神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・多聞六神社。

2008年07月06日 | ■神戸市垂水区
五穀豊穣・家内安全・健康長寿

多聞六神社

(たもんろくじんじゃ)
神戸市垂水区多聞台2-17-5







〔御祭神〕
伊弉諾命(いざなぎのみこと) 伊弉冉命(いざなみのみこと)
大日霊命(おおひるめのみこと) 素盞鳴命(すさのおのみこと)
月読命(つくよみのみこと) 蛭子命(えびすのみこと)

※1904(明治37)年合祀
大山咋命(おおやまくいのかみ) 天鈿女命(あまのうずめのみこと)


 社伝では863(貞観5)年創建とされていますが、すぐ南西にあって平安時代前期の861年(貞観3)年に慈覚大師によって開かれたといわれている多聞寺の記録では、この年に創建されたのは多聞寺の鎮守社として大山咋神を祀っていた日吉神社のことであって、多聞六神社とは関係ないということが書かれています。舞子六神社のところでも書きましたが、御祭神が明石の岩屋神社とまったく同じであることから、舞子六神社と同じく岩屋神社からの勧請によって江戸時代に創建された神社だと考えられます。多聞六神社は、少なくとも1777(安永6)年には鎮座していたとみられ、境内には1851(嘉永4)年の銘の入った狛犬や、1856(安政3)年奉納の石灯籠も奉納されていました。





川に面して立つ石鳥居(左)と、81段ある石段(右)。



 明治政府による神道の国教化によって、各地の神社は「延喜式」を参考に官幣・国幣大社中社小社などにランク付けされました。多聞六神社は、1874(明治7)年に入って官国幣社別格官幣社の次の社格の「諸社」の中の村社に列せられました。多聞村の総鎮守社として人々の厚い崇敬を集めていましたが、1890(明治23)年には社殿を焼失してしまいます。しかし、氏子の皆さんの尽力によってすぐに再建工事が始められ、1897(明治30)年5月には遷宮祭が行われました。1904(明治37)年には同じ多聞村に鎮座していて多聞寺の鎮守社といわれていた日吉神社が合祀されています。





1984(昭和59)年再建の社殿。震災では壁面にひびが入り、狛犬も倒壊しました。



 1984(昭和59)年9月には老朽化した社殿の建て替えが行われましたが、1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災によって社殿壁面にひびが入り、石灯籠や狛犬、鳥居なども倒壊するなど大きな被害を受けました。まだまだ混乱が続いていたにも関わらず、その年の4月には早速「多聞六神社復興委員会」が結成され、翌1996(平成8)年には全壊した社務所が再建されるなど、境内の整備が完了しました。震災の悲劇と亡くなった方々の鎮魂、それを乗り越えた地域の人々の絆を後世に伝えるために、社務所奥の境内西端には震災復興記念碑も建てられています。

 氏子の皆さんが守り続けた多聞六神社の境内では、7月の第4日曜日には夏祭が行われ、10月10日には秋季例大祭が行われています。秋季例大祭では、古来より受け継がれてきた獅子舞神事が現在も催され、子ども神輿と合わせて五穀豊穣・子孫繁栄・村内安全を祈願する神事で賑わいを見せています。




社殿の東隣に立つ摂社(左)と、境内の西端に建てられている震災復興記念碑(右)。


アクセス
・JR舞子駅下車、神戸市バス50系統「本多聞2丁目バス停」下車、西へ徒歩5分
・JR舞子駅下車、神戸市バス54系統「多聞寺前バス停」下車、北東へ徒歩5分
多聞六神社地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
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神戸・舞子六神社。

2008年06月22日 | ■神戸市垂水区
開運招福・家内安全・交通安全・縁結び・海上安全

舞子六神社

(まいころくじんじゃ)
神戸市垂水区西舞子1-5-7




舞子六神社の鳥居。このすぐ南には海が広がります。


〔御祭神〕
伊邪那岐大神
(いざなぎのおおかみ)
伊邪那美大神
(いざなみのおおかみ)
天照皇大神
(あまてらすこうたいしん)
素盞男大神
(すさのおのおおかみ)
月夜見大神
(つくよみのおおかみ)
蛭子大神
(えびすたいしん)



