稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

父、貫次の事

2018年04月17日 | つれづれ
父、貫次は4月7日土曜日の深夜1時に亡くなりました。
深夜1時ですから6日の夜と言っても良いでしょう。
満94歳と4ヶ月。本当に長生きでした。

数日前から体調を崩し、寝ていることが多くなったと聞きます。
それでも夕食に、甘くした牛乳を2杯飲み、
そのあと自分で缶ビールを冷蔵庫から取り出し飲んで寝たようです。
そのあと息をしていないことに義姉が気づきました。
眠ったまま亡くなったという事です。

海軍航空隊で生き残り、
高度成長の波に乗って繁栄し、
斜陽が見えた時に引退し、
趣味に生き、好きなお酒を楽しみ、
そして眠るように死んで行ったのです。

父から教えられた事はたくさんありますが、
一言で言うならば、

損得より善悪
粗にして野だが卑では無い

という事になるだろうと思います。
直接教えられた言葉ではありませんが、父の言動から学んだ事です。

何よりも感謝しているのは丈夫な身体に産まれ育った事。
粕井家の家系病とも言える痛風や高血圧を除き、大きな病気もありません。
そして、出来が悪いにも関わらず大学まで行かせてもらった事。
中卒で働きに行っても良いとまで思いつめてた私が、
大学まで行き就職も出来たのはやはり父のお陰です。

父とは30才から52才まで同じ会社にいました。
この時期の私の立ち位置や状況は複雑で説明は難しいのですが、
この22年間は忍耐努力我慢我慢我慢・・そして臥薪嘗胆なる思い。
精神的に本当に強くなりました。そういう意味では感謝しています。

感謝すると同時に、父の経営に対する甘さと、
引退したあと、私を含め、残された社員達に対する心配も無しに、
自由奔放に老後を送ったことへの憤りが、
晩年の父との距離を一方的に作ってしまいました。

そんな気持ちよりほんの少し前、
父と母がまだ元気なうちにと、
2005年に伊勢志摩、2007年に金比羅山に家族で旅行に行きました。
豪華な旅行に慣れた両親からしたら慎ましい旅行だったろうとは思いますが、
貧乏な私にとってはかなり思い切った旅行でした。
親との最後の旅行でした。とても楽しく過ごせた良い思い出です。

父も母も幸せな人生だったと思います。
そして私の親に対しての不満なんてのは、
結局は親に対しての「甘え」なんだと思っています。
子としてもっともっと甘えたかった。ただそういうことなんです。

ありがとう。
生んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。
叱ってくれて励ましてくれて褒めてくれてありがとう。
この世に生まれた喜びを胸に感謝の気持ちで生きていきます。
ありがとう。安らかにお眠りください。


(昭和35年頃、天橋立や玄武洞へ家族旅行、手前、左から隆、誠、滋)


(2005年1月、伊勢神宮詣で)


(2005年1月、伊勢志摩の民宿泊)


(2007年3月、金比羅山詣で)


(2007年3月、金比羅山の湾曲鏡の前で、父と)


(2007年3月、金比羅山の門前町の旅館で一泊)


(2007年3月、香川県多度津の桃陵公園、「一太郎やーい」の銅像の前で)
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2 コメント

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ホワードで、専務、社長、エルダーとご活躍された貫次様 (杉平 圭一)
2018-04-17 22:02:20
直接お声がけを頂くことは、あまりありませんでした。繁栄会議やいろいろなセミナーで勉強させて頂いたことは、私の血肉になっています。
感謝の気持ちで、貫次様のご冥福をお祈りいたします。
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ありがとうございました。 (粕井 誠)
2018-04-18 09:46:12
ご連絡ありがとうございました。
終戦近くに特攻待機で生き残り、戦後の高度成長の波に乗り、健康にも恵まれ、晩年も最後まで元気でおりました。幸せな人生だったと思います。本人に成り代わってお礼申し上げます。本当にありがとうございました。
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