稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№111(昭和63年元旦)

2020年04月28日 | 長井長正範士の遺文
新年おめでとうございます。



旧年中は格別のご指導ご鞭撻を頂きまして、未熟乍らも№110まで勉強させて頂きました。これ偏らに朝稽古の皆様方のお陰で続けられたものと感激を新たにしております。ここに昭和63年の新春を迎えるに当たりまして、更に初心にかえり、又いちかけから(№111から)勉強してゆきたいと思っておりますので何卒よろしく旧倍のお励ましの程お願いします。

〇さて今からもう10年余りになりますか、お正月に吉田誠宏先生のお宅に新年のご挨拶に参りました時のお話を申し上げたいと思います。先生は、にこにこして「お々、おめでとう。よく来てくれた。」と言うて、早速二階の窓をあけられ「おい、長井、あの段になっている岩をよく見るんだ。丁度、眼の届くあの岩板が湿っているだろう。その湿り汁が、いつとは無しに、岩のふちから小さいつゆとなって、ホラ見えるだろう、あのつゆが、いつのまにか大粒のつゆとなり、ポターンと下の岩かどに落ちていっているだろう。落ちたつゆは、アッというまに岩面ににじんで形なく湿りけとなってポタッと落ちて下のあの草むらに消えてなくなって、下の庭に水たまりとなっている。よく見てみよ、よく判るだろう」私「ハイ、よく判ります」「そうだろう、俺はなー、お前がくるまでこの窓からそれを眺めて剣の極意を追窮してたんだ、さあここえ座れ、窓閉めて」と先生はどかっと自分の席へ座られ「俺はあのつゆに教えられていたんじゃ」と前おきにして次のように話されました。

〇お前さっき(先程の意)よく判ると言ったが、つゆがポタンと落ちてハッとした瞬間、消えて無くなる、つゆの命のはかなさぐらいしか判っとらんと思うが、どうじゃええか(よいか)俺も始めはそう思ってじいっと思いをこらして観ていると、ハッと気ずいたんだ。それはなー、一番上の岩の湿りが、いつとはなしに露となって落ちるんだが、その露となるまでの間に、わずかな湿り気が、どれだけ苦労して形ある露となるか、その苦労を俺の無から有に変る心境に照らし合せてフッと思い立って下に降り、道場へ入って、俺の作った打込み用の人形に向って竹刀を構え、無の境地でつっ立っている人形に、思わず打てるか、うーんとうなっている所をお前は何遍も見ているだろう(※)。

それが打てんのじゃよ。打とうと思えば有心で打つことになる。これじゃいつまで経っても剣道を極めることが出来ん。相手はたかが人形で隙だらけだ。打てば何んぼでも打てる。然しそれでは打とうと思って打つから本物じゃない。いつかお前に言ったろう。相手の隙にさそわれて思わずそこへ打って出た。こうなけりやならん。と言われてきざみ煙草を一ぷく吸われた。あと続く。

※印のところ。

時に夏など、私はいつも早朝に出かけて行って先生の道場へ直接訪問した時、いつも限って人形に向ってうなっておられた。人形の無と対話するためには無の境地でなければ・・・と苦しんでおられたわけである。
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