神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・本願寺神戸別院(モダン寺)。

2009年11月27日 | ■神戸市中央区

本願寺神戸別院(モダン寺)

(ほんがんじ こうべべついん)
神戸市中央区下山手通8-1-1


通 称
モダン寺



JR神戸駅と元町駅の中間に立つ「モダン寺」。車窓からも望むことが出来ます。


〔宗派〕
浄土真宗本願寺派

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)


 JR神戸駅と元町駅のちょうど中間にある花隈は、戦国時代には織田信長公旗下の武将・荒木村重公が城主を務めた花隈城が建てられていた場所でもあります。この地下には阪急電車の花隈駅(正確には神戸高速鉄道の駅舎)があり、東出口を出ると花隈城址へと至りますが、反対側の西出口を出て少し歩くと、エスニックな雰囲気の美しい建物が異彩を放って建っている事に気付きます。ここは特徴ある外観から「モダン寺」と呼ばれて市民に親しまれている寺院で、正式名称を「本願寺神戸別院」といいます。





以前のモダンなイメージを生かしつつ1995(平成7)年に改築された美しい本堂。



 天正年間(1573~1592年)、本願寺の第11代門主・顕如上人に帰依して「教祐」という法号を賜った甲斐国の武田信久公が摂津国八部郡二ツ茶屋村に寺舎を営みます。小庵だったこの寺舎は1639(寛永16)年に入り二ツ茶屋村市場の地に道場を建立、第13代門主・良如上人から寺号を授与され、「善福寺」と名付けられる事となりました。この寺院が本願寺神戸別院の前身となったといわれています。その後、この辺りに鉄道が敷設されることになって1871(明治4)年に現在地へと移されました。さらに1908(明治41)年には本願寺の執行長で後に貴族院議員にもなった大谷尊由上人を住職に迎え、別格別院善福寺となりました。

 元々は木造寺院でしたが、1917(大正6)年1月に発生した火事によって本堂が全焼したため、我が国の寺院では最初となる鉄筋コンクリートでの本堂再建が進められました。1930(昭和5)年10月に完成した建物はインド仏教様式の美しく斬新なデザインだったために大きな話題を呼び、「モダン寺」という呼び名で信徒の方々のみならず多くの人々に親しまれる事となりました。1960(昭和35)年8月には西本願寺直属の別院となり、寺号も「本願寺神戸別院」と改められます。年月を経て老朽化が進んだ本堂は全面改築される事になり、それまでのモダン寺の印象を残す形で阪神・淡路大震災後の1995(平成7)年9月に竣工し、最大400名が収容できる本堂や600名まで収容できるホール、宿泊なども可能な28畳と26畳の書院などを備えた建物として生まれ変わりました。





本堂前の広場に立てられている親鸞聖人の銅像。


アクセス
・神戸高速鉄道「花隈駅」下車、西へ徒歩1分。
・神戸高速鉄道「西元町駅」下車、北へ徒歩3分。
・JR神戸線「神戸駅」下車、東へ徒歩10分。
・JR神戸線「元町駅」下車、西へ徒歩10分。
本願寺神戸別院(モダン寺)地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・9時~16時30分

公式サイト






京都・三十三間堂。

2009年11月26日 | ◇京都府 -洛東


蓮華王院 三十三間堂

(れんげおういん さんじゅうさんげんどう)
京都市東山区三十三間堂廻町657


洛陽三十三所観音霊場・第17番札所





〔宗派〕
天台宗

〔御本尊〕
千手観音像
(せんじゅかんのんぞう)


 元々この地帯には、988(永延2)年に藤原為光卿によって創建された法住寺が立っていましたが、1032(長元5)年の火災によって焼失し、暫くは大きな再建も行われないままの状態が続いていました。1161(永暦2)年になり、当時「治天の君」として政治の実権を握っていた後白河上皇がこの一帯に御所を営むこととなり、境内には「法住寺殿」と呼ばれた南殿のほか、西殿・北殿の御所や不動堂、千手堂や五重塔など数多くの堂宇が建てられていきました。「三十三間堂」の名で知られる蓮華王院平清盛公の寄進によって建立され、1164(長寛2)年に落慶法要が営まれました。

 後白河法皇平清盛公の蜜月によって隆盛を誇った法住寺殿も、平家が専横の度合いを深めるにつれて状況が一変。両者の対立が決定的となった1179(治承3)年には後白河上皇の皇子・以仁王が全国の源氏勢力に平家追討の令旨を下し、これを受けて信濃で挙兵した木曽義仲公が平家軍を駆逐して入京を果たしますが、元々混成軍だったうえに兵糧が欠乏したため統制が執れずに各所で略奪が横行、治安悪化を招いた責任を問われて後白河法皇との関係は悪化の一途を辿ります。結局彼に見切りをつけた後白河法皇は、鎌倉から大軍を率いて上洛の途にあった源頼朝公へと信頼を寄せていき、これに怒った木曽義仲公が1183(寿永2)年に法住寺殿を急襲する事態に至ります。兵火に包まれた南殿は全焼してしまいますが、かろうじて蓮華王院は焼失を免れました。





