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稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

剣友とムカデシャットの拡販会議(2019年11月9日)

2019年11月10日 | つれづれ
13時頃にJR京橋駅北口で待ち合わせということなので、
午前中の稽古も、夕方の一刀流の稽古も、夜の稽古も全部休むことにした。

食事をしながら仕事の打ち合わせなのだが、
呑兵衛2人が飯だけ食って終るはずも無く、
まあ1杯と頼んだビールがすぐ空になり、おかわり頼むとなって、
あとは冷酒の追撃が続く結果となった。

ムカデシャットは紀州ひのき屋のO田社長が開発した商品で、
ムカデの忌避にはこれ以上のものが無いというぐらい優れた商品である。



強みは、まず他社の類似品より強力であること。
そして寝室や居間で使えること、乳幼児やペットにも無害であること。
効用が無くなったら土に撒いて処分することが可能であること。
使わない分は密封しておけば翌年も問題なく使えること。
屋外用と併用すれば効果がバツグンであることなど。。。。

弱みは原材料が天然の植物性ハーブで大量製造に向いていないのと、
製造が紀州ひのき屋、販売が私の店が中心なので販路が小さく、
世間にほとんど知られていないということ。
あとは冬場の需要が少ないということ。

とんぼ堂楽天市場店
https://item.rakuten.co.jp/tombodo/977423/#977423

5月にも拡販会議をしたのだが、
今年は台風と大雨の影響で売れ行きは芳しくなかった。

来年はもう少し売りたい。
やってなかった対策も色々やってみようということになった。

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三重の尾鷲のO田社長との縁はネットである。
20年近く前、ネットで知り合った剣道家が京都の武徳殿で稽古会を行った。
その後何回か会い、それが元で商売に結びついて今に至っている。

彼は私と同い年だが肝っ玉は私の倍ほどもある。
38才で七段に受かったというから剣道の腕も確かで滅法強い。

話は仕事から剣道の話になり大いに盛り上がった。
仕事頑張ろう、また稽古しようということで解散した。


(京橋の居酒屋で話も酒も進む進む)


(帰りに駅前でO田さんとツーショット)
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映画「ベロニカとの記憶」を観て

2019年11月02日 | つれづれ
ネット配信で映画「ベロニカとの記憶」を観た。

ベロニカとの記憶公式サイト
https://longride.jp/veronica/



映画.comから説明文を拝借
https://eiga.com/
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2011年のブッカー賞を受賞したジュリアン・バーンズの小説「終わりの感覚」を、ヨーロッパや日本でもヒットを記録したインド映画「めぐり逢わせのお弁当」のリテーシュ・バトラ監督が、「アイリス」のジム・ブロードベント、「さざなみ」のシャーロット・ランプリングらイギリスの名優を迎えて映画化したミステリードラマ。60歳を過ぎ、ひとり静かに引退生活を送るトニーのもとに、ある日、見知らぬ弁護士から手紙が届く。それによれば、40年前に別れた当時の恋人ベロニカの母親だという女性が、トニーに日記を遺しているという。思いもよらない遺品から、トニーは長い間忘れていた青春時代の記憶が呼び覚まされていき、若くして自殺した親友や初恋にまつわる真実をひも解いていく。
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主演者の設定が自分と同じ年齢層であり色々と考えさせられた。
最後のほうの字幕に書かれた主演者の言葉が胸に突き刺さる。

人は人を語る時
過去を装飾し 都合よく編集する
長生きすれば 異を唱える証人も減る
それは事実と言うより“物語”だ
自分を納得させるために書きかえた物語・・・



彼は偏屈で頑固で自分勝手で我儘だ。
それは自分自身にも当てはまる。

昔のことをよく憶えているつもりでも、
その記憶は自分の都合の良いように美化されていて、
自分だけが被害者意識を持っていたり、
知らず知らずの間に人を傷つけていたり、
あるいは、すっかり記憶から消し去っていたりするものだ。

自分の人生の中で、自分の行動の良い部分はより美化され装飾される。
その何倍もの、自堕落で、ひねくれた気持ちと行動は記憶から都合よく消されてしまう。

けっきょく思い出というものはそんなものかも知れない。

自分の人生を振り返ってこれからもブログを書くだろう。
しかしそれは編集された「願望としての自分史」なのかも知れない。

映画の中の、彼の元奥さんと娘さんの優しさで救われた気持ちになります。
こういう映画は若い人はわからないだろうな。60歳過ぎた人にはお勧めの映画です。

いや、もっと年老いた、長生きし過ぎた老人には理解出来ないかも知れない。
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閑話「三男の送別会」と「親指のトゲ」

2019年10月29日 | つれづれ
---三男の送別会---

三男が11月から一人暮らしをするという。
会社に近い大阪市内。ワンルームマンション。

実家にいると甘えてしまう部分もあり、
精神的にも独立したいという意味もあるのだろう。

家族だけで外食するのは珍しい。
前回は長男が嫁と一緒に帰ってきた5月だったかな?
この4人だけで出かけたのは初めてかも知れない。
スシローでも、我が家にとっては大変なご馳走である。


(順番待ち中、手前右側が三男、奥が女房と次男)


(乾杯!)


