神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・観智院(東寺)。

2009年11月10日 | ◇京都府 -洛南


観智院

(かんちいん)
京都市南区八条大宮西入ル九条町403




東寺の北隣にある観智院。春と秋の限られた期間だけ特別公開されます。


〔宗派〕
東寺真言宗 別格本山

〔御本尊〕
五大虚空蔵菩薩像
(ごだいこくうぞうぼさつぞう)



 息子である後二条天皇が皇位に就いた後も「治天の君」として院政を敷いていた後宇多上皇は、深く寵愛していた妃・遊義門院が1307(徳治2)年に急死したのをきっかけに仁和寺で出家して法皇となりました。その後も後宇多法皇大覚寺に御所を移して院政を続けていましたが、翌1308(徳治3)年には後二条天皇までもが崩御してしまい、世の無常を感じた後宇多法皇は次第に真言密教へと傾倒していきました。そして同年には東寺灌頂院で伝法灌頂を受け、以来3年間東寺西院に籠って真言密教の研鑽に努めながら、21の子院の建立に尽力されました。その頃の東寺には頼宝賢宝など優秀な学僧が次々と生まれており、その中でも杲宝(ごうほう)は最も優秀だったといわれ「東寺の三宝」と並び称されていました。その杲宝が開基となって1359(延文4)年頃に創建した子院が観智院です。





四方正面の庭(左)と、北政所の寄進によって再建された客殿(右)。



 子院というのは僧侶たちが教えを学びながら生活をする住坊で、ここを拠点に子院を治める院主のもとで教学の研鑽に励んで修行を進めていました。観智院の院主である杲宝とその弟子・賢宝は、比叡山延暦寺や奈良の諸寺、いわゆる南都北嶺から実に15,000点以上の経文や書籍を書写し、「観智院金剛蔵聖教」と呼ばれる貴重な密教資料の蓄積に努めながら教学と門弟の育成に励み、次々に優秀な学僧を輩出していきました。1388(嘉慶2)年2月には本堂が建立され、弘法大師空海伝教大師最澄など唐に留学して密教の経文等を持ち帰って布教に努めた高僧たち、いわゆる「入唐八家」のひとりである恵運が唐・長安の青龍寺より持ち帰った五大虚空蔵菩薩像が、賢宝によって山科の安祥寺から移されて御本尊として安置されました。





五大の庭。日本を表す築山(左)と、遣唐船を護る神々を表現した石組みなど(右)。


 
 その後、1596(文禄5)年に起きた大地震によって客殿が倒壊するなどの被害を受けましたが、豊臣秀吉公の正室・北政所の寄進を受けた第10世亮盛が客殿を再建。この客殿の上段の間には宮本武蔵が描いたといわれる「鷲の図」と襖絵「竹林の図」が飾られています。客殿の南には「五大の庭」と呼ばれる枯山水庭園が広がっています。

 「五大の庭」は、弘法大師空海が遣唐船に乗って帰国する際、嵐に遭いながらも海神に護られて無事に日本に戻られる様子を表現した庭で、右にある植栽に包まれた築山は唐の長安を表し、枯山水の砂地に並べられた石組みは遣唐船とそれを護る竜神・神亀・鯱を表現しています。そして一番左にある築山は無事に戻ってきた日本の地を表し、ここに組まれた5つの石は五大虚空蔵菩薩像を表していて、それぞれに五大虚空菩薩を構成する法界虚空蔵菩薩金剛虚空蔵菩薩宝光虚空蔵菩薩蓮華虚空蔵菩薩業用虚空蔵菩薩を表す梵字が刻まれています。





客殿の北にある茶室・楓泉観(左)と、その前に広がる流水の庭(右)。


美しい模様の枯山水(左)や苔に包まれた蹲(右)など、随所に見所があります。


アクセス
・近畿日本鉄道京都線「東寺駅」下車、西へ徒歩8分。
観智院地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・ 大人・高校生:500円、中学生以下:300円
※通常非公開:春季(3月20日~5月25日)と秋季(9月20日~11月25日)の特別拝観期間のみ公開。

拝観時間
春季特別拝観:9時~17時30分(受付は17時まで)
秋季特別拝観:9時~16時30分(受付は16時まで)