 平清盛公が美しい景色を愛でて若い娘たちに舞を舞わせたとも、瀬戸内の潮の流れが入江に舞い込むようになっているからとも、海からの風に耐えながら砂浜に根を張る松の枝振りが舞を舞うように曲がりくねっていた様子から名付けられたともいわれる「舞子」。元々この辺りは明石郡垂水郷山田村と呼ばれていて、「舞子」という優雅な地名が生まれたのは18世紀半ば頃だといわれています。そんな垂水郷山田村の総鎮守社として人々の厚い崇敬を集めていたのが、海に面するように鎮座する舞子六神社です。





1890(明治23)年に再建された社殿。



 創建時期の詳細は分かりませんが、最も古い記録では、1689(元禄2)年に行われた神輿渡御の際に奉納された金幣に「六社大明神、播州明石郡山田村之住、施主敬白」という文が刻まれていることから、この頃には既にこの地に鎮座されていたことが分かります。明石郡の古社・岩屋神社と同じ御祭神を祀っている事から、江戸時代の前期に岩屋神社から御祭神を勧請して創建されたのではないかといわれており、その6柱の御祭神にちなんで創建当初は「六社大明神」と呼ばれていました。その後、明治時代に入って出された神仏分離令のために六社神社という名前に変わり、さらに1874(明治7)年には舞子六神社と改称されて今日に至ります。北にある旧多聞村多聞十二所大明神から6柱を遷座したために多聞十二所大明神は6をひいて多聞六神社に、そして舞子に建てられた神社も六社大明神と呼ばれたという説もあるようですが、根拠は全くないそうです。




 
「市民の木」に指定されている榎と、その脇に立つ大黒社・戎社。



 舞子六神社の境内には多くの摂社があり、社伝にもその創建時期が詳しく書かれています。社殿の左手に並ぶ摂社群の一つ、大歳神社は1880(明治13)年、菅原道真公を祀る菅原社(須賀原社)は1893(明治26)年に境内に勧請されました。これらを含め、白髭社稲荷五社の4つの摂社は、1965(昭和40)年に一つの社殿に祀られています。境内の西端に祀られている戎社大黒社も同じく1965(昭和40)年に現在の社殿が建てられ、その年の10月には恵比寿さま大黒さまの石像が寄贈されています。その後も1966(昭和41)年に社務所が、1968(昭和43)年には大鳥居が建てられるなど、舞子六神社は今もなお氏子の皆さんの厚い崇敬に支えられています。





4柱の神々が祀られている末社(左)と、その右手に立つ「お松大明神」(右)。



アクセス
・山陽電車「西舞子駅」下車、東へ徒歩5分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・皇大神社(垂水)。

2007年09月08日 | ■神戸市垂水区
漁業繁栄・商売繁盛・家内安全

皇大神社(垂水)

(こうたいじんじゃ)
神戸市垂水区平磯4-4-18




境内のすぐ北をJRが通過していきます。


〔御祭神〕
大日霊貴尊
(おおひるめのみこと)


 JR垂水駅のホームのすぐ南に鎮座する海神社の存在は、多くの方がご存知だと思います。しかし、もう一つ、JR垂水駅の東側にあって車窓から一瞬見える小さな神社の存在に気付かれる方は少ないかもしれません。この神社は「大神宮さん」と呼ばれて地域の人々の崇敬を集めている皇大神社です。JR垂水駅の東改札口を出て、線路沿いの路地を入ってすぐのところに鎮座するこの皇大神社は、その名の通り大日霊貴尊(天照大御神)をお祀りする神社で、江戸時代には東垂水村の鎮守社として厚い崇敬を集め、畑作と漁業を生業とする村人たちを護ってきました。