1266(文永3)年に再建された本堂。国宝に指定されています。



 奇跡的に兵火を免れた蓮華王院でしたが、1249(建長元)年には京都の町を襲った大規模な火災に巻き込まれて焼失の憂き目に遭う事となります。この大火の火勢の凄まじく、人々の決死の作業によって御本尊・千手観音菩薩坐像の頭部と左手、1,000体の千手観音菩薩立像のうちの156体、そして二十八部衆はかろうじて運び出されましたが、容赦ない炎によって包まれた堂宇はあえなく灰燼に帰してしまいます。この再建に情熱を傾けた後嵯峨上皇は1251(建長3)年から再建に着手、15年の歳月を経て1266(文永3)年に無事再興されて落慶法要が営まれました。その後、1433(永享5)年には室町幕府第6代将軍・足利義教公の支援によって5年がかりで大規模な修復工事が行われています。この頃には、蓮華王院は天台宗の門跡寺院・妙法院の管轄下に置かれていたようです。安土桃山時代には、豊臣秀吉公の方広寺建立に伴って蓮華王院の修復工事が行われ、太閤塀と呼ばれる築地塀や西大門、南大門などが整備されました。1649(慶安2)年には、江戸幕府第3代将軍・徳川家光公によって堂宇や堂内仏の解体修復という徹底的な修復工事が行われています。さらに1930(昭和5)年にも大規模な修理が行われ、実に30年近い月日を経て1957(昭和32)年に建造物と堂内仏すべての修復が完了して現在に至ります。





本堂の東側に配された池泉の周囲には、松や梅などの植栽が彩りを添えています。



 三十三間堂は頭痛を治す御利益のある寺としても知られています。長年頭痛に悩まされていた後白河上皇が熊野を参詣した折に頭痛の平癒を祈願したところ、熊野権現より「洛陽因幡堂の薬師如来に祈願せよ」というお告げを受けました。これに従って因幡堂に参拝すると、夢の中に僧侶が現れ、上皇の前世が熊野の蓮花坊という僧侶で、仏道修行に励んだ功徳によって天皇に生まれ変わる事が出来たという事や、現在その髑髏が岩田川の川底に沈んでおり、目の穴を貫くように柳が生えていて風が吹く度に髑髏に触れて揺らすために頭痛が起きるのだという事を告げ、さらにその柳を用いて仏像と堂宇を建立すれば頭痛の平癒は叶えられるとの霊言を残しました。調べさせた結果、このお告げの通り岩田川の川底から柳の木が伸びていたため、さっそくこれを用いて堂宇を建立したところ、たちどころに頭痛が治ったといいます。この伝説から、蓮華王院は「頭痛平癒の寺」として崇敬を集めるようになったといいます。ちなみに、蓮華王院の名は、この蓮華坊から採られたものだといわれています。





「六字の名号」が刻まれた法然塔(左)と、夜泣地蔵が安置されている手水舎(右)。


朱塗りの鐘楼(左)と、豊臣秀吉公が建てた「太閤塀」(右)。




 「三十三間堂」という名前の由来は南北に伸びる本堂内陣の柱の間が33あるということから名付けられています。「33」という数は、観音菩薩が33の姿に身を変えて人々を救済するという信仰に基づいて定められたものだといわれています。この本堂は120m以上にも及ぶ長大なもので、弓の腕を競い合う「通し矢」の舞台となりました。安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)には盛んに行われるようになり、江戸時代前期には各藩の弓道家が様々な種目でその腕を競い合うようになって最盛期を迎えました。

 「通し矢」には決められた矢数を射ってその的中数を競うものや、24時間の間にどれだけの数の矢を射る事が出来るかを競う「大矢数」という競技がありました。特に人気を博したのがこの「大矢数」で、1669(寛文9)年の「大矢数」では尾張藩の星野勘左衛門茂則公が8,000本を射通すという偉業を達成しましたが、1688(貞享3)年には紀伊藩の和佐大八郎範遠公が18歳の若さで8,133本を射通すという最高記録を樹立します。この快挙に歓喜した紀州藩第2代藩主・徳川光貞公は帰藩した和佐大八郎範遠公を城下まで直々に出迎え、300石の加増を行って大記録を称えたといわれています。このように有力藩、特に徳川御三家である尾張藩と紀州藩の面子を賭けた熱戦に人々は沸き立ち、多くの見物客を集める人気行事となっていきました。この伝統にちなみ、現在でも毎年1月には「三十三間堂大的全国大会」が行われ、新成人たちが日頃鍛えた弓矢の腕を競い合っています。





「通し矢」が行われる三十三間堂の西側の広縁。


アクセス
・JR「京都駅」より京都市バス206系統「博物館三十三間堂前」バス停下車すぐ
・京阪電鉄本線「七条駅」下車、東へ徒歩6分
三十三間堂地図   【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人:600円、中高生:400円、小人:300円

拝観時間
・8時~17時 (4月~11月15日)
・9時~16時 (11月16日~3月)

