上下巻ですが、一気に読了。まあ一冊あたりのページ数はそれほどではないし、一ページあたりの文字数もそれほどではないから、『罪と罰』を一日で一気に読了したというのとは違うわけです。
村上春樹の初期小説というのは、プロットがかなり大雑把ですね。本書の場合、主要なプロットはただ「ある羊を追いかける」、という一事に尽きています。特に前半は事件の進展どころかそもそも事件が起きていないように見えます。「僕」の人間関係の説明やその彼らとの何気ない会話の応酬によってのみ小説は進行し、かなり読んだ後にふと「そういえばこの小説はまだプロットがないな」と気付く有様でした。ある種の文体(村上春樹特有のカッコイイ文体)に小説は全面的に支えられていて、その点ではプロットを剥ぎ取り言語だけで勝負しようとした前衛小説とも重なる部分があるように思えます。もっとも、両者の小説言語のありようはまるで異なっているのですが。
途中からようやく話が見えてきて、ある羊を追うはめになった「僕」の冒険が小説そのものと読者を引っ張っていくことになります。後半になるとかなり奇態な人物が登場したり、目的の町の歴史が語られたりして小説の中味はバラエティに富むようになるのですが、基本は一つのプロットであり、まるで広々とした空間に一本の道がまっすぐ地平線まで伸びているようなものです。ぼくら読者はその道をただ進んでいけばいい。もちろん、脇には林や小川が見えますが、あまり深入りはしません。
×××
この小説は『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』に続く、「僕」と「鼠」の物語であり、そしてその完結編です。
×××
この小説は細部のリアリティに裏打ちされた現代小説ですが、その一方で非現実的な物語でもあって、言ってみれば、「非現実的なファクターをソフィスティケートされた形態に置き換えて現実の大地にはめこんでいく」(p.100)ような物語でもあります。いや、後半はかなり非現実的な方向へ小説は逸脱してゆくので、そう言えるのは中盤までかもしれません。
村上春樹はよく比喩を使いますが、それは少々変わっています。「例えばここにひとつの概念がある。そしてそこにはもちろんちょっとした例外がある。しかし時が経つにつれてその例外がしみ(傍点)みたいに広がり、そしてついにはひとつの別の概念になってしまう。そしてそこにはまたちょっとした例外が生まれる――ひとことで言ってしまえば、そんな感じの建物だった。」(p.122-123)これは「比喩」とすら言えるかどうか分からないのですが、非常に奇妙な説明です。こんな風に建物を形容する人はほとんどいないのではないかと思います。しかし村上春樹の文章というのはこんな感じで、ある対象を正確に描写することを心掛けているというよりは、それの印象、雰囲気みたいなものを現出させようとしているように見受けられます。細部にも忠実な、的確な描写もあるし、そういうものの方が多いとさえ言えるのかもしれないのですが、けれどもそれにしたって結局はその場やそのときの思考の雰囲気をよりよく表現するためのような気がします。
何かの真相、真実というものにはどんなに言葉を費やしても到達できるものではありません。それをどんなに描写しようとしても、具体的にも抽象的にも表現することはできないようです。だから、それのもつ雰囲気やそれの周辺を描写することは、見当外れのように見せながら、実は一番真実に近づく方法なのかもしれません。それは、ちょうど後ろ向きに歩きながら中心へ進んでゆくようなものです。脇を見る振りをして、しかし近づいているのです。
このような村上春樹の手法はあまりに文学的と言えるでしょう。芳醇な文学的香気が立ち上るようです。でもだからと言って難解な用語を振り回すわけでもなく、通常の話し言葉を使って表現しているところが、人気のある由縁なのかもしれません。文学的香気と言うよりは、文学的スモッグと言った方が適切かもしれません。それとも朝靄のかかった文学性?
ストーリーテリングで読ませるというよりは、文体で読ませるタイプの小説家ですね。ただ、エピローグで少し泣きそうになりました。なんでだかは分かりませんが。
村上春樹の初期小説というのは、プロットがかなり大雑把ですね。本書の場合、主要なプロットはただ「ある羊を追いかける」、という一事に尽きています。特に前半は事件の進展どころかそもそも事件が起きていないように見えます。「僕」の人間関係の説明やその彼らとの何気ない会話の応酬によってのみ小説は進行し、かなり読んだ後にふと「そういえばこの小説はまだプロットがないな」と気付く有様でした。ある種の文体(村上春樹特有のカッコイイ文体)に小説は全面的に支えられていて、その点ではプロットを剥ぎ取り言語だけで勝負しようとした前衛小説とも重なる部分があるように思えます。もっとも、両者の小説言語のありようはまるで異なっているのですが。
途中からようやく話が見えてきて、ある羊を追うはめになった「僕」の冒険が小説そのものと読者を引っ張っていくことになります。後半になるとかなり奇態な人物が登場したり、目的の町の歴史が語られたりして小説の中味はバラエティに富むようになるのですが、基本は一つのプロットであり、まるで広々とした空間に一本の道がまっすぐ地平線まで伸びているようなものです。ぼくら読者はその道をただ進んでいけばいい。もちろん、脇には林や小川が見えますが、あまり深入りはしません。
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この小説は『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』に続く、「僕」と「鼠」の物語であり、そしてその完結編です。
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この小説は細部のリアリティに裏打ちされた現代小説ですが、その一方で非現実的な物語でもあって、言ってみれば、「非現実的なファクターをソフィスティケートされた形態に置き換えて現実の大地にはめこんでいく」(p.100)ような物語でもあります。いや、後半はかなり非現実的な方向へ小説は逸脱してゆくので、そう言えるのは中盤までかもしれません。
村上春樹はよく比喩を使いますが、それは少々変わっています。「例えばここにひとつの概念がある。そしてそこにはもちろんちょっとした例外がある。しかし時が経つにつれてその例外がしみ(傍点)みたいに広がり、そしてついにはひとつの別の概念になってしまう。そしてそこにはまたちょっとした例外が生まれる――ひとことで言ってしまえば、そんな感じの建物だった。」(p.122-123)これは「比喩」とすら言えるかどうか分からないのですが、非常に奇妙な説明です。こんな風に建物を形容する人はほとんどいないのではないかと思います。しかし村上春樹の文章というのはこんな感じで、ある対象を正確に描写することを心掛けているというよりは、それの印象、雰囲気みたいなものを現出させようとしているように見受けられます。細部にも忠実な、的確な描写もあるし、そういうものの方が多いとさえ言えるのかもしれないのですが、けれどもそれにしたって結局はその場やそのときの思考の雰囲気をよりよく表現するためのような気がします。
何かの真相、真実というものにはどんなに言葉を費やしても到達できるものではありません。それをどんなに描写しようとしても、具体的にも抽象的にも表現することはできないようです。だから、それのもつ雰囲気やそれの周辺を描写することは、見当外れのように見せながら、実は一番真実に近づく方法なのかもしれません。それは、ちょうど後ろ向きに歩きながら中心へ進んでゆくようなものです。脇を見る振りをして、しかし近づいているのです。
このような村上春樹の手法はあまりに文学的と言えるでしょう。芳醇な文学的香気が立ち上るようです。でもだからと言って難解な用語を振り回すわけでもなく、通常の話し言葉を使って表現しているところが、人気のある由縁なのかもしれません。文学的香気と言うよりは、文学的スモッグと言った方が適切かもしれません。それとも朝靄のかかった文学性?
ストーリーテリングで読ませるというよりは、文体で読ませるタイプの小説家ですね。ただ、エピローグで少し泣きそうになりました。なんでだかは分かりませんが。