goo blog サービス終了のお知らせ 

稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

たまにはゆっくりしたい時もある(2018年6月5日)

2018年06月06日 | つれづれ

(左は福島の「写楽、純米吟醸、純愛仕込一回火入れ」右は宮城の「乾坤一、超辛口、純米吟醸生詰原酒」)

日本酒の種類が豊富な居酒屋を見つけ、
色々な種類のお酒を飲んでみた。

東北は青森、秋田、岩手、福島、宮城、
新潟、長野と下ってきて京都、奈良、大阪、兵庫。

もうここまで来ると味の違いはわからない。
愛媛、広島、福岡と続いて時間一杯、お腹も一杯。

友と語らい色々なお酒を一杯ずつ転がしていく。
自分のペースでゆっくりゆっくり酒を楽しむ。

たまにはゆっくりしたい時もある。
何も考えたくない時もある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今朝の猫、竹刀の先革交換(2018年6月5日)

2018年06月05日 | つれづれ
4日はトラブルのため稽古には行かなかった。
自分がミスをしたためである。
送り状の発行ミス。最終チェックが甘かった。

で、何もないので猫の写真。
出かける時に見送ってくれた月ちゃんの写真。
うちの居間は猫部屋である。猫アレルギーの人は入れない。


(DSC-WX350、f/3.5、1/100秒、ISO-80、焦点距離4mm)

焦点距離4mmというのは不思議だ。
データだから仕方が無い。


(NEX-C3、f/4.5、1/250秒、ISO-200、焦点距離16mm)

いま出荷が終わって竹刀点検。明日の稽古のため。
先革が破けていた。これは危ない。
経験上、このような毛羽立った先革は弱い。

交換は簡単だが、結びは「もやい結び」であること。
普通に丸結びにすると緩んできて危険である。


(ほとんど突きはしないので、胸突きで制した時に痛んだと思われる)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

粕井貫次四十九日法要(2018年5月26日)

2018年05月27日 | つれづれ
26日11時より実家の離れにて法要。
お昼に新大宮の桃谷樓にて食事。
そのあと実家に戻って夜遅くまでグダグタと延々と飲み続けた。
昔から変わらぬ風景だが人は入れ替わった。
世代交代を感じた。














コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特攻 最後のインタビュー6(粕井貫次)

2018年05月26日 | つれづれ
きょう26日は親父の49日の法要です。仕事も稽古も休みます。

親父のyoutubeの動画を紹介します。
お時間があれば見てやってください。

特攻 最後のインタビュー6
https://www.youtube.com/watch?v=3k-D7IJp6oo







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホワード飲み会(2018年5月18日)

2018年05月19日 | つれづれ
いつものメンバーが集まっての飲み会。
昔の写真も回覧したりして大盛り上がり。

病気の話、健康の話、仕事や転職の話、
社長や会長だった親父や伯父の話、
いまだにホワードの夢を見る話、
あんな思い出、こんな思い出。

青春はホワードにあったんだなあ。

飲み放題の2時間があっという間に過ぎてしまった。
おかげで電車を乗り過ごしてしまった。


(今は無いホワードの前身、フタバヤ時代、今はダイソーが建っている)









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親父に続いて伯父も・・・

2018年05月07日 | つれづれ
昨日、連絡があって柏原市に住む伯父が5日に亡くなったと聞いた。
奇しくも5日は伯父の自宅のすぐ近くをバイクで走っていた。
何か知らせるものがあったのか、ブログにも伯父の事を少し書いていた。

7日がお通夜、8日が告別式なのだが仕事で行けない。

4月15日の親父の告別式で久々に会って少し話をしたが、
その時は元気そうだったので驚いてしまった。

5日の夜に自宅のお風呂場で倒れてそのまま亡くなったと聞く。
兄弟揃って家族孝行である。世話をかけずに死ぬのは本望だ。

ここに書くのは躊躇っていたのだが、
さきほど「せんば心斎橋筋商店街」から問い合わせがあって、
もう知られてるならいいか・・・と思った次第。

交友関係の多かった伯父である。
おそらく会社(ホワード)の事が無ければ親しく付きあっていただろう。
ご冥福をこの場を借りてお祈りしておきます。


(4月15日の、粕井貫次の告別式で)


(4月15日、粕井貫次の兄弟と子、甥と姪)(粕井宏は前列左から2番目)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和56年(1981年)の思い出

2018年04月24日 | つれづれ
忙しいので昔の写真の紹介。
昭和56年(1981年)のもの。


(昭和56年5月3日、連休中に奈良に帰省した時のもの)


(次兄はこの時、風伝流の槍術をやっていたように思う)

その頃は岩手県盛岡市に居住し、新明館橋市道場で剣道を再開し、
剣道二段を頂いたばかりで有頂天になっていた頃だ。
奈良の実家の庭で、兄(隆)や従弟(扇田智司君)と古武道か何かで戯れていた時の写真。



(昭和56年7月、東亜特殊電機、秋田駐在所の前で)


(この赤い車が、当時営業で使っていたトヨタカリーナ1600バン)
(大雪で、この車がこの場所で、すっぽり埋まって見えなくなった事も数回あった)