公式サイト

神戸・極楽寺(有馬)。

2009年11月25日 | ■神戸市北区


寂静山伝法院極楽寺

(じゃくせいざん でんぽういん ごくらくじ)
神戸市北区有馬町1642


聖徳太子ゆかりの寺院




聖徳太子が創建したと伝えられる極楽寺の本堂。1400年の歴史を持つ古刹です。


〔宗派〕
浄土宗

〔御本尊〕
阿弥陀如来坐像


 伝承では推古天皇2(593)年、聖徳太子によって創建されたといわれています。ちょうどこの頃は、前年に蘇我馬子崇峻天皇を暗殺し、初の女帝である推古天皇を擁立した時期で、その皇太子となった聖徳太子が4月に摂政となって蘇我馬子とともに推古天皇を補佐して国政を執り始めた年でした。さらには排仏派の物部守屋の打倒を果たした報恩のために四天王寺の造立を開始するなど各地で聖徳太子の建立といわれる寺院が創建されていた時期であることから、その一連の流れの中で開かれたか聖徳太子の高名にあやかろうとして「聖徳太子創建の寺」という伝説が生まれたのかもしれません。





境内の一角に建てられた「お願い地蔵」(左)と、本堂脇に祀られている地蔵像(右)。


 
 極楽寺は、創建当初は有馬川を跨ぐように架かっていた杖棄橋の東の石倉の地にありましたが、1097(承徳元)年の秋に起こった洪水のために大きな被害を受け、有馬温泉ともども荒廃してしまいます。それから100年近く経った1191(建久2)年に大和国の吉野・高原寺から有馬に移り温泉の復興に尽力した「有馬三恩人」の1人・仁西上人と共にやって来た河上民部経清公が現在の場所に堂宇を建て、源空法然上人を招いて古刹を復興し、「密曾寺山極楽寺」と名付けました。その後、後柏原天皇の治世の16世紀初頭、願譽順公上人のときに院号を伝法院と名付け、山号を寂静山と改めました。1774(安永3)年には大火によって焼失してしまいますが、1782(天明2)年4月には無事再建されました。現在の堂宇はこの時のものだといわれています。

 1995(平成7)年には阪神・淡路大震災で庫裏が損壊するなどの被害を受けますが、この修復工事の時に安土桃山時代の遺跡が発掘されて瓦や茶器などが出土しました。この遺構は、豊臣秀吉公が建てたといわれる「湯山御殿」の浴室や庭園の跡であると確認されたことから1997(平成9)年には神戸市文化財史跡の指定を受け、2年後の1999(平成11)年には遺構の上に「神戸市立太閤の湯殿館」が建設されました。「太閤の湯殿館」には豊臣秀吉公が湯浴みを愉しんだといわれる蒸し風呂や岩風呂の遺構が展示され、数々の出土品や資料が展示され、戦乱の世に終止符を打った豊臣秀吉公の往時の栄華を偲ぶことができます。





境内に彩を添える花(左)と、豊臣秀吉公の湯殿跡に建てられた「太閤の湯殿館」(右)。


アクセス
・神戸電鉄有馬線「有馬温泉駅」下車、南東へ徒歩10分。
極楽寺地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  ※太閤の湯殿館へは入館料が必要 (大人:200円、高校生以下:100円)。

拝観時間
・境内は常時開放  ※太閤の湯殿館 :9時~17時 (受付は16時30分まで)

関連サイト



有馬温泉 るるぶグラフにっぽんの温泉

JTB

このアイテムの詳細を見る








神戸・瑞宝寺公園(有馬)。

2009年11月22日 | ■神戸市北区


瑞宝寺公園

(ずいほうじこうえん)
神戸市北区有馬町1749

別 名
日暮らしの庭
錦繍谷




伏見城から移築したという山門です。



黄檗宗 瑞宝寺旧跡




 晩秋には各地で山々が赤く色付き、朱に染まった景色を愉しむために多くの人々が紅葉の名所に集まります。神戸市の山あいにある有馬温泉も、市の「花の名所50選」に選ばれるなど美しい紅葉で知られ、多くの観光客で賑わいを見せています。その交通の中心地・神戸電鉄有馬温泉駅から有馬川沿いに坂をずっと上っていった先に、兵庫県下でも有数の紅葉の名所である瑞宝寺公園があります。 有馬温泉豊臣秀吉公がとても気に入り、その復興に尽力した温泉としても有名で、妻である北政所を連れてたびたびこの地を訪れていたと伝えられています。





山門の先にある休憩所「錦繍亭」(左)と、その奥にある十三重石塔(右)。



 本能寺の変の後、姫路から「大返し」を行って主君・織田信長公を討った明智光秀公を山崎の戦いで破った豊臣秀吉公は、1583(天正11)年4月に織田信長公の跡目争いの最大のライバル・柴田勝家公を賤ヶ岳の戦いで滅亡に追い込み、天下人への道を大きく進み出すこととなりました。激動の1年を駆け抜けた豊臣秀吉公は、心身の疲れを癒すために有馬温泉を初めて訪れました。ここの湯を大変気に入った豊臣秀吉公は、たびたび有馬温泉を訪れて湯治や花見を楽しみ、温泉の整備を進めるなど復興に尽力していきました。瑞宝寺公園があるこの地にも訪れた豊臣秀吉公は、石造りの碁盤で囲碁に興じたり茶会を開いたりして休息の日々を過ごし、「いくら眺めていても飽きない庭だ」という感想を述べたといわれています。その逸話から、この場所は「日暮らしの庭」とも呼ばれるようになりました。





