田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

阿川弘之「北京の怪」の切り絵細工(下)

2020年08月12日 | 遠い日の記憶

 30年前の話になる。阿川氏の訪中と同時期の1990年、私は友好訪中団の一員として安徽省の省都合肥市を訪れた。その時の玄関口は上海近郊の虹橋空港で、行きと帰りは上海の国際飯店に宿泊した。

 帰国する当日、宿舎の前にある人民公園を散歩することにした。人民公園は都心部にある広い公園で、早朝から人々が行き交い、あちこちに、ゆっくりと体を動かす太極拳のグループがいる。その様子を眺めながら初めての中国旅行の余韻に浸っていた。

 すると、あなたは日本の方ですかと声をかけられた。見ると30歳前後の男性が立っている。日本語を勉強していると言い、にこやかに近づいてきた。初めのうちは、これも旅の思い出になると思い彼と気楽に話をしていた。だが次第に中日友好は大事ですという話題になり、私は明治大学に行きたいのです、誰か知りませんかと言いだした。

 話の雲行きが怪しくなり、俄かに警戒心が頭をもたげてきた。他国の公園に一人ぼっちでいることも不安である。そろそろ退散しようとすると、これを記念にと取り出したのが、眼鏡の人物の切り絵だった。そのときの私は眼鏡をかけていたが、後で考えると彼がいつ切り絵を作ったのか不思議である。有難うと切り絵を手にして、そそくさと立ち去った。彼はそれ以上まとわりつく事はなかったが、どうして私が日本人だと目星をつけたのか。

 私は阿川氏の随筆を読んで、むしろ中国の庶民の逞しさを感じた。当時は文化大革命の嵐が過ぎ去り、鄧小平の改革開放、そして天安門事件を経て、社会主義市場経済の導入が始まったばかりで、中国はまだ貧しかった。

 一週間前。夕刻遅くに入国した時、虹橋国際空港から上海市内へと向かうバスの車窓から見る沿道は暗く、ところどころにアセチレンランプを灯した屋台が出ていた。合肥市の通訳から用心するようにと忠告された夜の上海は薄暗い印象で、ビル街の大通りを一歩横に入ると、食べ物や日用品を売る裸電球の貧相な夜店が並んでいたものだ。

 その時の資料や未整理の写真を紙袋に詰め込んで、そのままにしていたのである。ノートに挟んでいた例の切り絵も出てきた。10センチほどの他愛もない切り紙細工である。さて、阿川氏の同行者が千円で購ったという切り絵はどんな出来栄えの品であっただろう。

 記念にと貰った切り絵。

 その日の朝、声をかけられた人民公園でのスナップ。ビルにはスローガンを書いた垂れ幕が吊るされている。

                      

 

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2 コメント

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中国 (birugo)
2020-08-13 16:20:32
こんにちは
連日の猛暑です。
記念の切り絵(^^)、残ってたんですね。
私はこれは読んだことはありませんが、志賀直哉のことを書いておられるのをずっと前に読みました。
私の知人で「僕は孫悟空の辿った道を訪れるのが夢」と言ってたなぁ…と思い出しました。
私達も漢の時代の字を今使っていますし、韓国も漢字があり繋がっています。
ありがとうございます。
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こんばんは (九州より)
2020-08-13 20:06:22
その時の資料はいつか整理しようと思って、30年も放置していました。
切り絵はちょっとした思い出です。
訪中を機に、中国の歴史や文化に関心を持つようになりました。
孫悟空を読んだのは中学か高校生の頃です。
中国にも台湾にも同じ漢字圏として親しみを感じます。
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