1980(昭和55)年に再建された社殿。



 かつて皇大神社の南には海が広がり、北側も小川が流れて周辺は畑に囲まれていたため、陽射しも明るく降り注ぐ見晴らしの良い境内でしたが、1888(明治21)年に入って兵庫から明石の間に鉄道が敷設され、境内のすぐ西側に垂水駅が建てられた事から周辺の開発が急速に進み、次第にその中に埋没して目立たなくなってしまいました。老朽化していた社殿は、1980(昭和55)年に氏子の皆さんの協力で無事再建され、今では境内に皇大神社をはじめ猿田彦大神倉稲魂大神を祀る稲荷社や、白龍大神黒龍大神を祀る社殿が整備され、商売繁盛と家内安全の神として信仰されています。毎年6月1日に行われる例祭では、子供たちによって「火の用心」と毛筆で書かれた奉納行燈が掛けられ、子供会による出店などが並んで活気に包まれるそうです。





正面に白龍・黒龍社、西隣に稲荷社が建っています。


アクセス
・JR「垂水駅」下車、東改札口より東へ徒歩1分
・山陽電車「山陽垂水駅」下車、東改札口より東へ徒歩2分
皇大神社地図  Copyright (C) 2000-2007 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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神戸・下畑海神社。

2007年08月14日 | ■神戸市垂水区
家内安全

下畑海神社

(しもはたかいじんじゃ)
神戸市垂水区下畑町城ヶ原1963




車が通れるかどうかの幅の坂道を登っていくと現れる立派な鳥居。



〔御祭神〕
上津綿津見神
(うえつわたつみのかみ)
中津綿津見神
(なかつわたつみのかみ)
底津綿津見神
(そこつわたつみのかみ)
大日霊貴神
(おおひるめきしん)


 阪神高速3号神戸線とほぼ平行に西へと伸びる旧神明道路の下畑交差点から北へ曲がり、昔ながらの街並みが残る住宅地の細い道を登っていくと、立派な鳥居を持つ神社にたどり着きます。ここが下畑海神社です。「城ヶ原」という地名に見られるように、かつてここには砦が築かれていたようで、「大ばしり」と呼ばれる伝令が通った道も残っているそうです。「下畑」という地名も歴史が古く、平安時代には既に「下端庄」という名前の荘園が存在していたようです。





急な石段を上った先に社殿が建っています。



 摂津国播磨国の国境に位置する下畑村の中心に鎮座している下畑海神社は、JR垂水駅の南にある海神社から18世紀の半ば頃に御祭神を勧請して建てられたといわれています。海神社の本宮だという説もありますが、海神社が927(延長5)年にまとめられた延喜式神名帳に名を連ねる古社であることを考えると、やはり海神社の分神社と考える方がしっくりします。江戸時代には「日向大明神」と呼ばれていましたが、明治時代に入って官幣中社に列せられ、呼び名も「下畑海神社」と定められました。社殿の前にある土俵では、秋祭りの時に「神相撲」といわれる子ども相撲が行われます。下畑の青年会のメンバーの長男で、満5歳から満7歳までの子どもだけが参加して行われますが、人数が揃わない場合は長男でなくても参加が認められるそうです。





社殿の前には土俵が設けられています。


アクセス
・神戸市営地下鉄「名谷駅」下車、神戸市バス74系統に乗車、「下畑」バス停より徒歩5分
・JR「須磨駅」下車、神戸市バス72系統に乗車、「下畑」バス停より徒歩5分
下畑海神社地図  Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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神戸・海神社。

2005年11月23日 | ■神戸市垂水区
海陸交通安全・安産・厄除開運

海神社

(わたつみじんじゃ)
神戸市垂水区宮本町5-1

神仏霊場兵庫 豊饒の道・第8番札所



建てられたのは1957(昭和32)年と、意外と新しい「浜の大鳥居」。
沖からの目印だった松林が枯れてしまったため建てられたそうです



〔御祭神〕
底津綿津見神
(そこつ わたつみのかみ)
中津綿津見神
(なかつ わたつみのかみ)
上津綿津見神
(うわつ わたつみのかみ)
大日孁貴神
おおひるめのむちのかみ