展望台から望む大鼓滝(左)。紅葉の季節には野点席が設けられています(右)。


 
 豊臣秀吉公が逝去した後の1604(慶長9)年、この「日暮らしの庭」の場所に大黒屋宗雪が「瑞宝庵」を営みます。その孫・三七郎は、宇治にある黄檗宗の大本山・萬福寺に帰依し、師匠である木庵禅師より「寂岩道空」という法名を賜ります。そして1673(寛文13)年には有馬へと戻り、瑞宝庵のあったこの地に寺院を開いて「瑞宝寺」と寺号を定めました。文化年間(1804~1817年)には黄檗宗第25世住持も務めた華頂文秀が本格的に堂塔伽藍の建立を行いって瑞宝寺を中興しました。その法弟である慧定真戒は、師・華頂文秀に引き続いて1823(文政6)年から1844(弘化元)年までの20年間を瑞宝寺の第5代住持として務め、楓や桜の植樹に力を入れるなど境内の整備に尽力しました。





豊臣秀吉公が囲碁を楽しんだといわれる石造りの碁盤(左)。右は境内を彩る紅葉。



 1868(明治元)年には廃城となっていた京都の伏見城の城門を移築して山門とするなど整備も続けられていた瑞宝寺ですが、そのわずか5年後の1873(明治6)年には残念ながら廃寺となって200年間受け継いできた法灯も途絶えてしまいました。この頃は明治新政府が出した神仏分離令によって全国各地に廃仏毀釈運動が猛威を振るっていた時期で、瑞宝寺もこのあおりを受けて廃されてしまったのではないでしょうか。それからしばらく瑞宝寺の境内は放置されていましたが、1950(昭和25)年になって豊臣秀吉公と千利休が茶会を開いたといわれる故事にちなんで「有馬大茶会」が始められ、翌1951(昭和26)年には神戸市が公園として整備を行って「瑞宝寺公園」として生まれ変わりました。1976(昭和51)年には老朽化した山門が修復されたり、有馬ライオンズクラブの皆さんの尽力によって「小倉百人一首」にも選ばれた大弐三位の句『ありまやま ゐなの笹原 風吹けば いてそよ人を 忘れやはする」が刻まれた句碑が建てられるなど整備が進められ、今では美しい紅葉とあいまって多くの観光客が集まる人気スポットのひとつとなっています。





大弐三位の名句を刻んだ句碑(左)と、周辺を朱に染める鮮やかな紅葉(右)。


休憩所や山門の周辺にも、所狭しと美しい紅葉が彩りを競っています。


アクセス
・神戸電鉄有馬線「有馬温泉駅」下車、北東へ徒歩15分。
瑞宝寺公園地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放





淡路・伊弉諾神宮。

2009年11月15日 | □兵庫県 -淡路
夫婦和合・良縁結び・子授け安産・長寿延命

伊弉諾神宮

(いざなぎじんぐう)
兵庫県淡路市多賀740

通 称
一宮さん
(いっくさん)






〔御祭神〕
伊弉諾尊
(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊
(いざなみのみこと)



 「古事記」や「日本書紀」には日本の国の草創期を伝える物語が記されており、この物語のことを「くにうみ神話」といいます。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)という2柱の男女神は、日本の島々を創り出そうと天沼矛という玉で飾られた矛を持って天浮橋に立ち、渾沌とした状態の大地をかき混ぜます。その矛先から滴り落ちたものが積み重なって出来た最初の島が「淤能碁呂島(おのごろじま)」、すなわち淡路島だったのです。淡路島を生み出した伊弉諾尊伊弉冉尊は、続いて「伊予之二名島(四国)」「隠伎之三子島(隠岐島)」「筑紫島(九州)」「伊伎島(壱岐島)」「津島(対馬島)」「佐度島(佐渡島)」「大倭豊秋津島(本州)」の8つの島を次々に創っていきました。はじめにこの8島が出来たために、日本のことを大八島国(おおやしま)とも呼ぶようになったといわれています。最初に生み出された淡路島の一宮として全国から厚い崇敬を今も集め続けているのが「伊弉諾神宮」です。