弱電機器(放送設備)の営業で秋田県を担当していた。
1週間、秋田県内を営業し、週末に盛岡に帰ると500キロ前後になる。
冬期の深夜の山越えなど、危険な事も多かった。

東亜特殊電機株式会社(現TOA)に、
駐在所という制度は正式には無かったが、
往復の時間がもったいなくて駐在所を作ってしまった。
高速道路も新幹線も無かった時代である。

秋田では奥山京助範士八段が指導される興陽館道場に通い始めた。
仕事も剣道も、何をするにも新鮮で全力投入で楽しかった時代だ。
親から自立し、独りで生きていくんだと実感できた時期だった。


(3DKの小さな駐在所は、翌年、そのまま新婚の家となった)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父、貫次の事

2018年04月17日 | つれづれ
父、貫次は4月7日土曜日の深夜1時に亡くなりました。
深夜1時ですから6日の夜と言っても良いでしょう。
満94歳と4ヶ月。本当に長生きでした。

数日前から体調を崩し、寝ていることが多くなったと聞きます。
それでも夕食に、甘くした牛乳を2杯飲み、
そのあと自分で缶ビールを冷蔵庫から取り出し飲んで寝たようです。
そのあと息をしていないことに義姉が気づきました。
眠ったまま亡くなったという事です。

海軍航空隊で生き残り、
高度成長の波に乗って繁栄し、
斜陽が見えた時に引退し、
趣味に生き、好きなお酒を楽しみ、
そして眠るように死んで行ったのです。

父から教えられた事はたくさんありますが、
一言で言うならば、

損得より善悪
粗にして野だが卑では無い

という事になるだろうと思います。
直接教えられた言葉ではありませんが、父の言動から学んだ事です。

何よりも感謝しているのは丈夫な身体に産まれ育った事。
粕井家の家系病とも言える痛風や高血圧を除き、大きな病気もありません。
そして、出来が悪いにも関わらず大学まで行かせてもらった事。
中卒で働きに行っても良いとまで思いつめてた私が、
大学まで行き就職も出来たのはやはり父のお陰です。

父とは30才から52才まで同じ会社にいました。
この時期の私の立ち位置や状況は複雑で説明は難しいのですが、
この22年間は忍耐努力我慢我慢我慢・・そして臥薪嘗胆なる思い。
精神的に本当に強くなりました。そういう意味では感謝しています。

感謝すると同時に、父の経営に対する甘さと、
引退したあと、私を含め、残された社員達に対する心配も無しに、
自由奔放に老後を送ったことへの憤りが、
晩年の父との距離を一方的に作ってしまいました。

そんな気持ちよりほんの少し前、
父と母がまだ元気なうちにと、
2005年に伊勢志摩、2007年に金比羅山に家族で旅行に行きました。
豪華な旅行に慣れた両親からしたら慎ましい旅行だったろうとは思いますが、
貧乏な私にとってはかなり思い切った旅行でした。
親との最後の旅行でした。とても楽しく過ごせた良い思い出です。

父も母も幸せな人生だったと思います。
そして私の親に対しての不満なんてのは、
結局は親に対しての「甘え」なんだと思っています。
子としてもっともっと甘えたかった。ただそういうことなんです。

ありがとう。
生んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。
叱ってくれて励ましてくれて褒めてくれてありがとう。
この世に生まれた喜びを胸に感謝の気持ちで生きていきます。
ありがとう。安らかにお眠りください。


(昭和35年頃、天橋立や玄武洞へ家族旅行、手前、左から隆、誠、滋)


(2005年1月、伊勢神宮詣で)


(2005年1月、伊勢志摩の民宿泊)


(2007年3月、金比羅山詣で)


(2007年3月、金比羅山の湾曲鏡の前で、父と)


(2007年3月、金比羅山の門前町の旅館で一泊)


(2007年3月、香川県多度津の桃陵公園、「一太郎やーい」の銅像の前で)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父、粕井貫次のお別れのご挨拶

2018年04月16日 | つれづれ


粕井貫次 お別れのご挨拶

皆様、本日は、私の告別式にご参列を頂き、ありがとうございます。
昨年、9月11日に妻睦子に先立たれてから、めっきりと気力・体力が弱まりました。

睦子からは、「私はあの世でゆっくりしたいから、
お父さんは、皆に迷惑を掛けないようにしながら、この世を十分に楽しんで下さい。」
「お父さん、早く、あの世にこないでね。」と言い残されました。

しかし、12月10日に満94歳になったのを機に、
近づく、お迎えを考え、隆と相談しながら、川柳を織り交ぜて、
貫次らしい「お別れのご挨拶」を作っておく事にしました。

【私の生い立ち】
私は、大正12年(1923年)12月10日に大阪市東区内久宝寺町に、
父:信一、号は豊誠、母:キミの次男として生まれました。
本名は、完。完成と言う言葉の「完」の字を「たもつ」と読みます。

海軍で姓名判断に詳しい上官から、粕井完では、総画数が良くないと言われ、
戦後、「貫次」を通称に使い始めました。
そして、昭和54年に、戸籍上も、貫次に改名しました。

