Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

コクリコ

2011-07-17 00:13:46 | アニメーション
悪くない映画です。ぼくはまるで期待せずに見に行ったせいもあるかもしれませんが、想像よりもいい。以下、少々のネタバレも含めつつ、感想。

「ジブリらしさ」というものについて考えさせられました。ぼくはこの「ジブリらしさ」なる概念にはやや抵抗があるのですが、それでも、そういうものの存在に想到させられる。

ジブリらしさ。
このブログを度々読んで下さる方々は、ぼくの毎度の長文(最近は短いことが多いですが)に別に嫌気がさしているわけではないと思いますので、たぶんある水準以上の読解力や論理的思考力が備わっているのだろうと推察します。ですから、この「ジブリらしさ」を語る際に必要な、やや込み入った話も許して下さるものと思います。

まず、ジブリらしさとは一体どのようなものなのか、という点。そもそもジブリ作品に共通する分母など存在しているのでしょうか。高畑勲や宮崎駿を中心に様々な監督を輩出しているスタジオジブリという制作会社のスタッフの中には、当然スタジオを去る人もいるわけですし、逆に新たに加わる新人もいるわけです。作品ごとに監督が変わり、作画監督が変わり、美術監督が変わります。それでも、「ある一定の絵柄」を維持していることは確かですので、その絵を指して「ジブリらしい」と言うことはできるだろうとは思います。またやはり一定の水準を超えた背景を指して同様に言えるのだろうと思います。例えば、新海誠の新作のキャラクターデザインが「ジブリっぽい」というような言い回しは可能なはずです。あるいは非常に描き込まれた抒情豊かな背景を「ジブリのような風景」と言い表すことは、あながち間違いではないでしょう。ところが、世間一般で言われる「ジブリらしさ」というのは、少なくともその大部分は、恐らくそういった形式的なものではなく、映画の内容を指しています。曰く、エコロジカルで、老若男女が楽しめる、云々。

よく知られているように、ジブリ作品はしばしば作品ごとに観客のターゲットを絞っています。それにもかかわらず、どういうわけかジブリ作品は老若男女が安心して見られる内容でなくてはならない、と一部で信じられています。いつの間にか「ジブリらしさ」というのが安心ブランドと同義になっていて、作品が公開されるたびに、今作はジブリらしさを裏切っているとか、継承しているとか、ぼくには不毛に感じられるような議論がなされてきました。しかしながら、例えば『もののけ姫』は子どもから大人まで誰もが楽しんで見られて且つエコロジカルな映画ですよ、と宣伝されたことは決してなかったですし(むしろそういったイメージを裏切る努力がなされていたことを、当時を知る人は思い出すべきです)、またそうするべきでもありません。

いつ頃からそのようなイメージが固定するようになったのかは見極められませんが(少なくとも『もののけ』のときには既にあった)、そうした世間の期待をジブリ作品に勝手に押しつけておいて、その上で、これは「らしい」とか「らしくない」とかを論うのは、やはりお門違いだと思います。既に固着してしまっている世間のイメージに応えなければならない、とジブリ作品の監督たちを縛り付けるのは、あまりにも横暴に過ぎます。大衆迎合を大衆が求めるのかどうか分かりませんが、ことジブリに関して言えば、世間はジブリが大衆に迎合することを願っているようにしか見えない。ラピュタやトトロのような、誰が見ても楽しめるような、胸躍る作品、心温まる作品を作ってくれ、そうでなければジブリ作品ではない、と。

ぼくはそのような意見は不毛だと感じていたし、宮崎駿の後期作品における果敢な挑戦(映画を壊す)を非常に好ましく見ていました。過去の遺産の傍で立ち止まることをせず、絶えず進化を続けようとしている。ときに実験的な作品を作ってゆく姿勢を、ぼくは当然だと考えていました。なぜ世間はこの態度を理解しないのだろう、と。

ところが、『アリエッティ』にぼくはかなり不快な衝撃を覚えました。よく劣化ジブリとかいう類の表現が使われましたし、ぼくもそれに類することを書いたかもしれませんが、この作品は、世間の思ういわゆる「ジブリらしさ」というものをただ寄せ集めてパッチワークしただけの代物に過ぎないように感じられたのです。ジブリらしさ。つまり、世間がジブリに求める期待、イメージ、レッテル、そういったものを制作側が巧みに取り入れて、観客におもねった(無論そのような意識はなかったでしょうが)作品。なるほど映画としては目立った瑕疵がない。しかし美点もない。冒険精神がない。果敢なチャレンジがない。小じんまりとまとまっているだけ。ああ、世間の期待に応えたんだな、そう思うしかありませんでした。

さて、前置きがかなり長くなってしまいましたが、今回の『コクリコ坂から』には、「ジブリらしさ」がありました。ただ、ぼくの感じた「らしさ」というのは、世間に貼りつけられたレッテルではなく、キャラクターの立ち姿であったり、過去作品からの作画的引用であったり、そういった技術的・形式的な側面です。それがよい方向に作用しているように感じました。ジブリのキャラクターたちの持つある種の「品の善さ」あるいは「凛々しさ」。それが感じられて、映画全体がとても心地よいものに仕上がっていたように思います。出生の秘密もの、という極めてメロドラマチックで陳腐、滑稽でさえあるモチーフを上手く扱い切れていなかったことはこの映画の最大の欠点であり、ぼくの不満でもありますが、映画全体の醸し出す雰囲気は、「ジブリの絵柄」という「品」の与るところ大であり、いわば爽やかな熱気とでも言うべきものに包まれていました。

熱気。主人公たちの通う高校の部室棟の取り壊し反対運動を軸に物語は進められてゆくのですが、その様子が、まるで学園祭前夜のような熱気に彩られており、非常に楽しげでなのです。小ネタも満載で、随所でにやりとさせられる。

過去作品を思わせるシーンや設定が多いにもかかわらず、それが鼻につかなかったのは、たぶん何度も言うように、その品性が映画の雰囲気とよくマッチしたからなのだと思います。

恋愛要素について。企画書等を読む限り、出生の秘密というものを主人公たちの両親の生き方に絡めて、重層的に恋愛を描く方向で映画作りは進められたはずなのですが、実際にはその重層性が感じられませんでした。つまり、出生の秘密という陳腐な要素だけが目立ち、それを契機として新たな物語が動き出す、というようには機能していなかったように思いました。したがって、薄っぺらなものになっている。ヒロインたちの恋愛の描写はスピーディで、宮崎駿の演出を思わせさえしたのですが(彼は恋愛を非常に大胆に描く)、一方ではテンポがよい、他方では大雑把過ぎる、という感想を持たれるでしょう。

全体的に見て、それほど悪くないように思います。ジブリ特有のキャラクターデザインの凛々しさがよく作品内容にマッチして、ささやかな情感のある物語になっていました。