 神戸市垂水区は旧播磨国の一番東南に位置する町で、石器や縄文式土器が出土するなど、古くから人々の営みが行われていた歴史ある地域です。「たるみ」の名前の起源としては、滝を意味する「(たる)」「(み)」から付けられたという説があり、昔から「垂見」「樽水」「多留美」などと標記されてきました。そんな垂水区の玄関口・JR垂水駅のホームに立つと、すぐ南側に立派な社殿が鎮座しているのが目に入ります。この神社は、航海安全・漁業繁栄の神様として地元の方々の厚い崇敬を集めている海神社。駅から見えたのは本殿で、国道2号線を挟んで南側に伸びる参道の先には大きな赤い鳥居が建てられています。




国道2号線沿いには、海神社の石鳥居が立っています。


 神社の正式な名前は綿津見神社(わたつみじんじゃ)といいますが、地元の方々には海神社(かいじんじゃ)の名で知られています。この「わたつみ」という呼び名は江戸時代中期の国学者・本居宣長の唱えた説に基づいて1871(明治4)年に採用されたものですが、古くから呼ばれていた「あまじんじゃ」もしくは「たるみじんじゃ」と読むべきだという意見もあります。御祭神は、底津綿津見神中津綿津見神上津綿津見神という海にまつわる3柱の神々で、神話によるとこの3柱の神々は新羅遠征に向かった神功皇后に従って朝鮮半島に渡った神様だといわれています。遠征を終えて都への帰還の途に着いていた遠征軍は、暴風雨に見舞われてたびたび船が立ち往生するトラブルに遭っていましたが、ここ垂水の沖合いでも嵐に遭い、船が進まなくなってしまいます。その時神功皇后みずから伊弉諾神(いざなぎのかみ)の御子であるこの3柱の神を祀って祈祷したところ、たちどころに嵐が止んだ事から、この地に神社を建ててその御神徳を讃えたといいます。




潮風にも負けずに鎮座する拝殿。


 平安時代の前期、797(延暦16)年に成立した「続日本紀」には、769(神護景雲3)年に播磨国明石郡の豪族である海直溝長(あまのあたいみぞなが)が大和赤石連の姓を与えられた事が記されていますが、明石国造として勢力を保っていたこの海直氏の本拠地が海神社のある一帯であり、海神社で祀られていた神々は海直氏の氏神だという説が有力です。この海神社は、927(延長5)年に編集された「延喜式」にも名神大社としてその名が見られる格式高い神社で、海の守り神として人々の厚い崇敬を集めて繁栄してきましたが、海と陸の交通の要衝に鎮座する神社だけに、中世以降何度も兵火に巻き込まれて難に遭ってきましたが、1583(天正11)年には豊臣秀吉公から山林の寄進を受けるなど財政的に支援を受け、また江戸時代に入っても代々の明石藩主から援助を受けるなどの庇護を得て、境内が整えられ繁栄を続けてきました。江戸時代の初頭からは「日向大明神」と呼ばれてきましたが、1871(明治4)年5月14日に出された太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」によって近代社格制度が制定され、地方官が祭祀を行う国幣中社に列せられた際に「海神社」へと戻されました。その後1897(明治30)年には神祇官が祭祀を行い皇室から幣帛が供進される官幣中社へと昇格されました。




社殿奥の本殿(左)。その東側には菅原道真公を祀る天神社と神輿庫があります(右)。


 海神社は、毎年10月10日から12日にかけて行われる勇壮な秋祭りでもその名を知られています。特に、最終日の12日に行われる海上渡御祭は壮観です。神輿をのせた御座船が多くのお供の船を従えておこなう海上渡御は、垂水漁港内で海上安全と豊漁祈願のお祓いを受けてから出発。西は舞子沖から東は神戸港沖まで渡御を行います。夜は、2台の神輿の宮入りでとても盛り上がります。




拝殿の西側に立つ摂社(左)。その境内には石造りの七福神が並んでいます(右)。

奥に鎮座する社殿には蛭子大神・稲荷大神・猿田彦大神が祀られています。


アクセス
・JR神戸線「垂水駅」下車、南へ徒歩1分
・山陽電車「山陽垂水駅」下車、南へ徒歩1分
 海神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.  

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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