公式サイト
  東寺公式サイト内 >観智院





京都・東寺(教王護国寺)。

2009年11月06日 | ◇京都府 -洛南

八幡山 教王護国寺

(はちまんざん きょうおうごこくじ)
京都市南区九条町1



神仏霊場京都 洛土の道・第4番札所
洛陽三十三所観音霊場・第23番札所ほか

通 称
東 寺
(とうじ)



東寺の南大門。1895(明治28)年に三十三間堂の西門を移築したものです。



〔宗派〕
東寺真言宗 総本山

〔御本尊〕
薬師如来像
(やくしにょらいぞう)


 JRに乗って京都へ向かう旅路を楽しみながらあれこれと思いを馳せていると、車窓から眼に飛び込んでくる五重塔が間もなく京都に到着することを教えてくれます。旅人たちにとっても、京都に里帰りをする人々にとっても平安の洛土への郷愁をかき立ててくれるこの五重塔は、苦難を乗り越えて唐へと渡り、真言密教を我が国へと伝えてくれた弘法大師空海の国家鎮護の根本道場となった東寺に建てられている「京都の象徴」ともいうべき建造物です。





1603(慶長8)年に再建された金堂(左)。右は南大門脇にある弘法大師像。


 
 東寺は平安京へと遷都が行われると同時に官寺として創建計画が進められ、796(延暦15)年に藤原伊勢人卿を造寺長官として建立されたと伝えられています。この時、大極殿から南へ伸びる朱雀大路の南端の羅城門の東西に東寺西寺が建てられ、狛犬の如く一対となって平安京の玄関口を守護していました。もっとも創建当初の東寺に建てられたのは金堂ぐらいで、講堂や五重塔などはまだ整備されていませんでした。東寺の整備計画が大きく進みだすのは、弘法大師空海の登場を待たなくてはなりませんでした。

 留学僧として遣唐船に乗り込み、唐の都・長安にある青龍寺恵果和尚から真言奥義の伝法灌頂を受けて帰国した弘法大師空海は、唐の文化に強い関心を持っていた嵯峨天皇との親交を深めていくうちに絶大な信頼を得るようになり、823(弘仁14)年に官寺だった東寺の下賜を受けてここを鎮護国家のための真言密教の根本道場とします。当時の寺院は「六宗兼学」といって、様々な宗派の学問を学ぶのが一般的でしたが、東寺に関してはその慣例を打ち破り、真言密教のみの寺院としたところに嵯峨天皇弘法大師空海への期待が感じ取れます。下賜されてから2年後の825(天長2)年には講堂の建設が始められ、その内部には21体の密教像から成る立体曼荼羅の安置が進められました。翌年には五重塔建立の計画が始められるなど、伽藍の整備が着々と進められましたが、これらが完成するのは弘法大師空海が入寂された後のことでした。





1644(寛永21)年再建の「京都の象徴」五重塔(左)。右は五重塔の北に広がる庭園。

 

 弘法大師空海の入寂後、後を継いだ弟子の実恵上人によって真言密教における重要な儀式である伝法灌頂を行う灌頂院が建てられ、同じ時期には食堂(じきどう)も完成し、元慶年間(877~884年)になってようやく五重塔も建立されて、弘法大師空海が思い描いていたイメージがほぼ整うこととなりました。しかし、貴族たちの力が強まって荘園制が広まるにつれ、国家財政も疲弊の一途を辿り、官寺だった東寺も徐々に衰退していくことになります。鎌倉時代に入る頃には北面の武士出身の僧侶・文覚によって復興が進められ、後白河法皇の第6皇女・宣陽門院とその師・行遍上人によって御影堂が建立され、荘園の寄進が行われるなど弘法大師信仰の拠点として隆盛していきました。その後も後宇多法皇後醍醐天皇、さらには足利尊氏公の帰依を受けて発展した東寺ですが、室町時代には最大の試練に見舞われることになります。