粕井家の先祖は、河内平野郷で、
鴻池家の配下にて河内綿の加工・販売に従事していた家のようです。
屋号は糟屋。綿の糟を扱っていたのでしょうか。
この糟屋の屋号が家名:粕井の由来です。

家紋は、唐花。これは、平野の郷社である杭全(くまた)神社から
ご先祖が頂いた紋であると聞いています。

明治維新により、洋綿が日本に流入して、我が家は没落しました。

祖母マスは、鴻池家に拾われて、奥女中として
お嬢様の稽古事のお相手などを務めていました。
その鴻池家に、長州士族の岡本秋五郎も勤めており、
やがて、秋五郎が祖母マスと結婚して、粕井家に婿養子に入りました。

父、信一は、若い頃は日本画家を目指していましたが、
私が物心ついた頃には、平版印刷の版下を描いていました。

仕事は住み込みの弟子達に任せ、本人は、謡、郷土玩具集め、
旅行と趣味が多彩で、川崎巨泉など、大阪の文化人と広く交流がありました。
「浪華趣味道楽宗三十三所」や「娯美会」という趣味人の会にも参画していました。
子どもの躾には大変厳しく、よく「勉強をしろ」と叱られました。

母、キミは明石の古瀬家の出身。
優しい人でしたが、昭和15年、47歳の若さで亡くなりました。
父、信一は、長生きをして、昭和48年に、84歳で亡くなりました。
父は亡くなる年の春にも台湾旅行を楽しんでおり、
元気な老人で、当時としては大変な長命でした。

この父の長命筋を、幸運にも、子供が引き継ぎ、
今や兄弟4人全員が、父の亡くなった年を、めでたく越えました。
私は、男ばかりの4人兄弟の次男です。
長男:宏は私より2歳上、弟の寛は3歳下、末弟の實は8歳下です。
宏兄さん、寛さんとは、戦後、フタバヤ、後のホワードを創業し、
長らく仕事を共にしました。

これについては、後で話をします。
實さんは、私が睦子と結婚した当時は、まだ学生でした。
幼い頃に母を亡くし、兄弟も男ばかりだった為か、睦子になついてくれ、
睦子の家事を「姉さん、姉さん」と、良く手伝ってくれました。
粕井家で公務員になる者が少ない中で、實さんは、神戸大学経済学部を卒業後、
陸上自衛隊に入隊し、陸将補まで、昇進しました。

さて、兄弟の性格は4人4様です。
隆に最近、兄弟4人の性格を聞いてみました。隆の言葉です。

「玉手山の宏伯父は、おおらか。生駒の寛叔父は、理知的。東京の實叔父は、優しい。」
「そして、お父さんは、頑固で勝手者。」
「え~」と思っていると、「でも、とっても努力家」と付け加えてくれました。
そう言えば、私は小さい頃、「ごてたも、ごてもんのたもつ」と呼ばれていました。
大きくなっても、この性格は変わらなかったのだと思います。

さて、川柳です。
◆「有難く 僕の兄弟 みな存命」
◆「兄弟が 揃って八十路 うまい酒」

【海軍飛行予備学生、そして、特攻へ】
東商業学校を卒業後、軍需工場の山階鉄工所に勤めながら、
夜は大阪専門学校(今の近畿大学)で学んでいました。
当時の徴兵年齢は、満20歳でしたが、それより1年前、19歳で志願をして、
昭和18年9月に、第十三期海軍飛行予備学生として、三重航空隊に入隊しました。

徴兵前に海軍を志願したのは、
体力のない自分が御国のお役に立てるのは飛行機だと考えた事と、
陸軍恒例の新兵への「しごき」に比べ、海軍にはスマートさを感じたからです。

また、家を継ぐ長男の宏兄さんが、川西航空機で技術者として働き、
弟2人がまだ年若の中、男兄弟4人の中で次男の自分が戦場に行かねばという、
若者としての心の高ぶりもありました。

当時は、本土空襲こそまだないものの、日本の劣勢を国民が重く感じており、
また、ご近所でも、年輩者の出征が相次いでいました。

予備学生としての三重航空隊での訓練を終え、
海軍少尉に任官。予科練の指導教官になりました。

当初は、零式水上偵察機に乗っていましたが、特攻編成になり、
九十三式中間練習機、世にいう『赤とんぼ』での特攻訓練を、
鹿児島国分航空隊、熊本人吉航空隊、香川観音寺航空隊、で積み重ねました。

昭和20年8月10日、つまり、終戦の5日前に、
鹿児島国分航空基地で、特攻出撃30分前を体験しました。
12機編成の神風特別攻撃隊「乾隆隊」の一番機です。
天候不良により、出撃は中止。命を長らえました。

今から思うと、生と死が紙一重でした。
予備学生同期の34パーセントが戦没しています。
私は思い掛けず、命を長らえ、戦後、幸せな人生を歩めました。
特攻出撃、散華した同期や部下と、私の戦後の幸せとの違いを考えると、
何時も、感謝の気持ちと、申し訳ない気持ちで一杯です。

