観智院
(かんちいん)
京都市南区八条大宮西入ル九条町403
東寺の北隣にある観智院。春と秋の限られた期間だけ特別公開されます。
〔宗派〕
東寺真言宗 別格本山
〔御本尊〕
五大虚空蔵菩薩像
(ごだいこくうぞうぼさつぞう)
息子である後二条天皇が皇位に就いた後も「治天の君」として院政を敷いていた後宇多上皇は、深く寵愛していた妃・遊義門院が1307(徳治2)年に急死したのをきっかけに仁和寺で出家して法皇となりました。その後も後宇多法皇は大覚寺に御所を移して院政を続けていましたが、翌1308(徳治3)年には後二条天皇までもが崩御してしまい、世の無常を感じた後宇多法皇は次第に真言密教へと傾倒していきました。そして同年には東寺の灌頂院で伝法灌頂を受け、以来3年間東寺の西院に籠って真言密教の研鑽に努めながら、21の子院の建立に尽力されました。その頃の東寺には頼宝、賢宝など優秀な学僧が次々と生まれており、その中でも杲宝(ごうほう)は最も優秀だったといわれ「東寺の三宝」と並び称されていました。その杲宝が開基となって1359(延文4)年頃に創建した子院が観智院です。
四方正面の庭(左)と、北政所の寄進によって再建された客殿(右)。
子院というのは僧侶たちが教えを学びながら生活をする住坊で、ここを拠点に子院を治める院主のもとで教学の研鑽に励んで修行を進めていました。観智院の院主である杲宝とその弟子・賢宝は、比叡山延暦寺や奈良の諸寺、いわゆる南都北嶺から実に15,000点以上の経文や書籍を書写し、「観智院金剛蔵聖教」と呼ばれる貴重な密教資料の蓄積に努めながら教学と門弟の育成に励み、次々に優秀な学僧を輩出していきました。1388(嘉慶2)年2月には本堂が建立され、弘法大師空海や伝教大師最澄など唐に留学して密教の経文等を持ち帰って布教に努めた高僧たち、いわゆる「入唐八家」のひとりである恵運が唐・長安の青龍寺より持ち帰った五大虚空蔵菩薩像が、賢宝によって山科の安祥寺から移されて御本尊として安置されました。
五大の庭。日本を表す築山(左)と、遣唐船を護る神々を表現した石組みなど(右)。
その後、1596(文禄5)年に起きた大地震によって客殿が倒壊するなどの被害を受けましたが、豊臣秀吉公の正室・北政所の寄進を受けた第10世亮盛が客殿を再建。この客殿の上段の間には宮本武蔵が描いたといわれる「鷲の図」と襖絵「竹林の図」が飾られています。客殿の南には「五大の庭」と呼ばれる枯山水庭園が広がっています。
「五大の庭」は、弘法大師空海が遣唐船に乗って帰国する際、嵐に遭いながらも海神に護られて無事に日本に戻られる様子を表現した庭で、右にある植栽に包まれた築山は唐の長安を表し、枯山水の砂地に並べられた石組みは遣唐船とそれを護る竜神・神亀・鯱を表現しています。そして一番左にある築山は無事に戻ってきた日本の地を表し、ここに組まれた5つの石は五大虚空蔵菩薩像を表していて、それぞれに五大虚空菩薩を構成する法界虚空蔵菩薩・金剛虚空蔵菩薩・宝光虚空蔵菩薩・蓮華虚空蔵菩薩・業用虚空蔵菩薩を表す梵字が刻まれています。
客殿の北にある茶室・楓泉観(左)と、その前に広がる流水の庭(右)。
美しい模様の枯山水(左)や苔に包まれた蹲(右)など、随所に見所があります。
アクセス
・近畿日本鉄道京都線「東寺駅」下車、西へ徒歩8分。
観智院地図 【境内図】 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.
拝観料
・ 大人・高校生:500円、中学生以下:300円
※通常非公開:春季(3月20日~5月25日)と秋季(9月20日~11月25日)の特別拝観期間のみ公開。
拝観時間
・春季特別拝観:9時~17時30分(受付は17時まで)
・秋季特別拝観:9時~16時30分(受付は16時まで)
公式サイト
東寺公式サイト内 >観智院