本堂の北に立つ1491(延徳3)年再建の講堂(左)と1934(昭和9)年再建の食堂(右)。



 応仁の乱の兵火は何とか免れた東寺ですが、政情が不安定になって頻発するようになった土一揆が東寺を拠点に立てこもるという事態がしばしば発生し、ついには1486(文明18)年に土一揆の民衆が立てこもった際に放たれた火によって一部の建物を残して堂宇のほとんどが焼失してしまうという惨事が起こります。復興事業はすぐ始められましたが、戦国の争乱期になるとそれも次第に停滞し、この状況に追い討ちを掛けるかのように1563(永禄6)年には落雷によって五重塔が全焼してしまいました。しかしながら、豊臣秀吉公の支援によって1594(文禄3)年に五重塔が再建されたのを皮切りに諸堂の整備が進められ、1603(慶長8)年に金堂が再建されて東寺の伽藍はほぼ復興事業が完了しました。その後も地震や火災などでたびたびダメージを受けますが、そのたびに江戸幕府によって再建が行われるなど力強く再生していきました。幾多の災難をも乗り越えた東寺は、創建当初と変わらぬ場所で弘法大師空海の教えを今に受け継ぐ名刹として、現在も多くの人々の崇敬を集め続けています。





弘法大師坐像が安置されている御影堂(左)と、向かい合うように立つ大日堂(右)


王城鎮護の役割を担う鎮守八幡宮(左)と真言密教の伝法灌頂が行われる灌頂院(右)。


アクセス
・近畿日本鉄道京都線「東寺駅」下車、西へ徒歩5分。
東寺地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料 (金堂・講堂=大人:500円、高校生:400円、中学生以下:300円)
 ※五重塔や宝物館が公開される特別期間中は拝観料が変わります。

拝観時間
・8時30分~17時30分 (3月20日~9月19日)  ※17時受付終了
・8時30分~16時30分 (9月20日~3月19日)  ※16時受付終了

公式サイト






京都・毘沙門堂(山科)

2009年09月18日 | ◇京都府 -洛南


毘沙門堂

(びしゃもんどう)
京都市山科区安朱稲荷山町18

神仏霊場京都 楽土の道・第47番札所

通 称
毘沙門堂門跡



住宅街を抜ける緩やかな上り坂の先にある、緑豊かな毘沙門堂の森。


〔宗派〕
天台宗延暦寺派

〔御本尊〕
毘沙門天像
(びしゃもんてんぞう)


 JR山科駅を降りた先の踏切脇に立つ案内板に従って歩を進め、住宅街の中を切り裂くようにまっすぐ北に伸びる緩やかな上り坂を進んでいくと、「天台宗京都五門跡」のひとつ、毘沙門堂へと辿り着きます。毘沙門堂がある安朱稲荷山町の「安朱(あんしゅ)」はもともとあった地名ではなく、江戸時代に入ってから「安祥寺村」と「朱雀村」が合併したことによって作られた地名です。兵庫県にも2005(平成17)年に城崎郡香住町と美方郡美方町・村岡町が合併し、香住の「」と美方の「」を合わせて命名された「香美町」がありますが、今も昔も同じような発想で命名された町名があることに面白さを感じます。




 
急峻な石段(左)を登った先に立つ、1665(寛文5)年建立の仁王門(右)。


 
 毘沙門堂の正式な名称は護法山安国院出雲寺。代々皇族が住持を務める門跡寺院だったために「毘沙門堂門跡」とも呼ばれています。寺伝によると、文武天皇の勅願によって703(大宝3)年に行基上人が建立した出雲寺がルーツだといわれています。出雲寺はもともと山科にあったわけではなく、上御霊神社が鎮座している京都市上京区の地にあったと考えられています。この付近からは奈良時代前期に作られたとみられる瓦が出土しており、この地に寺院とおぼしき建造物があったことは確かなようです。出雲寺伝教大師最澄が自ら彫られたといわれる毘沙門天像を御本尊としていたことから「毘沙門堂」とも呼ばれていました。しかし平安時代末期には寺勢は衰退し、荒れ寺となってしまいます。