(懐が痛いのでお酒は控えめにした)


(56皿+パフェ1つ)


(今回は家族で食ったので経費にはならない)



---親指のトゲ---

左手親指にトゲが刺さったみたいだ。
まったく記憶が無いのだが、だんだん痛んで膿みだした。

ある程度、膿がたまったので針でチクチクして膿みを搾り出す。
経験ではこれで良くなるはずだが違和感が残っていた。
川上村の稽古でも少し傷みと違和感があった。
もちろん稽古中はすっかり忘れているが・・・


(親指の腹の真ん中が白く固くなって熱を持っている)

寝る前から痛かったが、朝から熱を持ったように痛み出す。
すでに自分で針でチクチクして治らなかったので医者に行くことにした。

医者曰く「竹や木材、金属なら、膿むようなことはあまり無い」
「膿むのは魚の骨や、カニやエビの殻、昆虫の足などが刺さった場合が多い」
そう言われたが、いずれも記憶に無い。いったい何が刺さったのだろう。

麻酔をして、注射器の先、ピンセットか何かでゴソゴソされる。
目をそむけていたのでよくわからない。私はいたって根性が無いのだ。
拷問には耐えられないほうだと思う。切腹も無理だろう。

冷や汗が出て、手を強く握り締めていたら「もっと力を抜いて」と言われた。

何やら剣道の稽古みたいだな・・と思いながら痛みに耐える。
いや痛いのは最初の麻酔注射だけで、あとはイジられる嫌な感じがあるだけ。
自分の指の中の肉を、小さな鳥がついばんでいる感触がする。
思わず想像してしまい、最後まで冷や汗いっぱいだった。

看護婦さんには3回も「大丈夫ですか?」と聞かれた。
ああ、我ながら情けない。

「刺さったものはよくわからなかったけど、周辺ごと取ったので大丈夫だと思う」
「痛みが続くのであればまた来なさい」ということで終了した。



水曜日の長正館の稽古までには治っていますように。
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灯油ランタンのオイル漏れ修理

2019年10月08日 | つれづれ


50年前の灯油ランタン。昔、次兄から貰った古い物。
最近は毎晩のように工房で灯しているが妙に灯油臭いのだ。
灯油が漏れている感じはしないので臭いのは古い灯油のせいかと思っていた。

灯油が切れたので裏返して見てみたら小さなサビの部分がある。
ためしに目打ちで突っつくとスポッと穴が空いた。
あれれと周囲を突っついていくとどんどん穴は広がる。
半世紀も眠っていたので中はボロボロなのだろう。


(最初は上の小さな穴一つだけだと思っていた)

さっそくハンダで修理することにした。
まずは周辺をリーマーで削って下地を出した。
用意するのはフラックスと金属加工用のハンダとハンダごて。
フラックスをを塗って60wのハンダごてでハンダを溶かし穴の周囲まで広げた。
あとはフラックスを水で洗い落して完成。



完璧と思ったので灯油を入れてみたら僅かに滲んでくる。あららやり直し。
ハンダ吸い取り器でハンダを吸い取り、リーマーを使ってやや広めに下地を出す。
何だか穴は大きくなったみたいだ。で今度こそ完璧。


(だんだん大きくなった2回目の穴)

ところがマシになったとは言え、ほんの僅かに灯油が滲みだす。
で、ハンダで埋めるのは止めて板金加工をすることにした。

工房にあった0.5mmの銅板を適当に切ってヤスリで形を整え予備ハンダする。
灯油ランタンには銅板より大きめに下地を出した。
ここでもう2つの穴を発見する。穴はだんだん多くなり大きくなった。

ランタン側に予備ハンダを行い、銅板を合わせて溶かし込んでいく。
思ったより大きめの修理になったが完璧だと思ったので水で洗って完了。


(周辺を探ると穴が大きくなって増えていく)


(銅版を切って穴に合わせる)


(合わしたところ)
(左上の穴は新たに発見した穴で、これはそのままハンダで塞いだ)


(本体に予備ハンダをする)


(銅板にも予備ハンダ、ハンダ作業は黒いゴムマットの上でする)


(胴板を裏返して乗っけてから溶かし込んでいく)


(溶かし込んだら水で洗って完成)


(良い感じに灯っている)

灯油を入れて火を点けて確認したが今のところ大丈夫のようだ。

昔から古い物を修理して使い続けるのが好きだ。
我が家には大事に使っているわけでは無いが妙に古い物があったりする。
私に本格的な修理は無理だが簡単な修理なら出来る。
簡単な修理で寿命が延びるならながく使ってやりたいと考えている。
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黒板アート(2019年9月30日)

2019年10月02日 | つれづれ
生駒高校の同級生で今でも付き合いのあるY澤君。
9月30日の夕方、ラインで黒板アートの絵を送ってきた。

「明日から10月なので後ろの黒板にこんな絵をチョークで書きました」



彼は奈良県の現役の小学校の先生である。
生駒高校では私とは剣道部でも一緒(すぐに止めたが)だった。

高校時代から漫画はよく描いていた。
絵も上手だったとは知らなかった。まあ一緒か。

「学級の子供たちが喜ぶのでついつい書いてしまいます」
とあるので、きっと毎年毎年せっせと描き続けているのだろう。
黒のチョークも売っているらしい。

定年後も延長して働いているということは良い先生なんだろう。

私も若干のイラストは描くが絵の才能は無い。
頭の中のイメージを自分の手先だけで正確に表現することが出来ないのだ。

こういう先生がいると学校も楽しいだろうなあ・・・

以上、あまりに見事なのでここに紹介しておきます。
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私はこれで東亜特殊電機(現 TOA)を辞めました。

2019年09月24日 | つれづれ


東亜特殊電機の中谷社長は「私たちの会社は音を売る会社です」と言われた。
それに感銘を受けて「この会社で精一杯頑張ろう」と思った話は昨日書いた。

そんな会社をなぜ辞めてしまったか?