一方、海軍で、19歳から21歳の若さで、
少尉・中尉として部下を指導・統率する立場・経験を得た事が、
会社経営者としての基礎と心構えを、自然に形成してくれました。

川柳です。
◆「特攻の 一番指揮機 名乗り出る」
◆「特攻隊 出撃止めで ある命」
◆「こみあげて 同期の桜 歌えない」
◆「目に浮かび 貴様と俺が 歌えない」
◆「冷房の部屋 靖国へ 手を合わす」
◆「戦友の 4倍半も 生かされて」

【起業、フタバヤからホワードへ】
戦後、闇市で、まず、パンやイースト菌の販売をしました。
これから商売として何が当たるかを考えて、繊維・衣料品販売に目をつけました。
そして、あちこちを探し回り、大阪市南区順慶町心斎橋筋に
間口九尺二寸、奥行き二間の店を見つけました。

開店は昭和22年1月10日、商売繁盛の恵比寿さんの本祭りの日です。
屋号は、フタバヤ。
当初は、兄:宏さんと2人でしたが、その後すぐに寛さんが参加しました。

睦子と昭和25年に新婚生活を始めたのは、この店の小さな奥の間でした。

フタバヤは、最初は素人相手の小売店でしたが、
地方の衣料品店の求めに応じて、衣料品卸売業に転換、
業界で最初にセルフ販売を取り入れ、社名もホワードに改名しました。
初めは、社長:宏、専務:貫次、常務:寛、
後に、宏:会長、貫次:社長、寛:専務の経営体制でした。

高度成長時代に上手く乗れ、東京店を出店するなど、社業は順調に拡大しました。
実際は、兄弟の意見が異なる事も多かったのですが、
業界からは、「ホワードが強いのは、三本の矢、
宏:経営、貫次:営業、寛:経理」があるからだ、とよく言われていました。

また、倉本長治郎先生に箱根の商業界ゼミで商売の心を教わった事、
船井幸雄先生に経営の鉄則を学んだ事、ダスキン創業者の鈴木清一さんに、
先輩経営者として親しくご厚誼を頂いた事、今では良き思い出です。

川柳です。

◆「大阪中 駆けずり回り 店見つけ」
◆「九尺二寸 開店の日が 本えびす」
◆「商売の まなこ開けた 箱根ゼミ」

【妻:睦子】
睦子とは、昭和25年に戦友の古沢龍介君の仲人で見合い結婚をしました。
睦子は、正に才色兼備、料理も上手く、気難しい私とは違い、
気さくで、思いやりのある性格で、広い交友関係を持っていました。

一方、さっぱりとした性格で、夫である私には、甘える事などまったくなく、
その意味では、そっけない妻でした。

しかし、お互いが老年になり、いたわり合ってから、
新たな夫婦の関係が芽生えたと思います。
睦子が、昨年、私より先に旅立ったのは、残念な思いで一杯です。

川柳です。

◆「わが妻は 時には天女 時に夜叉」
◆「来生の 契を妻に いなされて」
◆「手を握り 妻につれなく ほどかれて」
◆「あっちこち いたわり合って 老夫婦」
◆「お互いに 病院通い 老夫婦」
◆「この僕を 見送ってから 逝ってくれ」
◆「早朝に 妻の寝息を 確かめる」
◆「人生に 波風あった なあ妻よ」

【子供と孫・ひ孫】
昭和27年に滋、昭和28年に隆、昭和30年に誠の3人の男子を得ました。
滋は、未熟児で生まれたので丈夫に育って欲しい。
隆は、隆々たる人生を歩んで欲しい。
誠は、誠実で信頼される人になって欲しい。
という願いで、それぞれ名前を付けました。

特攻が中止となり、生き長らえた私の命ですが、
子3人、孫10人、ひ孫7人、我が子孫が20人に、広がりました。
ひ孫は、これからも増えると思います。

幸せな事に、隆の長女さやか、が、7年前から、ひ孫3人を引き連れて、
月曜日から金曜日に掛けて、同居してくれるようになりました。

3人のひ孫達は、貫次・睦子・隆・みづほ、の4人生活に咲いた、
正に枯れ木に花の存在でした。
身体が不自由になった睦子と私にとって、さやか、が日々の生活の頼りであり、
ひ孫の進太郎、みのり、あかり、との触れ合いが、
外に出る事が少なくなった老人二人の生きがいでした。

川柳です。どうしても、可愛い、ひ孫の句が多くなっています。

◆「何とまあ 子から孫から お年玉」
◆「わが血引く 二十の命 生き生きと」
◆「ひ孫たち 大ばあちゃんを 放さない」
◆「ご飯でチュ 末のひ孫が 言いに来る」
◆「二歳半 ひ孫パタパタ 呼びに来る」
◆「三人目 ひ孫を膝に 飲むビール」
◆「三人の ひ孫に読書 乱される」
◆「ひ孫たち 可愛さ八で うるささ二」
◆「小生の ひ孫は行儀 それなりに」
◆「入院を 心配ひ孫 した涙」

