Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

恋に気付くアニメーション

2011-07-20 00:15:27 | アニメーション
新海誠の作品を、ぼくはこれまで「届かないメッセージ」や「喪失感」「何物かになる以前の関係性」などといった観点から把握してきましたが、先日の自分の文章から、「気付くこと」というモチーフで語ることも可能なのだな、と思うようになりました。

『ほしのこえ』や『雲のむこう』であれば、「それが恋であることに気が付くこと」が物語の核になっていますし、今作の『星追い』であれば「寂しかったことに気が付くこと」が重要な結節点になっています。

「気付く」というのは非常に些細な心の動きのような気もしますが、しかしながら実は劇的な転換でもあるのです。これまでのもやもやとした関係性が、その気付きによって鮮やかな輪郭を取り、確かな「あるもの」として立ち現われてくる。それによって当事者たちの見ている景色も一変し、彼らは行動に駆り立てられてゆく。

例えば『ほしのこえ』では、ノボルとミカコは最初恋人同士としては画面に登場しません。ミカコはノボルにとってあくまでも「割と仲のいいクラスメイト」に過ぎないのであって、恋人ではありません。たとえその関係性が他者から見て恋人関係に他ならないものであったとしても、当事者たちの間では、まだそのような関係は確立されていないのです。

ところが、二人が離れ離れになってしまうことによって、お互いがお互いをどんなに必要としていたか、今も必要としているのか、そういうことに気が付いてしまうわけです。つまり、どれだけ君のことを好きだったか、ということに。その想いがラストに向けて交互に語られてゆくのですが、いわば恋心が累乗されてゆく映画の仕掛けは見事であり、この恋のクレシェンドに見る者は心音を高鳴らせてしまう、という寸法です。・・・と書くとなんだか味気ないのですが、こういう心の些細な動きに敏感な人間は、まるで踊り子がサンバのリズムに体が自然に乗ってしまうように、恋のクレシェンドに歩調を合わせて、自らも二人の感情を追体験してしまうのです。

『雲のむこう』もやはりそのような「気付き」が重要なモチーフになっているのですが、しかしこの作品ではクライマックスにおいて、その「気付き」が「忘却」に一転してしまいます。ここが何とも切なくて、「忘れちゃった」というサユリの台詞にぼくは滂沱の涙を流し(心の中で)、打ち震えます。どんなにあなたのことを求めていて、どんなにあなたのことが好きだったか、それを伝えたい、それさえ伝えられれば・・・どうか、お願い、この想い、届いて・・・!!!ああ、サユリ~~~~!!!!!

人が何かに気が付く、ということ。ただそれだけの心の動き。しかしそれが極めて動的で劇的な大転換になりうる。新海誠はそのことを示唆してします。

中学生のとき、ぼくは「好き」という気持ちがよく分からなかった。だから、相手には「好き」とは言えなかった。でも、離れ離れになってようやく、それが「好き」だということに気が付きました。まだ幼かったんだね、で普通は済ませられてしまう心の機微。でも、この転換を新海監督は最大限にまで拡大して、且つ克明に描破してくれた。ぼくにはそれがうれしい。

思えばぼくは『ほしのこえ』によって青春を蘇らせ、そして終わらせたのかもしれないな。バージョンアップするために。