行に出た神さまが氏子地域を練り歩いた際に休憩を取ったり宿泊したりする場所のことで、社殿が建立されているところもあれば神幸祭の時だけ仮社殿を設けたり、氏子の家にお招きしたりするなど、地域によって様々なケースが見られます。





1947(昭和27)年に建立された社殿。



 生田神社兵庫宮は、その名の通り生田神社の御祭神をお迎えする御旅所で、JR兵庫駅を出て北側にある御旅筋をまっすぐ北上したところにあるお社です。生田神社からの御神幸は時代によってエリアが異なっており、神幸祭のたびに御旅所が決められていたそうです。現在の場所に御旅所が定められたのは1893(明治26)年になってからのことで、その6年後の1899(明治32)年には兵庫エリア全体の守護神として生田神社から天照大御神を勧請してお祀りしたそうです。終戦後の1947(昭和27)年になって社殿が建立されました。




 
鮮やかな緑に囲まれる神使稲荷神社の朱塗りの鳥居(左)とその社殿(右)。



 1995(平成7)年1月17日早朝に発生した阪神・淡路大震災によって生田神社兵庫宮も大きな被害を受けましたが、氏子の皆さんの尽力によって早くも翌年には赤鳥居が再建され、1997(平成9)年には社務所であるわかひるめ会館も建てられました。わかひるめ会館の南側には、生田神社の御祭神が若々しい太陽の神さまである稚日女尊であることにちなみ、震災復興記念碑として日時計が建てられています。時刻を表す目盛りとは別に刻まれている「1995.1.17 05:46」。震災の起きた時刻を表す1本の赤い目盛りとともに、あの日の記憶を永遠に刻み込んでいる日時計です。




 
震災復興記念碑(左)と、そこに刻まれた阪神・淡路大震災の日時(右)。


アクセス
・JR「兵庫駅」下車、北へ徒歩5分
・神戸高速「大開駅」下車、徒歩2分
生田神社兵庫宮地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


伝える―阪神・淡路大震災の教訓
阪神淡路大震災復興フォローアップ委員会
ぎょうせい

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神戸・七宮神社(生田裔神八社)。

2007年03月01日 | ■神戸市兵庫区
縁結び・家内安全・航海安全

七宮神社(生田裔神八社)

(しちのみやじんじゃ)
神戸市兵庫区七宮町2-3-21


生田裔神八社



七宮の交差点の脇に境内への入口があります。


〔御祭神〕
大己貴命
(おおなむじのみこと)
天児屋根命
(あまのこやねのみこと)



 創建時期は不明ですが、平安末期の平家隆盛の頃には七宮神社に関する記録が残されていますので、1000年近い歴史を持つ古社であることは間違いありません。生田八裔神のひとつに数えられ、三韓遠征からの凱旋帰国の途中の201年に神功皇后が巡拝された神社だという言い伝えが残されていますが、江戸時代には生田神社の裔神としての扱いを不服とした訴訟が起こされ、生田神社との直接の繋がりが否定されるという出来事もあったようです。






 JR兵庫駅の北側に羽坂通という町があります。平安時代、この辺りには塩槌山という小山がありました。平清盛公が兵庫津を整備するに当たり、経が島建設のためにこの小山を切り崩して埋め立てに使ったところ、暴風雨などで海が荒れたためになかなか工事が進捗しなかったそうです。

 不審に思った平清盛公が調べさせたところ、塩槌山には大己貴命を祀った祠があったそうで、その山を崩された神が怒りのために暴風雨を起こしていたという結論に至りました。そのため現在の七宮神社の地に社殿を建立して大己貴命を遷座し、自筆の「南無七大明神」の神号を奉ってお祀りしたところ風雨も収まり、無事に兵庫津の開港が実現したということです。






 1582(天正10)年には、正親町天皇より「七宮大明神」の勅額や三種の神宝画が下賜されたこともありました。1602(慶長7)年には片桐市正公や大久保石見守などが七宮神社を厚く崇敬し、社殿の建立や太刀・金幣・狛犬などの寄進を行ったそうです。

 1799(寛政11)年には、徳川幕府の命を受けて国後・択捉航路開拓のために出航するのに先立って、高田屋嘉兵衛七宮神社を参拝し、3隻の模型船を奉納して海上安全を祈願しました。これをきっかけとして、海上業者は必ず七宮神社を参拝して航海の安全を祈願することが風習になったといいます。

 これらの宝物や文化財は、残念ながら1945(昭和20)年の神戸大空襲で全て焼失してしまい、さらには1995(平成7)年の阪神・淡路大震災でも大きな被害を受けました。






 七宮という名前は、神功皇后が7番目に巡拝されたからだという言い伝えのほかに、御祭神である大己貴命大国主命大物主命葦原醜男八千矛神大国玉命顧国玉神という7つの呼び名を持つ神さまであるがゆえに七宮神社とされた、という説もあります。



アクセス
・JR「神戸駅」下車、南西へ徒歩10分
・神戸市バス「七宮町」バス停下車すぐ
 七宮神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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