長く伸びる参道(左)と、その奥の二の鳥居を越えた左手にある手水舎(右)。


 
 大八島を創り、様々な神々を生み出して「国産み」と「神産み」を終わらせた伊弉諾尊は、完成した国を治める大業を娘である天照大御神に託し、淡路島に「幽宮(かくりのみや)」を築いて余生を過ごしたといわれ、この幽宮伊弉諾神宮の起源となったといわれています。幽宮が営まれた場所に関しては、「古事記」に「故其の伊耶那岐大神は淡海(おうみ)の多賀に座します」と記されていることから、滋賀県(近江)多賀大社にも同様の伝説が残されています。しかし「古事記」では近江国は「近淡海(ちかつおうみ)」と記されることが多いため、「淡海」は「淡道(=淡路島)」の書き間違いで淡路島の伊弉諾神宮のことを指していると解釈する説が有力です。ちなみに伊弉諾神宮の鎮座する場所の地名が淡路市の"多賀"となっていることも興味深く感じられます。





二の鳥居の右にある香木傳来記念碑(左)と、その奥に広がる放生の神池(右)。


 
 神代の頃から祭祀が行われていた伊弉諾神宮は「淡路島神」「多賀明神」などと呼ばれて人々の崇敬を集めていましたが、927(延長5)年に編纂された「延喜式神名帳」にも「淡路伊佐奈岐神社」の名で記され、特に古来より霊験が著しい神社として名神大社に列せられています。806(大同元)年には神封13戸が与えられ、859(貞観元)年には第1位の神位が授けられるなど財政的にも地位的にも朝廷からのバックアップを受けた伊弉諾神宮は、平安時代の終わり頃には淡路国の中で最も社格の高い神社として一宮とされ、「一宮大神」とも呼ばれるようになりました。





1883(明治16)年建立の表神門(左)と、境内にある夫婦和合の「夫婦大楠」(右)。


 
 1871(明治4)年に国幣中社に列せられ、1885(明治18)年に官幣大社に昇格された伊弉諾神宮は、伊弉諾尊のみを祀る神社とされていましたが、1930(昭和5)年に本殿の修復を行った際に伊弉冉尊も伝承通り祭祀されていることが確認されたことから国に対して請願が行われ、1932(昭和7)年には内務大臣より認可が下りて正式に伊弉冉尊の合祀が行われました。また、1954(昭和29)年には社名が「伊弉諾神社」から現在の「伊弉諾神宮」へと改称されました。





1882(明治15)年に建立された、舞殿を兼ねる拝殿。


祓殿(左)と、1879(明治12)年建立、1882(明治15)年に現在地に遷された本殿(右)。


アクセス
・JR神戸線「舞子駅」よりJR・本四海峡バス「津名港」バス停下車→淡路交通バス西浦線「神宮前」バス停下車
・JR神戸線「三ノ宮駅」より神姫バス「郡家」バス停下車→淡路交通バス西浦線「神宮前」バス停下車
・神戸淡路鳴門自動車道「津名一宮IC」より「津名一宮IC前交差点」右折、88号線にて車で5分
伊弉諾神宮地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放





京都・観智院(東寺)。

2009年11月10日 | ◇京都府 -洛南


観智院

(かんちいん)
京都市南区八条大宮西入ル九条町403




東寺の北隣にある観智院。春と秋の限られた期間だけ特別公開されます。


〔宗派〕
東寺真言宗 別格本山

〔御本尊〕
五大虚空蔵菩薩像
(ごだいこくうぞうぼさつぞう)



 息子である後二条天皇が皇位に就いた後も「治天の君」として院政を敷いていた後宇多上皇は、深く寵愛していた妃・遊義門院が1307(徳治2)年に急死したのをきっかけに仁和寺で出家して法皇となりました。その後も後宇多法皇大覚寺に御所を移して院政を続けていましたが、翌1308(徳治3)年には後二条天皇までもが崩御してしまい、世の無常を感じた後宇多法皇は次第に真言密教へと傾倒していきました。そして同年には東寺灌頂院で伝法灌頂を受け、以来3年間東寺西院に籠って真言密教の研鑽に努めながら、21の子院の建立に尽力されました。その頃の東寺には頼宝賢宝など優秀な学僧が次々と生まれており、その中でも杲宝(ごうほう)は最も優秀だったといわれ「東寺の三宝」と並び称されていました。その杲宝が開基となって1359(延文4)年頃に創建した子院が観智院です。





四方正面の庭(左)と、北政所の寄進によって再建された客殿(右)。



 子院というのは僧侶たちが教えを学びながら生活をする住坊で、ここを拠点に子院を治める院主のもとで教学の研鑽に励んで修行を進めていました。観智院の院主である杲宝とその弟子・賢宝は、比叡山延暦寺や奈良の諸寺、いわゆる南都北嶺から実に15,000点以上の経文や書籍を書写し、「観智院金剛蔵聖教」と呼ばれる貴重な密教資料の蓄積に努めながら教学と門弟の育成に励み、次々に優秀な学僧を輩出していきました。1388(嘉慶2)年2月には本堂が建立され、弘法大師空海伝教大師最澄など唐に留学して密教の経文等を持ち帰って布教に努めた高僧たち、いわゆる「入唐八家」のひとりである恵運が唐・長安の青龍寺より持ち帰った五大虚空蔵菩薩像が、賢宝によって山科の安祥寺から移されて御本尊として安置されました。