原因の一つは「蟻カード(アリカード)」にある。
お客様の生の声、現場の声は、製造する側に反映しなければいけない。
という中谷社長の声は「蟻カード」という情報収集活動制度にも現れた。

ある日、名刺の大きさの「蟻カード」が営業職全員に配られた。
蟻のマークのトーア蟻カード。
お客様の声、製品へのクレームや改善点、新製品の提案など、
何でもいいから蟻のように本部(宝塚市)に送れという制度だ。

小さな事例でも、数を集めれば、それは大きな力となると言うわけだ。
蟻カードは小さいので、たった一言のメモでも構わない・・と言われたのだ。
良い提案があって「おや?」と思ったら、必ず折り返し連絡します・・と言われたのだ。


(工房を整理中に輸送箱から出てきた書き損じ未提出の蟻カード)

私は喜んだ。
秋田という僻地(秋田の皆さんごめんなさい)にいて、
たった一人で何でもこなしているが本部が何をしているのかさっぱりわからない。
組織の末端にいた私にとって蟻カードは本部と唯一の情報の架け橋のような気がした。
どう使われるかわからないが、私は情報を送り続けてやるのだと決心した。
それが中谷社長の言われた「音を売る」ということに繋がるのだと。

自主目標1日1件だが数枚は書いた。かかさず毎日書いていた。
けっこうくだらない内容もあったかも知れない。
でも、県や市町村の役場、設計事務所、電気屋、電気工事屋など回れば顧客の要望は山ほど聞く。
秋田県は広く運転時間も長く、運転中にあれこれ考える時間もたっぷりある。
テレビの放送も少ない秋田では駐在所に帰ってからも時間はあった。
蟻カードで書き切れない事はレポートとしても書いて提出した。
毎日書いて、盛岡営業所に持って行き、月に1度、まとめて本部に送ってもらっていた。
何か一つぐらいは本部の担当者の目に留まることを信じて・・・

そんなある日、秋田県湯沢市の電気屋さんから
店頭のイベントに参加して欲しいと要望が来た。
私は新発売の出力10wのカラオケのデモ機を持参した。
店の前には松下電器(現パナソニック)の10wカラオケも展示してある。
何となく「音質とパワーを比べてみよう」という話になった。
私は「音響専門メーカーの製品が負けるわけが無い」と自信たっぷりだったのだ。

結果は惨敗。パワーも出ないし音質も悪い。
おまけにデザインまで悪ければいいとこ無しである。
私は少なからずショックを受け、その事を蟻カードに託した。

数ヵ月後に同期の結婚式が大阪であった。
寝台列車で大阪に戻って久々に会う同期たちと話をした。
何となく蟻カードの話になり私は毎日1枚書いていることをやや自慢げに話した。
すると経営企画室の同期が「あんなん見もせんとゴミ箱行きやで」と言ったのだ。
おまけに「全国で書いているのは君だけや」とも言われた。

私は大変驚き悲しんだ。

秋田というか日本海側の冬は暗い。
11月から3月までは太陽はほとんど顔を出さない。
景色はモノトーンで白と黒と灰色だけの街である。
雪の暮らしには慣れてはいたが太陽の無い暮らしには慣れなかった。

女房は元社員(青森出張所)なので無報酬で秋田駐在所で手伝ってくれる。
けっこう大変で、それが原因なのか過労で第一子を流産してしまった。
真冬の秋田市民病院へ毎日仕事帰りに見舞いに行く時の侘しさと無力感。
親戚も無く剣道以外での付き合いもほとんど無かった。孤独だった。
夫婦そろって使い捨ての駒になったような気分だった。
仕事に対しての情熱はその時から急激に冷めていったのだ。

会社に対しての失望に加え、太陽が顔を出さない毎日と、
女房の入院で、私は若干の鬱状態になっていたのかも知れない。

女房が退院し、それからしばらくして会社に辞表を提出した。
もっとやりがいのある仕事をしたかった。将来に光が欲しかった。
引き止められもしたし辞めて何のあても無かったが迷いはしなかった。
まだ20代。秋田で一人で何でもやってきたのだもの・・という思いだ。

それから千葉に引越し、早稲田大学でシステム工学を1年間勉強し直し、
そしてホワード株式会社東京本社に入社し10年、その後大阪勤務になった。
大阪で10数年、散々な目にあってホワードを辞め、独立して今に至っている。

蟻カードで希望に燃え蟻カードで打ち砕かれた。
蟻カードが無ければそのまま東亜特殊電機に居たのだろうか。
まあそんなことは無いとは思うが工房の片付けで昔を思い出した。

1000キロ離れた東亜特殊電機の本部に向けて、ひたすら信じ、
読まれもせぬ蟻カードをせっせせっせと書き続けた頃が妙に懐かしい。
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東亜特殊電機(現 TOA)で死ぬか思った経験

2019年09月23日 | つれづれ

(勤務時代のTOAの輸送箱、工房の片付け時に出てきた)

昭和53年から昭和59年まで東亜特殊電機株式会社(現在はTOA)に勤めた。
日本大学の生産工学部電気工学科を卒業し、初めて就職した会社で、
秋田県の担当となり、失敗を繰り返して仕事のノウハウを覚えていった。
営業職だったが、機器の修理、弱電設備の設計と製図、現場での工事など、
何でもこなした(こなさなくてはならなかった)人生の基盤とも言うべき会社である。

個人的にも、岩手県盛岡市で剣道を再開し、社内結婚もしたので、
僅か6年間の勤務だったが、いまの私の人生はここで培ったと言って良い。

東亜特殊電機株式会社は音響機器、平たく言えば拡声器の製造メーカーで、
選挙用のスピーカーから、学校やビルの放送設備、カラオケ、ホール音響、
議会用の議場アンプ、マイクなど幅広い製品を作って販売していた。

入社した時の社長は、中谷太郎という2代目創業者で、
新入社員の研修の場で一度だけ直接お話を伺ったことがある。
中谷社長はいきなり「皆さん、うちは何を売っている会社ですか?」と聞いた。
我々新入社員は突然の社長の問いに戸惑いつつも、
「スピーカーとアンプです」などと答える者もいた。