【ホワード引退と東邦でのエルダー人生】
平成の世になり、ホワードの業態、前売り衣料問屋は、
地方でのショッピングストアの台頭、「しまむら」の多店舗展開、
衣料品産地の海外シフト等の中、徐々に商売が厳しくなってきました。

平成9年、ホワードが創業50周年を迎えた年に、
経営陣を刷新する為に、私は社長を退任し、経営を離れました。

その折に、次男:隆の勧めに甘え、
隆の会社:東邦ビジネスコンサルタントのエルダーとして、
毎日、東邦の事務所に出勤する事にしました。私が、74歳の年です。

東邦は、若い女性スタッフが多く、社長:隆の親父として、
特別待遇で大事にしてくれました。
昔話の相手や、パソコンの指導を快く務めてくれました。
90歳を過ぎて、足腰が弱って、電車で通えなくなるまで、
東邦で過ごす時間が、現役引退後の私の楽しみでした。

川柳です。

◆「引退後 柔らか席が 待っていた」
◆「ネクタイを 毎日替えて 新事務所」
◆「居るだけで 良いと言われて 居る至福」
◆「エレベーター 前まで今日も 見送られ」
◆「ボク好み 美人の席が 斜め前」
◆「パソコンの ベテラン嬢も 頼れそう」

【学業と趣味】
東邦を大阪での活動の拠点とし、東邦の顧問料を軍資金として、
若い頃、現役時代に適わなかった学業と趣味を楽しみました。

まず、学業です。
平成11年:産能大学 経営情報学部 学士
平成13年:佛教大学 文学部 学士
平成15年:大阪商業大学 大学院 地域政策学 修士
平成19年:放送大学 大学院 文化科学研究科 修士

学位は、昭和27年に働きながら夜学に通った、
近畿大学商学部と合わせて、合計5つになりました。
私の勉強好きの血は、残念ながら子と孫には伝わりませんでした。
ひ孫達には、是非、私の勉強好きが遺伝して欲しいと、曽祖父として願っています。

趣味は、川柳、謡曲、絵手紙、写真、太極拳、水中歩行、
気功、リズム体操と、多くを楽しみました。
気功やリズム体操では、男性は私一人。嬉しい事に、
美人の先生が、男一人の私に個人レッスンをしてくれました。
その頃、個人ブログ「粕井貫次の最近感じること」を立ち上げました。

川柳です。
◆「学生証 老春手帳と 使い分け」
◆「修士論文 まとまるように かしわ手を」
◆「学位記が 五つ目自分 よくやった」
◆「僕以外 気功教室 みな女性」

【特攻体験を語る】
平成18年頃から、戦争体験、特攻体験を世間に語るようになりました。
特攻の真実、国を守りたいという当時の若者達の心を、
少しでも戦争を知らない世代に知って貰いたいと考えたからです。
私の戦争体験・特攻体験は、
「雲流るる果てに ~出撃30分前 特攻隊員の戦争体験~ 」
「特攻 最後のインタビュー」
として、まとめ、残しました。貫次家の子孫の家で、家の記録として、長く伝えて下さい。

【健康・リハビリ、そしてヘルパーさん】
90歳を超える頃から、身体が徐々に弱まり、耳と目も悪くなりました。
デイサービスでのリハビリ、家に来てくれるヘルパーさんを川柳に読みました。

まず、健康の川柳から
◆「ケイタイも スマホも無用 目と耳が」
◆「スカタンが 多い痴呆の 先触れか」
◆「いやな事 聞かない様に 遠い耳」
◆「マイナスの ことは聞くなと 遠い耳」
◆「故障は ここだと思えば あっちこち」
◆「長生きも 痛いしんどい あっちこち」
◆「広告の サプリメントを つい買って」

次に、リハビリの句です。
◆「リハビリの お蔭か杖を 置き忘れ」
◆「快調で 次のリハビリ 待ち遠し」
◆「すみません 有難さんが 多くなる」
◆「トレーニング 過ぎたか食後 うとうとと」
◆「手も足も 苦労を掛けたな 有難う」

そして、毎日家に来てくれるヘルパーさんと、
世話になっている訪問看護婦さんを読んだ句です。
◆「ヘルパーさん 心優しく みな天使」
◆「ただ感謝 訪問看護 ヘルパーさん」
◆「楽しみは 今日のヘルパー どなたかな」
◆「親切な ヘルパーさんに つい甘え」

【お酒】
お酒は、私の生涯の友です。
入院中の病室にワンカップ日本酒を持ち込んで、看護婦長さんから、
「お酒を飲むなら退院して下さい」と、厳しく叱られた事もありました。

お酒を読んだ川柳です。
お酒の句は、絞るのが難しく、多くの句を聞いて下さい。
◆「幸福な 人生でした うまい酒」
◆「運の良い 人生だった うまい酒」
◆「缶ビール あと酒一合 おらが春」
◆「こんなのが 幸せだろうな 酔い心地」
◆「晩酌の 睡眠薬が 待っている」
◆「楽しみは 晩酌だけで 欠かせません」
◆「何時退院ですか ビールが 待ってます」
◆「晩酌は うまいが睡魔 連れてくる」
◆「年かなあ 晩酌の量 また減って」
◆「卒寿来て 不義理してます 夜の酒」