伝教大師最澄自らが刻まれたと伝えられる毘沙門天像を安置する本堂。


 
 出雲寺が復興されたのは鎌倉時代に入ってからのこと。1174(承安4)年に出家して円智と名乗り、大原に隠棲していた平親範卿は、父・平範家卿が伏見に建立するも焼失し、御本尊のみが残るだけという状態になっていた護法寺の再建を行います。再建された護法寺は1195(建久6)年に出雲寺があった地へと移され、この時に桓武平氏の祖・葛原親王が開いた平等寺平親信卿が開いた尊重寺という平家ゆかりの寺院も合併させます。この寺院は出雲寺の寺籍を引き継いだため、ここに「護法山出雲寺」の復興が果たされることになりました。鎌倉時代から室町時代にかけて洛北の桜の名所としてその名を知られていた毘沙門堂も兵火に巻き込まれて焼失。再び苦難の時期を迎えます。




 
本堂の右手には経堂(左)や弁天社(右)などが立ち並んでいます。


 
 慶長年間(1596年~1614年 )に入り、徳川家康公のブレーンとして江戸幕府の朝廷政策や宗教政策に深く関わっていた天台宗の僧・天海僧正毘沙門堂の再建に乗り出します。江戸幕府によって山科の古刹・安祥寺の寺領の一部を与えられた天海僧正は志半ばで没しますが、弟子の公海大僧正が遺志を継いで再建を進め、1665(寛文5)年に諸堂が整備されて復興されました。

 毘沙門堂は第4代将軍・徳川家綱公が大壇越となるなど強力なバックアップを受けて財政的にも安定、さらに1674(延宝2)年に後西天皇の第6皇子・公弁法親王毘沙門堂で受戒、天台座主を務めたのちの1715(正徳5)年にここに隠棲したことから、代々出家して僧籍となった親王である法親王が住持を務める門跡寺院となり、「毘沙門堂門跡」と称されて隆盛を極めるようになりました。




 
本堂の奥に立つ宸殿(左)。右は狩野永叔の手による見事な天井龍の図。



 本堂や御霊殿、そして後西天皇の旧殿を拝領して移築したことから宸殿と呼ばれる書院は狩野派の画家の手による襖絵などで飾られており、中でも狩野永叔によって御霊殿の天井に描かれた「天井龍の図」や、見る位置を移動すると描かれた机の向きが変化して見えるという狩野益信筆の「九老之図」、円山応挙によって描かれた「鯉の図」など、数多くの文化財に満ちた境内はなかなか見応えがあります。





宸殿の奥に広がる晩翠園。秋には紅葉の朱に染め上げられます。


アクセス
・JR「山科駅」から北へ徒歩20分
・京阪電鉄京津線「京阪山科駅」下車、北へ徒歩20分。
毘沙門堂地図  【境内MAP】 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  ※宸殿・晩翠園へは拝観料が必要。(大人:500円、高校生:400円、小中学生:300円)

拝観時間
・8時30分~17時





京都・伏見稲荷大社。

2008年12月29日 | ◇京都府 -洛南
五穀豊穰・商売繁盛・交通安全


伏見稲荷大社

(ふしみいなりたいしゃ)
京都市伏見区深草薮ノ内町68

神仏霊場京都 楽土の道・第43番札所
全国4万余りの稲荷社の総本社


通 称
お稲荷さん




巨大な赤鳥居の先に全国4万ある稲荷社の総本宮・伏見稲荷大社が鎮座しています。



〔御祭神〕
宇迦之御魂大神
(うかのみたまのおおかみ)



 全国には「稲荷神社」と名のつく神社は大小併せて4万社を優に超えるといわれており、我が国に数多ある神社の中でもその数は群を抜いています。その全ての稲荷神社のルーツ、つまり総本社がここ伏見稲荷大社なのです。1300年もの長い歴史を持つ伏見稲荷大社は商売繁盛の神さまといわれており、正月3ヶ日にはその御利益を求めて実に270万人もの初詣客で賑わいを見せます。ちなみに270万人という参拝者数は関西で最も多く、全国でも4番目の多さを誇っています。

 奈良時代に発生したといわれている稲荷信仰は、その頃山城国一帯に勢力を伸ばしていた渡来系の秦氏が、自分たちの氏神である農耕神を祀ったのが始まりといわれています。「稲荷」という言葉は「稲生り(いねなり)」が転じて出来たものだといわれており、農耕を始めとした諸産業の発展と、一族の繁栄を願って秦氏が行っていた祭祀が、秦氏の勢力拡大に伴って各地に広がっていったと考えられています。