中谷社長はうんうんと頷き、一呼吸おいたあと、
「皆さん、私たちの会社は音を売る会社です」と言われた。
そしてアンプやスピーカーを売るということは良い音をお客様に届けるということ。
良い音をお客様に届けるには良い商品を作り続ける努力も必要だが、
お客様の生の声、ご要望を設計製造するほうに持ち帰ってこなければならない。
研修を終え色々な部署に配属になると思うが、
常に「音を売る」という基本を忘れてはならない・・とそう言われた。

私はひどく感銘を受け、良い会社に入れた喜び、
そして良い仕事をしていくぞと使命感に燃えたのを覚えている。

配属は岩手県の盛岡営業所。
秋田県担当となり毎週盛岡から秋田に出張した。
移動距離は1週間で400キロ~500キロ。高速道路の無い時代である。
やがて移動が大変だと秋田に駐在することになり、たった一人で駐在所勤務になった。
秋田駐在時代は今から考えれば自分自身に至らぬ点も多いのだが、
週休2日なのに休みをほとんど取らなかったり、深夜にカラオケの修理に出向いたり、
弱電の建築設備設計図面を2晩も徹夜して書き上げたりして一生懸命だった。

電気工事会社、電材会社、電気器具卸商社を中心に活動し、
設備設計事務所、秋田県庁から市町村の役場まで活動範囲は広かった。
卸商社と同行して町の電気屋さんなどキャンペーンで回ったことも多い。


(輸送箱と一緒に出てきた黄ばんだ名刺)

今でも「よくあんなことやれたよなあ」と思うのは、
ある小学校の体育館の天井アリーナスピーカーの取り付けである。

秋田県の担当になってしばらくした時に、
新築小学校の工事現場の東北電気工事の監督から電話があった。
「トーアさん、天井スピーカー付いてないけどどうするの?」
現場に駆けつけると出来上がった体育館のアリーナ中央にあるべきスピーカーが無い。
前任者が工事の手配を忘れていて、アリーナスピーカは倉庫に眠っていたのだ。
体育館完成後でも取り付け可能な壁掛け型スピーカーと勘違いしてたのだろうか?


(参考図:体育館の天井中央にあるのがアリーナスピーカー)

今から思えばどうして上司(営業所長)に相談しなかったのだろう。
金さえ出せば工事をしてくれる業者はあったはずなのに。

ともかく自分で解決しなければと考えた。
私はすぐに1升瓶2本を買って包んで工事現場に行き、
工事の総監督に酒を手渡し、鉄骨の足場を一晩貸して欲しいと交渉した。
総監督は「傷でもつけたら承知しないからな」と言ったが何とか了承してくれた。

提携している弱電屋さんは電気工事は不得手で見守るばかり。
その弱電屋さんの友人が電気工事屋だったので私と2人で足場を組んでいった。
天井アリーナまでは何段あるのか忘れたが、体育館の中央天井はかなり高い。
足場は下は広く作り、上に行けば塔のようになる。

高所恐怖症の私は2段目でも足がブルブル震えている。
1段組み立てるごとに足場にしがみついて震えが止まるのを待っていた。
ハシゴは無い。次の段に登るには足場の外側をよじ登るしか無いのだ。

それでも少しは慣れるもので、
やっとの思いで天井まで足場を組んだがそれはまだ序盤でしかない。
次にスピーカーの取り付け金具を2人がかりで時間をかけて上に上げた。
いったん降りて、次に大型の電気ドリルとコードを担いで登っていく。
一人がスピーカー金具を抑え、もう一人が天井の金具に穴を開ける。
火花が顔に降りかかるが防御用のメガネも無い。

何とか金具を取り付け、いったん下まで下りて、
体育館用のコラム形の大型スピーカ4個を分けて上まで上げる。
スピーカーの結線が終わったら最後に上から足場を分解していく。

作業は夜の9時ぐらいから明け方までかかった。
足場を元の置き場まで持っていく時には足がもつれていた。
ズボンもネクタイもワイシャツもドロドロになっていた。
心身ともに疲れ果て、次の日は仕事にならなかったのを覚えている。

私は本当に高いところは駄目で少し高いところだと足がすくむ。
それでも体育館の天井アリーナに向けて足場を組んでいく時は、
使命感で無我夢中で上まで登っていった。

いま思い出しても手に汗を握るほどである。
落ちて死んでもおかしくはなかった。
誰も知らない作業。やり遂げても誰にも褒められないのに。

まだ若い23才か24才だったからこそやれたのだと思う。
あんなことはもう二度とごめんだ。
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指先に庭の木のトゲが刺さった(2019年9月17日)

2019年09月18日 | つれづれ
庭の草が生い茂り庭木の枝も伸びてきたので、
女房と二人で庭の手入れをしたのは暑い盛りの9月1日だった。

軍手をすれば良かったのだが面倒だったので軍手はしなかった。
素手でつる草や小さな枝など引き抜いていたら左手の指先に痛み。
枝のトゲが刺さって小さく血が出ていた。

トゲは引き抜いて血を絞り出しておく。
あとは水で洗ってカットバンをしておいた。

ところが数日たっても痛みは治まらない。
「ああ、トゲが残ってたんだな・・・」
虫眼鏡を使って針でちくちく刺したが埋没していてよくわからない。
カッターナイフを取り出して少し探ったが痛くて止めた。

「そのうち膿んで出てくるだろう」と長年の経験で判断して放置した。
普通は黄色く膿んで、1週間もたてば膿みと一緒にトゲは出てくる。

そう思いながらすでに3週間が経ってしまった。
痛みは軽くなったが指先に違和感が残る。
気持ちのよいものでは無い。

で、職場近くの毎月一回通院している広谷整形外科へ行った。

高尿酸値と高血圧の薬をもらうためだがついでに聞いてみた。
「先生、小さなトゲが刺さったままなんですが大丈夫ですかね?」

先生は指先を見て「ちょっと切ってトゲ探って取りましょか?」

瞬間、冷や汗がどっと流れ始めた。
武道をやっているくせに私はすこぶる弱虫だ。
切腹など絶対に出来ないタイプだ。
死ぬなら突撃して一息に討ち死にするほうが良い。

結局、支障が無ければ、そのままにしても特に問題は無いらしい。

トゲはそのまま皮膚の中に残るか、
いずれトゲの周りが固くなるかも知れない。
そうなれば探りやすいのでその時に判断しましょう
・・・ということである。

放っておけば、何か毒素が回るのでは無いか?
破傷風菌か何かで死んでしまうのでは無いか?
トゲが深く入って、全身を回って心臓などの臓器に刺さらないのか?