【人生を読む】
粕井貫次の人生を読んだ句です。
中身が重なっている句もありますが、聞いて下さい。
◆「禍福あり 福多かった 九十年」
◆「生と死の 境を越えて 七十年」
◆「これからの 生き方すべて 自然流」
◆「助かった 命素直に 生きてます」
◆「長生きの 見本をせめて 子や孫に」
◆「百寿まで 生きてみようか 手術終え」
◆「有難や 孫十人に ひ孫七」
◆「何もかも 欲なくなった 九十四」
◆「ふりむけば 七転びなり 運をつれ」

【お別れに臨む心】
94歳を迎えた今の気持ちを、川柳に読みました。
◆「大往生 呼ばれるまでは 生きようか」
◆「お迎えに 南無観世音 喜んで」
◆「お迎えが 来たら素直に 参ります」
◆「やり残し この世未練は ありません」

【感謝の気持ち】
まず、みづほ、へ
ありがとう。隆と結婚してからの長きの同居。孫、ひ孫との交流。
特に、睦子への長い間の介護、自宅での看取りと、
身体が不自由になった私の日々の世話。
何時も、食事は家族みんなで一緒でした。
私の好物を食卓に揃えてくれました。
贅沢な家族旅行にも、賑やかに行きました。
振り返って見ると、隆夫婦と同居して、私達夫婦の幸せがありました。
みづほ、健康に留意して、将来、隆と楽しい老後を過ごして下さい。

さやかへ
孫に大事にお世話をして貰った、日本一幸せな祖父母です。
父:信一は男兄弟4人、私:貫次も男4人兄弟、
そして、子供は滋、隆、誠の男ばかりの3人。
睦子も4男1女の男家庭。
さやかは、そんな男環境の中で初めて得た、可愛くて心優しい女の子でした。
さやか、そして、ひ孫達の幸せを、あの世で仏様に、睦子としっかりお願いします。

妙子さん、妙ちゃんへ
睦子の弟、昌司君の嫁と言う、粕井家とは遠い関係の筈なのに、
本当に長らく我が家を支えてくれました。
睦子が30台で、長らく肝炎で入院した折に、
ワンパク盛りの息子達がグレずに育ったのは、妙子さんのお陰です。
そして、睦子が自由に暮らせたのは、妙子さんの存在があったからこそです。
ありがとう。末永く、お元気で。

恵美子へ
何時も私の話し相手になってくれて、ありがとう。
誠と孫達の事、宜しくお願いします。

そして、本日ご参列頂きました皆様方に、それぞれ、大変お世話になりました。
感謝しております。

【最後に】
そろそろ、お別れの時間です。子、孫、ひ孫達に伝えたい事を話します。

海軍五省、海軍時代に教え込まれ、私が現役時代に、心の支えにした教えです。

一 至誠に悖るなかりしか
一 言行に恥ずるなかりしか
一 氣力に缺(欠)くるなかりしか
一 努力に憾(うら)みなかりしか
一 不精に亘るなかりしか

子、孫、ひ孫達も、この五省を人生の支えにして、
「長さ、強さ、広さ、深さのある未来」を、楽しく生きて下さい。

私の最後の川柳です。
◆「いい人生 だったさようなら 子や孫に」

どうか、皆様、運の良かった私の人生のおすそ分けを貰って下さい。

では、さようなら、お元気で。

粕井貫次






コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実は親父が亡くなりました。

2018年04月15日 | つれづれ
実は親父(粕井貫次)が亡くなりました。4月7日土曜日です。
深夜の1時頃に息をしていないことに義姉が気づきました。

突然の事なので心の準備も何も無く、
お通夜が4月14日、葬儀が15日ということで、
親しい親族(親しくない親族も一部いますが)だけでのお別れでした。

一言で言うと、本当に幸せな人生だったと思います。
戦争で生き残って、したいことをして好きに生きてきた人です。
亡くなった夜も、大好きなビールを飲んで寝たと聞きます。
きっと自分で死んだことにも気がついていないかも知れません。

きっと昨年9月に亡くなったお袋が、
「あんた、皆に迷惑かけんと早よこっちへ来ぃ」と呼んだのでしょう。

14日、15日の葬儀の模様などはまた後日ご報告します。
取りあえず、私の心境は4月8日のブログにUPしております。

別れ・・・
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20180408


(4月7日の朝、訃報を聞いて実家に駆けつけた)


(ひとり追悼の酒を飲む)



【プロフィル】粕井貫次(かすい・かんじ)
大正2年12月、大阪生まれ。
昭和18年9月、大阪専門学校卒業と同時に
第13期海軍飛行専修予備学生として三重海軍航空隊に入隊。
19年1月に博多海軍航空隊で練習機教程を終え、
4月に詫間海軍航空隊へ転属になり実用機教程を終了。
7月に九州の出水海軍航空隊国分分遣隊
(後の国分航空隊)で分隊士兼教官として勤務する。
20年1月に神風特別攻撃隊(特攻)が結成され、乾龍隊に所属。
人吉海軍航空隊へ移動し特攻訓練に入る。
4月に観音寺海軍航空隊に移動し、7月に特攻出撃のため国分基地で待機。
8月に特攻出撃命令が下り、出撃30分前を体験。
終戦により帰還する。元会社社長、奈良市在住。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ムカデシャットの季節がやってきた!