五大の庭。日本を表す築山(左)と、遣唐船を護る神々を表現した石組みなど(右)。


 
 その後、1596(文禄5)年に起きた大地震によって客殿が倒壊するなどの被害を受けましたが、豊臣秀吉公の正室・北政所の寄進を受けた第10世亮盛が客殿を再建。この客殿の上段の間には宮本武蔵が描いたといわれる「鷲の図」と襖絵「竹林の図」が飾られています。客殿の南には「五大の庭」と呼ばれる枯山水庭園が広がっています。

 「五大の庭」は、弘法大師空海が遣唐船に乗って帰国する際、嵐に遭いながらも海神に護られて無事に日本に戻られる様子を表現した庭で、右にある植栽に包まれた築山は唐の長安を表し、枯山水の砂地に並べられた石組みは遣唐船とそれを護る竜神・神亀・鯱を表現しています。そして一番左にある築山は無事に戻ってきた日本の地を表し、ここに組まれた5つの石は五大虚空蔵菩薩像を表していて、それぞれに五大虚空菩薩を構成する法界虚空蔵菩薩金剛虚空蔵菩薩宝光虚空蔵菩薩蓮華虚空蔵菩薩業用虚空蔵菩薩を表す梵字が刻まれています。





客殿の北にある茶室・楓泉観(左)と、その前に広がる流水の庭(右)。


美しい模様の枯山水(左)や苔に包まれた蹲(右)など、随所に見所があります。


アクセス
・近畿日本鉄道京都線「東寺駅」下車、西へ徒歩8分。
観智院地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・ 大人・高校生:500円、中学生以下:300円
※通常非公開:春季(3月20日~5月25日)と秋季(9月20日~11月25日)の特別拝観期間のみ公開。

拝観時間
春季特別拝観:9時~17時30分(受付は17時まで)
秋季特別拝観:9時~16時30分(受付は16時まで)

公式サイト
  東寺公式サイト内 >観智院





姫路・三石天満神社。

2009年11月08日 | □兵庫県 -姫路
学問成就・諸業発展・芸能向上

三石天満神社

(みついしてんまんじんじゃ)
兵庫県姫路市網干区垣内中町65




山陽網干駅のホームから見えるほど交通アクセス抜群の三石天満神社の境内。



〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらのみちざねこう)



 姫路からさらに西、海沿いを走る山陽電車網干線の終着駅である山陽網干駅のすぐ北側、駅のホームから見えるほど近い場所に「三石天満宮」という大きな看板が立っています。住宅と植栽に囲まれた一角にふと見える鳥居が看板とともにそこに神社があることを教えてくれます。ここは正式名称を三石天満神社といい、その名の通り菅原道真公を御祭神としてお祀りしている神社です。三石天満神社の創建に関する詳細なことは分かりません。しかし網干は瀬戸内に面して温暖な住み良い土地であり、しかも遠浅の海だったことから沿岸漁業をはじめ海苔の養殖も盛んだったといわれており、古来より多くの人々が住み着いていたため、本来の網干の中心地である山陽網干駅がある場所の近くに鎮座する三石天満神社の場所には古くから人々の崇敬を集める祠が存在していたのかもしれません。





三石天満神社の拝殿(左)と、その奥にある本殿(右)。



 御祭神とされている菅原道真公が網干を訪れたかどうか、調べる限りではそのような話は見つけられませんでした。ですが、菅原道真公が大宰府に左遷された時に辿った道のりとしては、「菅家後草」に収められた「叙意一百韻」という漢詩の「五十有余の駅亭に泊まりを重ね、三千里に半ばする道中を辿って…」という記述から推測する限り、駅亭が整備されていた山陽道を進んでいたと考えられ、姫路にも駅亭として姫路市今宿の草上駅家や姫路市太市中の邑智駅家があったことから、ここを経由して西へと向かっていったと想定すれば姫路にも菅原道真公に関する何らかの逸話が語り継がれていたことは想像できます。ただ、山陽道自体は海沿いの網干からはかなり北に位置していたので、直接菅原道真公が網干を訪れたというよりは、室町時代に全国的に広がっていた天神講が網干に伝わり、それを受けて網干の人々が菅原道真公を御祀りする神社を創建したということが考えられるのではないでしょうか。





社殿の左側には奉納子供相撲が行われる土俵(左)と末社の稲荷神社(右)があります。


アクセス
・山陽電車網干線「山陽網干駅」下車すぐ
三石天満神社地図  【境内図】 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放





京都・東寺(教王護国寺)。

2009年11月06日 | ◇京都府 -洛南

八幡山 教王護国寺

(はちまんざん きょうおうごこくじ)
京都市南区九条町1



神仏霊場京都 洛土の道・第4番札所
洛陽三十三所観音霊場・第23番札所ほか

通 称
東 寺
(とうじ)



東寺の南大門。1895(明治28)年に三十三間堂の西門を移築したものです。



〔宗派〕
東寺真言宗 総本山

〔御本尊〕
薬師如来像
(やくしにょらいぞう)