いずれも「そんなことはありません」と大笑いされてしまった。

とりあえず一安心。


(刺さった部分が僅かに色が変わっているが写真ではよくわからない)

ふと、小学校(奈良女子大学文学部附属小学校)の、
担任の倉富先生に書いた詩を褒められたのを思い出した。
倉富先生に褒められたのは後にも先にもこれ一件なのでよく覚えている。

“小さな怪我だけど、嫌だなあ”

短いが、無駄が無くてとても良いとのこと。
私もクラスの皆も「????」だったと記憶している。
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洗濯機から水漏れ・・

2019年09月03日 | つれづれ


家の洗濯機から水がだだ漏れで洗面所が水浸し。
日立のNW-7GY。ひっくり返して調べても何とも無い。

念のため、排水ホースを抜いて外して水を入れても漏れは無い。
あれれ?おかしいなあ・・と念入りに点検したら、
洗濯機側の根元のキワのキワ部分が数ミリ破けていた。


(赤丸の、接続のすぐキワ部分に小さな裂け目があった)

あんな小さな裂け目でも水は漏れるんだなあ。
振動で破けてきたのだろうなあ。。

保証書出して見てみたら、最近買ったばかりだと思っていたのに12年前の製品だった。
月日が流れるのは異常に早いのだ。トシ取るわけだわ。。。

白のビニールテープをぐるぐる巻いて応急修理は完了。
女房に聞くと、お湯取り機能は以前から壊れているしエラーも最近出はじめてると言う。
「そんなん今初めて聞いたで」「壊れた時にすぐ言わんとアカンがな~」

家電製品の寿命は10年と言われているが自分的には15年は持って欲しい。
今回は応急処置だけした。今度おかしくなったら買い換えるつもり。

そのうち息子も出ていくので夫婦ふたりだと大きなもので無くても良い。
新婚の頃は独身時代使っていた2槽式2.2キロの手動式の洗濯機だった。
「あれで子供3人のオシメ洗いは大変だったのよ」と女房は言うが、
それも今言われても「知らんがな~」の話である。

確かに全自動の大型洗濯機は便利だ。
いまさら洗濯板とタライで洗濯しろと言われても無理だろう。

世の中何でも全自動の時代である。
自分的には「馬鹿が余計に馬鹿になる」気がして大反対だが、
洗濯機の全自動だけは大いに感謝している。
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友人の荒井康充君が亡くなった。(2019年8月28日)

2019年08月29日 | つれづれ


小学校同級の友人から「荒井君、亡くなったって知ってる?」
って電話があったのは27日の夕方だった。

ちょうど「小さい 白い にわとり(昭和36年の国語の教科書から)」の
ブログを書き終えたところで、小学校時代を思い出していたところだったので、
本当に驚いてしまった。

小さい 白い にわとり(昭和36年の国語の教科書から)
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20190827/

文中にも書いた、奈良女子大学文学部附属小学校は、
1年生から6年生までクラス換えは無く、そのまま6年間持ち上がる。
だから、卒業時の38名の名前は、今でも順番に全員の姓名を言えるほどである。
名前を聞けば、性格も思い出も、走馬灯のようによみがえる。

荒井康充(あらいやすみ)は、小学校、中学校、高校と、
ずっと一緒に過ごした幼馴染である。
昭和30年10月11日生まれ。

2017年の夏頃に膵臓癌で余命半年と宣告された。
2019年8月26日に亡くなる。28日通夜、29日告別式。

高校2年生の修学旅行の班「7組1班」は今でも時々集まる仲間だが、
荒井は班でこそ無かったが、付かず離れずずっと付き合ってきた。

「7組1班」のラインに先ほど書いた内容
-------------------------
昨日はお疲れ様でした。
昨夜は、家に帰ると誰も居なかったので、ロウソクを灯し献杯。
荒井のことをあれこれ思い出していました。
小学校時代のあれこれ。
中学校では同じ柔道部で稽古したこと。
高校時代も剣道部の横で荒井は柔道の稽古していたなあ。
それから付き合いあったっけか?
荒井の自宅でマージャンしたのは大学の時だっけ?

40過ぎに心斎橋で二人で酒を飲んだこと。
50過ぎに偶然、職安であったこと。
小学校1年生から今まで、ずっと付かず離れずの荒井でした。

小鳥飼って可愛がってたって聞いた時に涙が出ました。
あいつ、ええかっこしいで、弱音は見せなかったけど、
きっと寂しかったんやと思います。
昨年の1月20日に生駒で飲んだことも、ラインで皆と繋がっているという話も、
荒井の妹さんは知ってましたよ。嬉しそうだったって。

癌やというのは知らなかったけど、
ああやって、突然荒井のこと思い出して、電話番号調べて連絡したのは、
今から考えたら虫が知らせたみたいなものかも知れない。
ホンマにご冥福をお祈りします。(;_;)
-------------------------

友人が亡くなるというのは本当に辛いもので。
みんな、元気で長生きしてくれって、心からそう思います。


(小学校6年生、右端が私、中央が荒井)


(中学校の柔道部、右上が私、右下が荒井)