豊臣秀吉公が寄進したと伝えられる楼門(左)と、その奥に立つ外拝殿(右)。

1499(明応8)年に再建された「稲荷造」の本殿(左)と、その右手に立つ神楽殿(右)。



 稲荷山全体を神域とする伏見稲荷大社は、農耕神である宇迦之御魂大神を主祭神とし、佐田彦大神大宮能売大神田中大神四大神を配祀しています。927(延長5)年に編纂された延喜式神名帳において名神大社に列せられた名社で、1871(明治4)年には官幣大社に列せられています。その創建は古く、711(和銅4)2月7日の初午の日に、勅命を受けた秦伊侶具が、古来より神域といわれていた「伊奈利山」の3つの峰に祠を建てて御祭神を祀ったのが始まりとされています。

 創建にまつわる伝説によると、非常に裕福だった秦伊侶具が、豊富に所有していた稲から餅を作って弓矢の的にするなどの遊びに興じていたところ、不思議な事にその餅は白鳥に姿を変えて稲荷山へと飛び去り、舞い降りた山の峰に稲が生じたといいます。食物を遊興の道具に用いたことを反省した秦伊侶具は、それにも関わらず再び稲を実らせてくれた御神徳に報いるために神社を創建したといわれています。





伏見稲荷大社といえば「千本鳥居」。びっしり立ち並ぶ朱塗りの鳥居は壮観です。

千本鳥居を抜けた先にある奥宮参拝所(左)と、「おもかる石」(右)



 稲荷神には、かの弘法大師空海も厚い崇敬を寄せていたと伝えられています。823(弘仁14)年に嵯峨天皇より東寺を賜った空海は、その4年後の827(天長4)年に稲荷神を勧請して東寺の鎮守神と定めています。今も、東寺の北東には伏見稲荷大社御旅所が鎮座するなど、その名残りが残されています。942(天慶5)年には正一位の神格を賜り、1072(延久4)年には後三条天皇が行幸されるなど、貴賎を問わず稲荷信仰は広がりをみせていきました。

 人々の崇敬を集めて繁栄していた伏見稲荷大社も、京都を中心に繰り広げられた応仁の乱の戦火に巻き込まれ、大きなダメージを受けました。西軍の糧道を断つために東軍が要害の地である稲荷山に陣を構えたため、この地も両軍の激しい戦闘の場となってしまい、1468(応仁2)年3月21日はに全山が火に包まれて、山上・山下を問わず社殿は悉く灰燼に帰してしまうという悲劇的な結末を迎えました。その年の末には仮殿が設けられ、かろうじて祭祀は続けられていきましたが、本格的な復興には30年以上の月日を要する事となります。全国を勧進して集められた資金をもとにようやく本殿が完成し、遷宮祭が行われたのは1499(明応8)年11月23日。しかしながら、この時には古来より祭祀が行われていた山上の上社と中社の復興までは及ばず、現在本殿がある下社の周辺のみが復興されるにとどまりました。





稲荷山の中腹に立つ熊鷹社(左)と、その前に広がる新池(右)。



 稲荷山全体が神域とされている伏見稲荷大社には、麓から山上まで氏子の皆さんから奉納された1万基以上の鳥居が所狭しと並んでいます。行程約4kmのお山巡りには2時間以上を要しますが、標高233mの稲荷山の最高峰に建つ上之社中之社下之社をはじめ、行方不明になった人を探す時に池に向かって手を打ち、こだまが返ってきた方向に行くと手懸りが掴めるという伝説のある新池、清冽な清水が流れ落ちる清瀧や、眼病に聞くといわれる眼力社、無病息災を祈願する薬力社など、数多くの社殿が鎮座していますので、余裕のあるスケジュールで、山上の景色を愉しみながらゆっくりと参拝される事をお勧めします。





三ノ峯の下之社(左)と、二ノ峯の中之社(右)。

一ノ峰の上之社(左)と、稲荷山の北麓にある「眼力社」(右)。


アクセス
・JR奈良線「稲荷駅」下車すぐ
・京阪電車「伏見稲荷駅」下車、東へ徒歩5分
(※車で参拝される方:年末年始には交通規制が行われますので、公式サイトでご確認ください)
伏見稲荷大社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト