蓮華王院 三十三間堂
(れんげおういん さんじゅうさんげんどう)
京都市東山区三十三間堂廻町657
洛陽三十三所観音霊場・第17番札所
〔宗派〕
天台宗
〔御本尊〕
千手観音像
(せんじゅかんのんぞう)
元々この地帯には、988(永延2)年に
藤原為光卿によって創建された
法住寺が立っていましたが、1032(長元5)年の火災によって焼失し、暫くは大きな再建も行われないままの状態が続いていました。1161(永暦2)年になり、当時「
治天の君」として政治の実権を握っていた
後白河上皇がこの一帯に御所を営むこととなり、境内には「
法住寺殿」と呼ばれた南殿のほか、西殿・北殿の御所や不動堂、千手堂や五重塔など数多くの堂宇が建てられていきました。「
三十三間堂」の名で知られる
蓮華王院も
平清盛公の寄進によって建立され、1164(長寛2)年に落慶法要が営まれました。
後白河法皇と
平清盛公の蜜月によって隆盛を誇った
法住寺殿も、平家が専横の度合いを深めるにつれて状況が一変。両者の対立が決定的となった1179(治承3)年には
後白河上皇の皇子・
以仁王が全国の源氏勢力に平家追討の令旨を下し、これを受けて信濃で挙兵した
木曽義仲公が平家軍を駆逐して入京を果たしますが、元々混成軍だったうえに兵糧が欠乏したため統制が執れずに各所で略奪が横行、治安悪化を招いた責任を問われて
後白河法皇との関係は悪化の一途を辿ります。結局彼に見切りをつけた
後白河法皇は、鎌倉から大軍を率いて上洛の途にあった
源頼朝公へと信頼を寄せていき、これに怒った
木曽義仲公が1183(寿永2)年に
法住寺殿を急襲する事態に至ります。兵火に包まれた南殿は全焼してしまいますが、かろうじて
蓮華王院は焼失を免れました。
1266(文永3)年に再建された本堂。国宝に指定されています。
奇跡的に兵火を免れた
蓮華王院でしたが、1249(建長元)年には京都の町を襲った大規模な火災に巻き込まれて焼失の憂き目に遭う事となります。この大火の火勢の凄まじく、人々の決死の作業によって御本尊・千手観音菩薩坐像の頭部と左手、1,000体の千手観音菩薩立像のうちの156体、そして二十八部衆はかろうじて運び出されましたが、容赦ない炎によって包まれた堂宇はあえなく灰燼に帰してしまいます。この再建に情熱を傾けた
後嵯峨上皇は1251(建長3)年から再建に着手、15年の歳月を経て1266(文永3)年に無事再興されて落慶法要が営まれました。その後、1433(永享5)年には室町幕府第6代将軍・
足利義教公の支援によって5年がかりで大規模な修復工事が行われています。この頃には、
蓮華王院は天台宗の門跡寺院・
妙法院の管轄下に置かれていたようです。安土桃山時代には、
豊臣秀吉公の
方広寺建立に伴って
蓮華王院の修復工事が行われ、
太閤塀と呼ばれる築地塀や西大門、南大門などが整備されました。1649(慶安2)年には、江戸幕府第3代将軍・
徳川家光公によって堂宇や堂内仏の解体修復という徹底的な修復工事が行われています。さらに1930(昭和5)年にも大規模な修理が行われ、実に30年近い月日を経て1957(昭和32)年に建造物と堂内仏すべての修復が完了して現在に至ります。
本堂の東側に配された池泉の周囲には、松や梅などの植栽が彩りを添えています。
三十三間堂は頭痛を治す御利益のある寺としても知られています。長年頭痛に悩まされていた
後白河上皇が熊野を参詣した折に頭痛の平癒を祈願したところ、
熊野権現より「
洛陽因幡堂の薬師如来に祈願せよ」というお告げを受けました。これに従って
因幡堂に参拝すると、夢の中に僧侶が現れ、上皇の前世が熊野の
蓮花坊という僧侶で、仏道修行に励んだ功徳によって天皇に生まれ変わる事が出来たという事や、現在その髑髏が岩田川の川底に沈んでおり、目の穴を貫くように柳が生えていて風が吹く度に髑髏に触れて揺らすために頭痛が起きるのだという事を告げ、さらにその柳を用いて仏像と堂宇を建立すれば頭痛の平癒は叶えられるとの霊言を残しました。調べさせた結果、このお告げの通り岩田川の川底から柳の木が伸びていたため、さっそくこれを用いて堂宇を建立したところ、たちどころに頭痛が治ったといいます。この伝説から、
蓮華王院は「頭痛平癒の寺」として崇敬を集めるようになったといいます。ちなみに、
蓮華王院の名は、この
蓮華坊から採られたものだといわれています。
「六字の名号」が刻まれた法然塔(左)と、夜泣地蔵が安置されている手水舎(右)。
朱塗りの鐘楼(左)と、豊臣秀吉公が建てた「太閤塀」(右)。
「
三十三間堂」という名前の由来は南北に伸びる本堂内陣の柱の間が33あるということから名付けられています。「33」という数は、観音菩薩が33の姿に身を変えて人々を救済するという信仰に基づいて定められたものだといわれています。この本堂は120m以上にも及ぶ長大なもので、弓の腕を競い合う「
通し矢」の舞台となりました。安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)には盛んに行われるようになり、江戸時代前期には各藩の弓道家が様々な種目でその腕を競い合うようになって最盛期を迎えました。
「
通し矢」には決められた矢数を射ってその的中数を競うものや、24時間の間にどれだけの数の矢を射る事が出来るかを競う「
大矢数」という競技がありました。特に人気を博したのがこの「
大矢数」で、1669(寛文9)年の「
大矢数」では尾張藩の
星野勘左衛門茂則公が8,000本を射通すという偉業を達成しましたが、1688(貞享3)年には紀伊藩の
和佐大八郎範遠公が18歳の若さで8,133本を射通すという最高記録を樹立します。この快挙に歓喜した紀州藩第2代藩主・
徳川光貞公は帰藩した
和佐大八郎範遠公を城下まで直々に出迎え、300石の加増を行って大記録を称えたといわれています。このように有力藩、特に徳川御三家である尾張藩と紀州藩の面子を賭けた熱戦に人々は沸き立ち、多くの見物客を集める人気行事となっていきました。この伝統にちなみ、現在でも毎年1月には「
三十三間堂大的全国大会」が行われ、新成人たちが日頃鍛えた弓矢の腕を競い合っています。
「通し矢」が行われる三十三間堂の西側の広縁。
アクセス
・JR「京都駅」より京都市バス206系統「博物館三十三間堂前」バス停下車すぐ
・京阪電鉄本線「七条駅」下車、東へ徒歩6分
三十三間堂地図 【境内図】 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.
拝観料
・大人:600円、中高生:400円、小人:300円
拝観時間
・8時~17時 (4月~11月15日)
・9時~16時 (11月16日~3月)
公式サイト