生駒高校ミニ同窓会(2018年1月20日、「7組1班」+荒井で集まった)
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20180121/
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工房・・・静かな時間

2019年08月21日 | つれづれ
ともかく安らぐ部屋である。
食事が終わって就寝までの時間はここで過ごす。

テレビは嫌いなので工房にテレビは置いていない。
というか、地上波がデジタルに変わった日から私のテレビには何も映らない。
もっとも、22才で独り暮らしをし始めてから42年間、NHKとは契約していない。
もっぱら情報は新聞とネットからである。

音楽を聴きながらパソコンをいじっている。
部屋の明かりは小さな吊り下げ電灯と百均で買った電池式ローソク2個。

ほどよくエアコンが効いた工房で、
バーボンのロックなど飲みながら静かな時間が流れている。

私の至福の時間

いろいろ考えている時が多いのだが、
何も考えたくない時もたまにはある。
眠ったままのオーディオを設置するかどうかは思案中。


(暗くして、小さな電灯と擬似ローソク2個)


(百均の電池式ローソクは安全で雰囲気も良い)


(電球の笠は使い捨ての鍋焼きうどんのアルミ鍋)

このアルミ鍋は、自由に折り曲げが出来るので、光の調整が出来て案外便利だ。
今のところ、これ以上のものが見つかっていない。廃物利用の優れもの。
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とんぼ堂の工房で雑材整理(2019年8月17日~18日)

2019年08月19日 | つれづれ
大まかな物を片付けたのが5月の連休中で、
そのうちに、やろうやろうと思っていた細かい物の整理は、
根っからの怠け者気質のせいで足元は散らかったままだった。

あまりにひどいので、この土日に工房の片付けをした。
二日間も家に居たのは何年ぶりだろう。
10年ぐらい前、インフルエンザで寝込んだ時以来かも知れない。

今回は、工具やビス、部品などの細々したものの整理。
工具は用途別に、釘やビスなども種類と大きさ別に分類していく。
「いつか使うのではないか?」というようなものは今回思い切って廃棄処分にした。

単純な作業だが単調で時間はかかる。
しかし好きな音楽を流しながらなので苦にはならない。

これでようやくスッキリ片付いた。


(分類してパーツ入れに入れていく)


(東側)
中央やや左の空色の道具入れは、ホワードで廃物処分になっていた古いもので、
別館売却の際に廃棄場から持ち帰って、現在も道具箪笥として現役で使っている。
あまりに古い物なので、もしかしたらフタバヤ時代のものかも知れない。
それなら私と年はあまり変わらないかも。


(西側)
左には木刀掛け、正面の上の棚にはキャンプに使う小道具が並んでいる。
上からは槍が吊り下げられている。
小太刀の一つがキッチンペーパーホルダー代わりなのはご愛嬌。


(南側)
額は、笹森順造第十六代宗家の直筆「修文錬武 為長正館 笹森順造」で、
2017年8月に、左の時計とともに、ゴミになるところだったのを持ち帰ったもの。


(北側)
少し大きめの道具類は分類してこの棚に収納した。
やや右下の大きなダンボール箱は、ホワードで使われていたケトポン(商品入れ)である。


(南側を外から撮影)
南側の外はウッドデッキになっていて、そのまま出られるのが便利。
切断、研磨、塗装などは、このウッドデッキの上で作業が可能である。
上の写真は、折れた小野派一刀流の大刀から小刀を削りだしているところ。

最近は、工房で一仕事をしてから東大阪の事務所に出勤している。
混んでいる時間を避けるため、20~30分遅く出るのだ、そう遅れることもない。
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産経WEST 2015.6.26【戦後70年・出撃30分前(下)】

2019年08月15日 | つれづれ
続きです。
産経WEST(2015.6.26 07:00)です。

https://www.sankei.com/west/news/150626/wst1506260003-n1.html



2015-6-26

「刻一刻と時間が過ぎていった」「爆弾を抱いて突っ込むしかない」特攻隊員、粕井貫次さんが語る奇跡の生還

 第二次世界大戦末期、神風特別攻撃隊(特攻)として出撃命令を受けながら天候不良によって奇跡的な生還を果たした粕井貫次さん(91)。今月中旬、大阪市内で講演した粕井さんは「出撃30分前待機」という命令を受けた際の、死と隣り合わせの緊迫した状況を克明に語った。

なるべく長男ははずし、次男か三男を人選

 国分基地では、毎日待機。しかしもう訓練できないんですよ。制空権はアメリカ軍にあるから。だから出撃というと、あわてて飛行機を組み立てて爆弾を積み込んで攻撃することになるわけです。

 あるとき「攻撃3時間待機に入れ」という命令が出たんです。日向灘沖に敵の艦艇らしきものが航行中。それを偵察機が発見したから3時間待機に入れということで、飛行場に張り出された搭乗割を見ると一番先頭に私の名前がありました。私は次男でもあるし、特攻員の人選も私自身がしたわけなんです。うちの軍隊から練習生だけで40人ほど選考してなるべく長男ははずし、次男か三男を入れて技能が優秀でしかもやる気のある人を入れた。それらを1月に発表していました。

 8月6日に広島に原爆が投下されましたね。9日には長崎に落ちた。ソ連が日ソ不可侵条約を結んでいたのにもかかわらず参戦。アメリカはいつ日本に上陸してくるかわからない。国内では女の人は竹やりの訓練をしている。そんなもん考えてみたら向こうは自動小銃があったり火炎放射器があったりするでしょ。竹やりを持って戦うなんてそんなもん話になりませんわな。

 ちょっとでもお役に立って敵を倒す。武器もたくさん持っている、それをやっつけるには爆弾を抱いて突っ込む以外にないと、そういう風に思いますわな。それがその当時の人間の考え方でした。