2018年04月10日 | つれづれ
剣道のご縁でムカデシャットという商品に出会った。
ムカデが寄って来ない薬剤。害虫忌避剤というものである。
もう10年以上も前のことだ。

5月の京都大会の折に朝稽古して、
夜の飲み会に出会ったのが三重県の尾鷲のOさん。
恐ろしく強くて八段審査の一次審査には何回も合格している。
30代で七段を合格しているぐらいだから大したものだ。

偶然ネットで見つけたムカデシャット。
社長の名前がOさんなので、もしやと電話してみたらズバリ本人だった。
それからのご縁だ。年も同じで気も合うパートナーだ。
8日も京橋で居酒屋2件をハシゴした。
5時間近くも話をしたが内容の9割以上は剣道の話だ。

ほんの少しだけ仕事の話をした。
妥協を許さない良い商品だからしっかり売っていこうという話になった。

繁忙期の4月から7月ぐらいは忙しく休みが取れない。
深夜も自宅で出荷の段取りをしてることがほとんどだ。

5月の連休も、本当は京都大会に行きたいのだが、
2日の早朝の小野派一刀流の演武に出たらすぐに仕事に戻るほど。
(3日の夜だけ京都で飲む約束はしているが・・・)

そんなこんなで今日はムカデシャットの紹介。
これのお陰で剣道稽古続けられてます。感謝。
良い商品なのでお知り合いにも紹介してやってください。
(内緒ですがダニにもマジで効きます)


(ムカデ忌避剤、ムカデシャット屋内用箱入タイプ)


(ムカデ忌避剤、ムカデシャット屋内用メール便用タイプ)


(本日も出荷におおわらわ)


(写真はメール便出荷のほんの一部)

楽天市場のムカデシャット
https://item.rakuten.co.jp/tombodo/977423/#977423

ムカデシャット屋内用のレビュー(必見!レビューがスゴイ!)
https://review.rakuten.co.jp/item/1/233387_10000159/1.1/?l2-id=item_review

その他、アマゾンやヤフーショップで販売しています。
直接お電話やファックスでもご注文受け付けます。072-970-6851(電話/FAX兼用)

稽古の欠席、ブログ更新の遅れなどはムカデのせいですのでご勘弁下さい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

別れ・・・・

2018年04月08日 | つれづれ
その時その時を一生懸命生きてきたから
決して後悔なんかしないはずの人生でも
悲しくて悲しくて悲しくて悲しくて
どうしよもない時があるものだ

今夜は酒を飲みながら
流れる涙に人生を問いただしている

貴方にとって私は小さな存在だったとしても
私にとって貴方は大きな存在だった

何とかわかってもらいたくて
何とか自分を認めてもらいたくて
虚勢をはったり甘えてみたり時には反発してみたり

しかし貴方は私の事など気にすることも無く
今朝、突然、私の前から消え失せてしまったのだ

明日から超えるべき物も無く
大海の木の葉のように私はこの世を生きていく

いや超えるなんて事ではなく認めてもらえるだけでも満足したはずなのだ

私を認めてくれますか?
よく頑張ったと言ってくれますか?

私の問いかけは春の強い風の中に消えていく・・・

貴方のご冥福を今、この盃の中に込めて祈り、心から献杯します

ありがとう
本当にありがとう
貴方に教えられたことは数多くこの胸にあるのです

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第45回創彩展(4月1日)

2018年04月02日 | つれづれ
長正館の井上館長は絵を描かれる。
最終日の4月1日、仕事の合間に車を走らせ見に入った。
大阪市立美術館の地下展示場。第45回創彩展。
これでも画家(粕井豊誠)の孫なので絵は嫌いでは無い。
「嫌いでは無い」という消極的な気持ちは実は内緒だが。

高速道路を使い、急いで見て、急いで帰った。
せっかくの天王寺公園の桜も一瞬写真を撮っただけ。
写真撮影でアリバイだけ作ったようなものだ。
気候の良い4月から6月までは本当に忙しい。
ありがたいことだが少し恨めしい。


(3月31日、稽古から帰ると満月、NEX-6、f/25、1/40秒、ISO-400、35mm焦点距離300)


(井上勝由「渓流」)


(井上勝由「悔し泣き」)


(美術館の前から通天閣を望む、花粉なのか大阪はもやってる)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万引き容疑で警官逮捕=大阪

2018年03月26日 | つれづれ

万引き容疑で警官逮捕=大阪

ホームセンターでシャンプーを万引きしたとして、
大阪府警寝屋川署は25日、窃盗容疑で府警高槻署の警部補
上平和彦容疑者(56)=同府守口市春日町=を現行犯逮捕した。
「お金を払うのがもったいなかった」と容疑を認めているという。

