Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

しゃべる才能

2009-06-30 01:34:35 | Weblog
他大学の某先生のブログをいつも読んでいるのですが、先日はがっかりしてしまいました。曰く、

大学でよく知っている就職活動中の学生と会ったのだが、彼とはこれまでそんなに会話が弾んだことがなく、コミュニケーション能力がいまひとつな生徒だと思っていた。今度も、久々に見かけたものだから軽い挨拶程度というつもりで話し掛けたら、意に反し、彼がしゃべるしゃべる。どうやら就職活動で自分のそれまでのやり方を否定され、社会にもまれて成長したようだ。きっとどこかから内定がもらえるだろう。…

こういう内容なのですが、何を言っているんだろうと思いました。本気なのか、と。確かにこの件に限っては、先生の言い分が正しく、学生は社会にもまれて自分のやり方を変えたのかもしれません。でもこういう出来事は、この先生の主張のように一般化できることではないと思うのです。

つまりですね、単に学生は先生とは話題が見つからず、それで会話が弾まなかっただけじゃないかと思うわけですよ(その日はたまたま話がしたかっただけ)。友人たちとなら、活発に話し合いができる人なのかもしれないじゃないですか。だいだい、先生という立場の人と話すのは苦手、という学生はけっこういますよ。それなのに、コミュニケーション能力がいまひとつだ、と決め付けている。これはあんまりだ。

ぼくの知り合いにこんな人がいました。彼は文学部の学生でしたが、盛んに読書する方ではなくて、授業では特に目立った存在ではありません。先生ともたいした話はしません。ところが彼は別の顔を持っていて、実はパソコンや機械(車のエンジンとかそういうの)の扱いに長けていて、理系ばかりの人が集まるサークルでは部長を務め、フォーミュラーカーを造ったり、徹夜で映像製作(ドキュメンタリー)をしたり、とかなり有能な人材で、子分の面倒見もいいし、仲間内では大いにしゃべる、という人でした。しかし、彼は文学部の先生とはそんなに話をしません。たぶん共通の話題がないからだと思います。彼は果たしてコミュニケーション不足の人間でしょうか?先生と話をしないからと言って、誰とでもにこやかに会話しないからといって、コミュニケーションがいまひとつだと言えるでしょうか?もちろん違うはずです。

多くの場合、大学の先生ってのは、学生の一面しか知らないはずです。あまり話をしない学生であれば尚更です。それなのに、なぜ自分との関わりからのみその学生の性格を判断してしまうのか。これが不思議でなりません。

誰とでも(先生とでも)如才なく話せるってのは、一種の才能だろうとは思います。コミュニケーション能力が優れているのかもしれません。そういう人はなにかと目をかけてもらえるんだろうなあと思います。でも、そうでないからといって、コミュニケーション能力が低いわけではないし、そしてかりにそういう能力を獲得したとしても、それが成長だとはぼくには思えません。全ての人と笑顔で会話することがいま現代人に求められているとしても、そんな社会は薄気味悪い。コミュニケーションに秀でているわけではない人が、必死に自分の本性を偽って活発に振舞おうとしても、それは結局はその人のためにならないはずです。へとへとになってしまいますからね。

「破」でアスカがこんなことを言っていました。皆でいるとき、つまらない話がおもしろいふりをしているのは疲れる(あるいは馬鹿馬鹿しいだったか)。まるで興味のない話題でもさぞおもしろいようなふりをして聞いているのは、本当にうんざりします。自分がみじめになったように感じるし、いや罪悪感さえ抱きます。アスカよくぞ言ってくれたと、ぼくは胸がすかっとしました。だからぼくは、大勢で群れるのは嫌いです。あいにくぼくに興味のあるのは多くの人たちからは理解されないことで、大人数で話すのには適しません。新海誠がいかにすばらしいかとか、エヴァの走りになぜあんなのにも興奮するのかとか、ブロンジットの全作品リストが見たいだとか、そういう話題ってのは、一般の人たちの興味を引かないことなんです。で、ぼくの方はと言えば、多くの人がいる場で話題になるような事柄には、まるで興味がないときているんです。限られた友人たちと、限定された話をしていた方が心も体も休まります。

一般的な事柄について、誰とでも笑顔で話ができる、というのが確かに才能かもしれません。それが本当のコミュニケーション能力なのかもしれません。でもそういう能力を多くの人に要求するのは間違いだし、それができるようになることが成長だとも思えません。社会化されるということではあっても、必ずしも望ましい変化であるとは考えられないのです。

自分に興味のあることしか話せないというのはあまりにも閉鎖的だし、刺激に欠ける、という指摘は当たっていると思いますが、友人とだって完全に興味が一致するわけではないし(それに自分と相反する考えを聞けることもある)、それまで関心の薄かったことにも注目させてくれることだってあります(音楽とか)。しかしそれは、相手が友人だからこそで、興味の対象がまるで別で名前もよく覚えていないような人との会話の中では、かえって刺激を感じることなくストレスだけが溜まるということが起きそうです。

こんなことを書いていますが、ぼくもちょっと前まではもっと友好的で、ある授業などでは、先生との無駄話(主に文学について)が過ぎて、同じ受講生から、ぼくが毎回授業に出ていたら(休みがちだったのです)授業がもっとはかどらなかっただろう、などと言われたことがあります。先生とべらべらしゃべりすぎて、授業を止めていたわけです。

体調を崩し、同時に文学への関心も薄れたせいで、もうこういうことはなくなりましたが、コミュニケーション能力が落ちたというよりは、単に環境と関心の対象が変わっただけで、ぼくはもちろん成長したわけでもその逆でもありません。でも、ひょっとすると先生から見れば、だいぶ「変わった」のかもしれません。

いい加減まとめなくてはいけないですね。
まず、先生たるもの自分の知っている面からのみ学生を判断してはいけない。ほとんどの人は得意分野を持っていて、仲間内でそのことについてなら活発に議論できる。誰とでも如才なくコミュニケーションを取れる才能は万人にとって必要なわけではない。そしてそれができるようになったとしてもそれは望ましい成長とは限らない。

こういうことが言いたかったわけです。長くなりました…