出撃3時間待機が30分待機に

 まず「出撃3時間待機」になって、組み立てた飛行機に爆弾は積んであるし、飛行機というのは暖機運転をしないといけない。シリンダーの中を温かくしなければうまく回転してくれないので、たえずシリンダーの中を熱くしとかないかん。しかし、あんまり暖機運転をするとガソリンが減っちゃう。しばらく休憩し、シリンダーが冷えてきたらあかんからまた運転して待機、運転を繰り返していたわけです。それを昼ごろからずっとしていた。

 次の情報がくるかどうか待っていたのですが、こないのです。そのうち「出撃3時間待機」が「30分待機」に変更となった。ところがね、30分待機になっても敵の艦船の位置がはっきりわからず、どのような動きをしているか、全然入ってこないんです。ただ3時間が30分になっただけで。私は550時間乗っていますからある程度夜間飛行できますが、昼間に2機が霧島にぶつかっていますし、まして星もない月も出ていない、低い雲が垂れ下がっているときに、当然相手は灯火管制していますから真っ暗けですわな。それを見つけてぶつかっていくというのは、とてもじゃないけど無理な話。どうかなあと私も心配しながら刻一刻と時間が過ぎていくわけですね。

 日が暮れかかってきて「出撃30分待機解除。3時間待機に移す」と。非常に不安定な心理状態でずっとおったわけですが、それが中止になった。中止になったからほっとしたかというと、終戦の天皇陛下の玉音放送を聞いたときもそうだったのですが、これで命が助かったというより、30分待機をやめろといわれたら、今日はやめるのか、だけど次はいつかわからんということでしょ。

幽霊と違う、脚がある…

 私は8月18日に家に帰れるというわけで大分で一泊して、燃料がないというんで仕方なしに岩国に飛んで陸軍の飛行場で燃料を補給して、呉市の南を通って大阪へ帰ることにしました。私は梅田から市電に乗って実家のある上本町まで来たら、周りはほとんど空襲で焼け野原なのに残っているんですよねえ。家に着いて声を落として「ただいま」と言うと、母親は死んでおりませんが、ばあさんがおりましてね、「ああ、たもつ(貫次の旧名)か」と私の脚にくらいついて「幽霊と違う、脚がある」。私がそんなに早く帰ってくると思わなかったんでしょうね。涙をぽろぽろこぼしました。そんなことでありがたいことに命拾いをしました。

 ここで私と親しかった男が遺書を書いてますので紹介したいと思います。この人は北海道出身の富澤といい、北海道の第二師範学校出身で、三重海軍航空隊で私と一緒に毎日食事をしていたわけです。フィリピンで特攻で死んでいるんですね。富澤幸光という人は20年の1月6日に死んでいるんです。特攻としては一番早い部類。他の連中はだいたい4月、5月が多い。絶筆になった遺書の一部を読み上げさせていただきます。

 【お父上様、お母上様、益々御達者でお暮しのことと存じます。幸光は闘魂いよゝ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖国で二十四歳を迎へる事にしました。靖国神社の餅は大きいですからね。同封の写真を見て下さい。猛訓練時、下中尉に写して戴いたのです。幸光を見て下さい。この拳を見て下さい。

 父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前に沢山御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。靖国神社ではまた甲板士官(軍紀を取り締まる職です)でもして大いに張切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖国で待つてゐます。きつと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。否日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずきつとやります。ニツコリ笑つた顔の写真は父様とそつくりですね。母上様の写真は幸光の背中に背負つてゐます。母様も幸光と共に御奉公だよ。何時でも側にゐるよ、と云つて下さつてゐます。母さん心強い限りです】

 私これを読んでから思うのは、人間には魂というものがあって一つ上の段階があるように思う。命というのは心臓があって頭で考える。でも魂というのはそれより一本上の立派なものだと思う。=おわり

【プロフィル】粕井貫次(かすい・かんじ) 大正12年12月、大阪生まれ。昭和18年9月、大阪専門学校卒業と同時に第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。19年1月に博多海軍航空隊で練習機教程を終え、4月に詫間海軍航空隊へ転属になり実用機教程を終了。7月に九州の出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分航空隊)で分隊士兼教官として勤務する。20年1月に神風特別攻撃隊(特攻)が結成され、乾龍隊に所属。人吉海軍航空隊へ移動し特攻訓練に入る。4月に観音寺海軍航空隊に移動し、7月に特攻出撃のため国分基地で待機。8月に特攻出撃命令が下り、出撃30分前を体験。終戦により帰還する。元会社社長、奈良市在住。
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産経WEST 2015.6.25【戦後70年・出撃30分前(上)】

2019年08月14日 | つれづれ
お盆なので、ちょっと古い記事ですが、
産経WESTの記事(2015.6.25 07:00)を紹介します。
昨年亡くなった父、粕井貫次の記事です。

https://www.sankei.com/west/news/150625/wst1506250011-n1.html



2015-6-25

【戦後70年・出撃30分前(上)】
「ライフジャケットに刺さったロケット弾の破片」特攻隊員、粕井貫次さんが語る奇跡の生還

 第二次世界大戦の末期、神風特別特攻隊(特攻)の飛行士として出撃命令を受けた後、悪天候で取りやめになり奇跡的に生還した粕井(かすい)貫次さん(91)=奈良市=が今月中旬、大阪市内で「特攻出撃30分前」と題して講演した。悪化する戦況、仲間の死、そして常に死と隣り合わせの特攻隊員としての日々…。「生きて終戦を迎えるとは思わなかった」と語る粕井さん。その講演内容を2回にわたって紹介します。

ごめんね、すまんね

 たくさんの方がお越しになって非常にうれしく思います。厚く御礼申し上げます。靖国神社や各地の護国神社に祀られている英霊に参拝したりしています。そういうところへ行きますと、なんで亡くなった彼らと私がこんなに違うんか。ごめんね、すまんね。いつもそんな思いでいっぱいになります。