 JRに乗って京都へ向かう旅路を楽しみながらあれこれと思いを馳せていると、車窓から眼に飛び込んでくる五重塔が間もなく京都に到着することを教えてくれます。旅人たちにとっても、京都に里帰りをする人々にとっても平安の洛土への郷愁をかき立ててくれるこの五重塔は、苦難を乗り越えて唐へと渡り、真言密教を我が国へと伝えてくれた弘法大師空海の国家鎮護の根本道場となった東寺に建てられている「京都の象徴」ともいうべき建造物です。





1603(慶長8)年に再建された金堂(左)。右は南大門脇にある弘法大師像。


 
 東寺は平安京へと遷都が行われると同時に官寺として創建計画が進められ、796(延暦15)年に藤原伊勢人卿を造寺長官として建立されたと伝えられています。この時、大極殿から南へ伸びる朱雀大路の南端の羅城門の東西に東寺西寺が建てられ、狛犬の如く一対となって平安京の玄関口を守護していました。もっとも創建当初の東寺に建てられたのは金堂ぐらいで、講堂や五重塔などはまだ整備されていませんでした。東寺の整備計画が大きく進みだすのは、弘法大師空海の登場を待たなくてはなりませんでした。

 留学僧として遣唐船に乗り込み、唐の都・長安にある青龍寺恵果和尚から真言奥義の伝法灌頂を受けて帰国した弘法大師空海は、唐の文化に強い関心を持っていた嵯峨天皇との親交を深めていくうちに絶大な信頼を得るようになり、823(弘仁14)年に官寺だった東寺の下賜を受けてここを鎮護国家のための真言密教の根本道場とします。当時の寺院は「六宗兼学」といって、様々な宗派の学問を学ぶのが一般的でしたが、東寺に関してはその慣例を打ち破り、真言密教のみの寺院としたところに嵯峨天皇弘法大師空海への期待が感じ取れます。下賜されてから2年後の825(天長2)年には講堂の建設が始められ、その内部には21体の密教像から成る立体曼荼羅の安置が進められました。翌年には五重塔建立の計画が始められるなど、伽藍の整備が着々と進められましたが、これらが完成するのは弘法大師空海が入寂された後のことでした。





1644(寛永21)年再建の「京都の象徴」五重塔(左)。右は五重塔の北に広がる庭園。

 

 弘法大師空海の入寂後、後を継いだ弟子の実恵上人によって真言密教における重要な儀式である伝法灌頂を行う灌頂院が建てられ、同じ時期には食堂(じきどう)も完成し、元慶年間(877~884年)になってようやく五重塔も建立されて、弘法大師空海が思い描いていたイメージがほぼ整うこととなりました。しかし、貴族たちの力が強まって荘園制が広まるにつれ、国家財政も疲弊の一途を辿り、官寺だった東寺も徐々に衰退していくことになります。鎌倉時代に入る頃には北面の武士出身の僧侶・文覚によって復興が進められ、後白河法皇の第6皇女・宣陽門院とその師・行遍上人によって御影堂が建立され、荘園の寄進が行われるなど弘法大師信仰の拠点として隆盛していきました。その後も後宇多法皇後醍醐天皇、さらには足利尊氏公の帰依を受けて発展した東寺ですが、室町時代には最大の試練に見舞われることになります。





本堂の北に立つ1491(延徳3)年再建の講堂(左)と1934(昭和9)年再建の食堂(右)。



 応仁の乱の兵火は何とか免れた東寺ですが、政情が不安定になって頻発するようになった土一揆が東寺を拠点に立てこもるという事態がしばしば発生し、ついには1486(文明18)年に土一揆の民衆が立てこもった際に放たれた火によって一部の建物を残して堂宇のほとんどが焼失してしまうという惨事が起こります。復興事業はすぐ始められましたが、戦国の争乱期になるとそれも次第に停滞し、この状況に追い討ちを掛けるかのように1563(永禄6)年には落雷によって五重塔が全焼してしまいました。しかしながら、豊臣秀吉公の支援によって1594(文禄3)年に五重塔が再建されたのを皮切りに諸堂の整備が進められ、1603(慶長8)年に金堂が再建されて東寺の伽藍はほぼ復興事業が完了しました。その後も地震や火災などでたびたびダメージを受けますが、そのたびに江戸幕府によって再建が行われるなど力強く再生していきました。幾多の災難をも乗り越えた東寺は、創建当初と変わらぬ場所で弘法大師空海の教えを今に受け継ぐ名刹として、現在も多くの人々の崇敬を集め続けています。





弘法大師坐像が安置されている御影堂(左)と、向かい合うように立つ大日堂(右)


王城鎮護の役割を担う鎮守八幡宮(左)と真言密教の伝法灌頂が行われる灌頂院(右)。


アクセス
・近畿日本鉄道京都線「東寺駅」下車、西へ徒歩5分。
東寺地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料 (金堂・講堂=大人:500円、高校生:400円、中学生以下:300円)
 ※五重塔や宝物館が公開される特別期間中は拝観料が変わります。

