Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

宮崎アニメと「大切なこと」

2008-10-12 01:19:32 | アニメーション
他のところでも書いたことがあるんですけど、後期の宮崎アニメ(ここでは『千と千尋』以降を想定)っていうのは、「突出したシーン」が見られるんですよ。他から浮いているシーンと言い換えてもいいんですけど。例えば『千と千尋』の電車のシーン、『ハウル』の大階段のシーン、「星をのんだ少年」のシーン、『ポニョ』の「ポニョ来る」のシーンなんかは、そういった突出したシーンだと思っています。そこは並外れて感動的だったり、作画が優れていたりするんですが、多くの場合、宮崎駿にとって大切なシーンであることが多いんです。

宮崎駿は『千と千尋』で電車を出すことにこだわりがあったそうですし、ある証言によればあのシーンは賢治の『銀河鉄道の夜』への返答だったようです。また、「星をのんだ少年」については、このブログでも以前紹介したことがあったかもしれませんが、これは宮崎駿が若い頃から抱いていたイメージ、しかもそのイメージを再現したくてアニメーターになったというほどの大切な原初的なイメージで、彼にとっては非常に大切なシーンだったはずなんです。最後に「ポニョ来る」は、NHKの番組でも明らかになったとおり、『崖の上のポニョ』という作品の骨格部分になったシーンです。あのシーンを思い描けたとき、この作品の方向性が見えたようですね。

だから、これらは宮崎駿にとって大切なシーンだったんです。ただ、それを映画の中に出すことには問題があります。例えば「星をのんだ少年」はハウルとカルシファーとの契約のシーンであるわけで、この映画にとって核になる非常に大事なシーンなわけですけれど、でもそこに至る過程がよく分からないんですね。どうしてハウルの過去にソフィーが戻ることができたのか、その説明がないんです。しかも、契約のシーンを目撃したあと、過去へと通じる扉は閉じてしまうわけです。カルシファーに通じる指輪が割れてしまったので、そのせいかなあとは思うんですが、それに対する説明が欠けているわけです。『ハウル』は意味が分からないとか、めちゃくちゃだとか、そういう批判が聞かれましたが、その一因は、こういう説明不足にあったと思うんです。もっとも、ぼくは説明が不足しているからよくない映画だとは思っていなくて、この『ハウル』なんかはぼくの中でのアニメベスト10に入ってくるほどすばらしい作品だと考えているのですが(そもそも特に説明不足だとは感じていない)。

さて、そういう説明不足、大切なシーンをひょっと出してきて、でもそれに対する説明はありませんよ、という態度は、後期宮崎作品に顕著になったと思うんです。事柄を掘り下げずに、剥き出しのまま画面に投げ出す、といった行為ですね。あるイメージを映画の中に出してきて、その前後の脈絡とかを理屈で説明しようとしないんです。千尋が乗る電車っていうのは、あれはいったいなんなのか、説明がないわけです。ぼくらはそういうことは「大切じゃない」と思って無視するわけですが、「大切なこと」か「大切じゃないこと」の区別っていうのは、ぼくらの心の中で行われるんですね。だからある種の人にとっては、説明がないことに首を傾げて、「意味分からん」となるわけです。宮崎駿にとっての「大切なこと」が、自分の「大切なこと」に一致する視聴者は楽しめるのですが、そうじゃない人たちは、おいてけぼりを食ってしまうわけです。

大まかに言うと、後期宮崎アニメでは、彼にとって大切なシーンをバーンと打ち出し、でもそれ自身の、更にはそれ以外の事柄の説明を省いているときがあります。余計な情報を削ぎ落としている、と言っていいでしょう。それは特に『ポニョ』で顕著になりました。前後の因果関係がよく分からなくなっているんですね。全体の流れから明らかに浮いているシーンが挿入されたりするのです。『ポニョ』の船上の若夫婦のシーンとかがそうですね。あとリサの行動なんかはよく分かりませんね。要するに、大切なシーンが出てくるときというのは、それ自身とそれ以外の説明が欠けているか、前後の脈絡から浮いているか(因果関係の面、あるいは出来栄えやトーンの面で)しているわけです。

もちろん、大体において前後のつながりは認められるし、説明もちゃんとなされているのですが、そうなっていないシーンが、後期宮崎アニメには出現し出した、ということなんです。初期の頃はそうではなかったのです。この頃にも大切なシーン、というか重要なシーンはあったわけですが、それへの説明はきっちりなされていたし、全体の流れの中にしっかりと位置付けられていたのです。浮いているシーンというのは基本的になかったですね。後期作品では、そのシーンの存在意義ははっきりしているけれど、でも浮いてしまっている、というシーンがあります。モノクロの映画に突然鮮烈な色が浮かび上がったときのような、まさに出色のシーンというのがあるのです。

初期作品が、重要なシーン(核となるシーン)の説明で他の部分を固めていった、つまり付け足していったとすれば(こういう結末に持っていくためにはこういうシーンを描かなければならない、こういう性格描写をしないといけない、など)、後期作品は、そういう核となるシーンだけを作品に据えて、あとは削ぎ落としていった、というふうに考えられるのではないでしょうか。初期は増やし、後期は減らした、ということです。(これはイメージの話です。後期作品において、突出したシーンをつぎつぎに積み重ねていったと考えれば、後期作品も「増やした」、というイメージができあがります。)

ここで思い出すのは新海誠ですね。特に『ほしのこえ』。この作品では、まさに重要なシーンだけを描いて、その他の部分、つまり映画にとってノイズとなるような部分は、一貫して排除しているわけですから。この作品からは、「君に想いを伝えたい」という唯一のメッセージしか基本的には視聴者は受け取りません。一つであるだけに、剛速球のメッセージです。このメッセージに感応できる視聴者は、これだけ率直にこんなことを言われたことはないので、いっぺんにこの作品を好きになってしまうでしょうが、もしあまり実感の湧かない人だったら、『ほしのこえ』を好きになることはあんまりないんではないかと思います。その意味で、この作品は視聴者を選ぶ作品だと言えますし、また後期宮崎作品と同様の危険性があるとも言えます(「大切なこと」が監督と一致しないと楽しめない)。

ただ、今まで書いてきたことと矛盾するようですが、個人的なことを言えば、ぼくは後期宮崎アニメを見ても、説明不足だとは感じないのです。客観的に見れば、説明が不足しているかなと思うところはあっても、それを主観的に意識して、不満に感じることはこれまでなかったです。よく分からないことがあっても、よく分からないことが起きても、「そんなのどうでもいい」と思ってしまうので。たぶん理屈で見てないからだと思います。宮崎駿と感性が同じだ、などとおこがましいことは言いません。単に、ぼくの頭が論理的にできてはいないんだと思います(おまけに直感も働かない…)。

とまあ、自分のことはおいといて。
後期宮崎アニメっていうのは、細部にこだわって、ここの説明がない、意味が分からんって思うんじゃなくて、大局的視野に立って、映像をただ感じ取るっていうことが大切なんじゃないかと思うわけです。まあ、鑑賞方法は人それぞれですが、そういう見方のほうが楽しめることが多いと思うんですよね。そういうことです。3118字でした。


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