 粕井さんが海軍に入隊したのは昭和18年9月。その少し前の5月にはアリューシャン列島のアッツ島が玉砕しました。全部、兵隊は死にまして。その次のキスカ島というのはうまい具合に霧を利用して全員が撤退した。そしてミッドウェー海戦では日本は大打撃を受けた。それで結局、日本とアメリカとの形勢が太平洋上で逆転しまして、日本本土も空襲を受けるという風になっていったわけです。

 昭和20年3月下旬、沖縄にはすでに米軍が上陸して、6月23日に日本軍の組織的な抵抗は全くなくなる。それまでに特攻出撃は随分とあったわけですよね。アメリカの資料から戦後わかったことですが、11月3日の明治天皇の誕生日、その明治節を期して一斉に日本上陸すると。これは九州の日南海岸、それから東京の方では九十九里浜というようなあちこちでアメリカ軍が上陸する。敵が日本本土に接近してきたときに、少しでも敵の上陸を阻止しなければいかんという切羽詰まった状態で出撃するわけです。そうすると私らの運命というのは、長くて11月3日になるわけです。

 特攻出撃の話の前にその頃の日本の状態を申し上げますが、ともかく情勢が厳しくなって燃料も足りない。それで訓練ができないわけですけども、特別の特攻のできる人間だけに訓練をして、最終の本土決戦に備えようというわけですね。

すぐそばにロケット弾が…

 国分(鹿児島)におって非常に空襲が激しい。それで人吉(熊本)に行って、特攻の最初の訓練として夜間飛行訓練をしたのですが、そこで私が飛行作業にかかる寸前に敵機がやってきた。その7機の攻撃を受けて私の左の一間(約1・8メートル)くらいのところにロケット弾が落ちまして、その破片が頭の方々、一つがライフジャケットに、足のファスナーを1つ切りました。

防空壕(ごう)に入ろうと思って走っていったら足がガクンとするんです。飛行服のファスナーがやられてしまって、足下で止まってしまっていた。それからすぐ防空壕(ごう)に逃げたのですが、2弾目の攻撃を受けたときに、私の隣の防空壕(ごう)にロケット弾が直撃しましてそこで14人死んでいるんです。

 人吉も怖い、そして四国の観音寺に行ったんですよ。その観音寺でもって、18キロの沖合の小島に向かって照明弾を落として、パッと明るくなったところで突っ込むちゅうわけです。ところがお星さんが出て月が出ているような晩ならよろしいが、曇り空で上も下もわからんようなときにやりますと、飛行機というのは操縦桿(かん)を引っ張ったらこう上がりますわね。その間に2機落ちましたね。そして死にました。

戦死したおうちは“英霊の家”

 そのときに殉職になると下士官の場合は、その当時のお金で2万円弔慰金が入るんです。ところが戦死になるとお金が出ない。4人とも親御さんが来て「どちらにしますか」と言うと、どの父兄も「殉職はいやです。戦死にしてください」というぐらいに、戦死というものに対する栄誉を考えていたんです。街を歩いてましても表札の横に戦死したおうちは「英霊の家」という表示がありました。その家の前を通り過ぎるときは会釈して通ったものです。それぐらい戦死というものが尊いという感じはあったんですね。

 いよいよ出撃するというときに、私の2番機が豊後水道にはまって墜落しまして、一番近い大分航空隊の方へ進路を変更してそこへ急遽(きゅうきょ)着陸しました。搭乗員と整備員が漁船に助けられてほっとしました。ところがそのとき大分で空襲を受けまして私は民家の2階で寝てたんですけど、大急ぎで下へ降りていったんです。横穴式の防空壕(ごう)へ逃げたんです。隣の民家にいた整備員が一人、爆弾の直撃を受けています。

 そんなことで再び国分まで移動していくわけですが、そのときに2機が霧島にぶつかっているんです。搭乗の技術もだめですし、整備もだめです。アメリカ軍は前線へ来るときに最低千時間は乗らなければ前線に立たない。私は教官をしていますから割と時間かせいでいるんです。私で550時間。航空隊の中でも上位のうちに入るんです。それぐらい日本の場合は搭乗員も少なくなっている状態でした。やがて、上官から国分でもって「特攻出撃の待機をせよ」という命令を受けたのです。   =つづく


【プロフィル】粕井貫次(かすい・かんじ) 大正12年12月、大阪生まれ。昭和18年9月、大阪専門学校卒業と同時に第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。19年1月に博多海軍航空隊で練習機教程を終え、4月に詫間海軍航空隊へ転属になり実用機教程を終了。7月に九州の出水海軍航空隊国分分遣隊(後の国分航空隊)で分隊士兼教官として勤務する。20年1月に神風特別攻撃隊(特攻)が結成され、乾龍隊に所属。人吉海軍航空隊へ移動し特攻訓練に入る。4月に観音寺海軍航空隊に移動し、7月に特攻出撃のため国分基地で待機。8月に特攻出撃命令が下り、出撃30分前を体験。終戦により帰還する。元会社社長、奈良市在住。
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墓参りと法事(2019年8月12日)

2019年08月13日 | つれづれ
粕井貫次・睦子の三回忌法要。
朝から王龍寺(奈良市二名)に墓参り。
実家に戻って法要。
送迎バスや自家用車で移動して食事会。
戻ってきて夜まで二次会。

またまたかなり飲んでしまった。
まあ、いつもの事ながら騒がしく楽しい一日だった。


(奈良市二名の王龍寺、本堂には磨崖仏の十一面観音菩薩像が祀ってある)


(境内のお地蔵様)


(粕井家の墓)


(実家の奥で法要)




(食事会の余興)


(酒が入ると宴会になるのが恒例)


(集合写真)


(つくば市から来た長男夫婦と)


(実家の玄関)


(夜は花火大会も)
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