拝観時間
・8時30分~17時30分 (3月20日~9月19日)  ※17時受付終了
・8時30分~16時30分 (9月20日~3月19日)  ※16時受付終了

公式サイト






大阪・豊崎神社。

2009年11月04日 | ◆大阪府
諸業繁栄・商売繁盛・病気治癒・疫病退散

豊崎神社

(とよさきじんじゃ)
大阪市北区豊崎6-6-4

通 称
豊崎宮






〔御祭神〕
孝徳天皇
(こうとくてんのう)
素盞嗚尊
(すさのおのみこと)
応神天皇
(おうじんてんおう)


 「天下の台所」と呼ばれ、商売の町として栄えた大阪。今も独特の文化とパワーで日本を代表する大都市のひとつとして広く知られています。瀬戸内に面し広大な台地を持ち水利にも優れた難波の地は、何度か首都が置かれて政治の中心地となったことがありました。古くは507(継体天皇元)年に即位を果たした継体天皇筒城宮(京都府京田辺市)に遷都する511(継体天皇5)年までのあいだ都と定めて政務を執った樟葉宮(大阪府枚方市)に始まり、遷都こそされなかったものの(皇居は京都に置かれたままでした)戦国の世を統一した豊臣秀吉公が大坂城を築いて天下に号令を下すなど、事実上政治の中心地として機能していた時代もありました。また、明治維新の際には京都から首都を遷す際に一度はその候補地として名前が挙がったこともありました。





手水舎と並ぶ社務所(左)。社殿の傍らにある孝徳天皇の「沓脱ぎ石」(右)。


 
 今回ご紹介する豊崎神社のある場所は、645(大化元)年に起きた乙巳の変によって朝廷の実権を握った中大兄皇子中臣鎌足が、孝徳天皇を奉じて652(白雉3)年に遷都を行った難波長柄豊碕宮が置かれた場所といわれています。この宮は唐の長安を模して造営されたといわれており、「日本書紀」にも「その宮殿の状、殫に諭ふべからず」と記されていて、言葉で表現できないほど立派な宮殿が築かれていた様子を窺い知ることが出来ます。その所在地については、豊崎神社の辺りから長柄へかけての一帯に広がっていたという説や、淀川の右岸に広がる宮原地域にあったという説、大阪城の付近の法円坂辺りにあったという説などいくつかの説があり、法円坂には難波宮跡公園が整備されてます。なお、近年の調査では豊崎神社が宮の跡地であるという説は否定されてきています。





1934(昭和19)年の大空襲で燃えた社殿は、1964(昭和39)年に再建されました。


 
 653(白雉4)年に大和国への遷都を求める中大兄皇子孝徳天皇との間で対立が起こった際、天皇を置き去りにするかのように中大兄皇子が天皇の母である先帝・皇極天皇や皇后を連れて大和国に引き上げるという強硬手段を行い、臣下の大半もこれに従っていったために、非常に落胆された孝徳天皇は病に倒れて翌年この地で寂しく崩御されました。これを受けて皇極天皇は重祚して斉明天皇となり、威容を誇った難波長柄豊碕宮も廃されて飛鳥板葺宮に遷されることとなりました。

 遷都の後、皇居のあったといわれる豊崎の地は荒れ果てて松が茂る林となり、「八本松」と呼ばれるようになっていました。この状態を哀れた一条天皇藤田重治(一説には藤原重治とも)は、正歴年間(990年~995年)の頃、この地の開墾を進めるにあたって孝徳天皇ゆかりの地が歴史に埋没しないようにと孝徳天皇を祀る祠を建立したのが豊崎神社の始まりといわれています。その後、村人たちの希望を受けて、商業・農業の守護神であり病疫退散の守護神でもある素盞鳴尊が合祀されるようになりました。残念ながら1772(明和9)年6月に起こった火災のために社殿が炎上、代々伝わる由来書なども悉く焼失してしまったため、豊崎神社の由緒に関する詳細は分からなくなってしまっています。


 


社殿右隣には鹿島神社(左)が、境内北側には豊崎恵比寿神社(右)が祀られています。


 
 豊崎神社には1908(明治41)年に南長柄八幡宮が合祀されました。境内にも多くの摂社が鎮座しており、社殿の右隣にある鹿島神社は江戸時代初期に豊崎で疫病が蔓延した際、その鎮護の意味を込めて常陸国の鹿島神宮から勧請されたものです。また、1614(慶長19)年の大阪冬の陣の際、豊崎で休息を取るために村人・足立市兵衛宅へ立ち寄った徳川家康公が、差し出された麦飯にとても喜んで「永く足立と唱へよ」と家紋などを賜ったという故事にちなんで足立家邸に勧請されていた東照宮も1907(明治40)年4月に境内に遷座されており、相殿として厳島神社も祀られました。境内にはほかにも「商売繁盛の神様」である恵美須神社や「五穀豊穣の神様」である稲荷神社も祀られています。





恵比寿社と並んで鎮座している厳島神社・東照宮(左)と稲荷神社(右)。


アクセス
・大阪市営地下鉄御堂筋線「中津駅」下車、北東へ徒歩6分。
豊崎神社地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

難波の宮
山根 徳太郎,中尾 芳治
學生社

このアイテムの詳細を見る