逮捕容疑は25日正午ごろ、同府寝屋川市日新町のホームセンターで、
詰め替え用シャンプー3点を盗んだ疑い。
府警監察室によると、店外に出たところを店員2人に取り押さえられた。
所持金は数万円あったという。(2018/03/25-時事通信社)




実は私には万引きの前科がある。
もう43年も前の19才の頃のこと。
東京は葛飾の金町駅前の東急ストア。

ふと思い出し、乗り継ぎの金町で降りて修正液を買いに行った。
当時は修正液は大学生の必需品でちょうど切れたのを思い出したのだ。
修正液を手に取ってレジに並ぼうとしたら長蛇の列で、
たった1個の買い物で長時間も並んでいるのが馬鹿らしくなってそのまま店を出てしまった。
早く帰って溜まっていた実験レポートを書き上げたかったのだ。

少し歩くと両脇から警察官。
「ちょっと交番まで」と言われ観念した。
足が震えた。しまった!どうしよう!と戦慄が走る。

持ち物全部を調べられ「お金があるのならきっちり買いなさい」
「あなた、親元を離れて勉強しているんでしょ?
こんな事が親御さんに知られると本当に親は悲しむよ」と長々と説教された。
金額が少ないこともあってか、始末書を書かされただけで済んだ。
修正液はそのあとレジに並んで買って帰った。

修正液を使い終わるまでずっと責められているようで辛かった。

思い起こせば、わずか4才の時に伏線があったのだ。
当時、兄たちは幼稚園や小学校に行くので私だけよく連れ回された。
ある日、お袋に連れられ、市電に乗って今里のお袋の友人宅
(今里のおばちゃんと呼んでいた)へ行った。

今里の通りに面した友人の家。
ガラス戸の通りに面した細長い家だった。
お袋はお喋りに夢中で「2階へ行ってチンチン電車でも見とき」と言われた。
私は見晴らしの良い2階に行き、通りの往来を眺めたりしていた。
春なのか秋なのか、寒くも無く、日当たりが畳の上を照らしていた。

そのお宅には子供の遊ぶようなおもちゃも絵本も何も無い。
当時はお袋に連れられ出かけるのが多かったが、
同世代の者も居ない先では退屈で退屈で仕方が無かった記憶ばかりだ。

ふと見ると化粧台の上に指先程度の小さなトランプが置いてある。
私はそのトランプで遊び始めた。きっと並べて遊んだのだろう。

やがて時間が過ぎてお袋と一緒に心斎橋の自宅に戻った。
家に帰って着替えた時にポケットからポロリとトランプが出てきた。

お袋が驚き「これどうしたん?どっから持ってきたん?」とえらい剣幕で追求する。
「こんなんしたら泥棒や、牢屋に入らなアカンのやで!」って泣きながら叱られた。
私もオンオン泣きながら謝った。4才だがしっかり憶えている辛い記憶だ。

そんな事を下宿までの電車の中で思い出しながら、
もう二度と警察沙汰になるような卑しいことはしないでおこうと心に誓った。
あの時に捕まえてくれた金町駅前の交番のお巡りさんには今も感謝している。

今回の寝屋川署の警察官も幼い頃に物を盗った経験があるのかな?
今まで捕まらなかった彼も不幸だなあ・・・
などと思いながら記事を見て思った次第である。

万引きなどするものではない。人生が勿体ない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松下電器製、乾電池シェーバー、ES-505

2018年03月21日 | つれづれ

(手の中にすっぽり納まるフィット感と携帯に便利な大きさが良い)

引き出しの奥から電気シェーバーが出てきた。
松下電器(現パナソニック)製のES-505。単2乾電池を1個使うタイプ。

実はこれ、45年前の昭和48年、
高校3年生の最後の春に、奈良の東生駒駅の近商ストアで確か1580円で買ったもの。
いや、買ったのでは無い。当時の彼女に買ってもらった進学祝いのプレゼント。
奈良を遠く離れて千葉で学生生活をするために必要だった。

幸いな事に電池は抜いてあったので液漏れはしていない。
接点を軽く磨いて新しい電池を入れたら回ってくれた。

乾電池1個で動くシェーバーは力強くは無いが、
たいした髭など生えてなかった大学時代はこれで充分だった。
週に数回の使用。使うたびに奈良を思い出していた。

千葉県松戸市小金の6畳間の下宿。
深夜になるとラジカセのダイヤルを回して関西の曲を探す。
夜だと雑音混じりだがラジオ大阪が聞こえることもあったのだ。
関西に帰りたくて帰りたくて仕方の無い4年間だった。

卒業して電気メーカーに就職し岩手県勤務になった。
秋田の得意先からブラウンのシェーバーをつき合いで買った。
だんだんそれが馴染んできていつの間にかES-505は使わなくなった。
髭が濃くなるにつれ、だんだんと奈良から遠ざかったようなものだ。

何だかんだと色々あって、また奈良に住んで20年以上が過ぎた。
人生、どこでどうなるか本当にわからないものだ。
出てきたシェーバーで45年前の思いが少しだけ蘇った次第。


(パナソニックの凄いところは、まだこれに合う内刃外刃が売っているということ)


(対応機種の中に、ES505と書いてあるのを見つけた時は嬉しかった)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする